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アンデルセン『目は目を見ることができない。指は指を指すことができない。誰でも自分のことは案外わからないものだ。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]デンマーク童話作家 アンデルセン画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

いや、鏡を使えばそれが可能になる。しかし、『鏡を使えば』の話だ。使わなければ見れない。ここに大きなカギがある。人は、自分という存在の証明を、『自分以外のなにものかの反応』によって認識する。例えば、家族や友人。それらの人間関係は、自分に対してどういう反応をするだろうか。愛されているのであれば、どういう反応をするだろうか。嫌われているのであれば、どういう反応をするだろうか。そういう『他の反応』を見て、自分が(こういう人間だ)ということを認識するのである。

 

試しに何もない部屋に1か月ほど入ってみるといい。あるのはトイレだけで、食器口から食事が出るだけで、人と会話することは出来ない。たちまち自分のアイデンティティ(身分証明)の認識が薄れていくことを思い知るだろう。

 

 

『他のもの』というのは、別に人間だけではない。動物でもいいし、あるいは『一冊のノート』でもいい。例えばノートなら、ノートに自分の思っていることを書くと、それは当然文字という記号として表現される。その記号を見て、自分が今、どういう心境であり、どういう人間なのかを認識するのだ。

 

そう考えると、『鏡』という『他のもの』を使わなければ、人はアンデルセンの言う通りだ。それに、その『他のもの』の反応が、本当に正しいかどうかの真偽も疑わしい。ノートには詭弁を書けるし、人の反応も、往々にしては素直なものではない。だとすると、『真実を映し出すはずの鏡』で認識した自分ですら、その認識の真偽は疑わしい。自分ではハンサムや可憐だと思っていても、『人の反応』は違う。それであれば、『鏡で認識した自分』と、『その人の反応』、そのどちらが正しい実際なのだろうか。

 

中世の神秘思想家、トマス・ア・ケンピスは言った。

 

​どうやらブッダの言うように、

ブッダ

 

あまり『執着』しない方が良さそうだ。我々が出来ることは、たった一度の人生を生き貫くだけなのである。

 

 

 

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