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『1990年代』のおすすめ映画一覧

目次

1990年代おすすめ映画ランキング

1.タイタニック

音楽と映画がこれ以上シンクロする作品はない。最初に観たのはテレビ画面だったが、それでも十分良かった。だが、3Dで再上映したとき映画館で初めて観ると、この映画の実力はいかんなく発揮された。映画館で観れて本当に良かった。

愛のために命を捧げる男。愛のために生きることを選択した女。最後、年を取った女性はとても若々しく、うれしそうだった。もうすぐ彼に、会えるからだろうか。かつて愛し合った時間が、その年齢に至るまで、一切輝きを失わなかったからだろうか。人が本物の愛を育むために必要なのは、『時間』ではない。

この映画が『芸術編』のランキングに入る理由は、とあるヴァイオリニストたちが存在するからだ。彼らは実際にあのように行動したという。あれこそが音楽家の鏡。『ワンピース』のブルックが人間としての最期のシーンを迎える時も、彼らと同じような行動を取り、最後まで演奏を続けた。

Wikipediaにはこうある。

タイタニック号が氷山に衝突して沈み始めた後、ハートリーと彼のバンドは、乗客たちが落ち着いて救命艇に誘導されるようにと、ラグタイムの曲目を演奏した。多数の生存者の証言によると、彼らは最後の最後まで演奏を続けていたという。



2.ゲーム

フィクションなんだから映画はこれくらいエンタメ性がないと。そしてよく見たら、監督がデヴィッド・フィンチャー。実は、私は3000本も映画を観ているが、あまり監督やタレントや裏話という『マニアック』な知識は求めない主義で、作品とただ真正面から向き合って、何を感じるか、何を得られるか、ということを大事にしている。

だが、私はよく考えたら彼の映画は全部好きなのだ。

  1. セブン
  2. ファイトクラブ
  3. パニックルーム
  4. ゾディアック
  5. ゴーンガール
  6. ベンジャミンバトン
  7. ドラゴン・タトゥーの女
  8. ソーシャル・ネットワーク

全部心から面白いと感じる映画ばかり。それでこれもめちゃくちゃ面白いのだからすごい。作品全部が面白いというのはほとんどないことだ。デヴィットフィンチャーを意識したことはなかったが、これでもう完全に覚えた。フィクションもノンフィクションも両方面白いなんて、すごい。

ゲーム・・。あなたは危険なゲームに巻き込まれる・・。さあ、身構えずに行ってみよう・・



3.レオン

名作映画だとは聞いていたが、まさか『本当に』名作映画だとは知らなった。脚本、音楽、俳優、どれも素晴らしい。危ないところだった。この映画を観ないで映画好きを語るところだった。映画館でエンドロールが流れても動けないときがある。これがその映画だ。



4.もののけ姫

この映画に登場するテーマは、『生贄、ハンセン病、人為的な自然破壊』という重いものである。子供の頃は、ただこれがアニメというだけでそこに重い問題があるとは想像しなかったが、宮崎駿の盟友、高畑勲は、『こんなもの世に出すべきではない』と訴えたという。ハンセン病は『業病』とも言われ、映画でも取り上げられることが多い。昔の人が、この病気とどう向き合ったか。そして、隔離されるような彼らを人として接したエボシの本当の人間性を考えたとき、この作品の階層は何段階も深くなる。

自然と人間。それは、寄り添って生きていくことができないものなのだろうか。技術が発展するにつれて、人間の欲望の顕在化は際限なく行われるようになってしまった。宮崎駿は、

『地球のことを考えたら本当は人間なんていない方がいいんだ。』

と言ったが、いつかこの映画が真理を突いていたということを思い知る日が来るのかもしれない。いや、そういう日が来ることを避けなければならない。エンドロールの『アシタカ聶記』があまりにも壮大で、初めて見たとき私はその場を動けず、映画館でもう一度見た。当時は自由席でそういうことがまかり通ったのだ。



5.耳をすませば

多くの日本人は『カントリーロード』と聞くとこの映画を思い出す。これだけ映画と音楽がシンクロする映画も珍しい。そこら辺を見渡せばありそうな話であり、しかしよく考えるとそう多くはない話だ。絶妙なドラマと現実の世界との距離感、そして音楽と少女の想像力溢れる心の豊かさが、この映画をより一層尊く、切ない物語へと昇華させる。

『天沢聖司の演奏の途中からセッションが始まるシーンは、心を鷲掴みにされた。父親がこの映画を観て、子供だった私に『これは大人の映画だね』と言い、私はそれに対して『いや、(俺にだって)わかるよ』と言い返してから20年。いつの間にかこの作品は、私にとって遥か昔に通り過ぎた『いつか通った道』となった。思い出がたくさん詰まった作品だ。

最後は朝で寒がるシーンがあるが、最初の団地のシーンが夏の印象が強いのか、『カントリーロード』の曲と踏み切りの映像が、強く夏を感じさせる。『金曜ロードショー』で冬に放送されるときもあるが、やはり夏に放送された方が観たくなるのがこの映画だ。



6.ホーム・アローンシリーズ

私はこの映画を飛行機の中で観たのだが、そういう異例な場所ということも手伝って、なんだかこの映画がスペシャルなものに見えたものだ。まだ幼かった私は家庭にあった問題や、社会に浮上していた悪い要素と無縁だったから、ただただこの作品の純粋なクリスマスに、心が躍ったものだ。

クリスマスの定番映画というものがこの映画以外に思い浮かばない人も多いというくらい、クリスマスに家族で観る映画にピッタリの作品。子供から大人まで幅広く観ることができるので、安心して観ることができ、とても平和な時間が流れる。私もこれを子供の頃に観たが、子供時代の大切な時間を汚すことなくしっかり彩ってくれて、感謝している。この音楽を聞いたらマコーレ・カルキンが両手を頬にやって叫んで、クリスマスだ。



7.マイ・フレンド・フォーエバー

多くの映画を観てきて、中には3時間を超える大作もたくさんあったのに、まさか『子供』が主演の『90分』程度のこの作品に、心をこうも強く打たれるとは想像していなかった。私がこの作品にハマったのは、きっと彼と私の境遇や考え方が似ているからだろう。私の家庭にも抑圧があり、しかし私も彼同様、親にそれを突き返すのではなく、違う部分に反らして鬱憤を解消していた。

私は素晴らしい映画に出会った。そのことがとても嬉しい。こうも純粋に心に突き刺さる映画は、そう多くはない。



8.ライフ・イズ・ビューティフル

ホロコーストを描いた映画はいくつかあるが、これは異例の作品である。『シンドラーのリスト』然り、往々にしてその手の作品は、ただひたすらに哀しい。だが、このイタリア映画はそういう角度でこの歴史を捉えない。途中まで、チャップリンか何かの映画を観ているような気持になり、映画で笑わない私が思わず笑い声をあげてしまうほどである。

だからこそ、感動する。この映画がなぜこのような人物を主人公にしてホロコーストを描いたのか。そして、そこにあった芸術家のような見事な彼の生きざまを推測したとき、我々はただひたすらに感嘆し、この作品にひれ伏すだけなのだ。

『おもしろきこともなき世をおもしろく。』

高杉晋作はこう言って、しかしテロリズムに等しい革命を起こし、太く短い壮絶な人生を生きたが、本当にこの言葉通りに生きようとすると、彼のような男の生きざまがピタリ来るのかもしれない。



9.ミッション:インポッシブルシリーズ

『ミッション:インポッシブル』は、基本的にトム・クルーズ演じる秘密諜報組織「IMF(Impossible Mission Force、不可能作戦部隊)」に所属する若手スパイのイーサン・ハントが、テロリストなどを相手にその暗躍を水際で止めるために奮闘する映画である。『007シリーズ』に匹敵するスパイ映画でもあり、音楽、エンターテインメント性共に群を抜くトム・クルーズの代表作の一つである。

この作品は音楽も有名だ。実はこのシリーズは上映したら常に上位を取り続ける。こんなにド派手なことをするスパイは他にいない。



10.12モンキーズ

『セブン』と混同していたのか勝手に観た気でいた作品だ。だが、完全に初見だった。そしてその見応えは十分。まず音楽からして衝撃だった。この音楽がこの映画のBGMだったとは知らなかった。そしてこの映画は、1996年に存在するタイムスリップの雑な設定以外は、身の毛がよだつ強烈なインパクトを放っている。ブラッド・ピットの怪演もすごい。

2020年現在、コロナウイルスの恐怖が世界を包む中、この手の話は単なるSF作品ではない。



11.アミスタッド

アミスタッド。それは、奴隷船の名前である。多くの黒人のルーツはアフリカだ。アフリカやエジプトのような太陽がより強く照りつけるエリアで生きるためには、『天然の日傘』が必要になる。メラニン色素である。白人や黄色人種が太陽に浴びると『シミ』ができるが、それはメラニン色素。つまり、そのおかげで紫外線の毒素を緩和するのである。だからそういうエリアで生き抜くための知恵として、この世界に黒人は存在している。ただ、それだけのことなのである。

ただ、それだけ。たったそれだけのことなのに、どうして彼らは黒人を奴隷として扱い、尊厳を奪うようなことをしたのか。これは、あのスピルバーグが『シンドラーのリスト』に次ぐ歴史作品として世に打ち出した、衝撃的な事実である。



12.ゴースト/ニューヨークの幻

30年前の映画としては、現在に至るまで常にその価値を落とさない。その理由は、この作品が普遍的かつ不変的なテーマを軸にしていて、音楽、キャラ、展開そのすべてに隙が無いからだろう。きっとリアルタイムで映画館で観ていたら大きく心が揺り動かされたはずだ。子供の頃見た時は『ろくろが回る』とかその程度の断片的なシーンしか焼き付かなかったが、それでもあの音楽は耳に焼き付いた。

大人になってある意味初めてこの映画を観ると、やはり他と比べても卓越している名作だとうなづくことができた。死んだ人間の霊という現実離れした展開なのに、視聴者の心は離れず、むしろその心を掴んで離さない。そういう魅力が、この映画にはあるのだ。



13.ガタカ

これは個人的に、イーサンホーク史上最高の映画だ。奥が深い。私が知っているある歌の歌詞にこういうものがあった。

『不老不死に生きる命と、限りある命。随分心拍数変わる気がしませんか?』

映画の意味が分からないという人もこの魔法の言葉を聞いた後に観れば、この映画の深さが分かるはずだ。

絶対に見逃してはいけないのは、ラスト10分前の、『海で泳ぐシーン』。ここで『生まれつき心臓が弱く30歳までの寿命と宣告されている』イーサンが言うセリフに、この映画の深層メッセージの全てが詰まってる。

表層は、『宇宙に行きたい人』の話だ。さて、あなたは映画の深層を観る目を持っているだろうか。これが映画だ。

これは

  • リベリオン
  • チェンジングレーン

と違って製作者も分かっている。分かってるからあのセリフが出てくる。この2つは無意識にとんでもないところを掘った映画だが、この映画は意図してあのシーンを作った。また、専門家からの別角度からの評価も極めて高い。公開の14年後の2011年、NASAによりこの作品が「現実的なSF映画」1位に選ばれた。



14.仮面の男

アレクサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』をベースに作られた、『三銃士』のその後の話である。三銃士と言えば、ダルタニアンと共にルイ13世と戦ったフランスの騎士たちだが、これはその息子のルイ14世の話だ。この話は実によくできている。私は歴史を学んだ時、ルイ14世にある二つの顔に疑問を覚えていた。『太陽王』と呼ばれ、歴代最高の名君とさえ中国の皇帝も見習ったルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿を建てたとき、お金が余っているわけではなかった。

そしてその後ルイ16世とマリー・アントワネットの時に『フランス革命』が起きる。それは、皇族だけが贅沢をし、貴族や聖職者は課税を免れ、第三市民と言われた一般庶民だけにしわ寄せが来たことが原因で起きた、必然的な革命だった。そして彼らはギロチンで処刑された。一国の王と王妃の残酷な最期に、世界中が震撼したのである。では、フランス革命というのはルイ16世とマリー・アントワネットの浪費と散財が原因なのだろうか。そう考えたとき、私がすぐに思いついたのがルイ14世の時代にあったヴェルサイユ宮殿の強引な建築である。

かつて、ムガル帝国5代目皇帝のシャー・ジャハーンは、愛妃ムムターズ・マハルの墓として、『タージ・マハル』を作った。その建築には18年とか22年の歳月が使われた。ルイ14世は、彼とほとんど同時代を生きた王であり、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。ここにあるのは、王族の特権の乱用の気配である。そう考えたとき、ルイ14世というのは一体どういう人物だったのか。そういう疑問が頭をよぎるわけである。

そんな時、この映画で想像された通りのシナリオを当てはめた場合、見事につじつまが合うのである。しかも、『鉄仮面の男』というのは実際に存在していて、この映画のようにフランスのバスティーユ牢獄に収監されていた。当時フランスにあった様々な逸話や伝説を交じり合わせながらこの映画を鑑賞した時、この映画のタイトルが『鉄仮面の男』ではなく『仮面の男』ということであることさえも深い意味があるのだという妄想に浸ることができ、感心するのである。



15.紅の豚

格好いいとは、こういうことさ。私がいつも夜寝る前にこの映画を観るのは、彼の生きざまが私の生きざまとよく似ているからだ。



16.ジャンヌ・ダルク

この映画の感想に、きれいごとではない戦争の惨劇について書かれているものがあったり、あるいは強姦、処女検査などの描写をカットしなければならないなどの問題をピックアップしているものがあるが、この映画の肝は残念ながらそんなところではない。これは、『宗教』の話である。私は兼ねてから彼女(ジャンヌ・ダルク)が一体どういう人物なのかが気になっていた。もちろんこれは映画だが、『神のお告げ』を聞いたフランスの英雄ジャンヌ・ダルクが本当に見たものは、一体何だったと思うだろうか。



17.マルコムX

彼の母親は白人からレイプされた。そして生まれたのがマルコムXだ。母親は白人を恨み、より黒い黒人と結婚し、彼を産んだ。だが、その父親も死んだ。白人にリンチされたのに、警察はそれを自殺として片づけたのだ。どうしてこうなってしまったのだろうか。なぜ彼らはこんな目に遭わなければならなかったのだろうか。そして、彼の名が『X』なのはなぜだろうか。キリスト教、イスラム教という二大宗教を巻き込みながら、人種問題と徹底的に戦ったマルコムXの生涯を見よ。これは思っている以上に見応えのある映画である。



18.ジョー・ブラックをよろしく

私は基本、ファンタジーを好まない。だから私の家にある500冊の本の中に、小説や物語の類は一冊もない。しかし私は映画をこよなく愛している。映画にはファンタジーも多いしほとんどがフィクションで、ノンフィクションであってもいくつかの演出が施されているものである。

矛盾している。だから私がファンタジーが嫌いなのはこの世界に蔓延する人為的な『常識』に影響されているのであり、自律心を鍛えて人格者を目指す道にそれが存在しないからというだけだ。芸術やファンタジーに造詣が深くなくても人格者にはなれる。そういう一つの人間としての道義が、私にそういう常識人のような性格を与えているだけで、実際には心にジレンマを抱えているのである。

この映画はファンタジー要素が含まれている。現実世界ではまずあり得ないことが起こる。だから常識通りの発想で言えば、こんなもの観る価値のない現実逃避の要素の一つでしかなく、もっと他の現実的なものに目を向けた方が良さそうだ。

だがおかしい。なぜこのような常識を持つ私が、この映画によって大きく心を動かされるのだろうか。とても信じられない。現実的ではない。きっとこの彼女にもそういう常識があったことだろう。それがあるから常識ある社会人かつ大人でいられて、スマートな立ち居振る舞いができる。そこには人間としての品格が反映される。彼女は常識をよく知っている人物だからこそ、知的で品格があるように見え、高潔な存在に見えるわけだ。

それなのに、彼女は察知した。自分が愛した存在は、目の前にいる『彼と同じ姿をした人』ではなかったという、あまりにも非常識な現実を受け入れた。そのコペルニクス的転回とも言える大きなパラダイムシフトは、よほど知能指数が高い人間でなければできることではない。大抵の人は頭が真っ白になり、その直面する現実を受け入れ、整理することができない。

では、なぜ彼女はあのわずかの時間でそれができたのか。それは彼女が『彼』を心の底から愛したからである。愛という『存在』は、およそ『常識』などという人為的で脆い概念では計り知れないものだ。不可能を可能にし、人間に確信という安穏を与える。こうした愛の奇跡に触れるたびに私は、正しい方向に一歩前進する実感を持つ。ファンタジーに抵抗を持つ私の『常識的な穿った考え方』は、固守するほどの立派なものではないのだ。



19.ショーシャンクの空に

10年前に観た映画だが、ふと観てみた。すると、以前とは違う暖かい気持ちになった。それは、私が成長したからだ。私が10年間映画を観続け、映画の細部まで真剣に観れるようになったからだ。そして、この映画が最初から、素晴らしかったからだ。



20.スリング・ブレイド

私は映画をたくさん観た。その中で、『教訓編』の第一位に13年間君臨し続けた映画にジョディ・フォスター主演の『ブレイブワン』というものがある。そして、誰もが心をかき混ぜられた『ダンサーインザダーク』という映画があるだろう。これは、それらの映画に似た角度から我々の心に訴求する、衝撃的な映画である。正直、この映画を浅い人に教えたくない。浅い感想でこの映画の純粋さを汚されたくない。私は今回、そんな映画に出会ったのだ。



21.酔拳2

全作品にある『酔拳』から2となるが、続いているわけではないのでここから観ても問題ない。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』同様、伝説の武道家ウォンフェイフォンジャッキー・チェンが演じる。その作品が『シリアスな一面』を描くのに対し、この作品では彼の『ユニークな一面』を描いている。二つとも同時代から存在していたが、日本人の子供である私に届いたのは酔拳の方だった。だからジャッキー・チェンのような演技は世界規格だったと言えるだろう。

ジャッキー・チェンの動きはすごい。格闘技に少しでも触れたことがある人なら自分の限界をよく知っているが、あの動きは相当な鍛錬を積まなければできない。ブルース・リーもウォンフェイフォンも、ジェットリードニー・イェンもそうだが、中国はこの一面をもっと現代版にアレンジして展開すれば、唯一無二の境地を得るだろう。



22.テルマ&ルイーズ

90年代の女性版」アメリカン・ニュー・シネマと評されており、また、ブラッド・ピットの出世作としても知られる。だがブラピの出世作は

  1. リバー・ランズ・スルー・イット
  2. インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
  3. レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い
  4. セブン

などもそれが語られることがあるので、どれが本当かは分からない。だが確かにこの中で最も若い時代に出たのがこの映画である。私は今まとめて映画感想を書いているのだが、アメリカン・ニューシネマで、

  • スケアクロウ
  • ロンググッドバイ
  • チャイナタウン
  • 明日に向かって撃て!
  • イージーライダー
  • フレンチコネクション

などいくつも名作が挙げられる中、これといってこれがずば抜けていると感じる作品はそう多くなく、また、ウディ・アレンの映画や、70年代の映画、不倫の映画など、多くの映画を観てきたが正直な感想として、あまり『良い映画を観た』ということは書けない映画が続いていた。

だが、この映画は違う。ずば抜けている。主人公のスーザンサランドンとジーナデイヴィスの二人にある種の後光が差して見えるくらいの、そういう衝撃がこの映画にはあるのだ。たかが女性の二人旅と思わない方がいい。この映画のクライマックスのシーンは、世界一売れてギネスブックにも載った問題作のゲームソフト『GTA』にも登場する。

我々はいずれ死ぬ。そんな有限の人生をあなたなら、どのように終わらせたいだろうか。



23.ボディガード

音楽、そして歌が映画の世界を包み込む現象が起きるのはごくまれである。『グレーテスト・ショーマン』もそれに極めて近づいたが、『タイタニック』とこの作品を超える映画に、私はまだ出会っていない。この時代、彼のようにプロとして生きる姿勢にしびれた男が大勢いた。明石家さんまもその一人だ。



24.RONIN

この映画がなぜ面白いかというと、自分が好きな系統に毛色が近いからだろう。孤高に戦う男と、慣れ合わないプロフェッショナルな仕事人たちの生き様が、自分の人生とリンクするのだ。『紅の豚』が好きなのも同じ理由である。

男の人生には色々ある。家庭を持ち、妻や子供たちを支えて、更に次の子供達(孫)の土台を作る。そういう家庭の大黒柱のような生き方も立派な生き方だ。むしろ、多くの老若男女から支持されるのは、そういう生き方だろう。

だがこの世には、例えば人が目をそむけたくなるような事実と向き合い、処理しなければならない仕事もある。死体、排泄物、害虫、医療、そして戦争。それらすべての職を全うする人達が陰で支えるおかげで、我々は安穏な暮らしができているのだ。

茂木健一郎氏の著書『挑戦する脳』にはこうある。

『リヴァイアサン』の中で、ホッブズは、人間はもともと『万人の万人に対する闘争』の状態にあったとした。誰もが自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない。そのような『自然状態』は余りにも耐えがたいので、人間はそのもともと持っていた自然な権利を『政府』に譲り渡す。そのようにして形成された政府は一つの『リヴァイアサン』として自由に意思を決定し、行動するようになる。

つまり、人間には元々『リヴァイアサン』のような猛獣的なエネルギーが備わっていたが、それを野放しにすることは耐え難いと考え、政府に譲り渡し、自分の代わりに政府に『闘って』もらうようシステム化したわけだ。『自分は闘いたくないから』である。

政府に権限を委譲し、言うなれば『面倒な仕事』を押し付け『綺麗な身』でいられることを忘れてしまった人間たちは、きっとこの映画に登場する人物たちの生き方、あるいは『浪人』という武士道に生きる人間の孤高の生き様を、受け入れきれない。



25.アルマゲドン

地球に隕石が衝突する。そうなれば地球は終わりだ。もしそうなったらどうする。誰が、何をするべきか。誰かが、何かをしなければならない。だとしたら俺がやろう。命を懸けて家族と地球を救う、男たちの物語。



26.インサイダー

アメリカのタバコ産業の不正を告発したCBSのプロデューサーと大手タバコ会社の副社長によるタバコ産業の不正告発を描いた社会派ドラマ。このCBSの人気ドキュメンタリー番組『60 Minutes』というのは中々切り込むことが有名で、他にも『ニュースの真相』など、この番組を軸にした映画が存在している。その場合、ブッシュ大統領の不正について切り込む内容だった。

今回の場合はたばこ大手と簡単に言うが、実際にはその経済力は莫大で、そのCBSごと買い占めることができてしまうレベルの規模だ。つまり、もしそのテレビ局の、単なるプロデューサーレベルの人間がワーワー騒いだところで、上の圧力で番組ごと消すことも可能になってしまうのである。これは、組織の人間になったのなら仕方がない現実だ。それが嫌なら自分でやるべきだった。だが、それよりも手っ取り早く結果を出したり活躍したいということで、『既に存在して脈を張った組織』に入社したのだ。その時から、その自由と代償に失ったものがあったのである。

だが、だからといって泣き寝入りするべきなのか。いつだって人間は、巨大な権力には抗うことはできないのか。多勢に無勢。物理的に考えても、100は1よりも多く、火に水をかければ火は消える。そういうこの世界の『決して逆らえない力関係』に、信念のジャーナリストが挑む。



27.エリザベスシリーズ

エリザベス

イギリス王妃であり、世界で最も有名な王妃と言えば、エリザベス女王である。大英帝国の黄金期は彼女から300年後のヴィクトリア女王の時代だが、彼女の時代もまた『イングランドの黄金時代』と言われた。しかし、その地位の中で生きていくのは簡単ではなかった。世界一有名な女王はなぜ『処女王』と呼ばれたのか。彼女は信仰的には、プロテスタントの立場でカトリック教会と戦った女性の一人である。のちにオランダを支援するときも、それが理由である。

※ネタバレあり

最後に登場する白塗りのエリザベスは、『エリザベス女王の完成』を演出しているはずである。実はこの時代の化粧は『おしろい』で、そこには鉛が使用されていた。肌は荒れる。だからまた厚化粧をする。そういう負の状況が当時の悩みだった。では、なぜその『負の無限ループにハマってしまった状態』を最後に持ってきたかというと、彼女の写真が下記のように、

『エリザベス女王=白い顔』というイメージがついているからである。物語的に、『かくしてエリザベス女王が誕生した』というシナリオだから、この白塗りの顔が最後に出てきたのだ。今私が挙げたような話は歴史マニアぐらいしか知らないから、まず、世界万人に向けて発信する映像の演出として、白塗りの彼女を持ってきたのである。



エリザベス:ゴールデン・エイジ

『エリザベス』の2だ。あれがエリザベスが女王になるまでを描いた作品で、これは女王になってからのエリザベス。歴史的に重要なのはどちらかというと、こっちの方だ。エリザベスが女王になったときは、まだイギリスの力はそう強くはなかった。無敵艦隊と言われる世界最強の艦隊を持つスペインの存在が、ヨーロッパの人々の心を強く押さえつけていた。

しかし、イギリスはその最強のスペインに勝利する。では、一体どうやって勝ったのか。彼女の女王としての采配や振る舞いはいかなるものだったのか。女王も人間であり、女だ。世界一有名な女性に相応しい彼女の人生の後半戦はいかに。



28.ソナチネ (Sonatine)

このテーマ曲を聴くと、暑くて長い、まがまがしくも切ない、あの沖縄の儚い夏を思い出す。私にとっても、『沖縄』と『夏』と『不良』というキーワードは、無関係ではない。



29.ファイト・クラブ

この映画がなぜ『精神』のジャンルでランクインするのかは、見てのお楽しみだ。ファイトクラブのブラッド・ピットは、世界中の男女を虜にした。



30.コンタクト

インターステラーを観る前に観たい。この映画で注目すべきポイントは、彼女が『何もかもを代償に払った人間』だということだ。そういう人間でなければ成し遂げられないことがある。そういうことも学べる映画である。



31.カジノ

1970年代アメリカ。ラスベガスにフランク・”レフティ”・ローゼンタールというカジノのボスがいた。作中では『エース』と呼ばれるこの男は、しかし、このエリアを仕切る頂点の男というわけではなかった。現実はそう漫画のようにはいかない。数々の人間の欲望が入り混じる、カオスの渦の中にいただけだ。その中にいたのは彼だけではなかった。彼の代わりに闇で暗躍する幼馴染のアンソニー・”トニー”・スピロトロ。作中で『ニッキー』と呼ばれる凶暴な男に、彼らのそのまた上に君臨するマフィアのボスたち。ラスベガスで強い権力を持つ地元有力者。そして、エースの妻となって引っ掻き回すこの映画の『影の主人公』とも言える問題児『ジンジャー』。彼女もまたジェリー・マクギーという実在した人物だという。

これが映画の中の空想の話ではなく、現実なのだから衝撃である。膨張は、必ず破裂する。踏むべき手順を踏まずして膨らんだ場合は、『成長』ではなく『膨張』なのだ。



32.グリーンマイル

とある刑務所は、死刑囚が最後に歩く道を『グリーンマイル』と呼んでいた。単なる通路であり、距離などはわずか。だが、一部の人間が最後に歩く、あまりにも濃厚な道。その道を通して、様々なドラマが展開されていく。ある時、どう考えても凶悪犯罪者にしか見えない、黒人の大男が入獄してきた。彼の記録を見るとやはり、あまりにも残忍。誰がどう考えても彼を許せるわけはなかった。だが、何かがおかしい。刑務官の男は、長年の経験からか今回の幾人かの収容者に対し、不思議な違和感を抱くようになった。



33.クリムゾン・タイド

この映画を観ておく前にぜひこの事実は知っておいた方がいいだろう。私は調べずして映画を観たが、結論は観た方がいい。それはこういう内容だ。

ヴァシーリイ・アルヒーポフは、ソ連海軍の軍人。キューバ危機の際、アメリカ海軍への核魚雷の発射を防いだ。当時、核魚雷の発射には乗艦する三人の士官の承認が必要だったが、小艦隊司令および副艦長であったアルヒーポフだけがその承認を拒否した。この事実は、2002年に初めて公になった。

ヴァシーリイ・アルヒーポフ。このソ連の軍人がやったことがどれだけ重要か。日本人にそれを言う必要はないだろう。『キューバ危機』にどれだけの危機があったかを我々は正確に知らない。こうした事実とて40年経って初めて公開されたのだ。これはその彼をテーマにした映画だ。私は知らずして映画を観たが、それでも妙にリアルで緊迫感があり、見応えのある映画だと感じた。

それがまさか現実にあった話だとは。これこそが映画だ。



34.クンドゥン

ダライ・ラマ14世の半生を巨匠マーティンスコセッシが描いた伝記映画。チベットの最高指導者である彼が、インド亡命に至るまでの前半生を描いた伝記映画で、本人がさまざまなアドバイスを提供しているので信憑性は高い。

スコセッシはカトリックとして育ち、遠藤周作の『沈黙 -サイレンス-』を映画化したときも、映画の最後に日本にいるクリスチャンに『隠れなくていい』として応援し、少し偏った宗教思想を押し出してしまったが、こうして違う宗教にもスポットライトを当て、真剣に真実を描写するあたり、さすがである。説得力に大きな影響が出る。

マルクス、宮崎駿、ソ連という大きなキーワードにも関係している。要は、『紅の豚』を観ても分かるように、共産主義の思想は元々、過激でも何でもなく、『ヒトラーたちのように、滅茶苦茶なやり方を強いる人間が正しいわけがない。人間全員が平等じゃなくちゃいけないんだ』という、ごく自然の、平和思想だった。だが、ソ連や過激な共産主義『をうたったテロリスト』や過激派の影響でその思想を持っている人=過激派、というイメージが染み付いてしまった。

例えば映画のwikipediaの一文を見てみよう。

ダライ・ラマは自ら北京に向かい、毛沢東と交渉することを決意する。側近たちは共産主義に嫌悪を隠さないが、ダライ・ラマは好奇心旺盛に子どもの合唱を聴いたりしている。毛沢東も彼を歓待し「母も仏教徒でした」と理解を示し、ダライ・ラマも一時は「仏教と社会主義には共通するところもあるから、共存は可能だ」とさえ思う。

ダライラマは純粋にそう思っただけなのだが、国家規模の巨大な陰謀に利用されてしまうのである。そしてチベットは、詳しく映像化できないような凄惨な状況に陥る。

マルクスは言った。

『宗教とは、民衆の阿片である。』

共産主義の創始者である彼のその発言は、まさに真理を突いている。・・が、しかしそれを受ける人々が未熟が故に『援用』が横行し、例えばチベットに対して『宗教は毒だから滅んでくれ』などという詭弁を盾にした暴挙が展開される。

私はとある本の内容を受けてから、ダライ・ラマ14世のことを高く評価している。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこう書いてある。

私は現ダライ・ラマ14世、テンジン・ギャツォに十数回あったことがあるが、今までにいかなる人にも、彼ほどの慈悲の力を感じたことは無い。(中略)2001年、インドのダライ・ラマの住まいで、チベット人のリーダーであるダライ・ラマと、幼い息子を連れた一人のイギリス人との出会いを目撃した。イギリス人の妻は悲惨な状況で亡くなったばかりであった。この男の話を聞いたダライ・ラマは立ち上がり、彼と息子を抱きしめながら、二人とともに長い間泣いていた。

そしてイギリス人がキリスト教に長い間失望してきたので仏教徒になったと話すと、ダライ・ラマは自分の持っている、ギリシャ正教のキリストと聖母マリアの見事なイコン(絵画のようなもの)を取ってこさせた。それを男に渡し、こう言った。

『ブッダは私の道で、イエスはあなたの道です。』

男は非常に感動し、キリスト教信仰の道を再び見出した、と私に語った。この出会いには、写真もビデオ撮影もなかった。

彼は人格者だ。社会主義に関する当初の考え方も、インド亡命の動機と決断の根幹にあるものも、きっと純粋な想いだったに違いない。彼の人生は『観音菩薩』の所化だか生まれ変わりだか化身だか、そういう身分だけでも稀有なものだが、チベットという土地が更に世界的に珍しい。更に、生きた時代も動乱中の動乱で、実際に目にした光景が非常に珍しい。この世の99%が一生のうちに目にすることがない光景を目にしている人物だ。偉人の人生は、常に見応えがある。



35.デビル

原題の『Devil’s Own』というのは、邦題で推測するような『悪魔』といった方向の言葉ではなく、『困難、非常につらい』という意味である。だが確かに、前者の意味でも通用する。そういう映画である。

少年は8歳の頃、『呪い』を受けた。以来彼はその呪いに人生を蝕まれ続け、それは一生続いた。だが、もしその呪いがなければ彼は人生に恵まれていた。その『恵み』の中には友がいた。人生を語れる、仲間がいた。

呪いの根源を紐解いてみれば、その根源は更に古く、深く、複雑なものだった。彼はその『穿った大きな負のうねり』に巻き込まれたのだ。

彼の中には『悪魔』が棲みついた。そして、彼の『仕事』を『非常につらい困難なもの』にしたのは、友の存在だった。そして、友が彼を止めることもまた、辛い辛い決断だった。



36.さらば、わが愛/覇王別姫

1920年の中国から始まり、日中戦争、毛沢東のプロレタリア文化大革命などを通し、多指症で生まれた子供かつ京劇役者の壮絶な一生が描かれている。この作品は色々と偏見が多いだろう。私もそうだった。中国、京劇、正直、歴史を学べる映画じゃなければ観ることはなかったかもしれない。だが、それはもちろんたんなる偏見だ。これに限らずすべての人間の人生には、それぞれの事情があり、ドラマがある。弟の立場の彼の身になって考えたとき、そこにあるのは虚無とは違う、哀愁だった。



37.レナードの朝

パーキンソン病とは、手の震え・動作や歩行の困難など、運動障害を示す、進行性の神経変性疾患である。進行すると自力歩行も困難となり、車椅子や寝たきりになる場合がある。発症したら中々治らない。この世にはそういう不治の病を抱えて人生を生きている人は大勢いるのである。ただ、この世界の『常識』はそういう人々を『異質』と捉える。それには理由もある。例えば彼ら患者が『ルールを守れない』場合どうする。信号無視をしようものなら即死か、あるいはそれを避けたり、巻き添えとして命を落とす人が出てくる可能性もある。認知・自制能力が低下している人間と『ルールで固められた人間世界』で共生するのは、困難を極めるのも事実だ。

だからそういう人を隔離し、あるいは異質として分別する。それによってお互いが最低限の損害で押さえられる。倫理的な問題でジレンマのようではあるが、核兵器や強力な軍事力を持つからこそ抑止力となる事実もあるように、その矛盾したジレンマを抱えて生きるのがこの混沌とした世界を生きる際に欠かせないドーピングとなっているようだ。

それが『ドーピング』だというのは、根本解決をすれば今言った分別やジレンマは必要なくなるからである。国家も、言語も、宗教の違いも何もかもがなくなって、人が『真理』という一つの崇高な威厳に則って生きるようになれば、格差も差別もない。だが、その実態は目に見えず、理解が容易ではない。したがって、それぞれが思う『真理(神)』やルールに従って生きるしかなく、その形の違いがゆえに人々は分別され、最悪の場合は戦争をしてしまう。

ただ、映画『ヴィレッジ』を観れば『本当に分別は必要ないのか』という疑問が頭をよぎることになる。この映画では、老子の理想とした『小国寡民(しょうこくかみん)』、つまり少人数で生きることによって争いやトラブルを最小限に抑えられると考えた人々が集まって生きている。しかし、その集団に『病気の子供』が生まれてしまい、彼が精神未熟な故に、『嫉妬』から引き起こした命に係わる過ちを犯してしまうのだ。

まさに、今回の話の通りだ。結局は『異質』と判断された人間は隔離され、分別されるべきなのか。そういうことを考えながらこの映画を観ていく。

だが、我々は思い知ることになる。そうして隔離された人たちの人権を。心の声を。彼らは生きている。恋もする。我々は、レナードという人物を中心として刹那の時間『蘇った』、彼らの尊い時間に直面し、自分たちの人生の愚かさ、儚さ、そして尊さを思い知る。これは、実話である。



38.シンドラーのリスト

この映画が映画史上もっとも重要な歴史映画として数えられるのは、これがスピルバーグによって作られた映画であり、ホロコーストの悲惨さをより具体的に映像化させたからである。例えば、『日本のシンドラー』と言われる杉原千畝は、シンドラーよりも多くのユダヤ人を救ったが、それを映画化した作品は、そうは数えられない。これだけを見ればいいというわけではない。杉原千畝や、『夜と霧』などと併せて考えるべきである。しかし、この映画を知ると知らないとでは、その人生の深みがまるで違うものになるだろう。



39.ダンス・ウィズ・ウルブズ

狼と一緒に踊る男。そのような奇妙なネーミングはどこから来たのだろうか。実は、このネーミングの出所こそが、この映画のテーマなのである。それはつまり、そこに『特殊な文化』があることを意味していた。インディアンである。インディアンというのはコロンブスがアメリカ大陸を発見した時、そこが『インド』だと勘違いしたことから、大陸に住んでいるすべての先住民に対してつけたネーミングである。そう考えると、ネーミングに正しいも奇妙もない。狼と共に踊った男は、自分の信念に従い、人生を生きることを決意した。



40.マスク

ジム・キャリーの迫真の演技はけた外れ。ここまでコミカルな動きをするキャラクターは、アニメ以外にはほとんどないだろう。彼は地でもこれくらいコミカルな動きをするが、そこにCGを付け加えたらもはや敵なしとなる。



41.アンナと王様

タイがまだ『シャム王国』だったとき、イギリスから王国の近代化を応援するために女性の家庭教師がやってきた。彼女は信念を持った正義の人であり、自分の規範に従って行動したいから、たびたび人と衝突することがあった。それはこのシャム王国でも同じだった。だが、相手が国王だ。まともに話をすることも容易ではない存在。日本で言えば天皇のようなものだ。シャムは、イギリスやフランスといった強国に支配され消滅するのか。消滅しないなら、それは一体なぜなのか。流動変化するこの世界で生き残るために、捨てるべきもの、守るべきものは何か。



42.スリーパーズ

スリーパーズ。それは『少年院あがり』という意味である。子供の頃にこの映画を観たせいで、ケヴィン・ベーコンがすっかり悪人の印象が焼き付いていた。それだけインパクトのある映画なのだ。そして何よりこの映画は『実話』の可能性があるという。演者といい、ここまで贅沢な映画だったとは知らなかった。



43.セブン

キリスト教における『7つの大罪』とは、『傲慢、強欲、色欲、暴食、怠惰、嫉妬、憤怒』である。この映画のタイトルは『セブン』。つまり、この話の根幹にあるのは『神の目線』というある種の芸術の領域なのである。だが、それを無理矢理人間の世界にねじ込んだらどうなるか。確かに我々は皆、罪を犯しながらも、その罪を正当化して生き永らえている。だが、今回ある男によって加えられた制裁というのは、あまりにも歪んでいる。それは彼の詭弁か。それとも神の鉄槌なのか。もしあなたがブラッド・ピットが演じた男と同じ立場だったら、どうするだろうか。



44.ブレイブ

同じ格好をしていて演者が同じでも、ジャック・スパロウとは違う彼がここにいる。彼は一体、なぜ思い詰めているのだろうか。並々ならない事情を抱えているのだ。道もたくさん逸れた。迷惑もたくさんかけた。だが、心底では大切な存在が何かを理解していた。彼はけじめをつけたかった。そして、決意したのだ。もしあなただったら、彼がすることを止められるだろうか。最愛の存在の為に決意し、勇敢(ブレイブ)な男にすべてを託し、敬虔な神の僕の横を堂々と通り過ぎた彼を。



45.キッズ・リターン

二人の少年は、仲が良かった。仲が良かったはずだった。だが、時が経つにつれ、二人の生きる道に少しずつ差異が見られるようになってきた。同じ男である彼らは、その煮えたぎる男の炎のやり場をどこかにぶつけたい思いは同じだった。性格の違いが彼らの情熱を向ける舞台を変え、やがて二人の少年は会わなくなった。果たして、彼らはもう関係ないのか。この映画のタイトルにはどんな意味が込められているのか。



46.グッドフェローズ

1955年から80年のニューヨーク・マフィア界で生きたヘンリー・ヒルを題材としたアウトロー映画である。『グッドフェロー』の意味は『いい仲間』とかそういうことである。確かにとても仲が良さそうだ。酒を酌み交わし、キツイ冗談を言ってゲラゲラと笑いこけている。だがこの男たち、普通ではない。これは、実際にあったアメリカのアウトローたちの、『悪い大人の見本』である。



47.ブレイブハート

1280年のスコットランド。イングランドの真上にあるスコットランドは、往々にしてイングランドの影響を受けやすかった。現在イギリス(UK)はイングランド、スコットランド、ウェールズ、そして左隣の島国であるアイルランドの北側だけ(北アイルランド)がその領地となっている。そのスコットランドがイギリスの支配から独立するために戦った実在の人物ウィリアム・ウォレスの映画だ。史実と違う部分もあるらしいが、それを言ったらすべての映画がそうである。当時の時代背景、そしてウィリアム・ウォレスという人物の存在を知るためには、ある程度の演出も必要だろう。

何より、音楽がいい。どこかで必ず聞いたことがあるあの音楽は、心が動いたときにだけ流れる、哀愁溢れる深遠なメロディーである。スコットランドのバグパイプが奏でる音色は、音楽次第では人の心を大きく動かすだけの力を持っているが、スコットランド人が自分たちの誇りを取り戻すだけの力が眠る映画である。

wikipediaにはこうある。

映画自体と同様に、『ブレイブハート』のサウンドトラックも大きなセールスを記録している。サウンドトラックは、『エイリアン2』(1986年)、『アポロ13』(1995年)、『タイタニック』(1997年)、『スターリングラード』(2001年)を手がけている作曲家ジェームズ・ホーナーによって制作された。ロンドン交響楽団の演奏による。



48.陰謀のセオリー

何度か午後ローで見かけているが、毎回観ることができず、謎の距離が開いてしまっていた作品だ。吹き替えということもあったかもしれないが、その一瞬だけはあまり面白そうに見えなかった。だが、これは面白かった。厳選する『名作映画』のカテゴリーにジャンル分けできるレベルの映画だったのだ。食い下がって観て良かった。

CIAやFBIという『得体の知れない組織』は人々の妄想をかきたてる。日本なら『世界から見た皇族』がそうだ。事実、『世界で最も有名な日本人』の中には、『鳥山明、尾田栄一郎、宮崎駿』などの漫画家やクリエーターが並ぶ中、トップ3の中に昭和天皇の『裕仁』という名前が入っていた。日本でもある種のタブーとなっていて、海外になると更に余計な妄想をかきたてるわけだ。そういうこの世界の奇妙な『空白』を上手く利用して、この映画はエンターテインメントに仕立て上げている。

メルギブソンの怪演をジュリアロバーツが迫真の演技で支え、後半になるまで尻すぼみにならず、むしろスリリングに盛り上がって展開されていく。これは名作だ。



49.エアフォース・ワン

この映画のポイントは、当時アメリカ大統領機の『エアフォースワン』が非公開だったということ。しかし、ハリソン・フォードが友人であるビル・クリントンに頼んでその内容が明らかになり、それが映画化に繋がったということだ。実際に写真公開がされたのはもっと後の話だが、イラストなどから内容を緻密に再現できたという。確かに、PS、PCゲームの『レインボーシックスシージ』に登場する『大統領専用機』に瓜二つの映像が出てくる。階段から会議室の場所までそっくりだ。ゲームを知っている人はそういう楽しみ方もある。

冷戦は明けたが、2020年においてもロシアの動きは常に水面下で警戒する対象にある。そうなると、明けてから間もないこの時期はもっと怖い。戦争のように相手国に爆弾を落として力づくで鎮圧したわけではないので、ドイツのように賠償金の支払いで身動きが取れなくなるわけでもない。いつまた何をしでかすかわからない。そういう不安は共産主義への不安のど真ん中を生きた人々からすれば当然であり、黒人差別がいまだに色濃く残っているのと同じように、彼らの心底に渦巻き続けている。

では、もしソ連復活をもくろむテロリストに大統領機が乗っ取られたらどうなってしまうのか。彼らにとって『エアフォースワン』という得体のしれない存在とソ連関連のテロリストというのは興味の対象であり、映画化して注目を集めるのは気を引き締めるのに効果があっただろう。



50.サイダーハウス・ルール

サイダーハウス。それは『リンゴ農園』のことである。孤児院で生まれた男が、その父たる存在である医師の技術を学ぶが、自我の衝動によって反発が起き、家を出る。そこでたどり着いたのが、その孤児院で治療を受けて絆が繋がったカップルの、リンゴ農園だった。それは『家出』なのだろうか。女性の方に興味をそそられていることから考えると、『駆け落ち』なのだろうか。父たる存在との間に起きたことは『確執』とも言える。

彼なしでも生きていくことができる。

それは、孤児院で生まれた人間の、健気で尊い、心の叫びだったのだろうか。果たして、彼は『その旅』に何を求めるのか。彼は自分のその人生に、何を見出すのか。



ランキング外おすすめ映画(50音順)

ランキングには入らない1990年代を代表する名作映画をまとめました。(クリックでレビュー表示)

あ行

『ア・フュー・グッドメン』

経験と想像力がこの話の奥行きを深くする。まず、軍隊というのは理不尽な存在である。それを知りたい場合は『華氏911』『ジャーヘッド』、『プラトーン』や『7月4日に生まれて』などの実話ベースのドキュメントや映画を観るといいだろう。多くの人がPTSDにかかる理由は、彼らの『職場』に仁義が存在しないからだ。人間の心は、真理から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。例えば嘘をついたり、子供を殴ったりしたとき、どんなに最低な人間でも心底に心のうずきを感じる。善人なら心がかきむしられる。そうなっているのである。

だが、その『理不尽な部隊』が国を守っている現実がある。彼らが威嚇し、射殺し、斬殺することによって鎮圧し、抑止力が生まれて平和が保たれている現実もある。この裁判で戦う相手の親玉の言葉に妙な威厳があるのは、彼がそうした現実を知り尽くし、それを背負い、禍々しく歪んだその人為的に作られた別次元に棲む住人だからである。彼のセリフはアメリカ映画の名セリフベスト100において29位にランクインされている。

おまえに真実は分からん!

闇は正義のジャッジによって暴かれるだろう。だが、それは全容ではない。

『アイリスへの手紙』

男女平等と言うが、男の方が往々にして腕力があり、クラクションを鳴らす9割がテストステロン濃度の高い男であるという事実や、女性の方に強くある母性本能といった差異は否めない。


凸凹のこの字のごとくだ『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

喜劇作家であるアリストパネスは演説でこう言った。

『かつて人間は二つの肉体が背中合わせとなった存在であった。』

一体となっている二つの肉体のどちらも男である場合、どちらも女である場合、そして男と女である場合(両性具有=アンドロギュロス)があった。残念なことに、ゼウスの決定により、彼らの肉体は二つに分断された。それ以来、私たちは分離されてしまった片割れを求めている。元の肉体の組み合わせにより、求める片割れは男もしくは女である。アリストパネスによると、この探究こそが私たちが愛と呼ぶものである。愛とは、失われた原初の結合を回復しようとする欲求である。愛によって自分と一体であるべき片割れを見つけ出し、私たちの本来の姿を完全に回復できた時、私たちは最高の幸せを手に入れることが出来る。


アリストパネスの話はもちろん神話だが、しかしいささかそうとも言い切れなさそうな男女のドラマが、ここにある。

『アウトブレイク』

『人類の優位を脅かす最大の敵は、ウイルスである』。ちょうど今世界はウイルス問題で騒いでいるから、この言葉を真剣に熟考する人は多いだろう。だが、重要なのはこの映画や『コンテイジョン』といった映画は、この騒動が起きる前に存在したということだ。それに気づけるかどうかが問われている。全人間がだ。

『アダムスファミリー』

不気味極まりない印象を強く得るだろうが、これが『人気アニメの実写化』という情報を知っていれば多少はそれが和らぐだろう。いきなりこういう発想をする人がいると考えると不気味だが、アニメなら何でもありなので、それを知るだけで納得し、安心できるというものである。

『アダムスファミリー2』も同じように見応えがあるが、売り上げが200億ら50億に落ちていることを見ても、やはり続編は家族のよりマニアックな部分をフィーチャーせざるを得なく、そこで好き嫌いが出るし、最初のインパクトを落としているので、ここが限界と言える。ただし、このBGMは映画史に残る伝説のクリエイティブとなった。

『あなたの死後にご用心!』

名優メリルストリープが出演しているこがあるのか、チープさは感じられないのがすごい。彼女の場合ファンタジー的なオカルトチックな映画も『愛と精霊の家』などで好演しているし、それも見事にはまっていた。今回の場合、wikipediaにも説明ページがないような映画だが、彼女の存在感によって映画が成立しているように見える。

私は、実は彼女の容姿が好みということではない。若い頃の『ディア・ハンター』などを見ても、(これが全盛期なら・・)として、あまりタイプではないのだ。だが、その映画でもそうだったが、実力でこちらを黙らせるのである。

『アナライズ・ミー』

デニーロはマフィアの役が本当によく似合う。だがそれだけでは役が偏るわけだ。そこをビリークリスタルあたりのコメディスターが、デニーロが持つ元々面白い要素を存分に引き出してくれるわけだ。そのおかげでデニーロがずっと真面目な顔をしているだけで、常にどこか笑ってしまう空気が出来上がり、映画を最後まで軽快に楽しむことができる。

こういう映画は『世界規格』であり、何の教訓も得られないとして嫌がり、王道映画だけを観る人からすればB級にもなりがちなこの映画は、世界で200億円近い売り上げを上げていて莫大な利益をもたらしている。

続編の『アナライズ・ユー』は50億円程度に下がるが、それでもこれだけの売り上げを上げられる映画は数えるほどしかなく、大ヒット映画として数えられる作品となっている。

『アベンジャーズ』

すっかり2012年のマーベル映画の『アベンジャーズシリーズ』が有名になったが、それより14年前に同名の映画が存在していた。よって、本作との混同を避けるため、英語タイトルでは “Marvel’s The Avengers” あるいは “Marvel Avengers Assemble” と付けられたようだ。

あの映画の影響からかこの映画の評価が低くなっているが、全然面白かった。イギリスで1960年代に製作されたTVシリーズ『おしゃれ探偵』を映画化しているだけあって、練りに練られている印象があるから、つまり無駄がなく、楽しむ要素が軽快なタイミングで登場してちょうどいいエンタメを楽しめる。90分という長さも影響しているだろう。

また、主演のレイフファインズはこの23年後の2021年に『キングスマン:ファースト・エージェント』でまたイギリスのスパイ役を演じるということから、映画ヒストリーとして考えても中々面白い作品である。

『アポロ13』

現代を生きる人はこのキーワードを聞いても『古い』というイメージしかよぎらない。だが、1960年から70年代の時代を生きた人からすれば、こんなにも心が躍るキーワードはない。『アポロ計画』である。人類が初めて地球以外の惑星に行く。あの、空を見上げるといつもそこにある『月』に行こうというのだ。このあたりの物語はぜひセットで観たい。『ドリーム』、『ガガーリン』、『ライトスタッフ』、『アポロ13』、『ファーストマン』である。果たしてアポロ13号は、月へたどり着けるのか。

ちなみに日本人宇宙飛行士の野口聡一は、2020年11月のインタビューの中で、最も好きな「宇宙モノ映画」としてこの作品に言及し、「再現性が本当に高い」とコメントしていたという。

『アメリカン・サイコ』

サイコパスが存在するとしたら、それはある程度の知性も持ち合わせている。そうじゃなければとっくのとうにその異常性のせいで社会不適合者となり、どこかに隔離されるからだ。私の周りにもそういう例がいくつかある。異常性があるのに社会に溶け込んでいるということは、社会に適合しながら自分の曲がった欲求を満たしているということ。そう。サイコパスは我々のすぐそばにいるのだ。

『アメリカン・ヒストリーX』

一体何が彼をこうさせたのか。彼は最初、悪さを知らない好青年だった。しかし、気づけば道を踏み外していた。そして行くところまで行ってしまった。しかし、彼の奥底にはまだ善意があった。彼は元の世界に戻れるか。それとも。

『アメリカン・ビューティー』

作品に登場する赤いバラは「豊かな家庭の象徴」でもあり、「アメリカの美」というタイトルがつけられていながらも、その国の家庭が崩壊していく様子が描かれているあたり、メッセージ性が高い映画である。表層は美しく、成功している。だが実際にはどうか。世界が憧れるアメリカのある家庭らのその心底に渦巻く本音とは。

『アメリカン・レガシー』

監督であるサム・シェパードのwikipediaにも作品名が載っていないし、リバーフェニックスのwikipediaにも作品表示が掲載されていないほどのマニアックな作品。

確かに、何が何だかよく分からない映画で、VHSの時代であればまず手を伸ばすことがなさそうな作品だ。動画配信サービスが普及して簡単にこういう映画が観られるようになったのは本当によかった。

だが、そういう希少性で価値があるというだけで、話の内容はほとんどおぼ終えていないような、西部のインディアン系の、オカルト染みた要素があるよくわからない映画、ということになってしまう。リバーフェニックスの映画というだけで今は貴重な作品の一つだが。

『アライバル-侵略者-』

人間は逃走している時、『何から逃げているか分からない』という時、最も恐怖を感じるという。それなら、ホラー的な映画の類でも、その人間心理を上手く使えば背筋が凍る演出を用意することができる。最近で言うと『クワイエット・プレイス』などが分かりやすいだろう。

(あれ何!?なんなの!?なにから逃げてるの!?)

本人も鑑賞者も両方理解していないような演出をすることで、映画と現実が一体化し、現場の恐怖を痛感できるわけだ。そう考えた時、一歩間違えるとB級SFに成り下がりそうな気配もあるこの映画は、中々どうして見入ってしまう展開がある。

『ある貴婦人の肖像』

貴族の恋愛映画なので、私は苦手なほうだ。好きな人は好きだろう。他にも私はホラーやゾンビが嫌いだし、逆にそういうものは好きな人はがっつり好きなので、こればかりは趣味としかいいようがない。

せっかくだから、この名作を通して私が貴族の恋愛映画が嫌いな理由を考えてみよう。私は窮屈なのが嫌いなのだ。貴族の恋愛は、どこか窮屈である。まず服装からしてそうだ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』では、キーラナイトレイがまずその窮屈な服装について文句を言うところから始まるが、私は仕事でも、スーツにネクタイというスタイルが嫌いなタイプであり、常に私服で行っていて、夏などは裸であることもある。

それから、礼儀作法や体裁を気にしているなど、貴族の排他的な区別思考も嫌いだ。差別に近いものを感じる。自分たちだけが上級国民であり、その他の身分の人とは格が違うというのも腹が立つ。

実は、私の実家の隣人は、検索すれば名前が出てくるくらいの資産家で、軽く5億円はするであろう大豪邸に住んでいた。だが、生まれてこのかた、一度もこの住民と話をしたことがないのだ。軽い挨拶があった程度。そして、節々でうちも含めた『その他の家庭』を侮辱するような発言をしている。『私は元々医者の娘です』だのなんだの。そして、大きな松の木が庭にあるのだが、その落ち葉が民法に違反して、我が家の庭に落ちてきていた。これは、訴えれば枝を切り落とすこともできるのだ。

とにかく私は、こういう身分の人間も、生き方も、彼らが大事にしている『粗末なもの』が嫌いなのだ。何のあこがれもない。憧れるべきではないのだ。彼らはただ偶然、お金を持っているだけだからだ。偉いのは創業者たちや、先祖だけだ。

ただ、この映画で少し面白いのは、夫に従属するだけの古風な結婚を嫌うニコールキッドマンが演じるイザベルが、自由を求める女というところである。自由の為には、一生独身でも構わないと言う。そして、莫大な遺産にも執着をしない人間がいたりして、そういうところは見応えがある。それは『粗末なもの』ではない。私が言うそれは人間の傲慢や強欲であり、排他的な思想だ。

だが、それを助長させる財産に執着しない様は、人としてとても高潔であり、それは決して粗末なものではない。

『いま、そこにある危機』

CIAのジャックライアンシリーズの第三作。ジャックライアンを『パトリオットゲーム』から引き続きハリソンフォードが演じる。ジャックライアンの脂が乗ってきた時期だ。作中で『ホワイトハウスには一度行った』とあるが、この一度だけ行ったシーンはシリーズ第5作の『エージェント:ライアン』のラストで見ることができる。つまりこの映画はその5作の若い時期から随分と時間が経ち、CIA内部での重要な仕事をこなすまでになっている。重要なポジションにいた上司が病に倒れたこともあって、その代役を務めるまでに。

だが、彼はそのCIA内部の人間からなぜか嫌われていた。最初は嫉妬か何かの類かと思ったが、実は・・

『イル・ポスティーノ』

私のような完璧主義で、効率よく物事を進めようとし、白黒ハッキリしたい人間からすれば、主人公の彼の態度は腹が立つだけである。だが、そういう腹の立つ男を注意深く見ていると、彼が彼なりに真剣に生きている事実が見えてくる。死んだとき、後悔する。人は死なないと思っていたのか、そうではないはずなのに、そういう彼のような人間の生きざまに心を打たれる自分に気づき、後悔する。

『イレイザー』

シュワちゃんの映画は父親の影響で幼少期に『=映画』のレベルで鑑賞したものである。だが、子供だから内容までは正確に理解できていない。さすがに『プレデター』は飽きるほど観たしシンプルな内容だから映像も鮮明に覚えているレベルだが、その他の映画、例えば『イレイザー』と『トゥルーライズ』の違いをすぐに思い出すことはできない。だが、観ればすぐに思い出す。

映画経験を積み、シュワちゃんのあの上司の役が『ゴッドファーザー』のソニー役のジェームズカーンだったとは知らなかった。そういう歴史を知れば更に映画の価値が上がるというものだ。私はあまり映画以外の情報を集めようとは思わないのだが、嫌でも彼を観た時ゴッドファーザーを思い出し、シュワちゃんとの豪華共演を喜んでしまう自分がいる。

シュワちゃん全盛期はあのガタイもあって彼が最強ヒーローだと思っていたが、現代で振り返ってみると、今はもっとアクションや撮影方法が進化している為、彼や、もっと前のハリソンフォードやクリントイーストウッドのアクションは今では問題外の陳腐なものになっている。

よって、もう二度と彼らのようなアクションをする俳優は現れないだろう。そう考えると、もし彼らが今の世で現役アクションスターをしていたらどんな映像になっただろうか。

『イングリッシュ・ペイシェント』

第69回アカデミー賞で最多12部門にノミネートされ、作品賞をはじめ最多9部門受賞。第54回ゴールデングローブ賞では最多7部門にノミネート、ドラマ部門作品賞と作曲賞を受賞した。・・という輝かしい功績ゆえに『観るべき映画』としてリスト入りしていたわけだが、内容が不倫なだけに意見は分かれる。何をやったところで不倫の話に賞を与えるということはその正当化にも近い感覚があり、眉をひそめる人もいるだろう。私は特にそうではないが、多少そういう倫理があり、かつ完璧主義者ゆえ、

(いや、不倫やん)

として、一つでもそういう問題がある以上、あまりこの話を美化することはできない。それさえなければいい。その要素さえなければドラマチックなシーンがいくつもある。

『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』

ヴァンパイアの話は全く興味がないので、『トワイライト』なども全く観る気がないまま今に至っている。私の映画鑑賞の目的は、暇つぶしでも現実逃避でも、美女による癒しでもなく、自分の人生の糧だ。だからクオリティが低くてそっちが気になってしまうB級以下の映画や、無意味に人が死ぬホラー映画、このようにフィクションが分かり切った映画は観ないことにしている。だが、それはあくまでも初期設定で、見ればそこで展開される人間味のあるドラマに心が動かされることもあるのが常である。

今回の場合、トムクルーズとブラッドピットという二大スターの共演が観れるだけで十分という人も多いだろう。ファンではない私でも彼らが出ているだけで『画が持つ』と実感する。また、レジェンドオブメキシコのアントニオバンデラス、そして少女時代のキルスティンダンストも出演するので、映画俳優の歴史などを観るためにも貴重な作品である。

物語も、もしこれがヴァンパイアの話じゃなけく、AIだったり、ウイルスだったり、その時代で受け入れやすいヴィラン、例えばアベンジャーズと戦う宇宙人とか、そういう存在に置き換えて考えると身の毛がよだつシーンもあって面白い。

『インデペンデンス・デイ』

人類による、人類の為の戦い。地球侵略の映画と言ったらこれ。

『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』

人類による、人類の為の戦い。地球侵略の映画と言ったらこれ。インデペンデンス・デイの後に続けて観たい。

『インビクタス/負けざる者たち』

南アフリカの大統領デクラークは、指導者ネルソン・マンデラをついに刑務所から釈放。だが、その時はすでに27年というあまりにも長い時が過ぎていた。しかし、マンデラはその状況を受け入れ『許す』ことで自分の身の回りの世界を変えることができる『真理』を発見した。そしてそれはその時ちょうど目の前にあったラグビーチームにも強い影響を与えた。このラグビーチームは、まるでこの国そのものだった。自信を無くし、不安に満ち溢れ、歩くべき方向性を見失い、さまよっていた。そこに現れたのが白人からは『テロリスト』と揶揄された、ネルソン・マンデラだ。さて、この国は、このチームは一体どうなるのだろうか。マンデラは一体どういう人間だったのだろうか。

『ウォーターワールド』

もし温暖化が進んで北極・南極の氷が溶けた場合、海面が上昇し、この世界は海だけになる。そんな世界で生きていくとしたら、彼らにとっては『陸地』がパラダイスとなるのだ。しかし、陸地でしか生きられない人間は逆のことを想うだろう。これは、人間がこの世界で生きていくためには、多様性を軽んじてはいけないことを意味するのだ。

『ウルフ』

『狼男』の映画はいくつもあるので、こういう展開にするならもっと『ウルヴァリン』のような、派手で、狂気もあるが同時に格好良さもある演出にした方が『ウルフ』というタイトルに負けない内容になる。

調べたら、脚本のジム・ハリソンが狼化妄想症を患ったという経験が、ストーリーに反映されているという。それなら今度は、もっとサスペンス調を強くして、結局この男がどういう男なのか分からない、というミステリー要素を取り込んだ方が、人の注目を集められただろう。

『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』

これは大統領のスキャンダルから国民の目をそらすため、架空の戦争をでっち上げようとする陰のスタッフたちの奮闘を楽しむ映画である。大爆笑シーンもある。私は基本どう考えてもおかしいことを真顔でやっていると笑ってしまうのだが、この映画はそういうブラックコメディが満載で面白い。デニーロが作り笑いをしただけでもう意味深で爆笑である。ただ、もちろん単なる冗談な話ではない。こういうことは、あり得る。常に映画はそういう視点を一つ持つことを忘れてはならない。そうすればどんな冗談に見える映画でも、教訓になる。

ヒトラーは言った。

『大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい。』

『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』

主演のダニエル・デイ=ルイスというのは、アカデミー主演男優賞を3回受賞している唯一の俳優で、『マイ・レフトフット』を観ればその実力を誰もが理解することになる名優である。彼は『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒースレジャーに対し、『チョコレート』と『ブロークバック・マウンテン』での彼の演技を称賛し、「私に役者としての復活の気持ちを与えてくれた俳優」と発言している。その映画を観れば分かるが、かなりシリアスで、厳しめに言うと『地味で暗い役』だが、どこかに『かけがえのない哀愁』があり、それが唯一無二性を醸し出している。

また、2012年4月の英Total Film誌よる「映画史に残る演技ベスト200」では『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』での演技で『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソン、『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロに次ぐ3位にランクイン。

2002年の『ギャング・オブ・ニューヨーク』では本来主役だったはずのレオナルド・ディカプリオを抑えてアカデミー主演男優賞にノミネートされた。ディカプリオも彼を尊敬しており、主演がデイ=ルイスになることが当然だと語っている。2007年の第80回アカデミー賞では『フィクサー』で同じく主演男優賞にノミネートされていたジョージ・クルーニーは結果発表前に「自分が主演男優賞を受賞? ダニエルがいるから無理だよ」と答えたという。

つまり何が言いたいかというと、彼は『プロから認められる、演技を理解している実力派』で、どうしてもその彼の立ち回りに期待してしまうわけである。そのハードルもあるし、私が興味がある内容でもないため、この映画がいかにマーティンスコセッシがメガホンをとっているからといってこの映画を『名作』として人に勧めることはできない。だが、

  1. ピュリッツァー賞を受賞した作品
  2. ダニエルデイルイス
  3. マーティンスコセッシ
  4. アカデミー賞で5部門にノミネート

という輝かしい要素、そして、ミシェルファイファーやウィノナ・ライダーという脇を固める華の力は確かで、最後のシーンで何とも言えない哀愁を覚えることになるだろう。

『エコーズ』

オカルトチックな展開はあまり好きではないのだが、こういう時ケヴィンヴェーコンの演技が光る。『フラットライナーズ』も似た感じなのだが、彼の唯一の弱点は『映像内でケビンベーコンになる』ことで、あまりにも格好良く歩いてしまったりすることがある。それはあり得ないことだ。

もっと役になり切って、ある役は猫背で、ある役は早歩きで、等の細かい部分での微調整ができれば、彼は世界最高のステージにいけるだろう。

だが今回はそういう彼の欠点がほとんど見られず、その演技力だけでオカルト的なこの内容にも説得力が付与されている。デンゼルワシントンのケースと同じだ。彼も、この映画とほぼ同じ時期の映画『悪魔を憐れむ歌』(1999年)でオカルトチックな映画に出ているが、その演技力のおかげでB級作品にさせなかった。

私のようにオカルトが苦手な人間に面白いと思わせるこの二人の俳優は、実力があると言わざるを得ない。

『エド・ウッド』

「史上最低の映画監督」と言われた映画監督エド・ウッドの物語。監督のティムバートンが彼のファンであり作られた映画だ。主役はその相棒とも言える仲のジョニー・デップである。そして出演者には実在した有名な関係者たちがズラリと並ぶ。そしてこの映画で『魔人ドラキュラ』などの戦前のホラー映画界における大スター、ベラ・ルゴシ役を演じたマーティン・ランドーが各映画賞を総なめし、第67回アカデミー賞でアカデミー助演男優賞を受賞、またアカデミーメイクアップ賞も受賞した。

だが、そんな事情を一切知らない私からすれば、『一体何だったんだ』という映画だろう。「史上最低の映画監督」と言われるのも無理はないという、わけのわからない『うろつき』を見せられるわけである。だが、あのスタンリー・キューブリックも影響を受け、映画界の名作と言われる『市民ケーン』の話も出てくるし、映画関係者やマニアックな玄人からすれば鳥肌ものの価値を見出すのだろう。

だが、私は市民ケーンの良さが全く分からなかったし、登場人物全員を知らなかったし、ドラキュラの映画も古すぎるから観るつもりはないほどジェネレーションギャップがあるので、この映画の評価も低くなってしまう。

『エニイ・ギブン・サンデー』

『プラトーン』のオリヴァー・ストーン作品だから、この映画がNFLファンならば、モデルにされている人物や事件などが容易に推測出来る内容らしいが、知らない人はあまり見応えがないと言っていいだろう。

私は自分から遠い分野だったり興味がない分野の映画も積極的に観るようにしているが、頑張って努力したが、あまりよくわからなかった映画だ。『タイタンズを忘れない』、『僕はラジオ』など、フットボールの映画で面白い映画はいくつもあるが、この場合は特にフットボールの世界に特化したものだったのだろう。だからこそ、話をする人にはうってつけの映画というわけだ。

『エントラップメント』

1999年ならではの映画で、2000年問題(西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた年問題)を背景にした美術泥棒と保険会社調査員の駆け引きを描いたクライムムービーである。とにかくその誤作動から得ようとする金額の規模がすごい。ちゃんと調べてはいないが、もしかしたらこれ以上の金額を盗もうとした映画は他にないんじゃないかという印象だ。

2000年問題、そして今はもう亡きショーンコネリーと、全盛期のキャサリンゼタジョーンズという懐かしのキャストということもあり、何だか哀愁の残る貴重な作品だ。

『オンリー・ユー』

令和を生きる人は『スパイダーマン』がなじみがあるから、この映画を観ておいた方がいいかもしれない。そこで登場するメイおばさんのマリサ・トメイが主演の映画だ。

彼女が若い頃こんなに華があって、愛くるしい美女で、『アイアンマン』のロバートダウニーJr.と共演し、更に実際に交際もしていたことを知れば、映画鑑賞の際に色々な奥行きが出てくるだろう。

彼らは25年後の2017年に『スパイダーマン:ホームカミング』で共演している。

また、奥行きで言うならこの作品の為に、こんな話を知っておくといい。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

喜劇作家であるアリストパネスは演説でこう言った。

『かつて人間は二つの肉体が背中合わせとなった存在であった。』

一体となっている二つの肉体のどちらも男である場合、どちらも女である場合、そして男と女である場合(両性具有=アンドロギュロス)があった。残念なことに、ゼウスの決定により、彼らの肉体は二つに分断された。それ以来、私たちは分離されてしまった片割れを求めている。元の肉体の組み合わせにより、求める片割れは男もしくは女である。アリストパネスによると、この探究こそが私たちが愛と呼ぶものである。愛とは、失われた原初の結合を回復しようとする欲求である。愛によって自分と一体であるべき片割れを見つけ出し、私たちの本来の姿を完全に回復できた時、私たちは最高の幸せを手に入れることが出来る。

果たして、運命の人というのは本当にいるのか。

『愛が微笑む時』

実際にはあり得ないファンタジー要素が詰まった話で、こういう場合はよく『見ても見なくてもどっちでもいい』という着地をすることが多いのだが、『ゴースト』ほどまでは行かなくても、中々どうして面白かった。

『炊きついたとたん抜ける』というキーワードを今見てしまっても問題はない。そのシーンは思わず笑ってしまうほど、コメディレベルも高い。

また、最終的な着地で(観て良かった)と思った理由には、この映画が基本的に『トトロ』や『ホーム・アローン』と同じ類の安心性を持っているからだ。心温まるハートフルストーリーが軸なので、見て不愉快になるということはないのだ。

『愛と精霊の家』

壮大な人間ドラマと聞いて、『愛と』というタイトルがつくとかなり重苦しく構えてしまうし、『精霊』となるとオカルト嫌いな私は抵抗を覚える。この時点でこの映画の第一印象は悪かった。だが、メリルストリープの『愛と哀しみの果て』は面白かったし、なんだかんだいって彼女の作品は見応えのあるものばかりなので、忍耐強く見ていくことに。

やはり、超能力を持った女性役をメリルストリープが演じるのだが、それがどこまで自然に物語に溶け込むかが大きなカギとなる。そういう、少し冷めた目で見る私の目には、しかしなかなかどうして自然な人間ドラマが展開されていくのが映った。

そして最後には『面白かった映画』のしるしである蛍光ペンをメモに引いたのだった。

『愛に迷った時』

まさにタイトルにある通り、結婚生活を続けている幸せなはずの夫婦が、どちらかの浮気によって破綻しかけ、愛を見失う話だ。結婚の時、病める時も健やかなる時も互いを愛しあう誓いをしたはずなのに、どちらかが破った。これでは約束と違うということで、多くの人はそこで愛を見失ってしまう。

だが、実は人間は『愛』の実態をよく理解していない。世界に普遍的に共通する言葉だが、ボールペンやタオルのように、『これがタオル』とかいう断言ができず、目に見えない。

『1+1』の答えなら『2』と断言して、そこに確信を持つことができる。だが、目に見えず、答えが不明瞭なものには確信を持てない。そして、そのゆるぎないはずの『愛の約束』が破られた時、人の心はさまよってしまう。

さて、『愛』とは一体何なのか。この映画を通してそれが見えてくるだろうか。

『愛の悪魔フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』

画家フランシス・ベイコンの生涯を、モデルであり恋人でもあったジョージ・ダイアーとの関係を通して描いているわけだが、彼の生涯に興味がない人には全く響かない映画だ。だが坂本龍一がフランシスベイコンのファンであり、音楽を担当していたり、ダニエルクレイグが出ていたりと、いくつか見どころはある。

『悪魔を憐れむ歌』

オカルト的な話でもデンゼル・ワシントンの手にかかればこのリアリティと緊張感だ。まったく、彼の映画がいずれ見られなくなるというのは惜しいの一言である。だが今確認すると批評家の一致した見解は「基本設定は面白い。しかし残念ながら、古い素材の再利用に過ぎず、それほどスリリングではない。」ということ。私とは真逆の事を言っている。

いや違う。『元々そのレベルのシナリオなのに、デンゼル・ワシントンがレベルを引き上げた』のだ。私はそういう印象を得て、驚いた。だからこの作品を厳選された『観るべき映画』としてジャンル分けした。

『青いドレスの女』

100分ほどだから2時間なく、内容的にも『ミッションインポッシブル』のような国家級の規模ではなく狭いので、日本で言う1時間もののドラマのような、そういう展開となる。あまり、これを目的に映画館にまで足を運ぶということはないだろう。現在の世界であれば、このレベルの話はありふれている。

『赤い航路』

ロマンポランスキーとエマニュエル・セニエと言えば、ハリソンフォードの『フランティック』が印象的だが、魔性の女という共通点はあっても、ミステリアスな作品のクオリティはフランティックに軍配が上がる。

ヒューグラントとクリスティンスコットトーマスという名優はいるが、この作品では彼らの良さが埋もれてしまっている印象だ。特にヒューグラントは、ラブコメの帝王としてた作品で活躍している時とは全く違って、輝きを放っていない。

よくは分からないが、1988年のフランティックから4年後の作品ということで、フランティックにおけるエマニュエルの儚くミステリアスな美しさが忘れられなかったのではないだろうか。

『あの魅力をもう一度』と言わんばかりに、主演の彼ら名優を押しのけて彼女が裏主演になってしまっているような描写だから、ちょっとしくじった作品だ。

『暗殺者』

ジュリアン・ムーアが生き生きとしている。彼女の最盛期は1993年のデビューから3年目の『妹の恋人』のように見える。その2年後がこれだ。まだ生き生きとしている。『ピカソ』や『ブギーナイツ』あたりからは少し陰りはじめ、『マグノリア』(1999)ではもうすでに現在の彼女の見た目に近づいている。

彼女の見た目の話である。残念ながら、彼女の見た目はオードリー・ヘプバーンらのそれと違って、世界規格ではない。残酷な話だが、どうしても顎が気になってしまい、集中できない。ふざけた話である。

ただの見た目でそうなってしまうのはどういうことなのか。こっちとしてもそういう穿った目で見るべきではないと思っているのだが、なぜなのだろうか。『妹の恋人』の時は、素直に美人だと思えたのに。きっと彼女が終始、『美人役を演じているつもり』だからかもしれない。要は、美人だと思っていなければ、もっと砕けた演技になって、カジュアルさが出て見た目も気にならないのだが、この容姿で、成りきっているのがヘプバーンであれば、こちらには違和感が残る。

悪口を言うつもりなどないのだが、彼女からはいつもそういう気配を感じてしまうのが正直なところだ。だが、役者としての実力は見事で、世界三大映画祭(カンヌ、ヴェルリン、ヴェネツィア)のすべての女優賞を受賞した女優として名をはせている。王道美女の役を演じられるのは一握りしかいない。女性なら皆がその役を演じたいと願うのが本音だが、いち早く自分の役割に気づいた人が、大成するのかもしれない。

別に、美女以上に儲ける人や、名を売る人、心が優しい人は大勢いるからだ。また、メグライアンやニコールキッドマンほどの美女が、後年になって手を出してしまった整形は、醜い。


名探偵コナンの灰原哀はルパンと共演した時、峰不二子にこう言った。

『女が若さにとらわれたら、終わりなんじゃない?峰不二子さん。』


不二子は、薬で若々しい姿になるのだと言って、『若さと美』への執着を見せたのだ。その姿に美を感じなかった灰原哀の一言であった。美しい容姿というだけで大役を任され、大金持ちになってアメリカンドリームを掴む。そういう現実が存在するのだろう。だが、彼女のような女優は例えば『ブリジット・ジョーンズの日記』のレネーゼルウィガーのように、自分にしかできない役割に徹すれば、もっと大化けするかもしれない。

例えば、モーガンフリーマンはどうだ。彼も主演で、まるでデンゼルワシントンかのようにワイルドな役を演じることもあった。だが、彼に合っているのは『重要なカギを握る粋な賢人』だ。二兎を追う者は一兎をも得ず。この映画の内容には関係ないが、彼女の容姿とキャリアを無責任な第三者目線から見て、そう考えるのであった。

『妹の恋人』

何だか聞きなれないリズムの音楽がこの世界の独特な歪みを演出しているのかと思いきや、話自体はシリアス。あくまでもそれがあってのジョニー・デップの不思議なキャラクターなのだ。そして最後も平凡なシーンで終わる。だが、我々は最後にこの音楽、そして彼らのことがとても好きになっていて、別れるのが惜しくなっているのだ。

『海がきこえる』

映画ではなくスペシャルアニメ作品かもしれないが、スタジオジブリの作った一つの映画として捉えている。この映画は、高知市のなまりもあるし、10代の男女の支離滅裂で特に深い意味のないいくつもの言動に、作品全体の意図がぼやけがちになるが、『それら』をすべて理解したうえで、多くの経験を積んだ人が(こういうことは、全然ある)という観点で観ることができれば、一切の癖が削ぎ落され、中にある純粋な物語に目を向けられるようになる。

私の若い友達は、この映画がなんだかよくわからなかったと感じたらしいが、それはただ経験が少ないからだ。青春時代とは、もともと支離滅裂なのだ。そして、人の心は移ろいやすく、だからこそそれが確固たるものであったときに感じる感動が、ひとしおなのである。

『王妃マルゴ』

三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『王妃マルゴ』を映画化したもの。といっても、ルターの宗教改革の後のヨーロッパ、フランスで、カトリックとプロテスタントらが衝突し、凄惨なサン・バルテルミの虐殺が行われる話が軸になることを考えると、あながち単なるフィクションというよりは、歴史映画である。同時代、この1600年頃のイギリスには、エリザベス女王がいたが、フランスでは王妃マルゴがいた。しかし、『処女王』と言われたエリザベスと違って、彼女は自由奔放だった。それだからこそ、毛色が全く違う物語になっていて、多様性があって面白い。

彼女が結婚したのがアンリ4世。彼らは離婚し、アンリ4世がその後に結婚したのが大富豪一族のメディチ家出身であるマリー・ド・メディシス。メディチ家はレオナルド・ダヴィンチなどの芸術活動を支援したことでも有名である。つまりメディチ家は、イタリア・フィレンツェの名門だ。そしてその彼女とアンリ4世の子供がルイ13世。ルイ13世と言えば同じくアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『三銃士』の時代の王である。

更にその次の映画に『仮面の男』というレオナルド・ディカプリオ主演の作品があるが、それもデュマの『ダルタニャン物語』がベースである。その時代はルイ14世の時代だ。つまりデュマは、

  1. アンリ4世
  2. ルイ13世
  3. ルイ14世

というフランスの時代を全て作品化しているわけである。

『大いなる遺産』

イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの長編小説を映画化。イーサンホークがイケメン的な役割を演じて、まるで彼の今後がディカプリオやブラッドピットのように華やかなものになるかのようにメイン軸として起用される。確かにその可能性がありそうだ。そして重要な役どころをやるロバートデニーロの存在感。圧倒的である。彼の存在がこの映画の奥行きを一層深いものにしている。また、キーマンとなるこのイラストでも見ることができる老婦人の役を演じるアン・バンクロフトだが、彼女のこともいくつか知っておくとより面白くなるだろう。

彼女はまず『奇跡の人(1962年)』であのヘレン・ケラーの恩師である熱血女性を熱演。これだけで彼女に向ける目が変わるわけだ。あの壮絶な『教育』は見るものを圧倒させる。それが実話なのだからもっとすごい。更に、『愛と喝采の日々(1977年)』で彼女が演じたのはバレエダンサーだ。この2つの名作を最低でも知っておけば、彼女の怪演ぶりに拍車がかかることになる。

謎の金持ちの老婦人と美女。その2つの要素はそれだけでミステリアスであり、この話を複雑にさせる。そしてそこにデニーロが演じる謎の男が加わるわけだ。彼らの存在感が絶妙に物語をこんがらがせ、無知で純粋な『孤児』である田舎少年の人生を翻弄する。これらの要素が一つでも欠けたら、この物語が成立しなさそうな気もする。その意味で、これは名作だ。映画化されるに相応しい見応えのある物語。

『踊る大捜査線』

『Moon light』。この音楽が流れるシーンは、抑え込まれ、鬱勃とした人間の勇気が燃え、爆発するシーン。命の躍動を感じることが出来るシーンだ。純粋な気持ちでドラマをすべて見た人だけが感じることができる感動が、この曲にはある。

か行

『カラー・オブ・ハート』

白黒映画というのは抵抗があるものだが、意外と観ていくとすぐに慣れて気にならなくなる。だが、かといって白黒映画がすべて面白いわけではないので、今回もどう転ぶかが一つの鍵となる。

例えば、同じトビーマグワイアの『さらば、ベルリン』は、豪華キャストの割には内容が渋すぎるため名作とは言えない出来だった。『アーティスト』や『シンドラーのリスト』は名作になったが、白黒になるならそれ相応の理由がなければならず、ベルリンの場合はその理由がそこまで大きくなかったため、首をかしげる結果となった。

戦中だからというシンドラー。サイレントからトーキー映画に代わる時代を描くアーティスト。では、今回はどうか。50年代の白黒テレビドラマ『プレザントヴィル』に夢中のオタク気質の青年を演じるトビーマグワイアが主演のこの映画は、無理なく白黒の世界観をうまく映画の中で演出できていると言えるだろう。

犯罪も無ければドラッグも不倫もセックスもないテレビの世界。この『純粋な世界』というのがまた、哲学的なテーマを含んでいてよかった。要は、この世界も最初はこういう純粋な世界だったわけだ。そして殺人が起き、結婚というルールができたことによって、不倫という概念が生まれる。

その意味でこの映画はまるで『青い珊瑚礁』とか『ブルーラグーン』を観ているような感覚を得られる教訓性がある作品と言える。

人間に『それら』は本当に必要なのか。私などは常々そうした究極のテーマを考えている人間だから、ディカプリオ製作の映画『THE11hour』による主張が、人一倍身に染みたわけだ。これらを通して考えると、『ネオン』や『化粧』、そして『映画』も含めたこうしたエンターテインメントさえも、人間界に必要なのかどうか首をかしげることになる。

確かに、カラフルな世界は華やかだ。そうじゃなければつまらない。だが、彼が憧れた世界は『白黒』であり、彼にとってはそれでも十分華やかだった。

この世界に『色』は必要?それとも。

『カリートの道』

原題“Carlito’s Way”はフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」にちなんでつけられたが、劇中に「マイ・ウェイ」は一回も使われていない。1990年の映画『グッドフェローズ』でも、当初はフランク・シナトラのバージョンが使用される予定だったが、シナトラに断られたためシド・ヴィシャスのバージョンが代わりに使われた。

この『マイ・ウェイ』は人の心を掴む名曲で、一度聴いたら忘れないインパクトを持っている。だがそれは同時に、世界中の様々な多様性を正当化するために『援用』されるリスクがあることを意味している。

シナトラがマフィア映画の主題歌に使われるのが嫌だったかどうかは分からないが、『自分の道』というのは、要はマフィアやヤクザでも言える言葉なわけだ。

『これが自分が決めた道だ!俺はその為に生き、死ぬと決めている!』

と叫べば、それが正当化されてしまう。銃を乱射する事件が海外では頻発しているが、ある時は『派手に終わらせてやるよ!』とメモを書き残し、本当に銃を乱射して無実の人を大勢殺した後、自殺した者もいる。そんな時、『これが俺のマイウェイだ!』と言われでもしたら、シナトラももちろん、激昂するだろう。

だが今回のカリートのように、劇中で使われないならマシだ。決して公に認められないし、未来永劫非公式で、非常識な人生。だが、人には人の分だけ生きた環境があり、事情がある。

その道を歩くことしかできなかった、すぐに世を去る運命を背負った若い命もある。

この映画は、アル・パチーノとショーン・ペンという実力派の名優が繰り広げる、儚く、脆い、哀愁の男の物語である。アルパチーノはもちろんのこと、ショーン・ペンの引っ掻き回しがすごい。こういう役を見事に演じ切る人がいる場合、往々にしてその作品は名作になる。

『カリフォルニア』

この規模の映画は超大作になることがあるが、B級にも腐るほどあるので、まずこれがどっちに該当するかが疑われる。また、ドウェイン・ジョンソンはいつかの年で最も稼いだ俳優となったが、彼自身仕事を選ばずに、というか体当たり的にというか、どんな映画にも出ている印象なので、それも不安要素の一つだった。

結果は、中々面白かった。規模が大げさに見えて、案外あり得るかもしれない絶妙な天災事件を描いていて、教訓もある様に見えた。『2012』のように、主人公の家族がうまくいっていない、という不安定な状況もひとつのスパイスかもしれない。

『ギター弾きの恋』

1930年代、ジャズ全盛期のシカゴ。ジプシージャズの天才ギタリストのエメット・レイを描いた実話である。・・と見せかけてそういう人物はいない。それは調べるまで分からなかったからつい実話だと思って観てしまっていた。実際にこういう人がいたのかと。ウディ・アレンの映画というのはやはり好き嫌いが分かれる。基本的に、あまり日本人の性質とは合わないかもしれない。往々にして彼の映画では性的な要素をユニークに描くが、海外ではそういうことがジョークで住んでも、奥ゆかしい性質を持つ日本人からすると『破廉恥』であり、美しくはない。

少し前の日本人は着物を着て、男は外で稼いで女は家を守った。それはもちろんもう時代遅れだが、日本で古くから蔓延しているこの文化と性質が完全に『入れ替わる』までまだまだ時間がかかる。あと100年もすればだいぶ変わるだろうが、まだウディ・アレンの描く大っぴらな世界は日本人とは合わないだろう。合う人もいるというくらいだ。

『キルトに綴る愛』

年齢が比較的高いので、『熟女の恋愛話』のような方向に傾いてしまうと、範囲が狭くなってしまう。ウィノナ・ライダーが若さの鍵だが、彼女だけが目立つ映画ではない。だが、この映画の最後に全てを覆すセリフが用いられる。この先はネタバレが嫌な人は見ない方がいい。

『キルトは組み合わせが鍵。組み合わせが正しいと、美しさが高められて作品が映える。ルールな何もない。心の声に従い勇気を持つことだ』

なぜキルトが出てくるのか、なぜこのタイトルかがわからなかったが、これはこういうことを伝えたい映画だったのだ。美しいメッセージである。

『ギルバート・グレイプ』

ジョニー・デップとディカプリオが出演するだけで貴重な作品。それだけに内容はこれくらい平凡な家庭をピックアップしてもいい。だが、この家族は確かにマフィアやヒーローではないが、平凡とも言い切れないようだ。知的障害がある弟。夫の死のショックで200㎏の肥満体系になった母。ギルバートはそんな『平凡で異常な世界』の中で、自分が大切にしたいものを必死に守り抜こうとする。

過激すぎる内容ということでもない。地球の危機が描かれるわけでもない。だが、見終わった後、そこに流れる音楽に包み込まれながら我々は、この作品との別れを惜しむことになる。

『キング・オブ・ハーレー』

日本人はパンチパーマや極短二グロやスキンヘッドで、鬼剃りを入れて眉を剃り、特攻服に三段シートで単車をふかしまくって暴走するのが『暴走族』で、バンダナを巻いて髭を生やし、どでかいカラダでハーレーに乗るバイク集団というのはほぼいない。

だからハーレーにファイヤーパターンで、大酒を食らってというアメリカの『暴走族』はなじみがないのだが、まああまりやっていることは大差ない。アメリカの土地の方が広大で、日本は狭い都市なので走り方も暴走パターンも違うが、とにかくアウトローな連中なわけだ。そこに潜入捜査として潜り込むというのだから、そういうテーマが好きな人にはうってつけの映画だ。

『クイズ・ショウ』

1950年代に実在したNBCの人気テレビ番組『21(トウェンティワン)』をめぐるスキャンダルを映画化。を、ロバート・レッドフォードが監督して映画化。まあ登場人物が賢いのなんの。何でも知ってるクイズ王に、ピューリッツァー賞詩人の父を持つ博学の大学講師ハーバード大学を首席で卒業する捜査官。彼らのやり取りを見ているだけで何とも言えない爽快感がある。

映画を観て知識で置いてかれることはあまりなく、『キュリー夫人』や『インターステラー』、『いまを生きる』など、高度な専門知識が飛び交う作品か、インテリ系の作品のいくつかにそれがあるくらいだ。そう考えると、この類まれな天才たちの頭脳戦は三谷幸喜が『古畑任三郎』のモデルとして使ったこともうなづける話である。この映画ではそこまで頭脳戦に軸を置いていないためスリリングさはないが、古畑の場合はもろに『頭脳VS頭脳』を見ることができるから、エンタメとしてもとても見応えがある。

『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』

天才の人生というのは見ていて面白い。常識的な人生に退屈さを覚える人は、天才の才能がある。もちろん、変人の可能性もある。私が見出した言葉に

『結果を出さない変わり者は『変人』と言われ、結果を出した変わり者は『天才』と言われる。』

というものがある。天才というのはそれでいてごく一握りだ。ただ列からはみ出すだけではだめなのである。

そんな彼もまた、悪友たちと『はみ出し者』としての刹那的な人生を送る日々を過ごしていた。この映画の見どころは、ノーベル賞の数学版、フィールズ賞受賞者でマサチューセッツ工科大学数学科教授の教授が出した、数学の超難問を軽々と解答してしまうレベルの天才の生きざまと、その天才の生き方、そしてその人生の『密度』だ。彼は天才だ。だが、人間だ。それは映画の最後の最後まで目を離さなければ、見えてくる哀愁である。

『グッドナイト・ムーン』

『グッドナイトムーン』のタイトルは狙いすぎていて逆効果なのではないか。原題の「Stepmom」とは「継母、義母」という意味の英語だから、そのまま『ステップママ』や、あるいは英語で『Stepmom』で良かった。その方が映画と直接リンクした内容だから、無意味な混乱が生まれない。

どうしても映画のタイトル回収をどこで行うかということを考えてしまうものだ。意味不明なタイトルであればなおのことそうで、それを途中で回収する時にある種の小さな面白味を感じるが、しかしこういう風に最後まで(なんでこのタイトルだったのか)という要素があると、内容の邪魔をするからやめたほうがいい。今、調べれば出てくるかもしれないが、wikipediaに載っていないならもうそれ以上調べる気にならない。

さて、そうして文句を言う理由はあって、この映画はとても良い映画なのだ。主演の二人が製作総指揮に回っていることもあるのか、『彼女たちのようにして生きる女性』の姿を、真剣に描いてくれている。シリアスで複雑な話だし、いがみ合うシーンも多いはずなのに、最後には心が温まってしまう。そういう良い映画なのだ。だからこそ、タイトルで機会損失を起こしてほしくない。

『ケープ・フィアー』

やはり映画は地上波で観るべきではない。午後ローで観た時のこの映画は、なんだか全体的に中途半端で、テレビのサスペンスか何かを見ているような印象だった。だが、ノーカット版で観ると全然違う。この映画の核は、まさにそのカットされてしまった彼の狂気にあるのである。一番怖い人間は、感情をコントロールしながら凶行を淡々と成し遂げられる人間だ。

『ゴースト・オブ・ミシシッピー』

1963年に起きた公民権運動家メドガー・エヴァーズ射殺事件。それは、当時を生きるアメリカ人にとってはあまりにも大きな事件だった。『ヘルプ ~心がつなぐストーリー』でも彼の死のシーンが、そして今回の映画ではまさに彼の遺族が主人公として描かれる。ミシシッピというのは『ミシシッピバーニング』という映画もあり、それも実話だが、アメリカの南部にある。

アメリカの『東部の南部』にあることがわかる。アメリカは『西部開拓史』という映画があり、西部劇としてカウボーイハットを被ったカウボーイたちが、荒野で活躍する話は有名だ。例えばバックトゥザフューチャー3でもこの時代にタイムスリップしてしまったドクを追いかける物語が展開されるが、この時もそうだ。ドクが戻ったのが1885年。つまり、まだつい最近まで西部というのは荒野だった。そしてあのリンカーンが奴隷解放宣言を出し、

『1863年1月1日に、アメリカ連合国各州の奴隷はその日以降永久に解放される』

と言ったのがその時期だから、ドクがまだ荒野そのものである西部の時代に行ったとき、すでに奴隷解放宣言は出されていた。つまり、あの頃の西部はまだ頭部と違って『荒野』であり、『これから開拓していく場所』だったのである。ハリウッドなどがある有名なロサンゼルスも、この時はまだ未発展の地。スペインやメキシコが関与していたりと、アメリカの顔としては成立していなかった。そして、南北戦争があったのはそのリンカーンのいた時代だ。

北部の経済は、産業資本家による商工業が中心で、

  • 保護貿易
  • 連邦主義(集権)
  • 共和党支持
  • 奴隷制反対

という体制があり、南部の経済は、大農園主によるプランテーションが中心で、

  • 自由貿易
  • 州権主義(分権)
  • 民主党支持
  • 奴隷制維持

という体制があった。こうして見るだけでも、南北で支持する政党から何から、全く考え方が違うことがわかるわけだ。

北部の人『奴隷は解放して労働力にしようや!』

南部の人『馬鹿野郎!奴隷がいなくなるのは考えられねえよ!』

南北戦争で北部が勝利するも、実際にはその後150年以上経った今でも、南部では強くその人種差別的な発想が根付いているのである。とりわけ、この1960年代というのは黒人の風当たりが強かった。それは黒人がこの時代に強く主張したからでもあった。

  1. メドガーエヴァース
  2. マルコムX
  3. キング牧師

を筆頭に、モハメドアリら有名な黒人代表者たちが声を上げ、そして弾圧されてきた。上に挙げた3名は全員暗殺されてしまっている。今回の映画のタイトルは、主人公である地方検事ボビー・デローターの娘クレアの部屋に出るという幽霊と、アメリカ合衆国南部に根強く残る“人種偏見”を亡霊に喩えたもの。彼は遺族と共に、30年以上経った1990年代に真犯人を追求。果たして、この国で南部の人々の考え方を改めさせ、この歴史的問題を有罪にすることができるだろうか。

『ゴールデンボーイ』

スティーブン・キング原作、かつ名作『マイ・フレンド・フォーエバー』で主演を務めたブラッド・レンフロということで俄然期待が高まる。また、彼の演技もここで評価されていて、問題人物役のイアン・マッケランの持つ不気味さも相まって、スティーブンキング劇場は、確かに醸し出される。ただ、私に『名作だ』と言わせるほどのものではなかった。だから皆も、そこまで期待をあまり大きく持たないようにして見れば、十分サスペンスの一つとして楽しめるだろう。

また、これは今調べたのだが、原作ではもっと過激なエンディングになっている。これを観た私は、

(これは確かに映像化に問題があるが、これなら確かにスティーブンキングの実力を思い知る映画になっただろう)

と思った。以前、午後ローで『ケープ・フィアー』を観た時、(よくわからない映画だな)として流したのだが、カットされていないものを動画で見ると、デニーロが演じる男の狂気が伝わり、面白かったということがあった。つまり、割愛され、カットされたところにその映画の肝があったのだ。この映画にも同じような気配を感じる。

『コップランド』

警察というものは国家権力である。だから自分を鍛えていない人間はその大きすぎる権利に自らを乗っ取られ、我を見失い、越権行為に走ることがある。弱い人間ほど『自分以外の力』でその足りない部分を補おうとするのだ。だがその上着は、諸刃の剣である。一見すると防御力が高いが、その特権を乱用すれば最後、自らの命を蝕んでいく。

たとえ地味で大人しく見えても、真実に観て、真実に生きようとする人間には、それらの光景が歪んで見える。経済学の巨人と言われたガルブレイスは、1636年のチューリップ狂の経験以来、 何も変わらないある法則を見極め、こう言っていた。著書『バブルの物語』にはこうある。

『個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりこになる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受け止め方によって守られている。』

そこにあるのは『幻想』だ。だが、それに気が付けるのは、表層に作られた幻に支配されない、真の人間である。

『コレクター』

モーガン・フリーマンは『賢者の老人』のイメージがあり、重要な場面に登場して、節々に主人公に重大な助言をする役目が多いのだが、今回のようにガッツリと主役で、しかもデンゼル・ワシントンのようにワイルドさが押し出されている映像は貴重である。

『黒人だから』と言っては悪いが、しかし黒人だとカラフルな洋服が似合ったり、筋肉が美しく見えたりすることは事実としてある。だから彼もその特徴的にワイルドな役柄は遠くないのだが、しかし、後の『ハマり役』だけを知っている世代からすれば違和感を覚えるだろう。これもいいが、ハマり役の彼は、もっとハマっているのである。

さて作品だが、中々面白い。たくさん映画を観ている私でも楽しめるようなからくりが用意されているので、こういう映画に出逢った時は嬉しい。

『コン・エアー』

特に名作中の名作として大勢に伝えたい作品ということではないが、B級でもないし、退屈でもない。『こういう映画があっていい』ということで、それだけの理由で『観るべき映画』としてカテゴライズできる力を持った映画である。

特に今から25年前の1997年の時代であれば、『ワイルド・スピードシリーズ』のようなイメージでスリリングな映画として大勢に受けただろう。よく考えればいつの日からか映画館でこういう単発系のスリリング映画がなくなっていき、ワイスピのような爆発的ヒット作のシリーズばかり並ぶようになった。

別に不満は無いが、もっと面白い映画に出あいたいため、そろそろ違う展開があってもいいだろう。

『顔のない天使』

メルギブソンが初監督をするということで、どこかに粗がある可能性を考えながら鑑賞するが、中々いい映画だった。ただ、原題は『The Man Without a Face』であり、『天使』の要素が入っていないので、邦題のマッチング率はずば抜けて高くはない。

確かに、彼の存在は浮世離れしていて、大きく空く時間を考えれば(あれはなんだったのか)という、おぼろげな記憶になり、しかし、確かに自分の人生にとって重大な時間だった、ということで、その時間をくれた人、のことを『天使』としているかもしれないが、私なら『師匠』の方がしっくりくる。だから例えば、そのまま『顔のない男』か、『僕の師匠は顔がない』とかいう方が近い。『失われた顔』でもいいが、とにかく『天使』だけはやめた方が良かった。

『天使のくれた時間』というニコラスケイジの名作があるが、あの場合は本当に天使が登場するし、子供を『エンジェル』と言うのは何も不自然ではない。どちらにせよ、いい映画なのに大ヒットとはいかなかったのには、どこかに何かの理由がある。宣伝や供給などの裏事情も当然あるが、いい映画だけに、テコ入れすべきところを探してしまうのである。

もし『顔のない男』だけだった場合、彼が軸となって動くこの映画に何も違和感はなかったが、『天使』としてしまったことで、その人の『天使性』を探してしまい、無駄な労力を割いてしまったり、無駄に幻滅してしまうことがあるので、キャッチ―なタイトルだが、邦題は微妙と言える。

『菊次郎の夏』

『Summer』。この曲を聴いたら、もう夏がそこにある。菊次郎と少年の、儚く、切なく、そして尊い物語だ。最後の隅田川のシーンを観ると、浅草に住み、そこをジョギングしていたことを思い出す。なんと言ったって、この変なおじさんは最後まで名前を言わない。一体誰なんだこの人は。なんだか変だし、でも、何となく信頼できる人だ。ひと夏を過ごして、ひと夏が終わって、お別れの時が来ると、名前を聞くことができた。すると、心に残ったのはある種の寂しさだった。

『虚栄のかがり火』

トムハンクスとブルースウィリスという二大俳優が揃っている割には、爆発力のない映画である。この二人に、モーガンフリーマンが脇を固めれば期待値は俄然上がってしまうが、興行的にも赤字で失敗した作品だったようだ。

『蜘蛛女』

何だかよく分からない映画だった。何か一つでも感想を書くようにしているのだが、観た直後に書いているのではないことを言い訳に、今回は何も思い出せないとしておこう。

『訣別の街』

観ても観なくてもどっちでもいいような、記憶に残らない映画だ。映画を片っ端から見ていくとこういう映画にも出会ってしまう。だが、それで人に『本当に面白い映画』を勧められるようになるから悪いことではない。

『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』
  • リヴァー・フェニックス
  • キアヌ・リーブス

の共演が見られる貴重な映画だ。彼らは親友だった。そして、今調べるまで(まあ、こういう映画もあるか・・)程度にしか思っていなかったのだが、1984年にペンシルベニア州アレンタウンで実際に起こった、浮気性の夫を殺そうとした妻の殺人未遂事件を基にしている作品だという。

それを知っていたらもっと楽しめた。もちろんフィクション要素が入っているだろうが、とにかく実話という要素が入るだけで価値に雲泥の差が出る。

例えばエリザベス女王を描いた『エリザベス』であっても、フィクションや演出要素が盛りだくさんとなっている。また、スコットランドの独立のために戦った実在の人物ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた『ブレイブハート』も、史実との相違で文句を言う人が多い。

だが、あれらの映画は映画として最高のクオリティだった。『完全に信じてしまう』ような盲信癖がある人には毒なのかもしれないが、普通、それくらいは想定できるものである。完全実話ならニュースやドキュメントの類を見ればいいだけだ。

この映画においても、さすがにあの無敵男に関してはフィクションだろうが、最後の着地などは(こういう風にしたかったのか)と、実話という要素がなくても中々面白い角度でまとまったので、見応えは確かにあった。

『恋におちたシェイクスピア』

とにかくこのシェイクスピアという男が世界に与えた影響は大きい。芝居・演劇に関わる人は皆口々に彼の作品を称賛し、作品に携わろうものなら恍惚とした表情をしてみせ、悦に入る。だが、正直彼の表現を聞いて『美しい』と感じるのはそう多くはない。関係者たちは皆そう口をそろえるのだが、私はディカプリオの『ロミオとジュリエット』を観た時、何を言っているのか全然わからなかった。私はとても論理的で読解力がある方なのだが、それでもだめだ。

ということは、彼は『芸術家』であるという一つの可能性が見えてくる。ピカソはこう言い、

『芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である。』

あるいはこう言っている。

『誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。』

私が得意とするのは『真理の論理的な解読』。宇宙や医学なんかの細部を理解するような最高難易度はまだ無理だろうが、大体の難しい話はわかる。そんな私がチンプンカンプンというのだから、そこにあるのは『理解の範疇を超えているもの』となる。それはつまり、芸術なのだ。

私は徹底して『現実逃避』を嫌い、曖昧なものを盲信することに恥を覚える現実主義者だが、芸術というものは、我々の人生にそうした『窮屈な現実以外の世界』を教えてくれる、パラレルワールドへの入り口なのかもしれない。作中にも登場するエリザベス女王が演劇を好んだのは、彼女のような立場の人間が強いられた『窮屈な現実』の世界の影響があったのかもしれない。

この話は、彼をスターダムに押し上げた『ロミオとジュリエット』の誕生秘話を切り取ったものである。現実は演劇のようにはいかない。だが、せめて演劇(芸術)の世界では、自分が美しいと感じる世界に生きたい。彼の芸術を観ていると、そういう心の叫びが聞こえてくるようである。

『恋におぼれて』

メグライアンはこの手の恋愛映画、恋愛こじらせ映画をやらせたらピカイチで、彼女のキャリアが不倫や整形で終わってしまったことがただただ悔やまれる。不思議なことに、彼女が出ていてこういうテーマなら、たとえ何度もトムハンクスと共演していても、何度も似たようなテーマでも、飽きずに見ることができる。それだけ彼女は人間的な魅力を持った役者だったのだろう。

さ行

『ザ・インターネット』

1995年に、インターネットの世界はまだこういうレベルだった。それが分かるだけでも貴重な映画である。『ユーガットメール』もそうだが、その時はそれが最先端で、『これで映画を撮ろう!』となった、当時の人たちの息遣いも聞こえてくるようである。

それはまるで、現在の我々が『AI』に関する様々なことを想像するのと同じだ。自動運転車や検索エンジンなど、AIを使った技術は確実にこの世界に根を張ってきているが、『この技術の追求の延長線上には、こういうことがある』とか、『これが世界に普及するとこういうリスクがある』といった不安要素は未知の領域であり、かつて人々が神話を自由に発想したように、そう物語を作るにはうってつけの素材なのだ。

フロッピーディスクも今では存在すら知らない人もいるだろう。カセットテープも、ビデオテープも、MDも過去の遺物だ。だが、確かに存在していて、それはまるで『2001年宇宙の旅』の人工知能を備えたCPU『HAL』のように、何か別次元でこの世界に生きているかのような妄想すら煽られる。

この映画ではそうした『AIの暴走』的な方向にはいかないが、インターネットの世界にある、ある種の無限の可能性が、この映画の価値を引き上げている。

『ザ・エージェント』

人間が利益を追うのは当然である。なぜならこの世界にはお金が存在し、そのお金の有無で人が死んだり、命を救えたりする。つまり、利益には人生がかかっている。そしてその人生とは往々にして個人だけではなく、その人の周囲の親密な人たちがすべて含まれるのである。ルソーの著書『人間不平等起源論』の文中にはこうある。

「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」

ルソーは、『この社会制度自体に問題がある』と意見し、その『周囲の人々』を『足枷』と考えた。確かに、ローンや養育費、食費や教育費など、ありとあらゆる自分以外の存在の支払いの為に隷属状態が発生する場合、その考え方も一理あるものとなる。

別役実は言った。

『エゴイズムでない人間は、精子の段階で消滅する。』

社会制度がなくても、お金がなくても、命のエネルギーの単位で考えると更に我々は自分本位である。だから人間が利益を追うのは当然である。それは、すべての人間、いや生物の本能に植えついている、生きるエネルギーなのである。

だが、それを人間の世界で忠実に追い続けると、どうも違和感を覚える人生となってしまう。妙だ。その他の生命にはない。皆、自分の利益を追って一生を生きるはずだ。それなのに、なぜか『道が逸れた』ような気がするのだ。それは一体なぜだろうか。

では、彼のケースで見てみよう。彼がその野心的な人生の途中で見つけた『見落としてはならない決定的な事実』とは一体なにか。

『ザ・シークレット・サービス』

ケネディ大統領が暗殺された。これは本当のことだ。1960年代のあめりかは、本当に色々なことがあった。暗殺されたのはJ・F・ケネディだけではない。弟のロバートまでそうだった。そして、黒人代表であるキング牧師、マルコムX、メドガーエヴァース、彼らも皆暗殺されたのだ。この国をけん引するのは容易ではない。夢と混沌に溢れた国、それがこのアメリカ合衆国なのである。

そんなアメリカなら、様々な人間が息をする。主人公のフランクは、長年シークレットサービスとして務めたが、ケネディ暗殺を止められなかった。しかし、人間が前を向いて生きるためには、一度『後ろ』を向き、決着をつけなければならない時がある。彼はもう一度シークレットサービスという仕事と向き合う決意をした。

『ザ・ハリケーン』

この映画の主人公ルービン・カーターは11歳のとき、白人男性の時計を盗んだとして、州の少年院に送られる。数年後、カーターは少年院を脱走し軍隊に入隊。これだけでも映画が一本できる。だが、彼が一味違うのは、そこから更に波乱に満ちた人生を送ったことだ。二度に渡りヨーロッパのライトウェルター級チャンピオンとなる。そしてリングネームを『ハリケーン』とし、ルービン・ハリケーン・カーターを名乗るようになった。

だが、やはり1960年代のアメリカ。黒人として生まれたハリケーンは、アメリカの根幹にあるその根深い黒人差別に苦しめられる。1966年6月17日、ルービン・カーターは、ニュージャージー州で3人の白人を銃で撃ち殺したとして逮捕された。これが『ルービン・カーター事件』である。だが、凶器もない。証言者も妙だ。しかし陪審員は全員が白人であり、時代の波も手伝ってカーターは有罪とされ、終身刑に服する事となった。

黒人の公民権運動家の代表格メドガー・エヴァースが暗殺されたのが1963年、マルコムXが暗殺されたのが1965年、キング牧師が暗殺されたのが1968年、60年代は影響力のある黒人たちがこぞって狙われ迫害された。ジョン・F・ケネディもその弟のロバート・ケネディも暗殺された。それが60年代のアメリカという国だ。

果たして、ハリケーンはこの理不尽な状況かつ、終身刑の絶体絶命となった窮地を乗り越えられるのだろうか。

『ザ・ファーム』

トムクルーズの圧倒的な華に、ジーンハックマンとエドハリスといった重鎮たちが脇を固め、2時間半の長時間をかけるから物語は濃厚なものになっている。トム・クルーズではないが、テレビドラマ版でこの10年後の続編が展開されることからも、物語のつくりがしっりしていることがわかる。だが、今のトム・クルーズはもうあまりこういう映画には出演しないだろう。

『ザ・ファン』

狂気でしかない。デニーロが『ケープ・フィアー』で魅せたじわじわあふれ出す狂気と、『カジノ』で魅せた理路整然的に、虎視眈々と自分の立てた計画を進めていく冷静な狂気。そして『タクシードライバー』で魅せた観客を混乱させる信じられた正義。それらで積み上げた圧倒的な実力が、このストーカーだかフーリガンだか、とにかく何らかの一線を越えた『熱狂的なファン』のおやじの奥行きを深くしている。

そしてそれはただ、デニーロという役者だから感じるある種の錯覚ではない。本当にこのキャラクターが、『ただのファンではない』のだ。そして同時に『ただの狂人』でもない。本当に彼自体に、奥行きがあるのだ。その奥行きが、この映画を単なる野球映画やホラー映画の類に留めない。この男は一体どういう男だったのか。我々は最後、自問することになるだろう。

『サバイビング・ピカソ』

パブロ・ピカソの生涯を彼とその妻、愛人たちとの遍歴、特にピカソと彼の最も愛した女性フランソワーズ・ジローを中心に描いた作品で、ピカソの生涯をアンソニーホプキンスという名優を通して観れるのは贅沢以外になにものでもない。

アリアーナ・S・ハフィントンの「ピカソ 偽りの伝説」(高橋早苗訳、草思社、1991、原題は「ピカソ 創造者にして破壊者」)を下敷きにしているというが、ピカソ自身がこう言っている。

『いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。』

またこうも言っている。

『誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。』

それであれば、その『芸術』という『非常識』な概念をイメージしながら、彼の生涯を観たいわけだ。ルソーやマルクスが言うように人は元々平等だったし、お金や結婚、仕事といったあらゆる社会制度や仕組みの中でどんどん『不自由』になっていった。その『非常識な常識』という枠組みにとらわれず、もう一つの世界線に目を向けるのが芸術であれば、いささか彼の人生は『偽り』とは言えないだろう。

ホプキンスがお茶目なピカソを描いていて、個人的にはホプキンス史上最も可愛い姿を観ることができた。

『ジーア/悲劇のスーパーモデル』

尾崎豊、hide、シド・ヴィシャス、ジェームズ・ディーン。伝説の人の寿命は、皆短い。だが、『太かった』。1980年代に活躍し、若干27歳でこの世を去ったアメリカのスーパーモデルジア・キャランジ。彼女の場合はどうか。薬に負けて、虚しい人生に走るか。それとも尊い人生にできるか。

『ジェロニモ』

1886年、アメリカ大陸にいた先住民たちは、ついにこの地へ引っ越してきたイギリス人やフランス人たちによって淘汰されつつあった。その後、そこに多くのイギリス人たちが軸となって『アメリカ合衆国』ができ、フランス人の多くは上に行って『カナダ』を作った。総じて彼らは『白人』であり、先住民は『インディアン』と呼ばれた。それは、コロンブスが1500年頃にこの大陸をインドと間違えたことが原因だった。

1000年近く続いたインディアンの文化が、『明白な天命』という白人の自分勝手な都合によって滅ぼされていく。インカ帝国、アステカ王国、マヤ文明、そして数多くの部族に分かれたインディアン。最後まで抵抗した『ジェロニモ』と呼ばれたアパッチ族のインディアンは、この時代の変化に従う道を選ぶが、そこに残ったのは絶滅危惧種がこの世界から消えるときの様子に似た、言葉にならない哀愁だった。

『ジキル&ハイド』

名優が揃うから駄作扱いにはならないが、『ジキルとハイド』という要素はもっと面白おかしく描写できるような期待があり、それを上回らない。『ザザ・マミー/呪われた砂漠の王女』でもラッセルクロウがそれを演じたが、あれも急にああなって面白かった。

そういう風に、(あ、これジキルとハイドじゃん)とか、そういう隠し要素的な感じで急に浮かび上がれば変身しただけで楽しいが、最初にタイトルで大きく展開すると、名前負けしてしまうきらいがある。

『シザーハンズ』

あまりにも奇抜で痛々しいその様相を初めて見たのはまだ10歳前後だったが、その時の私の視野も心も狭く、これを受けつけなかった。あれから長い時間が経ち、今現在も別にこのような奇天烈な要素は無縁である。それは、ヘビメタの世界が私といつまでも無縁なのと同じだ。だが、この映画はそんなことはわかっているのである。彼が異質な存在だということはわかっているのだ。

そして、異質だからこそ覚える独特の哀愁がある。我々は彼を通し、あの町人たちのように、その存在を無価値で拒絶する対象だと解釈することはできない。決して。

『シティ・オブ・エンジェル』

『ベルリン・天使の詩』の大幅なリメイクというが、その元の映画もこの映画も、両方とも楽しんでは観ていられない結果に終わった。元の方は途中で見るのをやめているし、こっちの方もメグライアンとニコラスケイジが全盛期の時代なのに、あまり心には響かなかった。『心に響くはず』という演出だからそのギャップに逆に引いてしまうのだろうか。まず、元映画も、ニコラスケイジも、『天使』を演じるにはあまり相応しくないように見える。

そう言うとジョントラボルタの『マイケル』もそうなのだが、あの場合逆に開き直るかのように思いっきり羽を付けていたり、無理に人間離れをした感じを出していないから、それが逆に受け入れやすい。『ドラゴンボール』では神様も界王様も出てくるが、あれはもちろん漫画だから受け入れやすいということもあるが、妙に人間とは違う様には描かず、ただ容姿だけが違うというところにとどまっている。

漫画と違って現実は、サイズも肌の色も変えられないので難しいところだが、天使という存在が必ずしも今回のニコラスのようにぼーっとはしていないかもしれない中で、色々とそれを受け入れるのは難しいのかもしれない。だからもし、これが漫画であって、もう少し天使の描写が違うならよかったのかもしれない。

『シビル・アクション』

1980年代にマサチューセッツ州で起きた環境汚染に対する損害賠償訴訟に関わった弁護士ジャン・シュリクマンの物語。拝金主義者の弁護士は、相変わらず目の前にある仕事から多額の報酬を得ようとしていた。利益が得られないなら仕事はしない。金儲けをするために弁護士になったのだ。彼の生きざまからはそういう考え方がにじみ出ている。しかし、ある事件を受け、彼の考え方に変化が現れる。そして、彼は自分の生き方を改め、正義の道を歩くようになる。だが、そうなるとそうなるで、金がなくなって自分の会社で悲鳴声が聞こえる。果たして人は、この人生をどう生きるべきなのか。

『ジム・キャリーはMr.ダマー』

1994年に公開されたジムキャリーのコメディ映画で、本作と同年に公開された『エース・ベンチュラ』『マスク』の3作で1994年のゴールデンラズベリー賞にノミネートされたというが、そうなればラズベリー賞というのも、その存在自体がコメディだ。

真剣にやってそれを貰えば嫌だが、この場合ならむしろ勲章だろう。何も考えずに観る映画があってもいい。逆に言うと、1995年のMTVムービー・アワードではキャリーが最優秀コメディパフォーマンス賞を受賞している。元々、真剣に見る映画ではないのだ。

ただし注意があって、『2』は見ない方がいいかもしれない。あくまでも1は、彼らが若いから面白いシーンがたくさんある。20年経った2014年の作品では、実際にキャリーらが年老いてしまっているので、ギャグのセンスはそこまで落ちていないかもしれないが、『高齢でそのセリフはまずい』というシーンが盛りだくさん。ただし、この作品だけならとても面白いと言っていいだろう。

『ジャッカル』

謎の殺し屋にブルース・ウィリス、元IRAのスナイパーにリチャード・ギア、そしてそれらまとめるためのFBI役に『招かれざる客』のシドニー・ポワチエが出演しているというだけで、一つの見応えである。

個人的にはリチャードギアが、あまりハリウッド俳優とがっつり組んでハードな映画を撮っている印象がないので、彼の活躍にも期待できる。また、ブルースウィリスは1997年のこの時、まだまだ脂の乗った重鎮だから、ヒットマンを演じるには十分だ。シドニーポワチエはいるだけで迫力がある。

彼は黒人俳優としての先駆者的存在のひとりで、男優としては初めてアカデミー主演男優賞を受賞。2009年には大統領自由勲章を受章した。アメリカ映画にはよく『初の黒人なんたら』という映画があるが、それを言うなら彼も映画になるべく優れていて険しい道を生きた勇者と言える。

彼のような役者が、この映画の最後を作るのにふさわしい。例えば、『マンオブスティール』のケビンコスナーのように、『カサブランカ』のハンフリーボガートに味方したルノー署長のように、法律や道徳を超えた粋な人間の主体性を、この映画でも見ることができる。

衝突する暗殺者はどちらも名優であり、役の中でも重鎮レベルだ。どちらが勝つかが最後まで分からない。ニコラスケイジとジョントラボルタの『フェイスオフ』を称賛する人がいるのを見たが、あれと比べるならこちらの方が遥かに見応えがある。あれはただ『トップ俳優が共演した』だけにしか見えない。こういう見ごたえのある映画をたくさん観たい。

『ジュラシック・パークシリーズ』

ジュラシック・パーク

世界中に圧倒的な人気を誇るこの映画。今、人気投票をしてもかなりの強敵を打ち破って上位に君臨するほどの実力だ。この映画にはとても深い言葉が出てくる。それはイアン・マルコム博士の言葉で、思い出せないのだが、真理に関する非常に重要な言葉だ。子供の頃はもちろん聞き流してしまっていた。だが、そろそろワーキャーと騒ぐ向こう側に行きたい人は、その点に留意してもう一度この映画を観てみよう。

ジュラシック・ワールド

3D映画、あるいは4D映画で観るのがいい。そうすれば、この映画の実力が最大限に発揮される。4D映画との相性が抜群の映画だった。ジュラシックパークを観たことがある人は、ある種の感慨深さも覚えるだろう。

『ジョー、満月の島へ行く』

メグ・ライアンが1人3役をこなし、『トム&メグ』のコンビ、かつスピルバーグが製作総指揮にいるから期待するが、ハードルを上げ過ぎるとがっかりするような内容の映画である。フィクションが過ぎる火山の描写と、『満月』というタイトルと彼の身に起こる内容との不一致さが、この映画に混沌をもたらせ秩序が失われている。

『ジングル・オール・ザ・ウェイ』

いい。内容がほとんどなく、プレゼントを何とか手に入れるってだけの話で、90分だし、何もかもがカジュアル。それでいて、クリスマスソングがたくさんBGMとして流れるから、家族でクリスマス会してるときに、これを流しておけば温かいムードが作れる。シュワちゃんが目をガン開きにしておもちゃをガチで奪い合うのだから、笑い死に必死。クリスマス映画を『ホーム・アローン』の独壇場にさせてはならない!

『ストーリー・オブ・ラブ』

90分程度の映画で、売り上げもギリギリ黒字となると内容に期待できないが、そこはトップ二人の演技力で見事にカバーしている。ブルースウィリスとミシェルファイファーのタレント力がものを言っている映画と言えるだろう。

元々『おとなのけんか』のように、夫婦のいざこざだからそれを作品にする為には、演技力がある俳優じゃないと務まらない。色々な感情を表現できないと、観ている側がそこにエンタメを感じることなどできないからだ。

『おとなのけんか』はジョディフォスターやケイトウィンスレットらの超演技派が集まって、ただひたすら狭い空間でいがみ合って、演技だけで作品を完成させないといけなかった。派手なCGも壮大な音楽もないわけだ。

そういう意味で、今回も表現が難しい。だがそれと違ってシーンが色々切り替わるので、それだけでそれよりは有利だ。だがそうなると逆にごまかしがきくから、演技に甘えが出る可能性がある。

だがそこは言った通り、この二人に限ってそういうことは起きていないように見える。むしろその様々なシーンで、そのシーンに適切な演技ができているから、観ている方も自然と彼らの『夫婦喧嘩』に見入ってしまうわけだ。

そしてこの映画の素晴らしいところは、最後のシーンだ。恐らく大勢の人が途中まで、ある種の失望を抱いてこの映画に付き合うだろう。だが、最後の最後まで待つのだ。そこですべてがわかる。私はこういう映画がとても好きである。こういう、最後のシーンのような行動に出られる人は、ごく稀である。

『スペシャリスト~自覚なき殺戮者~』

ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 へのユダヤ人大量移送に関わったナチス・ドイツの重要人物、アドルフ・アイヒマンに関する既存の映像アーカイブを編集して構成されている。実際の裁判の様子を軸にして、彼という人間を俯瞰的に考察するドキュメンタリー映画である。何しろ彼は、600万人というユダヤ人を大量虐殺する『許可』を出した人物で、言うなれば

アイヒマンが600万人のユダヤ人を殺した

とも言えるわけだ。もちろんヒトラーが総統でいて、ということなのだが、一つの見解はそうだ。彼が許可を出さなければそうはならなかった。もちろんそれは、彼以外にも多くの人間が関わったあの当時、

(誰かが反対しなかったのか?抗わなかったのか?)

という事実が存在するのだが、ここではアイヒマンにフィーチャーしているということである。だからアイヒマンの映画として、『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』というものがあるが、この映画が現実に『なぜアイヒマンは極悪非道のことをしてしまったのか?』、そして、『では、彼じゃなかったらそうはしなかったのか?』ということについて追及したある実験について描いている。

いわゆる、ミルグラム実験(アイヒマン実験)である。この実験の結果は世界に衝撃を与える一方、実験が非倫理的であることを理由にしたミルグラムへの批判も相次いだ。だが、私はこの映画を映画ジャンルランキングの『教訓編』のトップ(当時)に位置付けた。とてつもない教訓が秘められた話になっている。

また、トムクルーズの『ワルキューレ』のように抗った者なら大勢いた。ヒトラーはワルキューレで描かれた事例以外にも、実に多くの『暗殺未遂』を経験している人物である。だからその他の話は他に用意されているが、今回は『東京裁判』のように一つの『戦争資料』として遺されていると見た方がいい。

『スリー・キングス』

この作品と同時に同監督によるイラク戦争のドキュメンタリー映画『Soldier’s Pay』の再DVDリリースが予定されていたが、作品の政治性が高いことで、それは中止されたという。だが、この映画なら大丈夫だということだ。ドキュメンタリー映画と違ってエンタメ性を求められる映画でメッセージを伝えるためには、『ド派手なエンターテインメントの裏に存在する確かで危険な事実』という状態にしてパック詰めしなければならない。ユダヤ教の創始者を描いた『エクソダス神と王』も、当人たちから批判を受けた。何かを描くときは偏っていてはいけないのである。偏ると、もう一方の方向にいる人達が必ず批判してくる。その意見の相違での興奮が沸点を迎えた時に起こるのがテロや戦争である。

例えばキリスト教徒が9割のアメリカで、アメリカ人がイスラム教の創始者ムハンマドを『いじって』暴言を吐き、彼の尊厳を著しく侮辱する行為をyoutubeに上げると、イスラム過激派が激怒。現地にいたアメリカの要人が殺される事態に発展してしまった。この映画は監督が反戦意識の高い人間であることから、そのような事態が起きたわけだ。1990年頃にあった湾岸戦争。そして、DVDの時は2003年にあったイラク戦争に対する反戦行為として、この映画の再上映と、ドキュメンタリー映画のレンタルの動きがあったのである。

この映画の表面に浮かばせるエンタメ性はこうだ。捕虜から得た謎の地図をフセインの隠した金塊の在り処だという事を解読し、軍の指揮下を離れ、無断でそれを強奪することを計画し、実行する。こういう『お宝ゲット』の表層であれば、CMも打ちやすく幅広い人に訴求しやすい。ポップコーンとコーラを片手に、友人や恋人と上映ギリギリまで『映画以外の話』をヘラヘラ笑いながらするような人たちにも届くはずだ。

湾岸戦争は、オイルの安定の為に介入した?イラク戦争は、大量破壊兵器があると言ったけど本当はなかった?かつて、ベトナム戦争介入の端緒となった『トンキン湾事件』もアメリカの捏造だった。これがアメリカだ。だが逆に、彼らが死守して成り立つこの世界の近郊は、彼らが転落したのち、一体どうなってしまうのだろうか。

ヨーロッパの覇権の推移

STEP
アッシリア

紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。

STEP
アケメネス朝ペルシャ

紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。

STEP
アルゲアス朝マケドニア王国

紀元前330~紀元前148年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。

STEP
ローマ帝国

紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。

STEP
モンゴル帝国

1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。

STEP
オスマン帝国

1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。

STEP
スペイン帝国

1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。

STEP
オランダ

1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。

STEP
イギリス

1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。

STEP


そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。


17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国

STEP
フランス

1800年前後。ナポレオンがヨーロッパで暴れまわるが、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ退位。

STEP
イギリス

1830~1900年頃。ヴィクトリア女王の時代に『大英帝国』黄金期を迎える(パクス・ブリタニカ)。

STEP
ドイツ帝国

1870年頃~1918年。ドイツ帝国率いる『三国同盟』とロシア率いる『三国協商』の『第一次世界大戦』が勃発。

STEP
三国協商

1918~1938年頃。ナチス・ドイツが現れる前はまだこの連合国が力を持っていた。

STEP
連合軍

1945年~。特にアメリカ・ソ連。『第二次世界大戦』に勝った連合国は、引き続き国際的な力を保持。

STEP
アメリカ

1990年頃~。ソ連が崩壊し、アメリカ一強(パクス・アメリカーナ)の時代へ。


次に来るのは『ロシア』と『中国』の可能性があるとも言われている。アメリカの国力に陰りが見え始め、それを好機と見たロシアを筆頭とした水面下で力を蓄えていた勢力は、台頭し始めるだろう。アメリカ一強(パクス・アメリカーナ)の時代が終わった時、世界はどう変わるのか。我々は、彼ら世界のトップがこうも躍起になってしがみつく地位の脆弱さを傍観しながら、次の未来を見る。いや、ほとんどの人はそうではなく、ただ現在を生きるだけにとどまっているだろう。

『スリーピー・ホロウ』

アメリカ合衆国北部のニューヨーク近郊で語り継がれている『スリーピーホロウの伝説』。首なし騎士に追われる恐ろしい言い伝えである。最初からその噂や歴史を知っている人ならなお入り込めただろう。開拓時代にアメリカに渡ってきたドイツ人という設定もリアルである。歴史を知る人や、アメリカに住みその土地にまつわる逸話を知っている人からすれば、肝を冷やす興味深いシナリオである。

『スワロウテイル』

CHARAのあのYEN TOWN BANDの曲が好きだったので、いつかは観て見たいと思っていた。実際には共感しきれない世界観が広がり、大した映画ではなかったが、人生のやるべきことリストが一つ減って嬉しい。だが、この曲がヒットした時に見た人たちは良いと思ったのだから、当時の人たちへの敬意も忘れないようにしたい。

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

自分の内面に目を向けるのは誰もが避けることだ。精神未熟であればあるほどそういうことになる。外に目を向け、刹那を誤魔化す要素を探し、快楽や、あるいは何も考えずに済むことに打ち込んでとにかく目を逸らす。それが楽だからだ。人間は、本質的に楽ができる方向へと無意識に進んでしまうものなのである。

それはある場面では知恵となる。しかし、往々にしてはいけない。それを基本軸にしてはいけないのだ。やるべきことがあるということ。自分の心の目を向けることは、何よりも重要なのである。オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの実体験を基に作られた、チベットでの貴重な数年間の冒険。そこで彼は、若きダライ・ラマ14世と出会った。私は彼の言葉で好きなものがあったが、彼は、少年時代から人格者だったようだ。

『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』

軍人時代の怪我で視力を失った男をアルパチーノが演じる。彼は視力こそないが、直感は鋭く、自信に満ち溢れているように見えた。だが、彼は『盲目』だった。その意味はもちろん、映画で観て確認したいことだ。彼と一緒に行動するのは少年だ。普通の高校生。そりゃあ悩みも抱えている。誰もが皆そうだ。だから男は彼の為に人生の先輩として教えられることがたくさんある。少年にとっては一時的なアルバイトのつもりの付き合いだったが、次第に彼が人生の師に値する何かを持っていると感じるようになる。

だが言ったように彼は盲目だ。一体どういうことなのか。先行きが見えないで不安でいるのは、途中まで少年の方だと思い込んでいた。言葉は、火と同じである。人を暖めもするし、火傷を負わせることもできる。目が見えない彼にとっての言葉とは、健常者のそれよりも遥かに深く心に突き刺さり、そして逆にその闇を照らしてくれる火の暖かさは、誰よりもしみじみと実感することができる。

『寒さにふるえた者ほど太陽を暖かく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。』

少年が彼にできることはなにか。男が少年にできることはなにか。偶然出会った二人の男たちが、本音で向き合い、支え合い、在るべき人間の姿を確信する。

『三銃士』

三銃士は何度も何度も映画化されているが、今回は1993年版である。そして、他の作品と何が違うかというと、大筋はやはり同じである。そう考えると、『知っていて当たり前』ということで、これがどれほどの名作かが分かるのだが、同時にこの作品をこれ以上のものに昇華させるためには、『仮面の男』のような新しい切り口が必要になる。

ただ、原作の『ダルタニャン物語』では、20年後、30年後についても描かれているので、話を壊すわけではないのだ。第一部があまりにも有名であり、人間が注目するのは往々にして若い人間が活躍する時期だから、第二部以降の知名度は低い。傑作『仮面の男』を観る前に、最低限押さえておく基礎として、彼らの雄姿を見ておきたい。

『始皇帝暗殺』

紀元前221年、荊軻(けいか)という伝説の殺し屋が、あの始皇帝を暗殺して欲しいと依頼される。これは実話である。下記に画像を載せよう。


秦王政(左)を襲撃する荊軻(右)


始皇帝というのは圧倒的な存在感がある。『キングダム』で演じられる『政』は愚直で大儀ある青年風に描かれるが、歴史書で調べるとえぐい。その暴虐ぶりで何人の人を殺しているか分からない。そして、そうであるからこそこういう『暗殺』のような話が浮かび上がるのだ。では、その暗殺は成功するのか。

『真実の行方』

このような展開の映画は好きなので、名作として挙げることができる。超一級作品には並ばない。だが数ある映画の中でこれは十分見応えのある映画で、この映画でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞 映画部門 助演男優賞を受賞したエドワードノートンだけじゃなく、主演のリチャードギアもいぶし銀の活躍をしてくれている。

エドワードノートンは実力が確実にあるので、いずれ『ファイト・クラブ』や『ハルク』以上の超名作の主演を務めそうだ。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でも彼の評価はすこぶるよかった。

同じ系統の映画が多くなる傾向にあるが、それは『~といったら彼しかいないだろう』として、キャスティングされる風潮があるからだろう。彼はこの映画が映画デビュー作となった。

リチャード・ギアは何も受賞してないしエドワード・ノートンの実力は目立つが、しかしそれは彼のような人間がいたからこそのものだろう。北野武は、タモリのことを『白米のような人だ』と言っていて、『誰に出も合わせられるし、誰と共演してもご飯になる』という彼の特徴を話していたが、リチャードギアがごく普通のいぶし銀の活躍をするからこそ、という事実を理解したい。

『HACHI 約束の犬』も『シャルウィダンス』も、普通の男だからこそそこに馴染みと共感性があり、安心できて心が温まる。『キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け』も、こういうどこにでもいそうな思い上がった男がどうなってしまうのかと、観客の心をつかむのだし、 『顔のないスパイ』もそうしたエッセンスがあるからこそ成り立ったのだ。

『真夜中のサバナ』

イーストウッド作品で、名優が揃い、150分もあるからまるで名作のように見えるが、退屈な時間だった。興行的にも赤字で終わっているが、内容もその通りのものでしかなかった。90分にして余計なところを全部省けば面白くなったかもしれない。

『推定無罪』

明らかに間違いで自分に落ち度はないのに、『違うところ』で落ち度があり、それが原因で身動きが取れなくなって大きな力のなすがままになってしまう経験が、私にもある。今の私は自由だが、その時代は私はサラリーマンで、私は常に誰かに強いられていたわけだ。強いられていたと感じていた。感じるような人間だった。だからさぼったり、居眠りしたり、仕事と偽って映画館で丸々映画一本見に行ったりしたこともある。それで解放された気分になり、自由を感じていたのだ。私は組織に向いていなかったのである。

今回の例で言えば、私の場合は『さぼっていた』。その時、仕事をさぼっていたので、その間にいるはずもない場所にいたので、その件を公にできなかった。私はある事件に巻き込まれたのである。

殺人事件ほどではないが、一歩間違えれば人も大勢死んでいただろう。自動車事故が関係するからだ。私は立ち回り次第で『ある男』から10万円ほど取ることができたようだが、別にその金を貰ったところで人生が変わるわけでもない。

それ以上に、自分が『そこにいてはいけなかった』ので、黙っておくしかなかった。先輩たちと遊びに出かけようとしていたのである。その場所で変質者の凶行に巻き込まれ、やり方によってはニュースになるような事件が起きてしまったのだ。

だが、被害者の私が訴えなかったことにより、何もないことになった。こういう風に、明らかに間違いで自分に落ち度はないのに、『違うところ』で落ち度があり、それが原因で身動きが取れなくなって大きな力のなすがままになってしまう経験が、私にもあるのだ。では、この男の場合はどうだろうか。

『聖なる嘘つき/その名はジェイコブ』

時は第二次世界大戦中のポーランド。ナチスの占領下であり、ユダヤ人居住区「ゲットー」に住んでいる元パン職人のジェイコブが戦場に生きる人々にかすかな希望の光を照らす。だが、その照らした光は過大評価される。長い間闇だった場所に光が照らされれば誰もが『神の救いが来た』と思うだろう。その闇の深さが深いほどそうなる。だが同時に、光が人間に生きる希望を見出すことも事実だ。いくつかの例を見てみよう。

『ストックデールの逆説』とは、壮絶な拷問生活を耐え抜いたアメリカの将軍、ストックデールが、その地獄のような経験をしている最中、抱いていた『希望』と『絶望』の両面のことを言う。ストックデールは、最悪の拷問生活の中、『最後には絶対に釈放されて、平穏な暮らしを取り戻している自分』と、『今よりももっと劣悪な状況に陥った自分』の、両面を想像していた。この時なぜ彼が『希望だけ』を想像しなかったかというと、檻の中にいる仲間たちが、

きっとクリスマスには出られる

きっと次の復活祭や年末年始には釈放される

といった根拠のない期待を抱き、見事にその期待を裏切られつづけて衰弱死したことから、『最初からそういう根拠のない淡い期待を持つのではなく、そうあることもあるだろうし、そうなることもあるだろう』という決定的な現実にだけ目を向ければ、期待は永遠に裏切られないわけだ。『いつかは出られる』のだから、その可能性だけを強く意識することにより、中で自決したり、衰弱死するリスクから逃れることができるのである。

また、ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルのの著書、『夜と霧』にはこうある。

収容所の芸術

ともあれ、時には演芸会のようなものが開かれることがあった。居住棟が一棟、とりあえず片付けられて、気のベンチが運び込まれ、あるいはこしらえられて、演目が案配される。夕方には、収容所でいい待遇を受けている連中、たとえばカポーや、所外労働のために外に出ていかなくてもいい所内労働者が集まってくる。いっとき笑い、あるいは泣いて、いっとき何かを忘れる為に。

(中略)実際、こうしたことは有用なのだ。きわめて有用なので、特別待遇とは縁のないふつうの被収容者のなかにも、日中の疲れもいとわずに収容者演芸会にやってくる者がいた。それと引き換えに、その日のスープにありつけなくなってさえ。

『根拠のない淡い期待を持つ』ことは危険である。だがそれも含めた希望とは、人間に生きる喜びと生き抜く力を与える。このような話を知っていれば、ジェイコブがやった行動、そしてこの話が何回層も深くなることを知るだろう。

『戦火の勇気』

戦場でどう立ち振る舞うかは、その人間の人となりが出る。土壇場だ。いざという時にどういう態度を取るか。普段いくら口が達者で、筋骨隆々でも、そこでできなきゃ意味がない。ヘミングウェイは言った。

『勇気とは、窮しても品位を失わないことだ。』

では、彼女が取った行動は?それとも、彼女以外に鍵を握る人間がいるのか。

『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』

妙なシナリオの映画で、名優ロバート・デュバルの数多い出演作品で唯一(実際は2つ)wikipediaにページがない小規模な世界の話なのだが、なぜか哀愁があって無下にできない。この年でも人は一生懸命生きているという事実を、名優たちがその優れた演技で教えてくれているからだ。

た行

『タイカップ』

大リーグの名打者タイ・カップの真実の姿を、彼の伝記を書くために雇われたスポーツ記者アル・スタンプの目を通して描いた作品。野球にほとんど興味がない私に『面白い』と思わせる映画で、ほとんど野球の描写がないのが特徴だ。

彼はアメリカ野球殿堂入りの第1号選手の一人である。1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打ち、通算打率.367で首位打者を12回獲得するなど数々のMLB記録を保持している。

「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも言われた、かなり型破りで破天荒な人間で、まさに映画になる男なのだ。

そうなったのには理由がある。彼には壮絶な過去があるのだ。両親の間に、普通では考えられないような大事件が起きている。だが、結果的にそうした型破りな破天荒さが、かれを偉人の地位にまで引き上げているという事実が、中々教訓性の高い話である。

『ダイヤルM』

1954年公開の『ダイヤルMを廻せ!』のリメイク作品で、あの時代の女優四天王グレース・ケリーの名作の一つだ。だが、当時の映画は必ずしも現代人に通用しない。『その時代の熱』だけで勝負しているものもあるから、熱が冷めた70年後の今、引いてしまうところがある。

その意味で、同じ四天王のヘプバーンというのはすごい。『ティファニーで朝食を』や『ローマの休日』は今観ても感情を揺り動かすし、その他の映画でも難しいミュージカルや盲目の人の演技をするなどして、他の女優からも模範にされるほどである。

グレース・ケリーはすぐに引退してモナコ王妃になったが、彼女も中々の役者だ。『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』を観れば分かるが、彼女もヘプバーンに負けない信念の人だったということがわかる。その中で『ダイヤルMを廻せ!』というのはサスペンスとして中々面白かった。やはり色々な個所で古さは見えるが、その時代にしてはよくやっていると思わせるだけのクオリティが揃っている。

では今回のリメイクはそれを超えられるか。結果は、面白い。

リメイクとは思えないほどのレベルアップした緊張感と臨場感を、マイケル・ダグラスが作りだしている。彼はこういう雰囲気を作るプロだ。『フォーリングダウン』でも『ウォール街(ストリート)』でも『ゲーム』でも『ブラック・レイン』でも、彼の迫真の演技は光っている。

その意味で、54年の映画ではグレースケリーの名前が一番上に来ているが、今回はマイケルダグラスの名前が一番上に来ている。彼にはデンゼルワシントンと似たような、気迫、威厳、狡猾さ、狂気を感じる。あのカーク・ダグラスの血を引いているのは伊達じゃない。

『チャーリー』

伝説の映画俳優チャーリー・チャップリンの一生を描いた伝記映画。1993年のこの映画で、ロバートダウニーJr.は第46回英国アカデミー賞では主演男優賞を受賞し、スターとしての基礎を固めた。

髭の生えたダンディな彼だけを知る人は、まず彼に対して『おぼっちゃん』のような印象を覚えるはずだが、実際にそれは的を射ているかもしれない。色々な意味で彼は『子供らしさ』を持っている人だった。

その子供らしさが少し度を超しているようにも見え、引いてしまう人もいるだろう。だが、登場人物のほとんどが実際の人物で、やはり映画俳優のアイコンのような存在の彼の伝記映画だから、見応えは十分だ。映画好きなら必ず観ておきたい作品である。

サイレントからトーキーに代わった理由や時代の変化など、映画の歴史も学ぶことができる。

『ディープ・インパクト』

公開が2か月しか違わないアルマゲドンとほぼ内容が同じになったのは、当時のアメリカ映画の制作現場の不都合の関係らしい。しかしとにかくパクリではない。そしてどちらにせよ、二つの作品を見ればわかるが、二つの映画はまるで違うものである。そして二つとも同様に、心に響く映画だ。逆に考えると、同じシナリオにたどり着いた人間のその『最終的な発想』が興味深い。

『デイズ・オブ・サンダー』

私は全くレースなどに興味がないのでこの手の映画も後回しになってしまった。だが『ラッシュ』や『フォードフェラーリ』などを実際に観るとそれは単なる食わず嫌いだと理解する。実は、ボクシング経験があってもボクシングの試合を観るのも映画を観るのも抵抗がある。いくつもの経験を通して、それらの理由がすべて共通していることに気が付いた。

男は誰もが、この人生で命を使いきれるかどうかを念頭に置いている。私は8000の名言を内省したが、それで見えてきた男女の特徴に『男は階段を上ることに使命を覚え、女は踊り場でピクニックをすることに幸せを覚える』というものがある。それは脳科学を学んでみてもすべて合致した事実だ。男と女は『脳の形は同じ』でも『脳の使い方が違う』ことがわかっていて、それが男女の差異を生み出しているのである。

つまりこういうことだ。私がもしそれらを本当に軽視しているのであれば、流し見でも何でもして適当に構えればいい。だが、できないのだ。それは私が、男だからであり、男が命を賭けた戦いを観るのには、心構えがいるのである。

『ティンカップ』

数少ないゴルフ映画だから、ゴルフ好きにとっては嬉しい作品と言えるだろう。洋画は一流俳優を使って積極的に様々なスポーツ映画を撮るから、それぞれの趣向に合わせてどれか一つは好きな作品と出会えるかもしれない。

フットボールならデンゼルワシントンの『タイタンズを忘れない』や『僕はラジオ』。バスケットボールもデンゼルワシントンの『ラストゲーム』。野球ならデニーロの『ザ・ファン』やトム・クルーズの『ザ・エージェント』に、『プリティガール』や『メジャーリーグ』。

基本的にはスポーツ映画は、『何のスポーツを軸にして人間ドラマを展開するか』という基本で構成されていて、単なるそれだけの枠なら凡庸。そして、その枠を超えるドラマがある場合は名作となる。

『トイ・ストーリーシリーズ』

トイ・ストーリーは今回、単なる『4』じゃない。新境地を迎えることになる。『シュガー・ラッシュ:オンライン』の時にも感じたことだが、こういう流れができるのは、次代の流れだろうか。しかし、映画ファンとしてはとても新鮮で、見応えがある。そして『5』でどんな展開があるのかも、期待することができる。彼らの『ストーリー』は終わらない。きっと、この世に子供がいる限り、終わることはないのだ。

『トゥルー・クライム』

人種差別、死刑。そのほかにも銃や麻薬、戦争、遺伝子操作等々、この世界に人為的に作られたいくつかの存在は、どれも眉を動かさないわけにはいかない異様な存在である。だが、その異様さが常識とも思える非常識なこの世界に生きている我々は『麻痺』し、いつの間にかそれを日常の光景だと誤認してしまう。

だが、その異質な存在が確かに『異質』だと捉えることができる人間が、稀にいる。往々にしてそういう人の人生は非常識だが、だからこそ囚われない。人為的な汚れがない純粋な人間には、わかるのだ。そこにある景色が、異質だと。

『トゥルーナイト』

アーサー王の配下の“円卓の騎士”の長ランスロットとアーサー王妃グィネヴィアとの恋を中心に描き、アーサー王をショーン・コネリー、ランスロットをリチャード・ギアが演じている。2004年の『キング・アーサー』ではアーサーをクライヴ・オーウェンが、ランスロットをヨアングリフィスが演じていて、彼らの間にはあまり年齢差がない設定だが、今回の場合は30歳以上年齢が離れている設定だ。

ロン毛のリチャード・ギアは見たことがないので違和感があるが、特にチープな演技をしている印象はない。だが、重要な歴史を切り取った映画にも関わらず、歴史映画としても映画としてもあまり高い評価を得ていないようだ。私も長い間そう思い込んでいたから観なかったが、観たら案外観れる作品だ。史実を正確に把握することはできないのかもしれないが、当時の雰囲気をイメージするためにはいいのではないだろうか。

『トゥルーライズ』

アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる凄腕のスパイが、その身分を家族に隠しながらテロリストと戦う。シュワちゃんの映画はたくさんあるが、軍人ものが多く、案外こうした形でテロリストと戦う映画は少ない。私はこの映画を観て、自白剤を飲まされても動じず、『あえて自白する』ことで相手を油断させ、裏の裏をかくようなメンタルもフィジカルも強い鍛えられた男になりたいと考えたものである。

『ドク・ハリウッド』

地位、名声、財産。人間は往々にしてそこに向かってひた進む。そうした行為が世界で普遍的に一致している理由は、人間が『支配されているもの』があるからだ。例えば、『楽、得、安全』。マズローの5段階欲求で考えても、一番最初にまず自分自身の安全を確保する。命あっての物種だからだ。こういう風に、『まずはこれを確保しなければ話にならない』という、強い法則やエネルギーに支配されるのは、人間が生命だからだ。有限であり、その他の生命と等しく、儚い存在だからだ。

冒頭のものにしがみつく理由は、その強い力がまず根底にあり、『しかし、それがあれば何かが変わる』と信じる盲信からくる。いや、確かにソフトは変わっていく。住む場所、乗る車、食べる家。近寄ってくる人間関係に、人の態度、色々なソフトが変わってくる。だが、どんな人間もすぐに気が付くことになる。それは人間にとって本当に重要なのは、ハードだと。

『ドンファン』

かつて17世紀のスペインに、1,502人の女を虜にした伝説の人物ドン・ファンという男がいた。この男はそのドンファンの生まれ変わりか、あるいはその人物そのものであることを吹聴し、常識で考えて精神障害があると判断された。診断結果は人格障害である。だが、多重人格者や人格障害のキャラクターを見てきて何となく知っているように、彼らは『そのキャラクター』でいるとき、傍から見ると本当に違う人物であるように見える。言葉遣いも癖も変わって、人によって論理的だったり、無責任だったりする。

『スプリット』でジェームズマカヴォイが演じた男は、死に不安定になった母からの虐待を幼少期から受けた影響から、自身を守るために23の人格を持つ多重人格者となってしまった。そこでその詳細が観れるのだが、もしこれが『演技』だとしても、それができるのは相当な知識量のある天才だ。

こういう性格で性別がこうで、年齢がこれくらいであれば、このキャラはこう行動する

ということを理解していなければできない。今回の男は多重人格ではなく、ドンファンそのものだと思い込んでいる。したがって、挙げた男ほどの知識量は必要ない。ただ、女性や愛に関する知識だけあればいい。もしかすると自分が持つ知識のそれが、ドンファンの一生と酷似していたため、彼の中で性格がシンクロしてしまい、思い込みが加速してしまったのかもしれない。

だが、注目するべきなのは今出た『知識』である。この男を見たジャックという精神科医が、燃え尽き症候群だったことが運命のいたずらだった。彼はジャックの『心に空いた隙間』を埋めるだけの知識と情熱を持っていたのだ。それがこの物語を奇妙な展開へと発展させていく。

『追跡者』

ハリソンフォードの名作『逃亡者』のスピンオフ作品。そこに登場するトミーリージョーンズ演じるジェラード連邦保安官上級代理たちの目線で、あの世界の中をもう一度満喫することができる。私は前者しか知らなかったので何だかとても得をした気分だ。どうも『2』とか、『連続ドラマ』というよりもこういうかたちの方が気分が上がるらしい。スピンオフとしても十分見応えのある内容だった。今やトップスターのアイアンマンことロバートダウニーJr.も重要な役で出演する。

『鉄道員』

『ぽっぽや』というこの役職は、高倉健が相応しい。不器用で、仕事熱心で、責任感と正義感の強い古風な男。それは高倉健以外には想像ができない。華もなければならない。地味でそういう俳優は大勢いるが、華もあるとなると、一気に数が少なくなる。

確かにこのような男は時代遅れになるかもしれない。だが、往々にして『時代』というのは単なる一時代を切り取っただけにすぎず、例えば『Z世代』と呼ばれる2022年を生きる若い女性は、『Y2Kファッション』に夢中になったりする。『Y2Kファッション』とは、今から約20年前の2000年頃に流行したファッションの事。Y2Kとは「Year 2000」の略だ。

また、ある黒人youtuberが日本の尾崎紀世彦の歌を聴き、『こういう本物の歌をまた聴きたい』と言った。現在はヒットさせることに夢中になり、コモディティ化しているということを言いたいのである。『この人は本当に歌が好きで歌っている』と続ける彼。それはきっと、高倉健のような古風な男の演技にもにじみ出ているものだ。そう考えると彼のように媚びない男とは、時代の枠に収まらない、自由で誇り高い、生きざまなのかもしれない。

『天と地と』

切り取られた舞台としては日本の歴史の中でも極めて大きなイベントの一つだ。偉人や歴史のことをまとめて詳しく書いた参考書には、どの本にもこの戦いを数行のテキストで終わらせているが、戦国時代、天才的な軍略の才で越後国を統一し、甲斐国の武田信玄と名勝負を繰り広げた上杉謙信を描く。戦国時代というのは日本の歴史でも極めて大きな時代だ。622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、900年頃、この世界に『武士(侍)』という一種の思想を持った人間が登場した。

国司から荘園を守るために武装をはじめ、武装集団が結成される。そうして『自警団』的にこの世に登場した武装集団こそが武士だった。そして939年、平将門によってこの世界に大きく武士の名が轟く。そうして徐々に既存の大きな力に抗うように自然発生したエネルギーは、この国の根底に密かに根付いていった。

そうして1500年頃、蓄積されたエネルギーは爆発した。戦国時代である。その戦に勝ったのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という大本命のラインではあるが、それに匹敵する力として存在したのがこの上杉謙信と武田信玄の両者なのである。特に武田信玄の家臣団は異常に強く、『戦国最強』と言われた。もし13歳年上だった武田信玄という人物が信長と同い年で、彼が病に倒れることがなければ、彼は信長の最大の敵となっていたことは間違いないだろう。

だが、『軍神』と言われた上杉謙信も相当な実力者である。であるからして、両者が衝突した『川中島の戦い』はあまりにも注目度が高い。したがって、この映画にも俄然注目が集まるわけだ。

最初は、渡辺謙と松田優作というキャスティングだったようだが、病気などの都合でそれが叶わなかった。そしてこの二人に決まったのだが、それでもこの上杉役の榎木孝明という人物は、剣道に長けていて相当なやり手。津川雅彦の熟練の腕にも期待がかかるが、実際には残念な結果となった。いや、確かに演技に関しては申し分はない。だが、馬を使った合戦の様子がひどい。『キングダム』のCG問題もそうだが、このあたりが日本映画の限界というところである。

それだけの人物が衝突するのだから、馬を使っての彼らの戦闘シーンには、死闘が想像されるわけだ。だが実際に我々が目にするのは戦にも馬にも慣れないド素人のチャンバラごっこであり、そのクライマックスのシーン一つでこの作品の価値を著しく下げてしまっている。これが、『作中で読まれない手紙の中身まで書く』黒澤明の映画だったら、違う物になっていただろうか。

『天使にラブ・ソングを…』

何度も観ていたはずなのに、彼女がシスター『ではなかった』ということは知らなかった。最初からちょっと破天荒なシスターなのかと。私も無理矢理教会に通わされていたから随所にあるシーンがよくわかる。断固としていれば権威が保てるが、しすぎていると近づきがたくなり、多くの人が寄り付かなくなる。考えることが多い映画である。

『伝説の白い馬』

馬がメインの映画で、結構マニアックだ。wikipediaにも説明ページがない。ラッセルクロウが1990年にデビューし、その3年後の作品がこれとなるが、その1993年の映画はすべて詳細ページがないマニアックな作品となっている。

彼のキャリアをこうして見ると、1995年に『Nowayback』という豊悦と共演している映画に出ていて、私はただ『ラッセルクロウの無駄遣い』だととらえていたが、正直彼のキャリア自体が、1997年の『LAコンフィデンシャル』までほとんど微妙なものになっている。

そして1999年の『インサイダー』で頭角を現し、2000年の『グラディエーター』で完全に一流俳優の仲間入りをした。だが、この作品でも彼の演技はさほど変わっていないので、評価されるのが遅かったのかもしれない。

『逃亡者』

あまりにも理不尽な展開に巻き込まれる主人公の男。もし私がこの立場だったら、全員巻き添えにして爆弾で自爆するとか、そういう方法でその理不尽をリセットすることを考えるだろう。それくらいとんでもないことが彼の身に起きる。だから『逃亡』など、当然なのだ。彼の選択の場合、称賛に値するのだ。

『遠い空のむこうに』

原作は元NASA技術者のホーマー・ヒッカムによる1998年の回想録『October Sky』で、日本でいう中学三年生・高校一年生の英語の教科書にも載せられている。映画としてはあまり人に大声で勧めたいほどのレベルではないが、その歴史的価値は、冒頭で説明した通りである。

1957年10月ソ連から打ち上げられた人類初の人工衛星『スプートニク』。この名前は、この辺りの話をするとなれば必ず出てくる極めて重要な名前である。スプートニクが打ち上げられ、ソ連に負けじと彼らのようなアメリカ人が多く鼓舞された。そして例えば、『ファースト・マン』で見られるように、史上初めて月面を歩いた宇宙飛行士ニール・アームストロングのような人間が現れる。

この時代は冷戦のさなかということもあり、こうしてソ連とアメリカは色々な場面で競いあっていた。

な行

『ナイト・オン・ザ・プラネット』

ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを舞台に、タクシードライバーと乗客の人間模様を描いたオムニバス映画。オムニバス映画というのはこういう作品を言う。誰かが『バベル』に対する評価で(ヤフー映画)、『ただのオムニバス映画』と見下していたが、全く的を射てない内容の薄い感想であった。

確かに、オムニバスになると少し内容が薄まる傾向にある。『世にも奇妙な物語』のように、一つ一つの物語が分割されるので、2時間の枠をたっぷり使わないから、繋げて一つの物語にする『クラウドアトラス』のようなものでない限り、繋がれた短編映画を観ているような気分になるのだろう。

様々な場所、そして(Night on Earth)という原題で考えられるように、『タクシーと客』という共通点はあるが、『バベル』同様、世界各地で展開される様々な多様性に、面白味を感じることができれば楽しめる。だが、もしこれが『本当にあった世界の話』であればもっと楽しかったかもしれない。

『ニキータ』

フランスで活躍するスパイ。だが、活躍と言っても彼女は決して望んでスパイになろうとしたわけではなかった。リュック・ベッソンが『レオン』を生み出す前に世に打ち出した代表作である。女心をよく理解したストーリーであり、多くの女性が節々に共感を得られるだろう。だがその反面、彼女が生きた人生はとても数奇なものだった。

『ニクソン』

リチャード・ニクソン。彼ほどアメリカ史を騒がせた大統領はいない。確かにブッシュJr.は唯一パレードで卵を投げつけられた男だが、彼が『ポンコツ』ならこの男に相応しい揶揄たる言葉は『悪質』である。ベトナム戦争、ウォーターゲート事件。同じ時代にちょうど起きた公民権運動といった黒人差別の問題も、彼とは無縁ではないだろう。その意味で、確かにこの映画の主演を務めるのはアンソニー・ホプキンズしかいない。彼ほどの威厳ある俳優でなければバランスが取れない。それほど彼がしでかしたことというのは致命的なのである。

『大統領の陰謀』、『ザ・シークレットマン』、『J・エドガー』、『7月4日に生まれて』といった直接的に関係ある映画はもちろん、ベトナム戦争について悩んだ兵士たちの話を入れるなら、彼の時代に関する映画はあまりにも多い。アメリカ環境保護局(EPA)の設置、麻薬戦争を掲げた麻薬取締局 (DEA) の設置などの功績もあるが、全く色々な意味で、確かに映画のような人生を送った人間である。

また、調べると彼はあのウォルト・ディズニーなどから多くの支援を受けていたという事実が存在しているようだ。これは私の推論に過ぎないが、だとするとベトナム戦争を描いたキューブリックの名作『フルメタルジャケット』で、最後に兵士たちが不気味なまでに行進しながら歌う『ミッキーマウスマーチ』には、キューブリックによるニクソン政治への何らかのメッセージがあるのかもしれない。本人は『反戦映画ではない』と言っているらしいが。

『ニック・オブ・タイム』

タイトルの意味は、Nick =「刻み」や「溝」と解され、Nick of Time = (その瞬間の)時の刻み =「際どい時」という意味で、つまりこの映画の中の時間と実際の時間がほぼ同じく流れてゆくことを表している。だが、私がそれを知ったのは鑑賞後で、(そうだったんや・・)という印象。あまりそれを意識することはなかった。『24』のようにこれ見よがしに常に時間表示をしていればわかったが、特に時計が常に表示されるわけでもないのであまりそれは気にならないしわからなかった。

その意味で、これをタイトルに押し出すことを考えても『それがこの映画の売り』なのであれば、もう少しド派手にやらないといけないだろう。展開自体はスリリングで時間制限を意識する焦りも伝わるから、もっとメリハリをつけて強調すべきところを強調すればこの映画のプッシュポイントが際立ち、目立つ映画となったはずだ。

『ノイズ』

ジョニー・デップやシャーリーズセロンといった美男美女で、二人ともどこか表裏的な印象がある夫婦の為、まるで、心のないマネキンたちが人間ごっこを演じているかのような、ちょっとした虚無感がある。だが、映画を観て考えてみると『だからこそ』この二人が選ばれたのかもしれない。『仮面夫婦』のような印象を作る必要があるからだ。宇宙がらみで、一見するとマニアックなSF方向に見えるが、意外と映画としての演出が面白く、見ごたえのある映画だった。

『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』

日本の若者が出演していそうな展開だ。つまり10代のころ、お先真っ暗で不透明なあの頃、同じように刹那的な生き方をする人間や展開に興味を持った。『その後』やそこにある哲学などには興味はなく、ただ刹那的であればいい。それは自分たちの人生をリンクするからだ。ド派手に鳴り響くクラブミュージックや、流行のお笑いに言葉遣い。それらはすべて『その後』を無視してただ『今』を盛り上げるためにある。

一方大人はその逆で、建設的な人生に価値を見出す。それが自分ないし自分にまつわる家族等の人間関係の幸福に直結しているからということを知っているからであり、刹那的な人生は無知であることを既に悟っている。両者の違いは先行きのビジョンにある。伴侶も子供もいる人は、そのビジョンに成長した子供たちの姿などを観る。だがもう一方は、将来設計もそれを設計する意義も見いだせず、結果刹那的な人生になる。

彼らが生きている状況は確かに稀である。だが、『Hana-bi』と違ってそこに哀愁を覚えないのはなぜだろうか。それはただ彼らがド派手な花火を『急に』打ち上げるからだ。前者でたけしが演じる男は、そこにたどり着くまでに長い年月を経ている。中には『テルマルイーズの男版』という人もいるが、私はHana-biもテルマも両方とも大好きな映画だが、この映画にはそこまで興味をそそられない。

その理由は言った通りの『哀愁』だろう。ここでいう哀愁とは、その人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に感じる感慨であり、それを本当に感じるためには、ただ目の前で無鉄砲かつがむしゃらに暴れられただけでは難しい。やはり人間的な葛藤があり、本当は違う別の道も選択肢にあり、しかしやむを得ずそうするしかなく、だとしたら悔いなく散ろう、という万人を納得させるだけの流れがなければならない。

だから中には登場するマフィアのボスが格好いいと言う人もいるが、あのようなキャラクターも日本の若者向け漫画によく出てくる。リアルでなければならない。その2作では、たけしやテルマらを逃れられない決定的な現実が追い詰めていく。

例えば暴力団やマフィアの人生だって太く短いはずだ。だから彼らのような人生を正当化するとなると、『死に際に暴れるすべての人』を美化しなくてはならなくなる。ある時、海外の学校で銃の乱射事件が起き、犯人は自殺。置き手紙には、

派手に終わらせてやるよ

とあったという。これを聞いたとき、皆はどう思うだろうか。派手に終わらせればいいというわけではないのだ。だから私は、日本の若者が出演していそうな展開だと言った。往々にして日本の若者が出演する映画は世界規格ではない。そういう映画が世界でウケているのを見たことがあるだろうか。つまり私が言いたいのは、日本でも中国でも台湾でも、この映画のドイツでも、この手の映画はある一定の層に響く作品となるだろう。

だが、それを全世界に舞台を広げて展開した時に普遍的であるかどうかは、その作品の根幹にある深遠な哲学や普遍的な人間らしさがものを言う。哀愁、つまりその人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に惜しさを感じるためには、それだけ感情移入ができ、わずかな時間でも彼らと一心同体となっていなければならない。

大人になった今、『終わらせること』はその銃乱射事件の犯人同様我々だっていつだってできる中、しかしそうはしない。ここに人間たるゆえんがあり、挙げた2作にはそうした人間的な葛藤が垣間見えるのだ。10代のあの頃、私は彼らのように無責任で排他的な人生を送っていて、お先真っ暗だった。あの頃に見たなら、きっと自分たちの人生を応援して美化してくれる、芸術作品だっただろう。

だから私も10代のころ、意味もなく海にドライブをしに行ったものである。行って海を見て、すぐに帰ってくるだけだ。あの頃、ドライブをして自分が好きな音楽を車でかけて仲間といるだけで楽しかった。だから彼らの気持ちはわかる。そして、どちらにせよついついこうして文章が長くなってしまうほど考えさせられる映画だったようだ。

『ノッティングヒルの恋人』

イギリスはロンドン西部のノッティング・ヒル。そこを舞台にした映画だ。イギリスの映画には往々にしてヒュー・グラント、あるいはコリン・ファースが活躍する。英国が誇る2大スターだ。彼は超一流なのにコメディからシリアスまで幅広く演じる。だからこういう役柄を担っても視聴者側は何も違和感なくそれを見ることができる。例えば日本なら木村拓哉が、『何をやってもキムタクだ』と言われるだろう。本人もそれを気にしているようだが、彼が大事にしているものが『プライド』ではなく『見栄』だと気づけば、彼はそうは言われなくなる。

ある時、タモリと中居正広の特別番組で、キムタクが桐谷健太と腕相撲をする状況があった。生放送的(かそれに近い放送)で彼は明らかに桐谷健太に負けそうになったが、あろうことか肘を浮かせて体重を乗っけて無理に勝利を掴むという執着心を見せた。彼はきっと(キムタクは負けちゃいけない)として、ファンをガッカリさせないようにやっただろう。背負うものも大きい。だがそれは『見栄』であり、真にプライドがある人間とは、自分の弱さ、無知を認め、それを人にさらし、無知の知を理解して日々謙虚さを軸にしながら勉強、探究を積み重ねていく人間のことである。

それが分かれば、彼は次のステージに行くだろう。彼は私よりもうんとタレントとして才能がある。だが、こと人間のことに関して言えば、それを勉強した人間が一枚上手となる。ヒュー・グラントたち超一流も、少し情けないこの手の男を見事に演じ切ることが一流の俳優だと理解している。そういう背景が、この映画の価値を引き上げている。

好きになった女性が高嶺の花。そういう状況に直面した時、常々自分の情けなさを自覚している自信のない人間が取るべき行動とは、一体どういう行動だろうか。フランスの作家プレヴォは言った。

『女は自分の美点のために愛されることにときとして同意するが、常に好むのは、自分の欠点のために愛してくれる人のほうだ。』

『八月の狂詩曲』

何があるわけでもない日本の一家の日常なのだが、そういう時にこの吉岡秀隆という人物は強い。『北の国から』も『Always』でもそうだが、だからといってそこにドラマがないということは絶対にない、という説得力においてピカイチの男だ。

とりわけ、ことこの『長崎』という場所で描かれる『普通の日常』は決して、『普通』ではない。それは、映画『TOMORROW 明日』を観た後なら、理解できる話だ。

個人的には、ジーン・ハックマンというコワモテ俳優がこの役を熱望していたということが嬉しいし、リチャード・ギアもこの映画のセットを欲しがり、実際に念仏堂をアメリカの別荘に移築したという話も中々嬉しい。

『評決』

平和に貢献したくて警察になった。正義を守りたくて弁護士になった。人を救いたくて医者になった。だが、現実は違う。平和は永久に訪れないし、弁護士が守れない正義があり、医者が救えない命がある。何年も、何十年もそういうこの世の中で息をしていると、いつの間にか当初の夢や希望や信念は薄れてしまうものである。たとえ本人は忘れたつもりがなくても、忙しければどうだ。お金に追われればどうだ。

衣食住に国民の義務。この世界に完全に蔓延している社会制度と経済的事情は、この世界で生きる人々のそれを忘れさせる。『7つの習慣』にあるマトリックスで考えるとわかりやすい。

第一領域は、まるで『脅迫』だ。第三領域は、自分にとって本当に有意義だろうか。第四領域は、逆に言うとこれは『時間に支配されている』。それに反発しようとして、そこから逃げることで自由を得ている感覚になっているだけだ。

最も重要なのは『第二領域』である。『タイムリミット』、『緊急性』、つまり『時間』に支配されない唯一の過ごし方。『時間』と最良の向き合い方をする『第二領域』の人生。これが出来るかどうかが問われている。主体的にこれを意識をしなければ、大勢の人や時の流れといった大きな河の流れから、抜け出すことは出来ない。

さて、今回の主人公も第一領域に追われ、第二領域に目を向けることを忘れてしまっていたようだ。だが、このまま終わるのか。このまま人生を終えて本当にいいのか。かつて心底で燃え上がった男の信念が、人生の黄昏時を迎えたその時、男の心を揺り動かした。

『不滅の恋/ベートーヴェン』

ヘンデル、バッハ、ハイドンと並び、モーツァルトの後継者と言われたベートーヴェン。とにかく、当時のオーストリアには名作曲家と言われる錚々たる人物たちが息をしていた。ナポレオンを解放者だと信じていたベートーヴェンは、後に彼が単なる『魔王』だったということを知り、ピカソのようにアーティストらしく、芸術作品で戦争に参加する。しかし、彼は耳が聴こえなかったのだ。モーツァルトも病を負ったし、ゴッホ、ムンク、ルノワール等の多くの画家も問題を抱えていたが、やはり、芸術というのはそういう常識的な健常から逸脱することが軸であり、不安定な繊細さがあるからこそ、洗練されるのだろうか。

ベートーヴェン役のゲーリー・オールドマンは元々ピアノを趣味としており、劇中でも殆ど吹替えなしで演奏したとも言われている。

は行

『パーフェクト ワールド』

シェイクスピアは言った。

『我々の人生は織り糸で織られているが、良い糸も悪い糸も混じっている。』

これを『人間性、人格』と捉えたとき、確かにそれはその通りである。この世に善い人などいない。いるのは人間だ。人間は愚かで、美しい。

『バスキア』

27歳で亡くなったアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアの伝記映画。私も芸術方向は嫌いではない方だが、一切名前を知らなかった。造詣が深い人からすれば、『それは好きとは言えないよ』ということになるだろう。それだけ芸術界にとっては重要な人物なのだ。アンディ・ウォーホルは知っているが、その彼が登場し、彼に認められて親しくなっていくくらいだから、彼の絵は秀でていたのだろう。ウォーホルはバスキアを天才と評していたという。

完全なネタバレが嫌ならこの先は見ないでいいが、しかし私だったらこれくらいの情報は先に知っておいたほうがよかった。芸術の話だから理解が難しいケースがあり、はじめに大体の図式を理解しておいた方が作品がよく頭に入ってくる人もいるはずだ。バスキアはウォーホルのみを友として親交を深めていたが、ウォーホルが急死した後ドラッグの使用頻度が上がり、オーバードーズ(過剰摂取)で死んでしまったのだ。27歳という年齢で芸術界の重鎮に天才と認められたアーティストの、孤高な、しかし孤独な、寂しくも彩られた人生は、一体どのようなものだっただろうか。

また、ドキュメンタリー映画としての『バスキア』もある。この2つをセットで見るのがいいだろう。貧困、犯罪、ドラッグ、混沌とした地、当時の様子がよく分かる資料である。

ちなみに、バスキアは1960年生まれ、シド・ヴィシャスは1957年生まれで、アメリカとイギリスで違いがあるが、同じアーティストとして妙に二人は環境が似ている。両者とも大体似たような時代と環境で育ち、アーティストであり、ドラッグに溺れ、若くして死んだ天才として名を残した。つまり、『シドアンドナンシー』と併せて観ても、更にこの時代や彼らのことがよく見えてくるかもしれない。

『バックドラフト』

そう言えば、消防士を描いた映画を観るのはこれが初めてかもしれない。最近の映画もないし、今までに観たこともない。昔は消防士や警察官は憧れの職業だったかもしれないが、今は以前ほどのはない。だが、これからも人間がいる限り『火』は燃え続ける。そしてそれに立ち向かう男たちの使命も、消えることはない。

『バッファロー66』

心理学者は言う。

『男が女性を選ぶんじゃないんですよ。女性が男性を選ぶんです。これをフィメールチョイスと言います。』

彼女は続けて言う。

『動物界においては、オスが求愛活動をし、メスがそれを選びとるのが自然のあるべき姿。フィメール(メス)が、メール(オス)をチョイス(選択)する――その法則に則り自然淘汰は行われてきたのであり、生物としての恋愛はそれが本来の姿なのです。』

だがよく言われていて浸透しているのは『ハンターとしての本能』とかそういう類である。男が女をナンパする様を『ハンターの狩り』に見立ててそう表現するのである。だとしたら女じゃなくて、男が女を選んでいるように見える。

実は、これは両方が正解なのである。この心理学者は女性だから『女性が強い権利を持っている』と主張するが、しかしもう一つの事実にスポットライトを強く当てると、

『男が女に求愛活動をするところから、すべてが始まる』

という事実が存在する。私などは男だが、自分の話をすると無様になるが、女性が『待つ』態勢になっているのを何度も見ているが、私がアプローチをしないから、一向にそれ以上関係性は発展しない。こういうことを何度も経験している。

Online relationships abstract concept illustration

ある時、六本木ヒルズをたまたまおしゃれして歩いていたら、前から芸能人が犬を連れて歩いてきて、私を見るやいなや、別にそうでもないはずなのに『急に犬がその場に居座り始めた』という体を取りはじめ、私から声をかけるように画策されたことがある。私が単なる勘違い野郎の可能性もあるが、私も経験をたくさん積んでいる人間だ。目の前で起きたことを瞬時に理解することは得意な方だ。

だが、次の瞬間(この間、まさに1秒程度)この人が先日結婚したばかりということを知っていたし、というかタイプではないので、犬と共に私の前で止まったその人を無視して、映画館に向かった。それは本当のことだ。

いや、彼女も私の『実態』を知れば幻滅したことだろう。しかし『表層』は、『六本木ヒルズにこんな時間の平日に、お洒落な格好をしたちょうどいい年齢の男性が、一人で前から現れた』のであり、もしかしたら彼女の『タイプ』だったのかもしれない。

だが、その『タイプ』の枠の中にはもしかしたら『お金持ち』や『有名な知人が大勢いる』というステータスが揃っていることが条件だったかもしれないので、表層は条件一致でも、話し始めればすぐに

(なーんだ・・)

と幻滅されたかもしれないわけなのである。こういう一瞬の男女の駆け引きの経験はこれが初めてじゃないので、恐らく高い確率でそういうことだっただろう。

つまり、もし私にそのステータスがあり、ちょうど恋人を探していて、その人が私のタイプであった場合、『お互いが条件一致』する為、そこで何かが生まれていたかもしれない。

その時、きっかけを作ったのは間違いなく『演技をした女性』の方だ。だが、私に至ってはあまり常識は通用しない。『メールチョイス』だ。よく、男のそれは『狩り』。そして女のそれは『釣り』と表現するが、どんな盛り場で女性が私にエサをちらつかせて釣りをしようとしても、私は絶対にそれに引っ掛かかったためしがないのである。

それは、幼少期から両親にクリスチャンになるように誘導されて育ったことが影響している。私は絶対に人の誘導に乗らないと固く誓って生きているので、『釣り』に引っ掛かることはないのだ。

だとしたら『フィメールチョイス』は通用しないのか。私に至っては特別で、『メールチョイス』があり得るのか。そんなことを頭に浮かべながらこの映画を見てみる。すると、中々面白い人間の男女の関係が浮き彫りになり、妙な感慨深さと哀愁が垣間見える。

『パトリオット・ゲーム』

アイルランドとイギリスの歴史を知らないと、この映画の奥行きを理解することはできない。逆に知っていると、知ったその時からすでに映画が始まっているため、まるで歴史の一部、その延長線上を見ているような錯覚さえ堪能できる。なぜこのようなテロが起こったのか。そして復讐の連鎖は終わりがあるのか。『マイケルコリンズ』という映画をまず最初に観るといいだろう。『IRA』というアイルランドの活動家集団がこの話のカギである。

ジャックライアンシリーズ

  1. レッド・オクトーバーを追え! (1990年)
  2. パトリオット・ゲーム (1992年)
  3. 今そこにある危機 (1994年)
  4. トータル・フィアーズ (2002年)
  5. エージェント:ライアン (2014年)
『ハムナプトラ』

これは、インディ・ジョーンズからパイレーツ・オブ・カリビアンへと移行するまでにアドベンチャー映画を繋いでくれた映画と言えるだろう。よく考えれば、パイレーツではこれらの作品でよく登場した砂漠やエジプトでの冒険がないので、いつか出るだろうか。それとも、ブラックパール号が砂漠を渡ったあのシーンが、砂漠ということだろうか。また、やはり海賊ということで、それらの冒険とはジャンルが違うのだろうか。だとしたらハムナプトラのような冒険ファンタジーも需要があるだろう。

エジプトやマヤ文明等があったメソアメリカというのは冒険好きにはたまらない秘境である。フロンティア(未開拓地)と言われても頷ける夢のある場所だ

※2回目

『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』

『インディジョーンズ』以外のアドベンチャー映画と言えば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』が出るまではこの映画だった。だがこの映画は1959年に英国ハマー・フィルム・プロダクションが制作した『ミイラの幽霊』(テレンス・フィッシャー監督)に続き、1932年公開の『ミイラ再生』(カール・フロイント監督)の二度目のリメイク作品だという。

リメイクならシナリオがしっかりしていてもおかしくはない。だがリメイクして失敗する作品もある中で、うまくやった作品だ。また、興行的には失敗したと言われているトム・クルーズの『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』もこの作品のリメイクだが、私は相当好みの作品だった。映画館が極上の空間に変わったのを覚えている。ということで、私にとって『ミイラ再生』とは、大好きなシナリオと言えるかもしれない。ちなみに私はゾンビものが嫌いだし、オカルトものもほとんど観ない。

『砂漠冒険映画』のカテゴリーでトップを獲ったこの映画の対極に、『海上冒険映画』のトップであるパイレーツオブカリビアンがあるわけだ。この映画の売り上げだけで400億円。『千と千尋の神隠し』を大きく超え、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の400億円に並ぶメガヒット作品だ。アメリカだけでも200億円近い売り上げを上げている。この映画も、歴史を勉強しなおしてから再鑑賞したのだが、エジプトの神秘性を楽しめる映画として貴重だ。また、主人公のリックオコーネルが『フランス外人部隊』に所属していたということで、それはまた違う歴史映画と重なって面白い。トムハーディがその映画に出ている。

『ハムナプトラ2/黄金のピラミッド』

同じように面白い。興行収入はむしろ上がっている。普通は2、3と徐々に落ちていくものだが、上がっているのは珍しい。

『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』

これも、何とほとんど売り上げは変わっていない。だが、レイチェルワイズが降板し、マリアベロが妻であるエヴリンを演じたが、私の場合はやはりそういうパターンは受け付けない。同じキャストじゃなければ素直に入り込めないのが本音である。

だが、主演のブレンダン・フレイザーは『ハムナプトラ』シリーズ(1999年 – 2008年)や『センター・オブ・ジ・アース』(2008年)で主演を務めて人気を博すが、その後は体調の悪化や、結婚生活の破綻などの様々な原因でハリウッドの表舞台から遠ざかってしまう。

色々な意味で、伝説的な作品として映画界に爪痕を残したのかもしれない。

『ピアノ・レッスン』

スコットランドからニュージーランドに渡り、結婚相手がいるマオリ族らと共に生活する言葉を喋ることができない、ピアノが大好きな子連れの若き母親。その状況だけを考えても中々異例である。そもそも彼女はなぜ喋れなくなったのか。闇が深そうなその人生とは裏腹に、彼女の弾くピアノの旋律は優雅で、それに合わせて踊る子供も無邪気そのものである。

波長があるのだ。自分の人生の、リズムがある。それは、奏で、そして聴いてみなければ分からない。理屈ではないのだ。理性は彼と結婚することを決めている。だが彼女という人生の調べが『連弾』を許したのは、彼ではなかった。

『ピースメーカー』

この手の作品は現在『ミッション』や『007』が請け負っているため、今観ると新鮮である。それらの作品も大好きなのだが、これを観て別に彼ら以外がこうした内容を扱ってもいいと感じた。ロシアが核兵器を使ってテロを起こそうとしている。その構図はこの映画から20年以上経った現在でも通用する信憑性のある現実である。パクス・アメリカーナの世界図を変える可能性があるのは、ロシアか中国だからだ。

『ビーン』

イギリスのITVで放送された人気コメディ番組『Mr.ビーン』の劇場版作品で、舞台をアメリカのロサンゼルスに移して展開される。その次の『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?! 』ではフランスでの展開だ。つまり、すでに彼はイギリス、アメリカ、フランスという大舞台で活躍していることになる。この手の『最初から笑わせにかかる映画』を観るのはあまり好きではなく、存在を知ってから長い間彼の映画を観ることはなかった。このサイトで、ローワン・アトキンソンを偉人として扱い(500名のうちの1人)、その名言を内省しているにもかかわらずだ。

だが、ついに見る時が来た。やはり、面白いものは面白い。特に『神はいないよ』という発言(翻訳)があるのだが、私は個人的にその言葉を言う作品をチェックしてまとめているので、それが冗談として出てきたので吹いてしまった。

Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!

1998年公開の映画『ビーン』の続編。確かに、Mr.ビーンという男の話は有名でもちろん私の耳にも届いていた。だが実際にはどうか。チャップリン同様、何だか気が乗らない。それは私が映画に対して求めているのが、ホラーやコメディといった要素ではなく、人生の教訓だからかもしれない。しかし、いざ観るとそれまで長い間勝手に距離を置いていたその時間が何の意味もない時間だったと思い知った。

映画館で笑うことはほとんどない。泣くこともない。周りにつられることもない。むしろ『周り』が嫌いだから、なるべく平日に一人で映画館にいくぐらいである。そしてそれを13年間毎週連続で継続するという筋金入りだ。そんな私がだ。

ゲラゲラと笑ってしまうのだから。

『ビフォア・サンライズシリーズ』

『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』

恋愛系嫌いなのにまた恋愛系に面白いと思ってしまうという。だがやっぱり今回も普通の恋愛映画ではない。この後に2つも続編があるので、いずれそれを観る楽しみもできた。評価が高いから残念な結果にはなってなさそうだ。

だが『10年後の8月また出会えるの信じて』という歌のアンサーを10年後に聞いたとき、あんまり感動しなかった事実がある。ピークが『それを切望していたその時』だった気もしているのだ。

儚い。虚しい気もするけど、尊い。私の祖母は95歳でまだ存命で、夫と死別してから25年で。老人になるまで手をつないで、というのも当然良いが、いずれ終わる人生の中で、『いつ終わるのか』というのも大きなテーマだ。

トーマス・マンの言葉がいつも自分とリンクする。

『命というものは、儚いからこそ、尊く、厳かに美しいのだ。』

ビフォア・サンセット

さて、上の映画の続編第一弾がこれだ。9年という映画内の時間がほぼ現実の時間と同時進行するように作られている。では、上で懸念したことはどうか。やはり私の読み通り、あそこで終わっていた方が良かったかもしれない。『ピーク』は前作で終わってる。だが、面白いのだ。

なぜ面白いかというと、『現実世界は映画のように2時間で終わらないから』だ。

バーナード・ショーは言った。

『青春?若いやつらにはもったいないね。』

この言葉が私の言葉の奥行きを深くする。

『ファーゴ』

物語の最初に『これは実話だ』と出る。それについてはここでは明言しないが、もしそうだとしたならば、我々は最後のシーンをどう受け止めればいいのか、身の毛がよだつ思いである。我々は犯人の男の一人の末路を、予想することはできない。

『ファーザーズ・デイ』

かつての恋人から家出した息子の捜索を依頼される二人の男。二人ともその家で息子のスコットが自分の子かもしれないと仄めかされ、なぜか『元カレ二人』が協力して彼を探す羽目に。

一方は弁護士で人生は上手くいっていて、一方は作家志望という迷走中の男性。その違いがゆえ、やはり衝突は避けられない。だが、人間というものは一つの目的を持てば敵とも共闘できるものだ。

ポイントはその辺りで、2大コメディスターが共演しているところも注目だ。 ビリー・クリスタルの方を知らない人もいるかもしれないが、彼の出ている映画は確かに楽しいのでおすすめだ。淡々としたテンションでシーンにツッコミを入れるので、思わずクスッと笑ってしまうことが多い。1983年のフランス映画をリメイクしていることもあり、教訓性もある。コメディだからと言ってふざけた方向にはいきすぎないので、安心して笑っていられる。

『フィッシャー・キング』

この事前情報を知っておくかおかないかで、この映画の面白さに大きな変化がある。『聖杯伝説』である。聖杯伝説の「漁夫王」(フィッシャー・キング)と聖杯のエピソードをモチーフに物語が展開されるだ。病んでしまった漁夫王は、聖杯の騎士が聖杯に正しい問いをすることで回復することができるのだが、失敗し、騎士は聖杯探求の使命を与えられる。聖杯伝説では、その騎士が数々の試練を乗り越え、聖杯を発見し、漁夫王が癒され国土は再び祝福される。

ダ・ヴィンチ・コード』や『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』にも聖杯が出てきて、そこにはヒトラーも登場するが、当時、実際にそういう陰謀論があったという。彼もその聖杯の力を信じ、探していたというのだ。その聖杯は、『最後の晩餐』でイエスが使用していたものだというのである。では一体この映画とその聖杯伝説には、どんな関係性があるのだろうか。

『フェイク』

マフィアのボナンノ一家に“ドニー・ブラスコ”の変名で6年間潜入し、彼らの大量摘発に貢献した連邦捜査局(FBI)の特別捜査官、ジョー・ピストーネの実録手記に基づいて作られた、実話映画。実話という圧倒的な説得力にアルパチーノとジョニー・デップという豪華共演なのだから、これだけでもこの映画を観る価値がある。

映画は実話ならもうそれだけで教訓性が必ずある。しかも、『レザボア』でも有名なマイケルマドセンなど、これだけの実力ある俳優が揃うなら、もう見応え保証は確実だ。更に、華があるのだから文句なし。ジョニー・デップは、ジャックスパロウを筆頭とした明るく、奇天烈な役だけじゃなく、

  • 『パブリック・エネミーズ』
  • 『ギルバート・グレイプ』
  • 『ナインズ』
  • 『シークレット ウインドウ』
  • 『耳に残るは君の歌声』
  • 『ブレイブ』
  • 『グッバイ、リチャード!』

など、ニヒル、アンニュイ、あるいは内向的で暗い性格のような役柄も非常にはまる俳優である。あとはアルパチーノとマイケルマドセンのマフィアっぷりだ。文句なしの名作である。

『フェイス/オフ』

ジョン・トラボルタとニコラス・ケイジ。彼らが共演するというだけで贅沢なエンターテインメントである。『極上のエンターテインメント』とまではいかないが、映画界を騒がせるだけの話題性は十分な作品だ。

『フォー・ウェディング』

この作品の見どころは、脚本のリチャード・カーティスが実力者であるとういことだ。下記にまとめるのは、上が脚本、下が彼が監督を務めた作品である。


  • ローワン・アトキンソンのブラックアダー Blackadder (1983年 – ) テレビシリーズ 脚本
  • Mr.ビーン Mr. Bean (1989年 – ) テレビシリーズ 脚本
  • フォー・ウェディング Four Weddings and a Funeral (1994年) 脚本
  • ビーン Bean (1997年) 製作総指揮・脚本
  • ノッティングヒルの恋人 Notting Hill (1999年) 脚本
  • ブリジット・ジョーンズの日記 Bridget Jones’s Diary (2001年) 脚本
  • ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月 Bridget Jones: The Edge of Reason (2004年) 脚本
  • ドクター・フー Doctor Who (2010年) テレビシリーズ 脚本
  • 戦火の馬 War Horse (2011年) 脚本
  • トラッシュ! -この街が輝く日まで- Trash (2014年) 脚本
  • イエスタデイ Yesterday (2019年) 脚本・製作


  • ラブ・アクチュアリー Love Actually (2003年) 兼 脚本
  • パイレーツ・ロック The Boat That Rocked (2009年) 兼 脚本
  • アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜 About Time (2013年) 兼 脚本
  • レッド・ノーズ・デイ・アクチュアリー Red Nose Day Actually(2017年)兼 脚本


どれも名作ばかり。私もこれを調べて初めて知ったのだが、確かにすべての映画に似たような気配が漂う。どれも『心温まる』もが特徴で、彼がきっと心優しい人なんだろうと思うばかりである。

『フォーリング・ダウン』

マイケルダグラスが『古いアメリカ人』のように見えるが、この4年も前に名作『ブラック・レイン』に、そしてその2年前の1987年には『ウォール街』に出演していることから、このアメリカ人役は演技で行っていることがわかる。

より『何をするか分からない』奇天烈な印象を与える為に、あえてこのような奇妙な外見を整えたのだ。いかにも、20年前の日曜洋画劇場で流れそうな作品だが、これが意外とがっつり見ると面白い。

この男が何をするか見当がつかないから展開が読めないのだ。また、1993年あたりに日本でも流行した『キレる』という概念ともリンクしていて、(なぜ人は急にキレるんだろう)という人間心理を俯瞰で見るような社会学的な面白さもある。

『フォレスト・ガンプ/一期一会』

単純作業しかできない人間は、往々にして揶揄される対象である。だが、人生の黄金律に、『愚直にやるべきことをやり続ければ結果が出る』というものがある。針を出すことしか能がないハリネズミが、才あるキツネに勝つことがある。それが人生だ。

『プライベート・ライアン』

時は1944年、世界はまさに『第二次世界大戦』真っ盛り。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である『ノルマンディー上陸作戦』では、200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。敵はヒトラー率いるナチス・ドイツ。味方はフランス、イギリス、アメリカを筆頭とした連合軍だ。戦争のど真ん中で、一体何が行われていたのか。戦場とはどういうところなのか。そして、今日話した戦友は、明日もいるのか。自分の命は一体、何を成し遂げるためにあるのか。

戦場を進んでいく中で、味方のスナイパーがかなり強力な戦力となっていることがわかる。だが、彼は無事戦場を生き延びることができるだろうか。彼の行方にも注目である。

『プラクティカル・マジック』

サンドラ・ブロックとニコール・キッドマンが美しい。そう言わざるを得ない。女性の価値は若さや美しさではないが、それを言わずにはいられない美貌があり、同時に現在の彼女らから同じ感想を抱けるかといったらそれはない。残酷で身勝手な人間の本音だが、それが事実である。美しい魔女の姉妹。それだけでこの映画が存在する価値はある。

だが実際には全米の女性からの圧倒的な支持を受けていて、男性が彼女らの美貌に酔いしれるのではなく、多くの女性が共感できる内容となっている。つまり、この映画が訴求できるターゲット層は広い。

『フラッド』

モーガンフリーマンが主演で、大雨という天災映画というだけで、ある種貴重な作品である。その2つを見ることができる機会は多くない。モーガンフリーマンは、『ジョニーハンサム』、『グローリー』、『ドライビング Miss デイジー』に1989年に出ているが、その前の映画はほとんど無名映画であるため、名作一本目はほとんどその3つと言っていい。しかもその3つすべてが名作であり、最後者ではゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。

その共通点はすべて『がっつり主人公』ではなく『主役の引き立て役』だ。だが、それが彼に非常によくハマるのである。それがわかったのか、彼の泰一はこの辺りから常にそこになっていく。だが、1997年に『コレクター』、そして1998年にこの『フラッド』という作品で少しがっつり的な主演をやる。前者ではデンゼルワシントンのようなワイルドなキャラ、そして今回も強盗団の役だ。

2006年に『ザ・スナイパー』、2009年に『ザ・エッグ』でも同じように悪役の重要な役割を担っているが、基本的には引き立て役が多いので、今回の映画は貴重である。そして、我々としてはいつも引き立ててくれる重要な役を演じる彼を応援したい感情が芽生えてくるので、今回の映画にも太鼓判を押したいところだ。

『ブリジット・ジョーンズの日記シリーズ』

ブリジット・ジョーンズの日記』『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月

10代の多感な時期の男である私からすれば、対極にある映画だった。男はガールズトークをしない。それはテストステロンという男性ホルモンも強く影響している。だからこそ彼女の友達にはゲイがいるわけだ。女性の人生にはお喋りの相手が必要でも、男性にはそうでもない。それが男女の差異である。だが、あれから随分経った。私の視野も広くなった。この映画は、確かに一度見ておくべきである。男女全員が、人間なのだから。

『プリティ・リーグ』

実話ではないが、1943年に創設され54年まで存在した全米女子プロ野球リーグを題材にしているから、テーマとしては十分見応えがある。また、

  1. 当時女性差別が激しかった
  2. 若き日のマドンナが出演している
  3. トムハンクスが助演に徹している

などの要素もこの映画の価値を引き上げている。

『美』とは、執着を捨てることにある。だが高齢になってからのマドンナや浜崎あゆみは、金の力を使って力づくで『容姿』の最適化に執念を燃やしている。それは第三者から見ると、無様である。もちろん、世界も悪い。『容姿ですべてが決まる』現実が存在している。とにかく、今ほど美に執着しなくで済むナチュラル時代のマドンナは、天真爛漫で唯一無二の個性が光っている。

ニコールキッドマンほどの美しい女優ですら、高齢になって整形をし、容姿に執着したことでその価値を落としている。メグライアン然り、確かに容姿は武器だが、しかし同時に『執着は罪』なのだ。だが、この時代の映画を通して彼女らの事情を考えると、か弱いだけじゃだめだ。力強く生きていくことをある種強いられたことが、後の強引な生き様に影響しているかもしれない。色々なことを考えさせられる映画である。

『フル・モンティ』

一歩でもストーリーやセリフなどを間違えたら、一気に低俗なB級映画の烙印を押されることになる。そういうギリギリの綱渡りが続いて、しかし、中々崖下に転落しない。それは、ここに出てくる老若男女が、軽薄なようで、真剣そのものだからだ。人間は、命がけで一生懸命何かに取り組めば、それがどんな結果であろうとも、人の心を熱くさせるのだ。

『ブルーラグーン』

『青い珊瑚礁』(1980年)の続編という位置づけで制作されているが、前作のストーリーと完全に連続しているわけではない。だが、前作と繋がっている部分も多くあるので前作が気に入った人なら、楽しめる要素が多い。前作は名作だったが、今回はどうか。結論は、今回も名作だ。

これは、一度我々が生きるこの世界を、哲学を学んだ後の頭で一通り考えた人間にしか見えない事実だが、キーワードとして重要なのは、

  • 孔子
  • 韓非子
  • 老子
  • 荘子
  • 化粧
  • 法律
  • 犯罪
  • 治安
  • 秩序

といったところである。勉強した人は、これらの共通点が根幹に『世界平和』だったり、『この世の在り方』があることに気が付くだろう。

例えば孔子は『そもそも為政者は必要ない』として、一人一人の主体性を訴えた。だが、韓非子は異を唱えた。人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれるとして、法の重要性を説いたのだ。


韓非子は言う。

『孔子の夢見る徳治で秩序が保てたらそれ以上のことはない。しかし世の中はそうではないのだ!荀子の言うように人間の本性は悪だから、これに合わせて現実政治を行わねばならない!』

『孔子、孟子の言っていることは、古代の人口が少ない時代なら可能だったかもしれん!人口が増え、経済が盛んな時代にはそんなのは絵空事じゃ!』


と主張したのである。更に、孔子の考え方に対立した者は、道教の創始者と言われる老子や、その教えを継いだ荘子である。儒教にある『人為』を否定し、『無為自然』を思想の根本に置いた。『天』に行きつく『道』を示したのだ。老子は『小国寡民』という考え方を主張した。

『小国寡民』とは、『小さい世界なら平和になるよ』ということ。韓非子同様の方向で、孔子の儒教と対立した。対立といっても『孔子の教え』では孔子が老子に教えを乞うシーンがあったりする。

さて、かなり奥行きが深くなってきた。確かにその考え方で見てみると、この島で過ごす平和な日々は、『小国寡民』の恩恵そのものである。だが、そこに治安を乱す外部の者がやってくるわけだ。そして、化粧などという『本来別になくてもいいもの』も、異性の気を引くという、ある種の自分本位な発想から誕生してしまうことになる。

私は別の記事で、『化粧やネオンの存在』の存在意義について考察している。もう、この記事だけで一冊の本と同じボリュームなのだが、ここまで真剣に観た人は、冒頭で私が言った言葉があながち、『自分勝手に書けるブログ』という特性を生かした、偏っている単なる見栄や虚栄ではないことに気づいただろう。

アダムとイブではないだろう。だが、確かに最初人は、こうして原始的だった。そして部族化し、無知の状態で自由に生きて、思想も自由で『神話』が生まれたが、そのうち部族のグループの中で秩序を求め、『宗教』という統一ツールが生まれる。

そして、それに抗うように『哲学』が登場。部族はやがて国となり、人の野心が暴走して帝国主義が生まれる。アレクサンドロス三世、カエサル、ナポレオン、チンギス・カン、ヒトラー、そして現在で言えばプーチンがウクライナやクリミアにやったことがそれである。

つまり、最初は『可愛い化粧』だったかもしれない。だが、以下の記事に書いたスタジオジブリの『空飛ぶ機械』の話のように、悪気はなくても、人間のふとした欲望の顕在化の延長線上に何があるかを考えると、いささか、『青い珊瑚礁』も含めたこの原始的な人間の生活は、見て見ぬふりはできない。

『ブレイドシリーズ』

マーベル・コミックの『ブレイド』を映画化したもの。『ウォッチメン』も『ファンタスティックフォー』もすべてマーベルだが、どうして『アベンジャーズ』だけがヒットし、これらの作品が妙に『マイナー』な印象があるのか。それは、元々漫画やアニメを作るような人が、『引きこもり』同然の生活を長期間送るような、そういうスーパーインドア派で、内向的で、自然とマニアック向けな内容を作りだすことが多いことが関係している。

爆笑問題の太田光も『自分たちも引きこもり同然』として、ネタ作りをする自分を自虐的に話したが、物書きでも漫画家でも同じことが当てはまる。漫画家育成ゲームなどをやればそれをよく理解することだろう。寝て起きて机に向かって漫画を描き、期限に間に合うように編集者から急かされながら漫画を描く。そうういう日々を送り続ける。それが苦ではない人は、必然的に内向的になるわけで、どちらかというとこの世界に溢れるのはそうではない人が多い。

ブレイドは、ヴァンパイアが活躍する漫画で、血もたくさん出てくるし、ウェズリー・スナイプスという体格のいい黒人というだけで、それを観慣れない人からすれば『威圧的』だ。それゆえ、この映画にあまり

自分に近いものを感じるなあ。没入できそうだなあ。感動できそうだなあ

と感じれる人は、そう多くはないのだ。

しかしアベンジャーズはその辺りを上手く演出し、マニアックな話であるはずの物語を世界規格に引き上げることに成功した。そこには素人には分からない実に多くの戦略が隠されているだろうし、緻密に計算されているはずだ。ブレイドは、いざ鑑賞するともちろんつまらないということはない。だが、万人受けはしないだろう。しかしこういう映画はハマる人にはどっぷりとハマる。

ブレイドシリーズを一挙に見てしまおう。2,3で劇的に話が変わるわけでもないので、これらを3つ揃って観ることで6時間もエンタメな時間を満喫することができる。

『フレンチ・キス』

メグライアンが転落し始めるのはこれから5年後の2000年上映映画『プルーフ・オブ・ライフ』からだ。そこで共演したラッセルクロウと不倫してしまい、信頼を落とす。そして『インザカット』で演技派に転向しようとして失敗し、かつ、『ゴースト/ニューヨークの幻』、『プリティ・ウーマン』、『誘う女』、『羊たちの沈黙』といった名作映画のオファーを断ってしまった運の悪さなども相まって失墜が加速、更に、整形をしてしまったことが致命的なダメージとなって第一線に浮上することができなくなってしまった。

だが、この1995年の映画はまだ大丈夫だ。彼女がいきいきとしていて、転落までの彼女にあった『日常に振り回されるキュートで元気な独身女性』のイメージ通り、その才能をいかんなく発揮している。

それだけに、彼女がスクリーンで見られなくなったことが惜しい。だがまあ、どんな俳優もいずれは老いて、若い役は演じられなくなるのだから、これだけ大活躍すれば彼女は大成功した女優だと言っていいだろう。たったの一本もヒットしないまま埋もれてしまった俳優たちは星の数ほどいるのだから。

『フローレス』

興行的には失敗しているようだが、映画の内容としては見応えのある価値あるものだと判断できる。レアなケースのシナリオだが、実力のある演技派俳優コンビということもあって、間違いなくB級作品にはならない。

『フロム・ダスク・ティル・ドーン』

この作品は2も3もあるのだが、タランティーノが脚本を務めるのはこれだけで、ジョージクルーニーといった名優が揃うのもこれだけだ。そしてこの作品とて、ある人から見たら(何だこの映画は)として、海外では映画館でそのまま席を立って帰らない人が続出するだろう。

だが、そうして続編が作られるくらい、『ある層』には受けるわけだ。オカルト好きだか、ゾンビ好きだか、私はというと全くその手の内容が嫌いだから、観てしまった以上、なるべく浪費にならないよう、良い部分を探した。あまりなかった。

『ペイバック』

器用で実力のあるメルギブソンにしては、そこまで衝撃を与えてくれるような作品ではなかった。これであれば例えばドウェイン・ジョンソンの『ファースター 怒りの銃弾』の方が見応えがある。

復讐をするならあれくらいの復讐の鬼のようにし、なぜ復讐をしているかが分からないようにすれば、終始映画に引き込まれる。また、ミッキーロークの『ジョニーハンサム』のように、最後に哀愁があるわけでもない。

メルギブソンの場合、器用にやって最後は賢くトンズラする展開何かが似合う。『マーヴェリック』や『キックオーバー』何かがそうだ。あるいは、『陰謀のセオリー』のように、終始ミステリーが渦巻いているのもいい。それらの名作たちに比べれば、中途半端な作品である。

『ベリー・バッド・ウェディング』

独身最後の“バチェラー・パーティー”。今バチェラーという言葉は日本では有名だが、この1998年の時代は、『ハングオーバー!』さえなかったわけだ。その辺りの映画と内容が酷似しているが、笑える順番は、

  1. ハングオーバー
  2. ラフナイト
  3. ベリー・バッド・ウェディング

となる。だが面白いことに、どれもある種の低俗さがあるはずなのに、面白いということだ。きっと建前ではなく人間の本音の部分が見えるので、私のように人間心理を学んでいる人からすると好物に見えるというわけだ。

そして教訓性もある。これは偶然で、私のように映画を3000本も観ていると、この映画とセットで見るべき映画というものが見えてくる。その意味で、製作費も安く、知名度もなく、短く低俗に見えがちなこの映画だが、実は教訓性も高い映画となっている。

『ボーイズ・ライフ』

作家で大学教授のトバイアス・ウルフの若き日を描いた自伝小説を映画化したものだ。普段はこういう書き方はしないが、今回はぜひ書かせていただきたい。デ・ニーロの演技が素晴らしい。正直、彼の存在は邪魔そのものだ。だがもし彼が引っ掻き回さないなら、この映画はちっとも面白くならない。腹立たしいが、ついつい爆笑してしまう滑稽な男を演じ切る。さすがである。少年時代のディカプリオの演技も、負けてない。

『ボーン・コレクター』

安楽椅子探偵(あんらくいすたんてい)という言葉があるらしい。現場に行ってその足で情報を収集することはせずに、室内にいたままで、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りに事件を推理する探偵などのことを言う。その意味で、古畑任三郎、江戸川コナン、刑事コロンボなどとは全く違う探偵のことになる。だが、彼の場合、意図せずしてそうなってしまった。怪我をしてしまったのだ。生きていただけでも奇跡なのである。

彼がタッグを組んで一緒に操作することになった相手は、一人の優秀な女性捜査官だった。高い評価を受けているわけではない。だが、安楽椅子探偵を務めることができるクラスの彼の直感が、彼女を高く評価したのである。だが、彼女はとあるトラウマを抱えている。女性ということもある。それが物語に危険な緊張感を漂わせる。

そしてついに彼らはこのタイトルにあるような『危険な犯罪者』まであと一歩まで迫るようになる。よく考えてみる。そんな危険な犯罪者に立ち向かう主軸が、身動きできない怪我人の探偵と、トラウマを抱えた女性捜査官だということを。

『ボビー・フィッシャーを探して』

実在のチェスプレイヤーであるジョシュ・ウェイツキンの少年時代を描いている。彼は16歳でインターナショナル・マスター(IM)となった。彼は中国拳法家でもあり、2004年台湾で行われた太極拳推手世界大会にて優勝している。1970年代に、米国人として初めてチェスの世界チャンピオンになった伝説的な天才ボビー・フィッシャーが失踪した後の話だ。

実話だから見応えがあるが、実話だから大問題は起きず、あまり激しい展開はない。『ボビー・フィッシャー』という名前を使わないとかなり地味な作品になってしまう。つまり、彼とボビーとでは雲泥の差があるということがここからわかる。彼も十分な神童だ。だが、ボビーフィッシャーというのはその更に上を行く神童であるということが『チェスの神童を描いたこの映画』から分かるのだ。

切り取った場面が『子供時代だけ』ということも当然ある。だが、タイトルから連想するような『チェスの神童がボビーフィッシャーを探しあてて、対局し、負かす』という最高のシナリオにハードルが上がってしまっているので、専門家たちが絶賛するほど、一般の鑑賞者はあまり大きく心を揺さぶられることはないだろう。もちろん家族における人間ドラマは見ものだ。だが、ボビーフィッシャーという名前が大きすぎるのである。

『ホワイトハンター ブラックハート』

1951年の映画『アフリカの女王』のアフリカロケに同行した脚本家ピーター・ヴィアテルが当時の体験をもとに執筆した小説をヴィアテル本人が脚色に参加して映画化した作品。アフリカの女王とセットで観れば面白いかもしれない。モデルとなった監督のジョン・ヒューストンは破天荒な性格で、10代の頃ボクシングに熱中、その後メキシコを放浪して様々な職業を経験した。

  • マルタの鷹
  • 許されざる者
  • 007/カジノロワイヤル
  • アフリカの女王

等、彼が監督した映画には名作がいくつもある。『アフリカの女王』でロケ中に映画撮影を放り出して狩猟に没頭してしまうなどの奇想天外なエピソードを多く残し、後年にはキャサリン・ヘップバーンに自伝で批判されたほどだったという。

『遥かなる大地へ』

この画像は、1889年4月22日にアメリカ合衆国政府が入植を解禁したオクラホマに白人が未開の土地を求め殺到した現象である。例えばペリー来航が1853年で、『ラストサムライ』の時代は1860年頃。その頃、世界はちょうど一体化が進み、各地で力のある人間が『お宝』を探しに躍起になった。この映画はオクラホマ州で実際に起こったランドラッシュをベースに、アイルランドから夢をもってアメリカにやって来てランドレースに参加した青年の生き様を描く物語だ。

このアメリカ大陸はその代表である。先住民が迫害され、追いやられ、そこに住み着いたイギリス人とフランス人がアメリカとカナダを作った。そんな歴史を知っていると、この作品の奥行きがより一層深く見えることだろう。全体としては、夢を追いかける純粋で無知な、愚かな若者のロマンチックな物語である。だが、見えない深層部にある歪んだ現実が、事実をよく知る鑑賞者の心を、一つ多めにかき混ぜる。

ま行

『マーヴェリック』

やはりメルギブソンは『プロ映画師』だ。彼が製作に携わっていようがいまいが、俳優として出演する以上確実に『関わってる』わけだ。共通点があるのだ。緻密で、無駄がなく、計算されていて、エンタメ性が高い。『ひと味違う』ってのはまさに彼の映画のこと。『キックオーバー』なんかもそうだ。エンディングにそれ言うかみたいな。

この映画も『リーサル・ウェポン』観た人が笑えるシーンもあって。とにかく楽しませてくれる。映画が何かをよく分かっている。私みたいなヘビー視聴者に自然に実力でこう言わせるのだからすごい。これがプロだ。

『マイ・プライベート・アイダホ』

リヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスが主演しているということで貴重な映画だ。彼らは親友だった。売春、同性愛、ドラッグ、近親相姦、ナルコレプシーという非常にニッチでセンシティブなテーマが描かれるが、この映画には原作があり、それはシェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』の三つの戯曲だという。

確かに、過去に行けばいくほどそういう話は日常茶飯事になっていくから、そう考えればこうしたシナリオがあるのはうなづける。だが、やはりそれを現代に持ってくるとこうもおかしなことになる。逆に、その辺りのギャップを楽しむのも、一つの楽しみ方になるだろう。

『マイケル』

普通に考えたら毛むくじゃらの大柄のおっさんが『天使』と言われても受け入れられないし、引くだけ。だが、ジョン・トラボルタという男の実力を知っている人なら耐えられるだろう。彼とニコラスケイジは実力があるのに一線から退いている、不思議な立ち位置にいる。ニコラスの場合はお金だが、彼の場合は何か。いつか女装癖があるとかないとか、そういう海外特集の映像を見たような気もするが、まあとにかく私生活の何かが足を引っ張っているのだろう。

ジョニー・デップとアンバーハードもそうだ。黙っていれば一流でいられたのに、あの裁判でどちらかが脱落するような気配になった。そして結果的にアンバーハードが負け、ジョニー・デップがかろうじてその名誉を取り戻したが、展開次第ではどちらも映画界から去らなければならなかったと思うと、俳優にとって私生活は、考えれば当然のことだが、至極重要な要素である。

フラッシュ役のエズラ・ミラーも私生活において、ハワイで女性に暴行を加えて逮捕された。また、伝説の俳優リバーフェニックスもジョニー・デップが運営するクラブでオーバードーズして23歳の若さで死亡した。逮捕されたり死んでしまったら、もう映画には出られない。

ジョン・トラボルタという男も、実力があるのに何かしらの理由で転落気味の俳優である。新しく映画を作っても批評家の支持率が0%になるなど、謎の低迷を続ける。何かの陰謀でもあるのか。彼には実力があるようにしか見えない。

今回の映画も、結末などはとても好きな展開だった。中々いい映画だったのだ。むしろ私は、彼の映画の中では、そのニコラスケイジとダブル主演を務めた『フェイスオフ』の方が駄作に見える。

ジョン・ウー監督のアクション映画で、1997年に制作され、彼が手がけたものの中で『レッドクリフ』や『ミッション:インポッシブル2』に次いで成功した作品なのだが、私はこの映画こそ、彼らがその地位に甘んじて殿様商売で適当に演技をし、それだけで客は満足する、とでもいうかのような気配を感じて嫌だった。

人の中には、『これくらいの映画はまだか』などと過大評価する人がいるようだが、恐らく彼はただこの映画の売り上げに影響されているだけだろう。例えばこの映画の説明にこうある。

ニコラス・ケイジとジョン・トラヴォルタの秀逸な一人二役の演技も話題となった。特にトラヴォルタの役はトラボルタの出演作である2013年の『キリングゲーム』一般試写会にてショウゲートが行ったアンケート“好きなトラボルタ作品”で1位を得るほど高い支持を得ている。この『好きなトラボルタ作品”で1位を得る』という事実があるのに、その20年後の映画で『批評家の支持率が0%』ということがあり得るだろうか。私から見て、彼やニコラスケイジにそんな急降下の様子はうかがえない。

ただ、環境に恵まれていないだけで、彼ら二人という要素はそのまま変わらないように見える。

『マイ・ハート、マイ・ラブ』

やはり群像劇だから、各人のドラマがそれだけ薄くなるので、そういう場合は『ラブアクチュアリー』のように全体で一つのテーマを描くしかなくなる。これも基本的にタイトルから連想されるように『心温まる感じ』、あるいは『男女の関係を最適化する』方向で描かれる。

『マスク・オブ・ゾロ』

舞台となる時代はメキシコの歴史として重要な1821年。『メキシコ独立』である。スペイン領植民地であったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の独立に向けた戦争(1810年 – 1821年)が終わり、独立を宣言した年だ。アメリカが1776年だから、アメリカから50年遅れでここメキシコも独立することになる。

その間に、ベルギー、ニュージーランド、リベリアなど、いくつも独立が行われているから、この時代の流れとしては、『イギリス、スペイン、フランス』といった圧倒的な力を振りかざしていた強者に対抗し、人々がより平等な人生を求めるようになる情勢があったわけだ。だが、まだスペイン領がある。そこで、『サンタ・アナ』と呼ばれる実在するメキシコの軍人がこの映画の水面下で革命を起こすわけだが、あくまでもこの映画の主役は『怪傑ゾロ』。ゾロはサンタ・アナとは違った角度から、メキシコの街を救う活動をしていた。

『たかが映画』と私は甘く見るところがあって、以前は映画を見る前になんでわざわざ知識を入れなければならないんだ、とするところがあったが、やはりこうして作品の時代背景を知っておくとおかないとでは、映画の奥行きに雲泥の差が出る。

『なぜゾロは戦うのか』とか、どうして敵が存在するのか、という意味が見えてこないと、ただのどこにでもある勧善懲悪系の単純な戦いごっこに見えて終わってしまう。名優アンソニーホプキンス、製作総指揮にスピルバーグがいるだけあって、これはなかなかの名作である。

『レジェンド・オブ・ゾロ』

続編の『レジェンド・オブ・ゾロ』も同じように面白い。時代背景的にもここまでなら何も不自然ではない。これ以上伸びていくとゾロの必要性が問われるので不自然だが、問題はない。

『マッド・シティ』

これも最初に知りたかった。実はこの映画は実話ベースだという。1993年に宗教団体ブランチ・ダビディアンが起こした事件などを背景としているというのだ。

それを知っていたらまた見方は変わった。この映画は大赤字なのだが、それを知らないからではないだろうか。やはり実話かそうじゃないかというだけで大きな違いがある。実話じゃないなら、(なぜこの映画を作りたかったのか)という疑問が浮かんでしまって終わることがある。

だがこれが実話ならやはりそこには少なからず教訓性がある。ダスティンホフマンとジョントラボルタという二大スターの共演も武器だし、海外の人からすればラリーキングの出演も見どころだから、宣伝次第では赤字にはならなかっただろう。

『マルコヴィッチの穴』

俳優のジョン・マルコヴィッチとほぼ同姓同名のジョン・ホレイショ・マルコヴィッチの頭の中に繋がるという不思議な穴が見つかる、奇天烈すぎる映画作品である。あまりにもふざけすぎた内容だと、B級SFのジャンルに分けられてしまうのが相場だが、これはならなかった。

そして今wikipediaで情報を見ながら書いているが、奇想天外な脚本が受け、脚本を担当したチャーリー・カウフマンは数々の賞を受賞していて、あるレビューで支持率は94%という高評価を得ているという。

その通り、中々どうして『クソ映画』とは言えない奥深さがあるのだ。心理学とか、哲学にも似た妙な真剣さがあって、誰一人このような作品を展開しなかったことを考えても、価値のある映画である。

『マーシャル・ロー』

邦題の「マーシャル・ロー 」 というのは「戒厳令」の意味で、原題の『シージ』というのは『包囲』の意味。どちらにせよ、何か特殊な問題が起きてその町やエリアを包囲して隔離しなければならず、そこには軍事介入も必要であるという、緊急事態の状況を意味する。これはあくまでも仮定で、もしニューヨークで大規模なテロが多発した時、警察やFBI、軍隊はそれにどう対処するべきかということに焦点が当てられている。

  • FBI:アメリカ国内
  • CIA:アメリカ国外

これを最初に理解しておけば早い。管轄だ。だが今回の場合、そのCIAと連邦軍(陸軍等)が国内を動き回る。本来の管轄であるFBIが、彼らの『理解を超えた行動』に直面。デンゼルワシントン演じるFBI捜査官と、ブルースウィルス演じる陸軍の将軍が衝突することになる。

イラクやクウェートが舞台の湾岸戦争が終結してから数年後、サウジアラビアのアメリカ海兵隊駐留基地が爆弾テロに遭い、大勢の海兵隊員が死亡する事態が発生。これは1998年の映画だ、この映画の3年後2001年9月11日に実際にアメリカ同時多発テロ事件がニューヨークで発生した。ハリウッドの大物が共演したということもあるが、そういう意味で、非常に注目に値する映画である。

『マイケル・コリンズ』

イギリスというのは日本人が使う言葉で、本来はUK(ユナイテッド・キングダム)。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つのエリアを主用都市とし、その他にも世界各地にその領地がある。アイルランドというのは日本で言うと北海道や沖縄、あるいは朝鮮半島のような位置にある島国であり、イギリスの中心イングランドから近いということで、常にイギリスからの圧迫を強いられる運命にあった。マイケル・コリンズは、そのイギリスからアイルランドを独立させるために奮闘した革命家だ。では、一体なぜ『南アイルランド』だけが独立したのか。世界各地で独立と自由の為に戦った革命家がいるのだ。

『マグノリア』

もしこの映画の最後に何が起こるかを当てることができる人がいるなら、それは単なるイカサマ師だ。絶対に何が起こるか当てられない。そういう映画だ。‥ただ、そこまでは10代でも考え付く発想。注意しなければならないのは『冒頭の説明』と『それ』が起きた時の『秀才の子供の言葉』である。

三木清は言った。

『人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。』

『マディソン郡の橋』

私は不倫の話があまり面白いと思えないのでこれはハマらない。だが、多くの世代に響いているようなので、実際のところ彼女の気持ちがわかる人は大勢いるのではないだろうか。話の中でも、不倫というテーマが正道から逸れていることは十分承知の上だと言わんばかりに、その否定から始まる。不倫をした実の母の告白に対し、子供たちが強く非難するのだ。

そういう描写は作中でも何度もある。『だが』というところが、この映画のテーマのようである。『その理性と倫理を超えた何か』というところに、この映画の価値があるわけだ。それは、普段『常識』や『人目』を気にして狭い枠組みの中で窮屈に生きている、つまり『生きながら死んでいる』という言葉が響くような人が、共感できるのではないだろうか。

私の場合、そういう窮屈さで例えば鬱病になったり、自殺したりするような人間ではなく、自分のやりたいように、自由に、ある目線から見れば無責任かつ生きているので、彼女の気持ちとは違う世界にいる。だから響かないが、実際には私のような人間の割合は少ない。だから昼ドラで描かれる昼ドラや、韓流ドラマのような展開が日本人の多くに好まれるのだ。そっちの割合の方が多いのである。

『マトリックス』

世界観がすごい。きっと当時は映画界を相当騒がせたことだろう。調べてみると、やはりは「映像革命」として話題となったという。ひどいSFは現実世界からひたすらに離れるだけだが、面白いのは違う。これは後者である。

マトリックス リローデッド

2になって勢いを落とす作品はあるが、これは想像のはるか上を超えてきた。この世界ではイメージトレーニングであらゆる武道をマスターすることができるシステムを構築しているため、必然的にこうなる。その世界観を見事に再現できていると言えるだろう。サイケデリックトランスで踊り狂うシーンには、時代と懐かしさを覚えた。

マトリックス レボリューションズ

『マトリックス』3部作の完結編だ。やはり、『1』で描かれた世界が衝撃的なだけに、2も3もその延長線上の話という衝撃を超えない。しかし、それだけ卓越された世界観が展開されたのがマトリックスなのである。印象としては、最初の1999年からわずか4年しか経ってはいないが、CGの技術が引きあがり、描きたい世界がより鮮明に描かれたという印象。お金が入ってそれが可能になったのか何なのか。それにしても、『4』が公開されるのは嬉しい限りだ。必ず観るだろう。2021年公開予定のはずが、コロナの影響で延期されたが、必ず観るだろう。

『マン・オン・ザ・ムーン』

若くして癌で亡くなった実在のコメディアン、アンディ・カウフマンの伝記映画で、ジムキャリーが冒頭3分でもうこの映画が普通じゃないことを教えてくれる。純粋に笑ってもらいたいため、彼に関することやその他の事は一切言わないでおこう。とにかく、35歳という若さで亡くなったのにエピソードが濃厚である。面白い生きざまで、まるで松本人志を観ているかのような感覚さえあった。彼も

『既存があり、それを壊し、そこに新たな既存ができ、またそれを壊し、の繰り返し』

と言っているが、彼と同じ着眼点があったことだろう。

例えば『ドラゴンボール』は言わずもがなの伝説的な漫画だ。Zがアニメで流れていた全盛期を知る人たちで、あれが嫌いな人は、ほとんどただのひねくれものだろう。全てが揃っていたし、そのニーズに合わせて鳥山明もアドベンチャー方向からバトル方向に変えた裏事情があるくらいだ。彼はもっとアラレちゃんのようなコミカルな世界を描きたかったのである。

そのドラゴンボールが終わって『ワンピース』の時代が来て、その後『鬼滅の刃』になる。だが、ワンピースも『ナルト』も『銀魂』も作者はみんな鳥山明とドラゴンボールの大ファンであることはファンの間では有名だ。

だが鬼滅の刃になって作者が女性になり、全盛期から20年以上経った2020年頃になると、世界では女性の地位向上活動が以前よりも活発化していて、多様性が広がり、孫悟空やモンキー・D・ルフィのような『男一人で突っ走る』というシステムに文句を言う人が出るようになった。

ドラゴンボールを知らない世代は、知る世代から呆れられるのは当然だ。あの熱意を知らないのは単純にもったいないし、漫画界を語る時に無知と言わざるを得ない。だが、若い世代は若い世代で、『は?押し付けんなよ』ということで、なぜか頑なにその世代とドラゴンボールを拒絶しようとする。小さな社会問題として『ドラゴンボールハラスメント』という言葉も作られたくらいだ。

『既存があり、それを壊し、そこに新たな既存ができ、またそれを壊し、の繰り返し』

Dragon Ball世代は、その前にあった『あしたのジョー』や『ガンダム』、あるいは『巨人の星』などの漫画とドラゴンボールを比較したとき、比べ物にならないくらい差がある、と考える。事実、同じ舞台で生きる漫画家たちこそが、『鳥山明、大友克洋以後か、以前かだ』と言うぐらい、漫画界に革命を起こしたのだと認めているのである。

だが、確かに冷静になって漫画のクオリティで考えた時、鳥山明自体はもうピッコロ大魔王で漫画を終わらせたかったし、『ドラゴンボールZ』とつけた理由は、『Z以上はもうないから』ということで、フリーザ編で終わる予定だった。

しかし、絶大な人気で少年ジャンプの部数のほとんどを担っていたドラゴンボールは、やめることができなかった。その後、人造人間編、魔人ブウ編といくたびに、主人公の孫悟空は引退をほのめかすような動きを取るようになり、息子である孫悟飯は戦いが嫌いだったり、いつの間にか『皆が燃えたぎるバトル漫画』から遠ざかっていってしまった。

すべては鳥山明にある。彼はもうペンを持つことさえ嫌になるほど、バトル漫画に対して拒絶反応が出てしまっていたのだ。そうした裏事情を知らない読者は、自然消滅するようにあの漫画から離れていき、あるいは『GT』という鳥山明が関わらない『余韻』に浸って現実逃避を続けた。

更にそれから20年経ち、これら一切の理由を知らない世代は、単純に『ドラゴンボール』という漫画の総合得点をつけることになる。ワンピースや鬼滅の刃と比較し、完成度を見比べてみると、ドラゴンボールという漫画は総合的には、納得のいかない漫画なのだ。だからそうした事情で、ドラゴンボールを否定する世代が現れたということもある。だがもう一つはこの映画でも見られるように、

『既存があり、それを壊し、そこに新たな既存ができ、またそれを壊し、の繰り返し』

というループをなぞっているようにも見える。『Ado』の背中を押すのもそうだ。時代の代弁者であり、若者の代表のような人間はいつも熱を帯びた人気を得る。そこにあるのはある種の嫉妬だろう。大人世代に一切構ってもらえずキッズ扱いされていた時代からの脱却の為、自分たちという若い世代がこうして完全に育っているということの意思表示でもある。『いつまでもガキ扱いするなよ』ということなのだ。

その為に、『既存』を否定することがある。ドラゴンボールがやり玉に挙げられることが多いのは、そのループをなぞる人間の習性がひとつ、関係しているだろう。その証拠に、きちんと向き合えば若い世代でもちゃんとドラゴンボールのファンになる人もいるのに、向き合おうとすらしない人間が多々見られるのだ。これはもう無意識に自分たちの心底に渦巻く、強い力の支配があるとしか言いようがない。

『自分たちの世代しか肯定しない!』

という、若者世代によくある暴走である。私も16歳辺りの頃を思い出すと、この世界に大人などいないという錯覚さえ覚えていたものだ。身の回りの気の知れた友人だけが、自分の世界のすべてだった。

さて、話が長くなったが、それくらい『既存』と『それを壊す』ということについては考えることがたくさんある。それをこの若さで理解し、実際に行動に移して、批判を覚悟しながら、やり玉に挙げられながら打ち崩していって自分の世界を作り上げた彼は、天才という名が相応しいだろう。

『ミザリー』

狂気とは、攻撃性である。何もしない人にそれはない。誰もがそれを持つが『見えない殻』に押さえつけられていて、その殻を出ない。常識、法律、一線を超える人は狂気的である。映画のTwitterアカウントで私に狂気を覚えた人もいるだろう。私が人に激昂したからだ。実はあれは抑止力を狙ってのことである。そして同時に、中途半端な狂人に『本当の狂気を見せてやる』と威嚇したのである。問題を前始末したのだ。

誰もが殻をなかなか突破できず、映画でも逃げ回り、恐れ、足を怪我して殺されそうになり、最後の最後にようやく銃の引き金を引く。狂人とは、その引き金を引く速度が速い人間のことである。99%の人がそれができない。だから逃げ回る恐怖映画に共感できる。私も10代の頃、屈辱的な経験をした。何もできずなすがままにされたのだ。多くの経験を積んだ私は、

『殻を破る速度』

が超速になった。覚えておくといい。狂人に遭った時は、一秒でも早く殻を破るべきだと言うことを。

恩師は言った。

『優しくなければ生きる資格はない。だが、厳しくなければ生きていくことはできない。』

『ミセス・ダウト』

女装をしている人は、女性かそれ以上に美しくなければならない。刹那にそういう考えが浮かんでしまうのは、私の性質が原因である。単純に、汚れているものを掃除したくなり、左右対称で整頓されているものに美を覚える。そういう美的感覚がまず第一に自分の感覚を操作するのである。では、この女装したオッサンはどうか。美しいのか、醜いのか。それは見てのお楽しみである。

『めぐり逢えたら』

私はあまり運命の女性と巡り合うことには興味がなく、自然に任せるタイプである。年齢が来ても結婚に焦らない。常識や周囲の目は気にしていないというか、そこに喧嘩を売るようにして生きているからだ。珍しい方である。だが、多くの女性は白馬の王子様を求めているものである。運命の人と巡り合うことを期待して生きているのだ。だから私は何度か女性に『勝手に』不機嫌になられたことがある。ハッキリとは表に出てこないが、おそらくそこにあった本音としては、

(なんで迎えに来ないのよ!)

というものだろう。グレース・ケリーの言葉(か役の言葉)に

『私を愛しているなら、追いかけてきて。』

というものがあるが、女性が私をその相手だと思い、私は一切そう思っていないことから(手を出したこともそうほのめかしたこともない)、いつまでもこちらからアプローチがなく、ただ時間が過ぎてしまうので、(あなたのために取った時間が無駄じゃない!)ということで不機嫌になったのだろう。もちろんそれが確実なことである証拠はないが、いくつか同じ例があり、シチュエーションがとても似ているので、白馬の王子様のその期待という蔓延している女性ならではのその本音と合わせて考えると、そうだったのかもしれないと推測するのである。

それくらい私は違う。だが実は、そう言いながらもどこかで期待しているところがある。そんな心をくすぐってくるこの恋愛ドラマは、普遍的である。

『メッセージ・イン・ア・ボトル』

40代を過ぎた大人の男女からすれば、案外楽しめる作品かもしれない。その年になると切実に迫りくる問題が多くあり、10代ではその重さを理解できないからだ。20代でもまだ希望に満ち過ぎている。経験豊富な人なら30代でもいいが、この映画を理解するためには、やはりある程度の経験を積む必要がある。

そうじゃないと、例えば父親にポールニューマンがいるということ自体に気づけないだろう。彼がまたいい味を出している。モーガンフリーマンもそうだが、名作の影にはそうして陰で作品を支える縁の下の力持ちのような人がいる。『踊る大捜査線』の和久さんなんかもそうだ。あれの場合、彼が亡くなった後の作品を観たが、虚無だった。和久さんがどれほどあの映画の根幹に必要だったかを思い知ったものである。

人生は色々ある。だが、その後も、生きていかなければならない。そんな哀愁の味を知った大人たちは、この映画にいつか辿り着くかもしれない。この海岸に打ち上げられた手紙のように。

『メン・イン・ブラックシリーズ』

メン・イン・ブラック3

かつては贅沢な映画の一つだったMIBシリーズだが、2019年にリニューアルしたものは『ウーマン・イン・ブラック』ということかもしれないが、そこにあったのはまるで連続ドラマを見ているような未完成の虚無感。そういう意味でも、MIBシリーズはこの作品がピークだったのかもしれない。

『メン・イン・ブラック:インターナショナル』

面白いかどうかと言えば、面白い。だが、宇宙人が出てくるのは知っているので、意外性はない。まるで、ドラマの続きを見ているかのようだ。それだけ歴史があるということでもある。だが、こんなものではないはずだ。これは、メンインブラックの新章の挨拶であり、本番はここから。そう思えば、次回が楽しみである。

『メンフィス・ベル』

第二次世界大戦中、イギリスに駐留しドイツに対する昼間爆撃を任務としていたアメリカ第8空軍所属の爆撃機B-17F、愛称”メンフィス・ベル”の若き乗組員たちを描いた作品。人物は実在しないが、この事実は存在する。

[B-17F 41-24485号機 メンフィス・ベルと乗組員]

この映画を通し、戦闘機の乗組員からの視点で戦争を考えたいということである。色々な戦争映画がある中で、この時代の戦闘機の中から描く作品は多くないので貴重な作品だ。だが、万人受けのエンタメ性があるかと言えば、やはりマニアックな部類に入ってしまうだろう。そこは一つ、最後のシーンで流れる『20万人が死亡した』というこの映画の根幹にあるメッセージを考えながら観ていきたい。

『モンタナの風に吹かれて』

豪華キャストの力もあるかもしれないが、wikipediaの詳細が短いのとは裏腹に、素晴らしい作品である。やはり、私が良いと思った映画を調べてみると、ロバートレッドフォードが監督をしていることが多いのだ。

  • 普通の人々
  • シビル・アクション
  • モーターサイクル・ダイアリーズ
  • 大いなる陰謀

と、彼の映画と知らずして観て、どれも同じように感慨を覚えた。彼の映画には共通点がある。それは『静かな熱意』だ。ヒーロー映画のようにエネルギーを簡単に外に放出するスッキリ映画も魅力の一つだが、彼が描く『人間』のように、内在するエネルギーのコントロールにもがきながら、それを最終的にどう放出していくかという葛藤ドラマも、非常に見応えがある。

私は不倫自体があまり好きではないので、こういう展開はツボだ。不倫は嫌いだが、結婚中に人に好意を覚えてしまうことなら共感できる。それが人間だからだ。結婚というのは、ただ人生で先に出逢った人と行ったものだから、後になってからもっといい出会いがあるのはうなづける。

『魅せられて』

リヴタイラーの魅力を前面に押し出したような映画だ。美男美女はそれだけで絵になるわけだ。だからイメージビデオがあるだろう。ただ美男美女がカメラの前で笑ったり、自然と触れ合ったり、水着になったり、飲食したりするのを見るだけの映像だが、それがまかり通るのである。

『黙秘』

単なるおばさんの話と思うかもしれないが、この映画を楽しむにはいくつかのポイントがある。まずはスティーブン・キングという名作家のことを知ることだ。

  • グリーンマイル
  • スタンド・バイ・ミー
  • シークレット ウインドウ
  • ショーシャンクの空に
  • シャイニング
  • キャリー
  • IT/イット “それ”が見えたら、終わり
  • ミスト
  • ミザリー

枚挙に暇がない。これらの名作はすべてこの作家が生み出したものである。そのうち、『ミザリー』という映画がある。そこで主演を務めるのが、今回のおばさんであるキャシー・ベイツだ。

彼女はその作品でアカデミー主演女優賞を受賞したが、『怪演』というのはこのことである。そこで怪演してみせた彼女が、またこのスティーブンキングの『黙秘』という映画で主演を務めるわけだ。では、今度の彼女は一体どういう女なのだろうか。

『目撃』

イーストウッドが出ているだけで絵にはなるし、ジーンハックマンもハマり役だが、これを映画館で観たいかと聞かれると、わざわざ映画館で観る必要はないという結論になるだろう。テレビドラマに十分これくらいの作品は溢れている。

  • $50,000,000
  • $50,068,310

上が製作費で、下が興行収入だ。この数字を考えても、その内容のコモディティ具合が垣間見えるだろう。

や行

『ユー・ガット・メール』

『ユー・ガット・メール(メールが届きました)』。かつて、このキーワードは『最新』だった。公開時の1998年は、まだEメールが普及したてであり、最前線。大きなパラダイムシフトによってこの世界の形が変わったこのタイミングで、この手の映画が出るのは必然的でもあっただろう。この映画は1940年に製作されたエルンスト・ルビッチ監督の『桃色の店』のリメイク作品で、そこでは「手紙で文通」である。手紙での文通も、パソコンで『ユー・ガット・メール』と鳴り響くEメールも、2020年の今考えると、かつて通った道である。そうなると、もしかしたらいずれこの次の展開がリメイクされるのかもしれない。そんなことを考えながら観るのも、一つの楽しみ方である。

人間がそこにいる限り、どんな時代でも起きることは同じだ。流行というソフトは違っても、人間というハードは未来永劫変わらない。ぜひ、ソフトにとらわれずにハードに目を向け、彼らが織りなす恋愛関係を見て、ハラハラドキドキしたい。

『山猫は眠らないシリーズ』

1~7までの作品を観たが、時間半の映画なので、長めの連続ドラマを観たような感覚だ。だが『山猫は眠らない』というタイトルは機会損失を生んでいる。これは単純に原題のまま『スナイパー』の方が良かった。私自身がこの妙なタイトルのせいで長い間これを観ることを避けていたからだ。始めの方は確かにゲリラ的な戦争で『山猫』でいいが、その後の戦いでほとんどジャングルは出てこない。『スナイパー』に特化した映画は少ないので、貴重な作品だった。ベケットJr.の今後も楽しみである。

ら行

『ライアーライアー』

嘘をつくことが仕事であるという常識に支配された弁護士が、その常識の範囲外で生きる息子の純粋な願いによって『本来の人間の常識』を思い出す、あるいは思い知る教訓映画である。よく、子供の頃純粋だった気持ちが大人になって汚れてなくなってしまう、という類の言葉を聞くことがあるはずだが、それは具体的にはどういうことなのか、ということを教えてくれる映画だ。

実は、詐欺師のポテンシャルを持った人間も、その闇を隠して表層を騙せば、この世界では出世もできるし、得られる報酬もある。だが、『では彼は成功者になれるのだろうか』という疑問を持った時、真理が出す答えは即答として、『なれない』わけである。それは一体なぜか。表層に好きなものを揃えられる権利を持っているのに、成功者ではない。この映画を通してそれを理解できるなら、まだ間に合う。

『ラスベガスをやっつけろ』

ハンター・S・トンプソンは実在したジャーナリストだが、彼の人生は波乱に満ちていた。ジョニー・デップは彼のよき理解者であり、それは暗に『ドラッグの正当化』を意味しているが、確かにジョニー・デップもあらゆる映画でドラッグ愛好家が喜ぶような演出をしている。この映画はアウトロー映画であり、一部の人は受け付けることができないだろう。しかし、これが『ラム・ダイアリー』の後の話ということを考えると、不思議な感覚になる。薬は彼を狂わせたのか。それとも彼の人生を彩ったのか。

『ラブ IN ニューヨーク』

マイケルキートンがまるでマイケルJフォックスのようなカジュアルで刹那的な若者を演じる様子が見られるのでそれは貴重だ。だがまあ、それ以上の何かを得られるということはないだろう。時間が経ち過ぎているのかもしれない。

『ラブ・アンド・ウォー』

ヘミングウェイの実話映画のようなものだから、それだけで貴重である。彼の作品が好きなら『武器よさらば』のヒロイン「キャサリン・バークレイ」のモデルとされる7歳年上の従軍看護師アグネス・フォン・クロウスキーとの恋愛が描かれるため、注目である。どちらかというと彼女がメインだから主演をサンドラブロックが務めている。

『ラブポーションNO.9』

1987年デビューのサンドラブロックの、5年目1992年の作品。ほとんど無名の映画に出続け、彼女はこの翌年の『デモリションマン』から名前が売れ始める。よって、この時代の映画はほぼ無名女優扱い。だからこの作品もwikipediaにも詳細がないレベルのB級作品だが、あながちそう低次元のものとは限らない。それは彼女の存在感が関係しているのだろうか。それとも根幹に『愛』が存在しているからだろうか。

『ランダム・ハーツ』

午後ローかなにかで一度観たことがあって、(ああこれか)という感じで観るのをやめようとしたが、そう言えば内容をしっかりとは見ていないことに気が付き、再視聴。だが、覚えていないくらいだから大したことはないのかなと、少し斜に構えた態度だった。だが、中々面白かった。もしかしたら自分が大人になったことも関係しているのかもしれない。子供というのは往々にして『これ以上自分の考えは変わらない』として、『投影バイアス』に支配されるものだ。

投影バイアスとは、例えば今満腹の場合、2時間後も満腹だと錯覚してしまうこと。空腹の自分を思い出せないのだ。その逆もまた然りである。つまり、現在の自分がかなり頑なな考えを持っているので、将来も恐らく同じだろうと思い込むことを言う。ここで言う『大人』とは例えば、

  • 結婚をする
  • 子供を育てる
  • 親になる
  • 義理の親を持つ
  • 一軒家を持つ
  • 安定した職を持つ

などの『平凡な一般常識の要素』を備え、あるいは経験している者である。

だが、人生というものは複雑だ。複雑な要素と複雑な要素が絡みあい、更に複雑化していて、一筋縄ではいかない。『そのすべて』を手にいれる直前で、事故で最愛の人を失ったり、あるいは自分の体が満足に動けなくなるということもある。

だが、生きていかなければならない。それでも、生きていかなければならない。そうしたこの人生の複雑化した多様性を受け入れることができるようになる『大人』とは、例えばこのような映画を受け入れられる人間である。

『リアリティ・バイツ』

1990年代のジェネレーションX・MTV世代を描いた映画で、原題の “Reality Bites” からも分かる通り、厳しい現実(現実が噛み付いてくる=現実に直面する=厳しい現実)に立ち向かう4人の若者を描いた青春群像劇である。ちなみに、2020年代に日本で話題になった『Z世代』だが、アメリカ合衆国をはじめ世界各国において概ね1990年代中盤から2000年代終盤、または2010年代序盤までに生まれた世代のことだ。生まれながらにしてデジタルネイティブである初の世代である。Y世代(ミレニアル世代とも)に続く世代であることから「Z」の名が付いている。

X世代1960年代中盤から1970年代終盤(もしくは1980年代序盤)に生まれた世代のこと。ベビーブーマーの次の世代で、ミレニアル世代(Y世代)の前の世代に当たる。
Y世代インターネット普及前の時代に生まれた最後の世代で、幼少期から青年期にIT革命を経験したデジタルネイティブの最初の世代でもある。X世代の次の世代であるため「Y」の名が付けられた。
Z世代1990年代中盤から2000年代終盤、または2010年代序盤までに生まれた世代。生まれながらにしてデジタルネイティブである初の世代。

つまりこの映画はそのうち『X世代』で、ベビーブーマーの次の世代の青春群像劇だ。ちょうど日本で言えば、松田聖子だとか沢田研二あたりの活躍を目の当たりにした世代だろう。ちょうどそれくらい古くなると『ダサい』印象を覚えてしまうのが人間だが、この映画にあまりダサい一面は見当たらない。むしろ、『この先どうやって生きていこうか』という、健全な若者の姿を見ることができる。

アメリカでは70年代にアメリカンニューシネマという新しい概念が生まれた。

  • イージーライダー
  • カッコーの巣の上で
  • ダーティハリー
  • 俺たちに明日はない
  • 明日に向かって撃て!

など、ベトナム戦争に邁進する政治に対する特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメントにより、「ハッピー・エンド」の王道から遠ざかり、反体制的な人物が体制に敢然と闘いを挑む、という内容が多く描かれた。

  • ウォーターゲート事件
  • ベトナム戦争
  • ケネディ暗殺

これらの国民を揺るがす大事件の数々が、当時のアメリカ人の心に大きな影響を与えたのだ。この映画で生きる彼女たちX世代は、そんなひと悶着があった『後の人生』を生きることになる。色々あった。それに抵抗した。そして一段落ついた。さて、この先どうやって生きていけばいいのか。そういう切実な悩みを抱えた若者たちの葛藤ドラマは、十分見応えのあるものなのだ。

『リトル・ブッダ』

『ブッダ(釈迦)』として世界で圧倒的に有名なのは釈迦一族の王子、ゴータマ・シッダールタである。彼は釈迦という通称で呼ばれるが、悟りを開いてから『ブッダ(悟りを開いた者)』の称号を得た。であるからこそ、ブッダというのは『彼の前にも』大勢いたわけだ。だが、知らない人からすれば『ブッダ=釈迦(ゴータマ・シッダールタ)』ということになる。

彼の一生は『手塚治虫のブッダ』等で観ることもできるが、神格化されているファンタジーだから好き嫌いが分かれる。それでも根幹にある教訓は真理なのだが、なるべく現実に近い方がいい。ということで、あのキアヌリーブスがシッダールタの少年時代を演じるこの映画は、何かと世界中から注目を浴びることになる。

ただし、この映画でもまだまだ足りない。ここではブッダの教え、つまり『仏教』の一つの要素を取り上げている。『輪廻』である。生まれ変わりという概念としてこの考え方は、実は西洋人の興味もそそることが多いようだ。それはなぜかというと、色々な映画でそれについて触れるのを観ることが多いからである。単純に考えて『生まれ変わってまたあなたと逢いたい』という考え方は、西洋だけじゃなく世界中のどこにおいても、ロマンチックな考え方として受け入れやすい。

だが実際にはブッダ自身は『私は生まれ変わらない』と言っていることから、仏教の中でも分かれた宗派の一つの教えということで、信憑性はあまり世界規格ではない。私も、ニーチェの考え方の方が合点がいく。

ニーチェはつまり、

『生まれ変わりがあると考えると、”次の人生で頑張ればいいや”という退廃的な考え方が生まれる。だが、この人生はたった一度しかないと覚悟すると、”今”を全力で生きる』

と言ったわけだ。その『今を全力で生きる』という真理はブッダだけじゃなく、すべての宗教でも強く説いていること。

アリストテレスは言った。

『実際に奴隷である人、あるいは自由民である人のすべてが、生まれながらに奴隷または自由民であるとは限らない。』

奴隷として生まれ、生きても、その連鎖を断ち切ることはできるとして、鼓舞させる。命を浪費させず、むしろ尊んで奮起し、その命を使い切って全うすることに命を賭けるようになる。ゴータマ・シッダールタとて、『負の連鎖を断ち切る』ことについて再三再四、弟子たちに教えたのである。

だがもちろん、『ではあなたは、こんな地獄の環境で生まれ育って、本当に来世に期待しないで現在を生きるか?』という状況も想像する必要がある。あたりに広がっているのが地獄のような状況で、奇病に侵され、痛み、苦しみ、悩みがつきない人生を強いられても、本当にそれが言えるかどうかについて、考えなければならない。

その時、『宗教』だろうがなんだろうが、光を照らして救ってくれる存在が現れれば、それが強く『大丈夫。来世では大丈夫』と説いてくれれば、人の心は揺らぐのではないだろうか、と言うことについても、想像しなければならない。

もちろん、それを想像した上での結論である。ブッダ自身、こう言っている。

『たとえのこぎりで手足を切断されても、自分を見失うな。』(超訳)中部経典『鋸喩経』

本来、これが彼の教えなのだ。一切の執着をしないことで人間は初めて救われる。この世に執着しないことが彼の教えなのに、『生まれ変わって次の人生では楽をする』というのは、正しい仏教ではない。そしてブッダ自身、『本来、特定の宗教や信仰は必要ない』として、自分の教えが宗教ではないとも発言している。

こうした事実を直視して、知識と見識の基礎を積んだ状態で、初めてこの映画をエンターテインメントとして観る。まるで、『作ってはいけないのに蔓延している仏像』を、『一人間たちの当時の想いと技術を観る』のと同じように、

(ブッダの教えがこういう風に展開されていき、現代にもこうやって影響しているんだなあ。そしてそれはいい影響もあれば、悪い影響もあり、人というのは実に儚く、無知で、他の動物と変わりないものだなあ)

と、むしろそれらを通して森羅万象の諸行無常を理解するのである。

『リトルマン・テイト』

4歳で詩を書き、7歳でモーツァルトを弾きこなし、道路に描く落書きも卓越している天才児を描く作品で、ジョディフォスターがなぜ初監督作品にこのような映画を描いたかの方が気になる。

彼女はフランス語も堪能で、その後ハーバード大学、コロンビア大学などの複数の名門校に合格し、イェール大学に入学し、優秀な成績で卒業する。そして、子供のころから天才的な演技で世を魅了し、『タクシードライバー』ではその類まれなる魅力に狂わされたジョン・ヒンクリーという男からストーカー行為を受ける。

そしてその男は、1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件を起こす。まあこの男の狂気は彼女には関係ないかもしれないが、とにかく彼女は才色兼備である。もしかしたら、彼女もこの映画の彼のように育てられたのだろうか。

『リバー・ランズ・スルー・イット』

『スティング』や『明日に向かって撃て!』で有名なロバートレッドフォードが監督の作品。彼の作品をいくつか見たのだが、そのどれもがなかなか奥が深い物語を展開している。この映画も特に何か大きな出来事は起こらず、スーパーヒーローも出てこないのだが、なんとも哀愁のある一つの家族の話を描いている。大自然があり、そこに寄り添いながら大恐慌が始まる前のアメリカを生きたある家族があった。

人間には心がある。心があるから人間なのだ。その心が物語を複雑にする。それは人々の胸を苦しくするドラマチックな展開もそうだが、人々の心をかきむしる理不尽な展開にも発展させる。人間がいなくなればそのドラマはこの世から消える。そして大自然はそんな人間たちの都合に関係なく、いつもそこに在る。

『リプリー』

第72回アカデミー賞でジュードロウが助演男優賞に選ばれているが、賞を獲るのは何となく、常にこういう役のように『作品をかき回す人』であるケースが多い。『トレーニングデイ』のデンゼルワシントンがいい例だ。今回もあのようなイメージで、ジュードロウが演じるディッキーが作品の中心に常にミステリアスに存在する。

だが、3000本も映画を観ていればただそれだけではこの映画をおすすめ映画にジャンル分けすることはない。『それ以上の展開』がこの映画にはあるのだ。

最後まで観ることをお勧めする。140分と少しだけ長い映画だが、その微妙な長さがまた結末のアクセントになっていい。最後、なぜこの映画が『ディッキー』ではないのかということを知るだろう。

『ルーキー』

数ある警察バディ映画の中に埋もれてしまったような作品だ。名優二人が揃っても、ケミストリーは起こし切れていない。展開が面白くないと言えばそうではないが、『埋もれ作品』という意味での、高い価値はない。見落としているのは、その程度の作品だからだ。例えば仮面ライダーとか、夕方のドラマとか、そういうところでいくらでも同じような展開をする作品に触れているので、映画館で観るということはないだろう。

$21,600,000

これが興行収入だが、同じようにコモディティ化しているイーストウッドの『目撃』は

$50,000,000
$50,068,310

上が製作費で、下が興行収入だ。それの半分の需要だったということだ。

『レインメーカー』

ここで言うこの言葉の意味はネガティブである。悪徳弁護士や検事が力をつかって人間の最後の尊厳を守る神聖な場所に『雨を降らせる』。時に人間の生死が関わるこの閻魔の砦には、文字通りその者の行方が天国か地獄かを決める閻魔大王かのように、禍々しい気配が漂うものである。人間がグルになって画策すれば、捏造も隠蔽も容易である。では、そこには本当に雨しか降らないのか。『恵みの雨』は、降らないのか。

『レザボア・ドッグス』

鬼才タランティーノ監督の一発目だ。では彼の監督作品を見てみよう。

公開年邦題原題監督以外の役職備考
脚本製作出演その他
1992レザボア・ドッグス
Reservoir Dogs
役名:ミスター・ブラウン
1994パルプ・フィクション
Pulp Fiction
役名:ジミー
1997ジャッキー・ブラウン
Jackie Brown
役名:留守番電話の声
2003キル・ビル Vol.1
Kill Bill: Vol. 1
役名:クレイジー88のメンバー
2004キル・ビル Vol.2
Kill Bill: Vol. 2
2007デス・プルーフ in グラインドハウス
Death Proof
撮影役名 : ウォーレン
2009イングロリアス・バスターズ
Inglorious Bastards
役名:ドイツ軍兵士/アメリカ軍兵士
2012ジャンゴ 繋がれざる者
Django Unchained
役名:フランキー
2015ヘイトフル・エイト
The Hateful Eight
ナレーター
2019ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
Once Upon a Time in Hollywood
役名:レッド・アップルのCM監督(声のみ)

いかがだろうか。彼の映画はほとんどが大ヒットしている。彼の映画のファンも大勢いるだろう。この映画も音楽が有名で、日本テレビ系『旅猿』で東野幸治と岡村隆史、出川哲朗のトリオが、ロケ地の喫茶店に旅行したついでに、この映画のシーンの真似をしていた。彼の映画は、

  1. 音楽がコロコロ変わる
  2. 主軸となるキャラ(視点)がコロコロ変わる
  3. テキストやアニメがよく差し込まれる

などの特徴があることが多く、そういう演出に慣れていない人は一体どのようなストーリーになっているのか混乱してしまう人も多いだろう。私も『イングロリアス・バスターズ』を初めて観た時は意味不明の映画という感想だった。だが、映画に慣れてきたころ、それはなかった。ワンハリなどは最も新しいが、最初からそうして構えて鑑賞していたので、どんな展開になっても動じなかったし、そういう心構えがあれば十分楽しめ、内容もよく入ってきた。

レザボアドッグスは彼の最初の作品だから、彼の手法を知るためにも見ておいた方がいいだろう。視聴者をあえて混乱させた方が、犯人や要注意人物が誰なのかがわからず最後まで楽しめる、という考え方もある。

『レッド・オクトーバーを追え』

CIAのジャックライアンシリーズの第一作。だがこの映画の主人公はショーンコネリー演じるソ連の軍人である。この映画は小説が原作だが、冒頭から常にこのようなことが現実にありえたかのような雰囲気を醸し出すので、つい見入ってしまう。デンゼルワシントンの映画『クリムゾンタイド』と同じような状況だから、あれが実話である以上、こういうことがあってもおかしくはない。そのクリムゾンタイドでは、40年以上経った2002年に「当時の我々の認識以上に、我々は核戦争に近づいていた」として、当時そういうことがあったと告白。

核戦争が起きる一歩手前を常に綱渡りしていたキューバ危機、冷戦時代というのは、こういうことが起きてもおかしくはないのだ。ショーンコネリーの存在感ある演技も手伝って、リアリティが増している。また、ジャックライアン役のアレック・ボールドウィンは名前こそ売れてないが、名作に多数出演している。例えばミッションインポッシブルでもトムクルーズの上司役を務めるが、そうした重鎮役のイメージも、このCIAの重要人物を演じたことが関係しているだろう。

その意味で、今後様々な映画を観ておく際に押さえておきたい一作である。

ジャックライアンシリーズ

  1. レッド・オクトーバーを追え! (1990年)
  2. パトリオット・ゲーム (1992年)
  3. 今そこにある危機 (1994年)
  4. トータル・フィアーズ (2002年)
  5. エージェント:ライアン (2014年)
『レッド・ブロンクス』

何度も観ていたということは、鑑賞を始めたら思い出してきた。コンビニの感じ、不良のレース対決の感じ、何となくの雰囲気で脳に刷り込まれていた。子供の頃に何度も観ていたのだろう。では、大人になって見識がついてから観るとどういう感想に変わるか。見応えはある。だが、『酔拳』でウォンフェイフォンの母をユニークに演じた彼女の良さがほぼゼロだし、中国仕様に帳尻を合わせると違和感が生じる。ただ、ジャッキー・チェンはこの映画で世界全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、米国中でジャッキー・チェンブームを巻き起こした。そういう意味で初見のインパクトとしては『つかみは成功』だったのだろう。

ただ、ジャッキー・チェンの実力は完全に生かしきれてはいない。違うエリアで積み上げてきた『型』を、違うエリアに受け入れられる『型』に当てはめ変えるところに無理が生じ、ちょっとした違和感が生じるのだろう。これが、ハリウッド映画以外が全世界規格として通用しない理由の一つだ。その意味で、『パラサイト半地下の家族』というのは世界規格に当てはまる印象を受けた。それもこれも、ジャッキーら先駆者たちの積み上げてきた失敗や成功といった基礎があってこその栄光だと言えるだろう。

『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』

1998年のイギリス・アメリカのクライムアクション映画である。イギリスでは、その年の年間興行成績1位を記録したというが、私はこれが何かのランキングで1位に来るような作品には見えなかった。さすが、ロックが生まれた国だということだろう。日本の根幹には現代の京都の町で見られるような『わびさび』がある。その意味だが、「侘び」とはつつましく、質素なものにこそ趣があると感じる心のこと。「寂び」とは時間の経過によって表れる美しさを指す。

まさに、ロックンロールとは真逆の美学であり、概念だ。静かな庭園で鹿威し(竹でできた水のやつ)の竹の音がコンっと小さく響き、池の水面にわずかな水紋が動くのをふと気づくような静寂の世界で、ゆっくりと温かいお茶を飲んで心を温め、風情を感じ、自然と一体化して世界の真理に触れる。これが日本の一つの美意識だ。

だがイギリスで生まれたロックンロールは、SEX、ドラッグ、ヴァイオレンス。

シド・ヴィシャスは、

『ただコード弾いてブーンって鳴って、そしたら音楽だ。』

と言い、一切の枠をぶち壊す。既存の秩序を破壊することこそロックンロールだと言わんばかりに、建設的とは程遠い、刹那的な人生を謳歌しようとする。ロックに傾倒する人の中には、27歳で死ぬ伝説のロッカーが多いことから、自分の人生の寿命は予め27歳と決め、その年で自殺しようとする人もいるくらいだ。

日本の美学もイギリスのロックも、語るには私では知識が浅いが、何となくこのようなイメージを持った時、この映画が日本で1位にならない理由が見えてくるかもしれない。

『ロビン・フッド (1991年)』

売上的には400億円近くの大成功だが、第12回ゴールデンラズベリー賞最悪主演男優賞受賞をケビンコスナーが受賞してしまっている。最悪の演技をした者に贈られる賞だ。海外ではこういう風に、わざわざブーイングをするべきだ、という風潮がある。

だから、海外生まれのyoutubeを筆頭としたSNSには、『Badボタン』がつけられていて、それがそのままブーイングの形をしている。だが、日本人はそれに慣れていない。正直、ブーイングされたらそのまま対人恐怖症になったり、『いじめ』を受けたと委縮してしまう人もいるだろう。それくらい心理的な初期設定に大きな差がある。

では、この映画がどうだったかというと、彼の演技というよりロケーションが悪いイメージがある。中世イングランドの土地を描きたかったのは伝わるが、あまりに雄大な大自然が多いので、『近くの山』で撮影しているかのような、そういうチープさが伝わる。

例えば『ロードオブザリング』のようなロケーションであれば、まるでファンタジーの世界に迷い込んだイメージがある。CGと合わせているかもしれないが、そういうことも含めて背景の演出にも問題があったはずだ。

彼は前年に『ダンス・ウィズ・ウルブズ』。そして同じ年に『JFK』、更に翌年には『ボディガード』という大名作に出演している。彼の演技というよりは、彼がチープな世界観に飲み込まれてしまった印象だ。確かに、ラッセルクロウが主演を務める『ロビンフッド』の方が、臨場感があって面白い。だが、これはこれでつまらないということはなく、個人的には面白かった。

『ロレンツォのオイル』

難病副腎白質ジストロフィーに悩むひとり息子ロレンツォを助けるため、解決策を必死に探すオドーネ夫妻の実話に基づく物語。この映画の専門性の高さは、wikipediaの実話説明である、以下の内容を見て分かる通りである。

「ロレンツォのオイル」が無効と言われ、詐欺師やインチキとまで批判されたロレンツォの両親を、最後まで支持し擁護していたのがそのモーザー医師である。「オイル」の臨床試験を地道に続け、2005年に「ロレンツォのオイルはすでに症状が進行した患児には無効だが、血中VLCFA値が高値を示す児の発症予防や症状軽減には有効」という画期的な論文を出した

普通の家族だった。だが、ある日子供が難病中の難病にかかった。すべての親はその瞬間に突き付けられる。『残りの人生を、どのように生きるか』ということを。

例えば、今挙げたような超専門的な話を、あなたは理解できるだろうか。できるわけがない。できるのは専門家だけだ。その専門家レベルにまで自分の知識を引き上げなければならない。それも、『最低限』のためにだ。最低限そのレベルに自分の知識を引き上げることは、戦うことを意味する。病気と。そして、それを治すために必要なありとあらゆる障壁の一切とだ。

その知識は知識そのものだけではなく、『その知識を習得した決意と覚悟』という心に覚悟した一本の槍を意味する。戦闘に無知の素人が、『攻略不可能』と言われた戦場に一本の槍だけ持って未踏未達のミッションに挑む。

それだけで、想像を絶する勇気とエネルギーがこの両親たちに秘められていることが垣間見えるのだ。ミッション。それは『使命』である。ある日、自分の子供が死に直面した。それは、使うときだ。自分の『命を使う』時だ。

『隣人は静かに笑う』

暗い過去を忘れられない男の家の隣に、ある一家が引っ越してきた。彼らはとても人当たりがよく、いい友人になれそうだと、パートナーの女性は言った。だが、男だけが妙な違和感を感じていた。何かおかしい。…このエンディングを予想できるか。

わ行

『ワイアット・アープ』

西部開拓時代の保安官であるワイアット・アープを主人公とした伝記、西部劇映画で、登場人物のほとんどが実在する人物であるという実話的な面白さがある。

だが、ゴールデンラズベリー賞として最低作品賞にノミネートされ、ケビンコスナーが最低主演男優賞を受賞し、作品自体が大赤字となっていることからも、どこかにそういう退屈さや低俗さが垣間見える感じになっている。

やはり、200分近い長さに期待する内容と一致しないところが大きいだろう。これなら『アンタッチャブル』の方が遥かに面白い。あそこでアルカポネという伝説のマフィアや、それ以上の存在であった信念の警察たちを120分で描いたのだから、それと比較してもワイアットアープは内容に迫力が足りない。

この4年前の1990年に『ダンス・ウィズ・ウルブズ』という名作を180分(完全版240分)で作った彼だから、そうしたことも影響しているかもしれない。その作品では第63回アカデミー賞作品賞ならびに第48回ゴールデングローブ賞 に受賞している。ただワイアットに関しては製作のみとなっている。

ただ、それらを考えても私は中々見応えがあったとして、この作品を位置付けている。あまりハードルを上げ過ぎないようにすれば、貴重な実話映画として楽しめるだろう。ワイアットアープという西部開拓時代の伝説の保安官が実在したことは確かなのだから、単純に『映画になるような人生を送った伝説の男』の話は、見ていて面白い。

『ワイルド・ワイルド・ウエスト』

入りが特徴的だから、以前観ていたと分かった。日曜洋画劇場とかその類のところだろう。だが大して印象に残っていないのは、コモディティ化しているからということもあるだろう。同じような映画がいくつもある。

ゴールデンラズベリー賞では最低作品賞、監督賞、スクリーンカップル賞、脚本賞、主題歌賞の5部門を受賞するという『偉業』ぶりで、評論家からの評価もすこぶる悪い。

ジョニー・デップやトム・クルーズ、ジョージクルーニーやマシューマコノヒーといった大物タレントの名前も候補に挙がっていたらしいが、出演しなくてよかったのかもしれない。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』

清朝末期に活躍した実在の武術家である黄飛鴻(ウォン・フェイホン)を主人公にしたアクション映画だ。大体時期は1850~1920年とか、その辺りとなる。つまり、この時期にあったのは『阿片戦争(1840年頃)』だ。

清(中国)はイギリスに戦争で負けた。だから不平等条約を突き付けられた。戦争の敗者、敗戦国は常にそういう運命をたどる。『阿片戦争』という映画はあるが、DVD化すらされていないので観ることができていない。中国はあまり自分たちの落ち度を公開しない国なのでそれも手伝っているだろう。もちろん日本とて隠したい事実を隠す傾向がある。それは全世界同じことだ。

とにかく主役のウォンフェイフォンというのは伝説の人物で、彼を描いた映画は80本以上。これは同一題材で製作された映画の数としては現在世界最多でギネスブックに掲載されている。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』

このシリーズの第二弾である。今回伝説の武道家ウォンフェイフォンは、白く怪しい宗教『白蓮教』の台頭や若き日の孫文と接触することになる。中国の歴史としても貴重なシーンだ。だが、カンフーアクションがメインとなってしまうので、途中から次の作品に至るまで、現実離れした『悪い中国の一面』が出るようになり価値を落としていく。いや、子供の頃ならこういう世界が好きだったのだが、今はもう通用しないだろう。中国はこうした『虚偽の表層』を剥がして真実で勝負した時、世界を震撼させる『レッドクリフ』のような映画を打ち出す。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー』

ワンチャイシリーズの主人公は『酔拳』と同じ、伝説の武道家ウォンフェイフォンだが、今回は外伝ということで彼の父親、黄麒英(ウォン・ケイイン)が主役である。ワンチャイで敵役を務めたドニー・イェンが演じる。ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェンというのは中国3大カンフースターと言えるだろう。もちろん、全世界的に見ればジャッキー・チェンが群を抜いているのだが。しかし、作品を見ると彼にあるユーモアさがないだけで、彼らはストイックに武道家を演じていて迫力がある。世界には女性もいるわけだから女性ウケがどうなるかはわからないが、実在した人物なわけだから、見応えがある。

英数字

『6デイズ/7ナイツ』

何の賞も獲っていないこの映画が『観るべきリスト』に入ってた理由を考えたのだが、他と違うところはこの映画の舞台となる無人島の壮大なロケ地だ。(すごい大自然だなあ)と感じるのが正直なところ。また、この映画が嫌いな理由を考えたのだが、特にそれが見当たらない。ラブロマンス、アクション、スリル、それら全てがほどよく備わっていて、ロケ地の壮大な大自然が豪華な『額縁』となって演出してくれている。

『8㎜』

最後まで真相がわからず、緊張感が途切れない。だがこの映画だけで完結する話だからサイズと見やすさはちょうどいい。フィクションだけど、そうとも言えないのだ。

  • フローズングラウンド
  • チェンジリング

という映画がある。これは、実話だ。偶然前者もニコラスだが、このあたりの事実を知ってると、いささかこれが単なるフィクションの枠に収まらない。後者なんて詳細がエグすぎて、むしろ映画では割愛してるくらいだ。本当に怖いのはそういう映画だ。『映画で実態を追わせない』のだ。

でもこの映画はこの映画だけで完結する。結構エグった映画だが、これくらい描かないと鑑賞者の心には残らない。自分だったらどうするかと、いつも想像しながら映画を観る。そして、常に即断する俺でもその判断が難しいものは、大体『良い映画だな』となる。今の自分をぬるま湯から出してくれるからだ。『セブン』の脚本家が関与しているだけある。

『NO WAY BACK 逃走遊戯』

豊川悦司もラッセルクロウも名優だが、これはB級そのものである。90分しかないこともそうだが、本気を感じ取れない。この程度のものを作るのであれば作らない方がいい。ラッセルクロウの無駄遣いだ。せっかくの日米コラボだから期待してしまい、ハードルが上がるということもあるかもしれない。

『HANA-BI』

自分が同じ状況になったことを想像して観る必要がある。『こういう人生があってもいいのか』という疑問を真剣に考える必要がある。

『JFK』

1963年、キューバ危機を乗り越えたばかりのジョン・F・ケネディは何者かによって暗殺された。話によると、三発の銃弾が聞こえ、オズワルドという人物が逮捕されたというのである。だが、どうもこの話はおかしい。例えば、大統領を暗殺するという前代未聞の大事件を起こそうという人物が、狙撃場所をこんな『不利なポイント』にしたこと。目の前には樹が生い茂っていて、車の速度も、曲がり角でもっと落ちるポイントがあった。そして、実際には『7発』の銃弾が撃たれていたということ。では、一体この事件の犯人はなぜなのか。そして、なぜこの事件がいまだに『真相が闇の中』という片づけ方なのか。

『X-MEN』

アベンジャーズと同じマーベルのソフト。マーベルのアベンジャーズと、DCコミックスのバットマンら、ジャスティスリーグの面々がスーパーヒーローの中核をなしているが、X-MENも条件次第ではそれに匹敵するポテンシャルを持っている。ただそのためには、アイアンマンやジョーカーのような突出したカリスマ性を持った人物が現れないと無理だろう。ウルヴァリンが人気を得たのでスピンオフが出たが、例えば『ダークフェニックス』で最強と言われるキャラが出てきても、その女優の知名度がいまいちなのでピンと来ない。俳優の人気との兼ね合いも重要だ。




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