ポスター画像出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
レビュー
ノーベル文学賞作家のヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説『クォ・ヴァディス』を描く。『ベン・ハー』の時代から少し経ってからローマ皇帝が暴君と言われたネロになってからの時代だ。したがってこの話の軸となる人物はネロ、そしてイエスの後を継ぐキリスト教のトップ2の一人、ペテロということになる。暴君ネロはキリスト教徒を迫害したことで有名だから、キリスト教の話がここでも主軸となってくる。
| ベンハー | 0~30年 | キリスト教VSユダヤ教 |
| クォ・ヴァディス | 60年頃 | キリスト教VSローマ帝国 |
| 第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
| グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
このアウレリウスが五賢帝時代で、その後にペルシャと戦う『軍人皇帝時代』がある。その時の皇帝がネロよりもあくどいことをしたかもしれないカラカラ。またウァレリアヌスという不幸な皇帝もいる。更に見ていこう。
| ディオクレティアヌス | 280年頃 | ローマ皇帝を神と定める |
| コンスタンティヌス | 330年頃 | ミラノ勅令を発令 |
| テオドシウス | 380年頃 | キリスト教を国教に定める |
このテオドシウス時代の時に北アフリカのエジプトはアレクサンドリアに『ヒュパティア』という天文学者がいた。彼女を描いた『アレクサンドリア』という映画は、数多く見た鑑賞映画の中でも教訓編の1位に君臨するほどの内容だった。
そこには、このローマ帝国の流れが大きく関連している。このような時代の流れがあってローマ帝国の国教がキリスト教になり、それが世界に普及していき、この世界でキリスト教が圧倒的なシェアを広げるに至った。そしてそれが後に1000年間続いた『暗黒時代』と言われるキリスト教一強の時代を生み出し、カトリック教会の腐敗が起き、それに逆らってドイツのルター等が宗教改革を起こす。そしてキリスト教はカトリックに反発するようにルター派(プロテスタント)やカルヴィン派などに分派。その後もたくさん派閥ができるが、基本的にそれらはカトリック(大筋のキリスト教)に逆らうようにして起きたのだ。
また、これも極めて重要な話だ。そのカルバンは、ジュネーブを神聖な国にしようとし、より厳格な規制を考えた。歌も大声も、踊りも酒も禁止。それができない人間は汚れているとして、異端扱いした。つまり、カトリックがキリスト教の名前を汚した越権行為をしていたため、彼らのような、
浄化するべきだ!もっと神聖であるべきだ!
とよりシビアな態度を求めるような人間を出してしまったわけだ。しかし度が過ぎた極端なカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり『普通の心を持った清教徒(プロテスタント。カトリックではない者)』は、居場所がなくなり、アメリカ大陸に新天地を求めた。そして北アメリカ大陸に移入したということなのである。彼らは貧しく、渡航費はなかったが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのである。そうしてできたのが『アメリカ合衆国』だ。彼らは英語を喋るだろう。彼らの大元はイギリス人なのである。
ローマ帝国の歴史を考えるということはそれだけ重要なことだ。この時ネロがキリスト教を完全に抹殺していれば、アメリカ合衆国という国もなかったのかもしれない。また、ヒュパティアが死ぬこともなく、天文学的な真実がもっと早くに明らかになった。そして私も、両親にキリスト教を強いられることはなかったのかもしれない。
ペテロは映画でネロに逆さ十字架にかけられるが、これは『伝わっている事実』として、史実通りとなっている。伝承によれば紀元67年に殉教したとされている。同じ伝承によると、ペテロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてきた。彼が
「主よ、どこへいかれるのですか(Domine,quo vadis?)」
と問うと、イエスは
「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」
と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペテロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス、「どこへ行くのですか」の意)がこの映画のタイトルだ。
補足分析(構造限定)
認知・心理構造
・帝国秩序が「普遍的常識」として共有され、新興信仰の倫理が逸脱として認識される構造
・殉教という行為が、恐怖の克服と意味付けを同時に担う心理的転換点として機能する
倫理・価値観の揺れ
・国家秩序の維持と、良心・信仰への忠誠が正面衝突する局面
・暴力による抑圧が、結果として信念の純化と拡張を生む逆説
社会構造・制度背景
・皇帝権力と都市統治が、宗教的少数派を統制対象として扱う構造
・迫害が地下化・共同体化を促し、信仰ネットワークを強化する力学
言葉・定義・前提破壊
・「反逆」「迷信」といったラベルが、倫理的主張を政治犯罪へ変換する装置として働く
・問い(Quo vadis?)が、進路選択ではなく責任の所在を問う言語行為へ反転する前提の転倒
現実対応構造
・映画内の構造は、権力と良心が衝突する局面で、殉教が物語的・制度的転換点となる歴史全般と同型である
論点抽出(問い)
- (問い1)権力は、どの段階で信仰を脅威と見なすのか
- (問い2)迫害は、なぜ信念を消すのではなく強めるのか
- (問い3)殉教は、倫理的選択か戦略的行為か
- (問い4)問いかけの言葉は、人の進路をどう規定するのか
- (問い5)少数派の良心は、どこまで社会を変え得るのか
人間理解ポイント
・人は秩序が揺らぐと異質を排除する
・信念は抑圧下で純化されやすい
・物語は行為に意味を与える
・問いは行動を方向づける
抽象コア命題(普遍層)
- 命題1:(迫害は信仰を消すのではなく拡張することがある)
- 命題2:(権力は良心を統制しきれない)
- 命題3:(問いは選択の責任を可視化する)
誤認リスク補足
・本作を単純なキリスト教賛美/ローマ批判として読むのは誤り
・史実の正確性論争に終始すると、思想的転換構造が見えなくなる
・殉教の美化と、迫害構造の分析を混同しやすい
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