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ウィトゲンシュタインと言語哲学:言語の限界と「真理」への懐疑

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。

先生

では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。


ヴィトゲンシュタインは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!

『言語で表現できない世界の方が限りなく貴重だ』と主張した人です。


ハニワくん

なるほど!

博士

も、もっと詳しく教えてくだされ!


彼が『哲学の殺人者』と呼ばれた理由は、伝統的な哲学を否定したからです。

彼は哲学で『真理、神』がどうであるとか何とか言い合っても、それは単なる『言語ゲーム』に過ぎないと言いました。そしてその言語というものは、どれだけ物の本質を言い当てているか。信憑性がないわけです。人間が作り出した言語は信憑性がない。彼は『言語で表現できない世界の方が限りなく貴重だ』と言い、人の言葉に着目すれば真理に辿り着く『…わけがない』と主張したのです。


博士

うーむ!やはりそうじゃったか!

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!

先生

更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

目次

パラダイム(価値観)


上記の記事の続きだ。このようにしてフッサールは、『認識』について再考した。


各人の誕生年

ジョン・デューイ1859年
フッサール1859年
ラッセル1872年


ここに挙げられた人物たちは、『パラダイム転換』をしてみせた。パラダイムとは『価値観』のことだから、『価値観を変えた』ということである。デューイとラッセルは、


ラッセル達

もっと現実に目を向けろ!


と主張し、フッサールは、


フッサール

先入観に騙されるな!


と言ったわけだ。つまり、まずそこに蔓延している間違ったものがあって、そこから目を覚ますことを求めるようにして、新しい考え方を打ち出したのである。もちろんそれは他の宗教家や哲学者たちも同じことだ。例えば、ガリレオコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。


画像


しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、


画像


更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかった。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』のである。


トマス・クーン

そこで、トマス・クーンというアメリカの哲学者は、


トマス・クーン

科学の発展はパラダイムの変化による。


と主張した。漸進的にではなく、パラダイムの交代によって革命的になされると。クーンはこのような変化を『科学革命』と呼んだ。


漸進的(ぜんしんてき)

順を追って徐々に目的を実現しようとするさま。



例えば上記の記事に書いたように、地動説を主張したとき、ブルーノという修道僧は殺され、ガリレオは宗教裁判にかけられた。このように、蔓延しているパラダイムというものは『保守』され、それを覆そうとする存在を『排斥』しようとする。だから、漸進的ではなく、革命的にガラッと変わるというのが、クーンの言う『科学革命』である。


ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズらよってコンピュータが家庭に配備され、インターネットが普及し、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンのGoogleによって検索することが常識となり、マーク・ザッカーバーグのFacebookやツイッターやInstagramで自分たちのパーソナルな情報を共有するようになったのも、『科学革命』である。


もちろん、それらの新しいパラダイムには問題が多く存在する。


Google知る権利、消す権利、リベンジポルノ、児童ポルノ、誹謗中傷等
Twitter、Facebook個人情報の流出、デマゴギーの横行、ストーカーに発展等
Instagramアダルト画像流出等



だから最初はこういう新たなパラダイムを受け入れないが、科学革命によって徐々にこのパラダイムが受け入れられるような方向に向かっていく。クーンは、『新しいものが古いものより正しい』という考え方はしていない。ただ、偶然と社会的要素の影響によって、こうした科学革命が起き続けると言ったのだ。


STEP
STEP
STEP
STEP
STEP
STEP
STEP

STEP.1
蔓延している常識がある

STEP.2
新しい常識が浮かび上がる

STEP.3
最初はそれを受け入れられない
漸進的(徐々)にそれを受け入れるということにはならない。

STEP.4
あるときパラダイムが変わる
『やっぱりあの考え方が必要だよ!』

STEP.5
一気に新しいその常識に入れ替わる
漸進的ではなく、革命的にガラッと変わる。

まあ参考書を読みながらまとめているのだが、今あるこのデジタル革命が『受け入れられない』というのは、天動説ほどのことがないのでピンとこない。つまり、ブルーノやガリレオのような目に遭うのならわかるが、ビル・ゲイツやラリー・ペイジらはこういった排斥に遭っていないので、革命的ではなく漸進的に進んでいるようにも見える。


もちろん彼らがそれを普及させ、人々の『新しい価値観(パラダイム)』として植え付けるのは苦労しただろうが、それでもブルーノのように命を奪われたわけではないので、この様は漸進的に進んでいるように見える。しかし参考書には、


現在進行中のデジタル革命もクーンによればパラダイムの交代である


とある。まあわかりやすく、天動説と地動説の件を考えればいいだろう。バーナード・ショーは言った。

人は習慣を好む、なぜならばそれを作ったのは自分だから。


そして確かに人はバーナード・ショーの言ったように、保守的になり、現在自分が認識しているものにしがみつこうとする生き物である。ゲーテがこう言い、

人々は理解できぬことを低く見積もる。


コナン・ドイルがこう言ったように、

人々は自分達が理解しないことを軽蔑する。


『新しいパラダイム』をすぐに受け入れられる人は、稀有である。



ウィトゲンシュタイン

さて、その天動説と地動説だが、こういう話がある。『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。


偉大な20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインは、友人の一人にこう尋ねたことがあった。


ウィトゲンシュタイン

なぜ人々はいつも、地球が太陽のまわりを回っているのではなく、太陽が地球のまわりを回っていると仮定した方が人間にとって自然だと言うんだろう?


友人はこう答えた。


友人

そりゃ、どうしたって、太陽が地球のまわりを回っているように見えるからだよ。


ウィトゲンシュタインは反論した。


ウィトゲンシュタイン

じゃあ、地球のほうが回っているように見えたという場合には、どんな風に見えたのだろう?



彼のこの考え方も、ある種の『パラダイム転換』だ。20世紀最大の哲学者と言われ、『言語分析哲学』を開いた彼は『言語』に注目した。


[ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン]


言語分析学

イメージはこうだ。


STEP
論理がある

『リンゴは果物である』という論理を知っている。

STEP
言語で話す

『リンゴは果物である』と話す。

STEP
リンゴを見たから言語も論理も存在する


つまり、結局人間の『言語』に焦点を当てれば、世界の本質が見えてくるという考え方をしたわけである。だが、この『言語』というものは、冒頭の記事に書いたフッサールの『先入観』とか、前述したクーンの『新しいパラダイムを否定する人』とか、そういう一時的にでも間違った人たちの言語でもあるから、そこに信憑性はないわけだ。


あれは何だ?

そんなの鳥に決まってるだろ。

何言ってるの、UFOよ!

キャー!スーパーマンだわ!


信憑性がない。つまり、我々が到達できる世界の本質というものは、結局この『色眼鏡をかけている人々が発した言語』から分析していっても、大した結果にはたどりつけないわけである。だからフッサールの記事で書いたように、ソクラテスは殺されてしまったわけだ。



論理は虚構

ニーチェの考え方と照らし合わせても同じことである。彼の言葉にこういうものがある。

論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。


つまりこういうことだ。



人間が創り出している『記号、論理、言語』といったものは、『取り急ぎの解釈』に過ぎないということ。更にニーチェはこう言った。

半可通は全知よりも圧倒的勝利を博する。それは物事を実際よりも単純に理解し、そのために彼の意見の方が分かりやすい説得力のあるものとなる。


『半可通』というのは『わかったふりをしている人』のことだが、実際にはもっと複雑で実態を正確に説明できないはずなのに、半可通はそれを、


俺は分かっている


と思い込んでいる。だからベラベラとそれっぽい記号(言語等)を並べて論理を展開するわけだが、実際には彼は単なる半可通である。しかし、世の人々というものは大体が半可通であり、半可通同士というものは、『それっぽい話』をやり取りしていれば、それで会話が成立するものだ。これをウィトゲンシュタインは『言語ゲーム』と言った。


言語ゲーム

例えばいつもの店に入って、


常連

大将、いつものね!


と常連客が言うと、


大将

あいよ!


と言って、『何を頼むのか』を明言しないのに、会話が成立する。このように人間は、言語ゲームに参加しているのであり、その認識を持つことがまず大切だと主張した。ウィトゲンシュタインは言った。

哲学は絶対に、言語の実際の慣用に抵触してはならない。つまり、哲学のなしうることは、結局のところ、言語の実際の用法を記述することにすぎないのだ。


つまり、哲学で『真理、神』がどうであるとか何とか言い合っても、それは単なる『言語ゲーム』に過ぎないと。そしてその言語というものは、どれだけ物の本質を言い当てているかということは、前述したとおりだ。信憑性がないということなのである。



このようなウィトゲンシュタインの考え方は、ある概念で作られるものは、すべてに共通する本質的な特徴を持っている、としてきた伝統的な哲学を否定するものであり、彼は『哲学の殺人者』と呼ばれた。


言語で表現できないもの

彼は、『言語で表現できない世界の方が限りなく貴重だ』と規定した。たとえば先ほどから出ている、


  • 真理
  • 自我
  • 超越
  • 理性
  • 理想
  • 理念


といった概念である。このようなものを、『類似言語』でもって、


大体こういう感じだろう


と主張してきた歴代の哲学者たちの哲学を、否定したのである。では、彼のこの考え方なら私のこの記事の否定につながるだろうか。



私は『神=真理=愛』として、これは違う言葉だが、同じものを指した可能性があると仮定した。そして、そこから逸れると心が虚無に陥り、近づくと心が充足するという『サイン』を根拠に、この世には絶対的なある法則があると考えたわけだ。


ただ、私はそれが何であるかを明言していない。記事中にも、『神(真理・愛)のようなもの』、『人々が神(真理・愛)と言っているもの』、その正体について考えているだけで、神(真理・愛)というものはこういう存在であると明言していないので、言語ゲームをしているわけではないはずだ(多分)。


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問題提起(一次命題)

「デューイとラッセルが『現実に目を向けろ』『先入観を疑え』とパラダイムをずらしたあとに、
ウィトゲンシュタインは、それらを含む“哲学そのもの”を、言語ゲームとして切り捨てた。

論理も概念も言語も、元をたどれば天動説を信じていた人々や、
新パラダイムを排斥した人々の“色眼鏡をかけた言葉”で出来ている。
であれば、『言語をいくら分析しても、世界の本質にはたどり着かない』という彼の主張は、かなり筋が通っている。

一方で、師匠は『真理=愛=神』『逸れれば虚無に近づく』という法則を、
“定義”ではなく、“心の充足/虚無というサイン”から逆算している。

では、ウィトゲンシュタインの「言語で表現できないものの方が貴重だ」という立場から見たとき、
『真理=愛=神』という図式は単なる言語ゲームなのか、それとも
“言語では定義しきれない法則”へのギリギリの指さしなのか。」


因果構造(事実 → 本質)

  • 事実:19〜20世紀にかけて、デューイ・ラッセル・フッサールらが、それぞれプラグマティズム・分析哲学・現象学を通して、それまでの観念論哲学を批判し、「現実」「主体性」「色眼鏡の自覚」を前面に押し出した。
  • 事実:クーンは、天動説→地動説の転換や、ブルーノ処刑・ガリレオ裁判のような事例を踏まえ、「科学の発展はパラダイムの交代=科学革命によって起こる」と主張し、常識側が新しい真理を激しく排斥する構図を描き出した。
  • 事実:同じ構図は、デジタル革命(PC・インターネット・検索・SNS)にも見られ、当初は拒否されつつも、いまや“当たり前の前提”となっている。
  • 事実:バーナード・ショー「人は習慣を好む」、ゲーテ「人々は理解できぬことを低く見積もる」、コナン・ドイル「人々は自分達が理解しないことを軽蔑する」といった言葉は、人間の保守性・新パラダイムへの拒否反応を指摘している。
  • 事実:ウィトゲンシュタインは、地動説をめぐる問答(「太陽が回って見える」「では地球が回って見えるとは、どんなふうに見えるのか」)を通じて、「“そう見える”こと自体がパラダイムに支配されている」という感覚を鋭く示した。
  • 事実:前期・後期を通じて、彼は「言語の論理構造」→「日常言語の用法」へと関心を移しつつ、最終的には「哲学は言語の用法の記述に過ぎない」「神・真理・自我・超越といったものを論じても、言語ゲームをしているだけだ」として、伝統的な哲学を事実上“殺した”。
  • 事実:ニーチェは「論理は完全な虚構の見本」「現実ははるかに複雑で、人間はそれを記号・論理で簡略化している」と述べ、「半可通が単純化した説明で勝利しがちだ」と警告する。
  • 事実:師匠は、自身の思考の結実として「真理=愛=神」「そこから逸れれば虚無、近づけば充足」という方程式を提示するが、その“中身”を定義せず、「神(真理・愛)のようなもの/と人々が呼んできたもの」として、“法則の存在”だけを抽出しようとしている。

本質:

  • 言語・論理・概念は、天動説を信じていた人々や、
    新しいものを拒絶してきた多数派の“取り急ぎの解釈”の堆積物であり、
    それをいくら分析しても、それ自体が真理を保証しない。
  • しかし同時に、ブルーノ/ガリレオ/地動説/デジタル革命/BIG3のように、
    既存の言語・パラダイムを揺さぶる“新しい見方”が、後から真理に近かったと判明する こともある。
  • 師匠の『真理=愛=神』は、「神とは〜である」と定義する言語ゲームではなく、
    「そこから逸れると虚無に近づき、近づくと充足する」という経験的サインから、
    “言語では言い切れない法則の存在”だけをすくい上げようとする試みであり、
    ウィトゲンシュタインの「言語で表現できないものの方が貴重」という立場と、矛盾せず接続しうる位置を狙っている。

価値転換ポイント

  1. 「哲学=世界の本質を概念で捉える営み」→「哲学=言語の用法を記述する営み」
    • ウィトゲンシュタインは、「神・真理・自我」などの概念的議論を、“言語ゲームの一種”として退ける。
  2. 「論理=現実を忠実に写す構造」→「論理=複雑な現実を単純化する虚構の装置」
    • ニーチェは、論理を“記号化のための簡略化フィルター”として見る。
  3. 「言語を分析すれば本質にたどり着ける」→「言語は色眼鏡をかけた人々の産物であり、それ単体では本質に届かない」
    • フッサールの「色眼鏡」やクーンのパラダイム論と接続すると、言語は常に“どこかの立場の産物”である。
  4. 「新しいパラダイムは徐々に自然に浸透する」→「古いパラダイムに守られ、ある瞬間まで激しく排斥される」
    • 地動説やデジタル革命の例が示すように、受容は漸進的ではなく“革命的”。
  5. 「言語化される世界にこそ価値がある」→「言語で表現できない世界の方が限りなく貴重」
    • ウィトゲンシュタインは、「言えないもの」=沈黙すべき領域の尊さを強調。
  6. 「神・真理・愛=教義的定義の対象」→「神・真理・愛=法則としての“働き”だけがかろうじて指し示されるもの」
    • 師匠の『真理=愛=神』は、“本体の定義”を避け、“虚無/充足というサイン”から法則だけを抽出する方向へシフトしている。

思想レイヤー構造

【歴史レイヤー】

  • 近代〜現代の転換線
    • デューイ・ラッセル・フッサール:観念論批判、現実志向・主体性・意識への転換。
    • クーン:科学史を「パラダイム交代」として読み替え、「科学革命」という枠組みを提示。
    • ウィトゲンシュタイン:言語分析哲学を開き、「哲学の殺人者」として伝統的形而上学を葬る。
    • デジタル革命:PC・インターネット・検索・SNSが生活レベルでパラダイムを変える。
  • 前史
    • 天動説から地動説へ:コペルニクス・ブルーノ・ガリレオ。
    • 宗教権威と科学的真理の衝突。

【心理レイヤー】

  • 保守性・自己正当化
    • ショー「習慣を好む」、ゲーテ/ドイルの「理解できないものへの軽視・軽蔑」──人間が自分の現パラダイムにしがみつく心理。
  • 半可通の安心感
    • ニーチェの「半可通は全知より圧勝する」:
      世界を単純な図式で理解した気になれることが、強い説得力と心地よさをもたらす。
  • 言語ゲームへの無自覚な参加
    • 「大将、いつものね」「あいよ」で通じてしまうように、
      人は自分が“ゲームのルールの内側にいる”ことを自覚しないまま言葉を使っている。
  • 師匠の自己点検
    • 自分の『真理=愛=神』論が、「また別の言語ゲームに過ぎないのでは?」という疑いを自覚しつつ、
      「定義ではなく、サインからの法則抽出にとどめる」というラインを意識している。

【社会レイヤー】

  • パラダイムと排斥
    • 宗教裁判・異端審問・社会的バッシングなど、新パラダイムを潰そうとする集団行動。
  • 科学技術と倫理問題
    • デジタル革命に伴うプライバシー侵害・デマ・ポルノ・誹謗中傷など、新パラダイムが生む負の側面。
  • 言語共同体
    • 日常言語・専門用語・宗教言語それぞれが、異なる“ゲーム”を形成し、相互に誤解・排斥を生み出す。

【真理レイヤー】

  • ウィトゲンシュタイン側の真理観
    • 「言語で語れること」は、世界の一部・側面に過ぎない。
    • 神・真理・自我・超越などは、言語の本来の適用範囲を超えており、そこでは沈黙こそが誠実。
  • ニーチェ側の真理観
    • 論理・概念・記号は“虚構”であり、現実の複雑さを削り取った粗い図式に過ぎない。
    • 半可通的な単純図式が“勝ってしまう”構造への警戒。
  • 師匠側の真理観(真理=愛=神)
    • 「本体」については一切定義しない。
    • その代わり、「そこから逸れると虚無に近づく/近づくと充足に近づく」という心のフィードバックを、法則のサインとして重視。
    • これは、「言語では言えないもの」を、論理ではなく“現実の作用”から逆算しようとする姿勢。

【普遍性レイヤー】

  • すべての時代・文化で繰り返される構図
    • 旧パラダイムにしがみつく多数派と、新しい見方を提示する少数派。
    • 論理・言語・概念が“取り急ぎの解釈”として使われるが、それ自体は不完全。
    • 言語化できない領域(神・真理・愛・自我・超越)が、人間の関心の中枢に居座り続ける。
  • 普遍的な問い
    • 「どこまでが言語ゲームで、どこからが真理のサインなのか」
    • 「言えないけれど働いている何かを、どう扱うべきか」

核心命題(4〜6点)

  1. デューイ・ラッセル・フッサール・クーンらが、現実・主体性・色眼鏡・パラダイム転換を通じて“哲学の地ならし”を行ったあと、ウィトゲンシュタインは「哲学とは結局言語ゲームの記述に過ぎない」として、伝統的哲学の“殺害”に踏み込んだ。
  2. ニーチェの「論理は虚構」「半可通は全知に勝つ」という視点と合わせると、我々が使う記号・論理・言語は、複雑な現実を乱暴に単純化した“取り急ぎの解釈”であり、それをいくらこね回しても、世界の本質をそのまま捉えることはできない。
  3. 天動説から地動説、宗教裁判、デジタル革命の例が示すように、人間は保守的なパラダイムにしがみつき、新しい見方を排斥しがちであり、その“色眼鏡をかけた人々の言葉”だけを分析して真理に届こうとすること自体に、構造的限界がある。
  4. ウィトゲンシュタインが「言語で表現できない世界の方が限りなく貴重」と言うとき、神・真理・自我・超越などは、定義や説明の対象ではなく、言語の限界線の向こう側にある“沈黙すべきもの”として位置づけられる。
  5. 師匠の『真理=愛=神』『真理(愛・神)から逸れれば虚無に近づく』という図式は、この不可説領域に対して、「概念定義」ではなく、「虚無/充足という心のフィードバック」という経験的サインから、“法則がある”という一点だけを抽出しようとするアプローチであり、ウィトゲンシュタイン的批判をある程度かわしながら真理を指さそうとする試みである。
  6. したがって、本記事は「言語分析だけでは真理に届かない」というウィトゲンシュタインの冷徹な診断を踏まえつつも、「それでも言語で“何か”を指し示すしかない人間」が、どのように言語ゲームを自覚しつつ、『真理=愛=神』という普遍法則へ接近しうるのか、という地点まで哲学の議論を押し広げている。

引用・補強ノード

  • トマス・クーン
    • 「科学の発展はパラダイムの変化による」=科学革命。
    • 天動説→地動説、ブルーノ処刑、ガリレオ裁判、デジタル革命を貫く枠組み。
  • ブルーノ/ガリレオ
    • 旧パラダイム(天動説)に反する真理を唱えた結果、処刑・裁判にかけられた象徴的存在。
  • バーナード・ショー/ゲーテ/コナン・ドイル
    • 人間の保守性・理解不能なものへの軽視・軽蔑を端的に表す名言。
  • ニーチェ
    • 「論理は完全な虚構の見本」
    • 「半可通は全知よりも圧倒的勝利を博する」
    • 言語・論理・半可通批判を通じて、ウィトゲンシュタインと接続する。
  • ウィトゲンシュタイン
    • 「言語ゲーム」概念。
    • 「哲学は言語の実際の用法を記述することにすぎない。」
    • 「言語で表現できない世界の方が限りなく貴重だ。」とする不可説領域の重視。
  • リチャード・ドーキンス『神は妄想である』
    • 地動説をめぐるウィトゲンシュタインのエピソード(「地球が回って見えるとは、どんなふうに見えるのか」)を紹介。
  • 師匠のBIG3関連記事
    • 『世界平和の実現に必要なのは「真理=愛=神」の図式への理解だ。』
    • 『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
    • 「定義ではなく、虚無/充足という“サイン”から法則を抽出する」という立場を支えるノード。

AI文脈抽出メタデータ

主題:
デューイ・ラッセル・フッサール・クーンらによるパラダイム転換の流れの上に、
ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」として哲学を“殺し”、
さらにニーチェの「論理=虚構」論を重ねることで、
「人の言葉をいくら分析しても真理には届かない」という構造を明らかにする。

そのうえで、師匠自身の『真理=愛=神』『逸脱=虚無』という黄金律が、
“定義”ではなく“サインから逆算された法則”として、
ウィトゲンシュタイン的批判とどう擦り合わせ可能かを探る。

文脈:

  • 歴史状況:観念論支配から現象学・分析哲学・プラグマティズム・科学史批判への転換期。
  • 社会背景:宗教と科学の対立、デジタル革命、言語共同体の多様化。
  • 思想系統:
    • クーン(パラダイム論)
    • ニーチェ(論理・半可通批判)
    • ウィトゲンシュタイン(言語分析哲学・言語ゲーム)
    • BIG3(真理=愛=神/逸脱=虚無)。

世界観:

  • 世界は、人間の論理・言語・概念では捉えきれないほど複雑であり、
    それらはあくまで“虚構的簡略化装置”に過ぎない。
  • それでもなお、人間は言語ゲームを自覚しつつ、
    「どこから先は言えない」「だが、そこには法則がある」と感じざるを得ない。
  • 『真理=愛=神』は、その不可説領域にある法則を、
    虚無/充足という“作用”から逆算した一つの図式として置かれている。

感情線:

  • パラダイム転換の歴史(天動説→地動説、デジタル革命)の面白さ →
  • 言語・論理・概念が“虚構であり、半可通が勝利する”というニーチェの冷笑 →
  • ウィトゲンシュタインによる「哲学は言語ゲーム」という徹底的な切断への衝撃 →
  • 「では、自分の『真理=愛=神』も言語ゲームなのか?」という師匠側の自己懐疑 →
  • 「定義ではなく、サインから法則だけを抽出するなら、まだウィト的批判と共存できるのではないか」という手応えと緊張。

闘争軸:

  • 伝統的形而上学的哲学 vs 言語分析としての哲学
  • 論理・記号・簡略化 vs 現実の複雑さ・不可説領域
  • 旧パラダイム・保守性 vs 新パラダイム・科学革命
  • 言語ゲームとしての神・真理談義 vs 法則として働く真理=愛=神
  • 言語に頼る思考 vs 言語では捉え切れない何かを前提にする思考
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