2010年代おすすめ映画ランキング
1.インターステラー
この話を理解できる人間が一体この世に何人いるだろうか。時間や宇宙といった理論物理的な話のことではない。それは専門家ならわかるだろう。だが、最も重要なのは『なぜあの時マーフは車を引き返したか』ということだ。
2.アベンジャーズシリーズ
『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』
キャプテン・アメリカとアイアンマンが、遠い過去の衝撃的な事実が原因で、衝突することになる。アベンジャーズの要である二人のこの中心人物の仲間割れは、チーム全体の士気に大きく影響し、今後の展開に暗雲が立ち込めた。一体なぜ、彼らは衝突してしまったのだろうか。普段からいがみ合っている彼らだが、今回ばかりは修復不可能なのだろうか。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』
アベンジャーズのこのBGMは、最強の戦士が揃ったときに流れると鳥肌が立ったものである。また、チーム内が常に不安定なのもいい。そのおかげで全員揃ったときの感動が引きあがるのだ。この映画はタイタニックを超え、アバターの興行収入も超えるかもしれない。私もほとんどのシリーズを観てきたし、今回の作品を観るために最初からもう一度見直した。最高のエンターテイメントだったし、スピンオフ的な作品もほぼ観てきたからこそ、最後に全員が揃った時には身を乗り出して映画を観た。終わるにもいい頃だ。アベンジャーズは間違いなく一つの時代を築いた。そして同時に、次に何の時代が来るかもとても楽しみである。
しかしタイタニックはすごい。アバターは『3D』という要素の力を借り、アベンジャーズはこれだけの時間をかけて、これだけのキャラクターと名優たちを揃え、人々を興奮させたが、タイタニックはあの作品だけの力で世界中の人々を感動の渦に巻き込んだ。今後もどんな映画に出合えるか、とても楽しみである。
3.インセプション
全く見たことがない、脳内の『階層』の話だ。斬新な切り口であり、身ごたえは十分。新境地を見ることができるだろう。
4.オール・ユー・ニード・イズ・キル
この作品は一見すると日本人作品が原作のSFアクション映画に見える。しかし、映画の最後には、『アバター』や『パッセンジャー』の最後と同じような感覚に包まれることになる。極めて、あり得なさそうな話だ。しかし、もしこれらがあり得るのなら、それはとても美しい純愛である。
死んだと思った。だが、死ななかった。夢だったのだ。…いや、どうもおかしい。この光景は前に見たことがある。彼は死んだのか、それとも何かほかに理由があるのか。そこで彼はテストをしてみる。すると、やはりこの感覚は普通ではないことが分かったのだ。
違う。これは、繰り返されている。
5.思い出のマーニー

この映画の本当の価値が理解できる人間は、深い深い海の底に堕ちた経験がある人間だけだ。(内観と『思い出のマーニー』)ちなみに私のジブリへの愛は下記の通りだ。全シーン描くチャレンジを実行中である。
6.シャッター アイランド
この映画を、単なる『精神異常者』の話で終わらせる人間は、まだまだこの人生の奥深さを知らない。『藁の楯』で、大沢たかお役のSPが『その小さな物語を信じなければ、生きていけなかった』と言ったが、ディカプリオが演じた彼もまた、並々ならない事情を抱えた人間だった。
7.エクソダス:神と王
幼少期からさんざん聞いていた『モーセ』の実態について想像出来たことは大きい。この話で極めて重要なシーンとは、モーセが海を割ったことでも、様々な怪奇現象が起きたことでもない。私は最初から何かを盲信することなどないので、この話がすべて史実通りだとか、そういう発想をすることは論外である。したがって、この映画に対して批判をする人間のような『側』にいる人達と私の間には大きな溝がある。
そんな些末なことはどうでもいい。この映画で最も重要なのは、『神』と名乗る子供が、『私は、ある』という発言をしたことである。
8.はじまりへの旅
知性を探究すると、いつかこの考え方にたどり着く。ある有名な男性経営者は『賢い女性たちって、田舎に行っちゃうよね』と言ったが、ニーチェがキリスト教で人間の潜在能力が埋没することを危惧し、老子が『小国寡民』を理想郷とし、孔子が法律に依存する社会を認めなかったように、この人生を主体的かつ個性的に生きようと思えば、よく厳選し、吟味された無駄のない生活を生きるべきだという答えが見えてくるのである。
アインシュタインはユダヤ人『ではなかった』から、葬式では踊りも歌もなく、牧師もおらず、人数もわずか12人だった。そして遺灰は近くのデラウェア川に流した。もしあなたが無宗教なのであれば、冠婚葬祭で行われる常識的儀式に、疑問を覚えたことはないだろうか。確かに隙はあり、未熟で、課題も残っている。だが、この映画で彼らが生きようとした人生は、真理の後光が差しているように見える。
9.ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ
レイ・クロック。真剣に経営者を目指した人間なら一度は耳にする名前だ。柳井正や孫正義が座右の書とする『成功はゴミ箱の中に』の著者である。だが、初見の人がまず最初に思うのはこうだ。(なぜマクドナルド兄弟ではなく、レイ・クロックという人なのか?)。鶏小屋に狼が入った。兄弟が言い放ったこの言葉には、一体どんな意味が込められているのか。
だが、実は栄養士から言わせればマクドナルドのハンバーガーは『ゴミの塊』である。しかし、我々はそれがとても好きで、現に彼らはこうしてこの世界に大きな爪痕を残した。マクドナルドとは一体何なのか。この世にとってどういう存在であり、この世界はどんなことを求め、そしてどう在るべきなのか。『ソフトパワー』と言われたアメリカの軍事力以外の重要な実態の一つが、明らかになる。
10.ジョーカー
『バットマン』はすでに生誕してから80周年を迎えている。つまり、それだけすでに世界観が作りこまれているのである。しかもジョーカーはその中で特別な存在。圧倒的な悪のカリスマであり、『ドラゴンボール』で言えばフリーザのような存在だ。その存在感だけで多くの人の目を向けることができる。一朝一夕ではないのだ。積み上げてきたものが違うのである。
だが、260年積み上げた徳川時代が腐敗によって破綻したように、長く積み上げればいいというわけではない。どこかで誰かが気を緩め、その伝統を踏みにじる油断を見せるのであれば、すぐに淘汰される。それがこの世の常である。例えば、スーパーマンのせいかもしれないが、ベン・アフレックはバットマンの権威を少し下げてしまった。クリスチャン・ベールにカリスマ性があったことも原因の一つだろう。
しかし今回の映画はどうだ。なぜクリスチャン・ベールが作り上げたカリスマ・バットマンの味方をしてきたはずの我々が、彼の宿敵に同情してしまうのか。それがこの映画の魅力である。キャストを含めた関係者がどれだけキャラクターを愛し、リスペクトしているかは、映像から伝わってくるものなのだ。伝説のカリスマアウトロー『ジョーカー』の誕生秘話を見よ。
11.ゼロ・グラビティ
この映画で重要なのは、なぜ彼女が主人公で、そしてなぜ彼女が地球に足をつけて立ち上がった瞬間に『音楽が鳴った』のかということだ。これは、単なる宇宙の事故の話ではない。命の尊さを理解した、一人の女性の話だ。
12.ブラック・スワン
私は繊細だから繊細な人の気持ちがよくわかる。ましてや、そこに女性の特性も加われば、更に繊細さは増すことになる。では、繊細に繊細が積み重なると、最終的にはどうなるだろうか。私も一歩間違えたら彼女のような心を持ったかもしれない。『白鳥の湖』がこれほどまでに意味深に聞こえることは、後にも先にもこれが最後だろう。
13.ゼロ・ダーク・サーティ
アルカイダとビンラディン。この名を知らない人はいないだろう。知りたくなくても知ってしまう。それが、今のこの世を生きる人間の本音である。ビンラディンは一体どうなったのか。捕まったのか。死んだのか。
14.ソーシャル・ネットワーク
Facebook創業者の、マーク・ザッカーバーグ。彼がどのようにしてFacebookを生み出したのか。ハーバード大学在学中に何があったか。そして、その道の途中でどのような人間関係の問題が生じたか。SNSをこの世に広めた人間の生きざまとして、必見である。
15.ジョイ
アメリカ合衆国の女性発明家ジョイ・マンガーノの半生を描く実話映画である。やはり、実話というのが圧倒的に教訓性に関わってくる。フィクションならいくらでも波乱に満ちたものを描けるが、本当にあった話というのは映画に興味がない層の目まで釘付けにする力を持っている。
ちょうど、ドキュメントやテレビに登場する人物の特集がそのまま番組として成立して多くの視聴率を稼ぐ人気コンテンツとなるように、映画ファン以外の人間の注目も集められる力を持っている。
日本では劇場公開されずビデオスルーとなったようだが、それがもったいないくらいの教訓性の高い内容で、女性や実業家、貧困に苦しむ人たちだけではなく、これから未来を切り拓く多くの若者や、先行きが不透明で不安を抱えるすべての人たちに、勇気とヒントを与えてくれる作品となるだろう。
16.未来を花束にして
1910年代のイギリスで婦人参政権を求めて闘った女性たちの姿を描いた作品。原題のSuffragette(サフラジェット)とは、20世紀初頭のイギリスの参政権拡張論者、特に婦人参政権論者を指す言葉。主演のキャリー・マリガンではなく、特にこのエミリー・ワイルディング・デイヴィソンという女性の取った行動が衝撃的である。これは実話である。
またもちろん、メリルストリープが演じた、タイム誌が「20世紀における最も重要な100人」の一人に選び、「彼女は現代における目指すべき理想を形作り」「後戻りできない新しい規範へと社会を揺り動かした」と述べたほどのサフラジェットである、エメリン・パンクハーストも重要だ。だが彼女たちのような実在した人物ではなく、あえて『普通の女性』に焦点を当ててその人を主演にすることで、その当時の全体図が見えやすくなる。
『このようにして女性は強いられていて、そして立ち上がり、命がけで戦った女性たちが実在した』
という事実を、よりリアルに客観視、俯瞰視することができる。この時のように『政権投票』がダイレクトに自身の生活に直結した時期と、その感覚が鈍っている現代の日本ではまるで次元が違うが、その意味でも考えさせられる事実である。
恐らく、彼女たちとて現代の日本で暮らしていれば我々のようになり、我々とて彼女たちの時代で暮らしていれば、彼女たちのようになる。ただそれだけのことなのだが、とにかく、この事実を軽く受け止めるわけにはいかない。本当に命を懸けて戦っていたのだから。考えさせられる映画だ。
17.アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発

1961年、イェール大学で社会心理学を研究していたスタンレー・ミルグラムはなぜホロコーストが発生したのかを調べるために実験を行った。アイヒマンというのはナチス・ドイツ時代のドイツ人で、ミルグラム曰く、彼は『普通の人』だった。そしてそれを実証するために実験を行う。「ミルグラム実験」(アイヒマン実験)である。この実験の結果は世界に衝撃を与える一方、実験が非倫理的であることを理由にしたミルグラムへの批判も相次いだ。本作はそのミルグラム実験がどのようなものであったのかを克明に描き出す。
18.ウルフ・オブ・ウォールストリート
彼を『賢い』と言うことはできそうもない。だが、実際には世界中に彼の様な『成功者』になりたい人間は溢れている。それが現実だ。パレートの法則で考えても、80対20。つまり8割の人間が、そういう考えを持ってしまっている。この男もその8割にだけ目を向けた人間だ。それでいて自分が『2割側』だと過信したことが、全ての元凶である。
19.借りぐらしのアリエッティ
真夏の暑い日、涼しすぎるぐらいの映画館。最初のサントラと夏の木漏れ日のシンクロさ加減に私は、思わず涙が出そうになった。よく『小さなおじさん』を見たという人がいるが、妖精のような存在を見る人は意外と大勢いる。もし、本当にそのくらいのサイズの人間がいたとしたら、彼らは自分たちよりも何百倍も大きな人間をどういう目で見るだろうか。アリエッティには、身分相応の結婚相手がいる。しかし、彼女が好きになってしまったのは、人間だったのだ。叶わぬ恋。切ない別れ。
20.マザー・テレサからの手紙
ガンジーやマザー・テレサの名を知らない人はいないだろう。実際、彼女らは面識があり、同じインドを生きた。マザー・テレサの場合はギリシャの近くのマケドニアの出身だが、インドの貧しい人の為に、身を粉にして貢献したのだ。しかし、クリスチャンである彼女は、ヒンズー教、イスラム教で作られるインド人の思想からすると、排斥すべく対象だった。それなのになぜ彼女は、ガンジー、インドの初代首相ネルーの次に、三番目にインドで国葬されたのだろうか。すべてのクリスチャンが直視すべく、真の信仰とは何か。
21.チョコレートドーナツ
普通、ゲイは異質である。身体障碍者もそうだ。その言葉を口にするのもタブーのような気がする。そういう世界で我々は生活をしている。昨今ではLGBTへの理解がない方が時代遅れという流れもあるが、エイズ罹患者の9割以上が同性愛という事実の説明は未だにつかないままでいる。それが何を意味するのか、我々はこの異質な存在をとにかく異質だとして漠然と受け入れることで、『静観』している。それが現実である。
だが、そんな『常識的な世界』に生きている我々は、この作品を通して思い知ることになる。この映画から伝わってくる命のメッセージは、我々に目に見えない鳥かごの存在を見せつけることになる。
22.ドラゴン・タトゥーの女
映画館で観た時は、とにかくあのCMが格好良くて興味をそそられたものだ。あの時覚えているのは、彼女が暴行されるシーンにモザイクがかかっていること、彼が侵入する際に、その家の空気がドアが閉まる時にひゅっという音と同時に変わったことだ。あの時は映画館の時間が止まっていた。すごい緊張感だった。ルーニー・マーラが演じる彼女の性格は私にとってもちょっとしたツボで、華奢で本当は女性らしいのに、生きていくために凶暴なことをしなくてはならないことや、頭が良いが為に孤高であるところなど、見ていて飽きない。
原作を全部観ていないので全容は知らないが、続編の『蜘蛛の巣を払う女』では過去が多少出てきて、今Wikipediaでも調べると父親は母に暴力を振るうなどしていることから、彼女が同性愛者的な性癖を持つのは、彼女の過去が関係しているのかもしれない。だがそれでもこの作品でも見られるように、ミカエルという男とも関係を持つ。その時点でバイセクシャルだが、この話の流れから見ると、本当の彼女は同性愛者でもバイセクシャルでもなく、本当は男性を愛して結婚し、子供を持つという『正道』を生きたいが、それは自分の人生では叶わない願いなのだと決めつけているところがあるように見える。
その孤高が『孤独』に変わるちょっとした切ないシーンで見える哀愁に、私は共感を覚える。私はノーマルだが、自分の信念を決して曲げられないので、彼女のように『やむを得ず方向転換するしかない』という状況を何度も体験しているからだ。
女性は弱い。だから、生きていくためには、知恵を使わなければならない。男は、その弱い女性に対して、どのような態度で接するべきかを求められる。もし、そこにつけ込んで女性の尊厳を侮辱することあるなら、何をされても仕方ないのかもしれない。そう考えると、本当は人間の男女が思う、『強い、弱い』という感覚は、間違っているのかもしれない。
さて、とにかくこれは極上のエンターテインメントだ。まだ観ていない人は必ず見たことがない新たな世界観を見ることができるだろう。
23.マイ・インターン
この手の映画は率先して観ない。だが、思わず笑ってしまうシーンがあって、そこに思いのほかはまって、しばらく大笑いしていた。全体的に真面目な映画だからこそ、そこに笑いが生まれたのかもしれない。明石家さんまも好きな映画だと言っていて、なんだかよくわからないが、うれしかった。
24.ラ・ラ・ランド
そこまでミュージカルのうっとうしさを感じることはなく、不自然ではない。その時の役の気分とテンションに応じて音楽が流れて歌を歌うだけ。そう考えると、それらは単なるBGMに等しい。音楽があるからこそ、この物語の奥行きが何階層も深くなる。
この世界では往々にして、一夫多妻制も、一妻多夫制も取っていない。そういう国もあるが、そうじゃない国がほとんどだ。つまり、結婚相手は一人に絞らなければならない。それを決めるのも、往々にして一生に一度だけだ。そして、その制限の中に生まれる儚さこそが、『尊さ』を生み出す。この物語のように。
25.君の名は。
日本で宮崎駿以外のアニメ作品を受け付けたくないアレルギー症状があったが、細田守がそれを打破し、そして新海誠がまたその概念を打破してくれた。恋愛ものは嫌いなはずなのに。嫌いなはずなのに…。誤解している時間が長いほど、それが解けたときに受ける衝撃は大きい。彼らは最初、いがみ合っていた。しかし、気づいたら二人は、惹かれ合っていた。二人がこんなにも強く惹かれ合ったのは、『吊り橋理論』が関係しているのだろうか。それとも、『運命の赤い糸』が関係しているのだろうか。
26.レディ・プレイヤー1
キューブリックの映画も観てる。インベーダーゲームもやった。ストⅡもゴジラもガンダムもそうだ。一体どうやって実現させたのか。地球よ。これが一流の人間が本気で創りあげた、最新のCGだ。全ての映画、ゲームファンは見逃すな。この世界観は他で観ることができない全く新しいものだ。SFとは違う異世界を体験したい人にはうってつけの映画である。
27.IT/イット “それ”が見えたら、終わり
私は『ホラー』というカテゴリーをつけたくないので、『狂気』にこの映画を入れた。ホラー映画とか、スリラー映画というような考え方で映画を分けたくないのだ。そういう映画にも教訓はあるし、そういうことを見逃したくないのである。そんな私の目線から見ても、この映画は秀逸だ。さすが、スティーブン・キングといったところである。再生回数史上ナンバー1の予告動画も載せておく必要があるだろう。
また、続編の『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』だが、上映時間が3時間もあったというが、私は全くそう感じなかった。多くの映画を観ているからこそ言えるが、時間を忘れる映画というものはそう多くはない。ストーリーにしろ、演出にしろ、狂気にしろ、すべてが斬新であり、見応えがある。前作では初見のインパクトで話題をかっさらったが、今回は今回でそれに負けない面白さだ。
28.しあわせの絵の具 / 愛を描く人 モード・ルイス
主人公となる女性のモード・ルイス(1903年3月7日-1970年7月30日)とはカナダのフォークアートの画家である。この映画の主人公は絶世の美女というわけでもないし、活動拠点も小ぢんまりした小さな小屋で、見る人が見ればとても地味な作品となる。相棒となるイーサンホークも『渋い俳優』の演技派として有名だが、彼がトムクルーズのようにど真ん中で活躍するような映画は今はもうなく、近年の映画も『渋い映画』を確実にこなす、という傾向が見られている。
更に、そのような要素がある中でこの映画でのイーサンホークは、冒頭でかなり正確の悪い男を演じる。したがって我々は、Wikipediaにも詳細ページがないようなこの映画で、カナダのなんたらという地味な女性を、地味な顔の女性が気が小さそうに演じ、それをいじめるイーサンホークの姿を見なければならない。正直、映画鑑賞中につまらないと思ったら帰ってしまうような文化がある国では、もはや冒頭の段階でほとんどの人がいなくなってしまうのではないだろうか。
・・だがとんでもない。騙されたと思って最後まで観るのだ。私は多くの映画を観て、それをジャンル別に分けてランキングしたり、とにかく人や自分が見やすいようにまとめているが、その中で『感動編』のジャンルに組み込まれる映画はそう多くはない。100個もないだろう。だが、この映画はそこに分別されたのだ。そう。我々は冒頭の段階からすでに、彼らの術中にハマっていたのだ。
29.シェイプ・オブ・ウォーター
発話障害の女性であるイライザが、とある恋愛に生きる。『人間ではないもの』の姿ならよく見る。よく見るということは見飽きているということだ。だが、この映画は見飽きたはずのB級作品ではない。その理由は一つだ。そこに愛があるからだ。二人の愛が純粋で、本物だからだ。
30.LUCY/ルーシー
脳科学と『能力の顕在化』について考えている人間であれば、この映画を観て感想が出ないわけはない。一体、『1+1=2ではない。』という発言の意味は、どういう意味だったのだろうか。
追記:数年後、この世にある名言、偉人の考え方、哲学、宗教、神話等について学んだ後にもう一度この映画を観たら、かつて意味が分からなかった彼女のセリフの意味が理解できるようになっていた。ヒントはニーチェの言葉にあったのだ。そして、手塚治虫などもこの言葉の意味が分かっただろう。
最初に観た時『もちろん』理解できなかった。だが勉強を積み、人類学、ニーチェや手塚治虫の言葉や哲学、視野を知ると、霧が晴れて見晴らしがよくなった。
『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』
このニーチェの言葉、そして手塚治虫はこうだ。
『円周率とか1、2、3、というのは、地球だけの真理であって、宇宙にはそれとは違う、まるっきり想像を絶した、知識の体系があるかもしれない。』
あるいはここで出てきている偉人たちが口を揃えて言っているつまりLUCYに出てくる『1+1=2ではない』という言葉は、ここを押さえないと理解できない。我々が認知している
- 数字
- 愛
- 真理
- 神
という『絶対的な存在』は、『絶対ではない』。我々はニーチェの言うようにただ自分たちの心の安堵の為に『それっぽい記号』を生み出して認識可能にし、全容を把握した状態にしようとする。だが、それは『全容ではない』のである。『ルーシー』というのはWikipediaにもあるように、『人類の祖先』の名前である。人間は時間をかけて進化し、現在の姿かたち、言語、思想に哲学を手に入れたが、これは『最終到達地点』ではないわけだ。もっといい形がある可能性がある。
この映画でスカヨハが演じた彼女は最初、そのあたりの夜の街にどこにでもいそうな、遊び人だった。それが、ドラッグの力によって(それ以外にはこの現象は不可能)潜在能力を引き上げられ、
- 時間
- 空間
- 物理的限界
- 生死
といったすべての概念を超越し、この世から姿を消した。彼女が『1+1=2ではない』と言ったとき、最初に観た時に強い違和感を覚えた。何が重要な話をしている気がした。だがその時はまだ理解できなかったのだ。しかし勉強を積むと概要が見えてくる。この映画は中々面白いテーマを突いているのである。常識に支配されている人には理解できない。
高村光太郎は言った。
『道端のがれきの中から黄金を拾い出すというよりも、むしろがれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である。』
『エネルギー不変の法則』を知っているだろうか。この世は、人が死んでも、物が燃えても、形が変わるだけで、エネルギーの総和は変わらない。例えば下記の図、『ウロボロスの輪』を見ても分かるように、自分たちが目で見えて認識している以外の場所にも、きちんと世界は認識している。

木が燃えて、個体エネルギーは消えても、『気体エネルギー』としてこの世に残り、結果『宇宙の総和』は変わらないのである。このあたりのことをざっと考えた時、『LUCY』で突いているテーマというのは中々奥深いということがわかる。彼女の知能は極限まで発達し、『もはや、限界のある人間としてこの世に存在している意味などない』と理解したのだ。だからあの映画が理解できない人はただの勉強不足だ。かつての私と同じである。もちろん私も、理解したつもりの似非知識人なのだが。
31.スーサイド・スクワッド
爽快なアウトロー映画だ。ジョーカーを筆頭に、悪人がこれだけ揃っている。確かに彼らは不良であり、不良品。犯罪者であり、悪人だ。だから『スーサイドスクワッド(自殺部隊)』。しかし、そういう人間の生きざまも、面白い。
32.海にかかる霧
さすが『パラサイト』で実力を知らしめたポン・ジュノ作品だ。私はそれを知らずして映画を観た。そして彼が『殺人の追憶』の監督というのも今知った。私は韓国映画で面白いと思うものを挙げるなら、その3つは必ず挙げたいと即断できるほどだ。2001年に起きたテチャン号事件。つまり、これは実際にあった話なのである。やはり、それがあるとないとでは全然違う。フィクションならどうにでも描けるが、実話は違う。
戯曲化し、映画用に脚色はしているが、それにしてもこの衝撃の事件は想像を絶する。命の重みが分からない人は、一体何が行われているのかよくわからないのではないだろうか。
33.俺たちニュースキャスターシリーズ
私は映画を真剣に観て、それを人生に生かしたい。映画を観る為に生きているわけじゃないんだ。時間を浪費する暇などないのである。だから別に映画でゲラゲラ笑いたいなどとは思っていない。思っていない。思って‥。
『俺たちニュースキャスター 史上最低!?の視聴率バトルinニューヨーク』
何も考えずに観る映画もたまには必要である。というか、基本的にそういうスタンスで映画を観ている人だからこそそのコントラストで笑えるわけだ。要は、他のシリアスな映画が軸となり、『そこでは絶対に展開しない』展開の仕方をするので笑えるのである。1が面白かったのは意外性がプラスされていたからであり、2はハードルが高くなるが、なに、彼らなら超えてくれるだろう。特に想定外の豪華キャストはすごい。
34.キック・アス
あっという間に時間が過ぎる。爽快、痛快、アクション映画。人が死んでるはずなのにどこかユニークである。それがこの映画の魅力だ。子供が大活躍するのも斬新。
35.グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札
グレース・ケリーの物語。女優から公妃になる人間の覚悟は、とても見ごたえのあるものだった。一人の人間の生きざまとして、とても参考になった。自分が選んだ愛のために、女優の地位を捨てたグレース・ケリー。彼女は言った。
『人生というものは、決して振り向いてはいけないものなんだと思います。』
その道は決して平たんな道ではない。夫と共に苦労を乗り越える覚悟をした愛にあふれる女の物語。
36.ゴーン・ガール
男は力を与えられ、女は『違うもの』を与えられた。それゆえ、人間の男女はこの世を生きるとき、その生き方に差異が見られるようになった。この女の生き方は、人間の常識で考えるとたしかに狂気に満ち溢れている。だが、地球の規模、生命の規模で考えた時、私は彼女に『必死さ』を垣間見た。
37.エジソンズ・ゲーム

500人の偉人の8000の言葉と向き合い内省した時間を4年作った私からすれば、エジソンの映画がないことは不満だった。映画自体も3000本観ている。それに、一度偉人を学ぶと歴史が面白い。宗教や哲学と合わせて歴史を一から学び直したが、歴史というのも相当面白いものだ。『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』でアラン・チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチは、この役に適している。
38.J.エドガー

あの『FBI』を創った男、ジョン・エドガー・フーヴァーの物語である。誰もが知る超有名組織ができた経緯を見ておいて損はないだろう。1960年代、黒人公民権運動の盛り上がりを苦々しく思っていたFBI長官のフーヴァーは、キング牧師宅の盗聴を命じる。この部分で、キング牧師の物語と彼はつながっていることがわかる。彼にはある噂があり、それを伺わせる奇妙なワンシーンがこの映画で描かれている。
39.キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け
足るを知る者は富む。これは三教、つまり仏教、道教、儒教すべてで教えていることだ。しかしブッダはこうも言った。
『人の欲望というものは、たとえヒマラヤの山を黄金に変えたところで満たされることはない。』
40.ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男
イギリスで最も有名な首相チャーチル。彼は一体どのような人物で、何をした人なのか。確かに『事件』は現場で起きているのであって、会議室で起きているのではない。だが、会議室は会議室で、重い責務を背負ってかじ取りをする人間がいる。これはその『会議室』の話だ。この映画と一緒に観たい映画がある。『ダンケルク』、『ヒトラー~最後の12日間~』、『英国王のスピーチ』である。『現場』であるダンケルクの様子が見れるし、ジョージ6世の喋り方の理由がわかる。ヒトラーの最期も見ておきたい。奥行きが何階層も深くなるだろう。
41.シークレット・アイズ
これは映画通を唸らせる映画だ。まずやっぱり超名作の主役級が2人いるのは伊達じゃなかった。そこにキウェテル・イジョホーの演技力。演技の話なら更にすごいのが悪役の青年。こいつがまた虫唾が走る。でもそれが映画を最高に盛り上げてくれてる。
『良い映画の共通点は、映画の世界観に自然に引き込んでくれる』
というのが私の一つの映画に対する見解だが、彼らの演技力とシナリオの緊迫感がそれを可能にしてるのだ。面白い映画というのはこういう映画だ。
テーマもツボだ。『正義』。皆は真剣に考えたことがあるだろうか。『自分の最愛の人が殺された』ら?何もしない?そこが戦場だったら?隣にいる人、その隣にいる人が次々と死ぬ状況で、相手を撃たなければ自分も、あるいはもっと多くの仲間が死ぬ。
何もしないで手を広げる?それとも、戦場では正当化される?
どうするべき?『神様』が何かする?どちらにせよ、このテーマは人間の階層を深くする。
42.テッド・バンディ
『チェンジリング』以来だ。ガチでヤバイ実話映画を観たのは。何がやばいって、『この映画でそのやばさの詳細を明かさない』ことだ。このポスターに、
『極めて邪悪、衝撃的に凶悪で卑劣』
とある。だが、映画でその詳細は明かされないのだ。つまり、『マジでヤバイ』のだ。子供が見れるようなものではない。『セブン』など、猟奇的な事件のフィクション映画がある。あれは、詳細を描く。だがこれは映画では彼が『具体的に何をしたか』が分からず、ってウィキで調べた時にようやく分かる、ガチヤバ狂人映画なのだ。
このテッド・バンディという男はまずい。『シリアルキラー』という言葉は彼を表すために作った言葉なのだという。
心が弱い人は調べない方がいい。具体的に想像しない方がいい。怖いね。彼はこの映画でずっと笑ってる。普通の人に見える。だが違う。人は・・『狂うことができる』。
43.アナと雪の女王
『Let it go』。あれから散々流されて、廃れてしまった印象を得るが、最初に聴いたあの瞬間の感動を忘れることはないだろう。少女が主役のディズニー映画を男の私がたった一人で観に行ったのは初めてだった。だが、それだけ予告編が飛びぬけていたのだ。観なければ後悔すると思い、そして実際に観て良かった。ディズニー映画が新境地に立った瞬間だ。
『アナと雪の女王2』の『イントゥ・ジ・アンノウン』もとても魅力的な音楽だ。ストーリーも、一作目で行き届かなかった部分にスポットライトを当て、『アナ雪』の世界をこれで存分に楽しめることができるだろう。
1.5億ドルの制作費で、130億ドルの興行収入をたたき出したシリーズ一作目に比べれば、その勢いは落ちるだろう。それは『君の名は。』と『天気の子』にも言えることだが、あのような爆発的なエネルギーというのは、不測の様々な要因を巻き込んで作られる奇跡的なものだ。だが、純粋にこの作品の虜になった少年少女は世界中に大勢いて、彼らがこの作品を支えることは間違いない。
しかし、たとえ売り上げが半分の60億ドルに落ちても、それは『6000億円』。製作費の2倍売り上げればヒットという世界で、この作品は異例中の異例なのだ。ディズニー映画の歴史を塗り替えた伝説の作品の結末を見よ。
44.アルゴ
1978年、イラン革命は起こった。アメリカが中東地域の仲間としてイランを取り入れようとしたが、イランはそれを断ったのだ。そしてアメリカとイランは対立することになった。イランにいたアメリカ人たちは、肩身が狭い思いをするようになった。いや、それどころか大使館が襲撃され、人質にされてしまったのだ。彼らを助けるために、危険な状態のイランに入国した。だが、危険すぎて母国へ帰れと指示が入る。たしかに、帰ろうと思えば帰れる。だが、自分が帰ればその国に残る他の人達の命が危険にさらされる。その時、男の取った行動とは。
45.チャッピー
恐らく想像の遥か上を行くだろう。ロボ系は私も抵抗あるのだが、これはかなり見応えある映画だった。
謎のギャングもどきに育てられるというのもいい。ロボは純粋少年に育てられるって相場がある。そのB級キャラにも似た連中が、この映画では深遠な存在になるのだ。普通、そういうキャラはすぐ死ぬ。そして我々は彼らが育った環境も興味ないし、死んだときの罪悪感も、何もない。だがこの映画を通すと違う感想を抱くのだ。そして、偉大な名作に共通する『大胆な結末』も用意されている。
これはいい。音楽も壮大だ。ヒュー・ジャックマンが脇を固めるのがいい。偉大な俳優が『何でもない連中や単なるロボ』の『額縁』になるわけだ。そして思い出すのだ。そもそもこの世界に『脇役』なんて、存在しないということを。
これは映画館で観たかった映画だ。そう言える映画は、そう多くはない。『映画』を観た。
46.イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密
イギリスの暗号解読者アラン・チューリング。彼がいなければこの世にコンピュータが存在していない可能性もある。だからスティーブ・ジョブズは彼のことを尊敬している。しかし、彼は彼で大変な人生を送った。しかし、偉人の人生を見ていると常に大変で、何かを強いられている。別の記事に書いたが、それが偉人になるための条件なのかもしれない。
47.THE ICEMAN 氷の処刑人
実在の殺し屋リチャード・ククリンスキーを描いた映画で、正直ロバート・デニーロが主演をして、名作に数えられていてもおかしくないような最高のアウトロー作品となっている。
この作品が埋もれてしまうのだとしたら、主演のマイケル・シャノンが悪役としての威厳はあるが、主演としての華がないことだけが原因となるだろう。妻役のウィノナ・ライダーも美人だし、脇を固める『キャプテンアメリカ』のクリス・エヴァンスや名悪役のレイ・リオッタも強い。
彼が選ばれた理由はもしかしたら身長かもしれない。実在のその殺し屋の人間像と照らし合わせた結果、彼が適任となったかもしれないが、やはり映画の興行的成功には、キャストが大きなカギを握っていることがわかる。
例えばここにも登場する『パワー・オブ・ワン』のスティーヴンドーフも、『タイタニック』の話を断っているというが、あれはディカプリオの美男子ぶりがあるからこそ稀代の名作になった可能性が高い。
だが、この映画の持つ狂気が過小評価されるのは非常に惜しい。実話なのだからそこらのフィクションより全然背筋が凍る。『ゾクゾクする』とかそういう稚拙なホラーマニアの無責任な話ではなく、一つの資料として見応えがある。
48.エクスポーズ 暗闇の迷宮
この映画は識者にしか分からないが、私が今説明するから大丈夫だ。まず製作陣がほとんど無名で、キアヌリーブスと監督の間でトラブルがあったり、色々と裏に問題を抱える作品となっている。
が、そんなことは私には一切関係ない。世界での売り上げも最近の映画にしてはあり得ないほど低い2000万円レベルということも、私には一切関係ない。映画の売り上げは私に1円も入ってこないから、元々それはどうでもよかった話だ。
問題は映画の内容だ。映画の内容がよく、そこに教訓性が高ければ、鑑賞者は多少のお金を払ってそれを観ても『投資』になる。それ以外は『浪費』だ。我々鑑賞者は、映画を『投資』レベルに引き上げ、初めて供給者と『Win-Win』の関係を築ける。
これは動画配信サービスの評価が★2.5なのだが、それはただ『宗教、精神』についての理解の範囲が狭いだけだ。
最初は、オカルト的な方向なのかとなる。だが違うのだ。これは中々奥が深い。彼女が妙に信心深いっていうところに少し引っかかってはいた。メキシコとキリスト教の関係性をアルマスの勢いと共にアピールしたいのかとも疑った。
でも違ったのだ。それが『ヒント』だったのだ。
もしこれが『ジャンヌ・ダルク』とどう関連性があるかを説明できる人は、中々勉強している人だ。勉強というか、内省。人生を立ち止まって、深く深く熟慮した経験がある人だ。
電力王、松永安左エ門は言った。
『実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は長い闘病生活、第二は長い浪人生活、第三は長い投獄生活である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない。』
裏事情や描写など枝葉末節だ。重要なのは根幹であり、登場人物と同じ心境になるまで潜って考えた時、その気持ちとシンクロした自分の心が、どう叫ぶかなのだ。
49.テッド
馬鹿と言えばこれ。圧倒的に馬鹿。何しろ、映画館で泣いたり笑ったりすることがほとんど皆無である私が笑うのだ。
50.バケモノの子
『真の愛』とは、『与える』ことだ。『奪う』ものでもなければ、『表層を合わせる』ものでもない。命を捧げた熊徹の粋な生き様は、多くの視聴者の『空いた穴』をふさいだことだろう。細田守の作品も、ジブリ同様、夏の上映を期待したい作品となっていくだろう。『時をかける少女』、『サマーウォーズ』と並び、この作品も夏に観た映画だ。
ランキング外おすすめ映画(50音順)
ランキングには入らない2010年代を代表する名作映画をまとめました。(クリックでレビュー表示)
あ行
『アーティスト』
白黒映画というのはカラーに慣れた世代からすれば『ワンランク格下』という印象になる。あえてそういうのが好きという玄人ぶったことは言えるが、万人はそうなる。多くの映画を観ている私でもそうなる。だが、実は白黒映画も見始めると一切そのことを忘れてしまう。(これがカラーだったらなあ)という感想は浮かんでこない。第一印象は悪いが、内容にはそれはほとんど影響してこないのである。
1927年から1932年までのハリウッドを舞台とし、トーキーの登場でサイレント映画の時代が終わった時代。ちょうど世界ではチャップリンの全盛期だと言えるだろう。彼はイギリス人だ。その後、40年代になって映画はハリウッド全盛期になる。アメリカだ。その後、50年代にマリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン・グレース・ケリー、エリザベス・テイラーといったアメリカのビッグスターが登場。映画の歴史の流れはそうなっていくわけだ。
では、そんな時代の変化の真っ只中にあった当人たちは、一体どのような心境でトーキー映画へと移り変わっていったのだろうか。いつの時代にも通用する流動変化の真理。それと直面する人間は、知性と勇気が試される。
『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
1950年代後半のドイツ。つまりナチス・ドイツが仕掛けた第二次世界大戦の後のドイツでは、ある男をどう処分するかということについて、大きな権力同士が命がけの衝突をしていた。アドルフ・アイヒマン。それは、ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒに次ぐナチスの最重要人物。ホロコーストに関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送の指揮的役割を担った男である。
だが、戦争が終わってもナチスの残党は残っている。彼を裁くのは容易ではない。だが、彼はどうしてもこの国の過去と向き合う必要があった。それはこの国の未来を本当に望んでいたからだった。
『アインシュタイン:天才脳の行方と秘密』
アインシュタインの一生を考えるにはうってつけの映画である。ドキュメンタリー映画のような作りだから、真実を正確に理解することができ、アインシュタインが何をしたかということを知るために有効な作品である。彼の頭脳は、アメリカから見たらスターリンよりも危険な存在で、FBIのフーヴァーからも目をつけられる。そのあまりの天才ぶりに、死亡解剖する際に、解剖学者が脳を持ち出す事件が発生。
彼が登場するまで、物理学の巨人はニュートンだった。ニュートンは、中心に引力があり、それに引っ張られるという『万有引力の法則』を提唱したが、アインシュタインが主張した重力は、『宇宙外の空間から押されている』というもの。彼はニュートンを覆してしまったのである。小さい頃、コンパスを与えられたアインシュタインは、それが『方向を指し示すもの』ではなく『見えない何かに引っ張られる』ように見えた。以来、『目に見えないもの』の虜になった彼は、後に世界を揺るがす『相対性理論』を発表するのである。
『物質』は、静止状態のエネルギーであり、これ(ウラン原子)を分裂させたら、莫大なエネルギーが生まれる。それが証明されれば、この宇宙がビッグバンのような爆発で作られたことを証明できるが、それは同時に『核爆弾』のような甚大な被害をもたらす『悪魔の発明』を助長するヒントの発案でもあったのである。
『私の人生の最大の誤りは、ルーズベルトに原爆の開発を勧めたことだ。』
アインシュタインはそう言うが、しかし自分の国のナチスのヒトラーにそれを悪用されるくらいならという、究極の選択だったのだ。世界の形を大きく変えたアインシュタインの脳は、どうなっているのか。生まれつき人と違うのか。そこに天才のヒントはあるのか。彼の脳を研究して見つかった事実を基に、『天才の作り方』について見極めることができる。
『アウトバーン』
明らかに自動車会社がスポンサーやん。と思ってしまうほど、車が不自然に色々な角度から映し出される。車のCMを見ているのかと思ってしまうほど、たまたま盗んだ車がやたらと珍しく、超高級車で、傷一つついていない。
(何だかお金が関係している映画なのかねえ)
と思うような内容だ。
『アウトレイジ』
冷静に考えたら、この映画は狂気そのものだ。『日本人は残酷だ』と言われているが、それは日本人に強いられている環境やポテンシャルが影響しているかもしれない。例えば背が低く、色々とサイズが小さい。言語も独特で、唯一無二の思想と宗教観の中で生きている。そんな日本人が、自分よりも一回りも大きな男、あるいは圧倒的な規模の世界に勝たなければならない。では、どうすればいいか。ボクシングでは体重が1㎏違うだけで『不公平』なのだ。強いられた環境が人を作る。この映画は、島国である日本という国で暴力を突き詰めた男たちの、哀れで醜い、残酷な物語である。日本人の怖さを世界にまざまざと見せつけた、極悪非道の暴力映画だ。
『アウトロー』
『アウトロー』という映画は1976年のこのイーストウッドの映画と、2012年のトムクルーズの映画と有名なのが2つしかない。それだけ前者が名作だからということかもしれない。西部劇というのは日本で言う時代劇なのだが、それよりももっと身近なものらしい。
日本の場合は『着物、ちょんまげ、奉行、馬、刀』という要素はもうすでにほぼ無縁のものとなっていて、そこに映る景色はすべて作り物に見えるが、銃社会のアメリカは、今も昔もそこに銃があるわけだ。
また、広大な土地が広がるアメリカ、特に西部にはまだまだ荒野がたくさんあるし、犯罪も多い。それはつまり、警察の目が行き届かない場所があるということだし、銃を持った人に対しては、銃を持って制すというミッションが暗に課せられている彼らアメリカ人にとって、警察の代わりに『自警団』として悪人を制したこの時代、そして、アメリカという国の初期の荒野で活躍した『初代』たちの生き様は、共感を覚えるところが多いのだろう。
現在でも『カウボーイ』という言葉は、日本で言う『武士』のような意味があり、ビリーザキッドやジェシージェームズのようにたとえ強盗だとしても、彼らを通して『アメリカンドリーム』が見えるのかもしれない。現代に通用するものが見えるのだ。よって、シャーリーズセロンなども西部劇を観るのが好きだという。アメリカの深夜に、西部劇が放映されるのが日常だから、触れる機会も多いのだ。
そんな西部のカウボーイたちが活躍した時代と現在の『アウトロー(法の外に生きる者)』とでは意味が違う。しかし、挙げた二つの映画は単なる『悪党』の枠にとどまらない見応えのある映画だ。
ヤクザやギャングなど、単純に法律を破って生きている小悪党の話には奥行きなど何もない。だが彼らの場合は意味が少し違ってくる。トムクルーズの場合は、悪党が描かれるわけではない。だが、そこにいる人物は『普通の人間』ではなく、『ルールに縛られないある領域にいる人物』である。
その意味で、イーストウッドの今作もアウトローである。だが、今回の場合は更に意味が乗っかっている。それは、『戦争』である。戦争自体が、法律という人間たちが秩序を持って平和に暮らしていくために決めたはずのルールだったはずなのだ。戦争も、戦争に参加した者も全員、アウトローである。これは、そんなアウトローたちが歩いた道の『代償』を考える、哀愁のドラマである。
『アクアマン』
ここまでクオリティが高く、ドラマチックで、人の心を鷲掴みにする物語があるなら、アクアマンはバットマンたちとの総力戦の前に、この映画で世に登場するべきだった。映画ファンは密かに願っている。DCが『あのマーベル最強戦隊』を超えることを。
『アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち』
まあこの記事を最後まで見逃さない方がいい。この映画を最大限に楽しむために必要な基礎知識は、精神病患者の歴史だ。
『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』とわかったのは1800年くらいから。それを主張したPh.ピネルやフロイトのような精神分析学者たちの存在によって、精神病者は『悪魔に憑りつかれた人』でも『罪人』でもなく、治療で治すべき人だということがわかった。
だがその後、鬱病も含めた精神病者は電気ショックやロボトミー(脳の前頭葉の一部を切断する手術)などの外科的治療を行う非薬物療法が横行した。つまり『当時の医者よりも正しい答えを持っていた人間が存在していた』のである。これがこの映画を深くする重要な事実だ。
ある医者が精神病院にやってきた。どこを見てもクレイジーな人間ばかりだ。だが、どうも様子がおかしい。地下から人間の声がするのだ。
それにどこか、院長を名乗る男が妙だ。緻密に設定が作りこまれている。世界観が見事であり、映画の世界に引き込まれる。
これだ。これが世界初の推理小説家エドガー・アラン・ポーの実力である。
『アップグレード』
よく知らない俳優だらけの映画だから、B級を覚悟して鑑賞する。だが、細部のクオリティ一つ一つは決して低くなく、むしろなかなか卓越していてリアルだ。最後のシーンもなかなかすごい。これくらい攻めていれば、数ある映画作品の中に埋もれることなく、目立つ存在となれるだろう。こういうことは、あり得るかもしれない。人が宇宙を飛び回る未来と違って、まだありえそうだ。そう考えると背筋が凍るのを無視することはできない。
『アデライン、100年目の恋』
『不老不死』『恋愛』というキーワードについて考えたい人は、『ベンジャミン・バトン』やこの映画を観ると良いだろう。ある歌の歌詞にこういうものがあった。
『不老不死に生きる命と限りのある命。随分心拍数変わる気がしませんか?』
『アド・アストラ』
『ゼロ・グラビティ』と併せて観たい映画だ。正直、『インターステラー』、『オデッセイ』も一緒に観たい。きっとあまりにも広漠としたこの宇宙の中に果てしない虚無を覚えて背筋が凍り付き、それと同時に現在、この星にあるすべての状況に対し、違った目を向けられるようになるだろう。人は心がなければ生きていけない。そう。『心がなければ生きていけない』のだ。
『あと1センチの恋』
失ってから気付くことは多い。私も父親を早くに亡くし、私の身近にいる知人は幼少期に兄を亡くした。そういう例は周りにいくつもあって、中にはいまだにその『空いた穴』を塞ぐことで精いっぱいの人もいる。我々は失ってから気付く、愚かな生き物だ。だが、それでも生きている限りは、何度でもやり直せる。人間、自分に素直に生きるということに、遅すぎるということはないのだ。
『アトミック・ブロンド』
時は米ソの冷戦が冷めやらないベルリンの壁崩壊が迫った1989年秋。女性スパイが一触即発のベルリンエリアで、クールかつホットに立ち回る。
『あなたのママになるために』
乳がんで余命1年未満と宣告された女性には、もうすぐ子供が生まれる予定があった。すでに息子がいる彼女には、後を任せる夫もいないし、死ぬわけにはいかなかったのだ。では、一体どうすればいいのか。残された時間で自分に何ができるのか。そして、子供は無事に生まれるのか。もし生まれるなら一体どうすれば、生まれてすぐに死んだ自分のことを母親だと認めてくれるだろう。彼女が取った行動とは。
『あなたへ』
口数が少なくてもここまで心に響いてくるものだろうか。高倉健の作品を映画館で観たのは、最初で最後となった。
『あなたを抱きしめる日まで』
10代で未婚の母となり、幼い息子と強制的に引き離された女性フィロミナ・リーの実話が描かれる。なぜ彼女はそんな目に遭ったのか。修道女として生活する彼女はその厳しい教えに沿って言うことを聞くしかなかったが、もしかするとこの話の裏には、恐ろしい事情が隠されているかもしれない。ジュディ・デンチの演技力も手伝ってこの映画の映画批評家からの評価は高い。だが、本作におけるカトリックの描写に関して問題が起きる。ニューヨーク・ポストのカイル・スミスは本作を「カトリックへの悪質な攻撃である」と評し、制作者であるハーヴェイ・ワインスタインがニューヨーク・ポストに全面広告を出して抗議するなど、世間を騒がせた問題作となった。
だが、『スポットライト世紀のスクープ』同様、カトリックだからといって何をしていいわけではなく、その世界的権力の影に隠れて、越権行為に走る人間は多い。つまり、この作品が世間を騒がせた問題作なのか、はたまたカトリック教会自体が腐敗しているのか。それが問題だ。
『アニー・イン・ザ・ターミナル』
マーゴットロビーというのは実はもう皆気づいていると思うが、『ハーレイクイン』がヒットしたのはあの化粧が関係していた。元々目などのパーツは世界規格なので映えたが、『エリザベス』などの映画で完全に髪の毛をアップにすると分かるが、顔がグレースケリーよりよほど四角く、ヘップバーンほどのアイコンになることはできなかった。
これは見た目に関する悪口ではなく、仕方がないことだ。日本人の私も海外に行けば『チビ』と揶揄される運命にある。中国人は『ラッシュアワー』で股間を見た主演が『ちっちゃ!』と言うが、外国人は爆笑するだろう。だが、アジア人は揶揄される対象にある。それで言えば黒人差別だ。そんな具合に、この人間の独断と偏見は無様であるが消せない事実で、そんな中、オードリー・ヘプバーンやグレース・ケリーは『映画界の美女』として選ばれるのだから、そういうものなのだ。
ハーレイクインの熱の直後で私のTwitterでアンケートを取ったら『えこひいき気味』に投票が入ったが、一年もすれば落ちてしまっていた。この熱しやすく冷めやすい人間の性もまた、そういうものなのだ。
だから彼女が主演をする時どうしてもその容姿に目がいく。ハーレイクインの印象が強すぎるからだ。それと比較してしまう。あの映像が焼き付いているので、無意識に比較し、謎の幻滅をしてしまうのだ。まるで、化粧を落としたすっぴんの顔が別人だったかのように。
では、今回のこの映画はそんな印象が作品の邪魔をするか。いや、中々面白かった。やはりアイルランド・アメリカ・イギリス・ハンガリー・香港合作のスリラー映画ということでちょっと読めない展開があった。
『あの頃、君を追いかけた』
恐らく多くの日本人は、この映画にある種の時代遅れ感を覚えるだろう。だが、よくよく観てみるとそういうことはどうでもよくなってくる。これを観ると、この世界に『言語の差異』があることが邪魔で仕方なくなってくる。我々人間の人生は皆、似たようなものなのだ。『恋は奪うもの、愛は与えるもの』。少年はこの物語で、真実の愛を知った。
『あの日の声を探して』
時はチェチェン戦争真っ最中の1999年。戦争で両親と声を失った少年が難民キャンプで懸命に生きる姿が描かれる。実話ではないが、ロシアとチェチェンの間にあった実際の紛争を舞台にするため、物語を通して戦争の残酷さを理解することができる。冒頭のシーンと最後のシーンには大きな関連があるので、目を反らさないことだ。冒頭では、まるでその実録の動画を観ているような映像が流れるので、そのリアリティは高い。
そして、なぜか同時刻的に、少年とは違う謎の軍人の青年の姿が展開される。どこか意味ありげで、ポケットに手を入れて歩く癖も、どこかで見たことがある。この青年は一体だれなのか。
『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』
これは残念ながらポスターの写真で機会損失を起こしている。タレントの梨花が馬鹿笑いしている顔に似ているのだ。私は別に彼女が嫌いではないが、彼女はロンブーなどとこの顔で馬鹿笑いしている印象があるので、なぜかこの作品も低俗だという印象が出てしまっている。しかし実際には違う。これはこのポスターからは全く想像できない展開を見せることになる。そして誰もが、今日という時間の過ごし方について、考えさせられるだろう。
『アバウト・レイ 16歳の決断』
エル・ファニングもクロエ・グレース・モレッツのように、難しい役を演じているのをよく見かける。これは、彼女たちが子役から成功し、その後一生役者として生きていくために必要な、登竜門なのだろうか。若く柔軟性があるうちに、凝り固まってしまわない前に、カメレオンになれるように訓練をしているようにも見える。
だが確かに彼女らは、カメレオンになれているわけではない。そういう風には見えない。同じ若い役者の例で考えると、弱冠24歳で亡くなったジェームズ・ディーンは、カメレオンだった。カメレオンというほど多くの映画には出ていないが、しかしそのほとんどすべての映画で、違う顔を見せているのが伝わってくる。『全部がキムタク現象』にはなっていないわけだ。
キムタクの悪口ではない。時代が彼をそうさせたのだ。当時、キムタクというのは魔法の言葉だった。社会現象にもなるほどの、イケメンのアイコンだったのだ。だから『次のドラマでもキムタクが見たい!』という強いニーズがあった。彼はそれに応えただけだった。彼は役者ではない。アイドルだ。その他にも色々なことをやっている人間だ。もし彼が役者だけで生きていくことを覚悟した人間であれば、彼とてカメレオンになっただろう。それだけのことだ。
その意味で、カメレオンになれないと役者人生は後がない。だから例えばシャーリーズセロンは、「セクシーなブロンド役」ばかりのオファーが寄せられたが、意図的に様々なジャンルの作品に出演し、演技派女優としての地位を築き、2003年の『モンスター』でアカデミー主演女優賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)などを受賞するわけだが、その時の彼女の変貌ぶりからは、彼女の役者としての意地を感じることができた。
だが例えばアンハサウェイは、2001年公開の『プリティ・プリンセス』により人気女優となったが、プリンセスのイメージが定着し、理想の役が得られずに低迷してしまう。そして、2005年公開の『ブロークバック・マウンテン』でアイドル的なイメージを払拭し、じわじわとその地位を確立していくわけだ。そうした先輩たちの実績もあって、子役から成功している彼女らは、体当たりに難しい役柄に挑戦しているように見える。
今回もかなりニッチなケースの話だ。スーザンサランドンやナオミワッツといったベテラン女優に支えられながら、何とかその役を奮闘している。が、まだまだ『エルファニング』を捨てきれていない印象だ。この現象はキムタクのそれもそうだが、同じ美形女優で知られるブレイクライヴリーの『リズム・セクション』などもそうである。
彼女もまたセクシーな若い女性を求められることが多いが、いつまでもその役はできない。少しずつ『味変』しているように見えるが、リズムセクションでの彼女もまだまだ、『ブレイクライヴリー』を捨てきれていない。だから中途半端な結果に終わっている。
シナリオはいいのだが、彼女が美しすぎる。彼女もそれに気づいていて、それにしがみついてしまっている。それでは演技の幅は狭くなる。エルファニングも美女だしキムタクも美男だから、似たような現象に陥っている。
姉のダコタファニングはというと、美女の路線とは言えない。内気な路線に行っている。よって、こっちもカメレオンとは言えない。このままではよくいる『個性派俳優』の方向に行ってしまうだろう。
その意味で、『魔女がいっぱい』でのアンハサウェイ、『ダークナイト』でのヒースレジャー、『ディパーテッド』でのジャックニコルソンや、『12モンキーズ』でのブラッドピット、『モンスター』でのシャーリーズセロンなど、単なる美男美女でもない、個性派俳優という枠でもない、『偉大な俳優』の枠に彼女たちが入れるかどうかが、見られている。
これは無責任な勘だが、ブレイクライヴリーでは無理だろう。美しいが、それに頼り過ぎているところがある。クロエグレースモレッツとエルファニングは、まだどうなるか分からない。彼女らはほぼ同年代の、24歳程度だ(2022年)。10代の頃は仲が良かったので今もそうかもしれない。二人ともその若さでは考えられないほど多くの作品に出演している。大化けするかもしれない二人である。
『アフガンレポート』
2006年9月、タリバンとの戦いが泥沼化の一途をたどるアフガニスタンの山岳地帯で、パトロール中のイギリス人兵士が地雷を踏んで重傷を負った。その地雷は80年代にロシア軍が撒いたものだ。地雷を食らったらもう終わりだ。足がなくなる。だが、戦場から無傷で帰れる方が奇跡だ。皆で彼を全力でフォローしながら治療する。だが、ほどなくして彼らは、実はとんでもない場所に迷い込んでしまったことを思い知る。
『あまくない砂糖の話』
ドキュメンタリー映画で、「砂糖を摂取し続けると人体にどのような影響を及ぼすのか」という、『スーパーサイズ・ミー』の砂糖版のようなものである。だが今回の場合はその2倍の期間、60日間のチャレンジだ。
これは人間全員が見るべき映画かもしれない。単純に、参考になるからだ。勉強になる。そういう意味で観ておいた方がいいということだ。学校あたりで観てもいいだろう。これが事実ということが前提だが、どう見てもあまり『事実を偽っている』ようには見えない。それをやるメリットよりも、やって得られるメリットの方が遥かに大きいからだ。
この映画を観れば、牛丼チェーン「吉野家」の常務取締役だった男性(解任)が2022年4月、早稲田大学の社会人向け講座で「生娘(きむすめ)をシャブ(薬物)漬け戦略」と発言したことの意味が見えてくる。
その発言自体は何のセンスも常識も道徳観も倫理感もない低俗なものだったが、彼がそう発言したくなる理由は、この映画を観れば分かってしまうのである。
だから恐らく10代のまだ未熟な頃の私なら、『え?シャブ漬けであってるやん』などと思ってしまったかもしれない。視野が狭く、井の中の蛙で大海を知らないからだ。井戸の中の話なら確かに、我々人間は企業の戦略通り、シャブ漬け状態になってしまっているのである。
例えばあるジュースを飲み続けることが習慣のエリアがある。そこでは、子供のころから家族ぐるみでそのジュースを飲む。だが、成人する前には、歯のほとんどが虫歯でやられている。それでもそのジュースをやめられない。そういう事実を客観視した場合、『え?シャブ漬けであってるやん』と思うことだろう。
我々人間が気づいたら手を伸ばしてしまっている『企業が提供する食品』がある。なんせ、『それしか売っていない』のだ。『皆もそれを食べている』。それを今日も明日も買う理由は、ごまんと存在しているのだ。
ここに気が付ける人間は、稀有である。ほとんどいないと言っていい。だから、むしろ気が付かない方がいいくらいだ。そうじゃないと周囲から浮いてしまって、変人扱いされる。それくらいこれらの現実は、人間の世界に根深く浸透している。
したがって、教訓性が高く、普段の日常生活では目を向けることがないことにあえて目を向ける『学校』の教育として、こうした真実を教えることには意義があると言えるのである。
オーストラリアの先住民であるアボリジニは、病気知らずだった。だが、砂糖を摂るようになってから、病気を発症するようになった。この話も相当教訓性が高い話である。別の記事に書いたように、だが、インペリアル・カレッジ・ロンドンで生物学の学士号と修士号を取得したのち、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンおよびロンドン動物学協会で進化生物学の博士号を取得したアランナ・コリンが2016年に書いた『あなたの身体は9割が細菌』にはこうある。
しかしながら、いちばん近い道路まで数十キロメートルあるパプアニューギニアの高地や、インドネシアのスラウェシにあるシージプシー・ビレッジ(漂流民の村)で暮らす人にニキビはない。10代の若者にもない。オーストラリアやヨーロッパ、アメリカ、日本では、みんなニキビになっているというのに。(中略)花粉症と同じく、私たちはニキビを日常生活の一部とみなしがちだ。とくに10代後半のニキビはそうだ。けれども、なぜ未開地の人々にはニキビがないのだろう?
未開地の人々にはニキビがなく、アボリジニのような原始的な生活をしている人々も、病気知らずだった。また、イヌイットなどもそうだ。
カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系諸民族の1つイヌイットの人たちは肉ばかり食べる。朝昼晩と、肉、肉、肉。『科学でわかった正しい健康法』にはこうある。
肉しか食べないイヌイットは我々より健康である!
イヌイットに会ってみたい。数十年前からイヌイットの存在そのものが、健康業会をいら立たせてきた。北極圏の酷寒のなか、彼らはほぼ肉、魚、脂質しか摂取しないという食生活を送っている。野菜はゼロに近い。果物もゼロに近い。炭水化物もゼロに近い。1日のメニューはこんな感じ。
朝食 肉
昼食 肉
夕食 肉
だからこそ、現代の栄養学の世界ではイヌイットの存在が厄介な問題となっている。こんな食生活を送っているのに、イヌイットが健康だからだ。摂取するカロリーの約7割を脂質からえているにもかかわらず、複数の観察研究が、僕たちの心臓と比べて、イヌイットの心臓のほうが健康であることを示したのだ。
『肉ばかり食べていると成人病になり、寿命が短くなって早死にする』というのが王道の答えなのだ。しかし彼らは一日中肉ばかりを食べて、むしろ外国人よりも健康でいるのである。
原始的な生活をしている人々が、都会的な生き方をしている人間よりも遥かに健康体でいられている現実がある。これは一体どういうことなのか。人間は、進化したのか。それとも、退化したのか。そして、人間の人口増加はどこまで許容される?人間は、どうやってこの地球で生きていくことが求められている?これは、ディカプリオ製作の映画『THE11hour』と併せて観たい、人間の教科書の一つである。
『アメリカン・アサシン』
フロストは言った。『人は不快な記憶を忘れることによって防衛する。』人間の自己防衛本能は強い。過去の未練を断ち切り前に進もうとするときも、力を求めるときも、根底にはその本能がうずいている。だが、それよりも強い力がある。『愛』だ。
『アメリカン・スナイパー』
「米軍史上最多、160人を射殺した、ひとりの優しい父親」。米軍史上最強の狙撃手と言われた、クリス・カイルの伝記映画。『スターリングラード』がソ連とドイツの名スナイパー同士の対決なら、これはアメリカ最強のスナイパーとイラクのメダリスト級の狙撃手との戦いだ。およそ2㎞先のイラク最強のスナイパーに照準を合わせて、クリス・カイルが息をのむ。『プライベート・ライアン』の2億1650万ドルを超えてアメリカで公開された戦争映画史上最高の興行収入額となった。
『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』
赤字作品で、それもうなづける内容。だが、オスカーアイザックとジェシカチャスティンは二流映画ではない。シナリオに全体が飲まれてしまった映画である。
まず、実話じゃないところが大きすぎるネックだ。1981年だとかなんだとかいって、設定が細かいのに実話じゃない。もしこれが実話だったのなら見応えがあるのだが、実話じゃないのに攻めが中途半端だから(一体何を見ているんだ俺は)の感覚になる。まず、どんな人に見てもらいたくて、何を思ってもらいたいかがわからない映画はそういう着地になる。
『アメリカン・ハッスル』
『ダークナイト』の後のクリスチャンベールの映画として期待したのが、私の映画経験も弱かったこともあって、拍子抜けのような感覚を得て、一番最初に観た時はあまりこの映画の価値を理解できなかった。
だが、数年後に再鑑賞することになる。私は基本一度観た映画は二度と観ない。その方が最初のその一発の鑑賞に希少な価値が生まれ、より映画に集中して楽しめる体。だが、そういう風に『以前観て理解できなかったもの』はたまに再鑑賞するのだ。すると、この映画が私の好きな実話映画だと分かった。1970年代にアトランティックシティで起きた収賄スキャンダル「アブスキャム事件」を基にしている。
俳優も豪華だった。
- クリスチャン・ベール
- ブラッドリー・クーパー
- エイミー・アダムス
- ジェレミー・レナー
- ジェニファー・ローレンス
- そして、ロバートデニーロ。
これだけのキャストが揃っていて、だからこそ当時観た時は拍子抜けだったのだが、数年間で映画経験をたくさん積んだ私は、その一人一人の映画ヒストリーや、今までの作品での演技、また、実話映画を論理的に頭で構成して観る『左脳鑑賞』ができるようになっていて、この映画の価値が分かるようになっていた。
『右脳鑑賞』とは、若き日の私の映画に対する態度だ。ワーキャー的な内容だけに反応し、『うおーっ!すげーっ!』と言うだけの態度。多くの人がこういう感覚で映画を観ているはずだ。だから、人が集まる映画にはそういう映画が多い。私はコロナになるまで毎週映画館に13年間通い続けたから間違いない。
『左脳鑑賞』で映画が観れるようになると、
(え、これ本当にやったの?)
(すげえ、デニーロがカジノにいる・・)
などと、今までの知識経験と重ね合わせながら映画の一つ一つのシーンに『いいね』を心で押していくことになる。その押した回数が多ければ、今回のように『面白い映画だったなあ』ということになるのだ。
『アラビアの女王 愛と宿命の日々』
かつて、“砂漠の女王”と呼ばれたイギリス人女性がいた。ガートルード・ベルである。時は1900年前後。彼女は人生を大いに冒険するためにアラビア半島へと旅立つ。この時期の英国人とアラビア。何か引っかからないだろうか。そう。『アラビアのロレンス』である。パレスチナ問題でも重要なイギリスの三枚舌外交に巻き込まれ、名作映画として君臨するあの作品の彼も、ここに登場する。そういう意味で、これはとても貴重な作品だ。彼女はイラク王国建国の立役者的役割を果たした。
『アリー/ スター誕生』
1937年の同名映画の3度目のリメイクであり、様々な有名人が登場する豪華作品。また映画のサウンドトラックは全米・全英ともに1位を獲得、全世界で累計300万枚以上のセールスを記録し、第91回アカデミー賞でアカデミー歌曲賞を受賞。更に水面下で進んでいた話が豪華で、まずクリントイーストウッドに監督を持ち掛ける。レオナルド・ディカプリオ、ウィル・スミス、クリスチャン・ベール、トム・クルーズへさらにジョニー・デップへの出演依頼があり、最終的にブラッドリークーパーに落ち着いた。あまりにも豪華な面々である。
タイトルからして『レディガガ』売れないあるいは一般人的立場から、誰かに出会ったスターになるまでを描くことは、何となくわかる。だから見る前からもう観たような気がして、今までずっと見ることはなかった。いざ観るとその通りの展開だ。だが、それでも大舞台で歌う直前の臨場感あるシーンでは心が躍る。もし映画館で観ていたらリズムを取りながら楽しく鑑賞したことだろう。
- レディガガ
- マライアキャリー(プレシャス)
- ホイットニーヒューストン(ボディガード)
- ビヨンセ(ドリームガールズ)
- アリアナグランデ(Netflix)
アメリカの歌姫の活躍はただの歌手だけにとどまらない。
『アリータ: バトル・エンジェル』
『アバター』、『タイタニック』で世界一を獲ったのは伊達じゃない。確かに日本人は緻密な創造が得意だが、それをここまで隙なく具現化できるのは世界で見ても数えるくらいしかいないだろう。これが超一流の創る映画だ。
『アリス・イン・ワンダーランド』
アリスという少女が、不思議な森に迷い込んだ。この話はあまりにも有名で、誰もが一度はその名前を聞いたことがあるだろう。だが、私が気になるのは、『この物語が生まれた理由』だ。実は、口に出さないだけで、皆、それに興味がある。しかしまあそれは、私のような変な生き方をしてきた人間だけかもしれないが。
『ある少年の告白』
同性愛というのは、稀な存在である。同時に不思議で、実態が見えずにいて、当時はそれだけの理由で刑務所に入れられることも多々あった。イギリスなどでは特にそうだ。聖書を重んじる人にも毛嫌いする人が多い。私の母も美輪明宏、瀬戸内寂聴と聞いただけで差別的な相槌を打ったので、私と口論になったことがある。前者が性別不合で、後者が自分とは違う宗教の人間だからだ。
だからこそ、実態が見えづらい。つまり、私の母のような差別的な人間、そしてこの主人公の彼のような視野を持った人間は大勢いて、それが往々にして、性格的に偏っていて未熟である。ジャッジする人間が未熟なのだ。結局、彼らの存在が良いのか悪いのか、よく分からないという人が大勢いるのである。
しかし、私はただそれだけという理由では決めつけない。私が無宗教を貫くのも、偏った器の小さい人間になりたくないからだ。では、理解者なのか。そうとも言えないだろう。しかしこのような映画を通して真剣に考えることはできる。
『アンソニー・ホプキンスのリア王』
『アンソニー・ホプキンスのリア王』というタイトルからして、何が何だか分からない。だが、黒澤明の『乱』でリア王は知っているから内容は理解できた。小学生の頃に演芸会でこれを演じた記憶もある。
ホプキンスは名優だが、やるタイミングやキャスト、時期、そのすべてがあまり適切ではなかったのではないだろうか。これだけの俳優が、これだけの名作をやるというのにいちいち『アンソニーホプキンスの』というタイトルを付けなければならないような、小規模なものになってしまった。
『アンナ・カレーニナ』
1877年にレフ・トルストイが発表した『アンナ・カレーニナ』の映画化作品。名作と名高いこの作品だが、やはり『ロシア文学は暗い』と言われるのも無理はない。だが逆を言えば、表層を彩ることに躍起になる人間の滑稽さを、『メッキと純金の違い』というイメージで暴露するのがうまいのである。つまり、『表層に躍起になる人ほど闇を抱えている』のである。
名作というのはこの世を生きている限り何度もその話を目にすることがあるので、一度は見ておきたい作品だ。
『アンロック/陰謀のコード』
ノオミラパスは『世界が認める絶世の美女』ではない。『プロメテウス』で初めて見た時、
(え?何でこの人がこんな重要な役なの?何かのコネとか、関係者幹部の親族とか?ちょっと知らない人がいるのはうざいな・・)
と思ったのが本音だ。その時は、そのことに影響されて彼女の実力を正確に計れなかったが、『セブンシスターズ』といい『パッション』といい、彼女の演技力が光る映画にいくつも出会った。特に前者は7姉妹すべてを自分一人で演じるという離れ業をしてみせ、しかもそれがB級っぽいチープさなく完成させているからすごい。
今回も、そんな彼女を軸にし、マイケルダグラスら、実力派の名優たちが脇を固める為、作品の完成度は高い。
『愛を綴る女』
フランス・ベルギー・カナダ合作という作品だけあって、世界的な目で見るとマイナー的な雰囲気が漂う。もしマリオンコティヤールが出ていなければ見ることはなかったと言えるだろう。
だが、彼女はこういう色々な女性の役をいつも迫真の演技で演じていて、どの役にもなりきることに成功しているように見える。フランス語と英語が喋れる数少ない世界的大女優の一人だと言えるだろう。
例えば『サンドラの週末』などは、普通の人が見て(これは一体何を見せられているんだ・・)としか思えないが、アカデミー賞をはじめとした各所から圧倒的な評価を得ている。
『悪の法則』
怖いが、内容がとても新鮮であり、見応えがあった。やはり映画は非日常的なものでなければならない。(もしかしたら現実的にあり得るかも)と考えると、背筋が凍りつく。日本人がメキシコで生きていくとしたら、大変な覚悟がいる。
『安市城 グレート・バトル』
645年頃あった唐による高句麗侵攻を描く。日本ではちょうど大化の改新、つまり、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした革命により、『天皇を中心とした集権国家づくり』が幕を開けた時だ。この時、朝鮮半島はまだ、
- 高句麗
- 新羅
- 百済
という3つの国があった。日本も『倭』であり、倭の国とこれらの国も密接なものだった。中国は唐。この時代の2代太宗(李世民)が、20万人とう圧倒的な規模で高句麗の安市城を襲った。果たして、この絶体絶命のピンチをどう切り抜けるのか。中国のような派手で無理のある演出がなければ、もっと歴史的価値のある映画となっただろう。
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
この映画を『今年のベスト10』に選んでいる人がいたので期待していたが、やはり知名度的にも内容はそう幅広い層に刺さるものではなかった。だが決してB級的な内容ではなく、ジェイクギレンホールとナオミワッツは真剣そのものである。ということは、この作品はこの二人の演技の実力でもっている映画だ。だからニッチ的な内容でもしっかりと仕上がっていて、刺さる人にはしっかりと突き刺さる、そういう映画である。
万人向けじゃないということは、『ワイスピ』のようなものじゃないというだけだ。例えば、彼らと同じ、あるいは近い境遇にある人は大勢いるわけで、そういう人には真剣に突き刺さるのである。
人の死を受け入れるということは、精神未熟の者にはできない。私も17歳で父親を亡くしているが、それをよく痛感している。面白いことがあった。23歳かそこらになった時、映画館でとある映画を観ていたら、ふと(あ、父親は死んだんだ)という悟りの境地を得た。
それは不思議な現象で、数年たって改めてもう一度その映画を観たのだが、どのシーンでその現象が起きたのか不思議なくらい、あまりそういうこととは関係のない映画だった。だから私にも『死を受け入れる』ということの葛藤は、よくわかる。
『イヴ・サンローラン』
ココ・シャネルやクリスチャン・ディオールと並び称されるフランスのファッションデザイナー、イヴ・サンローラン。やはり彼もまたその天性の鋭さと同時に、『非常識』な価値観を持っていた人間だったようだ。だが、彼が常識的であれば、頭一つ抜き出ていない。彼は非常識だからこそ、孤独で、そして卓越しているのだ。
『イエスタデイ』
ビートルズの曲に興味はなく、この俳優も知らないので劇場では観なかったが、観るとしたら音楽を最大限に楽しめる劇場がいいなとは思っていた。いざ観るとなかなか面白い。この俳優の気になるところをガンガン突っ込んでいく人が現れるので、それがこの映画に欠損しているところを埋めることに成功している。今でも十分楽しい映画なのだが、もしこの映画をもう少し前の時代にやっていたなら、更に爆発的なヒットが見込めただろう。
『いぬやしき』
宇宙人の手によって機械の身体となった初老の男性と高校生の活躍や苦悩が描かれる。人間がふと『力』を持った時、それに支配される人と、支配する人とに分かれる。では、それはどうやって決まるのだろう。環境が決めるのだろうか。元々人間には、人を殺す能力が備えられているが、人は安易に人を殺さない。その理由は、それがいけないことだと植え付けられているからだ。
だが、『あまりにも卓越した力を手にした場合』はどうだろうか。人はまだその状態になったときのマニュアルを用意していない。だからみんなで決めた一切のルールを超越した存在になったと考えてしまう。『神』が分かりやすい言葉だろう。
だが、人間が神になることはできるだろうか。そもそも神って?人の形をして長いひげで、杖を持っている?いや違う。神とは真理であり、真理から逸れた人間は、キリストだろうがブッダだろうが、神になることはできない。
『イルカと少年』
イルカに出会った少年との絆を通して描いたノンフィクション、つまり実話だ。『実話、イルカ』というニッチだが確実な素材とあって、見応えはある。よって、2020年当時、この映画が日本国内の中学校2年の英語の教科書に引用され、あらすじが載せられていたという。モーガンフリーマンがしっかりと脇で作品を支えるから、映画としてのクオリティにも仕上げられている。
『イルカと少年2』の続編と合わせて楽しめる映画だ。
『インターン・シップ』
オーウェン・ウィルソンの大ファンという人は、確かに映画ファンの中にはいるのだが、多くの枠の中ではそういない。大体が、ジョニー・デップ、トムクルーズ、ブラッドピット、リバーフェニックス、キアヌリーブス、ロバートダウニーJr.などなど、第一線で活躍していたり、美男美女が支持される場合が多い。
いつも口が半開きで、合っているのかどうかわからないロン毛を見ると、かつてのギャル男全盛期時代を思い出す。キムタク以外の大体が、『エセ・ロン毛イケメン』だったわけだが、彼からもどこかほんのり、そうした気配を覚えてしまう。
だが実は、彼の映画を観て(つまらない)と思った事はあまりなく、むしろ(面白い)と思う映画の方が多い。『エネミーライン』のようなシリアスな映画も面白いし、今回のようなコメディ作品も面白い。
何なら、みんなが評価を低くつけているようなハワイの映画でも、私は面白いと感じた。それは、彼に実力があるからとしか言いようがない。彼が主演を務める映画が多いのは、彼が隠れた実力派だからだろう。
調べてみると、映画の中では能天気なプレイボーイを演じることが多いが、実際には生真面目で誠実な性質であり、夜遊びに関しては、一般的なイメージに反してかなり否定的だという。そうした真面目な彼の性格が、作品の完成度の影響しているのだろう。セルゲイブリンが出てくる、と言って驚く人は、Googleに詳しい人である。
『怒り』
若い夫婦が自宅で惨殺され、犯人は逃走。怪しい人物がたくさん出てくるが、誰が犯人かは最後まで分からない。
『偽りの人生』
ヴィゴ・モーテンセンはこういう映画にもいくつか出ているので、内容が渋いのには慣れてる。『涙するまで生きる』とか『約束の地』とか。渋い映画がとにかく多い。フロイトを演じた『危険なメソッド』も、その偉人の華やかさに期待するような派手な内容ではなく、渋かった。
いぶし銀の彼はついに『グリーンブック』でアカデミー作品賞に大きく貢献するが、やはり彼の名作と言えばその2年前の2016年公開映画、『はじまりへの旅』だろう。あまりにも教訓性が高く、受け入れられる人が世界にどれだけいるか分からない強烈な映画だ。
そういう、奥が深い役から『ロードオブザリング』のような演技もする中で、今回は一体どういう方向なのか、と彼の映画を観る時はいつも少し真剣に画面に向き合わなければならない。だが今回は少し、内容が渋すぎるかもしれない。
『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』
アルパチーノが出ているのにもったいない。たまに名優たちがこうしてもったいない映画に出ているのを見るが、お金の事情なのだろうか。チャニングテイタムも嫌いではないが、彼にはまる体当たり系でもないし、この作品で何かを狙うことは難しいだろう。
『ウォー・ドッグス』
実際に起きた米国政府に対するある事件についてまとめた、武器商人で後に作家に転向したエフレム・ディベロリの回想録とローリング・ストーン誌に掲載されたガイ・ローソンの記事が原作となっている。実話というのはそれだけでものすごい見応えがある。フィクションでは絶対に到達できない領域を見せてくれるので、それだけでこの映画の価値がある。
また、『米国政府に対する事件』という時点でもう映画である。更に、『成り上がって一攫千金をする』という冒険物語は、いつの世も世界規格で通用するドラマのモデルである。
ディカプリオが演じるにしては少し地味かもしれないが、彼が演じていてもおかしくない内容だ。相棒のジョナ・ヒルは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で彼と演じているし、この映画は事前情報として『何の事件だったのか』を知らない方が楽しめるだろう。
『ウォーリアー』
先ほど違う映画の感想を書いて『実話じゃないのに攻められていない』として酷評した。今回もフィクションだ。では実際にはどうか。
面白い。格闘技という分かりやすい展開もあるだろう。格闘技をやればわかるが、それは、細かい動き一つ取るだけでも素人だとばれてしまう。体つきは実はたいした問題ではない。ひょろくても強い人間はいくらでもいる。
だから、むしろ体つきだけになっていないかどうかをチェックされる。一番はフットワークだ。足の身軽さや目線、攻撃する時の手足の素早さや引き、どちらの手から繰り出すかなど、格闘技を習っていなければ分からない要素を、きちんと押さえているかどうかが注目される。
そういうことにおいて、トム・ハーディならもちろんやってくれるという信頼があるが、ジョエル・エドガートンもきちんとこなしているのだから、全体的に本気度が伝わってくる映画である。
トムハーディはコワモテだから『ダークナイトライジング』のようにヴィランを演じることが多い。デビュー作同然の2002年の『フランス外人部隊 アルジェリアの戦狼たち』からそうだったが、彼は基本的にさわやかなクールガイというよりは、こういう体育会系のバチバチにやり合う役がよく似合う。
だから彼はこの手の役をこなしてくれるという期待があるし、その孤高の生き様も周りをうまく巻き込んでいていいスパイスになっている。
フィクションの場合、『フィクションなんだからド派手なことをやる』か、このように『フィクションと言えど、そんじょそこらの人にはまねできない』作品を作ることで、観客の心を掴めるだろう。
『ウォールフラワー』
あるところにウォールフラワー(壁の花)のように、目立たない少年がいた。だが人間には理由がある。彼がそういう生き方をする人間になった理由が、ちゃんとあるのだ。だが、彼はそれに気づいていないらしい。『最初から』そういう人間だと言い聞かせていたのだ。では一体なぜそんなことを。どうして自分の心に蓋をするような真似をして生きているのか。
この世界には様々な人間がいて、その人間の分だけ事情があり、生きた環境がある。一つだけ言えることは、この世界には素晴らしいものもたくさんあるということだ。例えばウォールフラワーの花ことばである『逆境にも負けない強い愛』のように。
『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』
2020年現在の英国女王エリザベス2世の叔父にあたる存在、イギリス国王エドワード8世とアメリカ人既婚女性ウォリス・シンプソンとのロマンス、いわゆる「王冠をかけた恋」を題材にしている。歌手のマドンナが監督をしたということもあり、角度が芸術的である。ここで言う芸術というのは『常識とは違う非常識な観点』であり、例えばよくある芸術作品で『絵が部屋の外にある』などの狙いに『なぜ絵が部屋の中にしかないと決めつけるのか』という考え方があるが、そういう観点があるということが言いたいのである。
離婚歴のある平民のアメリカ人女性と結婚するためにグレートブリテン王国成立以降のイギリス国王としては、エリザベス2世がその最長記録を持っているのに対し、彼の場合は歴代最短の在任期間わずか325日。彼はこの時多くの批判を受けたが、マドンナの視点からすると、『なぜそれがいけないことなのか?』ということになるわけだ。
別にそういう視点があってもいいだろう。それはある意味、これ以上ないくらい純粋なもので、ロマンチックではないかそう感じる人は世界に大勢いるはずだ。イギリスの王族の映画はいくつもあるのでまとめてみよう。
- 英国王のスピーチの真実~ジョージ6世の素顔~
- ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋
- 英国王のスピーチ
- エリザベス2世 知られざる女王の素顔
- ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出
こういう順番で観ていくのが一番いい。更にその間に、
- ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
- ダイアナ
を観ればより完璧だ。エドワードは『英国王のスピーチ』の主人公ジョージ6世の兄だ。そしてジョージ6世の娘がエリザベス2世である。
『ウルフマン』
1941年の映画『狼男』のリメイク作品。有名な話だから一度は見ておきたい、という。ベニチオ・デル・トロは『チェ』などでゲバラを務められるほどのスペイン語が喋れる貴重な俳優だが、これくらいの主演となると華がどうしても足りない印象がある。
だから『スター・ウォーズ』のような謎の男の登場の仕方の方が意味ありげで彼が生きる。アンソニーホプキンスの威厳は問題なく、エミリーブラントも美しい。しかし、もう少しこの物語は伝説的に仕上げられるだろう。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 – 永遠と自動手記人形 -』
自動手記人形というあまりにもニッチな作品だが、彼女がそうした職業に就くまでに至る過程と、機械人形という『人間ではないもの』として生きることの虚無と儚さ、そしてそれがあるからこその尊さが絶妙で、彼女が歩く一歩一歩に、得も言われぬ哀愁がある。
彼女は人間ではないのだから、人間のことはすべて分からない。分からないままこの世に生まれ、分からないまま、言われるがままに生きた。
いや、生き残ってしまった。
どうしてこうなったのか分からない。なぜ自分は苦しいのか分からない。だが、一つだけ言えることは、自分には命に代えても守りたいと思うほど大切な人がいるのだということ。
この気持ちは一体何なのか。彼女は、『人が人に書く心のこもった手紙』を代筆する自動手記人形という立場を通し、人の心を少しずつ理解していく。
『ヴァイキング・サーガ』
wikipediaにもないマイナーな映画だが、この時代のヨーロッパを描く一つの事実としては価値がある。舞台となるノーサンブリア王国とは、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。
つまりイギリスの話だ。ここにあったリンディスファーン修道院はヴァイキングによって731年略奪を受けてしまうが、その時のシーンを切り取ったものが描かれる。当時の神は北欧の神『オーディン』である。アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)はまだ浸透していない。そういう神話時代と、アングロサクソン人の息をしたこの時代の映画は多くないので、そういう意味で貴重だ。
この映画に派手なアクションなどを求めると評価は低いがそうしなければ高い。
ヴァイキング
神話時代
リンディスファーン修道院襲撃(キリスト教VS北欧神話)
などのキーワードが含まれているだけで貴重なのだ。そう考えると、途中出てくる残酷なシーンは、現代で考えるとあまりにもおぞましいことだが、当時のことだ。そういう侮辱行為が存在したことは十分にあり得る。何しろい人の首を切り取って生首を持ち帰った時代は世界中で常識だったのだから。
『ヴィクトリア女王 最期の秘密』
エリザベス女王が世界一有名な女王であり女性なら、ヴィクトリア女王は大英帝国の黄金期に君臨した実力者である。インド大反乱(1850年)から更に37年経った1887年イギリス。ヴィクトリア女王はすっかり高齢者となっていた。私はあのガンジーほどの人物がヴィクトリア女王に対しては敬意を払っていたのを歴史の勉強時に知ると、違和感を覚えた。何しろ、大英帝国のトップである彼女には遺憾に思うのが普通だからだ。だからインドはイギリスから独立したのである。
この映画を観ると、そんなヴィクトリア女王に対して少しは理解が深まることになる。かといって帝国主義が正当化されることはない。植民地化された人々は独立運動をして、今はもうそれが完全に時代遅れになっているように、黄金期に君臨していたからといって、イギリスとフランスの2トップ、もちろんスペイン等がやっていたことは間違いだ。ナチス・ドイツ、大日本帝国も同じことである。しかし、女王の立場は難しかったと言えるだろう。
『ヴィンセントが教えてくれたこと』
どう考えても低俗で、自堕落に陥った偏屈なジジイがいる。むやみやたらに近づかない方がいいと誰もが思うし、事実、近づいた大人の多くが、彼の悪態にあまり良い思いはしなかった。だが、なぜか一人の少年にとっては、彼が違う存在に見えるらしい。曇りなき眼でよく彼を覗いてみる。すると、どうやらやはり彼は普通のジジイではないらしい。
『ウインド・リバー』
アメリカの西部にある、ワイオミング州ウインド・リバー・インディアン居留地。そこはとても過酷なエリアである。マイナス30℃の雪山で遭難したら最後、人生は終わりだ。そんな地獄の雪道で、一人の少女が無残な姿で発見された。あなたはこの衝撃の展開をどこまで受け入れることができるか。これは、実話である。
『ウェイバック -脱出6500km-』
映画はシベリアのグラグを逃れ自由を求めてインドまで4,000マイルを歩いたとするポーランド人のスラヴォミール・ラウイッツの The Long Walkが原作である。やはり、実話が関係しているだけあって見応えがある。
観る前に、wikipediaの説明ページを見ておくといいだろう。
1939年、ポーランドは国土をナチス・ドイツとソビエト連邦に分割占領された。ポーランド人兵士ヤヌシュ (ジム・スタージェス) は、ソ連占領下地域にてスパイ容疑で逮捕され、ソ連の将校 (ザハリー・バハロフ) に尋問されるが、罪を認めることはしなかった。ヤヌシュは20年の懲役を宣告され、妻 (サリー・エドワーズ) をポーランドに残して、1940年にスターリン体制下のソ連の強制労働収容所へ送られる。
シベリアの収容所での過酷な環境で囚人が次々と死んでいくのを目にしたヤヌシュに、収容所に長くいるロシア人俳優カバロフ (マーク・ストロング) が脱獄話を持ちかける。同じく収容所生活が長いアメリカ人技師ミスター・スミス (エド・ハリス) からはカバロフの話を本気にしないよう言われるが、本気なら付いていくとも言われる。
この程度の内容を事前に把握しておけばかなり状況整理が容易になり内容に入り込めるだろう。
彼らが歩いた道のりは想像を絶する厳しさだった。その気の遠くなる物理的な距離の時点でもう凡人は耐えられない。更に、脱走という常に存在するプレッシャー、そして、氷点下のバイカル湖に、モンゴルや中国にあるゴビ砂漠やヒマラヤ山脈といった危険すぎるエリア。
想像を絶するとはこのことである。だが、彼らは『生命』だ。むろん我々もそうだが、生命というのは『生き残る』為に燃やす執念がすごい。
作家、五木寛之氏の著書『大河の一滴』にある、この一文を見てどう思うかだ。
あるシベリア帰りの先輩が、私に笑いながらこんなことを話してくれたことがある。
『冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這い寄ってくるのを感じると、思わず心が弾んだものだった。それは隣に寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからねシラミは人が死にかけると、体温のある方へ一斉に移動するんだ明日の朝はこの仲間の着ている物をいただけるなとシラミたちを歓迎する気持ちになったものだった。あいだに寝ている男が死ぬと、両隣の仲間にその死人の持ち物、靴や下着や腹巻や手袋なんかを分け合う権利があったからね。』
こうした内容は、同じ強制収容所経験者の名著『夜と霧』でも見ることができる。彼らは朝会話を交わしていた仲間が死体として山に積み上げられるのを横目で確認しながら、生きる為にスープをすすらなくてはならなかった。
人間は生きる為に何でもやる。いや、『生命』だ。我々生命は、生きる執念を燃やす。それは繋ぐためなのか。全ての人間が『繋ぐ』ことに執念深いようには見えない。だが、心底の部分で、人間という枠を超えた『生命』のレベルで我々は、彼らのような人生を目の当たりにして、感じるものがあるのだ。
『ヴェノム』
もともと彼は負け犬ではない。彼の周りにいる人間が負け犬だから、権力に屈して人に優劣をつけているのだ。彼はとても優しい。だが、勇気がないことも確か。そんな彼に『あるもの』が寄生した。それは彼の人生をどう変えていくのだろうか。今後も楽しみだ。
『ヴェルサイユの宮廷庭師』
1682年のフランスに、現在、Wikipediaにも載っていないサビーヌ・ド・バラという庭師がいた。当時の王はルイ14世だ。ルイ14世というのは表向きには『太陽王』とも称されるほどの人物で、ヴェルサイユ宮殿を作ったことでも有名。今回は彼の『王たる一面』にスポットライトを当てて作られている為、彼が悪人としては描かれることはない。内容としても、彼のような『雲の上に存在』にいる人間から白羽の矢を立てられた軽いシンデレラストーリーのような話だから、主人公は庭師だ。そしてシンデレラと違うのは彼女がすでに『母親』としての立場にあるということ。だが、どうもその『母親』としての立場の雲行きがおかしい。彼女には複雑な事情があるようだ。
さてルイ14世だが、実はヴェルサイユ宮殿を作ったのは少し無理があった。当時の財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をした。この体制を維持するためには、巨額の資金がいる。そこで、国家を富ませるために、外国製品の購入を制限し、国内生産力を伸ばそうとして国力を上げたのだ。金、銀、貴金属等の獲得と貯蔵と同時に、輸出を促進して貿易収支を黒字にする。すると、国内におのずとリソース(資金、財源)が蓄積されるわけだ。
また、領土拡大にも力を入れて、54年の親政の内の実に34年を戦争に費やした。植民地の獲得をして領土を増やせば、国内に流入するリソースが増え、そうした体制を維持、拡大することができるという寸法である。そして、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した。『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送ったが、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。そういう背景がこの物語の裏にあるのだ。
『ヴェンジェンス』
法律は人を守るためにある。確かに弁護士が加害者側を弁護すれば加害者側が守られる。だが、被害者はどうなる。被害者が本当に被害者なとき、加害者側に有力な弁護士がいれば、法律は彼らを守る盾となる。それでいいのか。それが本当に法律ができた目的なのか。
『嘘の天才 〜史上最大の金融詐欺〜(ウィザード・オブ・ライズ)』
トルストイは言った。
『金のないのは悲しいことだ。だが、あり余っているのはその二倍も悲しいことだ。』
問題は、なぜあり余ったかということだ。これからも金の所有と人の知性は、歩幅を合わせて進むと盲信し続けるだろう。そこに人間がいる限り。
『裏切りのサーカス』
いつだって人目を引くのは美男美女、打ちあがる花火、大勢の行列、派手な銃声、豪快な暴走、スーパーヒーロー…。だが、カウンターインテリジェンスとは『大事になる前の前始末』だ。我々の平和は、真の英雄たちの『密かな仕事』の上に成り立つ。
『エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略』
ヴェーザー演習作戦とは、第二次世界大戦中の1940年4月にナチス・ドイツが実行したノルウェーとデンマークへの侵攻作戦である。
この映画はデンマーク目線でそれが描かれるが、小国を舞台にしたり、そこ目線で展開される映画は少ないので、歴史映画ならそのすべてが歴史的価値がある。恐らく、中学生であれば彼らを馬鹿にしてしまうだろう。彼らの部隊が少し変わった乗り物に乗っているからだ。だが、彼らはいたって真面目。私はその姿を見て、世界の隅々に人が住んでいる現実を再確認した。
小国にも人が住んでいる。そして、戦争に強い弱いは、元々人間には関係がないスキルだ。彼らを通して戦争の無意味さを痛感した。
『エージェント:ライアン』
アフガニスタンで戦った海兵隊のジャック・ライアンは、ヘリコプターが撃墜されて脊椎を損傷する。大けがをしてしまっては、もう兵士としてはだめだ。少し憂鬱気味に治療をする中、一人の女性と出会い、少しずつ人生に光が差し込むようになる。だが、そこで出会ったのは彼女だけではなかった。一人の男がこちらをじっと見ている。一体彼は誰だろうか。
これを初めて映画館で観た時は、なぜか私の父親が死んだことを受け入れることができた。私の父親は私が17歳の時に肝臓がんで死んだのだが、若かったせいもあったのか、私があまりにも波乱に満ちた人生を生きていたせいもあったのか、よく夢を見た。その夢では、父親は長期出張しているとか、単身赴任だとか、あるいは離婚していないという、妙にリアルな設定のものだった。
だからなのか、私は心のどこかでまだ父親が生きていると信じているところがあった。いや、実際にはそういう妙な現実逃避っぽいことをしていたつもりはないのだが、心底の話だ。受け入れ切れていなかったのかもしれない。だが、この映画を映画館で観た時、なぜか急に
あっ、父親は死んだんだ
と受け入れることができた。今回久しぶりにその理由をもう一度確認しようと見たのだが、最後まで観ても、一体この映画の何が私にそうさせたのかを知ることはできなかった。これは完全なる個人的な余談である。
さて本題だが、実はこの映画が『ジャックライアンシリーズ』の最新版であるということは知らなかった。というか、映画館で観た時はまだジャックライアンが何なのかも知らなかった。以下を見てみよう。
- レッド・オクトーバーを追え! (1990年)
- パトリオット・ゲーム (1992年)
- 今そこにある危機 (1994年)
- トータル・フィアーズ (2002年)
- エージェント:ライアン (2014年)
この映画に登場する主人公のCIAの男こそが、ジャックライアンなのである。そして私が個人的に面白かったのは、PSやPCで人気だった『レインボーシックスシージ』というゲームの生みの親も、この原作の生みの親であるトムクランシーという人物だったということだ。色々な映画と、私にとって妙な思い出があるこの映画とが繋がって、何だか興味深かった。
だが、この映画自体の評価は低いらしい。クリスパインはこのほかにも、
- スタートレック
- ブラック&ホワイト
- イントゥ・ザ・ウッズ
などいくつかの映画に出ているが、これらすべてがヒットとは言えず、『ワンダーウーマン』でようやく『相手役』という主人公の脇を固める人間の役として、影響力を持つ。私自身は別にそこまでクソ映画という印象は持たないのだが、やはり作品に恵まれなかったのか運が悪いのか、彼は一流タレントとは言えない印象がついてしまったようだ。だが、まだまだこれから。諦めずに常に活躍し続けているので、今後巻き返す可能性は十二分にある。
この作品自体も別につまらなくはなかった。ジャックライアンの過去という事実を知らなくてもスリルを味わえる、見応えのある映画だったと言える。
『エクス・マキナ』
例えば、Googleか何かがこういうことをしていたと考えてみる。Googleは秘密裏にAIの研究をしていることは有名で、彼らほどの資本力があれば、宇宙にエレベーターを作ることも不可能ではなさそうだ。では、アンドロイドはどうだ。この話を本当の話だととらえている人もいるようだ。確かに、あながち一辺倒には切り捨てることはできない意見だ。
『エゴン・シーレ 死と乙女』
20世紀初頭のオーストリア、ウィーンで活躍し、28歳で病死した画家エゴン・シーレの後半生を描いた映画である。その短い生涯ということも手伝って、芸術に造詣が深い人でなければ存在さえ知らない人物だ。私も知らない。
だが、こうして映画になるほどこの世に爪痕を残したわけだ。28歳で死んでしまった人の人生から、何を学べるか。どんな人の人生からも学べることはある。関係者以外も真剣に鑑賞したい。
『エスケイプ・フロム・イラク』
IS(イスラム国)の捕虜になった女性ジャーナリストを救うため、トルコ軍特殊部隊に所属する7人の精鋭たちがイラクの山岳地帯に潜入。しかし彼らは軍人であり、その行動の範囲内に制限がある。そんな中、任務外の出来事が勃発。目の前でISの残虐行為が繰り広げられる。では、彼らはどうすればいいのか。任務を優先して撤退するか、村人の虐殺を阻止するべく踏みとどまるか。
スナイパーであれば、頭を一発打ち込めば人が瞬時に死んでしまうわけだ。そういう一触即発の世界を生きる軍人たちは、常にその前線でこうした難しい判断を迫られる。トルコ映画は少し盛る印象があるのでその全容は受け入れられないが、これは実話ベースの物語である。
『エスコバル 楽園の掟』
パブロ・エスコバル。それは、コロンビアの国会議員であり、慈善事業にも熱心な実業家、世界7位の大富豪。・・いや違う。それだけではない。彼の本当の顔はは世界一の麻薬王。これは、南米のゴッド・ファーザーと言われ、コロンビア最大の麻薬組織を創設した麻薬王の姪と恋に落ちてしまった男の、危険すぎるひと時を切り取った映画である。
これは実際の彼の顔だ。大富豪であったエスコバルは自宅に飛行場、動物園、私設軍隊まで所有していて、『俺たちに明日はない』で有名なボニーとクライドが乗ったとされる車やクラシックカーも所有していたという。
自身はコカインはいっさい嗜まず大麻を愛用したと伝えられる。世界最大の麻薬消費国であるアメリカをはじめ世界中でコカインを密売し世界有数の大富豪の一人に上りつめた。その様子は彼を描く他の映画
- バリーシール
- 潜入者
- ブロウ
などで見ることができるだろう。トムクルーズやジョニー・デップ、ペネロペクルスなど、トップスターが彼に関する映画に出演している。
『エリザベス2世 知られざる女王の素顔』
2020年現在も英国の女王を務め、2015年9月9日には在位期間が63年と216日となり、ハノーヴァー朝第6代で『大英帝国全盛期』のヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最長在位の君主となったエリザベス2世のドキュメンタリー映画。このあたりの映画がいくつもあり、更にすべてイギリスの要人たちの重要なシーンだからまとめてみよう。
- 英国王のスピーチの真実~ジョージ6世の素顔~
- ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋
- 英国王のスピーチ
- エリザベス2世 知られざる女王の素顔
- ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出
こういう順番で観ていくのが一番いい。更にその間に、
- ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
- ダイアナ
を観ればより完璧だ。エドワードというのは『英国王のスピーチ』の主人公ジョージ6世の兄だ。そしてジョージ6世の娘がエリザベス2世である。
彼女の現在の顔と、その豪華絢爛ないで立ち、取り巻き、環境を見ると、正直『いけすかねえ権力ババア』という印象が一瞬でも頭をよぎってしまう。しかしこれはニーチェの言うところのルサンチマン(弱者の強者への妬み)に近い、嫉妬交じりの男性的エネルギーであり、彼女の実態を表すために十分な感想ではない。
今回、もちろんこれがイギリスが作ったドキュメンタリー映画ということもあり、美化正当化の可能性を考えながら半信半疑で観たわけだが、歴史的な事実を大きく捏造はできない。断片的には可能だが、長い歴史をつなぎ合わせてつじつまを合わせるのは難しい。だから真実を語った方が早い。そういう意味で、歴史を紐解きながら解説していくこの映画には、過度な捏造はないように見えた。違和感はない。
例えば、彼女の若い頃の顔だ。それは見たことがなかった。子供の頃どういう人で、家族とはどういう仲で、どういう責任を負ってきたか。どんな時に笑顔になり、どんな恋愛をし、どんな決断をしてきたかという長い歴史をつなぎ合わせて考えていくと、彼女の全体像が浮き彫りになる。すると、彼女に抱いていた感想は大きく変わった。
彼女はとても誠実で、芯のある人間であり、『英国のシンボル』として相応しい存在で、称賛に値する生き方をしてきた。もちろんこう思わせる為のドキュメンタリー映画だろうから半信半疑でいいが、しかし、我々が今まで平成天皇に思い抱いてきた印象と同じように、悪く思うようなところはなく、むしろ寛大で、器が大きく、穏やかかつその根幹には絶対に譲れない信念を抱えていて、強く優しい国のトップに相応しいポテンシャルを持っているように見えた。
ただ彼女は不動産王の一面も持っている。2017年11月6日、エリザベス2世英女王の個人資産のうち約15億円がタックス・ヘイヴン(租税回避地)で運用されていたことが明らかになった。規制当局に処罰されたり、税金滞納で破産申請したりしたバミューダ諸島やケイマン諸島の企業が含まれていた。これに関してはノータッチであることから、全容は見れないだろう。かつて、エリザベス1世が当時の覇者であったスペイン帝国に負けないイギリスの基礎を作り、その後ヴィクトリア女王時代にはこの世界のトップに君臨するまでの『大英帝国』を作った。
ということは、その帝国の栄光の『生贄』になった国や人々がいるわけだ。インドを筆頭に、それに抗う人々が世界で続出。フランス同様戦争後に植民地という『収入源』を大きく失い、この世界のトップから引きずり降ろされ、その代わりにトップになったのがアメリカ合衆国だ。
映画『マンソンの女たち』では黒人が『1619年にこの地に来た』と言うセリフがあるが、『ワンピースマガジン10巻』にはこうある。
大航海時代以降、カリブ海のスペイン領ではさとうきびを生産するプランテーションが発達した。しかし、プランテーションが拡大するに伴い、労働力が不足するようになってきた。そのような状況下、目をつけられてしまったのがアフリカ大陸の人々だ。
更なる詳細は本にあるが、ここにはそのエリザベス1世も暗に関わっていて、この時代の闇が暴かれている。イギリスが世界を支配したのはなぜか。この世界でモンゴル帝国と並んで世界一その領地を拡大したと言われるイギリスが、モンゴル帝国よりもソフトな印象があるのは、その辺りの情報操作を上手にやっているからなのかもしれない。
『エルネスト もう一人のゲバラ』
彼を『もう一人のゲバラ』と言うのは大げさすぎである。だが、それは彼という人物が実在したことに対する敬意であり、彼と共に確実に時を過ごした戦友たちからすれば、寸分狂わぬ事実なのだ。誰よりも勤勉で真面目だった彼が、なぜわずか25歳という若さでこの世を去らなければならなかったのか。衝撃の最期を、見逃すな。
『エンド・オブ・ウォッチ』
「近年最高の警察映画の一つ」と評され、「ロス市警全面協力」で撮影された警察活動に特化した映画。全編通して複数の登場人物の持つカメラ映像を中心に物語が進行するので、臨場感がある。まるで、自分がその一人一人の警官になったかのようなリアリティの中で、犯人に迫っていく緊張感がある。
ある種マニアックで、雑な様子がケチなアウトロー映画を観ているかのように見える時もあるが、最後まで見ることにより、この物語が完成することがわかる。
つまりその『雑さ』は『調和』だったのだ。要は、この世界自体が混沌としているのである。ましてや、ロスアンゼルスの警官となればどうだ。更にその混沌とした状況と日々向き合うことを強いられる。
そんな中、自分という大黒柱はどう在ればいいか。真っ白で、誠実で、何の矛盾も抱えないような完璧主義の、正義感溢れる男でいればいいか。
そういう人もいるかもしれない。だが、往々にして人間とは、未熟である。そして、世界の何かでもより混沌とした環境で生きることになれば、目の前の現実をその正義感だけで何とかする力は持っていないことに気づかされる。
例えばその正義感の男は、『この世界の戦争』を全て止めることができるだろうか?違うはずだ。できない。ただ自分の目の前にある事に対し、自分が納得がいくかいかないか、という自分本位な基準で動いているに過ぎない。
LAPD(ロサンゼルス警察)をやっていれば、人が死ぬこともよく見るし、仲間が撃たれることも目の当たりにすることがあるだろう。だが、それでも生きていかなければならない。それでも明日、LAPDとして活動していかなければならない。そういう、彼らの『生のリズム』が伝わってくるリアルな映画である。
『永遠の0』
様々な条件が重なって、あまりこの作品を観たくはなかった。だが、それよりも(観なければ後悔する)という気持ちの方が勝ったのだ。そして、観て良かった。
『永遠の門 ゴッホの見た未来』
ゴッホの人生は、わかる人にしかわからない。絵というもの自体がそもそもそうだ。ピカソなどの絵を見て数億円以上の価値があると本気で理解できている人がどれだけいるのだろうか。もちろん、何の既成概念も先入観もない状態でだ。その現象は、彼が生きたその時代でも存在した。多くの人が彼の絵も、人生自体も毛嫌いし、あるいは精神障害だと敬遠した。普通、そういう人は歴史の闇に消えるのが相場だ。だが、彼の場合は違った。それは一体なぜだろうか。
『英国王のスピーチ』
私には『吃音症』の部下がいる。それだけでここに書く内容としては十二分だ。英国王である彼もまた、吃音症だった。
『英国王のスピーチの真実~ジョージ6世の素顔~』
これは、『エリザベス2世 知られざる女王の素顔』同様、ドキュメンタリー映画である。イギリスの王族の映画はいくつもあるのでまとめてみよう。
- 英国王のスピーチの真実~ジョージ6世の素顔~
- ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋
- 英国王のスピーチ
- エリザベス2世 知られざる女王の素顔
- ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出
こういう順番で観ていくのが一番いい。更にその間に、
- ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
- ダイアナ
を観ればより完璧だ。エドワードは『英国王のスピーチ』と今回の映画の主人公ジョージ6世の兄だ。そしてジョージ6世の娘がエリザベス2世である。
『お!バカんす家族』
大した華がないが、エドヘルムズは『ハングオーバー!』で有名な役者だから、コメディ映画としてのレベルは高い。気軽に見る映画としては十分ではないだろうか。思わず笑ってしまうシーンもある。最強の華がいない代わりに、キャスト全員の個性が生かされて、生き生きと躍動しているのがわかる。
『オートマタ』
基本的に、ロボを扱うときに共通するのが無機質である。それは、『サイボーグが蔓延する世の中になると、こうも世界は人間味を失う』という作者たちの警鐘でもあり、そして想像力の限界でもあるだろう。実際には、もっと人間味を残した状態で、スッとこの世界にAIやサイボーグが入り込むのかもしれない。
『オール・アイズ・オン・ミー』
HIPHOPを知っている人間で、彼を知らない人はいない。10代のころ彼の音楽に出会った私としても、彼の一生は知っておく必要があった。『2PAC』である。若干25歳でこの世を去ったカリスマは、どのように生きたのか。太く短く、力強いブラックパワーを見よ。
『オールド・ボーイ (2013年の映画)』
韓国版のは気にはなっていが観るまでには至っていなかった。これは一種の依存症だ。『経路依存』というのは、例えばAmazonでしか通販はしない、というある種の依存症である。
きっと韓国のだって面白いんだろう。このアメリカのリメイク映画がこれだけ面白かったのだから。フィクションなんだからこれくらいやらないといけない。やり過ぎてもいけないけど、平凡過ぎるとフィクションの有利性が損なわれる。
その意味で、最高のエンタメだった。名作に挙げられる理由がわかった。日本の原作を、韓国が映画化し、アメリカがリメイクした。日本が世界に通じるところが見れるのは楽しい。
『オズ はじまりの戦い』
この手のファンタジーは、一歩間違えたらB級になってしまうのだが、この映画はギリギリそうはならなかった。まだまだ続きが観れる映画だ。ロバート・ダウニー・Jr、ジョニー・デップが辞退した後、2011年2月にフランコが配役されたというが、もしかしたらフランコの力不足で埋もれてしまったかもしれない。それは、あれから数年経った今の、彼らの立ち位置を見て客観視するところである。
※2回目
『オズの魔法使』の前日譚として、若き日のオズが描かれる。『オズの魔法使い』の設定の20年前を想定しているようだ。どのようにして『あの魔術師』が、『あのような魔術師』になり、そしてオズの国に居ついたのか。その全容が明らかになる。
私は最初『オズの魔法使』を全く忘れた状態でこの映画を観たから、(俳優は、当初予定されていたロバート・ダウニー・Jr、ジョニー・デップ何かの方が良かったかなあ)とか、その程度の浅い感想しかもっていなかった。
だが、そのままでは惜しいと考えた私は、後に『オズの魔法使』を鑑賞することになる。すると、この映画の『意味』が一つずつ確実に見えてきて、何だか心が躍った。私はもう一度この映画を鑑賞したのだ。
世界で評価は賛否両論だったというが、その中には私のように、『無知だから否』、『知ってる人が賛』など、そんなケースもあるかもしれない。嘘でも500億円売り上げる映画は中々ない。『パイレーツ・オブ・カリビアン』の最初の作品が670億円だから、それに近い売り上げを上げているのである。
『オデッセイ』
火星にたった一人取り残された男がいた。彼のことを、地球で初めて生きようとした人間だと想像して見てみる。すると、何事も最初に何かをする人というのは、大変な状況を強いられることになると、理解できる。だが、ここは地球ではない。火星だ。つまり、酸素がないのである。これは一大事だ。気が狂っても仕方がない。だが、この男が取った行動は、意外なものだった。
『おとなのけんか』
- ジョディ・フォスター
- ケイト・ウィンスレット
- クリストフ・ヴァルツ
- ジョン・C・ライリー
という映画ファンなら必ずどこかで観たことのある実力派を小さな部屋に集め、言わば演技で喧嘩させるかのような異種格闘技戦を観ているような作品だ。『演技で喧嘩』というのは、格闘技やプロレスというワードで連想できるようなバチバチの槍愛ではなく、俳優が演技力で勝負するということ。つまり、終始舞台が小さな部屋一つなので、この4人の演技でどうにかするしかないのだ。
よって、プロレスのような形では長くは持たないし、それぞれが同じ演技でも成立しない。役者たちがいかにその役になりきるかどうかで、とっさに出てくる言動が変わり、そこにいびつさがないと、『喧嘩』にはならない。なかなかシュールだ。人に名作として勧める機会はなさそうだが、他にない見応えのある映画だ。
『オブリビオン』
2077年、人類は60年前に起きたある事件によって、地球を失い、土星の衛星であるタイタンへと移住していた。主人公の彼は、エイリアンを退治する役割を担っていた。…はずだった。
『オペレーション・クロマイト』
朝鮮戦争時、苦戦していた韓国の起死回生の作戦となった仁川上陸作戦、通称・クロマイト作戦とその準備段階となったスパイ活動を映画化。朝鮮戦争というのは、北が現在の北朝鮮、南が大韓民国になるわけだが、この戦争が起こる前は『朝鮮』という一つの国だった。この戦争が起きた背景にも米ソ冷戦が関与していて、
- 北(共産主義):ソ連・中国・北朝鮮
- 南(資本主義):アメリカ・韓国・イギリス
という状況で戦争を勃発。したがって、この戦争で韓国についたのはアメリカ。ということで、ここには日本でもお馴染みの、国連軍の全指揮権を握る連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの姿があった。マッカーサーの指示で戦局を打開するため、仁川への上陸作戦を計画。しかしそれはなかなかの『ミッションインポッシブル(達成不可能な任務)』だった。
果たして、彼らは無事に任務を遂行し、生き延びることができるか。
『おやすみなさいを言いたくて』
かつて報道写真家として活躍した経験を持つノルウェーの映画監督E・ポッペが、自らの実体験をもとに製作した映画。ノルウェー、アイルランド、スウェーデンといった北欧映画だから、どこかニッチでB級かんも漂うが、展開される人間ドラマは世界共通で共感できる要素が多い。
とにかく実話ベースなのだから説得力がある。また、最も重要なのは彼女がそうまでして伝えたかった世界の現実があるということだ。この映画が少しでも人の関心を集められれば、それが最も望ましいことだろう。世界の平和を『本気で』祈り、その実現の為に『覚悟して』行動する人間を、人は、止めることはできない。
『オリバー・ストーン オン プーチン』
映画監督オリバー・ストーンが2015年7月から2017年2月にわたってロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンにインタビューした内容を元に構成されたドキュメンタリーで書籍化もされている。それだけ貴重な内容だ。
だが、2022年にロシアがウクライナに侵攻したことで『貴重』という言葉もどこか穿って見えてしまう。ただ、それはそれで『その意向』があったという過去の資料として貴重なのは事実だ。
思い返すと常に彼が何かを含んだような発言をしていた。元々、ロシアと中国がアメリカ一強の時代にメスを入れようとする、ということは歴史の専門書でも言われていたことだった。世界史、日本史にて何度も見てきたが、世界初の帝国が誕生したアッシリアの時代から、現代にかけての世界の覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。
紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。
紀元前336~紀元前323年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。
紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。
1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。
1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。
1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。
1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。
1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
1800年前後。ナポレオンがヨーロッパで暴れまわるが、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ退位。
1830~1900年頃。ヴィクトリア女王の時代に『大英帝国』黄金期を迎える。パクス・ブリタニカ。
1870年頃~1918年。ドイツ帝国率いる『三国同盟』とロシア率いる『三国協商』の『第一次世界大戦』が勃発。
1918~1938年頃。ナチス・ドイツが現れる前はまだこの連合国が力を持っていた。
1945年~。特にアメリカ・ソ連。『第二次世界大戦』に勝った連合国は、引き続き国際的な力を保持。
1990年頃~。ソ連が崩壊し、アメリカ一強(パクス・アメリカーナ)の時代へ。
アッシリアからはじまり、ペルシャ、アレキサンダー大王のマケドニア、ローマ、モンゴル帝国と、この世界を『支配』する人が後を絶たなかった。この映画でも
- クリミア併合
- シリア空爆
- ウクライナ問題
- アメリカサイバーテロ
に関して言及するプーチンの姿を見ることができる。
こうなった以上ロシア側に何も正義などないというのは世界中の誰もが思うことだ。今回のウクライナ侵攻で、罪のないウクライナ人に、特に子供や女性に、取り返しのつかないことをしたことが連日ニュースで流れたが、もうそれをしてしまえばどんな理由があっても彼らが正当化されることは未来永劫ない。
- 博士の異常な愛情
- スノーデン
- カストロ
- スターリン
について意見するのは貴重なことだが、この時代を生きる人間には到底認められることはないだろう。だが、今の流れを見て、いずれ歴史を第三者目線で他人行儀に俯瞰視する人が見れば、違う意見を持つかもしれない。
だが、それはロシアがアメリカ一強のこの時代を覆してからだ。しかし見ている限り彼らがこの世のトップになるということは考えられない。ロシア語も浸透していない。
- テトリス
- ウォッカ
- ボルシチ
あたりのソフトだけでは世界も牽引できない。日本ですらできないんだから、世界トップの壁は高いのだ。
ただ、メンタル的な話は教訓があった。ソ連時代に共産主義の思想を本当に信じたロシア人は、ソ連崩壊後、
(じゃあ今後どうすればいいんだ)
という精神状況になった。そして自然とその心の穴埋めをする為に 『ロシア正教』が浸透し、至る所にその様子が見えるようになったという。
映画としてはオリバー・ストーンが敵のホームでかなり思い切った質問をして見応えがある。常に苦虫を嚙み潰したような表情をしていたが、今振り返ってみると彼が心で懸念していたようなことは『正解』だったのかもしれない。
『オン・ザ・ロード』
雰囲気的に妙な名作感が漂うのは、まず製作総指揮にいるのが、『ゴッドファーザー』のフランシスコッポラ、そして彼が監督に選んだブラジルの監督ウォルターサレスは、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の監督で、コッポラはそれを見て彼を選んだ。また、その映画はあのチェ・ゲバラの若き時代を描いた内容であり、製作総指揮にレジェンド俳優のロバートレッドフォードがいる。私も好きな作品だ。
そういう様々な背景があるから、妙にこの映画に大物感が漂うのだが、実際はその雰囲気に負けてしまっていて、よくある青春時代を切り取っただけの映画に終わっている。製作費が25億円だけということもある。世界映画では少ない方だ。興行的にも大赤字。やはり、チェ・ゲバラと『フィクションの青年』のロードムービーでは、まるで比較にならないということだ。
『オンリー・ゴッド』
タイのバンコクを舞台に繰り広げられるのだが、ライアン・ゴズリングの持つ独特のあのアンニュイさと、何を考え得ているか分からない内向的なたたずまいが、タイの独特の雰囲気と相まって、不思議な世界観を作り上げている。
『オンリー・ザ・ブレイブ』
2013年にアメリカのアリゾナ州で発生した実際の事件。『ヤーネルヒル火災』。それに挑んだのは、巨大山火事消防精鋭部隊『ホットショット』のメンバーだった。『カウンターインテリジェンス』とは、事件が悪化する前に水際で止める知性のこと。例えば、テロリストを空港で見極め、テロを実行する前に確保することなどがそうだ。ホットショットのメンバーも、そうして森林火災を前始末してきた。だが、今回の火事はやばそうだ。
果たして、彼らはこの火事を止めることができるか。我々は最後、なぜこの実際の事件が映画化されたのかを知ることになる。
『王になった男』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1616年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は15代国王光海君(クァンヘグン)である。『代立軍 ウォリアーズ・オブ・ドーン』で描かれる光海君(クァンヘグン)とは違うもう一つの顔が描かれる。基本、韓国が描く朝鮮映画は、時代が被らないように、潰し合わないように配慮されている様子があるが、この場合、光海君は『二つの顔』を持っていたと言われるのでこういう展開もありだろう。
暴君としての顔があり、10代王の燕山君(ヨンサングン)同様に暴君として廃位された王であるため、廟号・諡号・陵名(太宗等)はない彼だが、ディカプリオが演じたルイ14世の『仮面の男』同様、このような展開があればそれもうなづけるというものである。
孔子の教えが根幹にある韓国の話は、王のあるべき姿を儒教を通して再確認しながらも、鑑賞者に人間が重んじる真理を啓蒙する形が多く、実際にそれはさすが孔子ということで、全世界に共通するレベルの圧倒的な説得力がある。
『王の運命 -歴史を変えた八日間-』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1728年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は16代国王英祖(ヨンジョ、えいそ、1694年10月31日 – 1776年4月22日)である。『尚衣院-サンイウォン-』や『逆謀~反乱の時代~』で描かれた時代と同じだ。基本、韓国が描く朝鮮映画は、時代が被らないように、潰し合わないように配慮されている様子があるが、彼の場合は朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かったため、その作品も多くなる。
英祖は遅くに生まれた息子を(セジャ/後継者)に育て上げようとするが、思惑通りには育たなかった。そして確執が生まれる。wikipediaにはこうある。
1762年。老論派が糸を引いた羅景彦が世子の非行を英祖に奏上した。英祖は羅景彦を死刑に処する一方、李愃を廃して米櫃の中に閉じこめ、李愃は8日後に飢死した。
つまり、彼ら親子の確執が手伝って、悲劇の死を遂げてしまった息子がいたのだ。英祖と正祖という2人の名君の間にあって、非業の死を遂げることになった荘献世子は、現代では歴史のミステリーとして韓国国民の興味を惹いているという。ちなみに、この時に死去した思悼世子の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移して、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めたものが、現在世界遺産にも登録されている水原華城(スウォンファソン)である。
『王の涙―イ・サンの決断―』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1777年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は22代国王正祖(イ・サン)である。1777年に起き正祖暗殺未遂事件という実話に基づく作品だ。
『黄金のアデーレ 名画の帰還』
1998年のロサンゼルス。一人の女性がこの世を去ったことによって、ある遺産について検討しなければならなかった。残された女性は、それをオーストリアからアメリカに返還するべきだと考えた。なぜなら、それが本来の持ち主の意向だからだ。だが、その遺産である『絵画』は、そのあたりにある美術品とは一線を画す代物だった。『オーストリアのモナリザ』とも言われる国宝級の絵画だったのである。
かつて、ナチスはユダヤ人の命を侮辱した。そしてそれだけじゃなく、彼らの持っていた値打ちのあるものをすべて取り上げ、自分のものにしていたのだ。あの時代が犯した大きな罪を、清算しなければならない。しかしそれだけのお宝だ。あらゆる人間が利権を狙って妨害しようとしてくる。女性はただ、亡き絵画の持ち主の為に、在るべき場所に、それを返したかっただけなのだ。
『億男』
日本映画が大好きな日本人がこの映画の評価をそう高くつけていないが、日本映画をほとんど観ない私からすれば、この映画には十分教訓となる要素が盛り込まれている。だがそれには、知識がなければならない。宝くじ等で偶然お金を手に入れた人間の結末がどうなるのか、そして、世界一の投資家ウォーレン・バフェットのこの言葉を知っていることが前提なのだ。
金は人を変えない。金はただ人の本性を浮だたせるだけである。
『オレの獲物はビンラディン』
2010年にオサマ・ビンラディン誘拐を企てた容疑でパキスタン当局に拘束されたアメリカ合衆国在住の男性ゲイリー・フォークナーの実話を基にしたコメディ映画である。
コメディとしているのは90分という短さ、また、そうしないと世界的に見て『笑えない話』になってしまうからである。だが、あれほどの世界的事件があったなら、彼のような人が現れてもおかしくないから、痒い所に手が届いたような気分になれた。
例えば2022年のロシアにおけるウクライナ侵攻でも、日本人が義兵団として名乗り出たが、そのほとんどが自衛隊出身だったという話があった。だが、あれも本当は暴力団だったり、もっと血の気の多い人間もいたはずだ。全員が自衛隊出身だという方が、ニュースとして国民に知らせる時、ポジティブな方向にまとまりやすい。
世界には色々な人間がいるわけだから、そういう多様な個性を見ることができるのは面白い。その一人一人の愚かだが真剣な生き様からは、必ず何かしらの教訓を得られるものだ。
『俺たちスーパーマジシャン』
スティーヴ・カレルが主演ということで『俺たちニュースキャスター』の恩恵を受けられるようにタイトルに同じ言葉が入っているが、そこまでお笑いに徹していない。かといってシリアスに徹してもおらず、その間で、どうしても主演の二人が世界規模で言うと華に欠けるため、マイナー映画の枠に入ってしまう。『おっさんが手品をやる』というシナリオもあまり世界規格ではない。だが、それを求める層はいるだろうから、ニッチな作品である。
『おとなの恋は、まわり道』
wikipediaにも詳細がほぼなく、動画配信サービスの評価も高くはなく、時間も90分もなく、そしてキアヌリーブスがイメージにない姿を出すから、B級のような気配が漂う。
だが違う。
実は、キアヌリーブスのB級っぽい作品はいくつもあって、確かに『レプリカズ』や『スキャナー・ダークリー』のように、微妙な作品もあるが、
- ノックノック
- ビルとテッド
- サムサッカー
- 50歳の恋愛白書
- シークレット・パーティー
- エクスポーズ 暗闇の迷宮
- ネオン・デーモン
と、『スピード』や『マトリックス』や『ジョンウィック』のように、王道主演映画じゃない映画でも、見事な脇役を演じている。
それらでも今回のように、クールな仕事人の彼のイメージが崩れるものが多いのだが、だからこそ彼の演技の幅が広がっているように見え、彼のキャリアアップの為に、これらの作品は必要のように見える。
今回も、彼らしくない恋愛コメディだ。だから途中までのこの映像には妙な違和感が常にある。だが、ウィノナ・ライダーとの美男美女コンビだから画は持つし、最も重要なのはラストシーンである。あのラストシーンの哀愁は、無駄に愛想笑いをしないクールな彼だからこそ作り出せたもの。こういう展開は、ツボである。
『溺れるナイフ』
ジョージ朝倉による日本の少女漫画を映画化。インパクトのあるキャラクターと、存在感のある二人のキャストが主演を演じる為、画力はある。展開的にはもっとエグってもいいだろう。そうすれば伝説の作品になる可能性がある。
か行
『ガール・オン・ザ・トレイン』
電車の中から一人の女性が外を見ている。そこには、見覚えがあるような、ないような光景が広がっている。女性は主人公だ。だから相場は悪役ではないはずなのだが、物語が進んでいくとどうも色々とつじつまが合わないことがちらほら出てくる。彼女は一体何者なのか。
『カイジシリーズ』
借金から抜け出すために奮闘する物語と言えばカイジだ。原作の漫画では、教訓性の高いシーンが多く存在する。例えば、お金や自分の命の為に人は最愛の人をも裏切るのだ。人はなぜ借金に陥るのか。そして、地獄のような借金地獄から抜け出すための手段というものは、本当に実在するのか。
この映画に何を求めたかは知らないが、カイジの世界は最初からこういうものだ。欲望があり、克己心を鍛えていないがゆえに金に翻弄される、弱き人間たちが、楽を求めて射幸的に、一攫千金を求めてギャンブルに魅了される。そこでは当然地獄のカードを引くこともあるあろう。だが、時に奇跡が起きることもある。それがギャンブルの世界だ。そこに魅力があるからこそ、この世からありとあらゆるギャンブルは消えることがなく、この作品はいつまでも面白いのだ。
『カウボーイ&エイリアン』
ダニエル・クレイグ、ハリソン・フォードの共演。当時、『ゴールドラッシュ』の意味すら知らなかった私は、このエイリアンがあの『エイリアン』じゃなかったというだけで残念がっていたが、中々どうして、この作品は見ごたえがある。
『ガガーリン 世界を変えた108分』
言わずと知れた、世界初の有人宇宙飛行に成功した人物である。この後、アメリカのアームストロングが世界初『月に到達した人物』として歴史に名を残したが、宇宙空間に出て、生きて帰ってこられるかが分からない中、命がけで人類の進歩に貢献した人物と言っていいだろう。だが、それは本当に人類だったか。『ソ連』じゃなかったか。実はこの物語は『宗教』の話でもある。
宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
総主教『宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。』
ガガーリン『見えませんでした。』
総主教『わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。』
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
ガガーリン『見えました。』
総主教『同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。』
レーニン主義は宗教を否定しているからだ。『神がいるならドイツ人はいない』など、需要なキーワードがいくつも出てくるが、地球平面説、天動説が常識だった時代から、人類はまたこうして一歩真理に近づいていった。だが、間違えてはならない。『宇宙に神がいる』と考えた総主教も、真理から逸れたドイツ人の一時的な暴走も、『神=真理=愛』の図式への理解ですべて解決するといことを。
『カノジョは嘘を愛しすぎてる』
マリリン・モンローが地下鉄の通気口に立ち、白いスカートがふわりと浮き上がるシーンがあるのがこの映画だと知り、いつかは観るべきだと取っておいた。だから記念すべき2000本目の鑑賞映画にこれを観た。実際には、別に観たい映画は大体見てしまっているので、どれかを選ぶならということで、歴史あるこの映画を選んだまでだ。マリリンモンローに対しても思い入れはない。もう70年も前の50年代に活躍した女性だ。
更に、そのシーンは一瞬で、対してハレンチでもなく、あっけないものだった。だが、この大観衆の前での撮影風景を見て、野球選手だった夫のジョー・ディマジオが激怒し、二週間後に離婚が発表されたという。彼は彼女をとても愛していたので、嫉妬からのことだろう。『マリリンとアインシュタイン』などと一緒にこの映画を観たい。
この映画の内容自体は1955年の映画ということもあって特に斬新なものはないが、クスッと笑えるシーンもいくつかあり、まあまあの見応えだった。だがやはり時代には敵わない。今の若者にこの映画の良さを聞いてもさっぱりわからないだろう。
女子高生と恋愛をしてキスをしている時点でかなり危険な映画だ。佐藤健だから許せているところがあるが、実際に佐藤健が女子高生とそうなったら、ルーキーズのあの俳優や山下智久のことがある中で、えこひいきをすることはできない。それが気になってしまう。だが、そういう細かいことを気にしないなら女子高生受けしそうなキュンキュンムービーである。
『カメラを止めるな!』
2000本映画を観てきたが、そのなかにB級作品はほとんど入っていない。だからもちろん、この作品は私の眼には一見B級に映る。だが、そう断言できない。まず、皆が一生懸命だからだ。文字通り、『命を懸けている』。その命に、B級と言うことはできないからだろう。
『カリフォルニア・ダウン』
この規模の映画は超大作になることがあるが、B級にも腐るほどあるので、まずこれがどっちに該当するかが疑われる。また、ドウェイン・ジョンソンはいつかの年で最も稼いだ俳優となったが、彼自身仕事を選ばずに、というか体当たり的にというか、どんな映画にも出ている印象なので、それも不安要素の一つだった。
結果は、中々面白かった。規模が大げさに見えて、案外あり得るかもしれない絶妙な天災事件を描いていて、教訓もある様に見えた。『2012』のように、主人公の家族がうまくいっていない、という不安定な状況もひとつのスパイスかもしれない。
『怪物はささやく』
監督はフアン・アントニオ・バヨナ。原作は英国史上初のカーネギー賞とケイト・グリーナウェイ賞のW受賞を果たしたパトリック・ネスの『怪物はささやく』であり、映画の脚本もネスが担当した。大人はまったく受け入れられないが、子供には刺さるかもしれない。子供というのはある種、『魔法のバリア』の中で生きている。親が『あなたたちは知らなくていいのよ』と子供に言うことは多々ある。
事実、食事を作らなくていいし、衣食住が揃っていることが当たり前ではないことを知らなくてもいいし、学校にいけるのが当たり前だと思っていていい。黙って生きているだけで、そのすべてを手に入れられたり、経験できると思っている。お金の事情も知らない。夫婦の事情も知らない。先祖が命を繋いできたからこそ自分の命があり得るが、想像力がないので他人のことよりも自分の指のささくれの痛みの方が気になってしまい、とにかく自分本位になりがちである。
『青春の特権といえば、一言をもってすれば無知の特権であろう。』
三島由紀夫がこう言うようにまだ『狭い』のだ。したがって、不思議な現象に陥りやすい特徴がある。その時代の友人たちとの会話を思い出しても、霊的な現象とか、不思議な現象を信じていたりする。たとえば、『小さいおじさんを見た』とか、そういうことを真顔で言っているのだ。
金縛りは、大人になればそのからくりの原因がわかる。だが、分からない時期にそうした現象に直面した時、自分での処理の仕方は稚拙になる。お化けを本気で信じていれば、お化けの仕業だと思うかもしれない。その辺りは『ヴィレッジ』という映画を観ると面白いかもしれない。それを思い出す必要がある。こんな映画と揶揄することは簡単だが、この映画を理解するために、孤島にいたあの頃を、思い出すのだ。
『華氏119』
母親が鉛中毒だと、孫の代までDNAが傷つく。この言葉を聞いて背筋に戦慄が走る人は、『人間』だ。何の薬物かは伏せるが、よく知られている麻薬の使用をしてしまった人がいる前提で専門家(相談センター)に詳細を聞いたことがあるが、彼女はこう言っていた。
『大丈夫。一度使用したというだけでは、DNAに致命的なダメージを受けるということはないよ。』
『人間』を取り上げたドキュメンタリー映画に、『人間ではないもの』が映っているというのか。そもそも、『鉛中毒』というのは何なのか。我々はその実態を目の当たりにし、驚愕することになる。しかも2014年という最近の話だ。『黒人』というキーワードはこの話にどう関係しているか。まさか、現代においてもまだ白人至上主義はいて、彼らを『人間扱い』していない現状があるというのか。
『華氏911』ではジョージ・W・ブッシュという稀に見る『お粗末な大統領』について。そして、今回はドナルド・トランプという稀代の暴君について描かれる。果たして、この男は一体どういう人物なのか。そして、アメリカとは、人間とはどういう生き物なのか。
『風立ちぬ』
宮崎駿の作品に純愛というイメージはなく、一度目の鑑賞では、あまりこの作品の価値をよく理解できなかった。彼がこの作品で引退宣言をしていたことも手伝っていた。しかし、二回、三回とこの作品を観てみると、この作品は飛行機の映画でもなく、戦争の映画でもなく、二人の男女の純愛を描いた映画だということを知った。昔、結核で死ぬ人は大勢いた。
『彼女が目覚めるその日まで』
エル・ファニングの映画の感想で、クロエ・グレース・モレッツとこの二人は難しい役どころに色々挑戦していると書いたのだが、今回はクロエのケースで、そのパターンだ。本作はスザンナ・キャハラン(英語版)が2012年に上梓した自叙伝『脳に棲む魔物』を原作としている。これは当初、エルファニングの姉であるダコタファニングが起用される予定だったという。この3人は恐らく仲がいい。ほとんど年代も同じである。
「脳に棲む魔物」というのは分かりづらいが、日本でも芸人のプラスマイナス岩橋さんが、同じような表現をしている。そういう病気を持ち、そういう表現をテレビでしたのは初めてではないだろうか。それを明るく話すから笑いになっているが、本人からすると世界共通で『魔物』や『悪魔』と表現してしまうほど、恐ろしいものなのだろう。
私の叔父は統合失調症だったから他人事ではない。子供のころは、後ろで何か話したと思ったから振り返ると独り言で、顔が『この世』に存在していなかったりした。怖かったが、それ以上に優しい人間だったので、それが恐怖を上回っていた。彼の場合、そうした子供の目線によって我に気づき、症状が収まったり、あるいは自分の部屋に行ってそれを隠したり、ということがよくあった。
この彼女ほど苦しんでいる様子が見られなかったが彼女は統合失調症ではなく『抗NMDA受容体抗体脳炎』という病気だ。難しい病気だし、難しい役だが、実話というところから、こういう映画の価値は高いと判断できる。
『神弓-KAMIYUMI-』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1636年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は22代国王仁祖(インジョ、じんそ、1595年12月7日 – 1649年6月17日)である。である。丙子の乱(1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵略して、制圧して服属させた戦い)を舞台としたアクション映画で、韓国で747万人を動員し、2011年の年間興行成績第1位を獲得したという。確かにそれだけ緊張感があり、スピーディに展開されていくため飽きずに物語を見進めることができる。
また、『安市城 グレート・バトル』でもそうだが、どうやら韓国、朝鮮では『弓』というのは特別な意味を持つらしい。
朝鮮の神話で有名な『朱蒙(ちゅもん)』のwikipediaにはこうある。
「朱蒙」の名の由来は扶余の言葉で「弓の達人」と言う意味である。その名の如く7歳になると自ら弓を作り、矢を射ると百発百中だった。将来必ず異心を抱くとして扶余の人々は排除を望んだが、金蛙王は朱蒙を庇い馬の世話を命じた。
もはやこの朝鮮人たちの元祖とされる朱蒙が、弓の名手。したがって下記の記事にあるような『各民族のルーツにある神話』の理由も手伝って、韓国映画には弓がよく登場するのである。つまり、朱蒙がもし槍の名手なら、槍がよく出てきたということになる。
だが、そうした裏話を排除して考えても、当時にあった主力の武器が剣や弓であったことは間違いないので、無理なく物語を追うことができる。爽快かなあってなかなか見応えがある映画だ。
『完全なるチェックメイト』
IQ187の天才チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーは言った。
『私は人間のエゴ(うぬぼれ)を粉々に砕く瞬間が好きだ。』
そう。この話はまさにそのボビーの物語である。ベトナム、朝鮮、ベルリンの東西分裂にキューバ危機。しかし、米ソ冷戦は『盤上』でも行われていた。両国のトップも見守る仲、米ソの天才プレイヤーは衝突する。果たして、チェックメイトを受けるのはどちらなのか。
『顔のないスパイ』
この映画のキーマンは『カシウス』というプロの暗殺者である。もう一度言おう。この映画のキーマンは『カシウス』というプロの暗殺者である。
『キアヌ』
この手の映画をしらみつぶしに見ていたら有限の人生ではすべて見ることはできないので、厳選しなければならない。この映画は、映画のどこかにキアヌリーブスが出演している、ということだけで見た映画だ。だが、意外と面白かった。気楽に映画を観たい人には嬉しい作品かもしれない。最初、日本ではまだ知名度の低い知らないおっさん二人があれこれやっているから少し距離を感じてしまうが、すぐに彼らの面白さに気づいて、知らぬ間に次の展開を楽しみにしている自分にきづくことだろう。
『キセキ -あの日のソビト-』
GReeeeNの楽曲「キセキ」の誕生までの実話がもとになっている。彼らの話は、例えばオレンジレンジやモンゴル800のように、今やってもあまりもうニーズはないだろう。時の人である。ラップバトルが少し前に流行し、R指定などが出てきて、その少し後に伝説のラッパー、ブッダブランドが活動を再開させたが、彼らほどのヒットはしていない。ただ、この曲にエネルギーを貰った人は大勢いるので、その裏話が見られて嬉しい人は大勢いるだろう。
『キック・オーバー』
この映画で、混沌としたメキシコの極悪刑務所が映し出されるが、まるで実話かのように見えてしまうリアリティがある。恐らくすべてセットで作っているのだろうが、メルギブソンの名演技も相まって、本当にここに彼が収監されているように見える不思議な説得力がある。
今調べて観ると、舞台となるこの刑務所「エル・プエブリート」のモデルは1956年にメキシコ・ティファナに建設された刑務所で、本当にあったものだという。妙にリアルだったのはそのせいだったわけだ。わずか90分しかないB級気味の映画だが、B級ではない。短いからこそ展開のテンポがよく、無駄がない。
そして、最も注目すべきなのは最後の海辺でのシーンだ。メルギブソンが鑑賞者に語り掛けるセリフが、他と一線を画している。痒い所に手が届くとはこのことだ。このセリフによってこの映画の価値が引き上げられている。
『キッズ・オールライト』
レズビアンカップルと二人の子供。そして精子を提供した男性。こういう複雑な家庭状況を描くことで、ニッチが埋まる映画となりアメリカでは高評価を得た。人種のるつぼであるアメリカでは特に多様性を重視する傾向があるから、LGBT然り、こうしたマイノリティも『少数派』とは捉えず『個性の一つ』として捉える様子である。例えば日本人は『あの人と比べて自分の収入が上なら幸福を覚える』傾向があるのに対し、アメリカ人は『どれだけ自分らしく生きているか』を重視する傾向があるという。
日本にもレズビアンはいるはずだ。だが、我々はテレビでそういう人をよくは見かけない。あまり万人受けしないのだ。だがそんなアメリカでもマイナーなケースであることは事実。多様性を重視するはずの国で、人種差別が根深く残っているのだから。だからこそこうしたニッチ(隙間)にスポットライトを当てると目立ち、高評価を得やすくなるのだろう。
『キャビン』
この映画の展開を読むことはできない。絶対に展開を読ませないための映画を作りたかったのではないかというぐらいの、そういう映画だ。
『ギャング・イン・ニューヨーク』
まず、実話というだけで評価が高いし、ニューヨークのマフィア組織「五大ファミリー」の一つ、ガンビーノ一家のボス、ジョン・ゴッティの生涯を描いているということは『ゴッドファーザー』を知る人達にとっては興奮する事実である。
『現代のアル・カポネ』と言われたこのジョン・ゴッティ。ゴッドファーザーのジョーイ・ザザはこのジョンゴッティがモデルである。単純に、そうして世界に悪名を轟かせるようになった人物の生涯とは一体どういうものだったのか、それを知るのは面白い。
『彼が殺したのはマフィアだけで一般人はいなかった』
『彼がいなくなったら犯罪率が増えた』
『彼は地域を守った』
そう住民から指示され、『ジョン・ゴッティよ永遠に』とさえ掲げられ、敬礼されるほどの人間は、単なる悪党ではない。どちらにせよ、こういう人間から学べることは必ずある。
『キラー・エリート』
元SAS(イギリス陸軍の特殊部隊)隊員で探検家のラナルフ・ファインズの、自身が暗殺されかけたエピソードが元になっている。私は何となく一度目を観た時には(よくある殺し屋系か)とか、その程度の感想しか持たなかったが、映画に対して真剣になり始めて二度目を主体的に観た時、この映画が何と実話を参考にしているということを知り、驚愕した。
これがフィクションとノンフィクションとの圧倒的な違いだ。驚きに雲泥の差がある。『ミュンヘン』も、オリンピックのテロ行為に対して行われた『認められた暗殺』がテーマになって驚いたが、これは映画になって当然の濃い内容である。
ジェイソンステイサム、クライヴオーウェン、そしてロバートデニーロが共演するところも見応えがある。
私は色々な映画を観てきて、『ランボー』がグリーンベレーであり、世界最強で、いや、ビンラディンを仕留めたネイビーシールズが全てにおいてトップで、はたまた、『デルタフォース』なるアメリカ陸軍の対テロ特殊部隊が知る人ぞ知る最強部隊なんだと、いくつもの情報をその耳にしてきた。
だが、デルタフォースのwikipediaにはこうある。
1977年11月19日にイギリス陸軍の特殊部隊SAS(特殊空挺部隊)内に存在するCRW wing(対革命戦中隊(SASの各戦闘中隊が持ち回りで6ヶ月ごとに交代し担当する対テロ・人質救出専門部隊))をモデルにつくられた。 アメリカ陸軍には以前よりグリーンベレー(陸軍特殊部隊群)が存在したが、SASで訓練を受けたアメリカ陸軍のチャールズ・アルヴィン・ベックウィズ大佐が国防総省に対テロ部隊の必要性を提唱したのが、創設のきっかけである。
つまり、デルタフォースとは、グリーンベレーとはまた違う形で必要とされた特殊部隊で、そのモデルはこのイギリスの『SAS』だというのだ。この映画では、『ネイビーシールズが逃げ出すSAS』という形で彼らの活躍、いや暗躍が展開される。それだけでも十分見応えがあるが、そこにこの豪華キャストに『実話』というアクセントなのだから、これが面白くないわけがない。
『キング・オブ・エジプト』
この手の映画はチープなものになるのが相場だ。だが、この映画はそうはならなかった。その理由は『命』だ。とある少年の命の使い方。人間が何よりも優先するはずの命の使い方が、高潔だったのだ。
『キングコング: 髑髏島の巨神』
昔観たキングコングとは、レベルが格段に違う。これは映画館で見るべきだ。大迫力の映像で、最後まで興奮間違いなしである。
『キングスマンシリーズ』
スタジオジブリが日本人の心底に浸透させた名曲『カントリー・ロード』。前回、意外なほどの爽快なアクションで世を魅了した『キングスマン』でこの曲が歌われたシーンで、普段決して涙を流さないはずの私の涙腺は、緩んだ。
『キングダム』
日本の映画には期待はできない。それは今まで日本映画をたくさん観てきたからからこそ言える本当の感想だ。特に人間ドラマが軸ではないこういう作品になると余計にそうなる。だが、なぜ私は涙をこらえることがやっとだったのだろうか。決して映画で泣かないと決めているはずなのに。
『危険なメソッド』
この映画も評価は低いがマイケル・ファスベンダー、ヴィゴ・モーテンセン、キーラ・ナイトレイ出演という豪華共演、また、実在した偉人フロイトや、ユングが登場する映画というだけで、私は別に内容がどうであれ歴史的価値があるとして価値を高く評価したい。ただもちろん歴史に一切の興味がなく、物語の展開だけに期待したい人は評価を低くしてしまうかもしれない。
ただ、キーラナイトレイの体を張った演技は評価に値する。彼女が演じたザビーナ・シュピールラインもロシアの精神分析医である。ユングとフロイトの関係と確執、彼ら精神を専門とする偉人たちの間で交わされるワンランク上のやり取りは、一見すると何をやっているのか分からない、あるいは普通に『逸れる人』が描写されるが、実際にはそこで行われている『危険なメソッド(不倫関係)』も分析の対象となる『実験』の中の一部になることを考えると、ただドロドロと関係が崩れて終わっていくその他のドラマとは違い、論理的である。
しかしそれは結果論で、彼らほどの人物であっても自分が『堕ちていく』ことは止められないし、自己防衛による自己の正当化、あるいは捏造、隠ぺいを図ろうとするという弱さを持っているということが見え、彼らに人間味を感じて逆に親近感を覚えることができるだろう。
『喜望峰の風に乗せて』
1968年にヨットでの単独無寄港世界一周レースに参加した実在のビジネスマンであるドナルド・クローハーストの実話映画。やはり実話というのは圧倒的に見応えがある。フィクションにするならスティーブン・キングやスピルバーグのような演出が必要だ。だが実話なら波乱に満ちているだけでもうそこに人生の教訓があり、決して無下にできず、価値を下げることはできない。
断じてできない。評論家ができるのはせいぜい作品の評価だけだ。人の価値を下げるようなことをする人間にまともな人間はいない。もっとも、ナポレオンやヒトラーのような暴君の話なら別だ。ただ、今回はその類とは全く無縁の、家族思いの優しい父親が主人公である。であるからしてコリンファースは適役で、感情移入しやすい。
最初はタイトルが地味だし、あまり期待はしていなかった。だが、観始めると徐々にこの主人公が『追い込まれていく』ことが分かり、(これは単なるヨット乗りの話じゃない)と、心配になってくる。つまり完全に作品に惹きつけられていくのだ。一体彼はどうなってしまうのかと、目が離せなくなる。
私は鬱病の本も20冊以上持っているが、よく言われるのが『真面目で完璧主義者な人』が鬱病になりやすいということである。だが、そのどの本でも私と同じ境地に辿り着いたものはないが、
『本当に真面目で完璧主義者なら、この世の真理に気づくはずだ』
という事実が存在する。諸行無常の流動変化も、死も病も苦痛も、執着が罪なのも、利己や無知が罪なのも、間違いだと気づくはずだ。そして一つ一つパズルを組みあわせて真理という実態のない、しかし断固として永遠に威厳を放つ法則を目の当たりにした時、人はむしろ、安堵する。
ただ、『真面目で完璧主義者』というのは本来、『万人に使う言葉』だ。つまり、往々にして人間というのはブッダではない。となると彼もまたそのうちの一人で、どこかでパズルのピースを間違えてしまった遭難者なのだ。
『奇跡の2000マイル』
1977年、ロビン・デヴィッドソンという24歳の女性が一匹の犬と4頭のラクダを連れて、アリススプリングスからインド洋に向かってオーストラリアの砂漠地帯を踏破。その距離は2500㎞以上の気の遠くなるもので、およそ凡人が一つ返事で決意できるようなものではない。
まず、そのラクダ一匹を手配するだけでも簡単ではなかった。一体どれだけ過酷な旅になるのか。そして、この旅が彼女に何をもたらすのか。歩いて何の意味があるのか。山に登る人はなぜ山に登るのか。登って、すぐに降りる。だったら、命を危険に晒してまでなぜわざわざそんなリスクを背負うのか。
その質問をするのだとしたら、淡々とこう反問されるだろう。
『どうせ死ぬのに、あなたはなぜ生きているのですか?』
『奇跡のひと マリーとマルグリット』
『奇跡の人』というタイトルで、全く同じ境遇で人生を生きたあのヘレン・ケラーの映画がある。ヘレン・ケラーの場合はアメリカで、マリーの場合はフランスだ。マルグレットというシスターが自分の命を削りながら、目と耳が不自由な少女マリーの人生と向き合う。その演技はとてもリアルだ。人は往々にして、人からなんと言われるか、どう見られるかということを意識して生きるもので、お洒落、言い回し、しぐさ、マナー等は、そこに相手がいることが前提で行われることである。
しかし、耳と目が不自由なら、口で何かをしゃべっても自分でその声を聞くことができない。だから実際には口も聞けないのに等しい。すると、そこにいるのはもはや『人間らしさ』とはかけ離れた、動物同然の生き物である。しかし、もちろんそういう風に言ってはいけない。同じ人間だからだ。これが本当に難しい。果たして、孤独な世界で生きる彼女とどうやって意思疎通をし、絆を作り、人生に喜びを見出してもらえるだろうか。
『記者たち 衝撃と畏怖の真実』
イラク開戦をめぐる「大量破壊兵器」捏造問題を実話を元に描く。アメリカはイラクに『大量破壊兵器がある』と断定してイラク戦争を勃発。それがどういうことかというのは『華氏911』を観るのがいいだろう。原題の「衝撃と畏怖」は米軍の作戦名から採られている。映画ではブッシュ元大統領を始め、その副大統領の『バイス』で主人公となったディック・チェイニーその他多くの政治家たちのテレビでの発言が引用され、その背後で新聞記者たちがどのように考え行動していたのかを描き出している。
とにかくアメリカは60年代のベトナム戦争においても『トンキン湾事件』で捏造し、ベトナム戦争に介入。911の後にも強引な拷問をして問題視された。そもそも911の原因はこうだ。
1.アメリカがユダヤ教の肩入れをして、パレスチナ(エルサレム)の地をアラブ人から奪った因縁があった。
2.アメリカ人の9割がキリスト教徒で、『イスラム教VSキリスト教』という宗教対立の構造があった。
3.湾岸戦争で『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと、アメリカ軍がここに駐屯したことがイスラム教への冒涜だと解釈された。
最も直接的なのは3番の湾岸戦争(1990年頃)での振る舞いだ。ベトナム戦争、湾岸戦争、911後の拷問、イラク戦争。彼らは常に一線を超えるような行動を取り続けていた。それが『前始末だ』という考え方もある。当人たちはそういう主張だろう。わあわあガヤで叫ぶのは簡単だが、国家の立場が転落したら自分たちが守り続けているその『自由な主張』など虚無に消える。勝者だからこそ、主張する余裕があるのだ。彼らはイギリス・フランスが第二次世界大戦で世界トップの座から転落して以来この世界のトップに君臨するが、同時に、米ソ冷戦もさることながら、常にその地位の死守の責務を負うことになった。
敗戦国や植民地の悲惨な現状を知っているだろうか。奴隷として売られる人間や、迫害される先住民の心情がわかるだろうか。彼らは常に『勝者』でいつづけることでそのアイデンティティ(身分証明)を果たし、維持してきた。その椅子の死守は恐怖にも似た執着でもあり、帝王学的な知性の上に成り立つ『カウンターインテリジェンス』でもある。
アメリカは悪か、善か。それともこの世界は最初から混沌(グレイ)なのか。
『疑惑のチャンピオン』
実話のスポーツ伝記映画。ガンを克服し、ツール・ド・フランスで7年連続総合優勝の偉業を達成したが、その後、長年にわたるドーピングが発覚し、自転車競技界から永久追放されたランス・アームストロング。
彼の栄光と転落の人生を、イギリスのサンデー・タイムズ記者デヴィッド・ウォルシュによるノンフィクションを原作に映画化したものである。悪役でよく見るベン・フォスターが主演だから、どこまでの完成度か疑いながら見るのだが、やはり実話ということもあって見応えが十分にある。
フィクションなら何をしても不思議ではないが、ノンフィクションなら麻薬を使うシーンが描かれるだけで鑑賞者の平常心は揺り動かされる。それくらいノンフィクションというのは別次元で人の注目をつかむのだ。
『凶悪』
『渇き。』、『MOZU』、『怒り』ら同様、日本映画で見応えがあるとしたら、こういう異常性が高い映画だ。それはおそらく、テレビドラマでいくらでも日本の作品が観れるということと、映画でわざわざそれを観るなら、映画館でしか放送できないレベルのものじゃなければ希少性がないという理由もあるだろう。リリー・フランキーは善い人を演じるとどこか偽善者感が漂うが、『SCOOP!』叱り、やはり悪人をやらせた方がうまい。ピエール瀧の素性は明るみになったが、本当の悪人だからできるのだろう。
これが実話ベースだと後で知って、寒気がした。
『君がくれた恋のシナリオ』
日本国内で劇場公開されなかったが、WOWOWで放送されたことがある、程度の出来。わずか95分ということもあるが、アベンジャーズメンツが揃っていて、わずか1億円程度の売り上げ。
ただ、この手の『日常ドタバタ恋愛コメディ』は、実はアメリカではキラージャンルの一つだ。普通に300億円くらい売り上げることもある。『千と千尋の神隠し』に簡単に追いついてしまうのである。しかも、その内容は『FUCK!』とか、子供に聞かせない方がいいNGワードがカジュアルに入りまくっている場合でもだ。
そうした土台もあるし、名優も揃っていることからか、B級作品とは言えないクオリティはちゃんとある。
『君と歩く世界』
フランスの映画で、かつマリオン・コティヤールのパートナーのマティアス・スーナールツの渋さからすると、この映画に世界的な華を期待できない感覚がある。世界的な華とは例えばトム・クルーズや、パイレーツ・オブ・カリビアンのような作品の明るさがある華のことだ。
だが、もちろんそういう映画だけが良しとされるわけではない。そうじゃないなら、違う方向で綺麗にまとまる時もある。例えば、『さらば、わが愛/覇王別姫』には、その世界的な華はない。内容も暗い。だが、その暗いステージの中で、確実に世界に通用する花を咲かせた。そういう展開も存在する。
今回の場合、主人公の男がほぼ笑わない性格をしているし、生活は行き詰っている。また、ヒロインのマリオンコティヤールも、決して明るくない現実を突き付けられる。だが逆にその暗さが、『ここまで堕ちれば、もう上へ行くしかない』というある種の希望を作り上げている。
野心があり、力強く生きようとしているのは男である。だが、彼と共に歩く一生に花を咲かせるのは、女である。だが、その花に水をあげたのは、男である。そして、その男の活力に力を与えたのは、その花の美しさである。
暗い。人生には様々な苦痛が多い。だが、きっと生きていくことができる。彼らはそんな人生の支えを見つけたのだ。それは、明るく悩みのない道の上では不可能だったことだ。人生を生きていると、それ自体が『迷路』だという初歩的な設定を忘れ、どうしても行き止まりにぶつかった時に挫折する人がいる。
だが実際にはそれは迷路で、そういう時もあれば、逆に面白いほど道を進める時がある。だが、そんな人もいずれは必ず行き止まりや曲がり角にぶつかる。最初からそういうものなのだ。
よく辺りを見回してみると、その行き止まりに宝箱が置いてあったりする。人の場合もある。その中に入っているものや、そこにいる人と協力して先に進むと、そのおかげで面白いように道を進めるようになったりするものである。だとすると、必然だったのだ。自分が、その道を歩いたことは。
『君の名前で僕を呼んで』
アーミーハマーとティモシーシャラメは美形男子だからこの手の役が割と多く、単純にこの映画の★評価が多いのは、『★を付けるような人はマニアックな人が多いから』だろう。私は一度もつけたことがない。3000本観ているが、彼らが私よりも映画を観ているとは限らない。
例えば同じように性別不合で悩む人や、その方向で悩んだことがある人、ニッチな人、マイノリティな人、そうしたマニアックな人々は、どうしても自分と同じ境遇をこういう一流俳優たちに描いてもらったら感動して思わず評価を付ける。だがすべてにおいてフラットな私からすれば、もしつけるなら★3で、もちろん今回も★をつけることはない。
だがこれは間違いなく、『何も知らない理解力のない、時代遅れの単なる馬鹿のつぶやき』として片付けられるだろう。そういう時代に突入し始めている。
確かに、もし自分がこの手の問題に深く関わりがあるような生き方をしていたら、登場する大人たちの立ち回りや態度に、感動を覚える可能性がある。そういうシーンが確かに存在している。これはつまり、とても繊細な映画である。
『君の膵臓をたべたい』
10代の男女の時間を切り取ったのだから、この映画が強く響くのは10代である。では、それ以外の層は退屈なのか。一概にそうとは言えない。それは、病を負った、うら若きこの少女の取った選択肢が、普遍的かつ、感慨深いからである。
松田優作は言った。
『人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ。』
『君への誓い』
実話をもとに、交通事故で夫(チャニング・テイタム)の存在を忘れてしまった妻(レイチェル・マクアダムス)と、彼女の愛を取り戻そうとする夫の姿を描く。この手の話にはフィクションも多いが、ノンフィクションというのはやはり見応えが違う。だが、実際に意外と『余命いくつの妻』だとか、そういう話は実在しているので、確かにこういうことはあるのだ。
しかも状況的に、もし駆け落ちに近い状態であった場合、二人が強く見つめ合う絆が絶対軸になっているので、どちらか一人でも目を反らしてしまえばその関係は破綻してしまう。
冷静に考えた時、常識で考えれば、『範囲内』で生きることの方が魅力的に映る。 それは自分たち人間が『生命』だからだ。マズローの五段階欲求を考えてもわかるように、衣食住等の最低限の欲求を当然のものとした後は、次に考えるのは『安全欲求』である。
安全に、安心して生きる為にはなにかと『範囲内』で生きることが鍵になる。常識、法律、決まり事、セオリー、とにかく既に多くの人間がこれまでに実践し、確立してきたその範囲内で生きれば、高い確率で安全な人生を送れる可能性が高いのだ。
もし、記憶を失ってしまった場合、この欲求もリセットされる可能性がある。自分の人生で長い時間をかけて培ってきた自我で判断した『自分らしい決断』も、リセットされて冷静な目を持つようになると、馬鹿馬鹿しく見えてしまうものである。
果たして、この夫婦の運命やいかに。
『クーパー家の晩餐会』
クリスマスというのは人それぞれで受け取り方が違う。アメリカは9割がクリスチャンなのでこれを堂々と祝うが、日本は1割もクリスチャンがいないので、彼らとは違う意味でこの日を迎えることになる。その点において、タモリも『笑っていいとも』のクリスマススペシャル生放送にて、そのことに言及したことがある。
だから皆が皆、クリスマスをイルミネーションの近くで、クリスマスソングを聴きながらロマンチックに過ごすということはない。それを想像した時、こういうとある家族のわけあり風景は、自然に受け入れることができる。また、やはりそれはアメリカで、クリスマスという『軸』があることで、そのエネルギーの柱に向けて人々がリズムを調整するところがある。
要は、『クリスマスまでに恋人を家族に見せよう』とか、『クリスマスに変な料理を出すわけにはいかない』などと、どこかクリスマスが軸になっているわけだ。それだけアメリカ人にとってはクリスマスは特別な日ということなのである。
だが、かといって今まで観た3000本の映画で、クリスマスにイエス・キリストをこれでもかと押し出した映画はほとんどなかった。描かれるのは日本と同じように、大切な人間関係が集まって食事をしたり笑足りするという風景。だから、無宗教で生きることを決めている私のような人間であっても、彼らやクリスマスを祝う人々を責めることはない。むしろ、家族をまとめることができる力強いエネルギーをその日に感じていて、興味深い。
今回、集まった家族にはそれぞれ抱えている秘密や問題があるようだ。それは、このクリスマスという特別な日がどう解決してくれるだろうか。
『グッバイ、リチャード!』
W・H・オーデンは言った。
『死とは、ピクニックのとき遠くに聞こえる稲妻の音。』
ジョニー・デップの映画が好きだから、えこひいき目に見るということもあるが、中には『ローンレンジャー』や『チャーリーモルデカイ』のように完全なる駄作がある中で、これは中々面白い映画だった。
だが、私だから面白かったのであり、万人受けするかは分からない。『私だから』というのは思い上がりではなく、まずそうしてジョニー・デップの映画を理解しようとするスタンスがある。そして映画を3000本観ている。また、哲学、宗教、神話、真理等について学んでいて、8000の名言を内省し、若くして父を亡くして、もちろん死について考えてきた。
リチャードは末期の肺がんだが、父は末期の肝臓がんだった。叔父は統合失調症だったし、両親はクリスチャンで、私はそうではなく、私はそれを強要され続ける人生だった。これが『私』だ。
だからこの映画は売り上げも低いし、時間も90分しかなく、評論家からも
「薄っぺらい登場人物と誤った演出に基づくジョニー・デップの演技のために、ストーリーがグチャグチャになっている。『グッバイ、リチャード』は出だしから失敗しており、ミスは頻繁に発生している。」
と酷評され、確かに彼らがそう言うように、節々のぞんざいさは目立つ。
だが、逆にそれがアクセントになっている。要は、我々の周りにいる人間は役者ではないのだ。セリフを詰まらず言う人間ではなく、言葉を探しながら、どもったりしながら、あるいは、『さっきの言葉間違えた』などと後で訂正したりして、もっと自由で混沌としている。『薄っぺらい人間』というなら、逆に芯がある肝の据わった人間を見ることが珍しく、むしろほとんどいないと言っていい。そう考えた時、この映画は妙にリアルな臨場感を醸し出す。
『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』-ルソー
私が好きなシーンは最後だ。色々と考え、人生を葛藤し、迷い、答えを模索した人にしか分からない最後だ。
『もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。』魯迅
『クラウドアトラス』
この映画は中々一発でその全容を理解できる人はいないだろう。3時間近くあるし、舞台となる時代がコロコロ変わり、登場人物も同じキャストが特殊メイクを施して登場する。だから逆に、『全容の把握は目的じゃないから、ミステリアスなフィクションの世界にどっぷり浸かりたい』と考える人には、うってつけの映画だ。キャストが豪華で実力派ばかりなのも、この世界観を表現するために、確実な演技が必要だと考えたからだろう。
『グラディウス ~希望への奪還~』
1250年頃の中世ヨーロッパで一大王国を率いたダヌィーロ・ロマーノヴィチの波乱に満ちた半生を描く。歴史的事実にファンタジー要素がプラスされている。他のロシア映画に『フューリアス双剣の戦士』があるが、そこで描かれるのがロシア最強の剣士コロヴラート。彼はモンゴル帝国のバトゥに侵略されて対抗した人間である。モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンの長男であるジュチ。この男の次男がバトゥである。
その話が1237年。その時ロシアという名前はないので『ウラジーミルスーズダリ大公国』となる。今回は『キエフ大公国』であり、このあたりは複雑だから大雑把に考えるとして、これら一帯はすべて『ロシア』と呼ぶことが多い。ロシアの原点はリューリクの作ったノヴゴロドだ。このリューリクの親族であるオレーグが、『キエフ・ルーシ』国家を成立。キエフ大公国の正式な国号が『ルーシ』で、ロマーノヴィチはその全ルーシの初の王だったのである。複雑である。
- 1233年:モンゴルに負ける
- 1237年:ドイツ騎士団に勝つ
- 1240年:モンゴルのルーシ侵攻がある(『フューリアス』の舞台)
今回は1250年頃、それから少したってからのロシアの歴史だ。今回もモンゴルのバトゥが絡んでいる。この時代のモンゴル帝国がどのようにして他国とやり取りをしたか、そして他国はモンゴル帝国に対してどのように接したかの大体のイメージを客観視できる。
『グランド・ジョー』
種田山頭火は言った。
『ああ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなものになった。酒は悪魔か仏か、毒か薬か』
この映画では酒が『悪魔』であり『毒』であるということを思い知るだろう。過去ある男が悪魔と対峙し命をどう使うか。見逃すな。
『グランド・ブダペスト・ホテル』
歴史を最近学んで記憶に新しい人間としては、一番気になるのが『財産が共産化によって国有化される』という話である。共産化ということがどういうことなのかがわかるワンシーンで、たとえその財産をめぐってどれだけの歴史とドラマが積み上げられていたとしても問答無用となる。利点もあるが、デメリットとしての残酷性のインパクトが強い。我々はこのホテルを後で振り返って、そこにとても強い哀愁を覚える。その理由の一つはいくつもの波乱に満ちたドラマを知ったからであり、そしてもう一つはもうこのホテルが幾人ものエネルギッシュでユニークな人々の人生と共に、過去の遺物だからだ。
『グランドフィナーレ』
評論家からは高く評価されているようだが、私にはまだ価値を理解できないようだ。かつて自分が理解できなかった映画がたくさんあり、今ではそのほとんどが理解できるようになったが、まだまだ上の境地が存在するということだろうか。
『グリーンブック』
ジャマイカ系アメリカ人のクラシック及びジャズピアニストであるドン”ドクター”シャーリーとシャーリーの運転手兼ボディガードを務めたイタリア系アメリカ人の警備員トニー・ヴァレロンガ。彼らのどちらかが同性愛者であり、それがこの話を複雑にしている。グリーンブック。翻訳すると『緑の本』。何とも直感的には『安心で、落ち着いた、退屈なもの』という印象を得る。だが違う。全く安心して外を出歩けない。やり場のない怒りがこみあげて来る。だがなぜか、安心して見ていられる。そういう映画だ。
『クリミナル 2人の記憶を持つ男』
人は誰もが『素晴らしい人生』を送りたいと願う。だが、どこかでボタンを掛け違え、それをそのままにしてしまい、時には最期を迎える。忘れてはならない。人はいつでもやり直せる。そして人生はたった一度だけだ。
『グレート・グローリー 大いなる勝利のために』
これはメキシコの歴史を描いたメキシコ映画なので、Wikipediaにも詳細がなく、タイトルも『大いなる勝利のために メキシコ革命1926』だったりして、ちゃんと定まっていない。だが、内容はなかなかスリリングで見応えがある。何しろ実話ベースなのだから緊張感が違う。メキシコの歴史というのも珍しいからそれだけで十分歴史的価値があると言えるだろう。
舞台は『クリステロ戦争』。1926年に始まり1929年に終了したメキシコでの反動的革命運動、白色テロ、宗教的迫害である。クリステロ反乱とも言う。これがクリステロの旗だ。
クリステロの意味は調べたがちゃんと出てこない。スペイン語だが、映画を観て状況を考えるに、クリスチャンが関係する言葉だろう。wikipediaを見てみよう。
1917年、ベヌスティアーノ・カランサが大統領の時に新しい憲法(英語版)が制定されたが、それは政教分離に基づき「国家が宗教に優先する」というカトリック教会には厳しい内容であった(第130条)。教会や神学校は閉鎖された。1924年に、プルタルコ・エリアス・カリェスが大統領となると、無神論者でフリーメイソンだった彼は教会を敵視し、1926年6月に教会の政府登録を義務付け、違反者の罰則を強化したカリェス法を制定し、次々と教会財産を没収していった。
大統領がキリスト教が嫌いだったのでそれを迫害したということだ。私もどちらかというとそっち側だが、もし権力を持ったとしてもそういう強制的なことはやらない。『じゃあ何が良いというんだ』という問いに答える為に、その答えを提示し、それを見てもらうことはするだろうが、人間の心底まで深く入り込んで一体化した宗教を、その人の中から引っこ抜くことは、その人の死を意味する場合が多く、それはつまり殺人である。
いや、私に親がしたことも殺人だ。私はクリスチャンでも、はたまたムスリムでもユダヤ人でも仏教徒でも、神道、儒教、ヒンズー教とも関係ない『無宗教者』である。だが、『無神論者、フリーメイソン』とは全く違う存在だ。それに関しては下記の記事に書いた。とにかくその私にクリスチャンであることを強要した両親は、それが殺人罪に等しいことを自覚する必要がある。
それはさておき、この映画ではクリステロ戦争の英雄エンリケ・ゴロスティエータが活躍する。『アンタッチャブル』、『ブラックレイン』、『ゴッドファーザー』その他数々の名作に出演するアンディ・ガルシアがその役を務め、どこかで聴いたことがあるスリリングなBGMと共に、緊張感のある戦闘を展開。彼らは宗教の自由の為に、独裁政治に抗うのであった。
『グローリー/明日への行進』
キング牧師という人間の生きざまを一度見ておく必要があった。彼は黒人だが、『普通の人間』だった。だが、『普通の人間にはできないようなこと』をやったから偉人となった。彼は普通の人間だったが、『勇者』だった。
『クロッシング・ウォー 決断の瞬間』
アフガニスタンに駐留するドイツ兵と現地の通訳は、それぞれの価値観や文化の違いから意思疎通が綺麗にできない。それは異国人同士であれば往々にして観られる問題だ。だが、そこに戦争やテロといった見て見ぬふりができない問題が介入したらどうなる。例えば、その外国人を助けることは、自国の上司が許可をしない。『それは任務外の話だ。手を出すな』。軍人が外国の問題に介入することは、その国が介入したことを意味する。
では、目の前で恩人が大けがを負ったらどうする。上には手を出すなと言われている。人を救うために軍人になったはずなのに、その『人』の中にいたのは『自国民』だけであり、『異国民』はそうではないという現実を突き付けられ、人間としての葛藤が彼を揺り動かす。
『クロニクル』
隕石が落ちてきた。その隕石に触った。隕石に触るとどうなるかわからない。こういうことがあり得るかもしれない。それは否定できない。では、隕石に触った少年たちは、一体どうなってしまったのだろうか。もし、弱き人間が力を手にしてしまったら、何をすると思うだろうか。
『蜘蛛の巣を払う女』
前回の『ドラゴンタトゥー』とはまた違って、見ごたえのある作品である。前回、今回ともに、それぞれの役者が続編をやっても文句は出ない。賢く、哀しげな彼女の過去と潜在能力に、我々はくぎ付けになる。
この映画でもとあるスナイパーが重要な役割を果たす。前回の『ドラゴンタトゥー』とはまた違って、見ごたえのある作品である。前回、今回ともに、それぞれの役者が続編をやっても文句は出ない。賢く、哀しげな彼女の過去と潜在能力に、我々はくぎ付けになる。
『ゲーテの恋 〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」〜』
ドイツの詩人ゲーテは、それが誰なのか知らない人でも名前くらいは知っているとてつもない存在だ。私は500人の偉人の8000の言葉を内省したが、その中でもゲーテの言葉は『良い言葉ばかりだ』という印象が焼き付いている。その中でも特に人間の真理を突いているのがこれだ。
『人々は理解できぬことを低く見積もる。』
孔子もソクラテスもブッダもキリストも、その全員が周囲の理解を得られず、処刑されるか不和を呼び込んでいる。だが、ゲーテはとても素朴で純粋などこにでもいる青年だった。では、一体彼がどのようにして世界の詩人となったのか。そこにはもしかすると、彼女のような存在の後押しがあったのだ。
『ケープタウン』
フランス製作のアフリカ映画ということで、少し斜に構えた態度で鑑賞がスタートする。私の場合名作と聞いて鑑賞するのではなく、自分でしらみつぶしに映画を見ていって名作を探すから、とにかくあまり期待はしていなかったということだ。実話でもないし、有名でもない。その時点でかなり審査が厳しくなってくる。だが、映画を見進めていくとどんどん掘り起こされる要素が発覚していき、かなり見応えがあった。
警部を務めるフォレスト・ウィテカーが、妙にマザコンチックで女性の前でもなよなよしている。それについて誰もが気になってしまう。マザコンという感覚は世界に出ると日本よりは薄くなるからまだいいが、だが、『ママ、ママ、ママがいないと何もできないよ』とまでいってしまうとまた別だ。彼がそう言うかは別にしておいて、とにかく妙にこの男が『闇』を抱えているように見える。それには理由があったのだ。彼は昔、『何かを失っている』。
そして、『パイレーツ』とは対極の役を演じるオーランドブルームもいい。この二人が軸となり、アフリカ独特の混沌とした世界を、徐々に掘り起こしていく。大きな犯罪組織も関わってくる。だから皆はそこに釘付けになる。だが、二転三転展開が転がっていき、気づけば最後まで見応え十分の鑑賞時間を満喫している自分に気が付くのだ。
『ゲット・アウト』
私は中学時代に超が100個付くエグムービーを観ているので今更ホラーは観ない。基本そういうものからは得るものがないからだ。時間の無駄である。人に言うべきではない時間の無駄を人より100倍経験しているんだからそれで帳消しだ。もう私には無駄な時間は一分も必要ない。だが、この映画はそんな私のような考え方の人間の目に入ってきた珍しい作品である。
ある人がこれを人種差別的であり、そこに問題点はあると言っていたが、実際にはそうではない。人種差別は『最初からある』のであり、この映画があってもなくても関係ないのである。この映画はむしろその『決定的な現実』を直視し、それをユニークな角度から風刺し、揶揄し、各人が心底で思っているはずであろう問題点をあえて浮き彫りにさせ、映画ならではの独特なエンターテインメントに仕立て上げ、演出しているだけだ。
つまり単なるホラーの類ではない。メッセージ性がある。面白かった。見応えがあった。
『ゲティ家の身代金』
ショーペン・ハウエルは言った。
『富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、のどが渇いてくる。』
かつて、人類史上一の財産を築いた男がいた。しかし、彼は本当に『成功者』だったのだろうか。その答えはこの映画でわかる。
『ゲルニカ』
1937年に起きたゲルニカ爆撃を背景にした作品で、ヘミングウェイの名作『誰がために鐘はなる』の舞台と同じスペインの内戦を舞台にした映画。モデルはイギリス人ジャーナリストのジョージ・スティアであり、彼の速報が世界にゲルニカ爆撃を知らしめることに。そしてそれがピカソの「ゲルニカ」に繋がっていったのだ。
『健さん』
死んだ後も威厳が残っている。
『俺の人生をお前、”ながら”で観るつもりかい?』
という声が聴こえるから、真剣に真正面に座って観るしかない。それは世界中の一流たちにも伝わっていたようだ。
マイケルダグラスが良かった。『ブラック・レイン』で共演した時のことは、もっと僅かな感想しかないのかと思っていたが違ったようだ。大雑把で豪快なアメリカ人の印象がある彼が、まさか高倉健の演技に感動していたとは。
『おい、あの俳優凄いぞ!』
と漏らしていたようなのだ。そして、演技で高倉健の心に触れ、感動的な蕎麦のシーンが完成したのだという。
カークダグラスのように自分を存在させ、フランクシナトラのように人生で2つの顔を持っていて、イーストウッドやマックイーンの佇まいと似ていて、ジャックニコルソンのように決して影の努力を言わない。
そう彼は絶賛する。ジョンウーが、
- チョウユンファ
- ジョントラボルタ
- ニコラスケイジ
- トニーレオン
そして、トム・クルーズを指導する時に、高倉健を想像しながらするのだという。あの、マーティンスコセッシが『健さんの実力を世界に知らしめることができなくて残念だ。彼は一流だった』と言うのだ。
印象的だったのがマイケルダグラスのこの言葉。
『KENは相手が喋ってる時、決して喋らず話をじっと聞いている。だが、客は喋っている人間じゃなく、KENを見ている。』
こういう演技が出きる俳優はわずかしかいない。それが高倉健だったんだと。世界に誇る素晴らしい俳優。それが、高倉健なのだ。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』
期待値が高すぎたので、そのギャップを考えると評価は低い。だが、映画自体が面白かったかどうかと言われれば、面白かったということになるだろう。特に、原作のファンなどはまた違う意見を持つはずだ。熱狂的なファンを世界中に持つ作品が映画化されたのだ。
『コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)』
1960年代にアメリカや日本で放映されたテレビドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク映画。西ドイツや東ドイツ、イタリアを舞台に、時代背景を当時のままに再現し、当時の服装や音楽などがふんだんに出てくる。東西冷戦の最中における米ソの関係は常に緊迫したものである。そんな彼らが手を組んだらどうなるか。そのシナリオはさすがリメイクされるだけあって秀逸である。
イギリスの名優ヒューグラント、『テネット』で一躍有名になったエリザベスデベッキが脇を固め、デビッドベッカムがカメオ出演するサービスつき。
『ゴールデン・リバー』
ジョン・C・ライリーは実力派の俳優で、どんな名作に出ていても文句が出ない俳優だが、こうして主役を演じるとなると、やはり映画全体の印象が変わってしまう。しかも周りを囲むのがホアキンフェニックスやジェイクギレンホールといった、彼と同じような『濃厚』キャストなのだから、やはりさわやかな美男美女といった華が欲しくなるものである。
決してつまらなくはないし、彼らの実力は折り紙つきだが、興行的に大赤字なのだから、やはり決定的に足りない何かがあるのだ。例えば、『カッコーの巣の上で』には別に美男美女は出ない。だが、伝説的な映画になっている。
ホアキンの『JOKER』は元々のキャラクターの力もあることは間違いないが、やり方次第で映画の価値はみるみる引きあがるものだ。その意味で、この映画は伝説の映画には程遠い映画となるだろう。
『コールド・アンド・ファイヤー 凍土を覆う戦火』
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とは、1864年にデンマークとプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争である。プロイセンというのはほとんど現在のドイツだ。首都がドイツと同じベルリンである。こうしたマイナー地域の歴史は歴史の専門書にも詳細が書いていないので、貴重な映像作品だ。だからこの『シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争』という名を聞かないまま人生を終えてしまう人も大勢いるだろう。
だが、こうして当時の様子を見れば、そこには他の主要戦争と全く同じ状態の戦争がそこにあったことがよくわかるはずだ。これは、この戦争を通して実際にあったある兄弟と一人の女性の物語である。
『ゴジラシリーズ』
内容は覚えていないのだが、子供の頃ゴジラを観ながら家族みんなでアイスクリームを食べた。冬の寒い時期に、暖房の効いた部屋で、そういう温かい時を過ごした。その幸せはいつまでも続かなかった。家庭にあった宗教問題や、非行、そして早くに死んだ父。様々な問題が我が家をかき乱し、もう二度とあの頃には戻ることはできない。
だが、戻るつもりもない。別に過去に執着などしていないのだ。一つだけいるのは、あの時その空間にはゴジラがいた。そういうことなのである。
『シン・ゴジラ』
多くの日本人が騒ぐほどの面白さではなかった。そこまでの作品ではない。だが、単純に私はゴジラが好きだ。昔、寒い冬の温かい部屋の中で、アイスクリームを食べながら家族でゴジラを観たのは、懐かしい思い出だ。
『GODZILLA』
シン・ゴジラよりも迫力があるのはこっちだ。皆、日本の作品を海外に取られたくないと思っているのか、シン・ゴジラの方を高く評価する。だが、私が観たいのは『最高の映画』だ。それが観られるなら、どこの国がやったって関係ない。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』
核爆弾が落とされた約10年後に、『反核』をテーマにした日本の伝説的映画が誕生した。『ゴジラ』である。ゴジラは全世界の著名な映画監督に影響を与え、あれから70年経った今でも、いまだにハリウッドでそのリメイク版が公開されるなど、まさに映画界の怪物的存在である。映画というエンターテインメントに込められた、世界共通のテーマ。映画を哲学的で高尚な次元に引き上げるだけの能力を持つこの作品は、映画が存在する意義を教えてくれる。モスラのテーマ曲も久しぶりに聞くことができた。
間違えて吹き替え版で観てしまった。だからある種の安っぽさを覚悟しなければならなかった。案の定、声優の一人のタレント(田中圭)は全くかみ合っていなかった。だが、問題はそれだけだった。芦田愛菜や渡辺謙は合格点であり、木村佳乃にいたっては、今調べるまでプロの声優だと思っていたくらいだ。
後のプロたちもちゃんとやってくれた。それだけではない。作品があまりにも緻密にできていて、つまりスカスカの空っぽではなかった。それにはゴジラが日本映画で積み重ねてきた歴史も関係しているだろうが、俳優たちも本気で熱演していたから、この作品に安っぽさを感じなかったのだ。そして吹き替え版ではあったが、4Dで観て良かった。やはりこの規模の映画になると、映画館かつ4Dで観れるなら最高の臨場感を得られる。
幼い頃、映画と言えばゴジラだった。亡き父親と家で観た数少ない映画の思い出にも、このゴジラがあった。今ゴジラは完全によみがえった。いや、パワーアップして復活したのだ。…だがおかしい。『例のコング』がいない。
『ゴジラVSコング』
第「モンスター・ヴァース」の4作目。1作は、『ゴジラ』のリブートである『GODZILLA ゴジラ』(2014年)であり、『キングコング』のリブートである『キングコング:髑髏島の巨神』(2017年)、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)、『ゴジラvsコング』(2021年)と続く。
前作で(なぜキングコングがいないのか?)と疑問に思ったのだが、最後に思わせぶりな内容が流れてテンションが上がったのを覚えている。そしてついに今回これを映画館で観たわけだ。日本が生んだ世界のゴジラ。そして、アメリカが生んだ世界の猿。この世紀の対決は、その3つの前作の助走によってボルテージは最高レベルに引き上げられた。これはもう、何かうんぬんとここで説明するような内容ではない。大画面、大音量で観るべきだ。もっと言えば4D。それでこの映画を観る環境が最高に揃うのだ。
『コップ・アウト 〜刑事した奴ら〜』
観ても見なくてもどっちでもいい、気軽な刑事ものムービーだ。ただアメリカではこういうカジュアルな映画がヒットすることもあるから侮れない。だが、ブルースウィリスはそれにしてはもう若くない。
これから10年後の2022年3月30日、失語症を理由に俳優業を引退することが発表されたから、このあたりからもうその予兆は出ていたかもしれない。『おなじみ面白刑事コンビ』として、『Badboys』のようになることなく終わったと言える。
『この世界の片隅に』
第二次世界大戦の広島と言えば、真っ先に思い浮かぶのが『原爆』である。これは、まだ原爆ドームが『広島県産業奨励館』と言われていた時代の、嵐の前の静かな広島から始まる、平和な人生を望んだ天然少女の物語である。では、天然少女というのは、何をもってしてそう言われるのか。計算しているのか。それとも、能天気で何も考えておらず、感情がないのか。いや違う。少なくとも彼女の場合は、感情がないわけではない。しかし、その奥底にある熱すぎるエネルギーを表面化して生きることは、心外なのである。
そんなことをしたら壊れてしまう。崩れてしまう。自分の好きな、平和でのどかなこの世界を、汚してしまう。だから絵を描く。密かに想う。しかし、ある時その世界は音を立てて崩れた。光があたり一面を照らし、握っていた小さな手の感覚がなくなった。
『コレクター 暴かれたナチスの真実』
隠蔽されてきたナチスの実態をオランダ人ジャーナリストが暴いていく実話ベースの物語である。大富豪のアートコレクター、ピーター・メンテンが第2次世界大戦中にナチスに肩入れし、大勢のユダヤ人を虐殺したというのである。ナチスとコレクターというのは関連性の高いキーワードで、彼らは『戦利品』として色々なものを巻き上げていた。時にはその為だけに人をはめて殺し、死体から金品を奪い取るようなこともあった。
ただ、昔に遡るならもっと事例はいくつもあるはずだ。例えば三菱商事の創始者であり、坂本龍馬と同じ時代を息した岩崎彌太郎は、戦争で使う銃を輸入してそれを売りつけ、元手を作った。これはアメリカがやっていることと同じだ。1929年にアメリカは『世界恐慌』を引き起こし、一時壊滅的な状況に陥る。そこでフランクリン・ルーズベルトが『ニューディール政策』によって回復を試みるが、実際にアメリカが回復できた理由は1939年の『第二次世界大戦』で武器生産体制が強化されたからだ。
金銀財宝のすぐそばには、常にこうしたきな臭い話が漂う。こうなると彼らだけが悪いのではなく、もっと何か根本的な部分で人間は判断を見誤った(道を踏み外した)のかもしれない。
『コロニア』
一度入所したら二度と出られないと言われている、ある極秘の宗教施設があった。実際には、40年間で脱走に成功した人間の数は、わずか5人である。そんな怪しげで危険な匂いのする施設に彼女が自ら飛び込んだ目的は何か。愛の力は偉大である。
『コンテンダー』
2010年に実際に起こったメキシコ湾原油流出事故を題材に、政治家がスキャンダルによって失脚し、極限まで追い込まれていく映画だが、ニコラス・ケイジのB級シリーズの一つとなってしまっている。
『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』
全身の筋力が徐々に衰えていく進行性筋ジストロフィーという難病を抱え、北海道札幌市に在住していた男性の鹿野靖明(しかの やすあき、1959年 – 2002年)がモデルの実話である。もし彼がもっと悲観的で、無難で、当たり障りない生活態度をする人だったら、映画化されていないだろう。彼のような破天荒な人間だからこそ映画化されるのである。
難病を抱えている人は大勢いて、その看病に苦しむ人も大勢いる。彼らを通して難病とそれに向き合う周囲の人の心労を理解する人が一人でも増えたら、この映画の価値はある。
『コンビニ・ウォーズ バイトJK VS ミニナチ軍団』
『Mr.タスク』というホラーコメディ映画に登場するコンビニ店員のスピンオフ映画。女性の一人はジョニー・デップの実の娘のリリーローズデップだ。私はホラーを観ないから、ホラーコメディはもっと観ない。もっと意味のある映画を観て人生の糧にしたいと考えているので、正直この映画も、ジョニー・デップとの親子共演がどんなものなのかということが気になって観た映画だ。
観ても観なくてもあまり変わらない映画だ。だが、ホラーコメディが好きな人、何も考えずにお菓子をほおばりながら映画を適当に見る、という人は、いい娯楽の時間を提供するだろう。
『恋するリベラーチェ』
1950年代から1980年代にかけて世界的に人気を博したアメリカ人ピアニストのリベラーチェの最後の10年間を描いた伝記であり、元恋人のスコット・ソーソンの回想録『Behind the Candelabra: My Life With Liberace』(1988年)を原作としている。
かなりニッチなシナリオで、マイケルダグラスがそれを演じることによってそこに威厳と妙な違和感が生まれ、その豪華絢爛な様相と相まって、不気味さと説得力が織り交ざった内容に仕上がっている。人を注目させる力があるということだ。
だが、『実話、芸術、成功者』というのは極めて高い確率である共通点がある。それを考えると、『辿り着く場所はみな同じ』という一つの事実と、逆に『最初から人間の根底にそれはある』という性善説、性悪説的な概念が頭に浮かび上がる。
ウォーレンバフェットは言った。
『金は人を変えない。金は人の本性を浮き立たせるだけである。』
『恋とニュースの作り方』
映画が面白いのは、よく考えたら自分とは全く違うタイプの主人公の作品を観ていて、いつの間にか教訓を得ているということだ。普段であればあり得ない。自分と考え方が違う人間や、趣味の合わない人間とは話を1分すらしようと思わない。だから、私はモテない。容姿だけを見ると、ホストやモデルやジャニーズなど、色々な方向にも向いていると言われたこともあるが、まずジャニーズは浅薄な時代に応募をして、覚悟もないし素質がないことを見抜かれて落ちる。
また、モデルをやろうとは思わないし、モデルのように表面に力を入れる自分を俯瞰で見た時に馬鹿にしか見えない(他人がやるのはいい。あくまでも自分だけ)。ホストなどはもっと無理だ。相手の話を聞きたいと思わない。筋が違っていたら説教をしたくなるし、馬鹿を見たらぶん殴りたくなる。プライドを踏みにじってくる奴がいたら、そいつが土下座するまで許すことができない。当然だ。相手が悪いんだから。
そういう考え方をする私だから、いくら要素がある程度あったところで何も生まれないのである。ただ実は、いざとなれば経験が多いので話をいくらでも膨らませられるのだが、本性の部分では今言ったことが本音なので、そのうちすぐにメッキが剥がれて、相手を無意味に立てることなどできなくなる。する必要がないと思うからだ。嘘なんだから。
ただ、教訓だけは得られるだろう。どこかのキャバクラに行って話を聞いても、こうして女性の恋と仕事の話を観ても、確実に教訓を覚えている自分がいるのがわかる。
ただ、洋画の場合どこか『アニメキャラ』のように見ているところがあるかもしれない。有名どころは決まっているし、現実に見る機会がないので、入り込みやすく、無駄な感情を持たずにフラットに見れるメリットがあるかもしれない。
だから、間違っていた場合でもその相手に説教をしよう(正しい道、選択肢を諭したい)とは思わず、アメリカの事情だとか、彼女らが育ってきた環境を想像しながら、日本との差異などを想像し、勉強しているところが多いかもしれない。
私の周りにも彼女のようなキャリアウーマンはいて、彼女は割と大きな会社の副社長とか、小さければ社長ができるほどの力を持っていて、『あの副社長はやばい』などという話を周りから聞いていたのだが、私はがっつり彼女と仕事をしてみて、特にそういう驚きはなかった。
ただ彼女はやるべき仕事をやっているだけ。意見を言うべき時に意見をし、会社の人間として利益をシビアに追っているだけなので、私からすれば最初から男女差別などしていないので、別にこういう人もいるだろう、という風にしか見えなかった。そんな差別思考がない私だったからこそ仲良くなったかもしれないが、結局のところ、別に彼女から多くを学んだということはなく、彼女はただ『拝金思考に陥り、義を見失ったよくいるその他大勢の一人』でまとまっている、反面教師でしかなく、私との縁は既に切れている。
おっと、色々なことを考えてしまった。私にそう考えさせてくれる映画は、いい映画だ。2行で終わらせたい映画もある。
『恋愛だけじゃダメかしら』
『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーで1位となり過去25年間で最も影響力のある1冊と考えられ、かつ「アメリカの妊娠のバイブル」と呼ばれ、全世界で2000万部以上を売り上げた、1984年に出版された本、『すべてがわかる妊娠と出産の本』が原作になっている。
監督はこの原作をガイド本とは知らずに小説だと思い込んでいたことも映画化のきっかけかもしれないが、やはりそれだけのヒット作ということもあって、かなり教訓性に長けている作品となっている。だが同時に、最低の演技をした人に贈られるゴールデンラズベリー賞にブルックリンデッカーやジェニファーロペスがノミネートするなど、価値の足を引っ張る展開もいくつかある。
『聲の形』
先天性の聴覚障害を持つ少女を描くアニメだ。彼女は小さい時にいじめられてしまう。小学生時代、私にも身に覚えがある。補聴器をつけた女性の真似をして、馬鹿にしたわけである。だが、彼女はこのアニメキャラのように『エロさ』もなく、髪の毛もピンク色ではなかった。もちろん、そういうキャラクターじゃなければ人気は出ない。これが地上波で放送されたということは、それだけ人気を得たということ。そしてその人気は、『不細工な女性の聴覚障碍者』を描いた話では、得られなかったのが残酷だが決定的な事実だ。
ただ、こうした問題に注目を集める為にはこういう手法で正解なのではないだろうか。これなら子供、つまり当時の私のような小学生にも伝わるし、論理的思考が甘いその頃、絵のタッチとアニメのインパクトで映像として頭に焼き付けば、学校でそれが脳裏をよぎり、問題を未然に防ぐことに繋がる。価値のある映画ではないだろうか。
『心が叫びたがってるんだ。』
『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の『超平和バスターズ』原作。主人公の彼女は『言葉を封印された』というよりは、トラウマを抱えた少女。可愛い感じのその絵のタッチからは想像できない、全く平和じゃないスタートで始まる。彼女は心に大きな傷を負ったのだ。果たして彼女は、本当の自分を取り戻していくことができるか。期待せずに観たら面白く、『あの花』と同じ原作者ということは後で知った。原作者に実力がある証拠である。
『言の葉の庭』
短いが十分伝わった。綺麗で、儚くて、奥行きがある、尊い物語がそこにあることが。短くても十分に作品の中に入っていけるのは、世界観がしっかりしているからと、余計な声優陣が作品の邪魔をしていないからだろう。こうした作品を経て彼は、『君の名は。』に繋げた。実は、同じ年齢のはずの『天気の子』よりは、この作品の方が大人っぽさがあり、心に染み渡った。
『荒野の誓い』
西部開拓時代が終焉を迎えた19世紀末のアメリカが舞台。アメリカ西部開拓の歴史映画は古いものが多いから、クリスチャンベールでそれが見れるのは楽しみだった。結果、退屈である。それを覚悟した方がいい。だがよく考えれば分かるが西武の荒野というのは、それを想像しても映像を見ても分かるように、何もないわけだ。その広大な虚無を演出するのに、馬が走り出してロープが飛び交う、ウエスタンカウボーイのようなBGMは虚偽になる。
『高地戦』
時は朝鮮戦争末期の1953年冬。朝鮮戦争における南北境界線付近の高地をめぐって争いが行われる。場所は最前線の「エロック高地」だ。北にいるのは北朝鮮やソ連率いる共産国家、そして南である韓国はアメリカとイギリスの資本国家であり、この戦争を境に朝鮮は『北朝鮮、大韓民国』という二つの国に分かれてしまったのである。だが、本当に彼らはその戦争があってすぐに敵同士となるのか。同じ民族同士、そしてそれ以前に同じ人間同士の彼らには、本当に『絆』はないのか。
『高慢と偏見とゾンビ』
『高慢と偏見』を観た後に楽しめる人がいるか、全く受け付けない人がいるか、という真っ二つに分かれるだろう。私はゾンビ映画は何の興味もないので、わずかに見られる原作の片鱗を確認する程度にとどまった。
『告白』
話題になっていたので、いつか見てみようと思っていてついにこのタイミングで鑑賞。内容が少年犯罪や家庭内暴力、イジメなど、過激な内容や描写で映倫からR15+指定を受けたため、キャストには15歳未満の者も多くおり、該当者は公開後自分が出演した本作を見ることができなかったという。だが、それだけ攻めている内容だから競争優位性を生んでいる。松たか子というキャスティングもいい。彼女の持つパブリックイメージがあってこそのこの展開だ。もちろん、今の言葉の意味は鑑賞しなければわからない。恐らく『違う』だろう。
ただ、湊かなえというのは少々偏りがあるように見える。『Nのために』も似ているが、彼女の言葉、
『道を踏み外して、その後更生した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。』
というのは本気で言っているような印象がある。作品を通して彼女は、道を踏み外した人に対して何か特別な思いがあるのか疑ってしまうのである。だが、内容は面白い。私もこうして記事を書いているくらいで、このサイトにある偉人500人の8000の言葉の中に、彼女は選ばれている。それは、私が読んだり観たりして『面白いものを書く人』と認識するからに他ならない。
『国家の女リトルローズ』
1967年のワルシャワ。社会主義政権下で自由を求める学生たちが1968年に起こした民主化運動(3月事件)の直前の物語である。シオニズムとは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動のこと。つまり、シオニストというのはユダヤ人だ。当時のポーランドでは、ユダヤ人は肩身が狭い思いをすることになった。この物語で得をした人は誰もいない。誰も、いないのだ。
さ行
『ザ・ウォーカー』
ある男性が歩いている。最終戦争によって国家も文明も滅びた荒廃した大地を、もう30年も歩き続けているというのだ。一方その頃、とあるエリアで権力を持った一人の人物が、『ある本』を探して躍起になっていた。その本を手に入れられるなら、人を殺してもいい。そう考えているというのである。そして二人の男は出会う。さて、一体その本とはどんな本なのだろうか。
『ザ・ガンマン』
ショーン・ペンは名優のはずなのに、この映画でも違う映画でも酷評されている。確かに、その映画ではシャーリーズセロン。今回ではハビエルバルデム、イドリスエルバ、レイウィンストンと、名優が揃っているというのにその期待を超えてこない感じはある。実話でもないのに妙にリアル感を出しているから、実話だったならもっと見応えがあったのかもしれない。
『ザ・コンサルタント』
何もかも完璧にやらなければ気が済まない。それはある種の強迫神経症である。うつ病にもなりやすい。また、それらは『特徴』となり、そこから足がつき、身元がばれたら『完璧な行動』は取れない。彼は完璧主義者だが、故に悩みを抱えていて、あまり完璧には見えない。しかし、そんな『不器用』な人間の生き方は、人に感動を与える。
『ザ・サークル』
昭和の時代と少しでも縁がある人は皆知っている。この現代では、かつてほど犯罪がしづらくなったということを。暴走族が暴走行為をするのも、裏道で残忍な犯罪行為がまかり通ったのも、まるで『透明人間』になったかのような無敵状態たる自由を謳歌できたからだった。では、何もかもが変わった現代の世界ではどうだろうか。我々が利便性を追求し続ける先に待ち受けているものは、便利(自由)な人生か、それとも不便(不自由)な人生か。
『ザ・シークレットマン』
ウォーターゲート事件の情報提供者「ディープ・スロート」こと、当時のFBI副長官マーク・フェルトを描いた作品。つまり、フーヴァー長官のすぐそばにいた人物の話だ。物語は、フーヴァー長官が死んだ後から始まる。
『ザ・タウン』
アメリカで最も強盗が多い街ボストン。強盗が日常茶飯事として起きることは想像できないかもしれないが、だからこそ映画になるわけだ。いや、中国やインドなどに目を向ければ実際にはもっと荒れた場所があるが、アメリカでのそれはどういう状況なのか、想像して観たい。最初に観た時はこの映画は皆がつけているように『★3』程度のものだったが、それは私が浅かったからだ。一人一人のキャラクターの一生を具体的に想像できるようになった今、混沌の街で生きる彼らの人生には、深い哀愁が漂う。
彼らがもし、違う街で生きていればどうなっていたのか。数十年前の『日本一巨大な暴力団』の幹部がテレビ番組に向かって言ったセリフにこういうものがある。
『生まれ変わったら?そりゃ坊ちゃんでしょ。そうすりゃヤクザなんかやらないで済むんだから。』
この言葉の是非や重みは知れている。だが、世に溢れているのは『知れている人間』ばかりだ。
『ザ・ハント ナチスに狙われた男』
1943年。ノルウェー兵はイギリス軍の訓練を受け、ドイツ軍の航空管制塔の破壊作戦「マーティン・レッド作戦」という極秘任務を遂行する。だが、相手はナチスだ。簡単ではない。一人死に、二人死んでいく。仲間はもういない。最後に生き残ったのがこの男だった。男は、執拗なナチスの網から逃げなければならなかった。このノルウェーつまり北欧の冬山での逃亡は、困難を極める。
大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪に覆われるグリーンランドやアイスランドがすぐ傍にあるこの北国は、赤道から遠く離れ、寒さが厳しい極寒の地だ。その国の冬の雪山となれば、もう人が生きていくことなどできない。だが、ナチス占領下のノルウェーから、中立国のスウェーデンへと国境を超えるためには、この最難関のルート以外に生存の道はない。
この超最難関な極秘ミッションを無事に遂行することができるか。北欧ならではのエリアを活かした壮絶な史実が映画化された。
『ザ・フォーリナー 復讐者』
ジャッキーチェンのかつての活躍ありきのような作品だ。これが世界的ヒット作になるということはない。観ても観なくてもどちらでもいいのではないだろうか。
『ザ・ヘラクレス』
『ヘラクレス』
『インモータルズ -神々の戦い-』、『タイタンの戦い』などと同様、古代ギリシャのギリシャ神話をモデルとした映画。その中でも、ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在である。タイタンの戦いの主人公はペルセウスだが、ヘラクレスはその子孫である。そのように、ギリシャ神話の旅として、併せて観るのも面白いだろう。
『ザ・ヘラクレス』
ドウェインジョンソンが演じた『ヘラクレス』も観たが、世界の神話にスポットライトを当てた映画としてヘラクレスはとても重要な位置にいるので、色々な角度から見ても損はない。それが鑑賞理由だ。実際、前者の方は『実際には凡人』という描写だが、今回の場合は更に神話的に展開されていく。しかし人間として心がエグられる深刻なシーンも多々あり、人間としての葛藤が描かれるため、半神半人の英雄の中でも最大の存在であるヘラクレスの描写としては、相応に見えるだろう。
この映画で描かれるヘラクレスと、ブラッドピットの『トロイ』で描かれるアキレウスは、その二人を祖に持つとされるアレキサンダー大王へと繋がる。ではこの世界の覇権の推移を見てみよう。
紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。
紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。
紀元前336~紀元前323年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。
紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。
1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。
1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。
1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。
1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。
1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。
『帝国』とは、異国を支配下に置いていき拡大していく集合体で、世界初の抵抗は現在イラク地方であるアッシリアだった。だが、初めて世界規模の広大な帝国を作ったのがアレキサンダー大王である。その後、アレキサンダーによってエジプトにアレクサンドロスが紀元前332年に建設された。アレクサンドロスの死後は、その部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展した。そのプトレマイオス朝最後のファラオ(女王)があのクレオパトラである。
そしてクレオパトラは次の世界の支配者ローマの中心人物、カエサルとマルクス・アントニウスと関係を持つ。そしてカエサルが死に、クレオパトラらも死ぬと、アウグストゥスがローマを継ぎ、『ローマ帝国(帝政ローマ)』が誕生するのである。
もちろんヘラクレスやアキレウス、ゼウスなどはすべてギリシャ神話の人物だが、そうした神話の神の子孫として権力を持ち、この世界の形に大きく影響を与え続けた歴代の偉人たちの歴史を考えると、彼らの話を知る時間というのは有益なのだ。
面白いのが、この紀元前1200年というのは、『エクソダス神と王』でモーセとラムセス2世が描かれる時代とほぼ同時代ということである。エジプトにもエジプト神話があり、その中からユダヤ教という新しい神話・宗教が誕生したが、ラムセス2世は実在した可能性が極めて高く、そこで行われて映画でも描かれる、世界初の公式な戦争『カデシュの戦い(1286年頃)』も実在したことから、神話と現実が混ざり合っているということだ。
『ザ・マスター』
無神論、反宗教主義者、教育宗教分離主義者、そして私も読んだ『神は妄想である』の著者であるリチャード・ドーキンスは「サイエントロジーは引っ掛かりやすいカルト教団であり、言っていることは全くのでたらめだ」と述べているという。その『サイエントロジー』がこの話のモデルになっている可能性が高いが、明言はされていない。一番有名なのがトム・クルーズだ。彼はこの信者ということでパリ市民からは「歓迎すべからざる人物」と規定されたという。『ワルキューレ』の撮影の時も、ドイツ財務省が同国連邦軍施設内への立ち入りを断るといった事態も発生したそうだ。
マルクスは言った。
『宗教とは、民衆の阿片である。』
さて、この団体の実態とはどのようなものなのか。
『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』
この映画の評価が低いのをどこかで見たことがあるが、それはなぜだろうか。私は映画館で観て、終始この作品の持つ不気味さに贅沢な時間を感じることができた。古代エジプトというだけで、冒険好きの私からすればツボだ。最後もいいじゃないか。エジプト神話、十字軍の歴史、ジキルとハイドのモデル、様々な要素を理解しているかどうかが問われる。
『ザ・ライト -エクソシストの真実-』
実話というがやはり悪魔のことだから信憑性に欠ける。せっかくのアンソニーホプキンスが台無し、いや、彼の説得力があってこその映画だ。彼だからこそ信憑性が出てくるのであって、だからこそもしそれが嘘であれば、彼の無駄遣いということになる。
『ザ・レジェンド』
ニコラスケイジの『借金返済プロジェクト』の内の一つである。彼は借金返済に苦慮していることから、仕事を選ばずに多くの映画に出演した。数年掛けて46本もの映画に出演したことが功を奏し、現在は全ての借金を完済済みであるという。ということでその『選ばなかった仕事』のうちの一つというクオリティだ。
『ザ・レポート』
ブッシュ政権下でのCIAによる拷問と、次のオバマ政権下でのその調査を描く。911以降、臨戦態勢になって手段を択ばずに『前始末』に躍起になるのは分かるが、罪もない人間を逮捕したり、盗聴したり、行き過ぎた拷問をしたりと、アメリカはかなり荒れた手段を取り続けていた。ダニエル・J・ジョーンズはダイアン・ファインスタイン上院議員によってCIAの汚点を暴くために、600万ページを超える文書を調査し始める。
これは映画『ゼロダークサーティ』や『グアンタナモ』と一緒に観た方がいいだろう。そうすることでよりこの話の奥行きが理解できるようになる。それら全ては実話とされていることだから尚のことすごい。更に『バイス』ではブッシュ時代の黒幕ディック・チェイニー副大統領をクリスチャンベールが演じているが、それも併せて観たいところだ。
アメリカは、ケネディが63年に暗殺されてから、弟のロバートも暗殺。ニクソン大統領の時にはベトナム戦争が問題視され、『ペンタゴンペーパーズ』が、ウォーターゲート事件が起き、『大統領の陰謀』や『ザ・シークレットマン』が。同時期に活躍したFBIの創始者フーバーを描いた『J・エドガー』もそうだが、『華氏911』、『華氏119』等、絶えず要人たちの問題が映画化されてきている。
『スノーデン』もそうだ。このあたりは全てまとめて観るのがいいだろう。すべてが繋がっている。
『サウルの息子』
この映画にまた低評価ついてるがきっと着眼点を間違えてる。他の映画に影響されて『常識』に囚われ、『その常識通りの展開』がないから肩透かしを覚えるのだろう。だが、これは極めて貴重な映画である。 私は強制収容所経験者の『夜と霧』を読んだが、絶対にこれが映像化されることはないと確信したものだった。彼らがアウシュビッツを含めた強制収容所で経験したことを具体的に描写することは、あまりにもおぞましく、一生のトラウマになる人も現れると感じたからだ。
その後『シンドラーのリスト』など様々なホロコーストの映画を観た。それぞれとても衝撃的だった。だが、この『サウルの息子』ほどこの内容を描いたものはなかった。だが、これももちろん直接は描いていない。あくまでも 『収容所で人探しをしてさまよっている人の、背景に映りこんでいる』 という体で、ボカシたり部分を映したりしてそれを描いているのである。だから着眼点を間違えたら、
(なんなんだよこの映画、さっきからさまよってばっかで、何がしたいんだよ)
ということになるだろう。しかしそれは知識と経験と想像力不足だ。 『彼が動き回るから全体像が映せる』のだ。そして『これが限界』なのであり、そしてこれはそれ以外の軸で考えても、とても貴重な『資料』である。
『サバイバー』
デンゼルワシントンの『デンジャラス・ラン』のようなイメージで、ミラジョボビッチがアメリカとイギリスの当局から追われてしまう。だがその作品とは違ってこの場合、本人が『なぜ追われているのか分からない』状態である。
スリリングな内容だが、例えば『バイオハザード』や『モンスターハンター』のようにゲームの実写化とか、実話といったインパクトがなく90分で終わるので、少し足りない印象で終わる。
『サプライズ』
仮面をかぶった異常殺人者に襲撃されるスリラー映画。それはたくさんある。だが、この映画の場合少し様子が違うようだ。
『さらば愛しきアウトロー』
誰ひとり傷つけることなく大胆不敵な犯罪を繰り返した実在の強盗フォレスト・タッカーを描いている。銃は使うが誰一人傷つけず、2年間で93件もの銀行強盗を成功させた伝説の強盗である。
普通は1件も成功させることなどできない。それがこんなに成功するとなると、大人数で大掛かりにやるか、彼のように紳士的にやるかしかないだろうか。『強盗』に紳士などいない気がするが、しかし彼の態度なら通報はしようと思わない何かがあって、警察が来る前に逃亡することが成功したのか。
海外では銃を出した途端に一気に形勢が逆転する。どんなに腕に自信があっても、『落ち着け、』と言って両手を上げ、抵抗をやめる。日本では(何とかしてやる)として力自慢が逆転を考えるが、海外の場合はスイッチを切るかのように、銃を出してしまえば簡単にそこにいる皆がOFFになってしまう。
彼はまず銃を出してスイッチを切り、かつONにさせないように、その紳士的な態度で被害者たちの心をゆりかごに乗せたのかもしれない。(まあ、別に彼なら態度が高圧的じゃないからいいか)などと皆がそろって思ったのかもしれない。何とも不思議な話だが、こちらも伝説の俳優ロバートレッドフォードが、この作品を最後に舞台を去る。色々な意味で伝説の映画だ。
『サン・オブ・ゴッド』
メル・ギブソンの『パッション』もいいが、あれはアラム語とラテン語に徹していて、翻訳が許されていない。そういうことからも、もう少し身軽に見れるのがこの映画だ。だが、身軽に見れるからこそ、どことなく違和感が見える。イエスが現実離れしてしまい、空想の世界というイメージを強く抱かせる。そう考えると『パッション』にあったある種のあの禍々しさの方が、当時あった暗い雰囲気を上手く表現できているのかもしれない。
『サンクタム』
水中洞窟。とても魅力的な世界だ。だが、もしそこで酸素の補給が出来なくなったらどうする。閉所恐怖症の人は、それを想像するだけで、気を失いそうになる。製作総指揮を執ったのが『タイタニック』のジェームズキャメロンということもあり、その臨場感がすごい。彼の趣味は、もはや趣味のレベルを超えた規模の『海中探検』なのである。
『サンドラの週末』
かなり地味でニッチで、マニアックな作品なのだが、時間を空けて振り返ってみると内容を覚えているという、不思議な作品である。他にも映画をたくさん観ているが、全く覚えていないものもあるのだ。
私は記憶力がいいし、映画に対して真剣だから、一年以上置いてからまとめて一気に感想文を書いて、映画を真剣に見ていたかどうか、自分を試すところがある。その私が、この謎の内容の映画を覚えているのである。不思議だ。
『彷徨える河』
実在の学者リチャード・エヴァンズ・シュルテスとテオドール・コッホ=グリュンベルグの手記を基にしていて、時代は1900年代。先住民たちがまだアメリカ大陸の奥深くにいる時代に、学者がそこへ探検・研究しにくるという内容だ。・・というのはかなり浅い説明で、実際にはそれを言うなら『アポカリプト』のような映画の方がそれに近い。
15~16世紀にケチュア族によってインカ帝国が興る。『メソアメリカ』といわれるマヤ、アステカの文明は、『石器』を中心とした文化を持っていた。彼らは、ピラミッド建築に長けていたり、マチュピチュ遺跡を作り上げるなどして、独自の高度な技術を持っていた。
スペイン、ポルトガルのコロンブス、ピサロ、コルテスを筆頭としたコンキスタドール(征服者)がこの地に来たのは1500年頃。それよりも更に400年も前の時代だ。だからさらにその時代の映画というなら、『アギーレ 神の怒り』などがそうだ。ピサロがさがしたエルドラド(黄金郷)を探す人々の様子が描かれる。ちなみに、このエルドラドに憑りつかれた冒険者の代表者と言えば、イギリスの冒険家パーシー・ハリソン・フォーセットだ。PS4ゲーム「シャドウ オブ ザ トゥームレイダー」においては、主人公ララ・クロフトがフォーセットの謎を解き、失われた都市がペルーにあると推定する。
今回の場合はエルドラドというより、『謎の植物』を探し求めている。見た限り麻薬のようなもので、先住民しかその場所を知らず、悪用・乱用するなら紹介はできないという流れがある。それももちろん興味深いが、それよりも目を疑うのはカニバリズム(食人)である。先住民のような小規模な民族にあったその習慣は、『アポカリプト』のような人身供養の儀式を考えると蓋然性が高く、宗教の実態としても貴重なシーンである。
これを観て『グリーンインフェルノ』というB級映画に位置付けていた作品が、現実味を帯びてきた。 無知時代、こんなものはあり得ないし、子供が出演していることに腹が立っていたが、歴史を一通り調べたあと、この映画の舞台となったエリアを調べたら、ペルーだった。その意味がわかるだろうか。
『猿の惑星:新世紀』
猿は人間の祖先なのか。人間はどのようにして人間になったのか。この映画を観ていると、猿と人間、どちらがこの地球にふさわしいのかという疑問を、思い浮かべる。
『砂上の法廷』
90分程度の映画で、確かに全体的にキアヌ・リーブスとレネー・ゼルウィガーの俳優力に頼られているような脆さを感じるのが事実だが、最後まで見ていくと、意外に私の好きな展開で、楽しかった。この映画の評価は動画配信サービスでは星3になっているが、それはこの映画が『左脳型』と『忍耐型』だからだ。真面目で忍耐強く、終始真剣に映画を観れる人よりも、その真逆の方が圧倒的に数が多いからそうなるだけである。
『真実の追求か、依頼人の利益か』。
この言葉は重い言葉だ。子供では分からない。そして、大人になると『一見して』理解る。だが、全容を理解する人はごく稀である。
そもそも『真実』とは何か。悪人がのさばり、善人が泣きを見る姿が真実か。報復が認められず、やられるままになることを容認するのか。お金がある人が有利になる資本主義社会はどうだ。有能な弁護士を高い報酬で雇い、それ次第で裁判を優位に進め、歪められた起きた結果は『真実の結果』か。
ソクラテスは?裁判で『無知な大衆、裁判員に媚を売らず、むしろ説教をして喧嘩を売り、死刑に多く票を入れられた』彼は、『死を恐れることこそ無知の代表だ』として毒杯を飲み、死刑を受け入れた。彼はどうなることが正解だった?正しいことをしていたなら、なぜ死刑になった?
『真実の追求か、依頼人の利益か』。
この言葉は重い言葉だ。子供では分からない。そして、大人になると『一見して』理解る。だが、全容を理解する人はごく稀である。
『砂漠でサーモンフィッシング』
どうして日本語にしてしまうとこんなにチープさが出てしまうのだろうか。観る前は(絶対外れだな・・)と思っていたのだが、意外にこの映画には面白い映画にだけ引く蛍光ペンを引く結果になった。妙にリアルなので実話なのかと思ってしまうが、完全な実話ではないらしい。だが、実話ではないとも明記されていない。
釣りに全く興味がない私が面白いと思ってしまうわけだから、この映画はなにも釣りだけにフィーチャーした作品ではないわけだ。というか釣りのシーンなど全体で10分程度だろう。
また、『砂漠で鮭釣りをする』という非現実的な内容も、別にそこまでこの映画の面白さの核を担っていない。(すげえことにチャレンジするな~)ということにはならない。それよりも、それを軸にして関係者となる人物たちの、複雑で、切実な人間関係から目が離せなくなるのだ。だからこのチープな日本語タイトルや、奇天烈なテーマであっても面白いと感じることができた。つまり、その辺りの要素は別にどうだっていいのだ。別に違うテーマでもいい。
『最強のふたり』
この映画は、フランスでの歴代観客動員数で3位(フランス映画のみの歴代観客動員数では2位)となる大ヒット作となり、日本でも興行収入が16億円を超え、日本で公開されたフランス語映画の中で歴代1位のヒット作となった。なぜならこの物語は実話をもとに作られた映画だからだ。体の不自由な富豪と、介護人の貧しい黒人。彼らはお互いに足りないものを持っていたが、同時に共通する『心』も持っていた。
障害者として一生を生きることになったことを想像したい。皆が自分を、障碍者のように扱う。だが、障碍者は自分のことを障害者だと扱ってほしくないと思っている。これは、その事実について、熟考させられる映画だ。
『最後の忠臣蔵』
織田信長らが暴れ回った戦国時代から200年、宮本武蔵という剣豪が剣をふるった時代から100年、1700年頃の日本で、世界を震撼させる興味深い大事件が起きた。『赤穂浪士討ち入り事件』である。赤穂藩の旧臣、つまり『主君を失った浪人』の47名の武士が、主君の敵討ちをしたのだ。この手の話は世界規模の視点から見たとき、人の心を強く打つ。復讐は真理ではないが、命を捨てて忠義を尽くす男たちの話は、世界規格として通用し、人間の矜持をくすぐるのである。
だが、この話はその討ち入りをした浪人たちとは違い、『途中で逃げた』という汚名を着せられた人物が主人公。討ち入りに参加しなかった者は実は更に大勢いたのだが、主要メンバーであった彼がいなくなることは遺憾である。では、彼はなぜ逃げたのか。そこにどんな理由があったのか。これは、女性である母に見せたら『わかりづらい』と言っていたが、とんでもない。真に忠誠を誓った人間の人生を想像する力が必要である。
『最高の人生のつくり方』
人生を器用に生きている人ほど、『成功者』という人間が決めた地位にたどり着きやすい。だが、金の所有と知性は足並みをそろえて進むわけではない。象られた地点にたどり着いたとしても、それがつまり人生の最高到達地点に到着したことにはならない。では、どうすればいいのか。それは、自分の身の周りを見渡すことである。そこに一つでも不幸の種があるなら、それはおそらく、自分が蒔いた種だ。
『最高の人生のはじめ方』
人間の人格が歪む原因は、その人が立てた人生の計画にある。つまり、最初から人生が自分の思い通りにならないと悟っていたなら、たとえ両手足をのこぎりで切断されても、人は動じない。それはブッダが教える境地である。だが、往々にして人はブッダではない。だからため息を多くつくし、そのたびに自分の命の灯が弱くなってしまうことを実感する。
では、その火はもう二度と元に戻らないのだろうか。いや、人生何が起こるか分からない。
『桜田門外ノ変』
1860年、桜田門外の変は起きた。それは1853年にペリーが黒船でこの国に来航し、開国を強引に要求してから7年後のことだった。井伊直弼は、多くの尊王攘夷反対者の意志を無視して、これを受け入れた。そして、吉田松陰や橋本佐内といった重要人物を処刑し、尊王攘夷派に火をつけてしまった。だが、彼らはとてつもない覚悟をもってこの革命に挑んだ。ほとんどテロリズムであり、実際に彼らはテロリストとして扱われた。犯人たちはその後一体どうなったのか。歴史の教科書には出てこない、彼らの信念と覚悟、そしてその後を描いた、重大事件の真相を見よ。
『シークレット・パーティー』
これは内容的にも時間的にもB級的な内容なのだが、キアヌリーブスという役者の存在で、それを食い止めている。彼の場合ニコラスケイジのようにそれっぽい作品にもいくつか出ているのだが、まだそこまでは落ちていない印象だ。ニコラスケイジがまた『ナショナル・トレジャー』のような作品で映画館の主役になる日はイメージできないが、キアヌリーブスなら『マトリックス』でも『ジョン・ウィック』でもそれができる。
彼の映画『ノック・ノック』と近い内容で、キアヌリーブスが持つ爽やかで誠実なイメージとかけ離れるから、人々の評価は低い。だが私は経験が人一倍多いので、だからという理由だけで人を嫌いになるということはない。
例えばヒカキンがAPEXで暴言を吐いたからといって、文句を言って炎上させるような人々とは違う。人間なんだからそういうことはあるし、FPSゲームをやっている人なら誰でも彼の気持ちはわかることだ。彼以上にスポットライトを当てて問題視しなければならないユーザーがいて、その人間が問題の原因なのに、皆はそれをわかっていない。
もちろん、『子供も好きなヒカキンだから』という責任のこともあるだろう。NHKがその権威を守る為規制を厳しくするように、彼もそれだけ幅広い層に受け入れられるようになったということだ。だが、その代償にある種の自由を奪われるのはかわいそうな話である。
例えば俳優の調査をしていると、例えばシャーリーズセロンの場合はこういう記述を見る。
1996年に『2 days トゥー・デイズ』で映画デビュー。この作品で一躍知られるようになるが、「セクシーなブロンド役」ばかりのオファーが寄せられた
またアンハサウェイならこうだ。
2004年には『プリティ・プリンセス』の続編が公開され、9500万ドルのヒットとなる。これにより人気女優となったが、プリンセスのイメージが定着し、理想の役が得られずに低迷する。
このように、彼らの職業というのは『幅の広さ』を求められる場合がある。同じような役しかできない場合、例えばある年齢を超えたらもう他の人に回ってしまうとか、様々な理由があるのだ。
例えばキアヌリーブスはもう『マイ・プライベート・アイダホ』のような役割はできない。子役はもちろん、子供の役はできない。それであれば、模索はしなければならない。演技の幅を広げる為に、様々な役に挑戦しなければならない。映画を評価する時は、まずそういう裏事情もある程度想像しながらにするべきだ。
この映画で描かれるコールガールというは日本で言うとデリヘルなわけだが、その仕事も、そこで働く人の神経も分からないという『一般常識』を持った、ヒカキンの暴言に文句を言うような人はもちろん大勢いるだろう。
だが、いる。
彼女らのような人々はたしかに存在しているし、彼女らは彼女らなりに、答えのない人生をさまよう、遭難者なのだ。普通、遭難している者に冷たい視線は向けない。ここまで考えた上でこの映画を観ると、いささかただのB級映画には見えてこない。
『シークレット・ロード』
ロビンウィリアムズが命を絶った2014年、
- シークレット・ロード
- 余命90分の男
- ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密
の3本が『ロビンウィリアムズ最後の映画』といううたい文句をうたっている。その中で、やはり彼の最期に相応しいのは『ナイトミュージアム』だろう。そうであってほしいという視聴者の願いが聞こえる。
残りの2作は、どこか彼らしくない。それは勝手な思い込みなのかもしれないが、名作が並ぶ彼の代表作の中で、短い映画だとしてもこの映画はなぜ彼が出ているのかが疑問となる作品だ。物語の内容よりそれが気になってしまうことになる。
『SHAME -シェイム-』
衝撃の問題作というのはこういうものだ。日本では映画倫理委員会 (映倫) が多数の箇所に修正を入れない限り区分適用外、すなわち上映不許可とする判断を示した。
これが★3をつけられているのは、これが『R200』だからなのだ。例えば母や祖母が★をつけるとなれば★3どころか1になる。ただ年を取ればいいということではない。勉強しなければならない。
まず、麻薬、アルコール、ギャンブル、衝動買いらと同じように依存症がある。例えば、彼を否定するならタイガー・ウッズを否定することになる。彼のゴルフの偉業だけに目を向け、実態は見て見ぬふりをするか。しないなら世の中を幅広く見る目と覚悟がある証拠になる。
更に、ナポレオン・ヒルの『成功哲学』にはこうある。
性衝動を他の創造的なエネルギーに転換する方法を知っている人は幸せです。ナポレオン・ヒル博士は、成功者の研究によって、次のことを明記しています。
1.偉大な成功を収めた人は、強い性欲の持ち主であった。なおかつ、その性衝動うまく転換する技術を自らの経験で学んだ人でもある。
2.莫大な財産を築いた人や文学、産業、芸術、あるいは専門分野で名を成した人々は 何らかの形で女性の影響を受けた人々である。
・・あるいはキリスト教の『罪』という言葉をを紐解くと、『的を外す』という言葉にたどり着く(『罪』という言葉は、過ちを意味するラテン語の『peccatum』の訳語である。これは、聖書のギリシャ語『hamartia』の訳語である。これは不足や誤りを意味するが、元々はヘブライ語の『hatta’t』の訳語である。これを忠実に訳すと『的を外す』となる)。『罪を犯す』とは『的を取り違える』、『自分の欲望を間違った方向に持っていくこと』である。我々人間は、このような試練を課せられ、どう生き貫くのかを求められる。
・・ここまで考えた時、『性欲』についてどういう発想が頭に浮かぶだろうか。シェイム(恥)?大勢がこの映画を低く評価したように、『常識』に支配され、そこに『滑稽さ』を覚える?キリスト教の話をしたから、『自分はキリスト教徒ではない』と目を反らす?悪いが、私も無宗教だ。考えさせられる映画が、いい映画だ。だがこの映画は、子供が理解できる映画ではない。
『R200』。人の年齢が100あるかどうかだ。だが、精神年齢は過去の賢人たちの知恵を得れば、引き上げることができる。
『ジェーン』
実はアメリカ人なら女性でも西部劇が好きな人が多いという。シャーリーズ・セロンもそうだ。そして、今回制作に携わったナタリー・ポートマンもそうらしい。日本人が世界に誇る武士の存在をどこかで誇りに思っているように、アメリカ人にとって西部のカウボーイはアイデンティティ。もちろんそれは、迫害された先住民たちの命の上に乗ったプライドだが。
『ジェーン・エア』
私はあまりこのような方向の作品は苦手だ。貴族の恋愛とか、そういう系はだめだ。だが、この映画は『最後まで』見ると、中々見応えがあって、結末に結構な衝撃があって、面白かった。原作者のシャーロット・ブロンテは、私が内省した500人の偉人の中に含まれる人物だったから、彼女の言葉、名言については向き合ったことがあるが、この『ジェーン・エア』が彼女の代表作だという。さすが、ということか。
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』
人間はまず常識という蔓延した枠組みの中にあるいくつかのレールに乗って人生を設計し、航海する。だが、人間本来に植え付けられているモチベーションというものは、実は人為的に後付けされたそれら常識の枠の中には収まらない。いわゆる『モチベーション3.0』である。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
人間は生まれながらにして自由ではなく、自由になっていくのだということを主張している点で、ソクラテス、ブッダ、イエスは一致している。人間は無知から脱却することによって、真実と虚偽、善と悪、正義と不正を区別することを学ぶことによって自由になる。自らを知り、自制心を持ち、分別を持って振る舞うことを学ぶことによって自由になる
ルソーは言った。
『私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。』
『ジェミニマン』
まず最初に世界一の腕を持つスナイパーとしてウィル・スミス演じるヘンリー・ブローガンが登場する。多くの映画を観ている側からすると、ウィル・スミスやこの手のシナリオに期待されているある種のエンターテインメント性は、おそらく不十分だと考えていて、見るのは後回しになっていた。だが、多くの映画を観ていたからこそ、この映画のテーマの『軸』の話がわかっていて、奥行きがわかり、考えさせられる映画であることを知った。この話は『マン・ダウン 戦士の約束』と共に見るべき映画である。
『ジゴロ・イン・ニューヨーク』
ウディ・アレンの映画というのは好き嫌いが分かれる。とりわけ、日本人との相性はあまりよくないのかもしれない。例えば経済紙や専門家のれっきとした本を読んでいると、さらっと内容に『日本人は離婚したら失敗者という烙印を押される。でもアメリカは違う。離婚したら次を考えればいいと考える』と出てくる。確かに、ドラッグ一つやっただけで日本はもう完全に冷たい目で見られることになる。だがそのたびにアメリカの生活を知っている人たちからすれば、
(ちょっと厳しすぎじゃない?)
という感想を抱くことになる。確かに、映画を観ていても母親がドラッグ中毒者というケースをよく見かけて、中にはそれで死んでしまったという話も出てくる。日本はそうした事態を未然に防ぐために予防線を張っているのであり、いささかどちらが正解とも断言できそうもない。自由を追求した結果が銃の所持や少量の麻薬の私的な使用だ。国民皆保険がないから医療費が未払いで自己破産になる確率は高くても、ギチギチに固められた人生を送るよりはいい。自己責任のリズムを得るためにも、そうした自由とその代償は必要だ。そういうアメリカ人の主張も、一刀両断はできない。
性についても考え方は違う。日本であまりジゴロが活躍している様子は見受けられない。例えば万人受けのテレビ番組にはそういう人はピックアップされない。出てきても誰かがそれを批判して出づらくし、表に出てくることはできない。
ただし、とある性器やED・あるいは性的な事実を調査した専門書には『日本人はSEXに対して満足度が低い』というデータが記載してある。そう考えると、我々『奥ゆかしい』日本人は我々なりに美徳を持ち、世界に誇る生き方をしているが、根底のところではウディ・アレンが描くようなテーマについて、興味津々なのかもしれない。
『ジャージー・ボーイズ』
彼らの音楽を少しでも知っている人なら、心躍りながらこの映画を楽しむことができるだろう。特に有名なのが『Can’t Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる)』だが、世代ではない私も意外なほどに十分音楽と作品を楽しめたのが印象的だ。
『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』
1963年、ケネディ大統領は暗殺された。日本ではなじみはないかもしれないが、当時のアメリカでは彼も彼の妻のジャクリーン・ケネディこと『ジャッキー』もとても有名で、あの頃の彼女の心境が観れるとなれば、大勢の人が興味を抱くのである。あの時、ホワイトハウスと最も近い存在であった彼の家族は一体どういう心境だったのか。
『ジャッジ 裁かれる判事』
大物俳優のロバート・ダウニー・Jrとロバート・デュヴァルがついに親子を演じたというから、同じ『ロバート』と名が付くので実の親子共演かと思ったら、よく考えたら向こうでは名前が先にくるので、名字は同じではなかった。しかし、大物タレントが共演したという事実は間違いないことである。特にデュヴァルの真に迫った演技がすごい。年老いたら年老いたでこういう演技ができるようになり、これは若者にはできない。そういう声が聞こえてきそうである。事実彼はこの映画でアカデミー賞助演男優賞に選ばれたようだ。
父親が裁判官。息子が弁護士。両方とも信念を持って、有能であればあるほど、それは推進力があるということだ。アインシュタインは言った。
『信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。』
その言葉通り、彼らの間には確執が起きていた。だが、いざとなればどうだ。例えば、そんな父親がボケる。あるいは、重病を負う、投獄される、またあるいは、過失致死を犯せばどうだ。男親子の意固地な間柄を柔らかくほぐすのは女性だ。だが、そんな妻であり、母はもうこの世にいない。男の絆が試される。D・H・ローレンスが言ったように、
『子どもを父や母に結びつけていた絆は、決して切れることはないけれども、それはゆるむのである。』
緩んでしまった家族の絆が、試される。
『ジャッジ・ドレッド』
西暦2139年。核戦争後の人類に残された「メガシティ・ワン」は、秩序が乱れた犯罪都市と化していた。そこで政府は街の秩序を立て直すために究極の法システムを導入する。それは「ジャッジ」といわれるエリート集団である。彼らは逮捕した犯罪者をその場で裁判、判決、刑執行を行える権限を持っていた。その集団の頂点に立つ男が、人々から恐れられている「ジャッジ・ドレッド」であった。
この説明を今改めて確認すると、クリスチャンベールの『リベリオン』とそっくりなのだが、あの作品ほどの衝撃はなかった。全く同じシナリオなのに印象が劇的に違う理由は、恐らくこの映画で主人公が『妙に格好つけている』からだろう。『エクスペンダブルズ』に出るような消耗品キャラクターたちは、『あの時代、俺達はそうやって生きてきた』という主張が込められている。
だから、時代的にこれが普通のことだったのだろう。スタローンが目立って格好いいことが軸になっているから、一種のヒーローもののようになってしまい、それがどこかB級的な流れを生んでしまう。
『リベリオン』が凄いのは、恐らく製作陣も全員無意識で、偶然ひっかけてしまったのだが、『圧倒的な外圧』と『7つの習慣』でも有名な『インサイド・アウト』(自分の環境は自分で作る発想)が、人間にどれだけ必要なのかという人間にとって極めて重要な人生哲学に触れていることだ。
『シュガーラッシュ』
前作『シュガーラッシュ』と併せて観たい。10年以上、SEOやインターネットと真剣に向き合ってきたからこそ、この作品の細部にある様々な要素が光って見える。そして登場する歴代のディズニーヒロインたち。これは、大人にも子供にも、とっても贅沢な映画だ。
『ジュディ 虹の彼方に』
1939年の『オズの魔法使』スターになったジュディ・ガーランド。しかし、彼女は金欠、薬物依存、そして鬱病にも似た神経症に悩まされていた。子供はいるが、離婚の数も多い。スター時代が第二の人生なら、これは彼女の第三の人生だ。『ラチェット効果』とは、一度上がった水準を下げると不幸を覚える人間心理である。彼女はそのラチェットのせいで苦しんだのか。それとも、他に何か理由があるのか。
非合理的であり、冷静ではない。どう考えても身勝手で、称賛できない。単純な言い方をすれば、扱いづらくて邪魔な存在である。では、一体誰がそう言うのか。一体誰の人生が模範的なのか。ニーチェは言った。
『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』
彼女は生きた。その事実を笑える人間は、存在しない。
『ジョジョ・ラビット』
この映画の登場人物は、『ジョジョ、ヒトラー、妄想ヒトラー、母親、ナチス、ユダヤ人』など、様々である。では、『ジョジョラビット』とはいったい何のことだろうか。それがこの話の重要なキーワードとなる。そう。もし彼がジョジョラビットじゃなければ、この物語は完成しなかったのだ。作品の中で彼の母親は、『愛は見えないが、最強の力だ』という話をする。これは、ヒトラーという『ドイツの救世主』であったはずのヒーローに洗脳された子供が、その洗脳から目を覚ますために通った道のりの物語である。
この映画の主人公はジョジョだ。だが、この映画の中心にあるのは、一体何だろうか。それはきっと、この世で一番尊い存在である。
『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』
この作品の評価があまり高くなく、タイトルに「第一章」と冠している理由は原作の第4部の長さが2時間の尺では収まらないことがあり、第一章は1本で楽しめるようにしたいが、客の応援次第で第4部をすべてやっていきたいからだったそうで、続編がなさそうな気配があるが、私は第4部を観ていないので、全然普通に楽しめた。私は第3部で止めているのだ。いずれ全部観るつもりなのである。
そんなジョジョ好きの私からしても別に文句はなかった。細部が違うのかもしれないが、あまり変なところは見受けられない。ただ、たしかに山崎賢人では上品すぎるため、もっとワイルドさが似合う人間の方が良さそうではある。ルックスもそろえるなら日本人なら小栗旬やその辺りになるだろうか。
『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』
私は映画から常に教訓を得ようとして真剣に観ている。だから、最初からパロディだとか、そういう内容のなさそうな映画は観ないことにしている。それをするなら本を読んだ方がいい。だが、ごくたまに観るときもある。するとやっぱり、面白い。つい声を出して笑ってしまう。真剣に観て、笑う場面であっても何かを得ようとする私が、ただただ笑ってしまうのであった。
『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』
監督のグザヴィエ・ドランという人物は、説明がないが『わたしはロランス』、『トムアットザファーム』や今回のように、性別不合について描いた作品と常に密接している。『ある少年の告白』は監督ではないが、役者として出演している。性別不合を差別するつもりはないし、人としてするべきではない感じも、風潮も、両方ある。だが、彼の映画には抵抗を覚えるのが本音である。
それはなぜだろうか。『強引な正当化』に反応しているのか。『ロマンチックな男性同士の恋愛』に、抵抗してしまっているのか。私のような人間はもう、死んだ方がいいのか。新しい時代を生きる人々は、性別不合を完全に受け入れて、人間の世界はこれから先、もっともっと変化していくのだろうか。それは、『進化』なのだろうか。
『ジョン・ウィックシリーズ』
最強の殺し屋だったジョン・ウィックは、その家業を引退したつもりだった。だが、闘わなければならなくなった。最愛の人との思い出を踏みにじられたからだ。そして、たった一人で敵地に乗り込んだ。
キアヌ・リーヴスが圧倒的な強さで爽快なアクションをこなしていくのだが、高身長だからか、キャラクターの設定からかは分からないが、どこかアクションを面倒にこなしている。常に悲しげな顔をしているので、見ている側の心境が定まらない。これを、ジェイソン・ボーンやジェイソン・ステイサムが演じたらもっと楽しくなるという印象だ。
『ジョン・ウィック:パラベラム』
殺し屋たちが集う「コンチネンタル・ホテル」でルール違反の殺しを犯したジョン・ウィックは、暗殺者の立場から一転、暗殺集団から狙われる立場に陥ってしまう。1,2と圧倒的な強さで敵をなぎ倒してきた彼だが、今回ばかりは相手が悪い。何しろ、街中の人々が彼を狙う標的であり、黒幕である大ボスには会ったことも見たこともない。その大元を潰さない限り、この暗殺の間の手からは抜けられないのである。果たして、ジョン・ウィックはどういう選択肢を取るのか。
ただこの『パラベラム』でやってしまった『外国人忍者の日本語』で、この作品のレベルが垣間見れてしまった。あのカタコトで日本を演じてしまうのは、残念である。細部までクオリティをこだわっていない証拠だ。
だがこの後、映画関係者から『あれはわざとで役者さんは実は日本語がペラペラです』と助言をいただいた。あえてカタコトにしたということらしい。
『シン・シティ 復讐の女神』
この映画の映像は普通のカラーでも白黒でもなく、アメコミの色使いが意識されているような、そういう不思議な世界観で演出されている。だから長い時間が経つと、ストーリーよりもそういう色使いの映像だけが頭に焼き付いているという、そういう映画である。
『シンクロナイズドモンスター』
この作品があまりにもぶっ飛んでいるから、ジャンル分けで『ぶっ飛び』と作り、例えば他の例として『マルコヴィッチの穴』などを入れて分けようとしていたのだが、今調べながら書いていると、実際にアン・ハサウェイはジャンルの型にはまらない脚本に引きつけられ、『マルコヴィッチの穴』と比較しながら読み込んでいったという。
また、『ゴジラ』や『大日本人』の影響を受けていて、監督は松本人志の大ファンだという。したがって、ほぼ実際には実現しないであろう
アンハサウェイと松本人志のコラボ
が間接的に実現しているという、貴重な映画である。
『幸せの教室』
この映画を観た時に書いた感想は、『興奮する時に出るドーパミンではなく、心が安心した時に出るセロトニンが脳内に出た』というものだった。私はこの手の映画を率先して観ない方なのだが、観てよかった。
『死の谷間』
時間も90分だしちょうどいいスリリングな展開だ。考えさせられるが、そこまで深くはない。だが実際にはメタファーに旧約聖書的なエッセンスが込められているなど、奥深さもある。奥深くて分かりやすいというのが、世でヒットするために必要な条件である。そのレベルは最高級ではなくても、映画、エンタメとしてこれだけの要素があれば十分だ。
『死を処方する男 ジャック・ケヴォーキアンの真実』
アルパチーノが演じたこのジャック・ケヴォーキアン(Jack Kevorkian, 1928年5月26日 – 2011年6月3日)という医師は末期病患者の積極的安楽死の肯定者で、自作の自殺装置を使った自殺幇助活動にちなんで「死の医師(ドクター・デス、Dr. Death)」と呼ばれた。
日本でなじみのある男は『ドクターキリコ』だ。私は幼い頃からドクターキリコを見ていていつもどこか腑に落ちなかった。漫画ではブラックジャックに視点を合わせるから、それと対極にいるキリコのことは、確かに『悪党』とか敵キャラのように映った。幼いからその正体はつかめない。だが、何かが引っ掛かる。そういう感覚を残すようなキャラクターだった。
中学生、高校生の年へと私は成長していく。17歳の時肝臓がんで父を亡くし、そして20歳を超え、起業をしたり、統合失調症の叔父が死んだり、言語障害と内面に問題のある従業員と向き合ったり、私としては500人の偉人の8000の言葉、歴史、哲学、宗教、神話を学び、3000本の映画を観る。
また、29歳で尊厳死を選び世界の人々を葛藤させた、ブリタニー・メイナードの言葉を、私は忘れない。
『この世界は美しい場所です。旅は、私にとって最も偉大な教師でした。最も偉大な支援者は、近しい友人や仲間たちです。こうしてメッセージを書く間にも、私のベッドのそばで応援してくれています。さようなら、世界。良いエネルギーを広めてください。次へつなげましょう。』
彼女は尊厳死を選ばず延命措置をしていたなら、このようなメッセージはこの世に存在したいなかったかもしれない。彼女は痛くて辛くて、仕方がなかった。これ以上生きるなら、もう自分を維持できる自信がないとして、死を選んだのだ。
問題なのは、『こっそりと死ななかったこと』だと言う人もいる。ふざけるんじゃあない。あんたが死を選択したことで、生きることを諦めてしまう人が出たら、責任は取れるのか。そういう怒りを覚えるのだ。
わずかに感じるヒロイズム的なナルシズムを嫌ったのだろう。なぜいちいち自分の不幸と死をひけらかす必要があるんだ。死ぬのならこっそりと死ねばいい。そしたら誰も止めないし、影響の範囲もわずかしかない。人に通知する以上、そこにはある種のヒロイズム、つまり『英雄視されたい願望』があり、それに酔いしれるのはナルシズムだ。
そういう意見もある。確かにそれもその通りだ。では、視点を変えてみよう。
戦場で人が死ぬとき、例えば『プライベート・ライアン』で見れるように、仲間が撃たれ、モルヒネを打って凌ぐも、もうモルヒネも効かない。『もう一度打ってくれ』と言われた時、言われた側は、『死の外科医』になる。
では、あなたはモルヒネを打って安楽死させる?それとも、打たずに無視して、苦しませてから死なせる?そして、あなたはそれを人に話す?それとも話さず、戦争でなにがあったかを、一生闇に葬る?どの選択肢が彼の為になる?どの選択肢が世界の為になる?どの選択肢が悔いのない人生に繋がっているだろうか。
『終戦のエンペラー』
日本人として見ておきたい、終戦のときの天皇とその周りにいる人間たちの対応。
『十三人の刺客』
本当に強い人間とはどんな人間なのか。圧倒的な権力を持つ人間か。ものすごく剣の腕が立つ人間か。それとも、すぐに引き金を引ける人間か。この映画でその答えがハッキリすることになるだろう。
『純粋の時代』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1398年の李氏朝鮮(1392-1897年)。李氏朝鮮の初代国王李成桂(りせいけい)の長男である、太宗(テジョン、たいそう、本名李芳遠(イ・バンウォン、り・ほうえん)』彼が三代国王を務めた時代である。李氏朝鮮が建国された7年が経つその頃、朝鮮は世継ぎ問題でいざこざを起こしていた。
ただ、物語しょっぱなから登場するのはとある男女だ。この二人が物語を大きく混乱させていく。いや、この二人こそがこの物語の主人公だ。見たところ、(おいおい、韓国映画は結構エグってくるな)という感想を抱く。退屈しそうな時代劇に、それを予想した『対策』がいくつも張り巡らされているため、そんな彼らの『波乱に満ちた純粋な愛』の物語を見ながら、当時の朝鮮時代のイメージを想像する。
『女王陛下のお気に入り』
1702年4月23日 – 1707年4月30日の間イングランドの女王として君臨したのがこの『アン女王』だ。下に画像を載せるが、主演を務めたオリヴィア・コールマンが彼女にとてもよく似ているので、選ばれた理由がよくわかる。もちろんそれだけで映画の主演は決まらないだろう。演技力も含めた様々な努力の結果だ。しかしよく似ている。
イギリスの歴史としても貴重だ。この時英国はスペイン継承戦争でハプスブルク家(オーストリア)側に付き、フランス王国との戦争の渦中にあった。フランスの時の国王はルイ14世である。映画としては『仮面の男』の時代だ。ルイ13世の時代にはダルタニャンの『三銃士』が。しかし、人徳のあるルイ13世とは違って、同じく『太陽王』などと輝かしい評価を受けておりながら、実際には国費の散財など、目に余る浪費もあった。そこで展開されるのが『仮面の男』のようなワンシーンなのである。あのフランスの歴史的建造物『ヴェルサイユ宮殿』もこのルイ14世の時の『浪費の一つ』として作られたのだから、複雑な話である。
では、アン女王はどうか。この時代の世界の二大巨頭のもう一つのイングランドのトップは、病気だった。そして、あまりにも波乱に満ちた生活を送った。それだけで全ての女性は彼女に共感するだろう。いや彼女の場合、その『女性の共感』の範囲内にも収まらない、衝撃的な人生を送っていた。女王云々とは別のところでである。
それゆえ、ルイ14世と同じように、ある種の『歪み』が生じていた。一体、何が起きていたのだろうか。
『少女が大人に変わる夏』
wikipediaにも説明ページがない作品だが、エリザベスオルセンの華が目立つので、彼女を売り出すには十分の作品だっただろう。ダコタファニングはすでに知名度が十分あった。
だがダコタファニングは妹のエルファニングに比べ、美女路線から外れていってしまう。皮肉なものだが、容姿がすべてを決めるので、だからこそメグライアンやニコールキッドマンのように、大女優として一世風靡したような俳優が、堂々と整形の道を選んでしまうのだ。
誰もが友情か、恋愛かを天秤にかけ、特に女性の場合は嫉妬に狂って自分を見失い、愚かな行動に出てしまう時期がある。その意味で、多くの女性が共感できるのではないだろうか。
『尚衣院-サンイウォン-』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1750年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は16代国王英祖(ヨンジョ、えいそ、1694年10月31日 – 1776年4月22日)である。映画を包括的に考えればわかるのだが、数ある朝鮮時代を描いた韓国映画で、時代が重なる映画というのはほとんどない。ほとんどが違う時代を描いている。それはつまり、製作者側が、
『うーん、この時代はもう描いたよな、そんで、こういう展開だろ、こうして復讐で・・』
という話し合いをしている可能性があるのである。実際には知らないが、そうあってもおかしくはない。その証拠に、
- 各映画で時代が重ならない
- 各映画で展開が違う(異なった色を持っている)
という共通点があるのだ。それぞれを潰し合わないように、また朝鮮時代の歴史を一つ一つ埋めていくように、差別化を図りながら、ニッチを埋めながら、かつ興行的に成功できるように計算されている気がするのである。
要は、各王の時代の何を切り取るかがポイントで、王がやること、王宮で行われることというのは大体同じだ。その決まり切ったルーチンワークに焦点を合わせるか、それとも、その時代特有の文化や習慣、事件や出来事などにスポットライトを当て、差別化を図りながら、間接的に当時の時代を描いて歴史を埋めていくか、と考えた場合、もちろん後者にするべきだと即断するはずだ。
今回の場合は『衣服』だ。当時の衣服を担当した人間の中には、もちろん王や王妃といった最上級の人間の衣服を扱う者もいた。では、そんな人物から見た王宮の実態とは。
『人生スイッチ』
芥川龍之介は言った。
『運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。』
我々の前に無限に広がる選択肢は、あみだくじならぬ、さしずめ『あみだ道』。さて、明日はどの道を選ぶ?
『人生の特等席』
こうして考えてみると、私は『粋』な人間の心意気に心を奪われることが多い様だ。『粋』とは、表層的に、誤解されている。誤解されてでも頑なに守るものがあるからだ。
『人生はシネマティック!』
1940年のロンドン。ちょうどその時、ドイツ軍がフランスに攻め入る『ダンケルクの戦い』が勃発していた。したがって、クリストファーノーランの映画『ダンケルク』と合わせて観ると舞台背景がより見えてくるだろう。プロパガンダ映画、つまりイギリス政府が映画によってダメージを負ったイギリスの士気を上げる為に、映画製作を始めるという物語だ。
『チャンスをものにしないことは、死に生を支配される証だ』
非常に重みのある言葉を見ることができた。
『白い帽子の女』
この映画はアンジェリーナ・ジョリーが監督・脚本ほか、当時夫だったブラッド・ピットと共に製作・主演も務めていることもあり、内容と実生活を妙に重ねて見てしまい、意味ありげな感じになっている。また、『白い帽子』を被った女を見つけることが難しく、内容も『徐々に真相が明かされていく謎解き式』に近い感じの為、視聴者は混乱していってしまう(よくわからないな)という感想を抱いてしまう。
※ここからはネタバレ風の考察だ。
実は彼女の帽子は黒や豹がメイン。白もあるが、他にも帽子がある。それなのになぜこのタイトルなのかを考えたい。それは恐らく『そうなってしまう前(黒い帽子を被る前)』の彼女に目を向かせるためではないだろうか。普通人の心は、色で表せる。子供はなぜカラフルな色を好むか。感情が豊かだからだ。黒い帽子を好むようになった彼女にも、白い帽子を好む時期があった。
では一体、なぜ彼女はそうなってしまったのか。そんなことを想像しながら、最後まで彼らの気持ちを想像して、ゆっくり見届けたい。これは、大人の映画だ。
『白雪姫と鏡の女王』
『アリス・イン・ワンダーランド』が2010年にあり、ディズニーの実写映画が高いクオリティで展開できることを世界が知った。そしてその2年後の2012年、この映画が上映される。だが同じ年に『スノーホワイト』というシャーリーズセロンの映画があった。私は映画館で後者を観てしまった。
後者の方がシリアスで、真面目に描いてくれているような気がして、CMでは、この映画が少しコミカルに描かれていたので、『アリス』で感動した私は、ディズニーの実写映画はもうおふざけなしの、ガチ展開をしてほしいと願っていた。
だが実際には、この映画もその映画もほとんど変わらないと言えるだろう。同じような出来で、アリスはおろか、この2年後の2014年に上映された『マレフィセント』の足元にも及ばない出来となった。
やはり同じタイトルの映画が被ったこと、そしてその他のディズニーの実写映画がガチだったことに対し、本気度が伝わってこなかったことが関係しているだろう。『アナ雪』も、ディズニーのアニメ映画で大人になって初めて映画館で観ようと思ったのはあの心に響くエルサの歌声があったからだ。あの歌声からは、覚悟が伝わってきた。観れば、やはりあの歌は彼女が自分の人生を生きる覚悟を燃やした歌だった。覚悟は伝わるものである。
『地獄の中の戦場 -ワルシャワ蜂起1944-』
通常の『ワルシャワ蜂起』とは、1944年の第二次世界大戦後期、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起である。ソ連の援軍が到着したことにより、ポーランドのレジスタンスと合流し、ナチスを追い払う。当時、『ソ連軍が来る』というのは一つのキーワードで、彼らが到着したら地獄のようなナチスのの支配生活から解放されることを意味していた。
だが、今回の場合は違った。『ワルシャワ蜂起』の戦争に勝ったのはドイツ側だった。どうもソ連の動きがおかしい。実はこのワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったという説すらある。
それから3年後の1947年、ポーランドには反動分子たちが森に潜み、繰り返し抵抗を続けていた。国は公安省に「反動分子を1人残らず消せ」と命を下す。一体どういうことなのか。この戦いの背景には一体どんな真実が隠されているのか。
『スーパーノヴァ 孤独な少女』
wikipediaにもなく、上映時間が短く、見たことがない俳優ということで、B級を覚悟して鑑賞。確かに、B級独特の『役に飲まれている俳優』がいて、その役をもっと上手に演じ切ってくれればいいと思うシーンはあるが、現代を生きる10代の女性の切実な悩みを描いていて、存在価値はありそうだ。アメリカということもあり、LGBTやドラッグ、パーティといった問題が出てくるが、それが日本人からすれば『ほどよい危険な経験』になっていて、観る人からすればなかなか壮絶なものになっている。何と言っても音楽が良い。『歌』が一つのキーワードなのだが、ぜひそれがどんなシーンでどういう風に登場するか見てみたい。
『バグダッド・スキャンダル』
元国連職員マイケル・スーサンが自身の体験をもとに執筆した小説「Backstabbing for Beginners」の映画化で、国連史上最悪の政治スキャンダルとされる、困窮するイラク国民を救うはずの夢の人道支援プログラム「石油食料交換プログラム」の裏で行われていた不正を描いた作品。アマプラで無料で観れるから、また、テオジェームズがそこまで有名な俳優じゃないということで完全に舐めていたが、これはとてつもなく莫大な人生のヒントが隠された映画だった。
この「石油食料交換プログラム」というのは1996年から開始され、2003年末頃終了した7年間累計で輸出640億ドル(当時の為替レートで7兆3600億円)輸入370億ドル(4兆2250億円)に至った交換プログラムである。このプログラムは、イラクが軍隊を再構築することなく、食品・医薬品その他のイラク市民にとって人道的に必要な物資と交換に、イラクが石油を輸出できるようにすることが目的であった。イラクの混沌を抑え、軍備ではなくもっと国民に直接利益があることにお金を使い、平和を作り上げる。そういう目的で用意されたお金が不正に扱われたのだ。
まず、このプログラムが終了してから、プログラムの資金に関する18億ドル(約2000億円)を超える汚職が明らかになった。更に、アメリカ合衆国政府会計局(GAO)による調査では、汚職の一部(フセイン大統領の取り分)だけでも推定101億ドルと、1兆円を超える汚職であった可能性が指摘されるも、国連は調査協力を拒否した為に全容不明である。
この話の何が教訓性が高いかというと、『エネルギーの集約』である。エネルギーを一つに集めて、そこから利益を得る。これが人間の人生にとっては非常に重要な要素となる。例えば、株式会社である。会社を上場させれば株を買ってもらいやすくなり、そうなると資金が集められる。資金が大量にあればビジネスを有利に始められる。そのビジネスで大きなシェアを確保すれば、その市場から利益を得られる。中途半端にやると、自分たちより大きなエネルギーを持った会社に飲み込まれたり、勝てない。
戦争も同じことである。銃が浸透する前、人々は剣や刀、弓矢等で戦っていた。だが、日本において大体明治維新あたりの時期にガトリング砲のようなものが登場。面白いことに、この時期を描いた映画にガトリング砲が登場するシーンが多い。すぐに、マシンガンや機銃を備えた軍艦、戦闘機や爆撃機が発明される。核爆弾はどうだ。ライト兄弟やアインシュタインら天才発明家や科学者の力が乱用された形になるが、あのノーベル賞のノーベルも、ダイナマイトの発明が乱用されたことで、自分の人生を呪ったという。
そのように集約され、あるいは膨張したり充填されたエネルギーは、自分たちより弱いエネルギーの人々を制圧するだけの力を持つ。それが達成されれば、そこで生み出されるエネルギーが自分たちのものになる。海産物、農産物、科学技術に、それらを生み出す工場や人材。かつて、フランスとイギリスが筆頭として世界に自国の植民地をいくつも従え、宗主国としてお金(エネルギー)を集め、繁栄したように、また、水面下で黒人を筆頭として奴隷(エネルギー)を集め、それを越権的に私用し、繁栄したように。この世界では、エネルギーをどれだけ集められるかということが大きなカギを握っているのだ。
この、『イラクを何とかして平和にしよう』として国連が集めたお金『約4兆~7兆円』は、国連史上最悪の政治スキャンダルと言われるだけあって、莫大な金額(エネルギー)である。そのうち、2000億円が乱用されたとか、フセインが1兆円も横領していたとか、そういう『誰の目にも悪徳で稚拙』と映る悪行はさておき、最も我々が目を向けるべきなのは、『これだけのエネルギーが集まった』という事実なのだ。
『ドラゴンボール』の元気玉は、孫悟空が筋斗雲に乗れるように、彼が純粋だからこそ成立する。つまり、集めた膨大なエネルギーを私的に乱用しないのだ。すべて、たった一つの目的の為に使われる。エネルギーを少しずつ集めた者は、そのエネルギーを約束通りの対象に使わなければならない。このバグダッドスキャンダルでは、それが行われなかったことが原因となった。
では、我々はどのようにエネルギーを集めるべきか。このことについては、学生時代すべてをつかって考えてもいいくらい、人生にとって重要なテーマだと言えるだろう。
『スターリンの葬送狂騒曲』
スターリンと毛沢東は、触れることがタブー視される傾向にある。だが、ヒトラーはどうだ。ドイツ人も含めて、その敷居は低い。誰もが『第二次世界大戦の諸悪の根源』と理解していて、それは『日独伊三国同盟』よりも明白に浮き彫りになっている。つまり、ムッソリーニや東条英機よりも、彼の方が暴君として有名である。
では前者の二人はどうなのか。同じように『暴君』ではないのか。それでは、なぜ彼らが現在も中国とロシアで未だに掲げられているのか。
監督のアーマンド・イアヌッチは言った。
「アドルフ・ヒトラーは毒です。ヒトラーは猛毒です。ドイツのどんなホテルでもヒトラーの肖像画は見かけませんが、私が宿泊したモスクワのホテルにはヨシフ・スターリンの肖像画が掲げてありました。彼は罰せられずにいます。私たちは彼を静かに覆い隠し、彼にそれほどの関心を抱いていないのです」
2017年9月、ロシア文化省の高官は「社会の隆起を引き起こしてロシアを不安定化させる西側の陰謀」の一部となる可能性があると主張し、ロシア当局がこの映画の上映禁止を検討していると述べた。作家・政治活動家のニコライ・スタリコフは、映画が「英国の知的階級による非友好的行為」であり「反ロシア情報戦争」の一部であることは明らかだと主張した。
これがその暴君をいじった代償たる反作用である。だがどうだ。それから5年後の2022年。ロシアがウクライナにやったことは。世界中から大バッシングを受け、一瞬の隙を見せれば世界から孤立して転落するロシアは、『最初から転落していた』のだ。それが浮き彫りになった。
つまり、この映画に対するロシアの反応は過剰であり、ユーモアの欠片もない。この映画に登場するほとんどが実在する人物であり、世界の人はこれで多くの事を学べる。一方、いじられた当人たちは過剰防衛するが、しかし、それが『過剰』であったということはウクライナの件を見れば一目瞭然だ。
我々は被害者(権利を持っているん)だ!
そういう主張がロシアの『一部』の前線にいる人間からにじみ出ている。ロシア兵士が罪のないウクライナ人にやったことはどんな言い訳をもってしても許されることではない。女性たちがどんな目に遭い、死んでいったか。ニュースで目にした人は大勢いる。彼らは一線を越えた越権的な暴君であり、『いじられた』だけで済んで感謝するべきである。
きっと、ロシアの『一部』の有識者たちは、そう言うことだろう。映画自体はおっさんばかりしかでない故一見すると地味だが、その攻めた角度然り、中々見応えがある作品である。
『スティーブ・ジョブズ』
スティーブ・ジョブズの映画はいくつかあるが、この映画が一番見ごたえがある。彼の全てを描いているわけではないかもしれないが、彼を知るとっかかりとしては十分な映画だ。
『スティーラーズ』
この映画は冗談ととらえるのが正解だが、あえて真面目に捉えると背筋が凍る話ばかりだ。もし自分の妻と幸せな生活を送っているとき、急にその妻の消息がわからなくなり、数年後、遠く離れたところで『痕跡』を見つけたらどうするだろうか…。
『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
ルイーザ・メイ・オルコットが1868年に発表した小説『若草物語』を原作としている。やはりそれだけ前に生まれて今なお名作としてたたえられているだけあって、それを描けばそれもまた名作となる。女性からの支持を多く集める映画だが、それだけ女性よりだと、逆に男性よりである。子供が生まれた時、それが娘であれば、そこに女性がいる。また、結婚したなら相手となる女性がいる。男は女と一緒にこの世界を生きているのだ。
だとしたら、『妊娠・出産・育児』に関する話もそうだが、女性専門のようなそういう話は、男も一緒に考えるべきである。したがって、『男性にこそ読んでほしい!』とか、『世の男は全員知るべき!』といった女性の声をよく聞くだろう。
その言い回しは私にとっては鬱陶しい。私は私で押しつけが嫌いだから、見るなら自分の意思で見るタイプだ。だが女性たちがそう言うのは理由があって、『それまでの間強いられた時間があった』からだ。邪険にされ、理解されなかった。だから共感できる内容に触れた時、(ようやく理解者が現れた!)と喜び、その感情が爆発して漏れる形で、そういう言い方になる。
この男女の差異を作ったのはもちろん人間だが、『世の男』や『世の女』というよりは、先人たちが作った風潮の方に原因があるだろう。
小学校では着替えも同じ部屋でしていたが、そのうちすぐに区別されるようになり、異性を意識するようになる。そこで壁ができるからそれを乗り越えたいという衝動が生まれ、恋愛が生まれたりするわけだが、子供のころは壁がないのに、『途中から生まれる』この人間世界の風潮が、男女の差異を強くしてしまっている。
だが、実際にこうした映画や、女性向けのような恋愛映画を真剣に見てみると、意外に男にも教訓性があって見応えがある。映画に女性ファンも大勢いるのは、女性が主人公の映画もたくさんあるから、というのが理由の一つだ。ぜひ映画を観て、公明正大で俯瞰的な視野を磨きたい。
『スノーデン』
30年前、今のようにインターネットが広がっている世界は当たり前ではなかった。PCが一家に一台あるわけではなく、当然、スマホも無かった。しかし今はある。そして、それが何を意味するか。そのことについて考えさせられる映画だ。私はこの映画を観た後、PCのカメラにシールを貼った。
『スノーピアサー』
2時間がっつり取り、天下のポン・ジュノ&ソン・ガンホコンビがいて、アベンジャーズのクリスエヴァンスがいながらこの出来では、そりゃあ評価は低くなるだろう。ほぼB級である。
悪役の親玉も、いくら俳優に威厳があっても怖さも狂気も中途半端であり、想像力があってもこの状況を受け入れることは難しい。色々な未来を想像しても、この未来を受け入れることは難しいだろう。小説の中ならよくても、映像化すると馬鹿馬鹿しくなる話の代表だろう。
『スノー・ロワイヤル』
リーアム・ニーソンのこの手のシリーズは結構はまり役が多いので、普通に暇つぶしには十分通用する。
- アンノウン
- 96時間/リベンジ
- フライト・ゲーム
- ラン・オールナイト
- トレイン・ミッション
などがそうだ。感想文として書く内容はそこまでないのだが、ヒットする映画というのはこういうものだったりする。人の心の奥底を大きく揺り動かす映画が、普遍的な映画というわけではないからだ。
『スパイ・レジェンド』
周りを見渡せば逆らえない人間関係やしがらみはある。その常識とも言える檻の中で生きる人にとっては、檻の外に生きる人が敵に見えることもある。だが、いざ檻の外へ出れば理解するのだ。鳥は本来自由であり、鳥かごにいるべきではないことを。
『スプリット』
スプリットとは、『分裂』という意味だ。精神分裂である。多重人格者というのか、人間の心がいくつもの人格に分裂して、ついには暴走してしまう。暴走した原因は、そもそも『分裂が許された』ことにある。しかし、許すも何も、自分の心の中には法律はないし、警察もいない。この映画を通して想像できるのは、『ブレーキを失った人間の末路』である。
『スプリング・ブレイカーズ』
青春というものは、客観的に見るとこうも危険なものなのか。私が10代の時もそうだったが、今、自分が生きていることが幸せなことなのだと再確認した。
『スペースウォーカー』
まずおさらいしよう。米ソで行われたこの星の『宇宙開発競争』はまずソ連の人工衛星『スプートニク1号』の打ち上げ成功から始まった。
- 1957年10月:ソ連、最初の人工衛星スプートニク1号
- 1961年4月:ソ連、宇宙に最初の人間ユーリ・ガガーリン
- 1961年5月:アメリカ、宇宙に最初のアメリカ人アラン・シェパード
- 1963年6月:ソ連、宇宙に最初の女性ワレンチナ・テレシコワ
- 1965年3月:ソ連、最初の宇宙遊泳アレクセイ・レオーノフ
- 1966年2月:アメリカ、最初の月着陸ルナ9号ロボット無人探査機
- 1968年12月:アメリカ、月の軌道に最初の人類アポロ8号宇宙飛行士たち
- 1969年7月:アメリカ、月に最初の人類アポロ11号飛行士ニール・アームストロングとバズ・オルドリン
※アポロ飛行計画の成功は、宇宙開発競争の終わりのはじまりとなった。
この映画は、太字であるアレクセイ・レオーノフの実話を、本人監修のもとに映画化した伝記ドラマである。
『スマート・チェイス』
美人女優を世界に売り出すために、オーランドブルームという世界的な役者を巻き込んで中国が力づくで作った、B級作品である。・・という評価が、結構的を射ているのではないだろうか。確かに美女だし、我が日本とて映画では世界にまだまだ通用していないので、文句は言えない。
中国は、なぜブルース・リーが世界規格なのか。『レッドクリフ』はなぜ名作なのか。日本は、なぜ黒澤映画が世界規格なのか。北野映画がなぜ多くを喜ばせるのか。ジブリ映画がなぜ世界の子供の心をつかむのか。
そういうことについて、熟考しなければならない。熟考してるとは思えない作品ばかりだ。どちらもガラパゴスで満足しているように見える。日本アカデミー賞などを作っている暇があれば、世界で勝負できるように基準を上げる時期に来ている。
『スマグラー おまえの未来を運べ』
『闇金ウシジマくん』の作者が描くだけあって、お金と人間について考えるにはうってつけの映画だ。しかも、ウシジマくんと違ってこの映画一つを観るだけでも教訓性がある。もちろん、借金をしてしまうような人間にこの映画を見せても、彼らはここで訴えられているテーマを見抜くことができなっかったのだが。
『スリー・ビルボード』
昔、敵討ちが認められていた時代があった。敵討ちでないなら殺人だと判断されたのだ。だが法律が変わった。そして1940年以降、寿命が延びる代わりに代償を払い、多くの現代人が病を患った。では、一体いつの時代の、何が正しいのか?
『スリーデイズ』
誰かが殺されたというわけではない。だが、とても大切な人が、無実の罪で理不尽な目に遭った。では、残された者は一体どういう行動を取ればいいだろうか。黙って見過ごすことで、その後の人生を清々しく生きていくことができるだろうか。
『水曜日のエミリア』
ナタリーポートマン目的で観た映画だが、面白そうでお洒落な気配がする割には、そういうことはない。例えば、そこまで期待していなかった『ブーリン家の姉妹』、『マイブラザー』、『クローサー』などは面白く、特に前者は大傑作だったが、このような感想で終わる映画もある。全体的に暗く、ニッチな映画なので、その対極にいる私には刺さらなかったのかもしれない。
私は男であり、不倫が嫌いで、彼女のような経験がない。執着も醜いと思っている人間だし、子供に何かを教えてもらうようなことはそう多くはなく、たいていの場合は自ら本を読んで学ぶことが多い。ということは、私の対極にいるような人にとっては、刺さる映画だ。
『素晴らしきかな、人生』
名作『素晴らしき哉、人生』と比べて、評価の低い映画だ。興行的にはウィル・スミス主演作品としては最低の記録となった作品になったようだが、それもそのはず、時間が90分と短いし、本腰感がない。本当に力を入れたものじゃなければ人々の気持ちを動かすことはできないのだ。例えば『インターステラー』は、まだ私が別にクリストファーノーランを何となくとしか評価してなく、宇宙もどうでもいいと思っていたし、マシューマコノヒーに対しても(誰やねんこいつ、何か I’m coming backの言い方も腹立つな・・)と思っていたほどだ。
だが、そういう私を圧倒させた。それがこの映画の実力である。ブラックホールを初めて可視化することに成功したこともさることながら、入念にシナリオを練りこみ、細部まで計算されて作りこんでいることがよくわかった。とんでもない映画に出会ってしまったと感じたものである。
それに比べ、これはその『素晴らしき哉、人生』との関連性もよくわからないし、時間は短い。主人公が誰かも明確ではない。大物が多いが、大物が多すぎて誰にフォーカスすればいいか分からないし、90分という時間ならたった一人に集中した方が感情移入する時間を稼げたはずだ。
だが、駄作というわけでもないだろう。彼と同じような状況にある人からすれば、彼の気持ちはよくわかるだろうし、得られるものがあるのではないだろうか。
『杉原千畝 スギハラチウネ』
1930年代末、第二次世界大戦がはじまるまさにその直前に、満州ではロシアと関東軍の小競り合いが行われていた。杉原千畝はスパイではなかったが、限りなくそれに近い立ち位置で荒れに荒れた戦争の時代を駆け巡った。関東軍の傲慢なやり方に不満を持った杉原はリトアニアに飛び、戦争の影響で独ソに分割されたポーランドからの難民・スパイと出会う。当時、彼のように国を追われた人は大勢いて、ユダヤ人たちはその代表的存在だった。
彼が『日本のシンドラー』と言われる理由は『シンドラーのリスト』を見れば分かることだ。人数だけで言うなら、彼はシンドラーよりも大勢のユダヤ人を救った。だが、それはシンドラー同様、命がけの行動であり、それに賛同した人もまた、命がけだった。
『セインツ -約束の果て-』
知名度も売り上げも低く、暗い雰囲気だからこの映画はそりゃあ万人には受け入れられない作品として埋もれていくだろうなあ、という感想が素直にまず頭に浮かぶ。だが、『あと一歩なのに・・』とすれ違う物語の展開は中々先が読めずに見応えがあり、気が付いたら終始このドラマを観続けている、そんな作品である。個人的にこの映画のルーニーマーラはとても美しく見える。
『セッション』
ミュージカル映画ではないが、音楽を嫌というほど見せつけられることになる。この映画を観て、音楽のことを悪く言うことができる人はいないだろう。むしろ、その圧倒的な存在感に、敬意を払いたくなる。多くの人が感激することだろう。圧巻のドラムをまざまざと見せつけられ、ただただ息をする間もなく圧倒されることになる。だが、これはある種の狂気だ。だが、それでいい。
アインシュタインは言った。
『結果というものにたどり着けるのは、偏執狂だけである。』
主役を演じたマイルズ・テラーはジャズドラマーを演じるため、2か月間、一日に3~4時間ジャズドラムの練習を続け、撮影で自ら演奏しており、作中の手からの出血は本人のものである。また、劇中で交通事故に遭ってしまうシーンがあるが、彼自身も2007年に命を落とす可能性もあった交通事故に遭っているという
『セデック・バレ 第一部 太陽旗、第二部 虹の橋』
二部形式で、計4時間半の大作。1930年、日本統治時代の台湾で起こった先住民セデック族による抗日蜂起事件である霧社事件を描く。台湾の映画で、外国が描く日本人ということで貴重な作品である。基本、自分たちの国を英雄に仕立て上げるのが相場だ。だから歴史映画を観る時は、それがどこの映画で、どれだけの国が関わっているかということなどをチェックする必要がある。例えば、抗日運動をしている間に作られた中国の映画では、日本が登場するならそれはもうかなり偏った内容となる。
もちろん、大日本帝国時代の日本が作る外国の様子もそうだ。だから歴史映画を観る時にその信憑性を図るためには、いくつかの条件をクリアしていなければならない。例えば『ラストエンペラー』や『MONGOL』などでは、中国の最後の皇帝、溥儀(ふぎ)、そしてチンギス・ハンが描かれているが、その映画に参加している国の数は多い。そういう世界の歴史的にも貴重な人物や時代を切り取るなら、公明正大な目線で真実に近い形で記録に残すべきだという『人々の使命感』が、人を集めるのである。
だが、今回のようにかなり狭い範囲の知名度の少ない歴史の場合で、台湾でのみ作られたなら美化・正当化を疑う必要がある。まずはそれが初期設定だ。偏ってはならない。
だが、吉本のキム兄が出演しているなど有名な日本人も関わっていることから、事実と違うところはあるようだが見た限り過度な正当化はなさそうだ。当時の日本は日清、日露と勝利して思い上がり、帝国を作るためにナチスと足並み揃えて世界の支配者を気取っていた。だから当時の日本人が多少暴力的でも全く偏りはないだろう。それは、『日本人は残酷』として批判されたアンジェリーナジョリーの『アンブロークン』の映画で描かれる日本人もそうだ。あのくらいのことなら平気でやっただろう。
観た印象、正直とても素晴らしい映画だった。大国に出会った小国や小民族が淘汰されて消えていくことは、1500年頃のコロンブスたちコンキスタドール(征服者)たちのやったことというハッキリとした時代もさることながら、歴史の闇に消えているような部分で、細かく、世界中で起こり続けていたこと。そしてそれは人間だけじゃなく、動物や昆虫、植物の世界でも全く同じことが起きている。
自然も大きく関わっている。
この画像は(CNN)のものだ。 クジラやイルカを含む鯨類は、5000万年ほど前は現在よりも小型の4本足の動物だった――。南米ペルーで出土した化石を調べていた国際研究チームが、2019年の生物学会誌にそんな研究結果を発表した。陸で暮らすことができなくなったので、海で暮らすようになり、長い年月を経てそこに特化した肉体に変化していった。こうした自然淘汰や生命のサバイバルは、宇宙からの俯瞰視点で考えた時、当然のように行われているのである。
だが、それを人間が『当然だ』と言った途端に道から逸れている印象を強く覚える。企業の世界ならギリギリ言えるだろう。『ファウンダー』というマクドナルドを世界企業にしたレイクロックは、『ライバル企業が溺れていたら、近づいて行って、ホースの水を口に突っ込み、溺死させことができなければ、経営者はできないる』と言っているが、それはシビアなビジネスの世界で息をする人々からすれば、よく知るところではないだろうか。
では、多様性はどうか。もし彼らが『妙な宗教』を盲信していたらどうか。それは『多様性の一つ』なのか。それが暴走して世界的なテロが起きても、それは『多様性の一つ』なのか。では、生き残ってシェアを広げているキリスト教、イスラム教は人間の代表的な考え方なのか。彼らのような小民族の一生を考える時、もちろんそこには宗教や思想も考える必要があるわけだが、様々なことが頭の中を駆け巡り、あっという間に時間が過ぎてしまう。
この世には、世界の波に押し負けて淘汰された人々がいる。彼らが正しいとは言えない。だが、生き残った人が正しいということでは決してない。一つだけ言えるのは、彼らのように誇り高き人々がいたということ、そしてそれを日本人が壊滅に追いやったこと、その決定的な事実を、忘れてはならないということだ。
『セブン・サイコパス』
やたらと『ヤクザ』という日本語が出てくると思っていたら、監督がどうやら北野武のファンで、劇中で主人公が映画館で映画を観ているシーンがあるがその作品は北野武の「その男、凶暴につき」だという。日本があまりテーマになることはないから珍しいので、それがあえて強調されて選ばれる時は、監督や関係者が日本に興味があるというケースが多い。
例えばリュックベッソンの映画に『ANNA/アナ』というものがあるが、親日家である彼らしく、わざわざ主役が落とした携帯を『親切な日本人が拾ってくれた』というシーンがある。
この映画自体の出来は、普通くらいと言っていいだろう。なぜならサイコパス、猟奇的な殺人者、銃撃戦、というのは日本ではほとんどゼロに等しいほど見る光景ではなく、現実離れしすぎている割には、そこまで猟奇的でもない。やはり振り切らないと一線を画すことはできない。「その男、凶暴につき」が世界を震撼させた理由を思い出すべきである。
『セブン・シスターズ』
普通、この手のSFものはB級作品になりがちである。だが、そうはならない。主役の彼女がこの難しい役を見事の演じ切り、展開、音楽、シナリオのクオリティの高さと相まって、とても見応えのある緊張感を作り出している。主役をトム・クルーズが務めていてもおかしくない設定だ。そして教訓性も高い。これは、単なるSFの中の妄想物語ではない。
『ゼロの未来』
監督のテリーギリアムというのは、確かに『12モンキーズ』は傑作だが、後の作品は正直(え?)という感想を抱いて終わるのが本音だ。『フィッシャー・キング』はいいのだが、
- 『バンデットQ』
- 『未来世紀ブラジル』
- 『Dr.パルナサスの鏡』
- 『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』
そしてこの『ゼロの未来』も、正直あまり好きではない。『ラスベガスをやっつけろ』は実話だからいいが、後の映画は全部フィクションで、『12モンキーズ』を超える領域にまで達していない。その映画もフィクション要素が軸になっているが、あれはブラッドピットの怪演も手伝って、素直に『名作』と言える力を持っている。だが、これらの映画を見てその映画くらいの期待を持つと、幻滅するだろう。
『セントラル・インテリジェンス』
ドウェイン・ジョンソンは体当たり演技をするからB級映画にも多く出演している。観ている側は、(今回のドウェインは外れ枠か・・)と思った人も多いはずだ。だがそれは、実は演じている側には関係ないことなのである。要は、『稼げる』のだ。彼は2020年、推定年収約93億円(8750万ドル)で「世界で最も稼いだ俳優」に2年連続1位にランクインした。
例えばニコラスケイジの低迷ぶりは有名だが、借金返済に苦慮していることから、仕事を選ばずに多くの映画に出演した。数年掛けて46本もの映画に出演したことが功を奏し、現在は全ての借金を完済済みであるという。
つまり、役者側からすれば『作品を選ばずに出演すれば稼げる』という事実が存在しているのである。それゆえ、ニコラスケイジの場合は妙な映画にたくさん出てしまっていることから、『いつも通りのニコラスケイジのはずなのに、なぜか面白くなくなってしまった』という奇妙な印象に包まれてしまうことになっている。
私が彼を過去と見比べてみても、別に変らない彼である。だが、とにかくシナリオが悪い作品に出てしまっているのだ。それゆえ、『彼が堕ちた』という印象になってしまっている。
ドウェインジョンソンの場合は、ホームレスの時代があった。700円しか手元になく、四苦八苦していた。それゆえ、ニコラスケイジ同様にお金の為なら手段を択ばないところがある。それは彼らだけではない。人間なら誰もが、いや、生きる生命なら誰もが、生命を維持するためにどんなことでもやるものだ。
また、持ち前の体力がある。それゆえ、『体当たり』という表現をしている。ニコラスとは違い、プロレスで成功してからは金に困っているわけではないだろうが、どれだけ映画に出ても『疲れない』とか、そういうマイナス面を抱えない体力があるのかもしれない。
彼が「世界で最も稼いだ俳優」の割には、大ヒット映画は『ワイルド・スピードシリーズ』以外に頭に浮かばない感じがあるのも、このような背景が存在する、のかもしれない。
では、今回はどうか。中々危ないところである。一歩間違えればB級だ。だが、今回の場合はそうはならなかったようだ。彼もそうやって力づくでキャリアをつけていっているのか、どんどん役者としての存在感が出ている。例えば『超人ヘラクレス』や『ロンググッドバイ』のシュワちゃんのように、ただのでくの坊マッチョとしてそこに投げ出されている感じではなく、きちんと役者として動いているのが見える。
髪形と見てくれが同じだから、様々な役をやるのが難しいという大きなハンデを抱えているが、そのハンデも力づくで乗り越え始めている印象だ。今回の場合は、チープなシナリオに見えて、きちんと教訓もあり、笑えて気軽に観ている人も、真剣に観ている人も、両者を楽しませることができる映画となっているだろう。
『世界にひとつのプレイブック』
少女漫画でウケる内容が、少年漫画でウケるとは限らない。もちろんその逆もしかりだが、とにかくあまり恋愛を前面に押し出さないでもらいたいのだ。男女のことだ。男も十分楽しめる。そして、私はあまりこういうストーリーを恋愛ものだとは考えない。人間である以上、すべての人に共通する、愛の物語である。
『世界に一つのロマンティック』
主演のジェシカビールにここまでスポットライトを当てた作品を観たことはなかった。彼女は随所でよく見る俳優だが、やはりこの手のヒロインをやるには、美貌が世界規格ではない。
女性は美貌が求められる。残酷だが現実である。だからメグライアンやニコールキッドマンといった大女優ですら、整形をしてしまう。たったそれだけのことで人生が大きく左右してしまう事実を知った時、それも一つの取るべき選択肢として、頭をよぎるのだろう。
この映画も、観ても観なくてもどっちでもいい妙な内容だ。だが、意外と真正面から観ると、そうした様々な偏見や先入観から脱却でき、案外ラストシーンで、ある種の感動を覚えている。
『世界一キライなあなたに』
男は『胸キュン』映画など観ない。少女漫画に出てくる描写は、少年漫画には出てこないのだ。だが、どうもこの映画は、単なるラブストーリーではないようだ。もし自分が彼らの立場になったら、どうするだろうか。この映画の結末に賛否両論があるのは、人の命があまりにも、尊いからだ。そして尊いからこそ、深遠なのだ。
『征服王ウィリアム ソード・コンクエスト』
『ノルマン・コンクエスト』とは、イギリスの歴史において、現在に至るまで外国の勢力による侵攻・征服が成功した最後の事例であり、ノルマン人がアングロサクソン人の支配するイングランドを制圧した歴史上の重要な出来事である。1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世は海を渡ってイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を開いた。この映画はそこに至るまでにウィリアム1世がどのように成長したかを、ドキュメンタリー映画のような雰囲気で描く映画である。
だから派手さを期待してはならない。テレビ番組の特集で途中に差し込む『当時の様子』的な考え方、そして、『ノルマン・コンクエストに至るまで』という設定を最初から分かっていれば、貴重な映像である。
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』
何も知らない状況でまずこの映画を正当化するために必要なキーワードは『世にも奇妙な物語』だと考えていた。それによって、この映画がいかに不思議な空気を醸し出しても、聞いた人は『何かが起こる』と勝手に考えるようになってくれる。
だが違ったのだ。
この説明は聞いてしまっていい。実はこれは『ギリシャ神話(エウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』)』が基になっている。だから最後まで『鹿』の要素は一切出てこない。だから知っておいた方がいいのだ。なぜ鹿なのか。なぜこの物語は不思議なのか。
元々神話というものは『自由な発想』で創られたものだったのだ。そして秩序を作るために宗教が誕生し、それに逆らう形で哲学が誕生した。このような背景を押さえておくと、よりこの映画を楽しめるだろう。現代の常識を当てはめて観る物語ではないのである。
『聖杯たちの騎士』
wikipediaにも情報がないほどマニアックな作品。映画というより、抒情詩の映像版を見ているような、芸術性が高い作品だ。
抒情詩(じょじょうし):主に詩人の内面,感情や情緒を主観的に表現した詩
- クリスチャン・ベイル
- ケイト・ブランシェット
- ナタリー・ポートマン
- マイケル・ファスベンダー
- ライアン・ゴズリング
- ルーニー・マーラ
このメンツを見て分かるように容姿が整った俳優がたくさん登場し、多くの視聴者が『意味が分からない』と首をかしげるように、元々のこの映画の狙いが『芸術』なのだろう。
『誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。』-パブロ・ピカソ
『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』
『私が死んだとき、一匹の蝿がうなるのを聞いた。部屋の中の静寂は、嵐の高まりの間の大気の静寂のようだった。』
兼ねてから気になっていた、この言葉を残したエミリー・ディキンソンの映画だ。独特な言い回しが特徴的だったが、やはり独特な人生を生きた女性だったようだ。9割がキリスト教徒というアメリカの国で、それを受け入れない自由さを持つ一方、大声で話せない不自由さと共に生涯を生きた彼女は、そのユニークさゆえに穢れがなく、内に目を向けて真理に触れるが、繊細さがゆえに現実を生きるだけの図太さが足りなかった。しかし、そういう尊く儚い存在だからこそ、彼女が19世紀世界文学史上の天才詩人と言われるのだ。
『戦火の馬』
元が児童小説ということもあり、角度が少し普通の戦争とは違う。馬が主人公という、斬新な発想である。だが、戦争は戦争で、描かれる第一次世界大戦の塹壕戦や、凄惨な戦場の姿などは他の映画と全く同じだ。今回の場合、そこに馬を介入させることで、(たしかに馬も戦争の犠牲者であり、彼らとしては共に戦った戦友だ)という意識が芽生えることになる。
また、目線を人間から馬に変えることで、『人間が勝手に始めた愚かな行い』を客観視することができ、例えばこれを読んでいる、観ている人が児童であった場合、戦争という人間が勝手に引き起こした不自然な行動が、大自然の摂理の中で一生懸命生き抜こうとする一頭の馬との対比により、より馬鹿馬鹿しい行動であるように見え、反戦意識を煽ることに成功する。
『戦場からのラブレター』
原作はヴェラ・ブリテンの自叙伝『Testament of Youth』。第一次世界大戦があった1914年。仲が良かった弟や意中の人は、徴兵され、前線へ送られた。ヴェラも大学を辞めて、救急看護奉仕隊に志願し、ロンドン、フランス、マルタ島で任務に当たることになった。あの時代、戦争が正当化されていた。『西部戦線異状なし』では同じ第一次世界大戦の様子が描かれるが、行く前の青年たちの目はギラギラしていてこの世のものとは思えない異様な気配を漂わせている。
もちろんそれは演出である。あの時代にあった狂気的な空気と、実際の戦争の凄惨さのギャップを強調するために、コントラストを演出したのだ。あの時代、といっても私が知るわけじゃないが、戦争があった時代は、皆それが使命であり光栄なことだと誤解していた。しかし実際には違うのだ。戦争というのは真理から外れた虚無の上にある判断ミスなのである。
『潜入者』
『バリー・シール』と違って、地味さを感じるかもしれない。しかし、作品に奥行きを求める人は、こっちの方が見応えがあると感じるだろう。彼と同じ時代で活躍した潜入捜査官が、彼とは違う立場で、命がけで『ドラッグ戦争』に切り込んでいく。
『三国志英傑伝 関羽』
『三国志演義』に登場する劉備の部下の武将・関羽の「過五関、斬六将」のエピソードが描かれる。よって、これが事実であるかどうかは別だ。それが小説だからである。ただ、レッドクリフで描かれた『赤壁の戦い』が208年で、ここで最初に展開される『白馬の戦い』が200年であることを考えたら、あの映画の少し前の話ということで、曹操と関羽の関係を知っておくにはいいだろう。彼らの関係に思い切った作り話はなく、曹操は本当に関羽を欲しがっていた。レッドクリフでも関羽を見て曹操がそう惜しむシーンがあるから、その辺りの要素を知るためにはいい。
ドニー・イェンの武術を楽しむ方向で、当時の関羽の何となくのイメージを想像したい。
『関ヶ原』
日本史上最大の会戦『関ヶ原の戦い』を描いた歴史映画。『武断派』福島正則、加藤清正と、『文官派』石田三成らが対立し、徳川家康が参加して豊臣秀吉の次の将軍を決めるための重要な戦いとなった。1600年9月15日、井伊直政・松平忠吉(ただよし)隊と、宇喜多秀家隊との銃撃によって、ついに東西両軍が衝突。天下分け目の戦い『関ヶ原の戦い』が始まったのである。
『ソウル・サーファー』
13歳のときに鮫に襲われて片腕を失った少女、ベサニー・ハミルトンを基にした実話だ。サーファーとして生きようとしていた彼女は、ある時海で事故に遭うことになる。『サメ』だ。南国の天国であるハワイであっても、地獄のような事件は起こる。有名な日本人も、ここで死亡してしまったこともある。この世で完全に安全な場所などない。あるのは自然の摂理やこの世の真理と、その中で生きる人間だけだ。
13歳と言えば、どんな失敗もあり得る年齢だ。私などもはや自我があっても『無い』に等しかった。それだけ未熟で無様。しかし人間は必ずそういう時期を乗り越え、次のステージに進んでいかなければならない。だから、この時に大きな事故に遭うことはとても悔やまれる。人生で一番大事な時期だ。基礎になる時期。ここが崩れたら、この後の人生に大きくひびが入ることになってしまう。
果たして彼女は、この絶体絶命の窮地を乗り越えられるのか。乗り越えるとしても、どのような思いで乗り越えるというのか。
『End・・それは、始まりである。』
『その女諜報員 アレックス』
ロシア人で、007にも出演経験のある英語が喋れる名女優オルガ・キュリレンコが『実力をつけるための映画』のようなものだろう。映画というのは確実にヒットを狙う映画と、それ以外の目的で作られる映画とある。この場合は前者ではないだろうが、彼女の幅広い演技力を見せつける為にはいい。こういう映画を関係者が観て次の大作に繋がるわけだ。
キャラクターが完璧ではなく、凡ミスをするあたりが腹が立つが、あえてそうしているかもしれない。完璧にするとジェイソンステイサムのように高いフィジカルが求められるし、晩年のスティーブンセガールのように映像で誤魔化しながら撮影するしかない。前者のようなスキルはないし、後者のような真似はクオリティを下げるだけだ。セガールの映画は面白いが、誤魔化された映像を見たいと思う人はいない。
『ソルト』
CIAの女スパイが、北朝鮮で監禁され、拷問されるシーンから始まる。しかし、どうも彼女にはまだ秘密があるらしい。上記、下記の『アトミックブロンド』、『レッドスパロー』と併せて観たい映画だ。
『それでも、やっぱりパパが好き』
双極性障害のため失業を繰り返し、いつしか家族のやっかい者になってしまった父親を描く。脚本家マイア・フォーブスが自身の父親と家族をモデルに執筆した脚本を、自ら初メガホンをとって完成させた。基本、このように病気を負ってしまった人は厄介者になるのが相場だ。私の周りにも精神が正常とは言えない人が大勢いる。皆なにかしらの精神病ではないだろうか。まずキリスト教の7つの大罪である
- 傲慢
- 強欲
- 嫉妬
- 怠惰
- 憤怒
- 色欲
- 暴食
そしてブッダの言う罪である『執着』だが、これに支配されているようでは『精神が正常』とは言えない。それにもかかわらず自分が正常だと思っているならそれこそが『精神異常』の証拠だ。依存症は、自分のことを依存症だと認めないのが特徴である。
そこまで考えた時、確かに障害(ハードル)はある。だが、人生は元々ハードルだらけだ。それがあって当たり前で、それがない人生を幸せな人生と呼ぶのではなく、それとどう向き合ってきたかということを後で考えた時、振り返って後悔が内容な人生を幸せな人生というのである。
『それでも、愛してる』
監督はジョディ・フォスター。後年のインタビューで、フォスターは本作を自身のキャリアベストだと語っているようだが、実際のところは、彼女はこの作品では影の役に徹している。映る時間も、活躍具合もほとんどが主演のメルギブソンだ。これなら、『羊たちの沈黙』や『ブレイブ ワン』、『告発の行方』など、彼女の迫真の演技が観られる映画の方が目立つように見える。
にもかかわらずこれがベストだというのなら、裏事情なのだろう。例えば、その他の作品は『自分の意思が反映されていない』など。私などもまさにそういう性格なので組織に属さず自分で起業したが、たとえ安定性は欠けてもやはり生き甲斐を感じるのは圧倒的に今である。
この映画自体が大赤字なのにそう言うのだから、本人の満足度が関係しているのだろう。
また個人的に、1ニュースが話題を取り上げて
『1億ドルの広告がタダでできたわ!』
と喜ぶシーンがあり、教訓性があった映画だ。
また、以上の理由を知る前であっても、私はこの映画を観て普通に面白いと感じて、『観るべき映画』としてジャンル分けしていた。人生には色々あるが、最後に勝つのは『愛』であるという黄金律を見ることができる。
『それでも夜は明ける』
幸せで、平和な日常が、ある日突然破壊された。いや、奪われたのだ。人間の尊厳と共に、自分の人生の自由が奪われた。それは自分一人ではなかった。黒人というだけで、そこに人権はないと判断されたのだ。1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られた自由黒人ソロモン・ノーサップによる奴隷体験記 “Twelve Years a Slave“(意味:12年間、奴隷として)を基にして作られた、これは実話である。
た行
『ダーティ・グランパ』
私は映画を真剣に観て、それを人生に生かしたい。映画を観る為に生きているわけじゃないんだ。時間を浪費する暇などないのである。だから別に映画でゲラゲラ笑いたいなどとは思っていない。はずなのに‥。どんな演技もこなしてみせるデニーロと、それに負けないくらいぶっ飛んだザックを見れば、爆笑は避けられない。
『ダイアナ』
英国民に最も愛されたプリンセスである、ダイアナ。世界的にもプリンセスと言ったら彼女を思い出す人は多いだろう。36歳で命を落とした彼女の、短くて太い、それでいて美しい生きざまが見られる。が、映画評論家はイギリスメディアにはボロクソに批評されたようだ。私にはそれが分からないが、ダイアナをよく知る人からしればそうなるのかもしれない。
『タイピスト!』
田舎育ちの女性が世界最速のタイピストを目指す物語で、かなりニッチな作品だ。製作者が、フランスのテレビで放送されたドキュメンタリー番組でタイプライターの早打ち大会を知り「スポーツにまつわるロマンチック・コメディが撮れるんじゃないか」と思い映画製作に至ったというから、内容はその通り、コメディっぽさも含まれている。
だが、それで想像するようなコメディではない。何となくだ。撮影前の約半年間は、毎日2-3時間タイピングのトレーニングを積み、全てのタイピングシーンはスタントを使わず主演自らが演じ、映像の早送りといった編集もしていないことからも分かるように、どちらかというとそういうシリアスさがにじみ出る感じもある。
だが動機がそれだから、大きな教訓を得るというわけではないだろう。ただ、そのカジュアルさから、こういう映画が好きな人は結構いそうである。
『タイム・トゥ・ラン』
wikipediaで、『監督、脚本、原案、製作、製作総指揮』にいる30名ほどの人物全員が黒文字、つまり該当ページが存在しない人物であり、確かに『そういう気配』は漂っている。簡単に言うとB級作品のような。
では、つまらなかったかというとそうではない。いや、デニーロの使い方は下手だ。金だけ貰って何もしない重鎮役を演じているのが目に見えるような役だ。『大いなる遺産』や『ボーイズライフ』のように、端役を演じても『端にならない』存在感を発揮するのが本来の彼である。
アメリカでは有名かもしれないが、主演のジェフリー・ディーン・モーガンという人も、見たことがある程度であまり思い入れはない。これだけ『B級たる要素』が揃っているのがこの映画というわけだ。だが、つまらないわけではない。教訓性と哀愁があり、『一人の人生を確かにこの目で見た』という想いが、心に残った。
『ダブルフェイス』
これが★3の意味が分からない。ちゃんと万人にも分かりやすい展開だ。ニコラスケイジに懸念するB級方向もない。彼の他の2人の主役が好演してるからだ。ニッチ具合もいい。『キッズ・オールライト』もそうだが、世界には色々な人がいて、色々なケースが存在する。例えば『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』だ。あの子供も、それを引き取った夫婦も実在する。
女性は子供を産むと脳のつくりが変わると脳科学者は言う。だから『子供優先』になる女性の姿をよく見るはずだ。人間の性別うんたらを超越し、『生命』のレベルに入るのだ。その神秘性にわずかに感じるある種の狂気をピックアップし、こういう物語を作り上げた。これは中々見応えがある話であり、信憑性もある。
ラストシーンとエンディングテーマの気配まで作りこまれている。『彼女は目的を達成する』のだ。意味深に留意し、もし哀愁を覚えたらこの映画を観たことになる。
『タリーと私の秘密の時間』
90分程度の映画だが、シャーリーズ・セロンがまた体当たり演技をしているということで、最初から見る価値がありそうな気はしていた。彼女は22㎏も体重を増やし、24時間常に食べ続け、減らす時は1年半も時間がかかったという。
彼女のような美形の女優は、『美を失ったら終わり』というある種の強迫観念を抱えて俳優をしている。よって、積極的にこのように自分を『壊す』ことができればかなり俳優として戦力になる。彼女がいまだ第一線で活躍できる理由は、彼女の美貌だけが理由ではないのだ。
この映画のライトマン監督は
- 『JUNO/ジュノ』(2007年)
- 『ヤング≒アダルト』(2011年)
- 『タリーと私の秘密の時間』(2018年)
と監督を務める。関連性があるという。
「それぞれの映画の主人公は、人生においての時間軸を把握できていないんだ。『JUNO/ジュノ』では早く大人になりすぎた少女を描いていて、『ヤング≒アダルト』は大人になるのが遅すぎた女性を描き、今作では親になったことで強制的に成長しなければならない女性を描いているんだよ」
| 『JUNO/ジュノ』 | 早く大人になりすぎた少女 |
| 『ヤング≒アダルト』 | 大人になるのが遅すぎた女性 |
| 『タリーと私の秘密の時間』 | 親になったことで強制的に成長しなければならない女性 |
この監督は今後要注目かもしれない。彼の映画、
- 『マイレージ、マイライフ』
- 『とらわれて夏』
- 『セッション』(共同)
も観たが、確かにセッション以外はどこか似た哀愁があり、私の好みの描き方が多い。私は今調べて知ったのだが、JUNOらのその映画も私とはまるで違う『女性』の人生なのに、面白かったのだ。
まさか同じ監督だとは知らなかった。彼には実力があると言っていいだろう。面白いと感じた映画がすべて、彼の映画だったのだから。
今回の映画だが、私が好きな展開である。『まさか』となるだろう。こういう風に、これらすべての映画に共通する『哀愁』的なものがある一方で、作品一つ一つがしっかり独立していて、模倣的ではなく、オリジナリティが高いので、すべての映画が観る価値がある。
『ダンガル きっと、つよくなる』
元アマチュアレスリング選手マハヴィル・シン・フォーガットと彼の娘であるフォーガット姉妹の半生が描かれる。この映画を観ると、動物の肉を平気で食べていること、清潔な環境で何不自由なく生活できていることが、ある種の『隠蔽』であるという事実を、再考させられることになる。強くなるために肉を食べなければならない。レスリングの内容もさることながら、私が印象深かったのはその言葉である。
もちろん、インド人レスラーとして世界で活躍するまでの経緯や過程も見応えがある。インド人が数字に強くなった背景に『カースト制度』があると聞いたことがあるが、それら社会的要素も切実な問題である。多くを代償にし、重くを背負った二人の女性が、熱き父親のインディアンエネルギーに後押しされ、この世界に大きな波を作った。
『ダンケルク』
第二次世界大戦初期の1940年5月26日から6月4日。イギリス、ベルギー、カナダ、フランスから成る連合軍将兵は、フランスのダンケルク海岸でドイツ軍に包囲され、ダイナモ作戦による撤退を余儀なくされていた。『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』が会議室なら、現場はこの映画だ。チャーチルがイギリス本国で最善の政治を模索している時、フランスのダンケルクで行われていたのがこの『ダイナモ作戦』だった。確かに、観たことがあるようでない戦場の光景が斬新で、貴重だ。
『代立軍 ウォリアーズ・オブ・ドーン』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1592年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は14代国王宣祖(ソンジョ、せんそ、1552年12月26日 – 1608年3月17日)である。この時、ちょうど豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役=壬辰倭乱)が朝鮮を混乱させていた。その時代を描いた映画は少ないので、貴重な歴史映画である。
宣祖は、息子である光海君(クァンヘグン)を世子(王位継承者)に指名して逃げてしまう。この時燕山君は秀吉軍に対してどう対応したか。彼らの目線で倭の豊臣秀吉がどう見られていたかを知るために、会話の節々が貴重な資料である。この時の燕山君はまだ王になるかならないかという状態で、『小僧』のような状態。だからこその純粋さがこの物語を演出していく。
だが、彼が王として慣れてきた頃、もう一つの顔を持つようになってしまう。よって、10代王の燕山君(ヨンサングン)同様に暴君として廃位された王であるため、廟号・諡号・陵名(太宗等)はないのが特徴だ。
しかし実際に彼ら代位軍のような人々がいたと思うと、当時の人間の間にあった格差のシビアな現実に、驚かされる。
『大統領の執事の涙』
かつて黒人は白人の奴隷であり、『所有物』だった。だからどう扱っても関係ない。強姦しようが、射殺しようが、『物』を扱うように扱えばいい。‥今の表現を見ただけで虫唾が走る人は、『正常』である。だが、彼らの歴史は根深い。そして、黒人を忌み嫌うKKKのような集団は、現在進行形で存在する。
この映画は、1950年代のアイゼンハワー大統領から、2009年のオバマ大統領までに至るまでのアメリカの歴史が見える、教訓映画でもある。マルコムXもキング牧師も殺され、ケネディは兄弟そろって暗殺された。ベトナム戦争、ウォーターゲート事件。様々なことがあった。それを黒人に執事目線で見ることができる、貴重な作品である。
『大統領の料理人』
フランス大統領官邸(エリゼ宮殿)史上初の女性料理人として1980年代に2年間、フランソワ・ミッテラン仏大統領に仕えたダニエル・デルプシュをモデルとしている。
料理が好きな女性は大勢いるし、働く女性も当然になってきている。少し前であれば『なぜ女が働いているんだ』として残業など許されなかったことがあった。もうそのうち『キャリアウーマン』という名前もなくなっていくだろう。男に『キャリアマン』という言葉は使わない。
『女』社長など、頭にいちいち女がつくことに腹が立っている女性がいる。私は男だからいちいち気にしないが、女性がそう言っているのだからそうなのだろう。
男は女性に嫉妬もする。『自分が守ってあげなければならない存在』という大枠に女性を入れていて、その中には子供も含まれている。だから悪気はなく責任感から故なのだが、どうしてもそこに歪んだ考えからの劣等感が生まれてしまうのだ。希少なケースの働く女性から得るものは多くある。実話だから説得力が違う。
『第九軍団のワシ』
時は120~140年のローマ。この時代のローマ帝国の状況や該当する映画を観てみよう。
| ベンハー | 0~30年 | アウグストゥス、ティベリウス時代 |
| クォ・ヴァディス | 60年頃 | ネロ時代 |
| 第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
| グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
このアウレリウスが五賢帝時代で、その後にペルシャと戦う『軍人皇帝時代』がある。その時の皇帝が『クォ・ヴァディス』で描かれる暴君ネロよりもあくどいことをしたかもしれないカラカラ。またウァレリアヌスという不幸な皇帝がいた。
とにかく今回は、ハドリアヌス時代だ。現在イギリスとなっているブリタニアの平定にいくため、ローマの兵士としてその地を訪れる。彼にとってその行為は、別の意味もあった。彼は20年前に父親が率いていた第九軍団が消息を絶ち、軍団の象徴「ワシの黄金像」の行方が分からなくなっていたことから、一家の名誉を挽回するためにブリテンへとやって来たのだった。
果たして、彼がそこで見た真実とは。
『抱きたいカンケイ』
私は男だから好んで恋愛映画を観ないのだが、案外この類も観ると得るものが多くていい。私がナタリーが好きなのもあるかもしれないが、『猟奇的な彼女』然り、私は彼女のような心底が少女で、しかしクールな防壁で本心を隠してしまうような、そういう人に惹かれるらしい。とても愛おしくなるのだ。
『ちはやふる -上の句-、-下の句-、-結び-』
3部作となっている。百人一首、かるたというマイナーな世界に光を当てて、日本が守るべき文化に貢献した、素晴らしい作品だ。『名探偵コナン から紅の恋歌 』では本作と同じく百人一首を主題にしていて、その公開を記念して本作とのコラボレーションが行われた。
『チャーリー・セズ/マンソンの女たち』
1969年に女優シャロン・テート殺害などの無差別連続殺人事件を起こしたカルト集団、チャールズ・マンソン・ファミリーの主要女性メンバーを描いた実話だ。『ワンハリ』で有名になったその事件の真相が気になる人も多いだろう。私もその一人だ。だが、この映画の評価が低く設定されていた。それは勘違いをしている。
それは彼らが『したこと』が認められないのであって、フィクションじゃないんだから価値がある『資料』だ。ワンハリで気になった人の為にもいいし、人が『生きるべき道』を見誤らないためにも存在価値がある。イージーライダーとも同じ時代だし、ベトナム戦争という理不尽なうねりのせいで、 ヒッピー(マリファナ、自由、自然意識) などが生み出された60年代のアメリカの歴史としても、注目に値する。
哲学を学んだ者からしたら、フロイトや各哲学者の哲学の『独自解釈』をする人間、哲学を信じて突き進む人間の貴重な姿を観ることができる。 例えばソクラテスの遠い弟子にあたるディオゲネスは、コクリコ坂からでも名前が出てくるが、道ばたで公然と自慰行為をして、
「擦るだけで満足できて、しかも金もかからない。こんなによいことは他にない。食欲もこんなふうに簡単に満たされたらよいのに」
と言った。 想像するとまずい。樽に住んでるし。だが、世界の哲学者とはそういう『自由発想』をするのが基本。 勿論彼らはそれを『援用(自分の私利私欲を正当化するために利用)』しただけだから、 (ふむ。これは哲学の曲解かつ援用だな)として、どちらにせよ『人間の勉強』になるのだ。だからこうした『逸れた人間の姿』は貴重な資料だ。したがって☆2ではない。
観ていくと彼女らに影響を与えたのが
- ベトナム戦争
- ヒッピー文化
- 月面着陸
という事実が見えてくる。セリフにはこうあった。
『1969年(事件を起こした時)、誰もが宇宙レベルで変化があると思っていた』
確かに月面着陸は1969年だった。(1969年7月20日午後4時17分) シャロンテートが殺されたのは1969年の8月9日だから、この歴史的変化に心を『持ってかれた』心の弱い人たちが多かったというのはうなづける話。 これも更に付け加える話がある。
この8年前の1961年にガガーリンが世界最初の宇宙飛行を成功させた。宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
- 総主教『宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。』
- ガガーリン『見えませんでした。』
- 総主教『わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。。』
つまり、ガガーリンやアームストロングらがやった偉業は、この世界で権力を握る宗教関係者を含んだ、膨大な数の人間に心的影響を与えた。 この映画を『グロい』と言ってた人がいたけどそんな描写はなく、むしろ配慮されていた。オウム真理教の一連の事件にも共通していることが多く、『洗脳』される人間の心理を見るにも、貴重な資料だ。 したがって、★2ではない。 とても貴重な資料だ。
『チャイルド44 森に消えた子供たち』
ウクライナの猟奇的殺人者アンドレイ・チカチーロをモデルに、1950年代のソビエト連邦を舞台にした国家保安庁職員の行動を描いた原作をモデルにしている。渋い。イギリス人作家だがロシアの話だからなのか全体的に渋く、俳優陣も渋い。だけど、中盤以降なぜ
- トム・ハーディ
- ノオミ・ラパス
- ゲイリー・オールドマン
ら実力派俳優が選ばれたかが分かる。特に主役の前者二人だ。ノオミラパスはやっぱり凄かった。彼女を最初『プロメテウス』で見た時は(誰やねん)という抵抗あったが、実力で認めさせた。
ジェットコースターで言えば、『急下降の刺激』が、きっとこの映画で言う『このミステリーがすごい!』に繋がる。確かに演技に生きている人じゃなきゃできないようなその通りの衝撃シーンがあるのだ。
『チャット ~罠に堕ちた美少女~』
クロエグレースモレッツの『早熟のアイオワ』と言い、『青い珊瑚礁』と言い、こういう風に少女が扱われているのを見ると、あまりいい気はしない。自分の娘であれば殺意を覚える。だから父親の気持ちがよくわかる。
ある時、youtubeを見ていて子供と親がただ何かの工作をしゃがんで見学しているだけの映像なのに、人間のクズどもの餌食になってしまっていてコメント欄が荒れていたのを見た時は、普通に殺意を覚えた。その後、私が取った行動はここに書く必要はない。しかし、Twitterをやればわかるのだが、人間というものは男も女もない。ほとんど同じ知能指数であり、ほとんど同じ着眼点を持っていて、ほとんどが同じような行動に出る。
だから、自分の胸に手を当てて思い当たる精神未熟な時があるように、少年にも少女にも、同じように間違える時期があるのだ。こういうことは全然あり得る。むしろ、インターネットやスマホ、SNSが当然のように初期設定として存在している世代からすれば、教訓映画となるだろう。学校で流してもいいのではないか。刺激的すぎるかもしれないが、そういう映像ほど脳裏に焼き付き、『ブレーキ』になる。逆に、そうじゃなければブレーキの役目を果たさないだろう。
『だめですよー』だとか。それでは効果がない。
『チャップリンからの贈りもの』
1977年、イギリスの喜劇王チャップリンはこの世を去った。彼はそのコミカルな演技でサイレント映画のスターとなり、世界中にファンを作った。地位、名誉、財産を手に入れ、人類の歴史に名を刻んだ。しかし、それだけ上に上がると『色々な人』の目が集まるものである。これは、切羽詰まった男たちが、金銭目的でチャップリンの遺体を誘拐した2人の犯行の実話をもとにした、少し不思議な真実の物語である。
『チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛』
17世紀のチューリップ・バブル時代のオランダの首都、アムステルダムを舞台に、トム・ストッパードで、モガーの小説『チューリップ熱』(原題:Tulip Fever)を脚色。モガーはフェルメールの絵画から着想を得ており、絵画の世界を小説にしようと執筆した。
この映画は2,500万ドルの予算に対し、世界での興行収入は800万ドルとなっていて大赤字なのだが、では駄作なのかというと、歴史的には非常に貴重な価値ある映画となっている。
元々これは、ジュード・ロウ、キーラ・ナイトレイ、ジム・ブロードベントが出演、ジョン・マッデンが監督、スティーヴン・スピルバーグとドリームワークスが製作を務める予定だったことを考えても、内容はスピルバーグが目を付けるほどのものだということがわかる。
まず、『世界の覇権の推移』を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。
紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。
紀元前336~紀元前323年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。
紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。
1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。
1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。
1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。
1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。
1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。
基本的に『覇権』というのは『帝国』を作って世界に幅を利かせたことが影響していて、例えばローマ帝国が幅を利かせている時、では遠い日本ではその影響があったかというと、ほとんどないわけだ。したがって、世界の覇権の推移は『ヨーロッパの覇権の推移』という形でまとめられることになる。この辺りが世界の中心として考えられ、常にエネルギーの変動が激しかったのである。
ざっと見ていったときに、ローマやイギリスなどの時代の映画はある。マケドニアもアレクサンドロス三世だし、クレオパトラもローマ時代で、『エリザベス』がスペイン、イギリス辺りの時代で、モンゴル帝国の場合はチンギス・カンの映画『モンゴル』がある。だが、オランダが覇権を取ったわずか100年足らずのこの時代の映画が存在していないのである。
上記にある様に、
急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。
これが当時のオランダの勢いだ。では一体なぜオランダが覇権を取ることができたのか。そして、なぜその覇権は長続きしなかったのか。この時あった『チューリップバブル』という事実は、映画『ウォール街(ストリート)』にも強く影響するほど、非常に教訓性の高い内容となっているのである。
経済学の巨人と言われたガルブレイスは、1636年のチューリップ狂の経験以来、 何も変わらないある法則を見極め、こう言っていた。著書『バブルの物語』にはこうある。
『個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりこになる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受け止め方によって守られている。』
売れてないもの、多くの他人から評価されていないものがあるからといって、そこにあるものが粗品とは限らない。
『沈黙 -サイレンス-』
遠藤周作の作品を映画化したもの。この作品は、『パッション』を観たことがある人は、思うところがあるだろう。さて、どうして『沈黙』なのだろうか。なにゆえ、『沈黙』を貫くのだろうか。これは、人間と宗教の関係性について、熟考させられる映画である。
『ツーリスト』
ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーが出ているというだけで見ものである。彼らが普通にドラマを演じるだけで絵になるからだ。だが、この映画、それだけではないようだ。この二人は一体どういう関係なのだろうか。
『追憶の森』
思い出のマーニーに少し似ているかもしれない。彼は、なぜ富士の樹海にいたのか。そこで会った人は、彼にとってどういう存在なのか。彼の過去に、一体何があったのだろうか。そして彼は、これから生きていくのだろうか。それとも、死んでしまうのだろうか。
『ティーンスピリット』
エルファニングのことを『エルちゃん』と言って、勝手に彼女の写真をTwitterのアイコンにしている人の評価が低く、評論家の評価が高いという謎の作品である。だがまあ評価でも50点ほどと半分程度のものもあるし、90分という時間の短さ、売り上げの規模その他を総合して考えても、『観ても観なくてもあまり変わりない映画』かもしれない。
『ディバイナー 戦禍に光を求めて』
第一次世界大戦中のガリポリの戦い、および希土戦争(きとせんそう、1919年 – 1922年)の様子を描いている。希土戦争とは、第一次世界大戦後にギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争で、ギリシャ軍がムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。
この戦争時代を背景に、父と子の再会を描く。原題の(The Water Diviner)は、水脈を探し当てる職人という意味。主人公の男は農夫でもあり、冒頭でまず水脈を見つけて井戸を作る仕事から始まるので、いきなりその意味がわかる。そしてその後、実に3700万人の人が亡くなり、800万人の人が行方不明で終わった第一次世界大戦の死者を見つけるミッションにその特技が役立つ。この意味でも、ウォーター・ディバイナーの男が活躍する物語として成立するわけだ。
だが、彼の場合はその見つける死体が普通の相手ではないこと、そして自分の家族が迎えた凄惨な現実が悲惨であることが異例である。更に、『ディバイナー』というのは『占い師』という意味にもなる。実は、そのキーワードもこの話のカギとなっていくのである。
『デッドプール』
ヒーロー映画が溢れる中で、そのどれもこれもを観ていたら時間がもったいないし、依存であると考え、この作品は前作も観ないでいたのだが、結局観てよかった。あの品のない独特の生きざまは、彼の立派な個性だ。見終わるころにはそう確信している。
『デトロイト』
ネルソン・マンデラは言った。
『人種差別は魂の病だ。どんな伝染病よりも多くの人を殺す。』
差別される人の気持ちは、差別された人にしかわからない。そして今も尚この世においてこの問題は完全に解決してはいない。人間はまだ、最終到達地点にいない。
『デュー・デート 〜出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断〜』
『ハングオーバー』の小太りの役で有名なザック・ガリフィアナキスが出ているだけで面白い。また、『アイアンマン』や『シャーロックホームズ』では気難しい天才役を演じることが多いロバート・ダウニー・Jrだが、その節々に現れる、例えば同じヒーロー役やキャラクターものを演じることがあるマイケル・ファスベンダーやベネディクト・カンバーバッチにはないユーモラスな一面が、彼のようなおふざけが上手い俳優と共演した時に、開花する。身構えず、気楽に観れる映画を観たいときにはおすすめだ。
『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』
映画史最大の開発地獄に陥った作品のひとつとして悪名高く、ギリアムは19年間の間に9回映画化に挑戦してその都度失敗した。そして、今回も残念ながら名作とは言えない展開で終わった。
まず、主演を務める予定だったのが最初ジョニー・デップだったというところから、もう『型落ち』の印象がぬぐえない。アダムドライバーは名優だが、まだ彼の位置にはいない。そのジョニー・デップが本当に現場に来て、要素の確認をしている映像が、『ロストインラマンチャ』というドキュメンタリー映画にちゃんと映っている。
これは
- 未来世紀ブラジル
- Dr.パルナサスの鏡
- ゼロの未来
と並んで、彼の『迷作』シリーズ入りする作品となるだろう。だが、かのスタンリー・キューブリックは、自身の監督作品である『博士の異常な愛情』の続編を考えた時、監督としてギリアムを考えたというのだ。『フィッシャーキング』や『ラスベガをやっつけろ』も面白いが、このままでは彼の名作は『12モンキーズ』だけになってしまう。何とかこの作品を超える映画を作ってもらいたい。
『デンジャー・クロース 極限着弾』
ベトナム戦争時の1966年8月、南ベトナムの農園地帯・ロングタンでオーストラリア軍108人が南ベトナム解放民族戦線の2000人と対峙した「ロングタンの戦い」を描いた作品で、もちろん実話で、戦争の話だから見応えは十分だ。だが、私はチャニング・テイタムの映画かと勘違いしていた。とても酷似した人がジャケットに出ていたので、違うなら見ていなかったかもしれない。
だが戦争の実話だから絶対に無下にはできない。オーストラリアの映画で、ベトナム戦争は常にアメリカが描くのが鉄板となっているが、こうしてオーストラリア軍も参加していて、同じように命を懸けていたことを考えると、大国以外の国の人々の命も想う必要があると、思い知らさせれる。だから、いつも海外のアメリカ以外の国の戦争の映画は、興味津々で観ている。
『デンジャラス・ラン』
組織に入れば、自分が組織に向いているかどうかはすぐに分かる。違和感が教えてくれるのだ。誰もが多少はあるのだが、それが人一倍強く、人生に差支えがあるほど影響を及ぼすという人がたまにいる。さて、この映画では一体誰がそれに当てはまるだろうか。
『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』
ブッダ(釈迦)に親近感を覚えるはずだ。それは、手塚治虫とアニメが日本人に親しみがあるからである。仏教の教えは、奥深い。この作品はフィクション性が高いが、宗教がなぜ生まれたのかという理由を、思い知ることができるだろう。
『トゥモローランド』
個人的には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と似た匂いを感じる展開で、とても爽快で楽しかった。あの作品のように次の展開はなさそうだが、新鮮なストーリを楽しめた。
『とうもろこしの島』
1992年頃の東ヨーロッパに位置するアブハジア共和国。アブハジアとジョージアは内戦状態にあった。
アブハジアというのは国際的にはジョージアの一部として数えられている。この海沿いの小さなエリアがアブハジア共和国である。今回は、そこで起きた内戦を背景に、そこで平和に暮らすある親子の話が描かれる。といっても祖父と少女で、その設定も計算されているかもしれない。要は、二人の共通点は『不安定 』だ。親がいない、おじいさん、少女、これらの要素があるとみている側はとても『不安』になる。
更に、少女の無意味な着替えシーンがあるので、そういう映像がより視聴者に不安を与える。そうすれば、そんな中近づいてきた軍人に対する緊張感が引きあがるというわけだ。そういう戦略で鑑賞者を引き付け、かつこのアブハジアという小さな国で起きている現状を世に伝えることに成功している。
ただ私が嫌なのは少女の着替えシーンで、『無意味』という強い言葉を使ったように、私は児童ポルノが大嫌いで報告するレベルなので、こういう映像は流さないでほしい。もちろん局部は映らないが、暗にそういう連中の欲望を煽るようなことは許せない。それは、私の中にもある欲望なのである。女性をエロティックに映せばロリコンじゃなくても何かを感じるものである。『その要素』を煽ることに対し、腹を立てながら観ていた。
『そうでもしてくれないと記憶に残らないでしょ』という狙いがあるのなら狙い通りだ。
『とらわれて夏』
人を愛するということは、どういうことだろうか。まず『愛』の実態すら人間は永久に解明できない。何となくこういうものだろうという、漠然とした解釈が限界なのである。だが、確かに直感が大声で叫ぶときがあるのだ。ときにその瞬間は常識外れであり、多くの人の理解を得られない。だが、叫んでしまったのだ。それならばそこがその人にとっての、命を懸ける価値がある瞬間だ。
『トランセンデンス』
命を失い、人工知能と化した科学者。最初は良かった。死んだはずの人の意識がまだこの世に存在している。だが、それがまかり通っていいのか。その延長線上には何があるのか。とある科学者とその彼女のとった悪気の無い行動が、FBIを巻き込む大騒動となっていく。
『ドリーム』
『ライトスタッフ』を観たことがある人にとっては楽しめるポイントがいくつもある。これは『ガガーリン』、『ライトスタッフ』、『スペースウォーカー』、『アポロ13』、『ファーストマン』とセットで米ソの宇宙競争、あるいは冷戦という形で観て楽しめる映画である。だが、今回はそれらと違って女性がメイン。これらの映画を観れば分かるが、この地球最前線の職場には『黒人』も『女性』もいない。
では、それらの人々は本当にそこにいなかったのだろうか。いや、いた。それも天才級の黒人女性が最低でも3人はいて、彼女たちは『彼ら』の活躍に欠かせない存在だったのだ。この映画の原題は『Hidden figures』。意味は『隠された人物』である。
『ドリームハウス』
一人の男が街にやってきた。どうやらその男は、何かを探しているようだ。だが、それが見つからない。そして、近隣の人々が、どうも怪しい動きを取っている。何かがおかしい。きっと、彼らが何かを知っているに違いない。だが、そこに待っているのは思いもよらない展開だった。この映画で『誰が』病気・障害と関係しているのか。それが重要である。
『ドリームランド』
『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』のマーゴットロビーが製作も主演も務めるが、それが逆に引いてしまう要素になっている。つまり、(え?こういうのが作りたかったの?)となるわけだ。主体的に選んでしまうと、反応的と違って言い訳が効かない。監督になるともっとその要素が出てしまうわけだ。だが逆にそれは諸刃の剣で、ハマった時は世界中から大絶賛される。監督の人格そのものさえ称賛される。
だがその逆もまた然りだ。これを観ると彼女は、『こういう魔性の女的なキャラで、無知な男をたぶらかす役』がはまっていると自分で思っているのであれば、それは思い上がりであるということになってしまう。
『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、あくまでも彼女がやむを得ずその役をやっていたように見えたから魅力的に見えたが、とにかく主体性とはそういうものだ。いつもとは違う目で見られる。
コロナ問題もあるだろうが、売り上げが3千万円程度という問題外の結果に終わっているし、彼女以外のスタッフが、監督から製作総指揮に至るまですべて無名の人物であるということも影響しているのか、B級ギリギリの内容になっている。だが、もちろんそこまでにはならない。だが、彼女がこの役を演じるのはまだ早いか、あるいは演じるべきではない役だったと言えるだろう。
初監督作品ということで、自分がお金を出していた場合、『無名の人しか雇えなかった』とか、テストとして、ということもあるだろう。試行錯誤することはいいことだ。何もしない人よりはるかにいい。
『ドローン・オブ・ウォー』
2010年頃、ドローンを使って汗一つかかずにアフガニスタンにいる人間に甚大な被害を与えるミッションをこなしている男たちがいた。これは、そうした事実を基にした映画だ。たしかに、9.11以来どんな手を使ってもテロを未然に防ぎたいし、そのテロリストたちを根元から完全に根絶したいと考えるのは無理はない。誰もが防衛の責任者にいる人間であればそう考えるだろう。それ以外の9.9割の一般人は意見を持っているだろうが、責任者は0.1割だ。ガヤが何を言うのは自由。だが、内部にいる人間が何をするかで全ては決まってしまう。
だからグアンタナモ基地等を筆頭に、怪しいと感じた者は手当たり次第に捕まえて監禁し、決めつけて自白を強要し、少しでもテロリストとつながりがあれば『だから言ったんだ』として強引に正当化。もはや、そこまでしないと根絶はできないという証拠だ。だからドローンを使っても何をしても、怪しい者がいたら『前始末』しなければならない。
だが、実際にその現場を務める人間の心境はどうか。まるでゲームのように画面に映る映像を見て、流れが来たらボタンを押して爆破。一部の精神未熟なゲーマーなら目をギラギラさせて興奮しながらそれを『楽しむ』だろう。だが、彼が葛藤するのは彼が『人間』だからだ。人間を守りたいと思ったのは、彼が『人間』だからだ。その『人間』たる彼の心底が、そのミッションを否定し始めた。
『ドン・ジョン』
この映画を真剣に観れない人は、逆に知性がない。『話を聞かない男、地図が読めない女』を一冊真剣に読むだけでも、この映画を真剣に観る動機になるはずだ。自分の意識とは無関係の部分に、例えばテストステロンがある。これは、『性』なる授業だ。
『ドント・ブリーズ』
『・クワイエット・プレイス』はこの2年後の2018年の公開だから、こっちの方が先になる。『この手の内容』においては先だ。内容が大きく違うが、『声を出してはいけない』という点では一致している。
ただ、どっちかがパクったという印象を得るわけではなく、両方とも違った面白さがあって、中々いい。だが、軍人役以外はほぼ無名と言っていい俳優が揃い、華がなく、かつ万人受けできないような衝撃の秘密を抱えているため、やはり前者の方が世界的ヒットはするだろう。
私はホラーとか無駄にグロいのは嫌いだが、映画は大好きというかなりこだわりのある映画ファンだが、その私から見てもこの映画は、中々見応えがあった。
な行
『ナイスガイズ!』
ライアンゴズリングのこの手の役は珍しいので貴重だ。それに中々に合っている。彼はいつも通りの『内向的なクールガイ』も似合うが、こうしたコメディ路線でもいける。
『ナイト&デイ』
『Mr.&Mrs. スミス』がブラピとアンジーであれば、これはトム・クルーズとキャメロン・ディアスという美男美女のスパイ映画である。昏睡状態が多いのは前の共演『バニラ・スカイ』をなぞっているということで、その映画を観ている人からすれば二重面白いというわけだ。トム・クルーズ演じるロイに一目ぼれしたジューン(キャメロン・ディアス)だったが、ロイの正体はジューンが夢に見た理想の男性どころかCIA所属の超一流のスパイであり、そのCIAから追われているのであった。
『ナイトクローラー』
アインシュタインは言った。
『結果というものにたどり着けるのは、偏執狂だけである。』
この偏執狂の人間への見方は色々ある。アインシュタインの言ったような偉人たちも確かにその範囲内だ。だが、この主人公の場合はどうだ。そう。『異常』だ。
『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』
『ナイブズ・アウト』。それは『多くのナイフが出ている』という意味であり、ここで考える場合は『容疑者がたくさんいる』状態だ。しかしそれは推理ものの話では常識的な状況。問題は、なぜ『ナイフ』が随所にこの映画に登場するかだ。我々は最後まで『ナイフ』から目が離せない。
『ナインイレヴン 運命を分けた日』
もしこれが完全な実話なのであれば、とんでもない映画である。だが、もしかしたらフィクションかもしれないので、妙に惜しい映画だ。911の事件は誰もが知る大惨事でそれは実話だから分からなくなっているが、『ただのエレベーターの中での話』なのに、ドラマとしてはそれだけ見応えがある目が離せない映画だ。
『ナタリー』
恋愛映画に興味がない私が見て面白いと思う映画である。正直、動画配信サービスで観ていくマイリストに恋愛系があると、ちょっと(外れか)と思ってしまう。だが、実は今まで大きくため息をついたことがないのだ。
観てよかった。やはり映画は最後まで観なければ分からない。映画のTwitterのフォロワーの方は、私がたまに怒るのを見ている。その理由の100%は『黒いものに触れた時』。例えば、姪や甥の前では汚い言葉さえ一度も言ったことがない。足を引っ張ったり、揚げ足を取ったり、陥れようとしたり、見栄を張られたり。人生で『純粋』が何かを知ったからこそ、その対極を嫌うようになった。
彼女もまた、『アメリ』のように繊細で純粋な世界以外は受け付けることができない。いや、アメリとはまた少し事情が違うのだ。
ポスターの後ろに映る冴えないオッサンがいる。最初、半笑いで佇む彼を見て、笑いをこらえられなかった。それは長い間ずっと続くことになる。だが、気が付けば彼の『純粋さ』に心を奪われてしまっているのだ。男の私が。
いつの間にか、傷ついた彼女の心の隙間にさりげなく座っている。何もしないんだ。ただ座っている。この映画で我々は、『愛』を知るのだ。『純粋な愛』ではない。愛が元々、純粋なのだ。
『何者』
第148回直木三十五賞受賞作の朝井リョウの小説を映画化。SNSが完全に蔓延した2010年以降の人生を生きる人達に突き刺さるありふれた日常を切り取る。私は以前このサイトで、ワンピースの名言を内省した時に、こういう記事を書いている。
『戦場で生き残るのは…『強者』と『臆病者』だ 『勇者』は死ぬと相場は決まってる……!!』
そこに書いたのはこうだ。
目の前で子供がトラックに轢かれそうになったのを見た時、『強者』は、自分の支配下の人間に助けさせて、手柄だけ取る。『臆病者』は、見て見ぬふりをして、”生きながらえる”。そして『勇者』は、自分の命を顧みず、自分の命を使い切ろうとする。あなたは一体この人生で、『何者』になりたいのか。
『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。』
byシェークスピア
だから色々とこの言葉には興味があった。さて、今回の作品と一体どういう繋がりがあるだろうか。
『涙するまで生きる』
ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの短編小説を映画化。しかし主演のヴィゴモーテンセンは何か国語喋るんだという。『アラトリステ』ではスペイン語、今回でフランス語だ。舞台は1954年のアルジェリア。『アルジェの戦い』としても有名なアルジェリア独立戦争が起きたとき、その渦中で生きる非戦闘員はどのように葛藤したか。
これは私の個人的な感想だが、戦争映画というのはそれから何十年も経ってから映画化するよりも、渦中に映画化してしまう方が人々の注目を集めるということだ。それは映画だけじゃなく、SNSを通したりして、世界の人々の心の動きなどを観ているとつくづくそう感じるのである。例えば渋谷駅にあるハチ公だが、今あの犬の物語を知っている人が渋谷で遊ぶ人の中にどれだけいるだろうか。
そういう『心そこにあらず』感が昔の戦争の話だとどうしても漂う。だが、例えば2020年現在で考えると、記憶に新しいISISの話などは非常に臨場感あふれる様子としてこちらに伝わってくる。だから、古い戦争の映画を、それを知らない時代の人間が見て正当に評価することは難しく、豊かな想像力を必要とするのではないだろうか『アルジェの戦い』は臨場感がすごかったので、それとセットで観れば奥行きが深くなるが、これ一本だけだと実態がつかめない人も大勢いるはずだ。
『ニーゼと光のアトリエ』
ショック療法が当たり前とされ、精神病院が患者を人間扱いしていなかった時代があった。古代ギリシャでは精神病は体の病気とされていた。例えば、ヒステリーは子宮の病気とされていた。そして中世ヨーロッパでは、精神病者は『神により罰を与えられた罪人』とされていた。しかし、1793年に、Ph.ピネルによって『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』だとわかった。
かつて『虫歯』は、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた。それに対し、アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出したのが、虫歯に対する最初の学説である。
かつて、『ロボトミー手術』という人間の一線を超えた医療が実際に行われていた。マイケル・ダグラスとジャック・ニコルソンの名作『カッコーの巣の上で』もそのような時代を背景にした映画だ。この映画から学べることは多くある。主人公ニーゼは実在の人物。つまりこれは実話映画だ。
『ニューイヤーズ・イブ』
- バレンタインデー Valentine’s Day (2010)
- ニューイヤーズ・イヴ New Year’s Eve (2011)
- マザーズ・デイ Mother’s Day (2016)
彼(ゲイリー・マーシャル)の映画にはこのように特別な日にスポットライトを当てたものがいくつかある。クリスマスがないのはすでにありきたりだからかもしれない。たしかにこの日にスポットライトを当ててくれることは、多くの映画を観ている側にとっては嬉しい。
『ラブ・アクチュアリー』はクリスマスだが、あれのように群像劇的に、様々な人々の大晦日(ニューイヤーズ・イブ)が描かれる。そしてそれはもちろんその次の日の元旦も映し出されるわけだが、日本で当然のような光景の一つである『食事の前のいただきます』がないように、アメリカには元旦という文化はなく、『ニューイヤーズデイ』として、通常はパーティの後の日ということで、家でゆっくりすることが多いようだ。
人間というものは数字に支配されているものだ。ぞろ目を見たら何だかいつもと違う気分になるし、4が揃ったり、金曜日に13日だったりすると、いつもと違う気分になる。ある年齢によって結婚しなければならない強迫観念を強いられる人もいるだろうし、体のサイズを1㎝単位でハッキリさせることに執着する人もいる。
では、12月31日という日はどうか。人々を、どのような気持ちにさせるか。その日にかけられた魔法だけで、いくつの奇跡が起きるか。
『ニュースの真相』
CBSの人気番組『60 Minutes II』のプロデューサを務めるメアリー・メイプスの実話。ジョージ・W・ブッシュ大統領が従軍中に有利な扱いを受けていたという疑惑を追い、ブッシュに関する記録が処分されたり書き換えられたに違いないという声をもとに、真実を追求する。CBS放送は、アメリカ最大のテレビ・ラジオ・ネットワークを有する放送局で、NBC、ABCと並ぶ3大ネットワークのひとつである。
CBSの『60 Minutes』というのは信念のジャーナリストが集まりがちで、アルパチーノ主演の『インサイダー』でも、アメリカのタバコ産業の不正を告発したその番組のTVプロデューサーと大手タバコ会社副社長の実話が描かれる。だからぜひとも、その映画と併せて観たいわけだ。テレビ局という莫大な規模の世論に影響を与える存在が、どこまで正常に機能することができるのか。
更に、『ペンタゴンペーパーズ』、『ザ・シークレットマン』におけるディープスロート。このあたりも映画で観ておけば、何倍もこの映画を楽しむことができるだろう。
相手は両者とも、想像を絶する巨大組織である。
『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』
まず、90分だし、高齢者の話だし、家を売るというニッチな話だから、B級レベルを覚悟する。だが、終わった後はむしろ『名作』としてジャンル分けすることになるという、大どんでん返しの作品だ。
俳優も実力者だ。モーガン・フリーマンは説明不要だが、女性の方もよく大御所と絡んでいて、名前は知らなかったのだが彼女が出る映画は意外といい映画が多く、気にはなっていた。私は映画を3000本も観るのに興味があるのは作品の内容だけだから、俳優の細かい情報まで知らない。しかし調べてみると、ダイアン・キートンという女性で、
- 『ゴッドファーザー』
- 『アニー・ホール』
のあの彼女だという。さすがにゴッドファーザーほど古くなると、現在の彼女と一致させることは難しかった。アニーホールもそうだ。あれほどがっつりヒロインを演じていたのに、高齢になってからの彼女と一致しなかった。
- ハリソンフォード
- マイケルダグラス
- ウディ・アレン
- ロバート・デ・ニーロ
- マーロン・ブランド
- アル・パチーノ
錚々たる俳優たちと共演してきただけあって、彼女の堂々たる演技は筋金入りである。また、個人的な話で言うと母親も彼女のことが好きで、たまたまこの映画を観ていたという。そして、これも偶然だが、我が家の実家を売らなくてはならない一生に一度の大問題がこの後すぐに発生する。
私はよく『自分とは遠い話だから分からないが、刺さる人には刺さるだろう』と言うのだが、このような経験もいくつかしているからだ。そしてそのたびに、
(これはこうして実際に経験をしなければ、この心境は分からないだろうなあ・・)
とつくづく感じてきたのである。まさか、この映画がその我が家の一生に一度の大問題に役立ってくれるとは想像していなかった。元々『名作』としてジャンル分けしていたので、更にその件があったことにより、この映画は忘れられない存在となった。
『日本列島 いきものたちの物語』
多くの生き物たちが、野生で生きている。この日本にもたくさんの野生動物がいる。しかし、都会にいる人は特に、それらの事実を信じられないだろう。都会に住む人が見るべき映画かもしれない。彼らは今も必死に、この日本で生きているのだ。
『ネイビーシールズ』
世界最強の軍隊『ネイビーシールズ』から見た戦争の光景。あまりの無駄のなさにあっけなさを感じるが、これが実際の彼らの実力だ。当初、隊員役に俳優をキャスティングする予定だったが、現役の隊員が出演する事となった。本作に登場する武器・兵器は本物を使用しており、実弾で撮影を行った。フィクションとは違って本物だから、迫力の格が違う。米国内の主要都市で自爆テロの計画があることを知り、彼らはテロリストの拠点があるメキシコに飛び、メキシコ軍特殊部隊と共同で急襲作戦を決行する。
『ネオン・デーモン』
表層に依存する人間は、浅薄そのものである。だが、モデル業のように、その表層が高く評価される人間もいる中で、あながちその表層を一辺倒に切り捨てることはできない。だが、それでも『依存する』人間は浅薄である。この話で観ることができるのは、その表層に依存した人間の成れの果てだ。衝撃的なラストを観ることになるだろう。
『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』
この映画の父親役には、ジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロ、ロバート・デュヴァル、ジャック・ニコルソンなどの大スターが計画されていたという。確かにそれだとこの映画のレベルは大きく引きあがったと言える。だが、そうじゃない、(私にとっては)無名の俳優が演じることによって、それはそれで味が出て、物語の方にスポットライトを当てやすくなった。それは、この監督の映画『サイドウェイ』を鑑賞したからということも関係しているだろう。
確執があるわけではない。けど、親子の絆がとりわけ強いと断言できそうもない。そんなごく平凡の親子の絆を持った二人が、半ば強制的に決まった『無意味な旅路』で見つけた『意外なもの』とはなにか。
『ノア 約束の舟』
『神の目線』とは、こんなものは『日本語』だ。重要なのは、その言葉が指し示す言葉の意味である。では、自分の子供の命を守ることは、正しいのか、それともエゴなのか。全ての人間が規範意識を鍛えられることになる。どうも以下の記事を貼り付けることが多くなってしまったが、これはわざとではない。自然とそうなっているだけだ。私が言うことを理解するためには、以下の記事を読むことは避けられない。ただし、このサイトで最も難易度の高い記事のため、全てを読む人はほぼいないだろう。
ただこの映画には扱うテーマがテーマなだけに批判意見もあるのでそれを載せておこう。キリスト教側からはこう。
正教会の司祭からは、作品の根幹にある設定が創世記の実際の記述からかけ離れている事を「47RONIN(が忠臣蔵を破壊している)くらい原作を破壊している」との譬えで指摘し(ノアの三人の息子にはそれぞれ妻がおり、箱舟に一緒に乗った記述が創世記7章にある)、聖書の原型の影も形もとどめていない一作品であるという事を前提として見るべきであるという見解が出されている。
ユダヤ教側からはこうだ。
正統派ユダヤ教ラビの指導者のシュムリー・ボアテック(英語版)は『ノア』につき「価値ある映画の一つ」(a valuable film)として一定の評価を下しつつも、「ハリウッド映画が主要な情報源となる事は望まない。幸いなことに、彼らの映画はさまよっている。」として、人々が原典に立ち返るきっかけになる事を望むと述べている。
こうした意見は『パッション』『エクソダス神と王』の時もあったから、映画を過信、盲信してしまう人には有効な主張となる。確かに『47RONIN』を真正面から受け取るとそうなるので、視野が狭く、忠誠心が高い人たちからすればこういう意見になるだろう。私も以前はそういう視野の狭さを持っていた。そもそも私は親からクリスチャンになることを強要されて育ち、宗教を呪い、特にキリスト教に対しては憎悪の念を抱いていたので、そんな私がこの映画に教訓性があると言っている時点で、私にあるのは視野の広さ以外の何でもない。想像力を持つべきである。
『ノーマルハート』
脚本家ラリー・クレイマーの自叙伝的舞台作品であり、つまり実話である。製作総指揮にはブラッド・ピットもいるが、テレビ映画である。だが、テレビ映画の割には普通の映画との差はほとんどなく、むしろ普通の映画にテレビ映画のようなクオリティのものがあるので、どちらでもほぼ変わらないわけだ。
そもそもテレビ映画の方が格下の意味があまりわからないが、恐らく製作費ということだろう。映画は単体で勝負しているようなイメージがある。だから一本一本を世界中に告知して回らなければならない。だがテレビなら番組の枠内にはめられるので、流れでそれを観る人をキャッチすることができる。
店舗の集客と同じだ。ある美容室は利用者にはとてもいい環境だった。広々としていて、余裕がある空間だったからだ。だがある時から大型の商業施設に組み込まれてしまった。そのせいで、快適な空間はなくなってしまい、利用満足度は確実に下がった。

だが売り上げは上がったのだ。なぜなら、その商業施設の集客の流れができているからである。つまり、もし美容室自体の売り上げがなくても、そこで売る化粧品の売り上げが上がるのだ。店が生き残る為にそれは取るべき選択肢だった。
そう考えると、この作品は商業施設に組み込まれているような類の作品になるが、しかしクオリティと教訓性が高く、ここまでくると映画が持つ威力と同等のものを感じるのである。同じテレビ映画でもアルパチーノの『フィル・スペクター』は、この域には達していない。
では何がいいかというと、圧倒的に教訓性である。まず、ゲイがどのような存在であるかということについて、考えさせられる。ゲイも含めてLGBTの正当性を騒ぐ昨今だが、その答えは常に曖昧なわけだ。それを容認しないと時代遅れである大きな流れがあるだけで、まだここに確固たる答えを見つけたわけではない。そして、1981年のその頃、まだ『エイズ』が『謎の伝染病』としてでしか認知されていなく、これがゲイがこの世に生み出した悪の根源であると認識されていた。
確かに、もう冒頭からふしだらな彼らの実態が描かれるので、彼らがどうしても『悪』にしか見えないわけだ。だが、それを認めないといけないわけだろう。そして、『ダラス・バイヤーズクラブ』のように、同性愛者だけがエイズにかかるわけではないのだ。
だが、圧倒的に同性愛者がかかり、苦しみ、最後には死んでしまう。それが一体何を意味するか、色々な奥行きを想像してしまう人が出るのは当然ではないだろうか。
火をつけて燃えるなら、紙を火に近づけてはならない。同じように、人はただその因子同士の接触を『危険』だととらえて、反応しているだけだ。多くの人は思慮深いわけではない。パッと考えて反応すれば、そういうことになる。
では、同性愛はいけないのか。LGBTを受け入れなければならないのではないのか。もしくは、性別不合というのは本当のことで、しかし、その考え方を持って『普通の人間』のように人生を生きようとすると壁にぶつかるということで、彼ら、彼女らは、まるでこの世に生を生きたが、難病を患って早死にしてしまう運命を負った人達のように、単なる病人なのだろうか。
普通の人間と同じだと考えるから壁にぶつかるが、もし病人の類になるならば、足に障害を持った人が杖や車いすを強いられるように、『普通の人間』と同じ人生は、送れない。
いつも通りこのテーマは考えさせられる結果に終わる。とりわけ今回の映画は実話ということ、そして1981年のその頃、そういうパーティが当然のように存在していたこと、そしてエイズが『原因不明の伝染病』だったということ。これらの事実と触れることができる点において、価値のある映画である。
『ノック・ノック』
動画配信サービスの評価は低いが、それはキアヌ・リーブスとアナ・デ・アルマスが名優だからだ。つまり彼らが出てるからハードルが上がって逆に低俗に感じる。でも実際には単なるホラーなら、星3という厳しい評価にはならない。セクシーなアルマスと滅茶苦茶にされる珍しいキアヌを見れるだけで評価は高い。また、あまり遊び慣れてない男なら、教訓にもなる。単なるスリラーで終わらない。
この映画は妙に綺麗で珍しい家がモデルなのだが、もしかしたら『それありき』の映画かもしれない。
(この家で映画を撮りたい)
みたいな。例えば『アウトバーン』という映画はやたらと盗む車が『全部』高級でピカピカ。ショットも車のCMみたいな感じだし、間違いなく車会社とのタイアップに近いような映画。映画の裏事情というのは色々あるだろう。あれこれ色々考えることはあるが、結果的にぶっちぎってるから面白い。無難な映画よりは全然いい。
また、最後少し気になったのだが、やたらと『綺麗で整ったものが破壊された映像』が目についた。家庭、家、アート。それで最後に『アートなんて存在しない』と落書きされるのだが、私はそれが『逆にアート』のような気がした。
『いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。』
byピカソ
キアヌは普段、絶対こんなことをやらない。彼が選ばれたのもその辺りにあると考えると、滅茶苦茶な映画だったが、何か一種のアートを観た気がした。少なくとも彼の他の作品『グリーン・インフェルノ』よりは教訓性があった気がする。この映画はちょっと奥が深い。
は行
『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』
ケネディ大統領暗殺事件の周囲で実際に起きていた4日間の出来事が描かれる。物語性や壮大性というのはないので、ドキュメンタリー映画とまではいかないが、『当時の真実が気になる人』向けの90分の歴史的な小ドラマと言えるだろう。だがこの歴史的大事件の詳細が気になる人は大勢いるから、ある種の見応えはある。私などは映画をたくさん見て、特に歴史映画はしらみつぶしに見ているので、注目して鑑賞した。
だが、映画としての完成度を求めるならケビンコスナーの『JFK』を観る方がいいだろう。この時代、暗殺される要人が大勢いた。彼の弟のケネディもそうだし、キング牧師にマルコムX、メドガーエヴァースといった黒人の指導者たちもそうだ。
冷戦の真っ最中にこうしたことが起きると、人々は様々な推測をしてしまうものだ。例えば真珠湾に対する日本軍の攻撃に驚いたアメリカ人人の恐怖が引き起こしたロサンゼルスの戦いというものがあった。
「真珠湾の次はロサンゼルスが標的にされる」
とか、そういう類の不安からくる妄想や推測は、動きが派手であるほど膨らんでしまうものである。2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際も、その日のTwitterのトレンドは『第三次世界大戦』だった。果たして、オズワルドという男は何者なのか。
『ハード・ラッシュ』
凄腕の運び屋だった男が、妻の弟の弱い心と欲望に巻き込まれ、再び裏の世界に足を踏み入れた。もちろん、そこに待ち受けているのは頭を抱える数々の問題だ。警察、マフィア、どれも一触即発で、一歩間違えたら人生は終わってしまうことになる。果たして、彼とその家族は一体どういう結末を迎えるのだろうか。
『バーニング・オーシャン』
2010年メキシコ湾原油流出事故がモデルとなった映画。海に大きな掘削施設を作り、海底を掘って天然ガスを掘り当てる光景がよく見られるようになった。当然、過去にはこういう光景はなかった。そして、こういう事故もなかった。これは、人間がこの世界で切り開いた新境地と、その先で起こった未だかつて見たことがない甚大な被害である。
『バイス』
まさかブッシュ大統領がああいう人間だったとは知らなかった。あの時、あの世界中がアメリカに注目する時期、彼の陰で暗躍していた人間がいたのだ。最上部にいる人間を非難するのは簡単だが、誰かがやらなければならない。権限移譲したのは大衆なのである。
『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』
ユダヤ人大量虐殺の実権を握り、その冷酷さから「金髪の野獣」「プラハの屠殺者」と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒ。彼は、ヒトラー、ヒムラーに続くナチスの大物だった。チェコスロヴァキアを占領するハイドリヒ。彼は平気で無実の人を数万人単位で殺害する、暗殺の対象に相応しい狂人だったのだ。では、彼を野放しにしていいのか。だが彼に逆らうことは命の終わりを意味し、たとえ彼を倒してもその代償はあまりにも大きい。報復としてまた数万人の無実の人が殺されてしまう。
一体どうすればいいのか。その時、数人の男たちがある決意をした。
『パウロ 愛と赦しの物語』
『新約聖書』の著者の1人である使徒パウロの生涯を描いた作品だから、歴史的にも貴重なワンシーンだ。時は紀元67年、ローマ皇帝ネロによるキリスト教徒迫害が行われているローマが舞台である。このネロの姿は『クォ・ヴァディス』でも見ることができるが、視点が違うため『ベン・ハー』などと併せて観たい。
マメルティヌスの牢獄に捕えられて処刑を待つパウロの姿とその生涯を、監獄の看守マウリティウス、医者のルカの目を通して描く。このルカという人物だけでも、20億人のクリスチャン、そしてキリスト教を学ぶすべての専門家から注目されることになる。
レザー・アスランの著書『『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
ルカの書いている話の中で正しいのは一つだけだ。ユダヤが公式にローマの一州になったのは、ヘロデ大王の死後10年目の紀元六年で、この年にシリア州総督キリニウスが、ルカの言う様な『ローマの全領土』ではなく、ユダヤ、サマリア、イドマヤの全住民と土地、奴隷のすべてについて登録を行わせたことである。これには、イエスの家族が死んでいたガリラヤ地方は含まれていない(ルカのもう一つの間違いは、キリニウスの行った住民登録年代である紀元六年を、イエスの誕生年としていることである。多くの学者たちは、イエスの誕生は『マタイによる福音書』に記されている紀元前四年頃としている)。
(中略)ルカの描いた幼少期の物語を理解するうえで重要なのは、当時、まだローマの支配下で生きていた彼の物語の読者たちが、ルカのキリニウスの住民登録の説明は事実として正しくないことを知っていたと思われることである。実際の出来事から一世代ちょっとあとにこれを書いているルカ自身が、自分の書いていることは厳密に言うと不正確であることを知っていた。現代の福音書の読者には容易に合点がいかないであろうが、ルカはベツレヘムでのイエスの誕生物語が歴史的事実と解釈されることをまったく意図していなかった。

ルカは、現代世界の私達が言う様な『歴史』という概念を持っていなかったのかもしれない。歴史とは、注意深く分析すれば、客観的にも、実証的にも、分析可能な過去の出来事であるという概念は、現代社会の産物である。歴史とは、『事実』を暴露することではなく、『真実』を明らかにすることだと思っていた福音書記者たちにとって、それはまったく異質の概念だったであろう。
神話と現実を区別していなかった福音書
『ルカの福音書』の読者は、古代世界の多くの人がそうであったように、神話と現実を厳密に区別せず、この二つは彼らの宗教的体験の中で緊密に絡み合っていた。つまり、彼らにとっては実際に何が起こったかということよりも、それが何を意味するかということの方に関心があったのである。
非常に興味深い内容だ。また、『キリスト教』を作ったのはイエスの弟子のパウロだ。だがパウロは生きているイエスに会ったことは一度もない。さて、パウロとルカという重要人物の裏情報を知ったところで、この映画を見てみよう。
『バグダッド・スキャンダル』
元国連職員マイケル・スーサンが自身の体験をもとに執筆した小説「Backstabbing for Beginners」の映画化で、国連史上最悪の政治スキャンダルとされる、困窮するイラク国民を救うはずの夢の人道支援プログラム「石油食料交換プログラム」の裏で行われていた不正を描いた作品。アマプラで無料で観れるから、また、テオジェームズがそこまで有名な俳優じゃないということで完全に舐めていたが、これはとてつもなく莫大な人生のヒントが隠された映画だった。
この「石油食料交換プログラム」というのは1996年から開始され、2003年末頃終了した7年間累計で輸出640億ドル(当時の為替レートで7兆3600億円)輸入370億ドル(4兆2250億円)に至った交換プログラムである。このプログラムは、イラクが軍隊を再構築することなく、食品・医薬品その他のイラク市民にとって人道的に必要な物資と交換に、イラクが石油を輸出できるようにすることが目的であった。イラクの混沌を抑え、軍備ではなくもっと国民に直接利益があることにお金を使い、平和を作り上げる。そういう目的で用意されたお金が不正に扱われたのだ。
まず、このプログラムが終了してから、プログラムの資金に関する18億ドル(約2000億円)を超える汚職が明らかになった。更に、アメリカ合衆国政府会計局(GAO)による調査では、汚職の一部(フセイン大統領の取り分)だけでも推定101億ドルと、1兆円を超える汚職であった可能性が指摘されるも、国連は調査協力を拒否した為に全容不明である。
この話の何が教訓性が高いかというと、『エネルギーの集約』である。エネルギーを一つに集めて、そこから利益を得る。これが人間の人生にとっては非常に重要な要素となる。例えば、株式会社である。会社を上場させれば株を買ってもらいやすくなり、そうなると資金が集められる。資金が大量にあればビジネスを有利に始められる。そのビジネスで大きなシェアを確保すれば、その市場から利益を得られる。中途半端にやると、自分たちより大きなエネルギーを持った会社に飲み込まれたり、勝てない。
戦争も同じことである。銃が浸透する前、人々は剣や刀、弓矢等で戦っていた。だが、日本において大体明治維新あたりの時期にガトリング砲のようなものが登場。面白いことに、この時期を描いた映画にガトリング砲が登場するシーンが多い。すぐに、マシンガンや機銃を備えた軍艦、戦闘機や爆撃機が発明される。核爆弾はどうだ。ライト兄弟やアインシュタインら天才発明家や科学者の力が乱用された形になるが、あのノーベル賞のノーベルも、ダイナマイトの発明が乱用されたことで、自分の人生を呪ったという。
そのように集約され、あるいは膨張したり充填されたエネルギーは、自分たちより弱いエネルギーの人々を制圧するだけの力を持つ。それが達成されれば、そこで生み出されるエネルギーが自分たちのものになる。海産物、農産物、科学技術に、それらを生み出す工場や人材。かつて、フランスとイギリスが筆頭として世界に自国の植民地をいくつも従え、宗主国としてお金(エネルギー)を集め、繁栄したように、また、水面下で黒人を筆頭として奴隷(エネルギー)を集め、それを越権的に私用し、繁栄したように。この世界では、エネルギーをどれだけ集められるかということが大きなカギを握っているのだ。
この、『イラクを何とかして平和にしよう』として国連が集めたお金『約4兆~7兆円』は、国連史上最悪の政治スキャンダルと言われるだけあって、莫大な金額(エネルギー)である。そのうち、2000億円が乱用されたとか、フセインが1兆円も横領していたとか、そういう『誰の目にも悪徳で稚拙』と映る悪行はさておき、最も我々が目を向けるべきなのは、『これだけのエネルギーが集まった』という事実なのだ。

『ドラゴンボール』の元気玉は、孫悟空が筋斗雲に乗れるように、彼が純粋だからこそ成立する。つまり、集めた膨大なエネルギーを私的に乱用しないのだ。すべて、たった一つの目的の為に使われる。エネルギーを少しずつ集めた者は、そのエネルギーを約束通りの対象に使わなければならない。このバグダッドスキャンダルでは、それが行われなかったことが原因となった。
では、我々はどのようにエネルギーを集めるべきか。このことについては、学生時代すべてをつかって考えてもいいくらい、人生にとって重要なテーマだと言えるだろう。
『バクマン。』
イラストを数百枚描いている私だから言えるのだが、漫画を描くのは簡単ではない。私のは模写だ。モデルがあってそれを書き写しているだけにすぎない。複写ではない。それは上からなぞるだけのものだ。模写も簡単ではない。そう簡単にはここまでは描けない。だが、これよりも遥かに難しいのが、漫画を描くということである。
これはもう才能だろう。才能と簡単に言うが、その中には『その人が生きた環境』も影響する。時代、年齢、性格、家族構成、宗教、生活態度、幼少期、親からの教育、親の性格、経済状況、こういった無数の要素が絡み合い、『天才』を生み出す。ここでは、『ドラゴンボール』や『ワンピース』を超える作品を作ろうと、作画、原作で二つに分かれ、二人がかりで漫画家に挑む物語が展開される。
私はイラストをもう1000枚以上描いているから言う権利はあるだろう。ここにも出てくる通り、漫画家として生計を立てられる確率は10万人に1人、つまり0.001%。これは弁護士らのそれよりも遥かに低い可能性である。我々は漫画家を、甘く見ている。
『パシフィック・ウォー』
『パシフィック・ウォー』とは、太平洋戦争のこと。これは第二次世界大戦の一部だ。米国領ハワイ諸島への真珠湾攻撃で開戦し、日本はアメリカ、イギリス等の連合軍とこのエリアで戦争を始めることになる。その末期に、戦争終結の極秘任務を命じられたアメリカ海軍の巡洋艦インディアナポリスとその艦長チャールズ・B・マクベイ3世という人物が遂行する『極秘ミッション』があった。
彼らはテニアン島への任務が終わり、次の任務を遂行する途中で、日本海軍の伊号第五十八潜水艦により雷撃を受け、インディアナポリスは沈没してしまう。このあたりの話はネタバレ関係なく先に見ておいた方がいいだろう。だが、この後彼らがどうなったのか、そして、その『極秘ミッション』とは一体何だったのか、日本とアメリカにはもちろん、世界規模で考えても重要なミッションだったその真相を見よ。
『パシフィック・リム』
どうせ何の歴史にも残らないぞんざいなB級映画だと思って観たが、案外裏切られた。意外と迫力満点で、映画館で観れて良かった。
『はじまりのうた』
全米五館での上映が口コミで人気を獲得し1,300館にまで広がったという実力派の映画。映画ファンにもこの映画が好きな人が多い印象だ。特に女性である。それはやはり女性が主人公であるということも関係しているだろう。シンデレラストーリーにも似た流れがあるし、誰もが共感できる恋愛のいざこざもある。私は個人的に、主役の二人が小さなライブハウスで出会うシーンが好きだった。男が彼女が歌う声を聴き、『演奏』が頭の中に鳴り響いたシーンである。きっと映画館で観たら鳥肌が立っただろう。
『バタリオン ロシア婦人決死隊VSドイツ軍』
『バタリオン』とは大隊のことであり、それは独立した活動を行うことができる最も小さな戦術単位で、通常は師団・旅団・連隊の一部である。『ある部隊の話』と考えればいい。この場合、ソ連時代の女性で結成された部隊が、第一次世界大戦中の1917年、ドイツ軍と正面衝突するまでを描いた映画であり、実話ベースである。
ソ連はちょうど帝政ロシアからソヴィエト連邦に変わった年だ。1721年から1917年までに存在した帝国が前者。そこからロシアに変わるまでの間が1922~1991年までの間がソ連だ。だからこの年は微妙な『継ぎ目』の時。2月革命とは、第一次世界大戦中のロシアで1917年に発生した革命運動。ロマノフ朝による帝政(ロシア帝国)が崩壊し、数年間の革命と内戦を経てソビエト連邦の設立につながった。この後、ロシア革命(10月革命)が起き、
- レーニン
- トロツキー
- スターリン
といったよく知るソ連のトップたちの名前が登場することになる。したがって1917~1922年までの5年間というのは、『臨時政府』という形でケレンスキーなどの人物がロシアの代表を務める。そして、ソヴィエト連邦へと繋がっていくのである。
そういうロシアの歴史を切り取った実話ということだけでも貴重な映画だ。では内容はどうか。まず、正直な感想を言うと女性が戦争に出るということで、それまで観てきた10割近い戦争映画が男性兵士の話なので、眉間にしわが寄る。案の定、威勢は良いが喧嘩は猫パンチ。女性の限界を見ながら、ある種、2軍3軍の試合を見るかのようなイメージで、気を抜いて見てしまっていた。
だが、徐々に雲行きが変わってくる。髪を坊主にするだけで涙するところはまだ甘いが、それも含めて映画を通して女性の実態を再確認するようになる。そして、いくつかの場面を通し、確かに男性のそれとは勢いが全く違うが、ここにいる女性たちが、竹を割ったような覚悟は持たずとも、彼女らなりに命を懸けてこの戦争に臨んでいることが伝わってくるのだ。
したがって、私はこの映画を見下すことは決してできないと悟った。むしろ、誇り高き女性たちがソ連に存在した。そう確信して自分の人生のふんどしを締めなおしたのである。
『バックトレース』
スタローンもこういう風に、ニコラスケイジ的に『観ても観なくてもどっちでもいい映画』に出ていることが多いが、恐らくそれはお金の問題だろう。ニコラスケイジの場合、借金返済に苦慮していることから、仕事を選ばずに多くの映画に出演した事実がある。だが、数年掛けて46本もの映画に出演したことが功を奏し、現在は全ての借金を完済済みであるという。
この事実を考えれば分かるように、いかにクソ映画だとしても、役者は役を演じればギャラを貰えるのだ。アルパチーノらもそうだが、彼ら大物が後年になってそういうよくわからない映画に出演している理由には、ギャラが関係していそうだ。ニコラスケイジのようにお金に困っているわけではなくても、楽に稼げる理由や、誰かキャストやスタッフに知り合いがいるとか、そういう理由があるのかもしれない。
『ザ・バッグマン 闇を運ぶ男』
興行収入$56,574(500万円)というあまり見ないほど小規模な映画だが、そう大掛かりな費用をかけて作られているようには見えないので、だとしたら『世にも奇妙な物語』のワンストーリーを観たような感じで、別にそうつまらなくはない。映画館で観るほどではないだろうが、テレビで観るならいい暇つぶしになる。
『パッション』
『パッション』と言えば世界的にも有名なメル・ギブソンの方の映画を思い出す人が多い。キリストを描いた映画だ。全米歴代映画興行収入ランキングでも50位という高い位置にランキングされている。1位は『スターウォーズ/フォースの覚醒』でほぼ1000億円以上。アベンジャーズやタイタニックなどが色々続き、この50位のパッションでもなんと日本の1、2位と同じだけの売り上げをたたき出している。
300~400億円という売り上げである。宗教の映画がその数字をたたき出すというのは、日本ではあり得ないことだ。マーティン・スコセッシほどの巨匠が映画を作ったときも同じだった。遠藤周作の『沈黙』を原作とした『沈黙 -サイレンス-』は、50億で作って25億円の売り上げだから、赤字で終わったのである。
これで『そのパッション』がどれだけ映画界に爪痕を残したかがわかるが、案外今回のパッションもいい線をいっている。調べると、2010年のフランス映画『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて』のリメイク版だということだから、納得だ。大体、面白いと思ったシナリオは、後で調べるとリメイクされていることが多い。
一度作られて映像的な結果を出し、興行的な結果も見ながら、改善場所を修正しながら再構築するものが、面白くならないわけがない。もし面白くなくなってしまうのであれば、よほどスタッフやキャストに問題があるのだろう。
だが事実、この映画はノオミラパスの演技力に支えられているように見えるので、彼女がいなければ評価は落ちるかもしれない。また、原題も『Passion』のようだが、これはフランス映画時代の『ラブ・クライム』の方が良かったように見える。
『あのパッション』のこともあるし。
『パッセンジャー』
二人はきっと、出会うことはなかった。しかし、偶然の事故と、愚かな過ちによって、二人は出会うことになった。しかし、愚かな過ちは、愚かな過ちだった。そのせいで二人の人間関係は劣悪なものになった。だが、『心底の声』は違った。そこにあったのは、人間の理性や常識が通用しない、二人の『純愛』だった。
『バッド・バディ! 私と彼の暗殺デート』
馬鹿馬鹿しいタイトルのせいで機会損失を生んでしまっているように見えるが、原題で勝負してもアメリカでは赤字作品となっているので、この場合はそうして『試してみる』のは良しとされるだろう。『味変』みたいな感じで。内容も奇抜、時間も90分、主演の二人も最高級の役者ではないからやはりどうしてもこの作品を見下してしまいそうになるが、意外なことにこれがなかなか面白い。
そもそも、『最高級の役者』とはトム・クルーズやニコール・キッドマンのように、容姿も実力も揃っている役者のことで、この二人にも間違いなく実力はある。アナケンドリックも『ピッチ・パーフェクト』等で主演を務めるし、サムロックウェルになると『ジョジョ・ラビット』あたりから一部で『サム様』などと言われるようにすらなった。
ティムロスという大物役者も脇を固めているし、『隙間漏れ』がほとんどない完成度の高い作品だ。サムロックウェルがこういう役を演じるのは斬新で、彼はいつも脇でいぶし銀の役を演じる事が多かったから、なぜか嬉しかった。
『セブンサイコパス』も同じように彼にライトを当てた映画だが、どちらかというとこっちの系統をやってほしい。ただそれはもしかしたらないものねだりで、彼が悪役をやることが多いからこそ、そう思ってしまうのかもしれない。どちらにせよ意外な展開があって、中々面白かった映画だ。
『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』
バットマンが人間であるということを思い知る作品だが、人間はようやく、ドラゴンボールで言えば『クリリン』級の強さまで描けるようになったと、喜んだものだ。『ジャスティス・リーグ』が結成された後は彼らは味方になるが、それ以前の段階で大きな衝突をしてしまった。バットマンは、スーパーマンの活躍の裏にあった大きな代償に憤りを覚え、彼に敵対心を覚えるようになる。この映画でのアクションシーンは映画館ではとても見応えがあった。ワンダーウーマン登場シーンなども鳥肌が立つほど興奮したのを覚えている。
だがクリスチャン・ベールからベン・アフレックに代わり、バットマンがスーパーマンに対抗するため一回りガタイがよくなって、動きが鈍くなり、スーパーマンとの差があまりにも開きすぎているのを見せられると、バットマンがせっかくそれまで培ってきたすべての実績が無に等しくなるので、話題性は抜群だったが、展開には疑問を覚える形になった。
『パディントンシリーズ』
ヘンリー・ミラーは言った。
『いくら受け取っても十分でないもの、それは愛である。いくら与えても十分でないもの、それも愛である。』
もし、この世に残せる映画に限りがあるとしたら、どのようなものを選べばいいだろうか。非日常的な展開が楽しめるマフィアの映画?欲望を刺激する爽快なアクション映画?いや違う。それは、パディントンのような映画だ。
『ハドソン川の奇跡』
2009年1月15日、USエアウェイズ1549便がニューヨーク・マンハッタンの上空850メートルを飛行中、バードストライクによって全エンジンが停止、コントロールを失い、機長が取った選択肢は、ハドソン川に機体を不時着させることだった。その結果、1人の犠牲者も出さず、この奇跡的な生還劇は「ハドソン川の奇跡」として全世界に報道された。だが…。
『パトリオット・デイ』
2013年、ボストンマラソンでとあるテロが起きた。しかし、それをテロだと認定して公表していいのか。やったのは恐らくイスラム過激派だ。しかし、間違っていたら大変だ。大きな問題となる。皆が頭を抱える。それだけこの世界に深く食い込んでいる。それがイスラム過激派とテロリズムの問題だ。ボストンの街にかつてない緊張が走る。日本ではおよそ考えられない銃撃戦が行われる。テロリストはどうなったのか。ボストンの街はどうなったのか。この事件で失ったもの、得たものはなんだったのか。
『パパVS新しいパパ』
日本では劇場公開されていないが、そういう判断が日本とアメリカの差をより広げてしまっている。『テッド』を非公開にするのと同じだ。あれはギリギリ公開されたが、内容はアメリカ向きだったわけだ。日本の子供に見せたいような内容ではなかった。
だが、600億円も売り上げているあの映画を非公開にすることは世界との乖離を広げてしまうだけ。確かに日本とアメリカでは基礎の宗教も銃や麻薬に対する法律も違うから、全てをうのみにする必要はないが、それにしてもTedよりは全然この映画は健全である。
Tedでは「大人になるまで待てない! バージョン」と称し、通常版をファミリー向けに再編集した日本語吹き替え版がPG12指定で公開され、何としても『世界の波にくっつこう』という意思が見えるが、それをすると逆に大人版を子供達は見てしまうのではないだろうか。私なら見る。
それに、大人になってもマリファナを肯定したりドラッグの乱用シーンは適切に整理はできない。だから大人たちはいつまで経ってもそれに対して意見を衝突させ続けている。大人だから、アメリカだから、ということで判断するべきではないだろう。
こういう映画があっても全然いい。特に『パパVS新しいパパ2』では、ちょっとしたクリスマス映画になっていて、3000本映画を観ている私からすれば、そこに『綺麗を狙った』とか、『無理矢理っぽい』とかそういう不自然さは感じられず、むしろ自然で、感動すら覚えた。
気軽に見れて、18禁でもなく、『俺たちニュースキャスターシリーズ』のウィル・フェレルを筆頭にたくさん笑えて、感動すら覚えられ、クリスマス映画でもあるこの映画は、中々いい映画だ。
『バレット』
名作に数えられることはなく、よくあるシナリオの映画で、スタローンのスター性に支えられている一面が非常に強いことから、B級スレスレの作品となる。つまり、この映画が死ぬほど好き、という人はいないだろう。だが、最後のシーンを含めて私は嫌いじゃなかった。
『バレンタインデー』
監督のゲイリーマーシャルは、『プリティウーマン』の監督である。彼の場合プリティがつく映画がいくつもあるのが特徴だ。『プリティリーグ』や『プリティプリンセス』がそれである。しかも全部面白い。また、今回のバレンタインデーや『ニューイヤーズイヴ』、『マザーズデイ』のように、特別記念日のタイトルの映画もある。クリスマスに見たい映画があるように、こういう映画が存在することは価値があると言える。案外こうやって特別記念日がタイトルの映画はそう多くない。
作品の出来はやはりこういう特別記念日というエネルギーが働いているだけあって、その力を借りれるからうまくまとまっている。興行的にも成功している。出演キャストが豪華なのでギャラだけでも相当な値段になってしまうだろうが、それでもよければ映画というものはいつでもこれくらいの映画は作れるのだろう。
ちなみに『マイティー・ソー』でおなじみのクリス・ヘムズワースは、第1弾の『マイティ・ソー』(2011)こそ15万ドル(約2000万円)と低めだが、最後の方には20億円を超えていたという。
バレンタインと言えば日本では『女性が男性にチョコをあげて告白する日』くらいの感覚さえあるが、今回の場合はそうではないようだ。ホワイトデーがあるのもアジアだけだという。
しかし、日本同様バレンタインには大きな力が働いている。元々269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した「聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日」だと、主に西方教会の広がる地域においてかつて伝えられていて、キリスト教圏では一般に恋人や家族など大切な人に贈り物をすることが習わしとなっている。
チョコレートとは限らないし、女性が男性に、という方向も固定されていないようだ。それなら、意味としてはクリスマスや誕生日くらい特別な日だから、日本よりももっと幅広い人たちに影響があり、今回のように多様な人に目を向けて群像劇にしても、そこでドラマが期待できるというわけだ。
『パワー・ゲーム』
ゲイリーオールドマンにハリソンフォードといった大御所が裏で暗躍していて、『マイティソー』のクリスヘムズワースの弟、リアムヘムズワースと、美女のアンバーハードがさまよう若者役として活躍するが、ジョニー・デップとの泥沼裁判の影響で、もうアンバーハードに関しては穿った目しか向けられなくなった。やはり俳優の実生活は、どうしても作品のイメージに影響してしまう。不祥事を起こしてしまったタレントのCMが打ち切りになるのと同じだ。印象はとても大事なのだ。
『ハングマン(2018)』
他人の評価は低いようだが、私はむしろ『面白い』として蛍光ペンを引いた。わずか100分しかない映画だから、逆に無駄が省かれていて良かったのかもしれない。私のように3000本近く映画を観ていると、先が読める展開のドラマが多いので、こういう風にただ先が読めないサスペンスというだけで面白い扱いとなる。
『ハングリー・ハーツ』
教訓性が高くて深みがある。この映画の根幹を理解するためには、
- 栄養学
- 脳科学
- 自然科学
に造詣が深くなくてはならない。実は彼女が言っていることは全て『合っている』。だが、『足りない』。ゆえに、話がどんどん複雑化していくのである。
ソクラテスは言った。
『勉学は光であり、無学は闇である。』
一言、『無知』である。ただそれだけが生み出す人間ならではのヒューマンドラマだ。登場人物のほぼ全員に悪気はない。だが、こじれる。それは彼らが『愛』に対する掘り下げが、足りなかったからだ。愛は真理と=であり、逸れれば虚無に陥る。
『ハンズ・オブ・ストーン』
「石の拳(コブシ) Manos De Piedra, Hands of Stone 」と言われたパナマのプロボクサー、ロベルト・デュランを描いた伝記映画。『パナマ』の歴史という意味も少し込められていて勉強になる。一番有名な『パナマ運河』だが、この中央アメリカ(グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグア、コスタ・リカ、パナマの7か国で構成されている)の世界規見るとマイナーな地域の話は、あまりフィーチャーされずらい。
といってもこの歴史も『パナマ運河』がメインだ。元々エジプトの『スエズ運河』に携わった人間が運河建設権を買い取り進めていたが一度流れ、その後すぐの1898年の米西戦争を契機に、アメリカ合衆国に太平洋と大西洋をつなぐ運河が中米に必要であるとの考えが浸透。セオドア・ルーズベルトが大統領の時に、運河建設を開始。疫病の流行などで滞りはするも、運河は建設されていく。しかしやはり『現地の人々』への要求は強かったようで、この運河とアメリカに対して憎悪の気持ちを抱くことが多かったパナマ人が多かったという。
血気盛んであれば余計そうだ。ロベルトもまたそのうちの一人。そういう性格だから少年時代は『ストリートファイト』に手を染めたり路上でしぶとく生きていたが、アメリカの名トレーナーに目を付けられる。映画自体の評価がそう高くなく、世界的知名度もそう高くないボクサーで、パナマというマイナーな国であることから妙に埋もれがちになるが、
- パナマの歴史を観る
- アナデアルマスの足掛かり
という点では役に立っているだろう。また、主演であるエドガー・ラミレスはスペイン語と英語を話せる貴重な役者であり、有能だ。ロバートデニーロもいるし、素材はいい。
『ハンターキラー 潜航せよ』
ロシアという国は、常にアメリカ映画で危険視されることが多い。ソ連が崩壊してロシアになってもそれはあまり変わっていない。だが、2022年のウクライナ侵攻によって、その疑いは現実のものになった。
兼ねてから歴史の専門書には『ロシア、中国』の2国がアメリカ一強の時代をくつがえす可能性があると書かれていたが、その場合、アメリがそれを敵視するということは、ただ単にアメリカがその地位を保ちたいから、『ロシアが危険なんだ』と映画などで印象操作している可能性もあった。だが、やはりロシアは危険な国だったのだ。だからといってアメリカの言うことをうのみにする必要はなく、常に半信半疑でいいが、最高の映画を作るのはやはりアメリカだ。それは紛れもない事実。
さて、とにかくロシアとアメリカは色々と対立しがちである。仲良く肩を組んで握手はできそうもない。そんな初期設定があっての物語である。
『背徳の王宮』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1500年頃の李氏朝鮮(1392-1897年)。時の国王は10代国王燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、1476年11月23日 – 1506年11月20日)である。朝鮮の様々な時代を切り取り、その時代の特徴にあった物語を展開していく朝鮮映画の中で、今回はかなり攻めた内容だ。
だが、これくらい攻めなければ人々に訴求できない。『退屈な時代劇』の域を出ることができないので、いい考え方だろう。だが、子供が見れるような内容ではないので、18禁かもしれない。
王に献上されたのは、1万人の美女―朝鮮史上最もスキャンダラスな時代を描く、刺激に満ちた官能エンタテインメント
という説明があるように、かなり過激だ。どこまで本当かは分からないが、本人の血筋も存在する中で、その家系を著しく侮辱することをしては問題になる。やはりある程度史実に則って作られているのだろう。事実燕山君は、15代王の光海君(クァンヘグン)同様に暴君として廃位された王であるため、廟号・諡号・陵名はない。あり得なくもない。そういうところを楽しむのも一つのポイントかもしれない。
『博士と狂人』
世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典」誕生に隠された真実を描く実話映画である。この時点はうちの実家の本棚にもあったからよく覚えている。内容は一切覚えていないというか、理解できていないがかの有名な辞書の逸話がどのようなものか、ということだけでも注目に値する。
また、メル・ギブソンとショーン・ペンという実力派の共演でも一つ見応えとなる。更に、ジェームズ・マレー博士という独学で言語学博士となった孤高の天才学者と、ウィリアム・マイナーという実際の殺人犯がタッグを組んだ、という嘘のようなシナリオで、更に見応えがある。
『辞書を作る』という一見地味なミッションだが、数多くの映画を観る私に『名作』のしるしをつけさせるだけの見応えがある。世界の評論家の評価は低く、私はたまに評論家たちと正反対の評価をするところがあるが、ピッタリ一致することもある。どういう基準で選んでいるかは知らないが、私の場合は経験による直感なので、普通の知識レベルの人なら十分楽しめる映画だろう。
『博士と彼女のセオリー』
スティーブン・ホーキングは、アインシュタインと並ぶほどの理論物理学者だ。しかし彼は難病を患った。そして、難病を患う前の日常があった。そして、様々な人間関係があった。
『白鯨との闘い』
原題は『 In the Heart of the Sea』で、『白鯨のいた海』という邦題で公開される予定であったが、後に変更となったというが、見た私からするとそっちの方がピタリ来るような気がする。実在したハーマン・メルヴィルは、1850年にある男を訪ね、そこから物語が始まっていく。メルヴィルの『白鯨』とは、世界の十大小説の一つとして数えられている。
イギリス文学4作、フランス文学3作、ロシア文学2作、アメリカ文学1作で、『トム・ジョーンズ』を除きすべて19世紀の作品である。
| 掲載順 | 著者 | 作品 | 著者の国籍 | 原典 | 初出 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | ヘンリー・フィールディング | トム・ジョーンズ | イギリス | 英語 | 1749年 |
| 2 | ジェイン・オースティン | 高慢と偏見 | イギリス | 英語 | 1813年 |
| 3 | スタンダール | 赤と黒 | フランス | フランス語 | 1830年 |
| 4 | オノレ・ド・バルザック | ゴリオ爺さん | フランス | フランス語 | 1834年〜1835年 |
| 5 | チャールズ・ディッケンズ | デイヴィッド・コパフィールド | イギリス | 英語 | 1849年〜1850年 |
| 6 | ギュスターヴ・フロベール | ボヴァリー夫人 | フランス | フランス語 | 1856年 |
| 7 | ハーマン・メルヴィル | 白鯨 | アメリカ | 英語 | 1851年 |
| 8 | エミリー・ブロンテ | 嵐が丘 | イギリス | 英語 | 1847年 |
| 9 | フョードル・ドストエフスキー | カラマーゾフの兄弟 | ロシア | ロシア語 | 1879年 |
| 10 | レフ・トルストイ | 戦争と平和 | ロシア | ロシア語 | 1865年〜1869年 |
まだ捕鯨船がまかり通っていた頃の話だ。捕鯨船に生活の糧を求めて、体力自慢の屈強な男たちや、訳ありの人間など、異色な人間たちがこぞってそれらの船に乗った。だが、彼らは思いもよらない巨大な白いマッコウクジラと出会ってしまう。やつはまるで悪魔だ。白い海の悪魔が人間たちを襲う。
だが、現在の人間の思考で考えてみると、『捕鯨船は悪だ』という考え方がある。いや、それでいうなら他の命を乱獲する一切の行為は、人間の不祥事(出過ぎた行動)とも言える。それであれば、一体『悪魔』なのはどっちか。そういうことを一つ考えながら物語を見ていくと、人間らしからぬ行為を強いられる彼らの姿が。この映画では一つのカギとなる展開で、この話の流れがゆえにその善悪についてスポットライトを当てないが、実はこの行為、『ハーバード大学』で倫理について学ぶ人からすれば、決して目を反らせない衝撃的な事実なのだ。
一体何があったのか。彼らは悪魔と対峙し、どういう心境の変化を持ったのか。一つ言えることは、1930年代からの映画をたくさん観ているが、これだけのクオリティでこのストーリーを描けるのは現代だからであり、古い話だからといって決して無碍にできない本質があるということだ。大迫力の映画である。
『ピエロがお前を嘲笑う』
これはドイツ映画だ。基本、大軸のアメリカ映画以外はなぜか格下感が漂う。よく考えたらそれはよくない。だから他の国の映画でも真剣に観たい。しかし、映画にはその国の『癖』が染み出るものである。例えば中東の映画にはどうしてもイスラム教が染み出る。よく考えればアメリカ映画にはキリスト教が『ごく自然』に、あたかも世界の中心であるかのように浮き出る。それは本当は『大軸』ではない。この世界に『正しい宗教』などない。『人間がつくった宗教』があるだけだ。
同じように、各国で宗教以外の癖も出てくる。ロシア文学が『暗い』と言われるようなものだ。ドイツは一体どのような癖がにじみ出るだろうか。そういう目線を一つ持ちながら、その『ブレ』が起きても動じない心構えを作って、ある種身構えながら映画を観ていく。・・そのせいでもあっただろう。いや『おかげ』か。我々は『彼』に、してやられることになる。
『ビザンチウム』
『吸血鬼の母娘を主人公としたモイラ・バフィーニ作の舞台劇をニール・ジョーダン監督、シアーシャ・ローナン主演で映画化』としていることからも、彼女よりもしっかりとしているはずのジェマアータートンが主演ではない。その他のキャストや吸血鬼というジャンルを考えても、やはり一瞬でも間違えてしまうとB級作品に転落する気配を持っている。シアーシャローナンを売り出すための作品であれば、もし彼女が立ち回りを一つでも失敗すれば終わりだ。
例えば彼女の他の映画でこの一年前の2011年に『ハンナ』という映画があったが、ほぼB級と言っていいほどのぞんざいなものだった。この映画では彼女が8割以上の重荷を担うので、作品が失敗すれば彼女の芸歴にも傷がついてしまうことになる。
この映画や『ハンナ』は別に彼女が出る必要はなかった映画だろう。一方で、存在感を表した『つぐない』や、頭角を現した『レディ・バード』は確かに彼女の役者としての確固たる芸歴となっている。どういう作品に出るかで役者の価値も変わってくるように見える。例えばスタンリー・キューブリックの映画は、57年以前の6作はまだ観ていないのだが、
- 1957年 突撃
- 1960年 スパルタカス
- 1962年 ロリータ
- 1964年 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
- 1968年 2001年宇宙の旅
- 1971年 時計じかけのオレンジ
- 1975年 バリー・リンドン
- 1987年 フルメタル・ジャケット
- 1999年 アイズ ワイド シャット
と、最後のトムクルーズとニコールキッドマンが主演のこの映画まで、ほぼすべての作品が伝説級の価値を持つ映画となっている。最後の3つなど、公開から12年ずつ空いているが、アルパチーノがほぼ毎年連続で何かしらの映画に出ているのに対し、こういう方法もあるわけだ。
一方で、そのアルパチーノは出演作品にどうでもいいような作品も含まれるので、どういう作品に出るかだけじゃなく、どういう考え方で作品を作るか、出演するか、ということで役者や監督の価値も変わってくるように見える。その視点を持っていうなら、この映画は別に『あってもなくてもどっちでもいい』映画になる。まずヴァンパイアというのは存在しないから共感できる人など存在しないし、その仄暗い雰囲気を上回るだけの教訓もなければ、全体的な華もエンタメ性もない。
『ビッグ・アイズ』
目の大きな人物の絵画で知られているアメリカ合衆国のアーティストであるマーガレット・キーン。だが実は彼女のその絵は、『違うキーン』が描いたこととして世に知られていた。才能があるのは彼女だ。だが、『別の大きな才能』を持っていたのはもう一人の人物だった。これは教訓映画でもある。良いものを作る人間が必ずしも売れているとは限らない。そんな世界を渡っていくために処世術が必要なことも、この騒動の原因なのである。
『ピッチ・パーフェクト』
この映画がずっと 『ビッチ』だと思っていたから、低俗な映画なのかと思って遠ざけていた。いざ観たら、実はどっちにしろ同じような内容で、大差はなかった。ただ、10代からは圧倒的な教官を得ることだろう。大人が見て見応えがあるかと言えば、ある。低俗というキーワードは出したが、別にそうではない。学ぶこともあっていい時間を過ごせる。音楽が好きな人はなおのこといい。この映画の近くで流行した音楽が多く登場する。アメリカの若者がどのような音楽に触れ、育ったかがよくわかって楽しい。
個人的には、『ACE OF BASE』の音楽と『妹の恋人』の主題歌が流れるのが嬉しかった。人が集まり、心を一つにして歌われる音楽を聴いて、何かを感じない人間はいない。
『ヒトラーと戦った22日間』
1943年9月、第二次世界大戦中にナチスが支配するあのアウシュビッツ強制収容所に並ぶ地獄と言われた『ソビボル強制収容所』で、ソ連人たちがホロコーストに遭っていた。ソ連軍の軍人アレクサンドル・ペチェルスキーがは、そこにいる人々を鼓舞して指導するだけの実力を持っていたが、気が進まないようだ。だが、一人死に、二人死んでいくのを目の当たりにする。囚人を人間のクズのように扱うナチス。次第に、彼の心境が変わっていった。そしてそれは起こった。それは彼が収容されてから22日後に起きたことだった。
『ヒトラーに屈しなかった国王』
ノルウェーとは、ドイツの上の方にある、ヨーロッパの左上にある国だ。近くにはデンマークやフィンランドがある。イギリスは左の方にある島国だ。ここに、ノルウェー史上初『国民に選ばれた国王』がいる。ホーコン7世だ。1940年4月。彼はヒトラーに密約を迫られた。『貴国の平和のために、手を組もう』。だが実際に求めているのは『降伏』である。そして密約で取引したら、民主主義ではなくなる。国民の意志を裏切り、悪魔と手を組むか。それとも、悪魔と手を組んで自国の被害を最小限に抑えるという誘惑に乗るか。果たして、ノルウェーの不屈の男が取った選択肢とは。
『ヒトラーの忘れもの』
第二次世界大戦が終わった後のデンマークは、ドイツを心底から憎んでいた。それはもちろんデンマークだけではない。フランスを筆頭に、世界中の人々がナチス・ドイツを悪の権化とみなし、軽蔑した。そして、その対象はヒトラーだけではなかった。例えば、このデンマークでは捕虜だったドイツの少年兵に地雷の処理をさせたのだ。『忘れものを持っていけよ』。冷たい目をして、彼らは少年たちの命を踏みにじった。
地雷撤去を強要された2000人以上のドイツ兵のうち約半数が命を落としたり手足を失い、そのほとんどは少年兵だった。彼らがトータルで撤去した地雷の数は150万個。我々はただただ、戦争の悲惨さとそれが生み出す虚無を思い知ることになる。一人死に、二人死んでいく。果たして、彼らは本当に一生和解することができないのだろうか。心底からナチスを憎んだ鬼軍曹の心が、次第に変化していく。
『ヒトラーへの285枚の葉書』
ペンと葉書を武器にナチス政権に抵抗した夫婦の実話である。1940年のナチス・ドイツの全盛期のベルリンにおいて、息子を戦争に殺された復讐として、正義の道にスポットライトを当てる使命に駆られたこの夫婦は、世界最狂にして最凶と言われる存在のヒトラーを引きずり降ろそうと画策する。
ヒトラー時代にユダヤ人虐殺(ホロコースト)で犠牲となったユダヤ人は少なくとも600万人以上であり、広義で考えるなら900万から1,100万人になると言われている。これは彼の前に世界の独裁者として歴史に名を刻んだナポレオン時代の、ナポレオン戦争の死者数を超える数である。

ユダヤ人だけでその死者数だ。この表にあるように第二次世界大戦での死者数は世界最悪の数字。ナチスはその戦争の火付け役にして元凶そのもの。日独伊三国同盟を結んだ日本も全く人のことは言えないが、そのナチスの本拠地にあってその行動を取ることは、あまりにも危険な行為だった。
『ヒトラーを欺いた黄色い星』というドキュメンタリー映画にも近い映画では、ホロコーストの対象であるユダヤ人がその身分を隠して生き延びた話が展開される。7000人いたユダヤ人が1500人生き残った。それもまたこのベルリンであった事実なので、併せて観るとより奥行きが理解できるだろう。
あの地獄のような時代、そしてその地獄の中心地で、『そこが地獄である』という決定的な事実から目を反らさずに行動した人物がいた。そのことを忘れてはならないのだ。
『ヒトラーを欺いた黄色い星』
ドキュメンタリー映画にも近いこの映画は、当人たちが当時を振り返って回想する形で展開される。だからもちろんこれは実話だ。第二次世界大戦のベルリン。つまりナチス・ドイツの本拠地たるこの場所で、なんとホロコーストの対象であるユダヤ人がその身分を隠して生き延びたというのである。しかもその数がすごい。実に1500人である。だが、7000人いたはずの彼らの数を考えると、生き残ったのは5分の1やその程度。その他の人たちは皆死んでしまったのである。
それでもあの地獄の中心地でそれだけ生き残るのはすごい。『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』を含め、ナチスのホロコーストの映画は多くあるが、ナチスはユダヤ人を見つけたら迷うことなく頭に銃弾を撃ち込み、街中で平気で命を奪っていた。それまでその人のドラマがどれだけ波乱に満ちていて、どれだけその人を愛する人がいても関係なく、引き金を軽く引いて終わりだ。その機会的な行動を客観視していると、本当に今人が死んだのかどうか疑いすらしてしまう。
いやまさかな。そんなはずないよ。
我々が生きていて植え付けられてきた一切の常識が通用しないのだ。そういう光景が何度も繰り広げられる。だからそこにあるのは現実じゃない。『地獄』なんだ。多くの人がその状況に『現実ではないこの世界のどこか(地獄)』を想像したに違いない。
では、彼らは一体どうやってその地獄を生き抜いてきたというのか。
『ヒトラー暗殺、13分の誤算』
1939年11月8日にヒトラー暗殺未遂事件を起こしたゲオルク・エルザーが主人公の実話映画である。どの国も実話を基にした映画で恣意的に歪曲していなければ、歴史的な価値がある映画として貴重な作品となる。とりわけ、あのヒトラーに関する映画は多い。ナポレオンも同じように有名なはずだが、映画化されないのは『ワーテルロー』が興行的に失敗したからだろうか。あのキューブリックもその失敗のせいでナポレオン映画を作ることを諦めたという。
ここにトムクルーズ主演の『ワルキューレ』で挙げられたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の話が出てくる。Wikipediaにもその名前はないが話の中で出てくるので、二つ合わせて観ると奥行きが深くなるだろう。要は、ゲオルクも、シュタウフェンベルクも、両者ともヒトラーを確実に暗殺したはずだった。だが、失敗したのだ。ヒトラーが暗殺されたという事実はないだろう。彼は追い詰められた自殺したのである。それは、『ヒトラー最期の12日間』で見ることができる。
そのヒトラーの悪運の強さは化け物染みていて、彼の存在感を更に引き上げることに成功している。そんなことを一つ考えながら見ていきたい。
『ビトレイヤー』
リドリー・スコットが製作総指揮にいて、主演2人に名優が揃っているのに名作にならないのは、100分という短い時間も関係しているのか。アメリカではなくイギリスが製作しているということも関係しているのか。監督が説明ページもないような無名の監督ということが関係しているのか。
シナリオは中々良く、俳優もいいので惜しいところだ。例えばスキンヘッドでおなじみのマークストロングで言えば、役はきちんとこなしている。だが、『キングスマンゴールデンサークル』の彼の役を超えることはできていない。ただ、あの感動があったのは、彼がまずの設定で、無表情の、特に何も大きなことをしない脇役というものがあったからだ。そういう設定に長い時間慣れてしまった我々が、(まさか彼がそんな行動に出るとは)ということで、感動してしまった。
『時間』というのは映画の内容に大きく関わってくる。時間が長ければいいというものではない。(もっと短くできたよね)と思わせる映画もたくさんある。時間、キャスト、シナリオ、舞台、そのすべてが揃って作品は名作になる。『トイストーリー4』で最後に彼が取った行動に感慨を覚えるのも、1から続いた彼の行動というセオリーがあるからだ。その意味でも、何かが欠けてしまっている映画だと言えるだろう。
『ビニー/信じる男』
交通事故で首を骨折し、歩くこともままならず復帰を絶望視されながらも、伝説のトレーナーと共に過酷なトレーニングに励み、奇跡のカムバックを成し遂げた実在のプロボクサー、ビニー・パジェンサを描く。
『セッション』でストイックな演技を魅せたマイルズ・テラーのことだから、ボクサーのような職業は見事にハマるだろう。だが、やはり彼だけでは華がない。例えば、『トップガン マーヴェリック』で共演したトム・クルーズは、日本人の仕掛け人が(この俳優は日本人受けする!)と直感したという。その直感通り、彼は日本人からも強烈な支持を受け続けている。
だがマイルズの場合は『マーヴェリック』で描かれたような引っ掻き回す役の方が似合っている。だからあの作品ではもっと場を引っ掻き回しても良かったが、恐らくトム・クルーズが場を支配しているので、彼がそこまで目立つ存在にはならなかったのだろう。海辺で遊ぶシーンもトムが撮り直しを指示したとのことである。
セッションでは『いじめられているがド根性でギリギリに踏ん張る』彼の姿に思わず応援したくなる気持ちが揺さぶられるが、今回などのように、彼がオフェンス的にガンガン攻めていく、圧倒的トム・クルーズの役を演じるとなると、違うかもしれない。だがもちろん波乱に満ちたビニーの生涯を観るという意味で、見応えは十分だ。
『ヒミズ』
『行け!稲中卓球部』で有名な古谷実による日本の漫画の映画化。出演した染谷将太と二階堂ふみは第68回ヴェネツィア国際映画祭にて新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞したこともあって、いつかは観ようと思いこのタイミングで。私は稲中卓球部から彼の作品はヤングジャンプだかマガジンだかで見てきて、どれも好きだった。それに彼らの演技も迫力がある。したがって、中々見応えのある映画となっているだろう。
彼は危なっかしい人間心理や人間関係を描写するのが得意なので、観ている側として飽きない。稲中卓球部が面白かったのは、彼の中にあるそういう要素が作品の細部に盛り込まれることがあったからなのかもしれない。
『ビューティフル・ボーイ』
ドラッグの怖さを知らない人は、奥行きが分からないだろう。これはドラッグを本当にやったか、あるいはそういう人が周りにいないと分からない映画だ。『ブルーに生まれついて』とはまた違った角度で、ドラッグの持つ甚大な依存性を思い知ることになるだろう。お腹いっぱいでもう食べれない。だが、気づいたらお腹が空いている。これが人間なのだ。
『ピラミッド 5000年の嘘』
『ギザの大ピラミッドに関して37年間にも渡る調査と研究を実施、6年間徹底的に検証して、“真実”を導き出した物語であり、突飛な仮説に基づく夢物語ではない』
とはしていて、ドキュメンタリー映画なのだが、世界を覆すほどの内容ではない。例えば『フリーメイソン』の話を聞いているような、そういう『大げさ感』がある。そもそも、そのような世界を揺るがす大発見の話であれば、文字通り世界中のニュースになっていただろう。これは2010年の映画だが、単なる一説に過ぎない。
だがもちろんやけに信憑性があるので、この手の都市伝説的なミステリーが好きなひとにはたまらないだろう。だが例えば、本物の一流詐欺師や、心理学等の専門家には通用しない。
それっぽい話をして人間を信じ込ませ、『ワールド』に引き込むのは宗教もそうだが、その手の問題を考え尽くし、生涯無宗教で生きることを覚悟して、一切の冠婚葬祭にも行かないと決めている私のような人間は、この映画を観たというだけで、この映画に人生を支配されるようなことはない。ただもちろん、『半信半疑』だ。あるかもしれない。その程度の方がむしろ、ミステリーを楽しめていいだろう。
『最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。』芥川龍之介
『ビリギャル』
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』を映画化したもの。その存在感とインパクトから存在は知っていたが、邦画を観る習慣がないのでこれまで観てこなかった。内容としては、なかなか見応えのあるものだった。やはり慶応大学に行くだけのことはあって、節々にこの女性の賢さがにじみ出ている。ただ、家庭環境やその他の環境の影響で自信を無くしてしまっただけなのだ。
ここで考えたいのが母親の存在である。父と母、このどちらが彼女の理想の親だったのか、それは難問である。一見するとどう考えたって母親だ。だが、彼女が甘やかしたからこそ道を逸れた。だが、彼女と母の絆は深く、それがあるからこそ彼女は頑張れた。一方、父親のような人間がいるとそれが反面教師となっていい人間が育つケースがある。『育児放棄』はしないが、『教育放棄』をする親は多く、その多くが無意識のうちである。
私の親もそうだし、私の部下の親もそうだ。『育児放棄』はしないが、『教育放棄』をする親である。この問題は容易ではない。
『光をくれた人』
光をくれた人がいるということは、光を失った人がいるということだ。彼は彼女のおかげで光を得た。それは本当のことだった。だが、彼女は天使なのだろうか。いや違う。人間である。一人の女性であり、ただの人間にすぎない。そのことについて、人生で起こる思いもよらない出来事を通し、突き付けられることになる。だが、彼は愛したのだ。では、愛とは一体なんだろうか。犠牲だろうか。命を与えることだろうか。かつて、光をくれた人にできることを、男は懸命に、探した。
『否定と肯定』
アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件。それは、『ナチスによるホロコーストの有無』について戦った、裁判の話である。アウシュビッツであったことはあまりにも凄惨。おそらく未来永劫それが具体的に映像化されることはない。『シンドラーのリスト』の描写が限界である。これは、その『実態が見えない』事実に噛みついたあまりにもお粗末な、愛のない人間と戦う物語である。
『美女と野獣』
男らしく生きれば、ロマンチックな恋愛ものには目が行かない。だからこの映画も、アニメも、全く見ることはなかった。だが、そこに魅力があることはわかっていた。今回ちょうど見る機会があった。やはり、魅力的な映画だった。
『ファースター 怒りの銃弾』
100分という短めの映画で、B級だろうが一流だろうがどんな映画にも体当たりで挑み続けるドウェイン・ジョンソンの映画だから、どっちに転ぶか分からない不安があった。
だが、この映画は中々見応えのある映画だった。彼のガタイなら、それを頼りに暴れまわればそれだけでプロレスになるが、皆がプロレスを好きということはない。だから、どっちかというと『ワイルド・スピード』の方が、ジェイソン・ステイサムと一緒にそれに身を任せたので、その力づくな映画に幻滅した人もいたはずだ。
だがこの映画は、ただの力任せではない。その軸もあるが、しかし彼は『厳選』してその力をふるう。いや、ワイスピでももちろん戦う相手は悪党なのだが、またそれとは意味が違う。
この場合、『厳選』するのだ。その言葉に意味がある。そして、その圧倒的な暴力と狂気の裏には、普遍的な光も供え持つ。それゆえ、(なぜ彼はこうなってしまったのか)という同情心が生まれ、最後には哀愁を覚えるのだ。
『ファースト・マン』
我々は人間が月に行ったことをとっくに知っている。だが、本当に知っているだろうか。人類が、月にたった一歩足を踏み出すまでにかかった時間と、払った代償の大きさを。コロンブスは新大陸を発見し、偉人となった。彼らもまた、偉人である。史上初めて月面を歩いた宇宙飛行士ニール・アームストロングの、1961年から1969年にかけてのNASAのミッションが実話に基づいて描かれる。
『ファーナス/訣別の朝』
この映画がどのような意図で作られたかは分からないが、リドリー・スコットとディカプリオが製作に回り、クリスチャンベールが主演を演じる割には、訴求力もエンタメ性も弱い。だが例えば、もしこの話が実話であり、それが完全に伏せられていて、それを映像化しているのであれば、背筋もぞっとするし、確かに映画になる。そういう映画である。
『ファング一家の奇想天外な秘密』
ピカソは言った。
『芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である。』
常識があるからこそ、芸術が存在する。そして、常識に囚われるが故に、彼女らは振り回される。アインシュタインは言った。
『人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらお目にかかりたいものだ 。』
『ファンタスティック・ビーストシリーズ』
個人的にはハリー・ポッターよりも展開が気になる作品だ。敵のボスがあの人物であるということを考えても今後が面白そう。ハリー・ポッターよりは夢中になれるはず。
『ファントム・スレッド』
ファッション業界で働く人にとっては生唾ものとなる。
約半年の間に50着以上の衣装がこの映画のためだけに制作された。それぞれのドレスに数メートルの生地を使用、そこに17世紀の実際のレースがあしらわれている。 アンダーソン監督とのタッグも長く、数々の衣装を手掛けたブリッジスでも、その貴重さに裁断時には手が震えたという。それらほとんどが手作業で縫い合わされ、まさに贅沢の極みといえよう。 ‥youtubeより
粋で大人な映画だ。
『フィル・スペクター』
音楽プロデューサー界ではとてつもない大物で、ビートルズやジョン・レノン、オノ・ヨーコ、ベン・E・キングなどの超大物アーティストをプロデュース。この世のすべてを手にしているかのような豪華な家のコレクションの数々が、彼の作った功績を物語っている。だが、どうやらその超大物に、妙な噂があるという。一体この男は、何者なのか。
『フィルス』
私は愛国者でもなんでもなく、むしろ『愛国者』とか言って自国の話ばかりし、他国のことをないがしろにする発想は間違っていると考える人間だが、日本の事をかなりぞんざいに扱うのであまりいい気はしない。だが、こういう毛色の作品が好きな人はいるだろう。それに、意外とイギリス本国よりも先に、日本で世界最速で公開されているというところを見ると『悪気はない』ということなのかもしれない。
『プーと大人になった僕』
A・A・ミルンが1926年に発表した児童小説『クマのプーさん』とウォルト・ディズニー・カンパニーの『くまのプーさん』を原作としていて、『ウォルト・ディズニーの約束』や『メリー・ポピンズ リターンズ』のように、原作の実写化ではなく違う世界線を描いている。違う世界線には『その後』も含まれている。おなじみのクリストファー・ロビンが大人になって改めてプーさんと絡んでいく姿に、ある種の感慨を覚える人は多いだろう。
『プールサイド・デイズ』
この映画が好きと言っていた人に対し、常々
何か言ってることが浅いなあ
と思っていたのが事実だ。いや、年相応ならいいのだ。10代なら全然いい。だが、20代後半はまずい。そろそろ観るべき視点を変えなければならない年頃だから、教育的な意味でもそのことについて誰かが言わなければならないだろう。それが親か上司か、真の友達かは置いておいて。
さて本題に入ろう。実はこの映画の原題は『The way way back』。こういう言葉は存在しないので造語だ。Googleと同じである。これが『The way bak』なら『帰り道』となる。道(Way)が2つある。それが何を意味するだろうか。この映画で一番重要なところはここだ。要は、なぜ前者の話をしたかというと、実はその人はこの映画を『夏の楽しいひと時、思い出のひと時』のような言い方で説明していた。この時旬な俳優だったサム・ロックウェルの話もルンルンとしているところも気になった。
たしかに『プールサイド・デイズ』だとそういう印象になる。ある夏のプールサイドでの思い出。それは、受け取る側がまだ10代の人間なら、その方向に切り取ることも無理はないだろう。だが、『ある夏の思い出』というのは実はとても深いキーワードである。例えば、そういう作文が提出されたとき、そこには
- 提出する側=生徒
- 提出される側=教師
がいるわけだ。そうなると、生徒と教師は全く同じ視点でその作文を見るだろうか。それとも、教師は『その作文を通してその人物の成長の過程』を見るだろうか。夏にこういうことがあった。それはとても内容の濃い時間だった。生徒はそこまでかもしれない。だが教師はどうだろうか。
この夏が、君を一段階、大人へと近づけたんだね
そういう風な視点で生徒を見ないだろうか。そう考えた時、この映画の原題『The way way back』は、意味を持つようになる。帰り道。そこには2人の人間が肩を並べるシーンがあった。だから『Way』が2つなのだとしたら、これはこの主人公の少年だけの話ではない。とても深い、家族の絆の話なのである。
『フェンス』
これはかなり玄人受けの映画だ。だから、日本ではアカデミー賞にノミネートされても劇場公開されなかったり、逆に受賞をきっかけに公開が実現した作品は過去に前例があるが、本作では受賞したにも関わらず劇場公開が見送られた稀な事態となったという。アメリカの批評家の評価もすこぶる高く、批評家支持率は93%、平均点は10点満点で7.8点となっている。
だが、確かに劇場公開されなかった理由もうなづける少し変わった映画である。『行動範囲』が狭いのだ。ほとんどが家の付近だけで終わっている。しかし、後で冷静に考えてみると、もしかしたらその事実もこの映画のメッセージの一つなのかもしれない。
『フェンス』というのは作中では普通のあのフェンスのことだと説明がある。あるというか、フェンスを作っているから、ついそうであるという風に感じる。だが、よくよく考えてタイトルと映画の内容を照らし合わせてみると、まさかそのフェンスのことではないと気が付くことになる。では一体どういう意味なのか。ここがこの映画の深いところであり、これを見抜いた時に感じる感慨を得られない人は、この映画の評価を低くすることになるだろう。
明言されている説明文をどこかで見ているわけではないので推定になるが、恐らくキーワードは、
- 黒人の可能性(人種問題)
- 死神対策(病気で死が近い)
このあたりになるはずだ。普通フェンスをすると、ここで出た死神対策のように、例えば動物などの害から身を守ることができる。泥棒もそうだ。メキシコでは家の窓に鉄格子があるのが普通だが、日本人はそれを理解できないだろう。フェンス(柵)は普通、ガードの役割を果たしてくれる。だが、今の鉄格子の話を聞いて、どこか心に閉塞感のようなものを覚えなかっただろうか。恐らく、それがもう一つのこの言葉の意味だ。
彼はフェンスを作っている。どうして作っているのか。自分はそのつもりだろう。だが、実際にそのフェンスは、自分の人生に何をもたらしたのだろうか。
『フォーカス』
ウィル・スミスとマーゴットロビーが共演しているということだけで価値がある作品と言えるだろう。エンタメ性も高く、展開が読めなかったり、細部のプロフェッショナルな論理と説得力は、クオリティを上げることに成功している。ただ、例えば日本の興行収入の上位が300億円近くある作品がひしめく中で、この映画は5億円である。世界規模で考えれば150億円上げていて、製作費も50億円だから莫大な利益が出ているが、この映画が上位にくることはないだろう、という映画である。
観てもいいし見なくてもいい。そういう映画はこれ以外にもいくつもある。これが実話なら話は別だが、そうじゃないならその程度だ。だが、それでも100億円売り上げているのならすごいことである。そこに広告費等も引くのかもしれないが、こういうある程度の作品を量産することは、金を儲ける毎日の仕事の一つとして、費用対効果の高い仕事である。
さて、この話を聞いてどう思っただろうか。ここに出てくる彼ら詐欺師もまた、こうして淡々と語られ、繰り広げられる現実に、人はただただ流されてしまうだけ、という盲点を突いて面白いことをしてくれる。あなたはきっと『まあまあの映画なのか』と思っただろう。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。一つだけ言えるのは、人は盲信するということだ。
『フォードvsフェラーリ』
この映画の面白いところは、二つの次元が存在するところだ。確かに、米F社・伊F社の戦いではある。だが、それはあくまでも表層的なもので、この戦いのもっと中心部にある煮えたぎるエネルギー源は、命がけでレースをするドライバーに存在するのだ。しかし彼らはまるで部外者で、主役は経営者である。確かに彼らも利益という大きなエネルギーを賭けて戦っている。
だが、『命』はどうだ。そう考えた時、両者から伝わってくる体温に違いがあるのは、明白である。我々はこの二つの次元を客観視し、この世界にいつの間にか生まれた『階層』の滑稽さを目の当たりにすることになる。
アインシュタインは言った。
『信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。』
信念がなければ未踏未達の道は開拓できない。だが、それはそれで足枷となっていくつもの問題を生み出す。果たして我々は、この人生を一体どう生きれば悔いを残さないだろうか。これは、自分の人生を信じて突き進んだ、誇り高き男たちの物語である。
『フォックスキャッチャー』
デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンが起こしたある事件が映画化された。一体何が起こるのだろうか。冒頭から何かが起きそうな気配が常に漂っている。だが、いつまでたっても何も起こらない。起こるが、すべてある程度想定できることである。まさかこのまま終わってしまうのか。いや違う。我々はラスト15分で、衝撃的な展開を目の当たりにすることになる。
ウォーレン・バフェットは言った。
『金は人を変えない。金は人の本性を浮だたせるだけである。』
それであれば、最初から大金持ちだった彼はただ『子供のまま成長していなかった』だけだ。この財閥もまた、戦争時に武器を売って稼いだ金を資金源にして成り上がった一族だった。
『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』
アン・ブーリンとヘンリー8世からエリザベス女王が生まれ、彼女はカトリックを信仰する『ブラッディ・メアリー』と言われる姉と戦った。だが、今回のメアリーは、同じカトリック教徒であってもその姉のことではない。むしろ『妹』である。従妹だ。そしてスコットランドのこのメアリ・スチュワートは、王位継承者として正当な血筋を持っている。
これは、ケイト・ブランシェットの『エリザベス』の続編と言ってもいいだろう。ちょうどあの映画が終わった後に何があったか。それを切り取った映画だ。歴史映画に造詣が深い人にはたまらない作品だ。事実、批評家の評価も高いという。あのエリザベス女王がなぜメアリよりも有名になったのか。そこには、やはりこうしたいくつかのからくりが存在したのだ。
そして、メアリ・スチュワートの息子ジェームズ1世はエリザベス女王の跡を継ぎ、その後のチャールズ1世の時に、クロムウェルが登場するのである。
『フッド ザ・ビギニング』
第39回ゴールデンラズベリー賞において、最低作品賞、最低助演男優賞(ジェイミー・フォックス)、最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞の3部門でノミネートされたほどのチープさがまずある。だが、私も最初は映画館のCMでそういう気配を感じて映画館では観ず、動画で見たのだが、ハードルを下げていたからか、案外楽しめる作品だった。
正直、3D映画の流行に乗った、それ頼りの作品だと思っていたので心配していたが、実際には『ロビンフッド』の活躍を十分楽しめるテンポのいい映画だった。ケビンコスナー、ラッセルクロウと『ロビンフッド』を見たが、現代人が『弓の名手』と聞いて連想するのは、ゲームのキャラのように俊敏に無駄なく動く彼のような人物像ではないだろうか。元々ロビンフッドは伝説上の人物なんだし、こういう描き方があっても全然いい。
『フューリアス 双剣の戦士』
まず、この手の歴史映画はマイナー扱いされるのか、邦題はゲームのタイトルのようになるのが相場だ。『ヴァイキング・サーガ』とか、『バタリオン ロシア婦人決死隊VSドイツ軍』とか、何かと格好いいっぽいゲームタイトル、あるいは少年漫画にバトルが求められるように、その要素を前面に押し出すことが多い。『ドラゴンボール』も、鳥山明は最初もっとアドベンチャー要素の漫画を描きたかった。だから最初は『Dr.スランプ』からの流れでギャグな描写も多かった。だが、少年ジャンプの需要に応えなければならず、バトル要素のある漫画へと切り替わっていった。今、彼があの漫画の続きをもう描かなくなったのは、最初から別に描きたくなかったという本音が存在するからなのかもしれない。
そうした目線を一つ持っておくとこの手の映画に強くなる。つまり、過信しないようになるわけだ。バトルよりも歴史的な会話のシーンが多くても不思議ではないと感じるようになり、『思い込みによる不一致』が生じず、映画に対する評価も低くなくなる。だが、『ロシア史に残る伝説の戦い「バトゥのリャザン襲撃の物語」をモチーフに描かれる、強大なモンゴル帝国軍にたった1人で立ち向かったロシア最強の剣士コロヴラートの、爽快なソードアクション』という広告では、誰もが無双ゲームのようなイメージを思い浮かべてしまうだろう。
時は13世紀(1237年)のロシア。当時の世界を制覇していたのはモンゴル帝国だ。
ロシアという名前はないので『ウラジーミルスーズダリ大公国』となる。その大公であるユーリー2世は、モンゴル帝国のバトゥ軍に圧迫されていた。モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンの長男であるジュチ。この男の次男がバトゥである。
果たして、当時世界最強を誇ったモンゴル帝国の莫大なエネルギーに、この剣士がどこまで通用するか。それが一つの見ものである。また、それよりも重要なのがこうして動画配信サービスで世界の映画が簡単に観れるようになり、歴史映画として紹介すべき映画の空白が埋められるようになったことである。モンゴル帝国時代やロシアの歴史を描く映画がほとんどなかったので、歴史ファンとしては今後が楽しみだ。私は別にファンではないが、人間として堂々と生きていくために欠かせない要素なので、有難い。
『フューリー』
1945年4月、連合国がナチス・ドイツに最後の攻勢をかけようとしていた。戦車から見た戦争。本物の戦車を使用しているから光景がリアルだ。第二次世界大戦のナチス・ドイツを追い詰める連合軍の最後の攻撃。
『プライベート・ウォー』
戦場記者メリー・コルヴィンを描いた実話映画。私はもし寿命が2000年あったら『世界一周』ではなく、『地球の隅々を見て回る』ことをしたいと考えている。だが、そこに『戦場』や『危険地帯』、『深海』などは含まれていない。命あっての物種なので、その他にもやりたいことがたくさんあるのでそういう発想にはならない。単純に、『先端』や『崖の上』で恐怖心を覚える自己防衛本能と同じだ。
もし無通症であれば無敵だと思うかもしれないが、人体の限界があるので、その感覚や恐怖心こそが自分の命を守るセキュリティソフトとなっている。ゆえに、戦場カメラマンや、戦場にあえて赴き現実を伝えるジャーナリストの考え方には興味がある。本当に彼女らのような存在は必要なのか。それ以外に現地の事を理解する手立てはないのか。もしかしたら自己満足ではないのか。それで自分の人生に背徳感がおさまるだけで、効率を考えたらあまり合理的ではないのではないだろうか。
様々な考えが頭をめぐる。私のようなタイプは、本当にこういう人達の活動で『世界が変わる』という変化が起きるのであればこれらの行為はとても尊いと考えることができる。この辺りが不透明だから、あまりそういう人になる人がいないのではないだろうか。全ての人は救えない。一つの戦場に命がけで行って取材に成功しても、世界にはまだまだ違う戦場があり、もっと言えば戦場だけがこの世の混沌の地ではないのだ。
世界平和の為にわかりやすくテコ入れするべき場所が戦場なのは分かるが、例えばコロナ問題でひっ迫する医療現場然り、テコ入れするべき場所はいくらでもある。人間が世界平和を実現させるために必要なのは『起きてからの報告』や『後始末』ではなく、『起きる前の対策』であり『前始末』だ。だが、もちろん活動の否定などしていない。とても難しい決断をした勇者だと伝わってくる。とにかく、人が命をかけた姿を見て、何も思わない人間はいない。多くの事を考えてしまうのだ。
『ブラック・クランズマン』
1972年、それはマルコムXとキング牧師が暗殺されてから間もない時代である。そんな人種差別の真っ只中にあるアメリカで、アフリカ系アメリカ人(黒人)として初めて警察官に採用された男がいた。あろうことか、彼が担当したのがあのKKK(白人至上主義団体)の潜入捜査だ。彼らは黒人であれば平気で首を吊ったり、家を燃やすような過激集団。そんな連中の組織に潜り込み、素性がばれたらどうなるか分からない。
そこでその黒人警官ロンが考えたのが、奇想天外な意外なアイディアだった。
『ブラック・ファイル 野心の代償』
これはB級作品と言っていいだろう。
- アンソニー・ホプキンス
- アル・パチーノ
- イ・ビョンホン
といった豪華キャストがいながらも、それをまったく生かし切れていない。監督が日本人(か、完全な日本ネームのアメリカ人)だからということもあるのか、まだまだ腕が足りない印象しか覚えない。
『ブラック・シー』
黒海に沈んだUボートに積まれた金塊を手に入れようとする男たちの話だ。『Uボート』というのはドイツ海軍の保有する潜水艦の総称。一般的には特に第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のものをいう。言うなれば『ナチスの残した秘宝』ということになる。
『宝探し』という類にも当てはめられるが、『インディジョーンズ』ほど軽快ではなくシリアスである。だが、基本的に人はニーチェが言った『ルサンチマン』の頃から、もちろんそのもっと前から一攫千金の下剋上に夢を持つものだ。
その成り上がり方への希望は人それぞれだが、彼らのように追い込まれた人間が『カイジ』のように勝負に出るのも、人として全然共感できる話だ。だからフランス革命の際にナポレオンが英雄視、アメリカでは大恐慌時代、『俺たちに明日はない』のボニーとクライドたちのような銀行強盗を英雄視していたのだ。果たして、彼らは無事にナチスの宝を手にいれることができるか。
『ブラッド・スローン』
原題の(Shot Caller)は刑務所でのスラングで、「リーダー」を意味する。これはそこまで有名な俳優が出ておらず、下品なアウトローたちの低俗な無駄話かと思いきや、なかなか興味深い最後を迎える。ぜひ、最後まで諦めずに観てみよう。きっと、
やるやん・・
という感想が思い浮かぶだろう。
『ブラッド・ファーザー』
一流俳優が、たまに妙な90分映画に出ていることがあるが、その一つがこれだ。恐らく、裏事情があってのこれなのだろう。例えば、人脈的なつながりで、出て欲しいと頼まれたとか、子供や親族の関係とか、出演料の関係、中には、政治的な関係で他国の映画に出ることもあるかもしれない。企業の社長たちとの人脈ができれば、簡単にビジネスの話になる。社長以下は自由に会社を動かせないが、社長は株主に牛耳られていない限り、自分で何でも自由にできる。どんなことでもビジネスにできるから、そういった様々な要素が関係しているのかなあ、と想像してしまうわけだ。つまり一流俳優だから、そういうB級レベルの映画に出ても出演料は多く貰えるし『楽に稼げる』から、そうなるのかもしれない。
真の映画ファンは、『名作だけに出演』してほしいと思うものだ。だからトムクルーズやレオナルド・ディカプリオといった超一流俳優たちは、作品を選んでいるように見える。ニコラスケイジなどはどうだ。逆に『選べない立場』にいるように見える。また、ドウェイン・ジョンソンのように体当たりでB級だろうが一流作品だろうが構わずでまくる人もいる。
個人的にはメルギブソンは一流俳優なので、作品は選んでほしいと期待してしまう。この映画は出る必要はなかった、彼じゃなくても良かったようにも見える。
『プラネタリウム』
何だかよく分からないと感じる人が大勢いるだろう。実はナタリーポートマンは絶世の美女として絶大な人気を誇るが、外れ映画にも多く出演している。映画批評家たちの評価もすこぶる悪いので、あまり期待しないで観るのがいいだろう。ただ、リリーローズデップというジョニー・デップの娘が出ること、そして彼女の美しさが異彩を放っていて、絶世の美人姉妹ということで、それを楽しむことはできるだろう。
『フランス組曲』
戦争ということもあって、かなり暗い映画だが、映画全体の満足度は高い。ただかなりマニアックな映画となるだろう。マニアックというのは、『映画好き』とか『暗いのが好き』とか、結構こだわりがある人に刺さる映画ということだ。『ワイルド・スピード』のような全体的に刺さるような映画ではない。
クラシック、オペラ、観劇というだけで、まず幅は狭くなる。そして、言語が英語以外になることも同じように狭くなる。だが、『アメリ』や『ライフ・イズ・ビューティフル』のように、英語以外にも名作は多くある。ではその名作に並ぶかというと、そこまでには至らない。マニアックだからだ。ピアノが好きで、アウシュビッツの凄惨さを想像できて、戦中の人々の気持ちを理解できる人は、そう多くはない。
だが、もしそのマニアックな領域に自分が入るというのなら、これは名作となる。
『ブリグズビー・ベア』
最初は子供だましのぬいぐるみ系か、ted方面の二番煎じにも似た印象があり、距離を置いていた。だが、これが『観るべき映画』としてリストインされていたので、何かしらの見応えがある可能性は捨てきれなかった。結果、やはり中々見応えがある映画だった。かなり複雑な環境だが、100分しかない短編的な映画の中で、それをきちんと説明しきれているから、視聴者はそれに追いつくことができる。
それができるのは恐らく監督と脚本を務める彼らが中学時代から短編映画を作っていたという経歴があるからだろう。物語を短くまとめ、かつストーリーを盛り込むためには徹底的に無駄を省き、かつ詰め込むだけではなくメリハリの効いた流れを用意しなければならない。それがあればまるである種の小さな遊園地のジェットコースターのように、『案外楽しかったね!』という感想を与えることができるわけだ。
馬鹿馬鹿しい物語を信じ、あまりにも現実離れした現実で『常識』を抱えた人々から冷ややかな目で見られるも、それを超越した純粋さで奇跡を起こしていく。それは、彼の周りに起こる奇跡ということだけではない。なぜかその異常な現実が、正当化されるのだ。
『プリズナーズ』
幸せな二つの家庭があった。近所で仲がいい彼らは、その日も家に集まって楽しく会話をした。そのうち、小さな子供たちが家に帰って笛を取りに行くと言った。近くだし、田舎だし。少し上のお兄ちゃんらと一緒ならいいと、父親はそれを許可した。ずいぶん時間が経ち、ふと違う階に行くと、そのお兄ちゃんがいた。『妹はどうした?』『…なんのこと?』
我々はこの後、衝撃の展開を目の当たりにすることになる。
『ブリッジ・オブ・スパイ』
国民から『裏切者』と言われても、敵国であるロシアのスパイを弁護することができるか。『正義なんていらない』。そう言う妻の言葉を押しのけ、家族を犠牲にしてでも正義を守れるのか。冷戦のさなか、一人の男が密かに背負った、とてつもなく大きなミッション(使命)があった。
『プリデスティネーション』
卵が先か鶏が先か。考えてみたことがあるだろうか。一体どちらがこの世に先に生まれたのか。卵がなければ鶏は生まれないはずだが、その卵はどうやってこの世に誕生したのだろうか。これは、その謎を解く答えの一例である。
『ブリングリング』
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、日本の共同制作というのが謎で面白い。アメリカで実際に起きた事件を基にしているので、実話映画ということになる。エマワトソンが出ているだけで絵になるが、他の主役が無名でデータもないあたりで、B級らしさをにじみだしてしまっている。皆の評価も低い。
だが、実話映画に面白いも面白くもないのだ。無意味な過剰演出が行われていたり、偏った思想が正当化されていない限り、すべての人生に教訓がある。例えば犯罪をした少年や大人たちの心理分析をする専門家がいて、その人が毎日毎日異なった事情を持った様々な人達のことを考えるという時、その人々の人生に何かランキング付けをするようなことがあるだろうか。
すべての人間に事情があり、そうなった経緯があり、抱えている問題があり、その一つ一つと真剣に向き合うことが、また次の対象者への適切な助言に繋がるのだ。
『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』
かつて、ゲームボーイで遊んでいたはずのあの『プリンス・オブ・ペルシャ』が、まさか映画で観れるとは想像していなかった。シンプルなゲームで、ゲームボーイのクオリティなのになぜかあのゲームからは他にない詩的な哀愁を感じた。柄の宝石を押すことで自分以外の全ての時間が約一分間分過去に巻き戻すことができる「時間の砂」を詰めた短剣手にし、アッシリアの次にこの世界に帝国を築いた、あのスパルタ軍率いるギリシャと対決したペルシャ帝国と戦う。
※2回目
2004年発売の同名ゲームの実写化作品で、私もよくこのゲームをやったので感慨深いものがあった。ゲームウォッチに似た映像だしシンプルすぎる描写だが、なぜかミステリアスな雰囲気があり、ある種の狂気を垣間見た作品で、ちょっとした伝説ゲームだった。
この映画のストーリーはオリジナルであり、ゲームのストーリーとの関連性は全くないが、ペルシャの世界を縦横無尽に駆け巡り冒険していく様子は、ゲームの世界観そのものである。
一度見ていたのだが、歴史を学び直してもう一度視聴。つまり、『ペルシャ帝国』が反映していた時代を映画で観たかったのだ。『女王トミュリス 史上最強の戦士』ではアケメネス朝ペルシアの王キュロス2世が描かれ、これまたとても貴重なのだが、ファンタジーと言えど、ペルシャ帝国の世界で遊んだ気がして、中々面白かった。
『ブルー・ダイヤモンド』
キアヌリーブス作品は、B級っぽい作品のように見える映画からも、実は意外と教訓を得られる、という特徴があるのだが、『レプリカズ』のように、ギリギリの作品もある。これもまた同じである。これに関しては批評家の、『ブルー・ダイヤモンド』は過酷な逃避行を描いているが、観客にとって娯楽とは程遠いものである。」という言葉が、的を射ている結果になっている。
『ブルーに生まれついて』
覚せい剤使用の現行犯逮捕で、ある日本のタレントが逮捕された。彼は言った。『ありがとう』。その彼の言葉を批判する人はもちろん大勢いた。だが、その話を聞いたいくつかの人はその言葉の意味がわかった。それが薬だ。これが、薬だ。
『ブルーバレンタイン』
ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが、間違いなく確実に演技派であり、実力があることがわかる映画である。だが、タイトルからも分かるように内容は比較的『ブルー』であり、暗い雰囲気が漂う。だからこの映画は玄人向きである。評論家の評価も高い。だが、登場しているキャラクターはむしろ、『一般人』である。普通、一般人というのはブッダとは離れたところにいる。ブッダとは『悟りを開いた者』という意味で、よくある間違いが、『釈迦』と混合させることだ。
その人の名はゴータマ・シッダールタ。釈迦とは、彼が釈迦一族の王子ということでついている尊称のようなものである。だが本当の尊称は『ブッダ』であり、つまりブッダというのは彼以外にも大勢いるのである。
ブッダは真理を理解し、選択を間違えない。だが、そうじゃない人はどうだ。つまり、今回の彼らのような一般人は?普通に人生を生きて、自堕落に陥ってしまう本能に抗う強い人生へのモチベーションや、哲学、信念や心情がない人はどうすればいいか。
三大欲を筆頭に、人間の欲はひっきりなしに襲い掛かってくる。例えば、そのブッダが言ったのはこうだ。
『人の欲望というものは、たとえヒマラヤの山を黄金に変えたところで満たされることはない。』
そこで、『足るを知る』ことこそ、真理なのだと説いた。足るを知る者は富む。これは三教、つまり仏教、道教、儒教すべてで教えていることだ。真理に逆らわずに生きると、人も含めてすべての森羅万象が、『スムーズになる』という不思議な現象がある。
例えば、宇宙の森羅万象は、諸行無常である。諸行無常の意味は、『移り変わっていくもの』。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
ただ一つとして固定されているものがない。これが事実なのだ。こうした真理に逆らわず、受け入れ、それに則って生きることで、人は苦しみや悩みから解放されたりする。その真理が分からない。それが一般人というものである。だから彼らは選択を間違える。欲のコントロールの仕方も分からない。どこまで制御し、何を強く主張し、どんな生き方をすればいいかが分からない。
自分というハードでは未熟だ。だから人は宗教というソフトに頼ろうとする。だが、釈迦自体が『本来人に宗教も信仰も必要ない』と言っているように、ハードたる本人が内省的な人生を送れば、結果はついてくる。
『若い友人たちにいくらすすめても足りないと思うのは、自己省察を学ぶことです。』
これはゲーテの言葉である。東洋人だけが内省を勧めているのではない。しかし、内省ができるのはごく少数である。ほとんどの人は後始末、つまり、反省を強いられる人生を送る。
今回の登場人物も皆、そういう後始末に追われる人生を送る。これらの解読は、今見たように素人向けではない。だが、極めて素人的である。素人だからこそ、人生をどうしていいか、分からないのだ。

皆が目を向けているところは同じところなのだ。だが、そこに向かっていこうとする道のりが異なっている。そうなると、『夫婦』や『家族』は成り立たない。そこに向かって、同じ道を、足並み揃えて、共に歩んでいくのがその人間関係だからだ。
ニーチェは言った。
『夫婦生活は長い会話である。』
その会話はしかし、同じ道の上で同じ机の上で、同じ椅子に座って行うべきだ。違う道からでも遠距離会話はできるが、脆い人間の心は、それでは寄り添えない。
『フルスロットル』
ポール・ウォーカーは40歳という若さでこの世を去り、『ワイルドスピード』などの超大作で主演をしていたことからも、世界中の人々がその死を悼んだが、実はワイスピの1と言い、結構こういう体当たり系の映画出演が多い。
つまり、B級俳優スレスレであり、何とかヒット作に巡り会えたという状況だった。では、彼の映画は退屈で、演技力もないかというとそうではなく、見ごたえのある役を演じることも多々ある。
今回はフランスでヒットした映画をリメイクし、原作でも脚本と製作を担当したリュック・ベッソンが脚本を務めたこともあって、内容に不満を覚えることはない。何より、彼がこの映画の公開一年前に亡くなっているので(2013年)、そこに敬意を表し、彼を想うのであった。
『ブルックリンの恋人たち』
映画というものは色々な状況で製作される。今回はアンハサウェイが製作に初めて回っていることから、もしかしたら彼女のテスト作品だったのかもしれない。普通、テスト作品だったら出来がそこそこでも『まあまあまあ』となる。だからこの映画を正当化させるとしたらそういう理由があった、ということにするしかない。
85分しかない映画ということもあるし、ほぼ無名の俳優とアンハサウェイだけでその間に人を感動させるドラマを作る為には、もっと内容が濃くなければならない。よくある恋愛程度のシナリオでは、一線を画すことはできない。
『ブレイクアウト』
雨降って地固まる。それはもちろん、固めるためには雨に打たれる必要があるという教訓でもあるが、逆に考えた時、『なぜそれまで雨に打たれなかったのか』ということが問題である。そういう人生は普通、変だ。変な人生を送っていたなら、歪みは生まれるだろう。
『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』
途中で主人公が入れ替わるという斬新な作品で、名作になる雰囲気を醸し出している。評論家の評価もかなり高い。だが、あと一歩何かが足りずに『名作』にはなりきれていない。しかし面白い映画であることは間違いない。
ライアンゴズリングが醸し出す意味ありげな雰囲気。レイリオッタの悪徳刑事ぶり、ブラッドレイクーパーの凡人ぶり。そのどれもが彼らの十八番であり、それが絶妙に絡み合って、作品が織り成されている。ブラッドレイクーパーの凡人とは、『ハングオーバー』のそれだ。彼らは全員が凡人の設定だから、凡人として、類まれなケースに振り回されるのが上手いのである。
『ブレイン・ゲーム』
この手の超常現象的な話は私は全く興味がなく、批評家もこの映画を低く評価し、「『ブレイン・ゲーム』は才能溢れるキャスト陣と凝った設定を売りにしているが、使い古された文句と滑稽な捻りの間でダラダラと進むストーリーという欠点の方が目立っている。」としているというが、私がそのように彼らに言って欲しい映画は他にあり、実はこの映画から得る所は案外いくつもあった。
この映画を、ただ超常現象を引き起こす人というオカルト的な話にまとめてしまうと抵抗があるが、そうではなく、この映画全体で訴える哲学的な倫理観だけを見ると、案外考えさせられることになるのだ。それを考えるためには『トリアージ』という医療概念を知っておく必要がある。この優先順位に従って治療する患者の優先順位を決める、『選別(トリアージ)』をするのだ。これに関しての倫理は批判的な意見が常につきまとう。
しかし、では、
『一人の医者しかおらず、二人の緊急の患者を診なくてはならなくて、一人は、どう考えても治療をしても命を落とすとわかっていて、もう一人の人なら重傷だが治療をすれば何とか一命をとりとめることが出来るかもしれない』
というとき、このトリアージによって『選別』することは、間違いなのだろうか。これは極めて難しい判断なのだ。どちらを取っても不正解だという空気が漂っている。ぜひこの映画をそういう視点を持って観て見たい。
『ブレグジットEU離脱』
イギリスの歴史にとって非常に重要なワンシーン。歴史映画としても重要な作品だ。イギリスのEU離脱(ブレグジット)の是非を問う2016年の国民投票の背後で「離脱派」の投票キャンペーンを指揮した選挙参謀ドミニク・カミングスがどのようにして国民投票を攻略したのかを描いている。
個人的には、その戦略の最新性に目がいった。要は選挙とか投票だから、『自分の方に多く票が入る』ように画策するわけだ。単純に、ただそれだけのことをするのである。だが、ビジネスマン全員が『自分の商品を買ってもらう』目的を達成させたなら、ビジネスマン全員がお金持ちになることが確定するように、実際には皆の矢印をこちらに向けることは容易ではない。

この画像は『だれかに話したくなる小さな会社』に掲載されているものだが、ビジネスというのは、こうして人の興味、人からの注目をどれだけ集められるかということが大きなカギになる。矢印がこちらに向いていなければ、それをこっちに向ける為に莫大な労力を伴う。その中にはお金も含まれてしまうだろう。
例えば『それでも、愛してる』というメルギブソンの映画には、社長であるメルギブソンが突拍子もない行動を取ったことで、それがマスコミに注目され、それが結果的に自社の宣伝に繋がった事例を見て、幹部の人間が、
『数億ドルの広告が、タダでできたわ!』
と言うシーンがある。チラシ、看板、ネット広告、テレビCM、街宣車、この世には様々な広告手段があるがどれも有料で、もし『口コミ』のような宣伝で人々の矢印がこっちに向いてくれれば、そんなに幸運なことはないのである。
だがもちろん、『幸運』という偶然で済まさないのが広告の世界に生きるプロだ。日本で言うと『電通』や『博報堂』クラスの広告会社になれば、恐らくこのあたりを『故意』に、意図的に狙った広告戦略は、お手のものだろう。
この映画で出てくる広告のキーマンとの会話の中で、『マッチング広告』というキーワードが出てくる。例えば街宣車で街中を走ってスピーカーで宣伝すれば、『全く興味がない人』にも強制的にその広告をしてしまうが、この手段であれば、『その人に適した適切な広告』を提示することができる。
現在、Googleを筆頭とした企業が行っている広告だ。あれらは検索キーワードなどを元に、その関連会社、例えば検索エンジン、youtube、その他グループ会社を使用する中で、Googleの検索エンジンで検索した内容のCMが、youtubeで流れたり、また、youtubeで検索した内容がWebページのどこかに表示されるバナー広告に反映されたりしている。
そうすれば、Webの中をどうサーフィンしても、どこにいってもその人の興味がありそうな広告だけが表示されるので、広告主も無駄な広告費を使わないで済むし、より高い宣伝効果、費用対効果を得られる。
少し前の日本では、『おしん』や『きんどこ』などで50%近い視聴率をたたき出したかもしれない。だが、それは他に選択肢がなかったから、また、それだけで人々は十分満たされたからだが、長い時間が経ち、それらがあるのが当たり前になってくると、人々のわがままは加速する。
そして現在。現代に生まれる子供たちは、『任天堂スイッチ』が最初のゲームだ。インターネットがあり、youtubeがあり、スマホを持つのが当然という世界に生きる人々は、『おしん』に50%も集まらない。
この映画は、単純にイギリスの重要なワンシーンを切り取った作品としても価値があるが、そうして人々の心理状況の移り変わりを感じ取れる作品でもあり、また、節々にビジネスの貴重なヒントが隠されている、教訓性の高い映画なのである。
『アル・パチーノ ブロークン 過去に囚われた男』
- 死を処方する男
- 陰謀の代償
- フィルスペクター
- 過去にとらわれた男
- Dearダニー
- ブラックファイル
など、この辺りの映画は『かつてのアルパチーノ』ではなく、『シフトチェンジされたアルパチーノ』として映画に出演していることがわかる。そっちの方が自然ではある。シュワちゃんの映画の時に書いたのだが、いつまでもスーパーヒーロー役を演じるのには無理があるから、高齢者になれば高齢者にしかできない役柄を演じるのは自然だ。逆に言うと、そういう役を演じられる若い役者はいないのだから。
だがやはり、満足度は落ちるだろう。テンポも遅いし、キレもない。スリリングでもなければ、インパクトも薄い。『ミッドナイトガイズ』は、最後に男を魅せて哀愁があるのだが、同じような作品を何個も作るわけにはいかない。
ただ、彼がすごいのは、1969年にデビューして以来、ほぼ毎年新しい映画に出ているのだ。空いたとしても2年で、ほぼ毎年映画に出ている。こういうチャレンジングな姿勢と、真面目な職人肌の性格が、彼に俳優としての威厳を保たせている。だがそれと同時に、『外れ作品』にかち合うこともあるから、B級まがいの残念作品と、我々が出会ってしまうこともあるのである。
彼は、「あなたが今まで演じてきた役の中で、どの役が一番自分に似合っていますか?」という質問に、「どの役が一番自分に似合うということはない。すべて私の一部なのだ」と語った。この言葉に、彼の俳優としてのプライドがにじみ出ているように見える。つまり今回の作品で言えば、アルパチーノが孤独なのではない。『彼が孤独』なのだ。
『フローズン・グラウンド』
リビドー(性的衝動)は時に、人を暴走させる。話がこじれて、事態が深刻化する。だが、虫や動物がどんなに異常な交尾をしても人には関係ない。これは、あってはならない真実の物語である。そして、虫や動物には関係ない。これは、シリアルキラーであるロバート・ハンセンが1980年代のアラスカ州で実際に起こした事件を題材にしている。
『プロメテウス』
この映画が何の映画なのかを書かない方がいいだろう。見てのお楽しみだ。
『武士の家計簿』
武士とはいっても、色々な生き方がある。武士とは名ばかりの、刀を振り回すごろつきのような者もいれば、武士の鏡のような、一目置かれる者もいる。そして、彼らのように数字の計算が得意な人間もいる。それは、中国の武将、劉邦を支えた名将たちの話を知っている人なら、理解の早いところである。
『復讐の十字架』
オーランドブルーム目当てで見る人がほとんどだろう。彼の壮絶なファンという人以外は拍子抜けしてしまう映画である。wikipediaにも説明ページがないようなマイナーな映画だ。雰囲気が暗いので、連続して映画を観るような人は飛ばしてしまうかもしれない。逆に、この映画がどうしても見たかった!という人はじっくりと楽しめるだろう。
『二ツ星の料理人』
実は料理の映画はほとんどなくて、意識して探さないと片手に数えるくらい。それだけドラマにするのが難しいということなのだろうが、これは面白かった。私も彼と同じように完璧主義者だから共感できるポイントがたくさんあって、仕事人としても料理が好きな女性としても楽しめるはず。
アインシュタインは言った。
『信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。』
しかし、その推進力が時に他人との軋轢を生む。では、どこまで追求するべきなのか。調整を『慣れ合い』と断言できるまでの信念とビジョンがあるのか。『凡才の集団は孤高の天才に勝る』という本がある。このあたりの要素と併せて考えると、教訓性の高い映画となる。
『ペイ・ザ・ゴースト ハロウィンの生贄』
ニコラスケイジのいつも通りの『借金返済映画』の一つだ。彼はこうした作品にたくさん出演したお金を稼ぎ、もうほとんど借金が残っていないという。彼がまた第一線に出れる名作で帰ってくることを願う。
『ベイマックス』
アナ雪の後ということもあったのか、映画館では観なかった。カーズもそうだが、子供でもない私は、あまりディズニーの映画を率先して映画館で観ない。だが、この映画は観てよかった。想像以上の展開を見せてくれた。
『ヘイル、シーザー!』
相変わらずコーエン兄弟の映画というものは性に合わない。宮崎駿も『詳細を説明しない』ことで有名だが、彼らもまた説明なしに、分かる人にだけしか分からない映画を作る印象がある。
そして、別にこっちはそれを追いたいとは思わないのだ。彼らのファンでもないし、宮崎アニメのように、まず説明なしでどっぷり浸かって楽しめるというわけでもないから、すると、そのままよく分からないままで終わってしまう。
しかし実際にはよくわからないものを作る人はいないわけで、作り手はちゃんと考えて作品を作っているものだ。例えば今回の主人公エディ・マニックスという監督は実在した人物のようで、共産主義のこうしたごたごたは、実際にあったことなのかもしれない。だとしたら、それらの話をこうしてまとめることは、知っている人はさぞかし面白いだろう。
『ベスト・バディ』
モーガン・フリーマンとトミー・リー・ジョーンズの豪華共演だが、『ラストベガス』などのダグラスやデニーロもそうだが、あまり後半になって共演してもボルテージは下がってしまっているので話題にならない。もっと共演が燃え上がる時にやるのが一番だ。格闘技の試合なんかもそうだが、『旬』を過ぎると味が落ちるのは食べ物だけではない。
もちろん、そのコラボで売っているわけではないだろうが、豪華なだけにもったいない気がする。後半になると、こうして高齢者向けの仕事を引き受ければ、高齢者は喜ぶだろうし、逆に高齢者しかその役をできないのだから、高齢者になっても需要と供給が合致するのは喜ばしいことではあるが。
『ペット・セメタリー』
ある日子供がその短い一生を不慮の事故で終えてしまった。そういう例は、私の身近にも存在している。ある人は一生その子が生活していた部屋を変えることができず、ある人はその子の好きだった料理を一生作れなくなった。ではそんな彼らの前に、その空いた穴を埋められる可能性がある話を持ち掛けたらどうなるだろうか。これは神の救いか、それとも、悪魔の誘惑か。
『ベル・カント とらわれのアリア』
最初は『外国』に対し、それぞれが素直に思っている本音が顔に出る。銃は物騒で無様だし、日本語もスペイン語も分からない。居心地がいいのは自国の習慣だ。皆がそう思っている。
だが、『やむを得ない状況』で、少しずつその『今まで無意識に積み上げられてきた心の壁』が砕けていく。脆くなっていく。打ち解ける方向へと向かっていく気配が漂う。
マイケル・ジョーダンは言った。
『何かが障害として立ちはだかっているように感じても、実際には何もない。』
そのことに皆が、気づき始めていく。『皆』の中で何かが動き始めた。何かが理解りはじめた。その時だった。その時『それ』は、起きてしまったのだ・・。
『ヘル・フロント 地獄の最前線』
イギリスの劇作家ロバート・C・シェリフが第1次世界大戦での実体験をもとにつづった「Journey’s End」が原作。第一次世界大戦というのは、例のあの洞窟のような、掘りのようなところ、つまり『塹壕(ざんごう)』で戦う塹壕戦がメインとなった。だからこの時代の映画のほとんどが塹壕戦を描く映像となっている。『西部戦線異常なし』、『1917』などが有名だが、例えば『戦火の馬』で、戦争の前線に行くことについてのやり取りがあるが、戦争の前線は字通り、『ヘルフロント(地獄の最前線)』なのである。
一般人が急に兵士として戦場に送られる中、そのほとんどの人の本音は『無事に家に帰りたい』というもの。『西部戦線異状なし』では、ある種のトランス状態のような目がギラついた兵士たちが戦争兵士に志願し、戦場に行くところからはじまる。だが、これらのどの映画でも、戦場に行ってそこを『良かった!興奮した!』と話す人間は一人もいなかった。
彼らもまた、その地獄のような戦場の最前線で、人生を見失っていた。
『ヘルプ ~心がつなぐストーリー』
1960年代前半。この時代はまさに黒人たちの時代と言ってもいいだろう。1955年12月1日にアラバマ州モンゴメリーで起きた「モンゴメリー・バス・ボイコット」を皮切りに、彼らの権利を主張する公民権運動が始まる。その指導者の代表者と言えば、
- メドガー・エバース
- マルコム・X
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)
だ。後の二人は有名だが、アメリカではメドガーエヴァースも有名。テレビで常に黒人の代表者として真理を主張し続けてきたことが、記録に残っている。1963年に起きた公民権運動家メドガー・エヴァーズ射殺事件。それは、当時を生きるアメリカ人にとってはあまりにも大きな事件だった。今回の映画でも彼の死のシーンが、そして『ゴースト・オブ・ミシシッピー』ではまさに彼の遺族が主人公として描かれる。
詳しく調べたわけではないが、映画を観たところタイトルの『ヘルプ』は、現地で言う『お手伝いさん』であり主役の彼女たちを意味する。そして同時に、当時を生きた黒人たちの心の叫びが、ここに関係しているのではないだろうか。彼らは本当は現状から脱したい。だが、今まであまりにも淡々と現実を突き付けられすぎて、半ば真実を主張することを諦めてしまっている。
そんな中、一人の白人ライターが現れる。彼女も家にヘルパーがいた家庭で育った。だが彼女の場合は、その女性のことを実の母親のように慕っていた。つまり差別意識はないのだ。むしろ並々ならない愛情を持っている。では、その女性はどこまでできるか。彼女たちの心の叫びを、どこまで汲み取り、どこまでこの荒れ果てた時代のアメリカに、風を巻き起こせるか。
『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』
1964年の『トンキン湾事件』では、当時のジョンソン大統領がベトナムのトンキン湾を巡視中の米国の駆逐艦が行来攻撃を受けたとして宣戦布告し、ベトナム戦争に発展した。だが、後にその事件はアメリカの捏造だったことがわかった。これは、その捏造事件の秘密を命がけで暴くジャーナリストたちの奮闘である。
ナウシカの『腐海』のモデルが、人間が出した公害を浄化した『有機水銀分解菌』だと知っていただろうか。つまり私はこの話よりも『動き』に興味がある。人間だけではない。一体なぜ世界に目を向けると、このような『動き』があるのだろうか。
『ボーダーライン、ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ』
2015年の映画『ボーダーライン』のスピンオフということもあって、『2』とは言えない地味な展開が繰り広げられる。やはり、1の方がエミリーブラントの華もあり、女性捜査官というハイリスクで不安げなキャスティングといい、スリルとエンタメ性は高かった。だが、メキシコ、アメリカ間にある麻薬、違法入国問題の細部は、現地をよく知る人々の方が詳しい。そういう人たちを楽しませるだけの展開があるのではないだろうか。
『ボス・ベイビー』
何と言っても吹き替えのムロツヨシと芳根京子が最強にはまっていて良かった。普通、タレントが声優をやると自分の存在を知らしめようとするのか、自意識過剰が過ぎるのか、エゴが出てしまって最悪な吹き替えになる。だが、特にこの二人のタレントは見事に声優顔負けの演技をしてみせてくれて、一切そういう違和感をこちらに与えず、役になり切ってくれた。全タレントが見習うべき作品である。
『ボストン ストロング 〜ダメな僕だから英雄になれた〜』
『パトリオット・デイ』の後に見るとより一層深くなる。被害者に『被害者意識を持つな』と言ってもそれを受け入れられる人は少ない。だが、最後には立ち上がる。自分の意志と足で立ち向かい、前を向く。そのために目が前についているのだから。
『ホテル・ムンバイ』
インドはヒンズー教とイスラム教で考え方が分かれ、1947年8月、インド・パキスタン分離独立となる。つまり、インドが分裂して『パキスタン』という国を生み出し、両者は思想の違いもあってにらみ合うようになった。あのガンジーがそれをギリギリまで食い止めるが、彼はイスラム教に味方をしたということで、ヒンズー教原理主義に暗殺される。ヒンズー教徒とイスラム教徒による宗教暴動は、100万人もの死者を出してしまった。
来たる2008年11月26日、インドのムンバイで、それは起こった。パキスタンにいるイスラム原理主義者が若者を洗脳し、テロリズムを行ったのだ。世界の人々が集まる五つ星ホテルが狙われた理由は単純だ。世界の注目を集められるからだ。今年の映画で、ここまで一分一秒目が離せない映画はなかった。これは、10年前にインドであった、本当の出来事なのだ。
『ボビー・フィッシャーを探して』
実在のチェスプレイヤーであるジョシュ・ウェイツキンの少年時代を描いている。彼は16歳でインターナショナル・マスター(IM)となった。彼は中国拳法家でもあり、2004年台湾で行われた太極拳推手世界大会にて優勝している。1970年代に、米国人として初めてチェスの世界チャンピオンになった伝説的な天才ボビー・フィッシャーが失踪した後の話だ。
実話だから見応えがあるが、実話だから大問題は起きず、あまり激しい展開はない。『ボビー・フィッシャー』という名前を使わないとかなり地味な作品になってしまう。つまり、彼とボビーとでは雲泥の差があるということがここからわかる。彼も十分な神童だ。だが、ボビーフィッシャーというのはその更に上を行く神童であるということが『チェスの神童を描いたこの映画』から分かるのだ。
切り取った場面が『子供時代だけ』ということも当然ある。だが、タイトルから連想するような『チェスの神童がボビーフィッシャーを探しあてて、対局し、負かす』という最高のシナリオにハードルが上がってしまっているので、専門家たちが絶賛するほど、一般の鑑賞者はあまり大きく心を揺さぶられることはないだろう。もちろん家族における人間ドラマは見ものだ。だが、ボビーフィッシャーという名前が大きすぎるのである。
『ホビット』
第1部 『ホビット 思いがけない冒険』
第2部 『ホビット 竜に奪われた王国』
第3部 『ホビット 決戦のゆくえ』
の三部作として公開された『ロード・オブ・ザ・リング』の前日譚。この作品の最初に登場する『指輪の謎を知るホビット(こびと)』の青年時代が描かれる。
単純に旅として冒険する行動範囲が物理的に広く、登場する人間の数も膨大で、大自然が多く映し出されるので『壮大な物語』として仕上がっている。また、エルフやドワーフなど、さまざまな種族の人間が登場したり、『ファイナルファンタジー』のように剣も弓矢も魔法も使用され、ドラゴンまで登場するから、そのファンタジーの長所である無限の解放感が、更に物語を壮大にさせる。
前日譚だから、こっちから観てもいいのではないだろうか。私は順番通り見たが、もう二度とこっちから観ることができないので、ぜひともホビットからのロードオブザリングという景色を、楽しんでもらいたいものである。
『ボヘミアン・ラプソディ』
『クイーン』の楽曲が多く流れる。フレディ・マーキュリーという伝説の男がいた。しかしそれは本名ではなかった。そして順風満帆だったはずの彼自身の人生も『真実の姿』ではなかった。では一体彼の真の姿とはなんなのだろうか。そして彼が『伝説』なのはなぜだろうか。人間がお金を持つということは、どういうことなのだろうか。
『ポンペイ』
紀元69年、これはローマ帝国で言うと暴君と言われたローマ皇帝ネロの時代(54~68年)である。
| ベンハー | 0~30年 | アウグストゥス、ティベリウス時代 |
| クォ・ヴァディス | 60年頃 | ネロ時代 |
| 第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
| グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
- ティトゥス79-81
- ドミティアヌス81-96
それからしばらくたち、79年となる。この時代のローマ皇帝はティトゥスだ。弟には暴君と呼ばれたドミティアヌスがいた。舞台はイタリアのナポリ地域であるポンペイ。62年2月5日、ポンペイを襲ったポンペイ地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で79年8月24日以降の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
この絵はポンペイの想像図。つまり、想像の域を過ぎない。だからここで行われた人間ドラマが実際にあったということはない。人口は約1万人。天災で一度に死んでしまった人の数としては決して少なくないが、都市の規模としては小さく、中にはこの事実を疑う人もいた。だから『幻の古代都市ポンペイ』という名前が付けられるわけである。
ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるフランスの最初の英雄ウェルキンゲトリクスは、カエサル率いるローマ軍に抵抗した。この時の記録が『ガリア戦記』である。このようにして当時のローマはその領土を拡大。帝国になってからはますます異国人たちを迫害していった。この映画の冒頭でもケルト人がローマ軍に迫害されるところからはじまる。
そして、物語全体の軸にローマ軍が存在することから、当時の状況を著しく改変しているということはなく、なるべく史実に沿って展開されていく。もしかしたらこういう物語があったかもしれない。そう思いを寄せながら、かつて確かにここで生きた人々のことを想う。
『僕と世界の方程式』
アスペルガー症候群と診断されながらも2006年の国際数学オリンピックで銀メダルに輝いたダニエル・ライトウィングを描いたドキュメンタリー映画をドラマ化したもの。自閉症スペクトラム障害の中に位置づけられるアスペルガー症候群だが、自閉症などの発達障害等のある人が、その障害とは対照的に優れた能力・偉才を示す『サヴァン症候群』などもある。
サヴァン症候群のwikipediaにはこうある。
日本では、新渡戸稲造著の『修養』(明治44年、1911年刊行)「総説」の頁において、新渡戸がサヴァン症の米国の少年と会話をした記録が記述されている。それによると、新渡戸が米国の白痴院を訪れた際、「談話をした少年が普通人の遠く及ばぬ見識を懐いていて、専門家さえ舌を巻くがごときことをし、中でも驚いたのは、数学で非常に偉いものがあること」とし、「(彼は)算盤も一本の筆も用いないで正確な数字を答えた」と記し、例として、「79万3625に9万9673を乗ぜよと命じると、ただちに791億298万4625と答え、僕は3、4分かけて計算して答え合わせをした」と述べている。
これは断言できないのでここでは書かないが、私は『能力の顕在化』を考えてきた半生だったゆえ、この現象について思うところがある。考えさせられるテーマである。
『僕のワンダフル・ライフ』
正直、犬の話を持ち出すならそこには感動があるに決まっている。犬は忠実で、飼い主が緊張すればそれを察知し、警戒する。そういう風に、人間と強くシンクロするからこそ、生涯を終えたときにそこに残るのは、まるで自分の体の一部を失ってしまったような虚無感である。日本語のナレーションの声は納得いかないが、それを差し引いてもここにあるのは感動の物語である。
『僕は明日、昨日のきみとデートする』
最初は私の嫌いなキュンキュン展開のクソムービーかと思って眉間にしわを寄せていたが、実はなかなか深い映画だと気づいた。それは『テネット』の存在のおかげである。
- テネット
- 僕は明日、昨日のきみとデートする
- ベンジャミンバトン
このあたりを一緒に見たい。
ま行
『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』
アメリカのサーファーであるジェイ・モリアリティを描いた伝記映画。彼は若くして天才的なサーフィンの腕前を見せる凄腕だったが、22歳の頃、大きな事故に遭ってしまう。『マーヴェリックス』とは、7年~10年に1回発生する非常に大きな波のこと。波乗りと呼ばれるサーファーにとって、それが発生する場所で育ち、それを見て見ぬふりをして避けて通るのは、腑に落ちない。
挑む年齢で考えても、あまりにも無謀で無責任。だが確かに、それは一理ある考え方だと言えるだろう。『知る人ぞ知る若き天才サーファー』の話だからから、描かれる内容が浅く狭くなってしまうことから映画自体の評論家からの評価は低いのだが、私はたくさん映画を観てきて、この映画に★マークをつけた。つまり、面白かった映画として数えたのだ。
その理由は、命にはかけがえがないから。そして、エンドロールで描かれた海が、あまりにも美しかったからだ。
ヘンリー・デイヴィッド・ソローは言った。
『人生は、地球上で過ごした年数で測られるのではない。どれだけ楽しんだかで測られるのだ。』
違う見方も当然ある。だが、こんな海で死ねたら幸せなのかもしれない。彼が映画を通していくつもの大切な要素を、私に教えてくれたのだ。
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
1979年、イギリス史上どころか、ヨーロッパ史上で初めて女性で首相になった人物、マーガレット・サッチャー。生まれも育ちも、別に恵まれているわけではなかった。政治家に男性などほぼ皆無に等しい女性差別のど真ん中の時代で、彼女は自然と『鉄の女』にならざるを得なかった。時代が彼女を強くさせたのだ。1982年、フォークランド紛争が勃発し、1984年にIRA暫定派によるテロに遭う。そして、認知症。彼女は一体どういう人生を送ったのか。そして、この映画には出てこないが、彼女とほぼ同世代の英国女王エリザベス2世と彼女は、どういう関係だったのか。
『マイ・エンジェル』
マリオン・コティヤールはかなりニッチな映画にも多く出ていて、一見するとB級に見えてしまうような映画でもアカデミー賞にノミネートされたりしていて、目が離せない。『サンドラの週末』がそうだ。確かに、ヴァンパイアのように全く共感できないニッチよりも、彼女のような役の方がよっぽど日常に迫っているわけで、共感できる。
また同時に、そのようなニッチもこなせるということは役者の実力として評価が高い。ヴァンパイアとかなんたらのヴィランとかいう役は、往々にして『フッハッハッハ!』とか、のけぞっていれば成り立ってしまうものだ。容姿がすでに普通じゃないから、それで『普通の人間と同じ立ち回り』をされても混乱するので、オーバーアクションになりがちである。すると、誰もがそうして演じるのでコモディティ化が起き、価値がすり減ってB級に転落しがちなのである。
『マレフィセント』でアンジーが成功したのは、シナリオ的にも彼女というヴィランの繊細さを映し、それが斬新だったということもあるだろう。『魔女がいっぱい』のアンハサウェイはその辺りをうまくやったが、そういう方向で無意味に役者の価値を落とす人が多いので注意が必要だ。だが彼女の場合、『サンドラの週末』も今回もそうだが、両方とも『見回すと見つかりそうな人』を演じているから、我々一般人が密接に作品の内容に寄り添うことができる。
『愛を綴る女』、『君と歩く世界』、『エディットピアフ』も含めて、かなり複雑で、精神的に込み入った役を演じることが多いが、それを見事に演じているのが伝わる。『インセプション』や『マリアンヌ』などもそうだ。つまり彼女の場合、『演じるのが難しい実力が問われる役』を引き受けている印象が多く、それを見事にこなしていて、実力で世界を認めさせている印象があるのだ。
ノオミラパスもその系統だが、彼女たちのような人は、脇役にいるべきではない。脇役にいるのも見たことがあるのだが、全く生かされていない。だから今後はすべての映画で重要な役を演じるべきだ。
今回の映画もwikipediaにも説明ページがないような作品だが、『こういう人はいる』ので教訓性があるし、それをうまく演じていて、他の作品の彼女を少しも持ち込んでいないから、感心するのである。こういう人がいる、ということを知っている人は教訓を得られる。また、こういう人はいない、と勘違いをしている人は『いるので』ここで知れて教訓になる。
『マイ・サンシャイン』
1992年にあった『ロサンゼルス暴動』の実態を見ることができるので、それは資料として貴重だ。酷評されたようだが時間も90分だしあまりハードルを上げ過ぎなければ資料としては価値がある。
映画としては微妙だ。例えば、『15時17分、パリ行き』も同じくらいの時間だが、事件のシーンは最後にほんのわずかしか流れない。それはそうだ。事件の時間というものは普通短い。テロ行為などになると3分以内で終わるものがほとんどだ。
そのような事件を映画化するとなると、やり方次第ではドキュメンタリー映画とか資料になってしまう。それを映画レベルにまで引き上げるには、まあ、映画が『引きあがった場所』にあるかどうかはさておき、映画というエンターテインメントに仕立て上げるには、やはり事件以外のところで組み立てるシナリオと演出が必要である。
『パリ行き』が面白かったのは、その事件のシーンをクライマックスに持ってきたところで、そうした事件に偶然直面したとき、どれだけの人がとっさに行動できるか、そしてそうしてとっさに行動する人とは、普段何を考えて生きているか、幼少のころから遡って何があったのか。というところにスポットライトを当てて、主人公の青年たちに感情移入させたからだった。
『マイ・ビューティフル・ガーデン』
この説明は鑑賞前に見ておいたほうがいいだろう。
生後間もなく公園の木陰に捨てられていたベラ・ブラウンは、秩序を好み、予測できない自然、特に植物を恐れている。食事の内容と時間、鍵のかけ方、毎日の服や歯ブラシに至るまできっちりと揃えて生活しているが、植物嫌いが祟ってアパートの裏庭は荒れ放題になっている。
これが主人公の設定である。
人間は、枯渇した要素の穴埋めに躍起になるものだ。貧乏に生まれた人の多くは、(金さえあれば・・)と辛酸をなめた幼少時代の自分を助けるかのごとく、中には拝金主義にすらなってしまう者もいる。かと思えば、ココ壱番屋の創業者のように、『美味しいカレーがお腹いっぱい食べたい』としてカレー屋を開き、本当に美味しいカレーとして国中の人に愛される人もいる。
とにかく幼少期の環境は、その人の人生の原動力と関係しているケースが多い。この女性の場合、『秩序を好むのだが植物が嫌い』というのは、完全に環境に支配されている。これを、アウトサイド・インという。
ジェームズ・アレンは言った。
『環境が人を作るのではありません。環境は私たちに私たちがどんな人間であるかを教えてくれるだけなのです。』
一方、環境を支配する考え方が『インサイド・アウト』だ。彼女の場合、自分でルールをきっちりと作ってその中で生活することである種の秩序を覚え、安息に浸ることができているから、自分が後者に当てはまると思いがちだ。だが実際には『自然という秩序』を恐れている以上、それは秩序を愛することにはならず、未熟状態である。
動物や虫、草木も同じようにこの世に生まれ、そして命の日数を終えた後、この世を去る。しかし、ただ去るだけじゃない。去った後、あるいは去るときには、他の生命の種となり、肥やしとなる。すべては循環しているのだ。
動物が死んだら、小動物がその死骸を食べ、小動物が死んだら、昆虫がその死骸を食べる。彼らがした糞を餌にする生命もあれば、それを土壌にしてすくすく育つ草木がある。その草木が木の実を成らせ、それを鳥や小動物が食べる。草木は人間が出す二酸化炭素を吸って酸素を生み出し、オゾン層を作って太陽の紫外線から地球を守る。雨雲を作る。その雨雲が雨を降らせば、多くの生き物は命を潤すことができる。
こうした自然の法則を俯瞰的な視点で理解すると、一見するとカオスに見えるこの世の一切に『諸行無常』という秩序が見えてくるようになる。意味は、
『この世のすべては、移り変わっていくもの』
という意味だ。鬱病の人にもこれが分かっていない人が多い。私は鬱病の本も20冊読んでいるが、『真面目で完璧主義者な人』がかかりやすいという。だが、本当に真面目で完璧主義者なら、こうした真理に辿り着くはずだ。一言、『中途半端』なのである。
だからよく強迫神経症の人が、コロナ前の話になるが、雑菌を恐れて外出した後は自分の殺菌に一時間以上かけてから入室するという人がいたが、残念ながらそんなことをしても、部屋にもしっかりとハウスダストがいて、それを赤外線や顕微鏡で拡大視すると、その人の嫌いそうなダニの死骸やカビがうようよ存在しているのである。
ニーチェは言った。
『自分自身に対する極度の清潔癖が私の生存の前提条件となっていて、不潔な条件の下では命すら危ない。だから、私はいわば絶えず水の中で、もしくは完全に透明な光輝く元素の中で、泳いだり、浸ったり、ぱちゃぱちゃしている。』
『共生』しているのだ。この女性は自閉症で、『自分が作りだした自分だけの世界』で安寧のひとときを過ごすことを生活リズムに取り入れ自分を保っているが、彼女がそうした世界の事実にどこまで近づけるかどうか、それがこの映画の一つの鍵となってくる。こういう時、その繊細だが堅固な『壁』を壊してくれるのは、往々にして基礎ある『離』の境地にいる人間である。
『マイ・プレシャス・リスト』
IQ185の天才だが対人能力はゼロに等しい19歳の少女が幸福を探し求めるというシナリオだが、IQが高いならそれらの問題も解決できるはずだし、そこに負い目を感じているならIQは低いか、IQ自体が意味のない指標ということになる。
だが実際にはIQというのは厳密に『運動神経、言語能力、文章能力、空間把握能力』等、様々なカテゴリーに分けて図られる。よって、よく『IQが高い天才は変人である』と言うのは、『IQが高い人というのはある能力だけが突出している人』ということを意味し、今回のような事態が生まれることになるわけだ。
例えばアインシュタインは数学や物理など、自分の好きなジャンル以外の成績は『1』だった。ただ、よく微妙な映画に『謎の設定』があり、(その設定はいるんだろうか)という感想が常に映画の邪魔をしてしまうのだが、やれサヴァン症候群だとか、やれ天才だとかいうことは、本当に必要なのか、考えないといけないだろう。
それが実話ならいいのだが、フィクションで、例えば天才のそうした設定があって、しかし作中でそこまで天才的な何かエンターテインメントが発動しないのであれば、観客は(一体なんだったんだ)として、その映画に何を期待して、何を学べばいいかわからなくなる。
また、ニッチすぎる例を出すと共感できない人が続出するから、結果的に多くに受け入れられず、興行的にも失敗するのではないだろうか。
『マイ・ベスト・フレンド』
通常、こうした形の映画は女性からの共感を得やすい。基本的に男は女性の『汚い部分』を見ようとしない。『女の本音』やムダ毛、浮気やヒステリックな姿を受け入れる用意はできていないのだ。だが、女性も単なる人間である。男が勝手に神格化した純白の天使ではないのだ。だが、今回ばかりは男も無関係ではない。それは、この映画で彼女たちが突き付けられるいくつかの試練と、それに必死に向き合う彼女たちの姿勢が、尊いからである。
『マイル22』
監督はピーター・バーグ、主演はマーク・ウォールバーグで、そのタッグは「ローン・サバイバー」、「バーニング・オーシャン」、「パトリオットデイ」に続いてこれで4本目だが、批評家たちが酷評している通り、これが一番の駄作と言えるだろう。何よりそれらは実話であり、これは違う。だから緊迫感と臨場感が圧倒的に違うので、観ても観なくてもどちらでもいいということになってしまうだろう。
『マイルス・デイヴィス 空白の5年間』
様々なジャズの天才たちが描かれる映画があって、彼が描かれる映画がないのはおかしい。ジャズ好きのタモリも惚れるジャズ界の天才、マイルス・デイビスの伝記である。だが、これは後年の彼を描いていて、ジャズの帝王だった時代は少し過去の話になっている。主演のドン・チードルは映画『ALI アリ』のオーディションを受けた際、脚本家のクリス・ウィルキンソンからマイルス・デイヴィスを演じるよう勧められたという。
マイルスの血縁の者からも強い勧めがあったようで、ドン・チードルは彼のはまり役だったようだ。
だが、アメリカではもしかしたらその『空白の5年間』が気になったかもしれないが、偉人映画としてまず王道の枠で撮って欲しかった。『Ray』も『Bird』もそうだ。同じく天才ジャズミュージシャンと言われたチェット・ベイカーの伝記映画『ブルーに生まれついて』にはマイルス・デイヴィスが少し登場するが、同じ天才でもマイルス・デイヴィスは世界レベルだから、『後年』である必要はあまりないように見えた。
チェット・ベイカーとマイルス・デイヴィスは仲が良かったらしい。白人だから人気があるとマイルスが少し穿った目で見ていたらしいが、実際には仲が良かったという。そういう天才同士の絡みなど、マイルス視点でもっと彼の人生を覗きたかったのが本音だ。
『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』
主演のグレタ・カーウィグという女優は『レディバード』や『ストーリーオブマイライフ』の監督を務めている人間で、まだ40歳になる前なのに、華やかな実績を積んでいる。
レディバードは評論家の支持率を99~100%得たという異例の結果をたたき出し、『ストマイ』も全米映画批評家協会賞 監督賞を受賞、何より、多くの女性の心をつかんだ。男の私でも、女性の本音が生き生きと描写されいているのを見て、完成度の高さを感じた。2023年に『バービー』というマーゴットロビー主演の、バービー人形を実写化した映画も公開される。現在は2022年なのでこれも期待できるかもしれない。
確かに、彼女は独特の映画が多い。この映画や、『20センチュリー・ウーマン 』の彼女は、妙な雰囲気を醸し出すミステリアスな女性として登場している。女性だが、従来の女性のイメージとは違う、だが確実に女性である。そういう気配が漂う。彼女は元々製作志向が強かったようだから、思想が強いのだろう。だから監督をすることで化けることに成功したのだ。
『マグニフィセントセブン』
七人の侍、荒野の七人を観たついでにもう一度鑑賞だ。以前映画館で観たのだが、もう一度それらを整理する意味でも再確認してみた。やはり、私は古い映画より最近の映画の方が感情移入できる。ハイクオリティに慣れてしまっているのだ。私は一時期映画が嫌いだった時代があるのだが、それはチープなクオリティの、嘘が丸わかりの爆破シーンとか、人形感丸出しのモンスターなどを観たことで、興ざめしたことが原因である。
ジョーズ、グレムリン、ET、ネバーエンディングストーリーなどがそうだ。そのチープさを逆に利用した『チャイルドプレイ』などは良かったが、それ以外のほとんどはだめだ。チャイルドプレイなどは本当に、最近のバージョンは全然怖くなかった。チープさが武器になったり、デメリットになることがあるということである。
だから正直、七人の侍よりもマグニフィセントセブンの方が見やすい。それが正直な感想だ。だが、もし黒澤明が生きていて、現代の感覚で侍を描いてくれたなら、私は必ずそっちを好きになっていたことだろう。
『マザー!』
この映画は完全に賛否が分かれる。私は『否定』派だ。越えてはいけない一線を越えてしまっているので、それを映像化してしまったことで、マイナスとなってしまう。例えば、ホロコーストを映像化していいと思うだろうか。映像化してはいけないことがあるのだ。
だが、そういうものを込みで楽しみたいという人にはいいかもしれない。中には『私、旧約聖書の世界観好きなんだよねー!』とかいう意味不明なことを言っている鑑賞者がいたが、クリスチャンの両親を持ち、それを強要された私からすれば、その浅薄な発言に、ただただ距離を感じるだけである。おっと、ここまでにしておこう。
『マザーレス・ブルックリン』
1950年代の時代をリアルに描くために、よく観察すると目に入る光景が全て『50年代』になっている。現地に住む人には通じないところもあるかもしれないが、車や街並みなど、外国人では気づけないほど背景まで作りこまれていて、こだわりを感じる。
ただ、やはり探偵ものであれば、もっと『人並外れたなにか』にスポットライトを当てないと、シャーロックホームズのようにはなれない。例えば日本なら中居正広が主演をしたサヴァン症候群の『アタリ』があったが、あのように、障害はあれど、爆発的なインパクトがあれば、
- 古畑
- コロンボ
- ホームズ
- コナン
- アタリ
のそれらと同様、『彼が何とかしてくれる』という一つの楽しみが増え、シリーズ化さえ可能になりやすいが、こういう場合、(この人が障害を持っている必要はあったのか)という疑問が浮かんでしまう。実話ならいいのだが、フィクションでなぜあえて、このような中途半端な設定にしたのか。私の周りには、
- 吃音性
- トゥレット障害
- 統合失調症
を患った人がいたので他人事ではないから、逆に見る目がシビアになってしまう。
ただし、この映画は主演のエドワードノートンが監督をしているということが一つのポイントだ。彼はこう言っている。
「1950年代半ばのニューヨークで何が起きたのかという問題について常に関心を持ってきた。その時代に存在した数え切れないほどの組織的腐敗とレイシズムが現代のニューヨークの在り方を決定づけたから。」
レイシズムとは、
人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当然であるという思想、イデオロギー
白人至上主義的な有色人種差別、特に黒人差別は現代でも続いているが、当時はもっとすごかった。『招かれざる客』を見ればわかるが、1967年公開のその映画では、もはや『黒人を差別することが当たり前』のような、(なぜ異物を家に入れたの?)とでも言うかのような、そういう展開が繰り広げられる。
世界から見れば明らかにおかしいが、だが彼らは本気で思っていて、それが根強く現代でも続いてしまっているわけだ。そう考えると、もしかしたらこの『非常識な常識』を破ることができるのは、彼のようにどこか異質な要素を兼ね備えた者しかいないという、構想があったのかもしれない。
『マダム・イン・ニューヨーク』
インド映画の中ではかなりおすすめできる良質な作品で、インド映画の特徴のダンスシーンの挿入はあるが、ミドル・ミュージカル映画を観ていると思えばいい。ミュージカルまで行かないが、という演出だ。主演のシュリデヴィは、1970年代から1990年代にかけて活躍した、インド映画界の伝説的人気女優だというが、我々はそれを知らない。だが、確かにこの優良な映画を観た後にその話を聞くと、実力と伴っていることが分かる。
『ロストイントランスレーション』ではアメリカ人が『言葉の分からない国(日本)』で感じる孤独を描いたが、この場合はインド人が英語を喋らないといけないという状況で、孤独を感じるわけだ。つまり私はこの映画を通して(いや、なんで英語に合わせないといけないんだよ)という、ある種の反発心を覚えるのである。
確かに英語が世界共通言語という考え方が広く浸透しているが、それはまだ正確な答えが出ていないものだ。『いや、お前が日本語喋れよ』と思うのだが、それは言い過ぎなので言わない。しかし、あっちはそう言ってくるわけだ。
単純にこの映画の女性の立場に共感を覚える女性や、外国人は大勢いるだろうが、私の場合はもっと根幹の、初期設定になぜか完全に固定されている『英語を喋らなければならない』という強迫に、首をかしげる。ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、韓国語、スペイン語。世界には様々な言語がある。異文化交流系の映画を観るといつも私の思考は、違うことを考えている。
『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』
今回メリルストリープが演じたフローレンス・フォスター・ジェンキンスについてのwikipediaを見てみよう。
彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性がほとんどなく、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないこと、伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのがわかる。にもかかわらず、彼女はその型破りな歌いぶりで大変な人気を博した。
聴衆が愛したのは音楽的能力ではなく、彼女の提供した楽しみであった。音楽批評家たちは、しばしば彼女の歌唱を皮肉まじりに説明し、それがかえって大衆の好奇心を煽る結果となった。まさに、この映画はこの説明文がどういうことであったかを説明する映像になっている。
天才の共通点は色々あるが、一つは『前に出る』というものがある。要は、アインシュタインだろうがエジソンだろうが、前に出て『こういう意見がある』とか『発明がある』という風にアピールしないと、世にそれが伝わらない。結果、その人が天才かどうかも判断できないのである。
その意味で、周りにいる『勘違いした痛い人』を見るとき私は、(でも、前に出ているか・・)とよく考えたものだ。勘違いでもほら吹きでも、とにかく前に出ることは極めて重要。
SMAPの中居正広は、若い時『汗かけ、恥かけ、物を欠け』という精神でやっていたと言っていたが、どんなに恥をかいても、どんなに馬鹿にされても、とにかく前に出なければ始まらない事実があるのだ。試しに前に出ない選択肢を選ぶといい。そうすれば誰かに何かを言われ、恥をかくことはない。だが、評価されることもない。
『マチェーテ』
マチェーテというのは中南米の現地人が使う山刀。つまりナタのような刀のことである。それを好んで使う最強のメキシコ人、その名もマチェーテである。メキシコというのは日本と比べて圧倒的に治安が悪い。家の窓やドアに『檻』がないのは非常識である。死体が路上に落ちていることも日常茶飯事。麻薬の浸透率もまるで違う。だからこの映画を観るのが『何人』かによって思う感想は違うだろう。とりわけ、大胆で派手な生き方が好まれる欧米ではこの映画のファンが多く、次の作品でも豪華キャストが続々と登場することになる。
『マチェーテ・キルズ』
前回はセガールやデニーロが出て、今回はレディーガガやメルギブソンが出て、という豪華キャストがすごい。主役にダニー・トレホがどれだけ愛されているかということがわかる。ろくに調べておらずこれは推測だが、彼は脇役としてたくさんの映画に出ているから、きっと多くの人脈があり、その確実な仕事ぶりを認めるタレントが多いのだろう。内容は滅茶苦茶だが、意外なことにファンが多い。王道映画では決してないが、こんな映画を通してこの世界の多様性を知ることができる。
『マニアック』
マニアック。それは、マイノリティ(少数派)の思想とも言うことができるだろう。この世には、エッフェル塔と結婚する人が実在するのが現実だ。では、この男は一体何を『愛してしまった』のだろうか。この男の愛や性癖は歪んでいるのか。それとも、許されることなのか。
『マニカルニカ ジャーンシーの女王』
『インドのジャンヌダルク』とも言われ、歴史の本にも名を残すインド大反乱の女性指導者ラクシュミー・バーイーを描いているので、歴史的にとても貴重な作品だ。だが、無意味な過剰演出によってせっかくの輝かしい実態に、胡散臭さが付け加えられてしまっている。だが歴史は貴重だから真剣に考えたい。
さて、別の記事に詳細をまとめたから簡単に説明するが、
産業革命
↓
世界の人々の仕事がなくなる
↓
インドにおいては特殊な税法を敷いて財源を確保しようとする
↓
イギリス(東インド会社)のこうした支配にインド人が不満を覚える
↓
インド大反乱(1857年)
という流れである。この時代にちょうど彼女はインド中部にあったマラーター同盟の小王国ジャーンシー藩王国の王妃として存在していたので、その立場としての責任もあって、しかし期待以上に勇猛果敢にインドの為に命を張って大活躍した勇者なのである。
『マネー・ショート 華麗なる大逆転』
2005年、リーマンショックは起き、世界中が混乱に陥った。800万人が失業し、600万人が家を失った。だが、あの大激震を事前に予知したいくつかの人間がいた。ある者は偶然それを知り、ある者は自分の見識だけでそれを見抜いた。だが、もし読みが間違っていたらとてつもない大損害を食らう。さあ、一体どうする。どう行動すればいい。
『マネーモンスター』
テレビ局に乱入したのは、番組に恨みがある人間だった。最初はただただその犯人を排除してほしいと誰もが思った。だが、徐々に『敵は彼ではない』ということを理解していった。では、一体誰が敵なのだろうか。
『マリアンヌ』
第二次世界大戦中にナチス・ドイツを倒すため、スパイの男女が手を組んだ。二人は周囲を欺くための偽りの関係だったが、次第に心も一体化していき、本当に恋愛の対象になっていった。二人は結婚し、子供も産んだ。だが、どうも彼女にはまだ秘密があるらしい。『二重スパイ』の疑いがあることが判明したのだ。夫は彼女を信じたい。今までの生活すべてが偽りだったなんて、信じたくない。背信行為は命を失うリスクがあるこの時代にあって、複雑な状況を強いられた二人の運命はいかに。
『マリー・アントワネットに別れをつげて』
『王妃マリー・アントワネット』では、1785年にあった『首飾り事件』が描かれる。王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブル(金塊1t程度に相当する)の首飾りをロアン枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った典型的な詐欺事件で、それに引っ掛かったことも彼女が信頼を失くしたことに繋がった。
今回は『ヴァレンヌ逃亡』という事件にスポットライトを当てる。当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。マリー・アントワネットは、革命が起こったとき、なんと『愛人』のフェルセンの力を借りて、一家でオーストリアを目指して逃亡する。しかし、国境近くのヴァレンヌで捕まってしまう。これが『ヴァレンヌ逃亡事件』である。
この事件が更に民衆の怒りを買うことになってしまった。革命が起きた当初は、別に国民は王を処刑するほど恨んではいなかったのだが、このような事件を通し、徐々に雲行きが怪しくなっていくのである。
今回、彼女の朗読係から見た視点で描かれるため、賛否両論が常に分かれる彼女の評価をより客観的に見ることができるのかもしれない。フランスでは彼女は『誤解されている』ということを言っている人もいるし、史実で考えるとどうしても『無知な浪費家』としか映らない。その辺りの真実を、色々な映画の色々な角度から見ることは重要な歴史探索になる。
『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』
わずか36歳でこの世を去ったマリリン・モンローの没後50年を経て初公開された直筆の手紙や日記をもとに、彼女の知られざる内面にスポットを当てた人物ドキュメンタリー。映画界の伝説上の人物はそう多くない。よく『早死にすれば伝説となる』と言われるが、それも確かに事実である。この若さで死んだ彼女のまた、早死にのそれが伝説に大きく影響しているだろう。
個人的に、当時、1950年程度のことだろうか。その当時は『枕営業』など当たり前で、マリリン曰く、『私がやらなくても、誰か他の女の子が喜んでやって、役をつかみ取っていたわ』というセリフが、印象的である。
だが彼女が孤児院にて性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られていた過去があることを考えると、彼女がセックスシンボルとして世の男性からそのような視線を常に向けられることは、ストレスと鬱症状を引き起こす原因以外のなにものでもなかっただろう。
彼女関係の作品をいくつか見ても、直接的に『~という理由で彼女は鬱になり、嫌になって自殺した』とか、そういう風な描写をしているものは一つもない。だが、『一つもない』からこそ視聴者側の想像力に委ねられているわけで、彼女の太く短い一生を、真剣に内省したいと考えるのである。
『マルクス・エンゲルス』
1843年ドイツ。イギリスで1733年頃から起きた産業革命から100年。それはすっかりこの世界に浸透し、人々の生活はより利便性が増す一方のはずだった。だが、この革命のせいで人々の間に大きな格差が生まれるようになり、ブルジョワジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)という決定的な階級の差異が生まれた。人は平等ではないのか。このまま格差が生まれ続けていいのか。
そこに現れたのが、現実世界に最も影響を与えた哲学者マルクスと、そのよき理解者である工場長の息子、エンゲルスである。彼らはちょうどその階級の違いによって対立関係にあったが、実際には論文を通して実力を認め合っていた。そして彼らから『共産主義(社会主義)』という、平等を目的とした世界を揺るがす概念が生まれる。それは、この後ソ連のレーニンが応用し、スターリンが悪用したことで、『冷戦』という大きな亀裂の原因ともなった因子だった。
だが、アインシュタインが核連鎖反応を科学者視点で純粋に発見したように、マルクスらも決してこの世界を壊そうとして立ち上がったわけではない。しかし、人間にとって極めて重要なワンシーンをこの目で見ておく必要がある。
『マン・ダウン 戦士の約束』
『薬』を使うと何かと便利だ。だが、それによる代償は払うことになる。農薬を使えばどうなる。抗生物質は、殺虫剤は、合成界面活性剤は、そして軍隊は。身近に彼と同じような状況だった者がいる私には少しは彼の気持ちがわかる。彼も、優しい人だった。
『真夜中のゆりかご』
真夜中の車道のど真ん中で、ベビーカーが道を塞いでいる。そういう状況がホラー的なシーン以外であるとしたら、それはあまりにも深刻な、遭遇したくない状況である。この映画と併せて観るべき映画がある。『ゴーン・ベイビー・ゴーン』である。奥行きが何回層も深く、見えることだろう。
『みかんの丘』
舞台はアブハジア共和国。時代も1990年代前半で、『とうもろこしの島』と同じ状況が舞台となっている。
紛争中に、ケガをして運び込まれたチェチェン兵とジョージア兵がやってくる。チェチェンの兵は、出稼ぎで兵士をやっているようだ。だから恐らくはアブハジア共和国側の助っ人で、ジョージア兵とは敵となるわけである。彼らは宗教も違っていて、部下を殺されたり、という強い遺恨を抱えていて、一歩間違えれば殺し合いをしかねない一触即発の状況だった。
だが、中立的な立場で彼らの傷の手当てをする頑固じいさんの影響もあり、彼らはじいさんの家では殺し合わないことを約束。しかし、いつお互い爆発してもおかしくない状況が続いていく。
お互い、もう少し再会する時間や場所が違えば、殺し合っていただろう。だが、彼らが出会ったのはそういうじいさんの家だった。水と油のように絶対に交じり合うことがないように見えた彼らだが、その家で起こる出来事を通し、次第に変化が現れるようになる。私は、同じアブハジアの映画を人にすすめるなら、『とうもろこしの島』よりも断然こちらを推薦するだろう。
人間は本当は全員平等で分かり合える仲間だ。だが、この数万年という長い年月の間に大きな変化があった。人間の集団生活の規模が大きくなり、徐々に人間の暮らしにも変化が起き始める。
人間というのは動物と同レベルの知能しかなかったので、その名残がなかなか消えない。知能の発達とともに徐々に理性的になるのだが、それまでの動物のような生活をすぐに切り替えたわけではなく、時間をかけて徐々に変わっていくわけだ。この時はまだこのあたりのことについては秩序がなかったので、生まれて来るこの父親が誰かははっきりしなかった。
原始時代の狩猟採集時代の方が、狩りに出る男次第で生きていけるかどうかが決まるから、男がリーダーであるような気がするが、実際には狩猟採集社会が終わり、農耕社会になったときに、ようやく男は権力を持ち始めたようだ。だからこの当時の男性も、
- 女性
- 労働力(子供、人)
- 土地
このあたりの『力』を自分のものにしようと主張するようになった。しかしそのせいでやはり争いが生まれ、農耕社会の秩序が保つことができなくなる。ルールが必要だと解釈するようになり、徐々に秩序が作られるようになる。
- 一夫多妻
- 殺人
- 他人を傷つける
- 盗む
- 嘘をつく
こういった行為がタブーとされるようになった。国家ができ、宗教ができ、文化ができ、言語ができ、倫理や道徳やルールができていく。その根幹にあるのは『そこにいる人間たちの都合』である。しかし、人が増えてしまえばそれだけ『異質同士の衝突』が増える。我々ははじめ、戦争をして殺し合い、サバイバル的に生き残るために発展させてきたのではなく、『みんなで一緒に生きていくため』に発展させてきたのだ。
そんな人間の長い長い歴史を、このアブハジアという小さな小さな国の物語から学ぶことができる。
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』
パッと見は圧倒的に不気味。恐怖さえ覚える。だが、すぐに彼らに感情移入できる。最後には彼らの味方になっているのが不思議だ。
『ミスエデュケーション』
治療施設「神の約束」に送られる少女は、同性愛の傾向があった。神の約束では同性愛者を異性愛者に転換させるための治療が行われていた。かなり複雑で重い内容である。だから観る前では抵抗を覚えるが、観てしまえば目が離せなくなる。そういう映画である。
ここで話を複雑にさせるのが、伝説の俳優リヴァーフェニックスが子供のころ入団していた『神の子供たち』である。彼は両親の考え方からカルト教団「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル)への参加を余儀なくされた。この教団は、大人、子供に限らずセックスを奨励していたため、教団に所属していた幼児同士もセックスをしたという。
あまりにも衝撃的な内容だ。だが、当時の1970年代頃、この手の考え方は実はそこまで珍しくはなかった。『ワンハリ』にも出てくる例のカルト教団も、そういう行為をしている。また、『イージー☆ライダー』は当時の映画だが、やはり同じように、謎の集団と出会うシーンがある。また、映画では実際に大麻を吸って撮影している。
この時代は、アメリカン・ニューシネマが流行した時代。wikipediaから説明文を引用してみよう。
まだジャーナリズムの熱意が高かった60年代には、アメリカ市民がベトナム戦争の実態を目の当たりにすることで、ホワイトハウスへの信頼感は音を立てて崩れていった。戦争に懐疑的になった国民は、アメリカ政府の矛盾点に目を向け、若者のヒッピー化、反体制化が見られ、人種差別、ドラッグ、エスカレートした官憲の暴力性などの現象も顕在化した。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
そのような時代背景が、当時を生きる人々の考え方に大きく影響している。また、『月面着陸』の話も無関係ではない。月面着陸は1969年だった。(1969年7月20日午後4時17分) ワンハリで殺されたシャロンテートは1969年の8月9日が命日だった。
『チャーリー・セズ/マンソンの女たち』のセリフにはこうあった。
『1969年(事件を起こした時)、誰もが宇宙レベルで変化があると思っていた』
人類が宇宙に接触するこの時代、ベトナム戦争という誤謬も相まって、もう今までの人類ではいられなくなるような、新しい世界にいかなければならないような、そういう気配が漂っていたのだ。
さて、作品に戻ろう。時は1993年である。「神の約束」は、『神の子供たち』のようないかがわしい宗教施設ではないかもしれない。言っていることも、正論に見える。だがどこか、彼ら自身が洗脳されて間違っていた場合、取り返しがつかないような気配が漂う。同性愛という難しい問題、そして、そこにいるのが判断未熟な子供たちばかりという不安定な要素が視聴者の不安をあおる。わずか90分ではあるが、色々と考えさせられる映画である。
『ミスター・アーサー』
アカデミー賞では4部門でノミネートされ、助演男優賞と歌曲賞を受賞している名作だが、あまり『名作』として構えず気楽に観るべき映画である。全く内容がないように見えるが、意外と真剣にドラマを作っていて、軽いんだが重いんだがよくわからない映画である。だが、教訓性の高い素晴らしい映画が大赤字で、この映画が100億円も売り上げていることを考えても、大勢をある程度満足させられる要素は十分詰まっているということかもしれない。
『ミッション: 8ミニッツ』
もし、ほんの少しだけ時間が戻せるなら何ができるか。多くのことができる。例えば、テロ事件が起きたならそれを阻止することができる。しかし、この場合は実際に時間を戻せるわけではないのだ。では、一体どういうことなのだろうか。
『ミッドナイト・イン・パリ』
ダリ、ピカソ、ゴーギャン、T・S・エリオット、シェイクスピアに、ガートルード・スタイン。錚々たる偉人たちがこの映画に登場する。だが、この映画のキーワードは婚約者の母が映画の感想として言った、何気ないこの言葉だ。『馬鹿馬鹿しくて幼稚で、機知も真実味もない。でも笑ったのなんの』偉人とは違う彼女がこう言い、物語は『偉人寄り』に展開していく。
そして偉人がこう言う。『いかに今の時代が空虚で想像に欠けているか』これで母親との間に乖離が作られ、我々は偉人たちの聡明な生き方と、現代人の軽薄な生き方のギャップを突き付けられる。だが、彼のこの言葉は同時に『現代の否定』でもあった。そうなると、過去は更に過去を。永久に現代が肯定されないのである。
2020年のこの現代でも、慎重な人とそうでない人がいる。それはいつの世でも同じことなのだ。岡本太郎は言った。
『友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。』
たった一度のこの人生。一番いいのは、自分らしく生きていくことだ。
『ミッドナイト・サン 〜タイヨウのうた〜』
2006年の日本映画『タイヨウのうた』のハリウッド・リメイク。しかしそれもまた1993年の香港映画『つきせぬ想い』を原案としたものという。更に、その映画はこの設定は伊・日合作映画『ラストコンサート』とまったく共通している内容があるという。珍しい状況の話ゆえどれを観ても見応えがあるのだろうが、その『リレー』のせいなのかなんなのかグラデーションがついているのかいないのか、徐々に薄くなってしまったのかもしれない。批評家からの評価は高くないようだ。
だが私はこれが初見であり、彼女が負っている奇病に対しても無知だから、余計な色眼鏡なしにこの映画が描きたい、伝えたいメッセージを純粋に受け取ることができ、中々良い印象を得た。10代の青春を描いた映画としては、映画に相応しい内容と言えるだろう。細かいことはさておき、要は命の尊さに目を向けたいのだ。そう考えた時、『音楽』という儚く美しい存在は、そのメッセージと強くリンクする。
『ムーンライズ・キングダム』
この映画のスタンスであるアンサンブル・キャストとは、特定の主演を設けない映画で、群像劇に似た作品である。主役が子供や無名等でまだ頼りない場合や、脇役が豪華すぎる場合などはそうした方が丸く収まるだろう。
海外の多くの子供は『サマーキャンプ』と呼ばれる夏の思い出を作ることがある。日本でもあるが、アメリカ等になると一か月程度の長期的なキャンプもある。
引きこもり児童、障害児、特定の難病(小児糖尿病、喘息アレルギー)を抱えた子供たちのための病院や医療スタッフが実施するキャンプのようなものもあり、案外映画を観ていると、サマーキャンプに行くことは『王道』というよりは、『訳アリ』のようなイメージもぬぐえない。
福音主義やユダヤ教のような宗教団体が提携している企画もある、ことも関係しているだろう。どこか子供にとっては『半強制的』のような、そういうイメージがあるわけだ。さて、今回はどういう展開が行われるだろうか。
『ムーンライト』
性別不合ではない私には残念ながらあまり理解できなかった。映画も、人も、あまり差別的に見ないと決めている私だが、それが正直な本音だ。広告が大絶賛して持ち上げすぎたのもあるだろう。期待値が上がって、そして実際との評価のギャップに幻滅してしまったのだ。だが、これはあくまでも個人的な私の感想。きっと、同じ思いをして生きる人からすれば、とても勇気を貰える映画だろう。
『無言歌』
1960年、中華人民共和国の反右派闘争(1957年に毛沢東共産党主席が発動した反体制狩り)によって、多数の人間が甘粛省の砂漠にある政治犯収容所に送られ、強制労働についていた。世界にはこんなところが存在したのか。中国の闇を覗くようで、複雑な心境になる。確かに毛沢東は中華人民共和国を作ったその創始者だが、同時におよそ5000万人以上の国民を死なせた暴君でも有名。
表面的には生産力が急増したと報告したが、実際には違ったし、できた鉄鋼の大半は粗悪品。また、食糧増産に成功したという虚偽の報告と現実の帳尻を合わせるために、農民から食料を没収して、それを生産品と偽り、これで数千万人の餓死者が出た。そしてここにも中国のあまりにも広大な砂漠地方の仄暗い地下洞で、餓死寸前の人々が、人間の尊厳ギリギリを保ちながら、生きるか死ぬかという地獄の綱渡りをしていた。
『メアリーの総て』
『フランケンシュタイン』を18歳で生み出した19世紀初頭の女性作家メアリー・シェリーの人生を描く実話映画である。アイルランドやルクセンブルクが関与している映画からなのか、内容はそこまで見入ってしまうものではない。映画はやはりアメリカだ。良くも悪くも、彼ら以上に映画の演出がうまい国はない。
デンマークやポーランド、ロシアやドイツなど様々な映画を観たが、どこもアメリカのそれには到底かなわない。例えばトムクルーズの『ワルキューレ』は、数あるヒトラー作品の映画の中で、とびぬけてエンタメ性が高く見応えがある映画だ。
ただ、やはりメアリーの重要性としては見応えがある。例えば彼女の父親は、哲学を学んだ者なら必ず耳にしたことがある、あのウィリアム・ゴドウィンである。
また、彼女の母のメアリー・ウルストンクラフト(1759年4月27日 – 1797年9月10日)はフェミニズムの創始者、あるいは先駆者と呼ばれる人物で、「フェミニスム」という言葉を史上初めて用いた人物であるシャルル・フーリエと共にこの分野の圧倒的カリスマである。彼女自身も『フランケンシュタイン』の生みの親なわけだから、映画になってなにもおかしくない人物なのだ。
『メカニック』
『メカニック』というのは熟練工、職人といった意味があり、それだけで職人的な殺し屋という意味にもなるわけだが、しっかり英俗語で『殺し屋』という意味でもあるという。英語の俗語、つまり、『草』とか『OMG』とか、そういうよく使われる言葉遊びの延長線上での略語のようなものである。
90分映画で、ジェイソンステイサムにはスティーブンセガールのように似たような映画がたくさんあるので埋もれがちだが、その中でも中々見応えと爽快感があって楽しい。続編の『メカニック:ワールドミッション』と続けて観たい。
『メモリーズ 追憶の剣』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。この場合は少し過度な演出があるから微妙だが、時代は李氏朝鮮直前の1392年。高麗(1356~1392年)の時代である。高麗最後の時代だ。ただ、その空を飛んでしまうような中国的なワイヤーアクションさえなければ、物語としてはかなり見応えはある。やはりそこは韓国ドラマで培ってきた実力で、複雑な人間関係を描かせたら韓国は強いということだ。
『メリー・ポピンズ リターンズ』
作者のトラヴァースは、ウォルト・ディズニーからの提携の依頼を、何度も断っていた。だが、ディズニーは決してあきらめなかった。それは、この作品が稀代の代物であるということを見抜いていたからだ。あれから54年。彼女は戻ってきた。
『もうひとりのシェイクスピア』
この映画の冒頭には、中々信憑性の高そうな話が繰り広げられる。あの劇作家ウィリアム・シェイクスピアは『存在しなかった』というのだ。つまりこの映画は、彼の作品が別人によって書かれたとする「シェイクスピア別人説」のうち、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアを本当の作者とする説に基づいたフィクションである。例えば『匿名のタイガーマスク』が慈善活動をしたり、持ち主が分からない大金が見つかったり、世の中には不思議な現象が起きるものである。彼らはなぜ素性を明かさないのか。それはもちろん美学やポリシーなどという理由もあるだろう。だが、もしかしたらやむを得ない何らかの理由がある可能性もある。
それは『仮面の男』や『フロムヘル』で展開されるシナリオを見ても大きくうなづける話だ。例えば仮面の男は、フランスのバスティーユ牢獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」のことだ。彼がもし人前でマスクを取ろうとすれば、その場で殺害せよとの指示が出されていた。そのため、牢獄で世話をしていた者も囚人の素顔を知らなかった。一体なぜなのか。その伝説的逸話を考えれば、『仮面の男』のようなシナリオがあってもおかしくはないと感じるはずだ。
『フロムヘル』に登場する『切り裂きジャック』も同じことである。あの人類史上に残る奇妙な未解決事件の真犯人と真相は何だったのか。そこに残されたいくつもの証拠と当時の大英帝国の事情、あるいは貴族たちに禍々しく絡みついた傲岸不遜さとしがらみを考えれば、『フロムヘル』のようなシナリオがあってもおかしくはないと感じるはずだ。
では、シェイクスピアの場合はどうか。例えば、こういうストーリーがあったのかもしれない。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』
若きチェ・ゲバラが南米大陸を旅した旅行記を基に作成された映画。インカ、アステカ、マチュピチュ、伝統的な歴史を自分の目で見て冒険しながら、同時にアメリカ大陸が抱えている闇に触れていく。元来、曲がったことが大嫌いで馬鹿正直なゲバラは、医者になる勉強をしていた。『最善の状態に戻す』ことが彼に取っての生きがいだったのかもしれない。無意味な国籍で国が分かれ、混血がどうとかいう理由で、宗主国生まれの白人(ペニンスラール)だか、植民地生まれの白人(クリオーリョ)だか知らないが、それはあるべき姿ではないと考えるようになったのだ。
革命家チェ・ゲバラの思想はこうして作られた。どのようにして偉人が生まれるか。「これは偉業の物語ではない 同じ大志と夢を持った2つの人生が しばし併走した物語である」と映画は言うが、私にとっては、革命のまさにその最中を切り取るよりも、こうした根幹部分にスポットライトを当てる方が貴重であると考える。
『モネ・ゲーム』
一度観ていたはずなのだが、映画を真剣に観だしてからもう一度観ると、この映画の潜在能力を知ることができた。こんなにも爽快で、面白い映画だったとは。ただ面白い映画だけを見ていた時代に、なぜそう思えなかったのだろうか。それがきっと、映画の奥深さであり、魅力の一つなのだ。
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
9歳という年齢を想像できるだろうか。私のその頃の記憶などほぼない。校庭で遊んだり、家でアニメを観たりした記憶が断片的にあるくらいだ。それはつまり、この年齢の人間の意見などあまり真剣に聞くものではないということでもある。彼とて20年すればすっかり忘れているだろう。だが、それでもどうしても忘れることができないこともある。それが、家族の死である。家族の死は、人間にとっての最大のストレスだという。そしてストレスは人間の心に深く刻み込まれ、時には言葉をしゃべれなくなることもあるし、性別が変わってしまうことすらある。
そう考えると、9.11という大きな歴史が関係していることも相まって、これは非常に重要な一コマである。我々には、人それぞれで試練が与えられている。その試練の形も、与えられる環境も人によって違うが、それはきっとその人のその後の人生の為に、必要不可欠なのだ。
『モリーズ・ゲーム』
モーグルでオリンピック出場も射程範囲にあったモリー・ブルーム。しかし、怪我によって人生が大きく狂っていくことになる。抑圧された人間の魂は、そこから解放されようと必死にもがく。ポイントは『抑圧』だ。つまり、自分が抑圧されていないと思えば別にそういう衝動には衝き動かされない。では一体彼女の身に一体何が起こったのだろうか?全ての人生には、理由がある。
や行
『ヤング≒アダルト』
アガサ・クリスティは言った。
『考古学者は女性にとって最良の夫である。妻が年を取れば取るほど彼女に関心を持つようになる。』
女性は男性よりも、時間がない。綺麗ごとなどに興味はない。男は女の価値に『若さ』と『美しさ』を用いることがあるはずだ。とりわけ、当の女性はそれを痛感している。もちろんそれを通り越すところに真理はあるが、それを通り越し悟るのは容易ではない。この映画のキャッチコピーはこうだ。『あなたは、私を笑えない』。
『闇金ウシジマくん』
このシリーズだということになる。これらのシリーズは実際にあった話を参考にしていることが多いが、人間の歪んだ現実をリアルに描写したこの作品を見ていると、まるでこの世界の『もう一つの顔』を見ているような気分になる。そして意外と、教訓に満ちている。
『約束の地』
ヴィゴ・モーテンセンのマニアック映画シリーズだ。「これまでに関わった仕事の中で、最も満足のいく経験のひとつになった」と言っているようだが、そうして上げられたハードルを越えることはないだろう。彼がそう言うのは、少年時代を過アルゼンチンで過ごして、ここを“第二の故郷”と言う感覚を持っているからだろう。また、『聖書』の内容も関係しているかもしれない。このような一見してよくわからない映画の場合は、大体そういう風に専門知識がなければわからないからくりになっている。
事実、wikipediaでヴィゴモーテンセンの映画を調べると、『約束の地』の部分がリンクになっているのだが、映画のページではなく聖書のページに飛ぶ。私はこういうリンクの仕方を見たのは初めてだ。
神がイスラエルの民に与えると約束した土地。この約束は、アブラハムに最初に与えられ、次いでその息子イサクに、さらにイサクの息子でアブラハムの孫であるヤコブにも与えられた。約束の地は、「エジプトの川」からユーフラテス川までの領域とされ、出エジプトの後、約束をされた者の子孫に与えられるとされた。
私の両親がクリスチャンで、父親はクリスチャンのまま死に、母親は生きているがクリスチャンのままで、恐らく同じように生きて死ぬ中で、私は無宗教である。それがどれだけ大変な人生だったか。
『この家はクリスチャンの家だから、従えないなら出ていってもらうしかない』
ということを平気で言うような親だった。そのような排他的で利己的な親に、クリスチャンを語る資格はないわけだ。私はこの親が間違っていることをある種証明するかのように宗教やその他の歴史等についてたくさん学び、今ではもう母親程度を論破することなど赤子の手をひねるほど簡単になっている。
さて、そういう私がこの映画と向き合うわけだ。別にキリスト系だからといって差別するような排他的なことはしない。私は母親ではないのだ。だが、この映画の根幹に聖書のそうしたエッセンスが組み込まれていて、彼がこのアルゼンチンに造詣が深いと言われても、私は別にこの映画から何かを得られたということはないと言っておこう。
『ユダヤ人を救った動物園 〜アントニーナが愛した命〜』
アントニーナ・ジャビンスカという実在した女性がモデルになっている。第二次世界大戦のあの時期にユダヤ人がどのような目に遭うか。それを知るのは簡単なことである。それだけ世界的に有名なのだ。日本の広島、長崎が有名であるくらい、ユダヤ人がこの時に受けたホロコースト(ユダヤ人迫害)の歴史というのはあまりにも凄惨なものだった。しかも舞台はワルシャワ。ポーランドである。第二次世界大戦というのは、ヒトラー率いるナチスドイツが、隣国であるこのポーランドに侵攻(1939年)して開幕したに等しい。その悲惨かつ緊迫のエリアでユダヤ人を助けるというのはどれほどのリスクがあるか。
すぐ近くには強制収容所があり、そこではユダヤ人たちが人間の尊厳を完全に奪われ、人体実験の道具として『使用』された。スープを飲んでいると隣の窓に、朝話をしていたはずの顔見知りが死体として外に積み上げられているのが見える。だが、囚人はスープを飲む。生きる為に数少ない食事を食べなければならないからだ。子供が壊死した足の指をペンチで引っこ抜き、自分たちの糞便を運んでいる最中にそれが飛び散り、思わず顔を拭くと殴られる。
なぜお前は人間のふりをしているんだ
これが彼らユダヤ人たちが味わった地獄の経験である。その強制収容所からほど近いワルシャワで、いくら動物園という『穴場』だからといって彼らをかくまうのは背筋が凍るほど怖い。果たして、彼女たち動物園のスタッフたちは、本当にユダヤ人を救えるのだろうか。誰も死者は出ないのだろうか。
『許されざる者』
イーストウッドの方でもいいし、渡辺謙の方を観てもいい。大切な仲間を殺された人間が取るべき行動とは何か。かつて、『敵討ち』が許された時代があった。不倫相手を斬り殺すことが許されていた時代もあった。そう考えると、彼の取る行動は、何階層も奥行きが深くなる。Amazonプライムは渡辺謙の作品で、U-NEXTはイーストウッドの方を載せた。
『誘拐の掟』
作品がつまらなく感じるのは、『CMとちゃうやん』とか、『思ってたのと違うな』とか、『あの俳優に期待してたことと違うな』とか、とにかくまず期待があって、それに内容がどこまで近かったかというところが一つのポイントで、遠くなる、特に最悪の結果で遠くなってしまうと、そう感じてしまうものである。
例えばローラが、『バイオハザード』に出演すると決まる。自分でも『さんまのまんま』でハリウッドの仕事をやっていると言う。期待値が上がる。だが、実際はちょい役で、すぐに死ぬとなると、楽しみにしていた人はがっかりということになる。
あの場合は、別にローラは調味料の一つでしかなく、彼女が死んだ後も、むしろそれ以外のストーリーの方が面白いから別にいいのだが、あれに関して言えば、『モンスターハンター』に出た東方シンデレラの女優の方が活躍して輝いている、というお粗末な結果だった。
リーアム・ニーソンの映画で、『マイケルコリンズ』という名作があるから、IRA関連の彼の映画には妙な迫力を期待してしまうのだが、大して何もしない時、幻滅し、それがそのまま映画の評価に直結してしまう。
だが今回は、中々面白い要素が詰まっている。その考え方で、『思ってもみなかった外道』のような敵が出てくるので、そういう人間が作品をかき乱してくれることで、この映画全体の見応えが引きあがっている。期待外れの逆だ。『期待以上の展開』が期待できる流れになっているのである。その辺りが、中々見ていて面白い映画である。
『余命90分の男』
ロビン・ウィリアムズにとっては最後に参加した実写主演作となった彼は63歳に自分で命を絶つまで、数々の名作に出演、いや、数々の映画作品を『名作』に仕立て上げた名優であった。とにかく彼の今までの作品が偉大すぎて、彼が最後に出演したこの映画にも同じだけのものを期待してしまう。だが、彼の最期を考えると、彼は自らこの世を去ったのであり、そのある種の人としての苦悩や仄暗さが、どうしても作品から垣間見えてしまう。
『欲望のバージニア』
アメリカ禁酒法時代にバージニア州フランクリン郡で密造酒を売るボンデュラント兄弟が主人公で、彼らは実在した人物だ。この時代、例えばこの東の地バージニアから少し北西に移動したところにあるシカゴでは、アル・カポネという有名なマフィアが同じように密造酒によって暗躍していた。また、少し北に移動したとこにあるニューヨークではダッチ・シュルツというマフィアが暗躍。他にも大勢いるが、それぞれ『アンタッチャブル』、『ビリーバスゲイト』という映画でそれを見ることができる。
今回の兄弟の場合はマフィアというよりは『強い絆の兄弟』だ。絆の強い荒くれ者の彼らが、その時代を生きていくために手を伸ばしたのが密造酒だった。この時代、マフィアが暗躍するだけじゃなく、それ以外の人たちも法律ギリギリの綱渡りをすることが多々あった。あの『俺たちに明日はない』で有名なボニーとクライドも、この時代を生きた人間だ。彼らのように強盗に走った人間もよくいた。
『シンデレラマン』のボクサーもこの時代だ。彼らのように正道を歩いて、逸れずに苦労した人間も多い。だから道を逸れた人間たちを美化することはできない。では、血気盛んな半生を生きてきた私ならどうするだろうか。それは環境次第だ。環境のせいにするということではなく、子供が環境によって大きく影響されて性格が作られるように、無数の目に見えない要素が複雑に絡み合って人間の人格が決まっていく。
彼らのような人生を美化はできなくても、完全に悪くも言えない。そういう不思議な時代の人たちのワンシーンを見てみよう。
『夜に生きる』
とても惜しい映画で、内容はいいのに、これが『実話じゃない』から、(なんで実話じゃないのにこの内容なの?)という気持ちになってしまう。また、綺麗な自然の映像なども、実話だったり、それに関連していたら感動するが、そうじゃないのにあまり必要ないカットのように見えて、話が薄まってしまう。
例えば『マーヴェリック』というサーファーの映画なら、最後のシーンに色鮮やかな海の映像が上から流れることに意味があるし、『エベレスト』ならもちろんその雄大な大自然が映し出されることは映画の意味ある演出である。
そういう風に、映画は一つ一つに意味がなくてはならない。ある映画分析の動画では、『アベンジャーズ』と『黒澤映画』の比較をしていて、前者を酷評していた。だが、後者は『背景で雨が降っていたりと、必ず意味が込められている』と、高い評価をしている。
黒澤明などは、作中で読まれることがない手紙の中の文章まで作らせるほど徹底する男だから、そうした本気の覚悟が鑑賞者にも伝わり、我々に『名作』と言わせるのである。
ら行
『ライオット・クラブ』
オックスフォード大学に実在する上流階級の子弟限定の社交クラブ「ブリンドン・クラブ」をモデルにして作られている。したがって、かなり描写がリアルで生々しい。例えば、乱れに乱れているが、最後の一線は超えないし、超えたとしてもそれは不可抗力であり、意図はない。それは、往々にして人間というものである。描かれる内容が低俗だから動画配信サイトの評価は低いが、それは的を射ていない。
ホイットマンは言った。
『君が教訓を学んだ相手は、君を賞賛し、親切をほどこし、味方になってくれた人々だけだったのか?君を排斥し、論争した人々からも大切な教訓を学ばなかったのか?』
実話だからこそ尚の事教訓性がある。
『ライフ』
国際宇宙ステーション(ISS)搭乗のクルー6名は無人火星探査機ピルグリムの回収に成功。探査機が持ち帰った土をISS内で分析したところ、生きた微生物が含まれていることを確認。つまり、人類は初の『地球外生命体』と出会ったのだ。・・だが、どうも様子がおかしい。なにかが変だ・・。
これは、『ゼログラビティ』と合わせて観たい、『宇宙での出来事その2』である。
『ライフ -いのちをつなぐ物語-』
命をつなぐ。それはつまり、つないだ側の命は、そこで息絶えるということだ。息絶える運命にあるのに、なぜ命をつなぐのだろうか。この『命のリレー』の結末は、どのようなものなのだろうか。それは誰にもわからない。そして、わからないからこそ我々生命の命は、尊いものになるのだ。
『ラストスタンド』
シュワちゃんもスタローンも、かつてムキムキ俳優で売った俳優たちの後年の姿を見るのは、やはり見ていてどこかもどかしい。『ランボーラストブラッド』であれば、70歳過ぎの高齢ながらも、それを感じさせない無駄のないプロフェッショナルなランボーの動きで何とか彼の威厳を保ったままフィナーレを迎えたが、『ターミネーターニューフェイト』といい、これといい、シュワちゃんの使い方を間違えているように見える。これでは、『もうシュワちゃんは老化していて、過去の人』ということになってしまう。
だが例えば、モーガンフリーマンなどはもう何十年も同じ位置で活躍し続けているような印象を受けるわけだ。スーパーヒーローの定めかもしれないが、彼らはもうモーガン・フリーマンのような立ち位置に回るべき年齢にいるから、この違和感は生まれるのだろう。例えば格好いいオヤジと言えば、『マンオブスティール』のケビンコスナーだ。あのように、出演時間が少なく、高齢者になっていても、観客の目をくぎ付けにし、脳裏に強く焼き付く出演の仕方もある。
あの方が人として美しく、粋であり、多くに尊敬される生き方だ。しかし、『かつてスーパーヒーローだった』武勇伝にしがみついている様子が少しでもにじみ出てしまう人は、そこに醜さが生まれる。
シュワちゃんの後年のベストポジションが見つかることを期待したい。もっとも、そんなもの見つからなくても、彼はもうすでにこの世界に大きな爪痕を残しているのだが。
『ラスト・ターゲット』
ジョージクルーニーがローマという場所で、意味ありげに一人、歩いている。『これだけで絵になる』・・という人にはうってつけの映画だ。だが私は違う。同じ男だし、彼は好きだが、信者ではない。アランドロンの『サムライ』のようなフィルム・ノワール的な雰囲気が好きなら、好きな映画だろう。
『ラストナイツ』
B級ギリギリ。だが、ギリギリでB級ではない。大したヒットはしなかったが、私は好きだった。日本人のツボを押さえたストーリーなのかもしれない。本当に復讐しようと思った人間は、こういう行動を取る。
『ラスト・フェイス』
ショーン・ペンが監督で、シャーリーズセロンやジャンレノ等の名優が揃うから期待してしまうが、あまり期待はし過ぎない方がいいだろう。映画にはこのように、『俳優が監督やってみた』パターンもあるから、全部が全部面白かったり教訓性が高いものばかりではないのだ。未熟だったり、詰めが甘かったり、テスト作品だったり、一方的だったり、視野が狭かったりする。
例えば宮崎駿の息子、宮崎吾郎が『ゲド戦記』でデビューした時、駿は『まだ早い』と止めたらしいが、それを制止して公開に乗り出たという。だが、結果は散々たるものだった。駿も密着スタッフに少し怒り気味で、『あれが結果ですよ』とため息交じり。吾郎の中では、『いける』と思ったのだろう。絵柄や音楽に『ジブリっぽさ』がこれでもかと詰め込まれていて、いかにもジブリのヒット作になるっぽい印象をまとっている。だが、真のジブリファンはあの映画に虚無を覚えたと口をそろえる。
彼の場合、あの後に『コクリコ坂から』を出して、少しはまともになる。その後、『私は宮崎駿にはなれない』と言っているが、そうして視野が広がって現実を直視した後は、等身大のいい作品が生まれやすくなる。今回の作品も、それに似た未熟さがあるだろう。彼の作品はこれで6つ目だが、過去作も赤字ばかりで、私も知らないような作品だった。
『ラストミッション』
この類のタイトルの映画は内容が廃れている印象があるが、なかなかどうしてそこはケビン・コスナーの熟練の演技と、ありそうでそう多くはないシナリオ、かついくつかの粋な演出によって、価値のある映画に仕上がっている。きっとこれは映画館で観れば、清々しい気持ちで映画館を出ることができる映画だ。
『ラッカは静かに虐殺されている』
現代人がこの映画に高い評価をするのは当然かもしれない。このドキュメンタリー映画のタイトルの理由は、これが彼らのチームのチーム名だからである。作中に『ラッカと検索すれば我々が出てくる』というシーンがあるが、そういう判断があるということは、このタイトルにすることで全世界の人がこの映画の普及に合わせてラッカ(シリア)の現状を知ってくれることができるからだ。ただ、原題は『City of Ghosts』なので日本人だけへの訴求だが。
この作品は衝撃的過ぎて、子供は見ない方がいいかもしれない。ドキュメンタリー映画は元々衝撃的な映像が流れるが、
- 本作品
- 華氏911
- 東京裁判
という順番で危険である。当時『イスラム国』と言われたISは、困難な生活を強いられた人々が間違った方向を睨みつけ、盲信たる猛進をしてみせるテロ組織である。ムスリムである彼ら『RBSS(Raqqa is Being Slaughtered Silently、「ラッカは静かに虐殺されている」)は言う。
『ISはイスラム教ではない。宗教を欲望で悪用し、映像を使う』
この話で思い出すのはやはりニーチェの言うルサンチマンである。ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆いた。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。このあたりの人の心の動きを押さえることで、この世界にどのようにして宗教が生まれ、そしてそれが根深く蔓延していったのかということが見えてくるようになる。
| 支配する者 | 来世もまた権力を維持したいと願う |
| 支配される者 | 来世は今よりも良い境遇であるように願う |
つまり、『キリスト教=奴隷の宗教』と解釈し、ニーチェは
『もうそんなものは必要ない!』
と主張したのだ。ここで言う『弱者』は=強いられている者。貧困、圧政、外国の軍事介入、他宗教の傲慢、どんな理由かは知らないが、そうして追い込まれた人々らが『来世』なり『神』なりといった『現在の自分や人生ではないなにか』に夢を見るようになってしまい、それを盲信するが故に独自的な方向へと逸れる。そしてそうして見誤る人間たちの集合体だからこそそれを真理(正しい道)に戻そうとする『本当の意味での救世主』がおらず、逸れるだけ道を逸れてしまうのだ。
だが、それもニーチェの言う考え方に耳を傾ければ違う解決策が見えてくる。ニーチェは『ニヒリズム(虚無主義)』だと言われていて暗いイメージを連想させてしまいがちだが、実際はそうではない。ニーチェは、
『世界には君以外には歩むことのできない唯一の道がある。』
と言い、
『しかしその道がどこに行くのかを問うてはならない。ひたすら歩め。』
とも言っているが、 このようにして『唯一無二の命の尊さ』を強く主張した。この事実から考えればわかるように、彼はブッダの言う、
『天上天下唯我独尊』
の言葉の意味を理解していることになる。この言葉の真の意味は、『私以上に偉い人間はこの世に存在しない』という、釈迦の思いあがった軽率な発言ではない。
『この世に自分という存在は、たった一人しかいない。唯一無二の人生を、悔いなく生きるべし』
という意味なのだ。このような事実を理解している人間が、『未来に対して暗く、絶望的な人』であるわけがない。彼が『神は死んだ』と言い、『=虚無があるだけ』と言ったのは先ほども言ったように、奴隷と主人の人間関係が当たり前だったときの『呪縛』から、いい加減解放されるべきだと言いたかったのである。それは、彼が想定した、『永劫回帰』という考え方を見てもわかることである。ニーチェは、
ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒
というループを無限に繰り返す考え方を提言する。もし、前世や来世等の発想があると、人はどうしてもその『もう一つの可能性』に未来を託し、あるいは希望を抱いてしまう。それが結果として現実逃避を生み出し、『今この瞬間』の否定につながる。
きっと来世ではもっとやれるはずだ!
しかし、もし永劫回帰という考え方があれば、今この瞬間、あるがままを受け入れるしかない。今この瞬間の、この自分以外にはあり得ない。『もう一つの可能性』などない。
だとしたら、今この瞬間、これが自分の人生なんだ!
と現実を直視し、今を全力で生きるようになる。ニーチェはそのようにして、その永劫回帰であったとしても、その事実を憂うのではなく前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間を意味する、『超人』であれと説いた。ニーチェが『この世に神は存在せず、人間だけが存在しているのだ』ということを強く主張したのは、こういう背景があるからなのだ。
ISの中には多くの子供たちがいる。子供たちが『ISは格好いい!』というイメージを持ち、彼らを美化してしまい、洗脳されてしまったのだ。日本人も彼らに殺されてしまった。RBSSはその活動の代償に現在進行形で彼らに命を狙われ、亡命先でもいつ死ぬかわからない綱渡りの状況を生きている。ISの支持者は世界中どこにでもいる。誰かが死んでもその根幹に共通する『殉職の美学』にも似た『神への忠誠心』がある以上、これを防ぐことは容易ではないのだ。
ただ、闇は光に勝てない。RBSSのような人が声を上げ、世界に訴えかけて仲間を集めてこの世に『光の網』を広げるなら、闇が生きずらい世界が訪れ、それが抑止力となる。闇はISに限った話ではなくこの世界から未来永劫いなくなることはない。だが、光を優位にし、闇を劣位にすることはできる。そのための彼らであり、この作品なのだ。
『ラッシュ/プライドと友情』
F1レーサーのジェームス・ハントとニキ・ラウダの、1976年のF1世界選手権での一コマだ。『フォードVSフェラーリ』という映画があるが、さしずめこれは『フェラーリVSマクラーレン』である。だがこの映画の場合はそれよりもずっとドライバーの人間性に焦点を当てている。野性的な前者に、コンピュータのように論理的な後者。彼らはまるで、水と油だった。
今日のレースで、人生が終わるかもしれない。レースの前にプレッシャーから嘔吐するのは当然の世界の中で、命を削って男のプライドがぶつかり合う。今日は前者が勝ち、明日は後者が勝つ。忌み嫌い反発していたはずの彼らは、次第に心底で互いの存在に敬意を払うようになっていった。だが、これはレース(勝負)だ。どちらかが負けなければならない。
さて、このレース(人生)に勝ったのは一体どちらなのか。そして本当に勝者はいるのか。
『ラビング 愛という名前のふたり』
異人種間の結婚が違法とされていた1950年代のアメリカ合衆国バージニア州を舞台とした、白人男性と黒人女性のラビング夫妻の実話映画。この実話に深い感銘を受けたコリン・ファースが映画化を熱望、プロデューサーに名乗り出て、映画化が実現したという。
この異人種間の恋愛や結婚は、性別不合のそれよりも遥かに世界に受け入れやすい話となる。この二つは同じように、『なぜ違法扱いになるのか』と主張する人が見られるのが特徴だが、世界の多様性が当たり前だと理解していて、むしろその独自の文化にある種の憧れを抱きながら喜んでその地を観光するように、人種が違うこともあまり『異人種』としては認識していない人が多い。
全員同じ人間だと。
だが、この時代のアメリカは、同性愛者らと同じような扱いを受けていた。同性愛についても、禁止されていたイギリスでそれが発覚し、逮捕された話が、あのスティーブ・ジョブズも尊敬する男、アランチューリングの伝記映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』で見ることができる。それもちょうど1950年代の話だ。
この時代は例えば日本でも『ヒロポン』として覚せい剤が薬局で売られていたりなどしていたし、神奈川の黄金町は麻薬の巣窟と化していて、警察が近づくことも躊躇したという。それも、黒澤明の映画『天国と地獄』で見ることができる。
1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、一旦大人しくなったが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んになった。
こうした世界的な背景を考えてから映画を観ると、また違う風景が見えてくるようになる。世界は戦後間もない頃ということもあったのか、今よりもうんと混沌としていたのだ。
例えば日本で言うなら、天皇のことをこうして『陛下』もつけないで呼ぶことなど言語道断だった。いまだに高齢者になると、例えばタクシーなどで天皇の話をすると黙りこみ、不機嫌になる人もいるくらいだ。『あまり天皇陛下のことを軽々しく話すべきではない』ということなのである。そのようにして、人間の心に深く食い込んだ概念は、その人間の一生を左右する。黒人を差別する人間は、差別しない人間からすれば愚の骨頂のように見えるが、彼らも彼らなりに、植え付けられた概念というものが存在するのだろう。
それは、多くの事例を見れば浮き彫りになる事実だ。今回のような話は、決して稀ではない。よく考えればわかるが、このラビング夫妻だけがターゲットにされたわけではないわけだ。『黒人全体』に対して、差別的な発想を植え付けられているのである。
その人達をまとめて集めて俯瞰視してみると、彼らもまた哀れな被害者の一人である。オギャアと生まれてすぐにそうなったわけではないのだ。彼らの生きる周辺にうずまく『呪い』とも言える色濃く穿った固定観念が、こうした複雑な人間ドラマを生みだしてしまっているのだ。
『ラブ・アゲイン』
豪華キャストが出演しているということもあるが、それだけでは成功の確約にはならない。それでも失敗、いや大失敗する映画すらたくさんある。私も3000本も感想文を書いていれば、そのうちのいくつかは『観る必要のない映画』という酷評をしなければならない作品もある。
(もっと良いところを探せよ)と、評論家たちが偉そうに点数で映画を評価しているのが気に喰わなかったが、やはりそれだけの数を見るとそういう映画にも出遭ってしまうのが現実だったようだ。
そんな中、この映画は中々良かった。その評論家たちの評価も高かったようだ。アメリカは元々こうした『日常トラブルコメディ』が好きだが、日本人も楽しめる要素があると言っていいだろう。
『ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー』
『ハングオーバー!』の女性版だからシナリオ自体は悪くない。それを超える最悪の展開も待ち受けている。だが、やはりその存在と、それがラスベガスという世界中の誰もが分かる大舞台であるのに対し、この場合は少しそれと比べて『レベル落ち』感が否めない。
また、いくら女性が前に出る世の中が来ているからといって、『現状』ではまだまだこの内容が世界に受け入れられるということはない。そうした男女の差異も関係しているだろう。
例えば男がストリップを見るのは当然のように長い間染み付いていることだが、女がストリップを見るのはまだまだ当然のことではない。もちろん、いずれ『そうなりたいのであれば』男のようにそれが女にも根付いていいが、そうしたいくつかの水面下で動く要素が、この作品の爆発の邪魔をしている。
だが、それらのことをすべて度外視して考えたとき、この映画は中々面白かった。
『ラム・ダイアリー』
この映画の舞台となるプエルトリコは中南米。地図を載せておこう。目の前に広がるのがカリブ海だ。だからロケーションは絶景。ちょうど映画内の季節が夏ということもあって、真夏の暑い日にこの映画を観るのも面白そうだ。だが、これは30代以上の男が楽しめる映画だろう。とある男の奇妙な夏の思い出である。米国のジャーナリストであるハンター・S・トンプソンの同名自伝小説を原作としている。
『ラリー・フリント』
ポルノ雑誌出版者・編集者のラリー・フリントの台頭と法廷闘争を描いた映画。『プレイボーイ』は有名だが、アメリカではもう一つ『ハスラー』というポルノ雑誌があった。この映画は中々興味深い内容となっている。とにかく正当な評価をするときは、くだらない常識に支配されないことだ。それはこの映画にも登場する『戦争で人が死ぬシーンと、ポルノシーン』などのキーワードでも考えさせられることになるだろう。あるいは、こうしたエロを完全に撤廃して規制すると、性犯罪が増えるという話もある。その真偽はともかく、この世界に完全に蔓延して人間を支配しているのがエロだ。
フロイトはそれに対して湧き出るエネルギーを『リビドー』と言った。フロイトの話は古いものが多いが、しかし確かに現実に現在進行形で通用するところもある。例えば、週刊誌の売り上げは、グラビアの写真がだれで、どういうものかということで変わるのだ。これが決定的な事実だ。それはyoutubeの再生回数においても同じことが言える。だから若い女性は安易な手段として自らの体を売り、それを稼いでいる。中堅youtuberの一人は、『胸を出さないと再生が伸びない』と断言している。
彼のような人間は毛嫌いされるだろう。常識はそういうものだ。世界には子供もいる。綺麗に生きたい人間が、汚いものに蓋をしたいのは当然。我々も便器からなるべく離れて、死体から目を反らして生きていきたい。それが人間が作り上げた常識だ。
しかし彼らのような人間がこの世界のニーズを確実に埋めていることもまた、確固たる事実である。そうした意味でも貴重。また、彼の生きた反乱に満ちた人生は、それだけで映画になる。
『ラン・オールナイト』
映画というのは観てみなければわからないものだ。かつて『アンノウン』という映画を観た時私は今ほど知識がなかったので、『やっぱり知らない人が出ている方が余計な感情が入らないので面白い』という感想を書いたのを覚えている。当時の私はリーアム・ニーソンを知らなかったのだ。それはもちろん、シンドラーのリストやスターウォーズ、バットマンなどをちゃんと鑑賞していなかったことを意味する。確かに彼はブラピやディカプリオなどと比べて華があるわけではなく渋い。だが、彼を侮ってはならない。彼は出演作の大体で重鎮役を演じ、今回も面白い展開を見せてくれることになる。
監督はジャウム・コレット=セラで。彼とリーアム・ニーソンはその『アンノウン』、そして『フライト・ゲーム』『トレインミッション』と多くの作品でタッグを組んできた。『エスター』の監督でもある。どれも彼の魅力を存分に引き出していると言えるだろう。とりわけ、この作品で演じられた暗殺者ジミー・コンロンは、どの映画に登場する暗殺者と比べても、引けを取らない圧倒的強さを誇っている。
『ランナーランナー』
主人公は実在のギャンブラー、ナット・アレムをモデルにしていて、どこまでが実話かは分からないが、かなりリアルな話が出てくるから結構面白い。学費をオンラインカジノのアフィリエイトで稼ぐ主人公が、誰かのポカで紹介業をやめなければならなくなる。この辺りの展開は、Facebook創始者の話『ソーシャル・ネットワーク』を観てもわかるが、このくらいの『危うさ』はネットビジネスでは常にあることで、それがリアルだ。
また、アフィリエイトやオンラインカジノといったインターネットの『稼げるが妙にグレーに見えるビジネス』で、しかし確かに一握りの人間だけ大成功を収めている人間がいる。私もネットビジネスに携わってきたから遠い話でなく、こういう人生を生きた可能性もゼロではないので中々面白かった。ディカプリオが製作にいるのも面白いエンタメ的な展開に関係あるかもしれない。
『ランペイジ 巨獣大乱闘』
これもそうだし『ジュマンジ』『センター・オブ・ジ・アース』などの作品は、私が子供だったら喜んで観ただろう。だが、わざわざ大人の男が一人で観るような映画ではない。ただ、子供が観たいと言えば一緒に観て楽しむ。そういう映画もこの世には必要である。『ドラえもん』や『ドラゴンボール』など、私はよく親と観に行って楽しい時間だったことを覚えている。
『リチャード・ジュエル』
小学校の頃、学校の誰かが『財布を警察に届けた』という理由で表彰されたのを見て、悪友と一緒に事実を捏造して作り上げ、自分たちもそのような称賛を浴びようと画策した。それは失敗に終わったが、そのようにして人間とは、往々にして一度は人生で人の注目を浴びたいと考えるものである。では、今回のケースではどうか。2人の命が失われ、100人以上が負傷する爆破事件が起きたのだ。もし、これがかつての私と同じ動機で作られた捏造であれば大変だ。果たして、彼は『聖人』か、それとも『悪人』か。
『リベレイター 南米一の英雄 シモン・ボリバル』
歴史の勉強をしていると、南米大陸の話が割愛されがちであるということ。そして、シモン・ボリバルという男の圧倒的な存在感について、興味を持つことになる。例えば、私が持っているいくつかの歴史書も、南米大陸の話はほとんどなく、シモン・ボリバルについて書かれていたとしても1ページも用意していない。だが、彼こそは『大コロンビア、ボリビア、ベネズエラ第二共和国、ベネズエラ第三共和国』の初代大統領であり、ペルーの8代大統領である。
一体、どういう人生を生きればそういうことになるのか。そして、なぜ彼が『リベレイター(解放者)』と呼ばれているのか。彼が移動した距離は馬で10万キロ、アレキサンダー大王の2倍の領土を持ち、征服ではなく解放を目的として南米大陸を動き回った、ラテンアメリカの英雄である。
日本では、八甲田山での修行一つが映画化されたわけだが、ここで登場するアンデス山脈を越えるシーンは、それ一つで映画化に匹敵する大冒険である。女性、子供、老人、そのすべてがスペイン軍と戦い、自由を勝ち取るために奮闘した。そういう、ラテンアメリカの深く濃い歴史から目をそらしてはならない。
『リベンジ・マッチ』
デニーロとスタローンの初共演といううたい文句を押し出しているところもあったが、wikipediaにもあるように『コップランド』で既に共演している。まあ映画というものはキャッチ―な要素を取る為には手段を択ばない。誇大広告も引退示唆も、宣伝戦略の一つである。『ロッキー』と『レイジングブル』を背景に想像しながら観ると楽しいかもしれない。
『リメンバー・ミー』
もしこの世に音楽がなければ、この世は実に閑散としたものになるだろう。だがそれはなぜか。音楽がなくても海や山や森や動物や昆虫や草木があり、太陽が照らせば温かく、冬もコントラストとして立派な要素として存在している。理由は一つだ。人間には心がある。その繊細で複雑な心が、音楽を必要とするのだ。この儚い人生に楽しい意味をもたらす。我々はそういう音楽がとても、大好きである。
『リンカーン』
リンカーンがどういう男だったかを知るにはうってつけの映画だ。彼には最愛の家族がいた。しかし、その家族を失うことになった。一体どれほどの悲しみが彼を襲っただろうか。そんな中成し遂げた彼の偉業がある。アメリカ史上最も愛された大統領の話だ。
『リンカーン弁護士』
弁護士や医者、警察や政治家。彼らは人間の作った法律のギリギリのところで、正義と倫理を熟考させられる。主体性がなく、同調・追従しているだけのアマチュア人間ならともかく、人の心が理解できる人格が整った人間ならなおのことである。では、もし自分の信念と、利益を天秤にかけられた時、自分ならどう行動するだろうか。多くの代償を払っても信念を取るか。それとも。
『ルーザーズ』
DCコミックスのヴァーティゴレーベルから発行されたコミック『ザ・ルーザーズ』の映画化作品ということは知らなかった。確かに、冒頭のやり取りが妙に作りこまれているというか、完成されているというか、入り込めないというか、そういう妙な違和感があった。その違和感の正体は、漫画の名シーンを実写化したことが原因だったのだろう。(なんだこの独特の雰囲気は)という感想を抱いてスタートした。
キャストは豪華で、気になるシナリオもあって、スペシャリストたちの個性的な活躍が楽しく、いい感じなのだが、何かが一歩足りない。それは、興行収入が黒字ギリギリというところに着地しているところでも証明されている。
また、90分程度というところに覚悟のなさを感じているのかもしれない。長ければいいというものではなく、90分でも名作はある。だが、何かが一つ足りないだけで作品は価値を落とすものだ。その意味で、デヴィッド・フィンチャーという監督は完全主義で知られていて、私は彼の映画を『後で知って』全部好きになっていた。(この映画面白いな。他と違う!)という感想を抱いて後で監督を調べると、彼だったということが多いのだ。そして、何と彼の監督作品の『すべて』が私が面白いと太鼓判を押せる映画になっている。
ある映画分析動画には、黒澤映画とアベンジャーズの映画を観比べて違いを評価するものがあった。外国の動画だ。黒澤映画では、背景で雨が降っていたり、風が吹いていたりして、必ず『動的』であり、意味がある。だが、アベンジャーズのこのショットは、特に意味なんてない。何も考えられていないと、言うのだ。
だが、私も含めて多くの鑑賞者は、アベンジャーズであれだけのメンツが揃ったことに興奮していてそんなことに気づけない。そういう、玄人目線でしか分からない部分で『何か』があり、その一つ一つの組み合わせと積み重ねで作品が完成しているのだ。その意味で、私はデヴィッド・フィンチャーの映画に無意識に完璧さを見ていた。そして、今回の映画ではおそらく、『表層だけ豪華』とか、そういった目くらましが行われていて、そういう要素の何かが鑑賞者に影響を与え、結果に繋がっているのだろう。
だが、コンパクトにアクション映画を何も考えずに楽しみたい人は大勢いるから、これはこれで需要があるようにも見える。
『ルーム』
ルーム。それは部屋だ。いや、小屋だ。小屋に二人の親子が住んでいた。いや、時々もう一人来た。それは男だ。だが、その男は赤の他人だ。その赤の他人が二人がいる小屋にちょくちょくやってきた。いや、実際には男が用があるのは『女だけ』だ。子供は知らない。その小屋の外に、世界があるということを。
『レ・ミゼラブル』
嫌いだったはずのミュージカル映画がすんなり受け入れられたのは、この作品の持つ圧倒的なストーリーと、深遠なメッセージのおかげだ。あの牧師こそ、真の愛が何であるかを語る資格がある人間だ。またこの映画は宗教が具体的に、人にどのような影響を与えるかということを理解できるシーンがある。ジャン・バルジャンが皿を盗んだときに取った、牧師の行動である。人間があのような行動を取れるなら、宗教が存在する意義はある。
『レイルウェイ 運命の旅路』
『戦場のメリークリスマス』という映画がある。第二次世界大戦の時に日本人がイギリス人を捕虜にして捕まえ、そこでむごい仕打ちをするのだ。だが、そのむごさは目を覆うほどのものではなく、眉をしかめるくらいのもの。そして最後には感動的な和解がある。あれは私も大好きな映画だ。音楽など、最高である。
だが、我々はそれと併せて、この映画を観なければならない。これは、実話である。日本人が描かなかった本当の実態を思い知ることになるだろう。
『レヴェナント: 蘇えりし者』
大自然の中で人間が生きていくということは、本来とても大変なことだ。動物の一生に目を向けてみると、それをまざまざと思い知らされる。現代の世の中でも、野生の動物は冬を越せないと、命を落とすことになる。この映画で思うことはたくさんあるが、私が感じたのは、大自然の苛酷さだ。それにしても、映画鑑賞後にこれが実話だと知って、驚かされた。
『レッド・スパロー』
女スパイの役はできそうでできない。シャーリーズ・セロン、アンジェリーナ・ジョリー、そしてこのジェニファー・ローレンスのように、容姿が整っていて、かつ女性としてのか弱い隙と脆さ、そしてそれを踏み台にしていく強さを兼ね備えていなければならない。
『レッド・リーコン1942 ナチス侵攻阻止作戦』
実話かどうかが分からないので、何とも評価しがたい。戦争映画は実話だからこそ価値があるのであり、フィクションならリアルっぽい戦争相手を出してしまうと混乱してしまうし、史実をかき回してしまうだけで邪魔な存在になるだけだ。だが、
- ゲームっぽいタイトル
- 女性兵士
という要素は気にならないようなクオリティではある。だからこそ、これが実話かどうかだけが気になるところだ。違うなら『何を見せられたんだ』ということになってしまう。
『レディ・バード』
人は死なない。銃も撃たない。マフィアも出てこない。だから範囲(世界)は狭い。だが、だからといって彼女がその範囲に納得しているわけではない。自分の中にある正義(善意)と悪魔(悪意)が葛藤する。隣の芝生を青く見せているのは悪魔の仕業である。この映画は、ある特定の人々からすれば、この映画はとても退屈である。だがそれはごく一部となるだろう。多くの人は彼女と同じ、こうした範囲の中で人生を生きている。だからきっと彼女のような生き方に共感する人は、大勢いるはずだ。
実は、この範囲の話はマーケティングを考える時に非常に興味深い現実だ。それは今回の話から逸れるからここには書かないが、世の中の8割以上、つまり大多数の人の生き方のモデルを理解することは、どちらにせよとても、参考になる。
『レプリカズ』
事故で家族を失った天才科学者が、クローンや意識の転移によって家族の複製(レプリカ)を作ろうとする。この手の作品はいくつも作っておいていいだろう。そう遠くない未来でこのようなことが起きる可能性が十分あり得る。クローン、AI、レプリカ、様々なケースを想像し、そのイメージトレーニングをするのだ。もし自分の家族が死んでしまって、その家族を生き返らせることができるかもしれない場合、我々はそれを遂行していいのだろうか。それとも。
『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』
1945年の4月、ヒトラーが自決したことによりドイツ軍は無条件降伏文書に調印し、6年に及んだ第二次世界大戦における欧州戦線は終戦を迎えた。まだ日本は交戦中だったが、ヨーロッパ線は終わりだ。そのヨーロッパ戦勝記念日(VE-Day)の夜、後の英国女王、つまり2020年現在もそうだが、エリザベス2世が、妹マーガレット王女と共に外出を許され、臣民と共に戦勝を祝った」という史実に着想を得て、一夜の経験を通じて王女の成長を描いたフィクションドラマである。
この物語時代はフィクションだが、彼女たちが外に出たのは本当で、これはドキュメンタリー映画『エリザベス2世 知られざる女王の素顔』で見ることができる。このあたりの映画がいくつもあり、更にすべてイギリスの要人たちの重要なシーンだからまとめてみよう。
- 英国王のスピーチの真実~ジョージ6世の素顔~
- ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋
- 英国王のスピーチ
- エリザベス2世 知られざる女王の素顔
- ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出
こういう順番で観ていくのが一番いい。更にその間に、
- ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
- ダイアナ
を観ればより完璧だ。エドワードというのは『英国王のスピーチ』の主人公ジョージ6世の兄だ。そしてジョージ6世の娘がエリザベス2世である。彼女のように皇族として生きてきた人々は世界の覇者のような一面もあるが、それと代償にいくつもの自由を奪われているという悲劇の一面もある。羨ましいけど、可哀そう。憧れるけど、なりたくはない。そういう何とも言えない貴重な存在の思春期を想像しながら、この映画を楽しみたい。
『ローズの秘密の頁』
観ても観なくてもどっちでもいい映画というのは、実話映画にはそう多くはない。実話で映画化されるものは往々にして偉人や歴史的シーンを切り取っていることが多く、それは何らかのプラスな影響を鑑賞者に与える。この映画はどうかというと、実話ではないのでそれ以上の何かを鑑賞者に与えなければならない。実話じゃないからどんなふうに描いてもいいのだから、その部位を遺憾なく発揮するべきだ。
ではこの作品はどうか。批評家たちの評価は低く、
「『ローズの秘密の頁』の原作小説は高い評価を受けており、俳優たちは厳選されている。彼/彼女らの立派な努力にも拘わらず、この作品は「ページに記されたままであった方が良かった」と思わせる出来になっている。」
とのこと。確かに、観た後あまり記憶に残らない。例えば『シャッターアイランド』のようにギリギリのところまでエグって、サイコホラー的な要素にも突入することで異彩を放つことができる。だが、この映画の売りは『登場人物の不透明な実態』なのに、その不透明さを演出しきれていない。もっと、異常犯罪者ギリギリのところまで演出すれば、鑑賞者がキャラクターに興味を持つことができる。
シーソーのように、ゆらゆらと鑑賞者の疑念や思惑を揺らしながら、真相を解明するまで不透明さを楽しんでもらって全容を隠し続ける。そこに一つのエンターテインメントがあるわけだが、もう少しそのシーソー演出があれば記憶に残る映画となっただろう。
『ロード・オブ・クエスト ドラゴンとユニコーンの剣』
見ても見なくてもどっちでもいいという結論になる。ナタリーポートマンに期待して観ただけだ。
『ローマンという名の男 -信念の行方-』
サヴァン症候群の真面目で融通の利かない弁護士が、正義の為に生きるも、現実のシビアさに打ちひしがれて、すべてを慰めてくれる『お金』の誘惑に振り回される。
この映画で印象的なのは『彼と現代女性』のやり取りで、彼が若い女性に『女性なんだから座ったらどうだ』と立ち聞きする女性に注意するのだが、その言い方と注意という感じに抵抗感を覚えた女性が、『女性だからといって決めつけないで。私は好きで立ってるの』と、彼に時代錯誤を促し反論するシーンだ。
両方とも間違いである。彼も言い方には注意するべきだし、彼女も言い方には注意するべきだ。彼が彼女にしていることは『女性に対する配慮』で、それを断るというのならこの世から一切のレディファーストの概念は消し去るべきである。当然、重い荷物を持つことも自分でやり、席を立つ時に紳士が同時に立ってもらえると思わないことだ。男の世界は厳しい。それが当然のことだ。
また、このあたりを断片的にピックアップして『男、女と分けるのが古い』という方向に誘導するのも悪い。残念ながら男女は『違う』。差別ではなく区別するからこそ、男女別でトイレや更衣室が分かれている。それは当然のことだ。

そうした区別の中、『男を知り尽くした』男の父親が若い娘を心配し、『あまり遊び回るな、遅くなるな』と厳しく注意することが『古い』と言うのなら、自分の人生で何が起きても何も文句を言わないことだ。泣くな。後で泣いて謝って、済む話と済まない話がある。そうした大人の男の『前始末』を侮辱し、ある種の『流行』を味方につけて配慮する人間を無下にするのは、無知そのものである。
だが、彼も言い方は悪い。彼の言い方は押しつけがましく、『そうあるべきだ』と頑迷である。それでは抵抗されても仕方ない。そこに、男女云々という要素は関係なく、単純に人として、それでは人は言うことを聞きたくない。『北風と太陽』である。
だが、そうやって人間関係も上手くいかないのが彼の病気ということであり、我々はデンゼルワシントンの有能さを知ってるから、途中、彼がサヴァン症候群ということを忘れてしまう。だから彼の行動に支離滅裂なことが多く、この映画自体が意味不明な様子になっていても、『デンゼルワシントンのせい』にしてしまうのだが、実は、病気のせいかもしれない。
そう考えると、色々と最後のシーンが感慨深いものになる。あのような最後で本当にいいのか、自分に問いかける。
『ローン・サバイバー』
見るべきなのはこの言葉だ。
『兵士たちのジレンマを難しくした要因の一部は、アフガン人を解放したらどうなるか、はっきりしないことにあった。』
これは、実際にあった話である。
『ロケットマン』
流れ的に、多くの人がクイーンの『ボヘミアン・ラプソディー』と比べてしまうだろう。確かに、ミュージシャンの自伝であり、両方の映画の主人公が『ゲイ』である。ゲイについてはここでは触れないでおくが、内容はほとんど同じだ。ゲイの奇抜な才能を持ったミュージシャンが、アメリカで大成功し、大金持ちになって得意になり、転落を味わう。だが、これらは確かに似た内容ではあるが、彼らは違う人物であり、ここにあるのは違う自伝だ。この映画がなぜ『ロケットマン』というタイトルになったのか。このあたりにこの映画とエルトン・ジョンの人生のカギがある。
『ロシアン・スナイパー』
第二次世界大戦中に計309人のナチス・ドイツ兵を射殺し、“死の女”と恐れられたソ連の女性狙撃手リュドミラ・パヴリチェンコが主人公となる。恐らく、当時を知る人には怖いキーワードだっただろう。エレノア・ルーズヴェルトという人格者が出てくるのも貴重だ。彼女の言葉で私が好きな言葉がある。
『自分が正しいと思うことをすればよろしい。しても悪く言われ、しなくても悪く言われる。どちらにせよ批判を免れることはできない。』
17歳の時に出会って今に至るまで、私の心底で支えとなってくれている言葉だ。アメリカの大統領の妻という立場でもある彼女の考え方は、こんな言葉を見ても伝わってくる。
『戦争が最高の解決策なんてとんでもないわ。この前の戦争で勝った者はだれもいなかったし、この次の戦争だって、だれも勝ちはしないのよ。』
これがエレノア・ルーズヴェルトだ。したがって、ソ連人であるリュドミラと対峙した時、彼女にはその人間関係に何の距離も感じていなかった。感じていたのはソ連側だった。彼女にあまり近づいてはならない。その時からすでに冷戦の前哨戦は始まっていたのだ。1945年の8月に日本に原爆が落とされたのは、『ソ連が日本を支配地にする前に、いち早くアメリカが制覇しなければならない』という事情があったから。ソ連に日本を取られたら、地理的にソ連側が優位性を得てしまうので、アメリカがそれを阻止するため、やむを得ず原爆を落として時短に走ったのである。
当時を知る人からすれば恐怖の女。だが、エレノア・ルーズヴェルトは見抜いていたようだ。彼女が一人の女性にすぎないということを。
- クリミアの戦い (1941年-1942年)
- オデッサの戦い (1941年)
『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』
この映画に★3つけた人々は、あまりにも知らなすぎだ。この人物が一体『誰のモデル』になったかということを。
それだけじゃあない。歴史的に、ガチで貴重だ。2005年にタイム誌が選ぶ歴代映画ベスト100に選出された『アギーレ』。その様子じゃこの映画にも低評価をつけるだろう。『その感覚』で観るなら、こんなものクソ映画だ。何も起きないし、エンタメ性なし。
では、なんで評価が高いかって?ネタバレが嫌ならこの先は見ないでください。
この人物。行方不明になった人として有名で、コアな歴史の本にも記載してある。『Z』とは、人類最後の未到達地点の意味。(前澤さんが次は深海に行くと言っているが、この場合は陸の意味で)未踏未達への冒険。それはもう、ルフィらのそれと同じなわけで。
人生も同じではないだろうか。一回きりの、冒険ではないのか?そうだろ?
『J.I.』。
『ロスト・ボディ』
独創的な映画が見たいなら、普段とは違う国の映画を観るのがいい。最初は聞きなれない言語で戸惑うが、徐々に慣れてきて普段通りに字幕を読むことができ、内容に没入することができる。この映画の結末を予測できる人はいないだろう。多くの映画を観る私でさえ、予測できなかった。
『ロブスター』
ギリシャ・フランス・アイルランド・オランダ・イギリス合作の映画ということで、いつもとは違う世界観が展開される。したがって、私はそれに合わせることができなかった。アメリカ以外の映画は、独特の世界観で世界と勝負するところがある。日本も同じだ。だが、逆にアメリカの模倣になるとそれはそれで見ていて痛いし二流に留まる。だからそれでいいのだが、今回の場合は合作であり、どこの国の個性なのかよくわからないので、何とも言えない着地として終わっている。
『ロボコップ』
初代のロボコップが好きでよく観ていた。この新生ロボコップも、そう大きく外れではなかった。だが、これがシリーズ化されていくかとなると、されないような気配があった。タイミングか何かが少し変われば、シリーズ化もあり得る作品だ。
『ロング, ロングバケーション』
『老人、病気』。もしこれらのキーワードに対して少しでも抵抗を覚える人がいるなら、大丈夫だ。この映画を鑑賞した後、その類の感覚はすべて消え去っているだろう。そして、同時に恥を知るだろう。彼らの人生を、別次元の生き物を見るかのような感覚で捉えてしまったことについて。全ての人間が問われている。この人生をどう生き、どう死ぬかという決定的な事実が。我々は、たった一度の人生を生きているのだ。その事実を本当に理解したとき、人はこの世に存在する一切のしがらみから、解放される。
『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』
原題の「Long Shot」には「勝つ見込みの低い候補者」や「大穴」などの意味がある。これを先に知っておくと映画に入り込めるだろう。普通、(カメラの撮影のなにかかな?)とか、ゴルフのナイスショット的なイメージしか浮かばないだろう。
男はあまり『ありえない恋』のような、そういうタイトルには惹かれないもので、惹かれるのは完全に女性の方なのだが、せひともこれは男性にも見てほしい映画だ。男が見ても楽しめるシーンがいくつもある。気軽に観れる映画なので、きっと万人向けだ。だが同時に『大人向け』でもあり、この映画で笑ってしまう人は、少し遊び過ぎた経験があるようだ。
わ行
『ワイルドライフ』
実はこの映画は奥が深かった。最初、15歳の子供がやたらと仲のいい両親の姿をじっと見つめるシーンがいくつかあって、正直ちょっと気持ち悪いなと。男だから、そう感じてしまう。もっと堂々としろと。だが実はそのシーンには重要な意味があったのだ。それだけだとマザコンっぽいような、ちょっと弱弱しい感じだ。だが両親の関係がどんどん複雑化していって、子供がそれに巻き込まれる。
『家族の崩壊と成長を描いたヒューマンドラマ』
の『成長』というのは実はこの子供のことだったのだ。だから最初にこの内気気味な少年の姿が必要だった。『そんな少年だからこそ』、この家庭内問題が意味のあるものに見える。なければただの醜い喧嘩だ。
ノエル・デュ・ファイユはこう言い
『不幸も何かの役に立つ。』
トルストイは言った。
『逆境が人格を作る。』
人生は単純じゃない。我々はその単純ではない人生を、強く、逞しく、生きていくのだ。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』
そう言われても、この俳優が誰かも分からないし、役においてもその辺にいる頑固ジジイだ。だが、決して彼を嫌いになることはできない。彼は若い女性と親密になっても決して下心を出さないし、子供たちにもとても優しい。そんな、生きる価値のある人間が死んだ。それは一体なぜだろうか。この映画の結末で、ある一部の人間たちの背筋は、丸まったままでいることを許されない。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
1969年にハリウッド女優シャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソン・ファミリーに殺害された事件を背景に、ハリウッド映画界を描いた作品。…だという前情報を見ずに見てしまったが、後でこうやって知っても中々ゾッとして面白い話だ。タランティーノの映画が『大空振り』する印象があるのは、彼が元よりセオリーやストーリーを遵守しようとしていないからだ。今回も作品にそれを求めずに観た。するとやはりどんな展開になっても驚かず楽しめた。しかし実話をもとにしていたとは。
『ワンダー 君は太陽』
1万人あたり1人の新生児に見られる、トリーチャー・コリンズ症候群。両親が同じ遺伝子を持つケースにおいて、発症する可能性が出てくるという。つまり、彼の姉も同じ状況になっても不思議ではなかったのである。だが、大変なのは彼だけではない。その姉、友人、そして両親もそうだ。病気や障害は、本人も含めたその周囲の人々全員の問題として、一生付きまとうことになる。私の叔父も統合失調症だったからよく分かっていることだ。
だが、どんな状況になっても『付きまとう』などと悲観的に考えるか、あるいは違う考え方がある。軽はずみに発言できるような問題ではない。極めてセンシティブで、切実な問題だ。だが、常に忘れないようにしたい。人生は、インサイド・アウト(自分の心構え次第)なのだと。
『ワン・デイ 23年のラブストーリー』
人の気持ちは分からない。分かるならテレパシーが使えることになる。だが、虫や動物が異性にアピールする時の動作は研究されて分かっている。だとしたら人間にも同じことが言える。ただし、昆虫博士のような『恋愛専門家』はそこらへんにいるわけはなく、本はあるかもしれないが、『そんな本を読んで勉強する奴』は、どこか人として低俗のような気配が人間界には漂っている。つまり、どこかでこういうロマンチックなドラマを期待しているのだ。
だが、この複雑極まりない多様性が広がる広い世界でそれぞれが思い思いの人生を生きて、再びその交錯した道で、道が一つに交じる可能性は低い。特に、お互いが外国に一人で旅行をしていて、そこで偶然出会ったケースの場合で、更にその時目を合わせて話し合うこともしなかったなら、ほとんどの確率でその人と出逢うことはできないだろう。だが、わずかでも重なり合う要素があればその可能性は飛躍的に上がる。例えば地元が同じで、学校も同じだった場合などがそうだ。
では、それだけの要素があれば必ず人はまた出会うことになるだろうか。いや、それは他を一切遮断して生きている私が断言するが、『どちらかが強く望まない限りあり得ない』のである。

そう考えると、再び出会い、話をすることがあれば、それだけですでに可能性は極めて高くなっている。これらのことに『何となく』気が付いている人間は、どこかよそよそしい態度を取る。口にはしないが、心底の部分で違う本音を持っているかのように見える。
人間は虫や動物と違い、心がある。心があるからすべてが複雑化する。そのおかげで、偉い賢人たちが見つけたような真理を見出すことができたし、原始時代の動物たちとほぼ変わらない生活を送っていた人間が見て、とても信じられないような科学技術を身につけることができた。また、それが故に歪み方も複雑になり、動物たちの間ではとても考えられないような、不自然で猟奇的な『過ち』を犯してしまうこともある。
そして恋愛はどうだ。本当は好きなのに、実際は好きじゃない人を無理に好きになって、心に嘘をついて生きることがある。まったくもって不自然で、複雑な生き物である。だが、だからこそ心が揺り動かされるドラマが生まれるのもまた、事実だ。
『私が愛した大統領』
フランクリン・ルーズベルトとマーガレット・サックリーを演じ、サックリーの死後に発見された彼女の日記などを基に、両者の不倫関係が描かれる。海外のレビュー支持率も低く、評論家からの評価も低く、日本の動画広告でもコメントに辛辣がものばかりが記載されている。後者の場合はこと『フランクリン・ルーズベルト』という人物についての、民族的な個人感情、私怨に似た恨みつらみが関与しているだろう。
ただ、アメリカの歴史を考えていく中で、彼に特化した映画がなかったので個人的には注目の映画だった。様々な意見が分かれる人物を描く場合、このように個人的な部分にスポットライトを当てれば、そのどちら側にいる人にも大きな刺激を与えないので、不倫話を通して彼の時代の重要な歴史を覗けることは、価値がある。
日本で嫌いな人がいるだろうが、歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。だが、実際には彼がやった『ニューディール政策』ではなく、戦争における武器の売買でアメリカを復興させた説が歴史の専門書でも有力視されている。日本も戦後を復興させた時のリーダー吉田茂が世界で高く評価されていて、
- ナポレオン・ボナパルト
- ウィリアム・シェイクスピア
- チンギス・カン
- ヘンリー8世
- リチャード3世
- チャールズ・ダーウィン
- フィンセント・ファン・ゴッホ
- パブロ・ピカソ
- アルベルト・アインシュタイン
- マハトマ・ガンジー
など世界の偉人・有名人たちが蝋人形にされた『マダム・タッソー館』では、日本人で唯一吉田茂だけが人形になっているように、細部はさておき、俯瞰で見て『自国を大きく守った』等の人物は偉人として、英雄視されるのかもしれない。実際には吉田茂も多くの悪口を言われた人物だったようだ。
ルーズベルトが真珠湾と原爆攻撃に大きく関与し、病死した後、トルーマン大統領が更にその計画を押し進めた。トルーマンが原爆投下を急いだのは、ソ連が日本に影響を及ぼす前に、アメリカがこの国を支配して単独占領したかったのだ。そのため、原爆の犠牲者は『冷戦の最初の犠牲者』ということになる。
とにかくこの映画では、大統領夫人で多くの名言を残しているエレノア・ルーズベルトや、イギリスのジョージ6世とエリザベス王妃なども見られるので、イギリスとアメリカの当時の関係が覗き見れて面白い。もちろん、映し出されている実態が真実にどれだけ近いかは知らないが、イギリスがアメリカに戦争の協力を求めたのは本当だ。
『私はあなたの二グロではない』
1960年代のアメリカには実に様々なことがあった。ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、ヒッピー文化、アメリカン・ニューシネマ、そして今回のテーマでもある『公民権運動』だ。これは黒人が差別の為に立ち上がった運動である。その公民権運動指導者の代表者と言えば、
- メドガー・エバース
- マルコム・X
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)
だ。後の二人は有名だが、アメリカではメドガーエヴァースも有名。テレビで常に黒人の代表者として真理を主張し続けてきたことが、記録に残っている。彼が言っていることは真理だ。だが、当時のアメリカ人は真理から逸れた生き方をしているので、彼が間違っていることを言っているかのような雰囲気が作られてしまう。
この映画はドキュメンタリー映画で、サミュエル・L・ジャクソンがナレーションを務める。彼も『ドゥ・ザ・ライト・シング』でDJ役を務めながら、映画のテーマでもある人種差別問題についてメッセージを主張する役を演じていて、この手の問題について無関係ではない。当たり前だ。それは彼がそうこうという理由がなくても、黒人だからである。ちなみに、第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマが妻のミシェル・オバマと初めてのデートで観に行った映画が『ドゥ・ザ・ライト・シング』だった。
このドキュメンタリー映画は一見すると重苦しい様子があるが、観た方がいいだろう。私も実は観るまではメドガーエヴァースの存在を知らなかったが、彼のことを知ると他の映画でも彼の死がこの時代の黒人たちにとっての重要すぎる一コマだったことを理解できるからだ。『ヘルプ ~心がつなぐストーリー』でも彼の死のシーンが、そして『ゴースト・オブ・ミシシッピー』ではまさに彼の遺族が主人公として描かれる。
マルコムXとてそうだ。デンゼルワシントンが『マルコムX』で彼を演じ、ウィル・スミスは『ALI』でマルコムと親しかったモハメドアリを演じる。キング牧師も『グローリー/明日への行進』で、ヘルプに出演した黒人牧師の俳優が演じている。
私は映画を完全に娯楽の道具として使っていた時、こういう映画を観ようとも思わなかった。だが、今はもう違う。映画から多くのことを学びたいと考えている。そういう人間にとっては、時に脚色された通常版よりも、こうしたドキュメンタリー映画の方が質の高い教訓を得られることが多い。
『私は王である』
朝鮮時代を描いた韓国映画は、彼らが描かなければ世に出ないので、それだけで貴重だ。時代は1418年の李氏朝鮮(1392-1897年)。この時の王は世宋といった。偉大な王と言われた彼は、なぜそう呼ばれるようになったのか。もしかしたらこんなストーリーがあったのかもしれない。孔子の教え(儒教)を軸として生きる韓国ならではの世界が広がるが、そこは世界の四聖(孔子、ソクラテス、ブッダ、キリスト)に数えられる孔子だ。教訓性は世界に通用する圧倒的なレベル。真理が潜んでいる。
『わたしは生きていける』
原作があるのでシナリオはしっかりしている。また、子役時代から活躍するシアーシャローナンは、いくつかB級チックな映画にも出てしまっているが、今回の場合は中々いい仕上がりとなっているだろう。
例えば、舞台の『第3次世界大戦』の設定がリアルでいい。2022年ロシアはウクライナを侵攻し、そのキーワードが日本でもトレンドに上がったが、もし第3次世界大戦が起きると具体的にどうなってしまうのか、ということをイメージトレーニングしておくことは教訓になる。
だが、実際にはこのような映画の存在も虚しく、ロシア等にはそれが届かず、戦争行為が行われるわけだ。それなら、こうした映画だけにした方がいい、こうした作品だけをエンタメの世界で展開し、洗脳に近いほどの啓蒙を常に行い続ければいいという発想が一つ、頭に浮かぶわけだ。
だが、それでは映画界は存続できないだろう。北野武は言った。
『テレビは日本人をかなりダメにしたと思うね。でも大衆をダメにするものしか、多分儲からないんだ。』
彼はそれが分かっていた一人である。戦争と平和の話はとても難しいテーマに流れてしまうので、このあたりでやめておこう。
英数字
『1911』
辛亥革命から100周年を記念する歴史映画であると同時に、ジャッキー・チェンの出演映画100本目となる作品として広告された。しかし実際にはそれが本当かどうかわからないと答えていて、彼自身が大活躍するような映画でもなかった。したがって、世界的に有名な彼の知名度を利用してこの中国の一大イベントをまとめた映画を宣伝したかったのかもしれない。
それはさておき、この辛亥革命によって清が倒れ、孫文が『中華民国』を作った。袁世凱と孫文。『中華人民共和国』を考える際には、この出来事を見ておく必要がある。
『10ミニッツ』
ブルース・ウィリスが出ているだけの映画ということになる。大体こういう風に、大物がちょろっと出ているだけの映画はいくつかある。これでも『出ていることは確か』だから、これによって広告効果を得て、何とか作品を成立させるという魂胆だろう。そういう場合は大体、『少し旬が過ぎた俳優』が『本部隊とは離れた場所から指示』などして、大物は労力が少ないというシステムが採用される。
ニコラスケイジが借金を返すために作品を選ばずに出演しまくって、それですでに借金を完済していることから、そうした『赤字B級作品』に出ても、出演者にはきっちりギャラが入ることが確定している。
大物になれば、ちょっとでもかなりの額になるだろう。色々な事情がある。例えば今回の主役たちは、普段の映画で脇役を務めるような人が多く、だがそういう人でも役者たちからすれば役者仲間なわけだ。
『マチェーテ』がいい例だが、そういう人達が日の目を見る舞台を役者仲間である大物たちが揃えてあげたり、立ててあげる、という行動を取ることは、人間として予想できることである。
そうしたことも関係しているかもしれない。
『11ミリオン・ジョブ』
1982年に実際に起きた、当時のアメリカ犯罪史上最高額の1100万ドル強奪事件を基にした犯罪映画で、主演のリアム・ヘムズワースは、『マイティソー』のクリス・ヘムズワースである。リアムの方は兄と比べて知名度がまだないが、やはり実際に起きた話で、規模が大きいからそれだけで見応えがある。
ロバートデニーロの映画『グッドフェローズ』でも実際に起きた事件が展開されるが、彼らの場合マフィアで、1968年に近傍のクイーンズ区・ジョン・F・ケネディ国際空港でエア・フランス現金強奪事件を成功させ、42万ドルを手に入れる。また1978年に同じくケネディ国際空港でルフトハンザ航空現金強奪事件を起こし、600万ドルという大きなヤマを成功させる。
だがその4年後に起きたこの事件はその2倍近い被害額の為、知名度がそれほどなくても、そうして関連付ければ内容の大きさが分かって面白いかもしれない。
『127時間』
これは実話だ。それを知ってからこの映画を観た時、背筋が凍り付く人が続出するだろう。127時間。それは、一体何の時間を表しているだろうか。人間の無力さを思い知ることになるだろう。
『1917 命をかけた伝令』
1917年4月6日、第一次世界大戦最中に、イギリス軍はある重要な指令を部隊に届ける必要があった。通信手段がろくに揃っていないこの時代、伝令兵の存在は重要で、それ次第では多くの人間の命が無意味に失われることもあった。
I(想像力)×V(臨場感)=R(リアリティ)。我々はIとVの数値を引き上げることによって、映画体験をより自分の人生の糧にすることができる。では、もし『戦場』でVの数値をここまで引き上げたらどうなるか。我々はこの映画で戦場の新境地を見ることになる。
『20センチュリー・ウーマン』
主演のアネット・ベニングはもう中年以降の年齢なので、この映画に華を期待することはできない。エルファニングはいるが、彼女の華で勝負しているような映画ではない。『マレフィセント』などはそうだ。彼女がマレフィセントの『守るべき娘』として、王女のように扱われるから華が光っている。だがこの映画は批評家・観客の双方から称賛され、特にマイク・ミルズの脚本と演出及びアネット・ベニングの演技は「キャリアベストの仕事」と絶賛されたようだ。
アネットは、ここからほぼ20年前の40歳頃の映画に、デンゼルワシントンとの映画『マーシャル・ロー』があるのだが、その映画では『昔は美女だったはずのベテラン女優』ぶりが見られることから、更に10年以上若ければもっと美貌が光ったのかもしれない。
だが彼女の10年前というのは1988年で、実はそこがデビューの年ということもあるのか、大した作品には出ていないのである。コリンファースとの『恋の掟』は見たが、あまり彼女の美貌には気づかなかった。今回の映画の前の6年前に『キッズ・オールライト』というニッチな映画に出ていて、彼女は賞も受賞している。そういう意味もあってか、彼女は難しい役どころを演じる方が似合っているのかもしれない。だが、個人的にはマーシャルローの彼女も中々はまっているように見えた。
演技派ということなのかもしれない。だから難しい役も務めることができる。今回の映画は「キャリアベストの仕事」と称賛されたのだから、そうなのだろう。だが実は、彼女がこの映画でそう大きく目立つことはない。『キャプテンマーベル』のようにドカンと前に出るわけではないし、『ブラック・スワン』のナタリーポートマンのように彼女中心に動くわけでもない。どちらかというと『下宿の管理人』という役通りの、縁の下の人である。
また、息子であるジェイミーの俳優がほぼ無名であることからも、かなり面倒な仕事を任されている感じだ。だが、それが良かったのだろう。その無名の反抗期の息子がいて、独特の価値観を持った知人がいて、複雑でニッチな環境の中、いかに彼女が自分の生きる道を見失わず、正しい道を選択できるか、ということが問われるわけで、その役をこなすのは容易ではない。
子供は『それまで教えられてきた常識』から逸脱することで、自我の存在を確認するもの。思春期にちょっとした悪さをしてしまうのは、自我が芽生え始めたからだ。
(親はこうだと言ってたけど、こうもできるじゃん。)
テストの意味も兼ねて色々やってしまうこの時期に、しかし、取り返しのつかないこともやってしまうもの。シングルマザーとして男役も演じなければならない中、彼とともにどう生きるか、ということを道を模索する彼女の姿に、教訓を見るということなのだろう。
『2ガンズ』
2ガンズ。それは、2つの銃である。では一体なぜそれをタイトルにするのか。それは、主人公の2人が持つその2つの銃は、それぞれに意味を持っているからだ。2人組である。しかし、なぜか1つではない。2人で1つでも、一心同体でもないのだ。それなのに、彼らはどうも仲がよさそうである。一体彼らは何者なのか。
『31年目の夫婦げんか』
結婚生活も30年を超えると、どういう境地に入るだろうか。私が物心ついたときギリギリに祖父が死に、私が18歳になる前に父親が死んだから、私のごく身近でそれを見ることはできなかった。きっとその境地に入らないと分からないこともあるだろう。だが、一つだけ気になるのは、彼の意固地な性格である。ニーチェは言った。
『夫婦生活は長い会話である。』
『3月のライオン 前編、後編』
マリリン・モンローが地下鉄の通気口に立ち、白いスカートがふわりと浮き上がるシーンがあるのがこの映画だと知り、いつかは観るべきだと取っておいた。だから記念すべき2000本目の鑑賞映画にこれを観た。実際には、別に観たい映画は大体見てしまっているので、どれかを選ぶならということで、歴史あるこの映画を選んだまでだ。マリリンモンローに対しても思い入れはない。もう70年も前の50年代に活躍した女性だ。
更に、そのシーンは一瞬で、対してハレンチでもなく、あっけないものだった。だが、この大観衆の前での撮影風景を見て、野球選手だった夫のジョー・ディマジオが激怒し、二週間後に離婚が発表されたという。彼は彼女をとても愛していたので、嫉妬からのことだろう。『マリリンとアインシュタイン』などと一緒にこの映画を観たい。
この映画の内容自体は1955年の映画ということもあって特に斬新なものはないが、クスッと笑えるシーンもいくつかあり、まあまあの見応えだった。だがやはり時代には敵わない。今の若者にこの映画の良さを聞いてもさっぱりわからないだろう。
羽海野チカによる日本の漫画作品を映画化したもの。将棋を題材としていて、棋士の先崎学が監修を務めている。『ちはやふる』同様、日本独特の文化である将棋は、光を当てて守るべき遺産に等しい。
『360』
オーストリアの作家、アルトゥル・シュニッツラーの戯曲『輪舞』から着想を得た作品で、様々な役者が主役となる群像劇である。それなりにスリリングであり、サスペンスっぽくもあるから展開が楽しみではあるが、やはり戯曲かつ群像劇ということもあり、見づらいという人もいるだろう。
戯曲とは、『演劇の上演のために執筆された脚本』だ。演劇の場合、舞台が転換することが当然だから、観客は場面が変わることに慣れているが、映像作品にしてしまうとどうしても詩のような、不思議なテンポになってしまうので、何とも言えない感じで見ることになる。
『42 〜世界を変えた男〜』
アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを描いた伝記映画。彼は、『史上初の黒人メジャーリーガー』として歴史に名を刻むことになる。タイトルの「42」とはロビンソンが付けていた背番号で、現在アメリカ・カナダの全ての野球チーム(メジャーはもとより、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュア野球に至るまで)で永久欠番となっている。
それほどの偉大な選手だったか。いや、もっと記録を出した選手は大勢いるだろう。ではなぜ彼がそこまでフィーチャーされ、評価されるのか。1945年、第二次世界大戦が終わった年だ。当時はまだ黒人差別が激しく、公衆便所も『当然』、黒人と白人は分けられていた。だが彼は、まるでキング牧師やメドガーエヴァースのように、人種差別に対して毅然とした態度で立ち向かい、戦った。
1947年、彼はドジャースに入団。当時、メジャーリーグも白人だけのものだった事から、彼の入団は球団内外に大きな波紋を巻き起こす。当たり前のようにヤジが飛ぶ。
『おい二グロ(黒人野郎)!ここはお前が来る場所じゃねえんだよ!』
この程度のヤジなら、彼は耐え忍ぶことができる。問題なのは、これ以上のことが、連続して彼の身に襲い掛かるということである。
2018年のドキュメンタリー映画『華氏119』を観れば分かるが、実は黒人差別問題はつい最近でも当然のように行われている。ドナルド・トランプは堂々と演説で黒人たちを揶揄し、ある映像では、白人の一見して普通に見えるおじさんやおばさんらが、黒人を見つけるやいなや殴りかかって、まるで不良少年が敵の不良少年に殴りかかるかのような勢いで、憎しみをぶちまけるシーンを見ることができる。
この映画は、アメリカとカナダで公開から3日で、2730万ドル(約27億円)を売り上げて初登場1位となり、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てたようだ。
だが、アメリカ人が一体どのような思いでこの映画を観たのかと考えると、複雑な心境になる。いや、冒頭に書いたように永久欠番を守っていることから、全体的にはリスペクトしているだろう。言うなれば、キング牧師やメドガーエヴァース、あるいはマルコムXらが言葉巧みに演説で人種間の平等を訴えたのであれば、彼は口を閉じ、ただひたすら野球のプレイで自分の役割を果たしたのだ。
こういう者たちの繋いだ勇気で、今がある。いつかアメリカから差別がなくなる日まで、勇気の炎は、燃え続ける。
『4デイズ・イン・イラク』
2004年4月ポーランド軍がイラクのど真ん中の年カルバラーに派遣される。「カルバラ・シティホール攻防戦」と呼ばれたこの戦いは、多国籍軍ポーランド部隊とシーア派民兵軍による戦闘だ。このカルバラーというのはイスラム教シーア派の聖地でメッカがある場所。イスラム教でも少数派で、過激派が多いとされている派閥で、彼らを煽ると比較的簡単に戦争が始まってしまう。
イラク戦争は終わっているが、反米意識はたっぷりと植えついた。それはそうだ。アメリカは『大量破壊兵器がイラクにある』と断言してイラク戦争を勃発させるが、実際にはそんなものはなかったのだ。このあたりの真相はドキュメンタリー映画『華氏911』を見るといいだろう。アメリカの実態、そして攻撃されたイラク人がどれだけアメリカを恨んでいるかがよく分かる。
反米ゲリラとの戦いに巻き込まれるポーランド軍。果たして彼らはその危機を乗り越えられるのか。
『50/50 フィフティ・フィフティ』
W・H・オーデンは言った。
『死とは、ピクニックのとき遠くに聞こえる稲妻の音。』
人は必ず死ぬ。だが、ある解剖医から言わせると、人は死や死体から目を反らし、生きていくことによって文明人を気取っているという。アンドレ・マルローは言った。
『死体を前にして初めて『なぜ』とつぶやいた時、この世に人間が生まれたのである。』
わかっていることは、我々はこれを読んでいる限り、まだ生きているということだ。
『500ページの夢の束』
大勢が共感できる内容ではなく、中には(何を見せられてるんだ)と思う人もいるだろうが、狭くてもぎゃくに、彼女のことがよく分かるという人は確実にいるだろう。サヴァン症候群もそうだが、自閉症というのはある特定のことだけ頭一つ秀でていて、その他のことができないケースが多い。だが実は天才というのは往々にして『一つのことに特化したスペシャリスト』が多く、だとしたら彼女たちのような人々を『病人』と扱うのは、妙な違和感がある。
また、彼女が『勇気を振り絞ってしたこと』をしっかりと表現しているあたり、天才子役として活躍したダコタ・ファニングの実力が光る。
『6才のボクが、大人になるまで。』
同じ俳優に実際に12年の時間をかけ、6歳から大学生になるまでの過程をドキュメントタッチではなく、映画タッチで描く。我々はハリポタで子が成長するのを客観視したが、あれに似て、しかしこの場合は魔法の国ではなく現実世界の何でもない日常を切り取った。
フォスディックは言った。
『A弦が切れたら残りの三本の弦で演奏する。これが人生である。』
人生を生きていれば色々なことがある。だが、その後も人生は続くのだ。
『7番房の奇跡』
実話映画というが、かなり脚色されているので真には受けない方がいい。だが、とにもかくにも感動したい人は、真に受けた方がいい。映画とはドラマであり、2時間にまとめられたその内容は、ドラマチックでなければならない。起承転結があり、笑いと涙があり、多くの感情が揺さぶられれば人の心に残り、それが作品を支えれば利益が生まれ、キャストやスタッフたちの人生が支えられれば、また視聴者たちを喜ばせるエンターテインメントが生み出される。
私はマガジンを入れれば本を1000冊以上読んでいるが、その中にほとんど作家が書いたフィクションの小説はない。ゼロと言っていい。人生は、フィクションに触れて感傷に浸る時間はそう多く与えられていない。人生が無限とか1万年ぐらいあるなら1000年はそうした時間に触れてもいいが、有限である以上、私はあまりフィクション(誰かの利益の為に、誰かの意図で作られた作り話)に触れる時間は避けたい。
漫画やアニメはよくて、作り話の実写に距離を感じるのは、そこに実際に人間がいて、『演技をしている』のが明白だからだ。前者なら完全にそのキャラクターとしてこの世に生み出されたが、後者はスタッフが作った作り話を、役者が演じている。
この映画は、1972年に春川市で派出所所長の9歳の娘が性的暴行を加えられて殺害された事件がモチーフになっているが、脚本はフィクションだ。そして恐らく、そのフィクションの部分にこの映画の良さが詰まっている。
数百年以上も前の歴史映画なら仕方ないが、ここまで最近の話で、実話ベースというが、どこまでが本当にあったことで、どこまでが作り話なのかが分からないこの手のものを見た時、私の心は複雑である。
したがって、冒頭でああ言ったのだ。私も最初は真に受けて映画を観て、感動した。そして後で『完全には実話じゃない』と知って、幻滅した。だが裏を返せば私がこうしてくどくどと文句を言うほど、『惜しい』ということなのだ。それほどこの物語は、いいものだったのだ。
『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』
不慮の死を遂げた男がシーツを被った幽霊となって、遺された妻や世の移り変わりを見守り続ける姿を描くが、意見が分かれる映画となるだろう。私が映画に求める要素はゲームから得られるものではない。これを映画なので、映画ならではの何かを得たいのである。その意味で、非現実的であるこのストーリー自体からは何も得られない。これなら、ゴーストバスターズの方がいい。最初からないことが前提としているかのように、冗談交じりに遊ぶならいいが、このようにシリアスにされると『このようなゴーストがいるのではないか』というオカルト的な話になってしまうのでつまらない。

『ANNA/アナ』
『絵』を見ているようだった。私は模写だが膨大な数の絵を描いていて、数年前と今ではクオリティが違うわけだ。『ニキータ』から考えるとベッソンの境地が、ここまで上がったかという感慨を覚える。
細部までこだわりぬいた絵を見ているようだった。レオン、LUCY/ルーシー、コロンビアーナと磨いてきて、そうしてここにたどり着いたっていう歴史(深み)を感じた。
ニキータの頃の荒々しいうぶっぽさもいいが、こういう洗練されたものも最高。これは一朝一夕にはできない。映画を作ってる『頭脳』の経験値が高い。これが一流の映画だ。
『ANNIE/アニー』
この作品が長い間世の人に愛される理由がわかった。ウィル・スミスが現代の人によりわかりやすく演出してくれたことで、アニーが放つ輝きは更に勢いを増しただろう。映画を観終わった後、ついついBGMを購入してしまった。
『BECK』
水嶋ヒロが引退する前の全盛期の時、向井理も桐谷健太も、佐藤健も同じように絶大な人気を得ていた。キャストは十分。そして、題材も十分だ。見終わったころにはオアシスの曲を口ずさんでいる自分がいるだろう。映画館にいる観客が買った時間を上手く使って、映画館の時間をほんの少し止めることができた映画だ。
『Dearダニー 君へのうた』
フォークソング歌手のスティーヴ・ティルストンに実際に起きたエピソードを基にシナリオが描かれている。あまり共感できる内容ではない。彼がかなりマイノリティだからだ。つまり、ロック歌手として活躍していて、高齢になってもそれをやろうとしている。また、ジョンレノンから手紙を渡されていて、しかもその手紙は40年未開封だった。こういうケースはレアである。だから彼の心境は誰にもわかるはずはないが、最後、歌手でもないアルパチーノの歌声に、なぜか哀愁を覚える。
『DESTINY 鎌倉ものがたり』
日本の映画は、まず観ない。観ようとも思わない。それが正直な本音だ。だから『最高の映画』を見過ごす機会損失が起こっている。もしジブリがこの映画をやるなら確実に観るだろう。この映画はそういう映画だ。そういう、素敵な映画だ。
ちなみに、上記のツイートをしたところ、監督の山崎さんから『いいね』をいただいた。
『her/世界でひとつの彼女』
『Ok google!』『Hey Siri!』気づけば我々は、そうしてAIに向かって話しかける新しい常識を当たり前のものとしている。では、このような事態に発展することは本当にないだろうか。『恋は社会的に受容された狂気である』。エッフェル塔と結婚する人がいるのがこの世の現実だ。ここにある恋もきっと、純粋なのだ。
『HOT SUMMER NIGHTS/ホット・サマー・ナイツ』
この映画も『もし実話だったら面白かった』というタイプの映画だ。そういう映画がいくつかある。しかし実話ではないので、(フィクションならもう少し何かがあってもいい)ということになってしまう。売り上げも赤字で評論家の評価も普通程度だが、その程度に落ち着くだろう。ティモシーシャラメは有名だが、後のキャストは無名。また、監督はこの映画がデビュー作ということもあるから、仕方がないと言えばそうなる。酷評してしまうのは、『面白そうな雰囲気』があるからだ。それを裏切られるので、上げられたハードルの分だけ失望するということである。
『KUBOクボ 二本の弦の秘密』
- シャーリーズ・セロン
- レイフ・ファインズ
- ルーニー・マーラ
- マシュー・マコノヒー
といった豪華キャストが声優を務めるだけで、一つの見応えである。またもちろん日本人は、舞台となったのが日本というだけで、一つの見応えとなる。海外が日本を舞台にして映画を作る場合、そのほとんどがチープな内容になるのが相場だが、アニメーションになるとワンランク上になるイメージがある。ずば抜けているわけではないが、日本人も外国人も、子供達も大人も楽しめるエンタメ映画である。
『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』
リルケはこう言い、
『「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。』
ヘミングウェイは言った。
『あちこち旅をしてまわっても、自分自身から逃れられるものではない。』
すべての人には、それぞれに与えられた歩くべき道が、ある。
『LOOPER/ルーパー』
タイム・トラベルしてターゲットを殺す『ルーパー』は、ある日その標的が『自分』であることに気づいた。果たして、彼は自分を殺せるのか。それとも、逃がすのか。この映画で重要な人物は『子供、青年、中年』の3人である。その中の一人がとんでもないことをしでかし、更に違う一人が運命を変える大きな決断をする。この3人の動きから目が離せない。
『MEG ザ・モンスター』
かつて、ティラノサウルスよりも強い歯を持った『メガロドン』というサメがいた。そのサメが、海底深くにいまだ生息していたのだ。命を懸け、犠牲を出し、やっと捕まえた海の魔物。…だがおかしい。痕跡にあった歯形と違うのだ。
『MERU/メルー』
普通の人は『富士山』の前で絶句する。だが、その先を行くとそこに立ちふさがるのはあの世界最大の山『エベレスト』だ。しかし、この世界にはまだまだ上がある。インドのヒマラヤ山脈のメルー峰。その中で、『シャークス・フィン(サメのヒレ)』での登頂をすることは、エベレストを制覇したような猛者中の猛者でも最大級の困難を極める。
寒すぎて手足の感覚がない。手や足が濡れたままだと塹壕足(ざんごうそく)という腐った状態になる。そんな中、意識を正気に保ちながら、数々の試練と責任を背負いながら、その目標を本当に達成できるか。いや、できない。普通はできないのだ。しかしそれを成し遂げた男たちがいた。
『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』
人間の脳が最後まで機能するのが、何かを見て(美しい)と感じる機能だという。(汚い)と思う機能ではない理由は何だろうか。それはもしかしたら虫嫌いの人が死に際に虫を見て、そこに『共にこの世を生きた生命という盟友』という境地を見出すように、人がこの世の一切の森羅万象を分け隔てなく見ることができる目が開花するからだろうか。
華やかな街並み、煌びやかなネオン、夜空を彩る大花火、若い女性たちの化粧に扇動される香水。キラキラ光る宝石や、豪華絢爛なアーティストのエンターテインメント。我々は往々にして『躍動するエネルギー』に魅了され、それは往々にして『最盛期』である。
名探偵コナンがシャーロックホームズに憧れるのは、彼の頭脳が明晰で、芸術的な格好良さがあるからだ。では、93歳のホームズには、何があるだろうか。我々はしかし、その名を聞いただけでそこに煌びやかな何かがあると期待してしまう。
だが、それはない。だとしたらそこに価値はないのか。この世界は『躍動するエネルギー』だけが価値を持ち、衰退した生命の呼吸に、美しさは見いだせないのか。我々は人生の黄昏時を迎えたシャーロックホームズから、何を得られるだろうか。
『Mr.&Mrs.フォックス』
『Mr.&Mrs. スミス』と比べない人はいないわけだが、そうなると何もかもそれよりも劣ることになり、皆が低評価を付けるのもうなづける。wikipediaにも説明ページがないような作品であり、これで世界的ヒットは狙えないだろう。
ユマサーマンがあと20年若ければ何かが違ったかもしれないが、やはり美男美女を『ドヤ』と押し出す場合は、そこに厳しい目が向けられてしまう。話の内容も観ても見なくてもどっちでもいいような作品だ。
『NHKスペシャル 中国文明の謎』
映画ではなくドキュメンタリー特集だが、これは中国の歴史を語る際に非常に重要な一コマを切り取っている。したがって、中国の歴史映画の先頭にこれを付け加えたいのである。言わば、映画の前に観るべき『あらすじ』だ。
夏
よく『中華』と聞くだろう。これは一体何のことだと思うか。実はこれは『中夏』だった。そう。かねてから歴史の専門家さえも『幻の存在』としか言えなかった中国最初の国、『夏(か)』がここに組み込まれているのである。中国は現在、ハッキリしている『殷(いん)』が最初の国となっている。しかし司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、
兎(う)が夏王朝を建国したものの、暴君であった17代桀王(けつおう)が人望を失ったため、湯王(とうおう)がこれを討伐して、殷王朝を建国した
という旨が記述されている。つまり『夏』は存在していた可能性が高いのだ。だが証拠がない。一体どっちが本当なのか。そこに切り込んだのがこの特集なのである。実際に中井貴一が中国に行き、詳細な調査結果を展開するストーリーテラーを務めている。
中国はバラバラの印象があるだろう。現在進行形ですら、台湾や香港やチベットなど、どこまでが中国か曖昧である。しかし、皆が『中華』として根底で繋がっている。だからこそこの『夏』の存在は、必ず証明したいのである。キーワードは『龍』だ。
殷、周、微
話は殷に繋がる。夏を滅ぼし、中国に君臨する。中国のこの時代には、『漢字』のもとになる『甲骨文字』が誕生した。亀の甲羅や動物の骨の表面に奇妙な文字が書かれているのが見つかり、この甲骨文字は発見されたのである。ここで亀の甲羅や動物の骨が使われているのは偶然ではなく、意味があったという。当時、それらを焼いて、ヒビ割れがどうなるかという結果を見て、政治を行っていたのだ。
漢字は、多様に広がる中国の文化を一つにまとめる役割も果たした。言語は分からない。だが、文字ならわかるということで、『中華』の精神同様、中華圏にある人々の根底を繋げているのである。また、殷の神は『人の頭を食べる』という恐ろしい発想から、当時の死体には首無しのものが多い。
そして時代は『周』へと移り変わる。当時あった『牧野の戦い』では、周(8つの部族連合)VS殷で、これは70万人VS70万人という想像を絶するものだった。殷は最後に逃げるような形で、周が中国の覇者となる。
ちなみにこのずっと後、1000年以上も後のことだが、金、元、清(満州族)などの異民族王朝が、漢字以外を普及させようとする。だが、清で『中国の歴代最高の名君』として語り継がれる康熙帝(こうきてい)が他民族国家中国の統一を考え、漢字を押した。そのことも手伝って、漢字というのは最も古く、意味のある文字としてこの世界に君臨し続けるのである。
秦
そして時代は秦へと移り変わる。ここに登場するのが始皇帝だ。中国を初めて統一した男である。帝の神=北極星。そしてそれは自分であるということで、権威づけのためにこの世界に『皇帝』というワードを創造したのが、この始皇帝である。更に始皇帝は、中華発想を利用した。バラバラに広がる中国だが、『中夏』としてこのエリアの中央には『夏』がある。そのようにして、夏の権威を乱用し、自らを権威付けしたのである。
『SCOOP!』
日本映画や人気タレント、この手の内容には間違いなくチープさが漂い、最初から真剣に観ることはできなかった。だが、それが逆に良かった。
『SP 野望篇/革命篇』
観ていた人がいるなら納得のランクインだろう。『デッデッデッ。デレッデレッデレッ。』というあの特徴的なBGMと、岡田准一らのクールでプロフェッショナルなアクションが、曲と一緒にこの作品を盛り上げた。
『SPY/スパイ』
王道のスパイ映画とは違って、コメディタッチでスパイの活躍を楽しむことができる。こういうスパイ映画があってもいい。『ゴーストバスターズ』にも出演したメリッサ・マッカーシーは、中々ユニークな俳優だ。どの作品でもキャラが際立って面白くなるのは、彼女自身に実力があるからである。
『SUPER8/スーパーエイト』
コダックが開発したスーパー8mmフィルム、規格の名称はスーパー8(スーパーエイト)。これは、映画を作ることが好きな少年たちの物語。彼らはもちろん天才ではない。だから彼らが撮る映像にはそう面白いものは映らない。…はずだった。監督のエイブラムスによると、この映画の時代設定は1979年であり、スピルバーグが1970年代から1980年代に監督した『未知との遭遇』や『E.T.』といったSF映画に対するオマージュないしはトリビュート的な作品であるという。観客をもてなすことよりも、超売れっ子監督同士が作りたいものを作った作品のようだ。
『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』
タイトルを考えると『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』とある。『アメリ』が演じたシャネルの映画でもそうだが、その人物のどこにスポットライトを当てるかということが、一つのポイントになる。
私がこの映画のジャンル分けで『実話、女性、革命、偉人、絆、純愛、信念、理不尽、孤高』として、実に多くのジャンルに割り振ったが、それだけ内容が濃く、見応えがあるものだった。これだけ多くのジャンルに該当する映画は珍しい。『ジャンヌ・ダルク』を最高にドラマチックに描いたリュック・ベッソンの作品ということもあり、ドラマ性でのレベルは相当高い。
だが、彼女が自身で
「私はマーガレット・サッチャーでもなければ、マザー・テレサでもない。政治家だ」
と言っているように、イスラム教やその小団体であるロヒンギャへの対応の仕方に関しては『彼女からノーベル平和賞を取り上げるべきだ』という声も上がっていて、いささか、彼女の人生はそう簡単な話ではない。
ただ冒頭で挙げたように、彼女が女性として、その数奇な結婚生活を送った人物であることは確かであり、極めて異例な、長期間続く軟禁生活もまた稀有な境遇として、見応えがある。
2017年9月、ミャンマー西部ラカイン(Rakhine)州で、ミャンマー政府がイスラム系少数ロヒンギャと武装勢力の関わりを何ら検証しないまま、ロヒンギャの村を放火した事実がBBCにより放映された。これらミャンマー政府によるロヒンギャへの対応について、国連関係者から「民族浄化」であるとの指摘がされるなどしており、同国の事実上の指導者であるアウンサンスーチーに対して、授与されたノーベル平和賞を取り消すよう求める請願運動がネット上で行われ、36万を超える署名が寄せられている。-wikipedia
『THE PROMISE/君への誓い』
1914年のオスマントルコ。第一次世界大戦を目前にして、少数民族であるアッシリア人、ギリシャ人、アルメニア人たちは戦々恐々としていた。ムスリムであるトルコ人たちが、いくつかの戦争を経て、キリスト教徒に対し敵意を抱くようになり、アルメニア人などのキリストを信仰するを信仰する少数民族を排斥するようになった。
トルコは現在このアルメニア人虐殺事件を公式に認めていないが、この騒動によって、実に150万人ものアルメニア人が命を落としたのだ。核爆弾で死亡した人々が10万~20万人。そう考えたとき、これがどれだけの規模の問題だったかが垣間見えるのである。しかも、新生トルコになった後も、ケマル政府はクルド人に対して独立を認めず、弾圧している。したがって、トルコ近辺で少数民族が排斥されている事実が存在することは確かなのである。
この時代のオスマン帝国の映画は『アラビアのロレンス』があるが、映像のクオリティで考えると、まるで違う世界を見ているかのように、圧倒的に違う。私は最近の映画の方が好きだ。
『us』
この監督の前作に『ゲット・アウト』というものがある。それはとても見応えのある内容だった。単なる人種差別の話ではなく、メッセージ性が高く、エンタメとしても面白いものがあった。今回、映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには459件のレビューがあり、批評家支持率は94%、平均点は10点満点で7.94点。サイト側による批評家の見解の要約サイト側による批評家の見解の要約は
「ジョーダン・ピール監督の第二作は野心的かつ斬新なホラー映画に仕上がっている。『アス』は「デビュー作で脚光を浴びても、2作目はパッとしない」というジンクスを打破したのである。」
ということだそうだ。だが、私の意見は真逆で、『デビュー作は素晴らしかったが、2作目はパッとしない』ものだった。映画評論のプロたちとこうも意見が真逆になることは珍しいが、それは私が『偏っている』ことが原因だろう。いや、私は実は偏りが嫌いな人間である。それは、クリスチャンの両親に育てられ、それを強要され、それを追従しなければ家を出ていくしかないとまで言われた私だからこそ、無宗教を貫き、それに徹底し、キリスト教系でやる妹の結婚式にすら行かなかった筋金入りで、偏らないことを徹底している、『という偏り』が、今回浮き彫りになったのではないだろうか。
三島由紀夫は言った。
『無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。』
私はホラー映画を観ない。ホラーを映画として観ていないのだ。時間の無駄だと考えている。私も10代にはよく観た。むしろ、その手の映画がメインだった。そしてそれを女性とイチャイチャする道具として使ったり、ケラケラ悪友と笑いながら、馬鹿にするかのように眺めていたのである。
得たものは何もない。人が簡単に死に、肉体がバラバラになる姿を見て『ゾクゾクする』とヘラついた顔で言うような奴は、SNSでも即ブロックすることになる。私の人生がそういう『中途半端』な人間と違って、ホラー映画顔負けの波乱に満ちたものだったということも関係しているかもしれない。『笑えない』のだ。堕ちるところまで堕ちた人間は。
そして、人生の最深部に堕ちた人間は、上を見上げるしかない。最上部にいるのは、『四聖』と言われる儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人である。彼らの教えを見て、人生の真理を理解した人間は、ホラー映画などで時間を『浪費』する時間はないと悟るのである。
その『偏り』が、私をこの『ホラー映画』に徹したusという映画を、低く評価したのだ。
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