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戦国の「蝙蝠」像とは何か:長宗我部・毛利・龍造寺・島津の立ち回り

鉄砲・キリスト教伝来、大友宗麟


上記の記事の続きだ。九州の勢力において、


  • 龍造寺隆信
  • 島津義久


についてまとめた。だが九州には『九州三強』と言われる勢力がいて、後一人『大友宗麟』という人物がいた。なぜ彼が後回しになったのかというと、それは彼が『クリスチャン(キリシタン)』だったからだ。つまり、彼の話とともに、『キリスト教伝来』の話をまとめる必要があるのである。


[大友宗麟像(瑞峯院所蔵)]


まず下記の記事に書いたように、1500年代の日本は戦国時代だが、ヨーロッパでは『大航海時代』が幕開けしていた。


STEP
1487年

バーソロミュー・ディアスが初めて喜望峰を航海。

STEP
1492年

コロンブスがアメリカ大陸を発見。『地球平面説』が覆される。

STEP
1494年

スペイン・ポルトガルは進出先を激しく争うが『トルデシリャス条約』、『サラゴサ条約』を結び、勢力圏が取り決められた。

STEP
1497年7月

ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回ってアフリカ東海岸を北上。翌年5月、インド西岸のカリカットに到着した。

STEP
1500年

カブラル率いる第2回インド遠征艦隊は、途中で漂流し、ある大陸に到着した。これが『ブラジル』の発見だった。

STEP
1519年

マゼランが南アメリカ南端の海峡を発見。南太平洋を横切り、グアム島、フィリピンに達した。マゼランは亡くなるが、生存者はアフリカ経由でスペインに帰還することに成功し、太平洋横断、つまり『地球球体説』を実証した。

STEP
1519年

コルテスがハバナを出て、アステカ王国の首都テノチティトランに入り、1521年にアステカ王国を滅ぼした。

STEP
1531年

スペインの軍人ピサロがインカ帝国の内乱状態に乗じて乗り込み、1533年にはインカを滅ぼし、占領した。


ディアスを皮切りに、コロンブスが大きく打ち上げた大航海時代で、スペイン・ポルトガルはバラバラだった世界を一つにつなげ、我々が住むこの星は『本当に球体だった』ことが立証されるなど、世界では歴史を揺るがすとんでもない出来事が頻発していた。


そしてその流れを受け、1543年、日本の種子島には、ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝える。いわゆる、『鉄砲伝来』である。1549年には、スペイン(ナバラ王国)の宣教師ザビエルが来日し、ポルトガルと日本の交易が恒常化した。


日本人はこれまで発見された国民のなかでも、最もよい者である。異教徒のなかでこれほど優れた者はいないだろう。日本人は慎み深く、冨より名誉を重んじる国民なのだ。


ザビエルはそう言って日本人を高く評価したが、日本でキリスト教は簡単には広がることはなかった。日本の関心はキリスト教というよりも、ポルトガルとの貿易にあったのだ。そしてその後日本とキリスト教の問題は、『隠れキリシタン』等の問題につながっていく。


[フランシスコ・ザビエル像。17世紀初期に描かれた。神戸市立博物館所蔵。『中公バックス 日本の歴史 別巻2 図録 鎌倉から戦国』より。]


この時、ヨーロッパにはイスラム帝国であるオスマン帝国が勢力を上げていた。オスマン帝国の最盛期は、第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520年 – 1566年)の時代だから、ちょうどこの頃だということがわかる。


[スレイマン1世]


  1. ベオグラードを陥落させセルビアを平定
  2. 『モハーチの戦い』でキリスト教と連合軍を撃破し、ハンガリーを併合
  3. ウィーンを半月にわたり包囲
  4. ヨハネ騎士団を駆逐しロードス島を征服
  5. 『赤ひげ』の海賊ハイレッディンを傘下に入れる
  6. 『プレヴェザの海戦』でキリスト教徒連合艦隊を破る
  7. アラビア半島南岸を支配
  8. バグダードとアゼルバイジャンを支配下に収める


彼はスレイマンの意味通り『壮麗なる者』として国外からも羨望のまなざしで見られた。それが何を意味するかというと、実はオスマン帝国が地中海の制海権を握っていて、アジアからの輸入品に重税をかけたため、西欧諸国は公領を安く入手するためアジアと直接貿易を結ぶ必要があり、この時期にスペイン人はアメリカ大陸やフィリピンのマニラに、そしてポルトガルはアフリカ大陸から東へ向かい、インドのゴアを拠点にした。つまり、オスマン帝国の勢力が上がったことによって西欧諸国が直接『商売相手』に会いに行くことを強いられ、そして彼らがこの時代に南蛮貿易が活発化したのである。


南蛮貿易

1540年代から1世紀にわたって日本人と南蛮人 (スペイン・ポルトガル人)との間で行われた貿易。


更にこの時期は宗教的に、ドイツで『宗教改革(1517年)』が起きた時期でもあった。『ルター、カルバン、ツウィングリ』といった人物がキリスト教の腐敗に立ち向かい、新しい体制に改善しようと立ち上がったのである。



しかし、弾圧ばかりじゃなく、カトリックもまともな布教活動は行った。『イエズス会』初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラは、1534年にパリ大学の同志たち、フランシスコ・ザビエルらとともにモンマルトルで神に生涯を捧げる誓いを立て、イエズス会を結成。そして冒頭の記事に書いたように、日本へキリスト教を伝えにやってくるわけである。


もちろん利益目的に宣教師や布教活動をする者もいたが、キリスト教に入信する大名『キリシタン大名』も現れるようになった。彼らが保護した浄化舞tには、


  • 南蛮寺(教会)
  • コレジオ(宣教師の養成施設)
  • セミナリオ(神学校)


といった施設が建てられ、わずかな勢力ではあるが、西日本を中心にキリスト教が広がっていった。この時の文化交流によって、


  • パン
  • ボタン
  • 天ぷら


といった日本語が作られるようになる。これは元々この時に宣教師たちが話したポルトガル語が語源なのである。


日本で初めて鉄砲を入手したのは、種子島にいた島主、種子島時尭(ときたか)である。1542年、彼は父と対立するが、冒頭の記事に書いた南九州のドン、島津義久の父、島津貴久の調停で和解し、島津氏に仕えるようになる。その後、大隅の禰寝氏(ねじめうじ)と抗争し、屋久島に築城する。そして1543年に倭寇(わこう)が漂着し、鉄砲が伝えられた。


[愛知万博で展示された種子島の火縄銃]


ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝えるとあったが、彼らが乗っていた船は『ポルトガル船』ではなく『中国、明の商船』であり、明の商船といっても、その船は合法的なものではなく、倭寇の船だった。倭寇については下記の記事に書いたのでそちらで確認していただきたい。



さて、こうしてこの国に『鉄砲』と『キリスト教』が伝わった。この時日本は『戦国時代』であり、ヨーロッパは『大航海時代』だった。そんな宣教師、フランシスコ・ザビエルの影響を受けたのが、北九州のドン、大友宗麟だったのである。


1551年、宗麟はキリスト教に深い関心を持ち、同時にヨーロッパの進んだ文明や兵器に興味を持ち、海外貿易を盛んに行うようになった。同時期にルターらが『キリスト教の腐敗』に嫌気がさし、宗教改革として立ち上がったように、この時期の日本にも『仏教の腐敗』があったという。そうした理由もあって宗麟は本格的に洗礼を受けてキリシタンとなり、そして日向の仏教寺院を破壊するようにも命じているほどである。



宗麟が家督を相続したとき、冒頭の記事にあったように毛利元就が中国地方で勢力を得ていた。宗麟は肥後の名門菊池氏を滅ぼし、毛利元就は中国地方で有力者、大内氏を滅ぼし、お互いに強い勢力を持っていた。だが、宗麟と元就は密約によって和平を結ぶ。


大友宗麟

私は大内氏の問題に干渉しないよ!

毛利元就

よーし、じゃあ俺も豊前と筑前には干渉しないようにしよう!


こうして北九州は、中国地方からの影響を排除し、九州統一に目を向けることができた。そしてその後、


  1. 豊後
  2. 豊前
  3. 筑前
  4. 筑後
  5. 肥後
  6. 肥前


を支配し、伊予と日向も半国を領有し、大友宗麟は九州最大の大名になった。しかしその後、元就が密約を破って攻めてきたり、


  1. 筑前の秋月氏
  2. 肥前の龍造寺氏
  3. 一族の高橋鑑種(あきたね)、立花鑑載(あきとし)


らが宗麟に反旗を翻し、一時窮地に陥る。宗麟は何とかこれを駆逐するが、1570年には、勢いを上げてきた龍造寺隆信を再度打ち破るために肥前に攻め入るが敗れ、徐々にその勢力が弱体化してくる。1577年、日向の伊藤義祐(よしすけ)に依頼され、島津義久の勢力を追い払うために日向に出向くが、先ほど言ったように寺社、仏像を破壊しながらの進軍だったため、大友軍は心身ともに衰弱していて、島津軍に大敗。宗麟は『キリスト教王国』を夢見ていて、日向侵攻をしたのも、そこにキリスト教の理想郷『ムシカ』を建設するためだったという。


これを好機と見た龍造寺隆信が領地に攻め入り、膝元の豊後でも内乱が起きるなどして、窮地に陥る。1582年、その頃50歳を目前にしていた織田信長は、全国制覇まであとわずかというところまで来ていた。武田氏を滅亡させた信長は、


  1. 中国の毛利氏
  2. 四国の長宗我部氏
  3. 北陸の上杉氏
  4. 九州の島津氏


あとはこの勢力を制覇しさえすれば、天下統一の野望は成し遂げられたのだ。しかしその年の6月2日、『本能寺の変』によって信長が死亡。7月16日に、後継ぎを決める『清須会議』が行われる。この会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、信長の後継者である三法師がいる清州城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であった。三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として秀吉、勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができた。


三法師(織田秀信)

織田信長の嫡孫で、三法師は幼少期の名前である。彼は1580年に生まれたばかりだった。



この三法師(織田秀信)も、大友宗麟同様、後にキリシタン大名になる人物だった。


1584年、龍造寺隆信を破って島津義久は勢力を上げていた。冒頭の記事に書いたように、そこへ豊臣秀吉が介入し、大友宗麟との和平を命じるが、島津軍はこの秀吉軍を撃破し、豊後を制圧してしまった。


この時、なぜ秀吉が介入したかというと、宗麟が窮地に陥り、秀吉に救援依頼をしていたからだ。結局、島津軍が秀吉軍に降伏した直後、大友宗麟も生涯を終えた。1586年のこの時、大友宗麟にポルトガル人から『国崩し(大砲)』が贈られ、それが島津軍の攻撃において、大きな存在感を誇ったという。この大砲は、明治維新後に国に奉納され、現在は靖国神社に保存されている。


[フランキ砲「国崩し」(東京 遊就館蔵)。]


戦国時代の中心人物

北条早雲関東1432~1519年
北条氏康関東(相模国)1515~1571年
織田信長東海(尾張国)1534~1582年
佐竹義重関東(常陸国)1547~1612年
武田信玄甲信越(甲斐)1521~1573年
上杉謙信甲信越(越後)1530~1578年
浅井長政畿内(近江国)1545~1573年
三好長慶畿内(阿波国)1522~1564年
毛利元就中国(安芸)1497~1571年
大友宗麟九州(豊後国)1530~1587年
龍造寺隆信九州(肥前国)1529~1584年
豊臣秀吉東海(尾張国)1537~1598年
徳川家康東海(三河国)1542~1616年
長宗我部元親四国(土佐国)1538~1599年
島津義久九州(薩摩国)1533~1611年
伊達政宗奥州(出羽国)1567~1636年
[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]


目次

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論点構造タグ

(記事が扱うテーマ・思想軸・批判軸を抽出)

  • 世界史スケール(大航海時代・オスマン帝国・宗教改革)の波と、日本戦国のローカルな動きが一点で交わる瞬間としての「鉄砲・キリスト教伝来」
  • 鉄砲伝来とキリスト教(イエズス会)の流入が、
    • 南蛮貿易
    • キリシタン大名
    • 仏教寺社破壊
      にどう繋がったかという因果線
  • 大友宗麟という一人の戦国大名の中で、
    • 現実的な貿易・軍事技術志向
    • 信仰としてのキリスト教受容
    • 「キリスト教王国」構想
      がどう同居し、どこで破綻したか

問題提起(一次命題)

(本文冒頭〜導入部で提示された“問い”を圧縮)

鉄砲とキリスト教が日本にもたらされた時、それを最も積極的に受け入れた九州大名・大友宗麟は、なぜ「キリスト教王国の夢」と「戦国大名としての現実」のどちらも取りこぼすことになったのか。


因果構造(事実 → 本質)

(本文内の因果関係・構造変換・本質抽出)

  1. 世界の動き:大航海時代とオスマン帝国が作った「圧力」
    • オスマン帝国が地中海の制海権を握り、香辛料などアジア産品に重税 → 西欧が「陸路仲介抜きでアジアに出るしかない」状況になる。
    • その結果として、
      • ディアスの喜望峰到達
      • コロンブスの新大陸到達
      • ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓
      • マゼラン船隊の世界周航
      • コルテスのアステカ征服/ピサロのインカ征服
        → 世界の地図が「本当に球体」として結ばれ、ポルトガル・スペインの海上覇権と植民地支配が始まる。
  2. 宗教改革とイエズス会:ヨーロッパ内部の「浄化運動」が日本に届く
    • 1517年:ルターの宗教改革 → カトリックの腐敗批判がヨーロッパ全土に波及。
    • カトリック側も単なる弾圧ではなく、「まともな布教」のためにイエズス会を創設(ロヨラ+ザビエルたち)。
    • イエズス会宣教師がアジアに派遣され、その一人ザビエルが1549年に日本上陸。
    • ザビエルの日本観:
      • 「日本人は冨より名誉を重んじる」
      • 「異教徒のなかでこれほど優れた者はいない」
        → 日本は「布教しがいがある」対象としても、交易相手としても魅力的に映る。
  3. 日本側の受け止め:宗教よりもまず「貿易」と「武器」
    • 1543年:ポルトガル人を乗せた倭寇船が種子島に漂着 → 火縄銃=鉄砲伝来。
    • 日本側は、
      • キリスト教教義への関心より、
      • 南蛮貿易による銀・銅・硫黄・刀剣などとの交換、
      • 鉄砲・大砲といった軍事技術に強い関心。
        → 「信仰の輸入」というより「技術と商売のパッケージ」として南蛮が受容される。
  4. 大友宗麟:南蛮貿易とキリシタン大名への変身
    • 豊後の戦国大名として家督相続時点で、
      • 中国で大内氏を倒した毛利元就
      • 肥前の龍造寺
      • 南九州の島津
        などと地理的・軍事的緊張関係。
    • 宗麟は1550年代から南蛮貿易・キリスト教に強い関心を示し、イエズス会を保護。
    • 背景には、
      • 仏教寺院の腐敗への反発
      • 西欧の先進兵器(鉄砲・大砲)や文化への憧れ
    • 洗礼を受けてキリシタン大名となり、日向では仏教寺院破壊を命じるなど「宗教的ラディカルさ」も見せる。
      → 「現実の富国強兵」と「理念としてのキリスト教王国」が同じ人物の中で結合する。
  5. 勢力拡大と密約:九州北部の覇者へ
    • 宗麟:肥後の名門・菊池氏を滅ぼして領土拡大。
    • 毛利元就:大内氏を滅ぼし、中国地方の大勢力化。
    • 両者は密約:
      • 宗麟「大内旧領には手を出さない」
      • 元就「豊前・筑前に手を出さない」
    • これにより大友は、
      • 豊後・豊前・筑前・筑後・肥後・肥前(一時的)
      • 伊予・日向南部の一部
        を支配し、「九州最大の大名」となる。
  6. 内外からの崩れ:龍造寺・秋月・島津との多正面戦
    • 密約を破って毛利が攻めてきたり、
    • 筑前秋月氏/肥前龍造寺氏/身内の高橋・立花一族が反旗。
    • 宗麟はいったんこれを鎮圧するが、
      • 龍造寺隆信に対する再遠征に失敗
      • 日向侵攻(伊東義祐の要請)では、
        • 仏寺破壊を伴う苛烈な進軍で兵の心身が疲弊
        • 島津軍に耳川の戦いで大敗。
    • 宗麟は日向に「キリスト教理想郷ムシカ」を築きたかったが、現実の戦場では信仰と兵站の乖離が露呈する。
  7. 豊臣政権との接続:救援要請と「国崩し」
    • 島津義久の北上と龍造寺の圧力で、大友は豊後本国も危うくなる。
    • 宗麟は豊臣秀吉に救援を求める → 秀吉が九州介入の大義名分を得る。
    • 一方でポルトガルから贈られた大砲「国崩し(フランキ砲)」が島津軍への反撃で活躍。
    • しかし決定打は結局、豊臣秀吉の九州征伐と島津義久の降伏。
    • その直後、宗麟も生涯を終える。
      → 南蛮技術(大砲)+キリスト教網を最大限活用しても、「全国区の怪物(秀吉)」の前には局地的な抵抗以上にはなり得なかった。

価値転換ポイント

(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)

  • 大友宗麟=「キリシタン大名」「寺社破壊の狂信者」
    → 実像は、
    • オスマン帝国・宗教改革・大航海時代という世界史圧力の中で、
    • 南蛮貿易とキリスト教を「富国強兵+理念」の両面から取り込もうとした、極めて時代感度の高い戦国大名。
  • キリスト教伝来=「ロマンチックな宗教史イベント」
    → 実際は、
    • 鉄砲・大砲・銀の流れを伴う「軍事技術+商業ネットワークセット」の輸入であり、
    • キリスト教はその一部として機能した側面が強い。

思想レイヤー構造

【歴史レイヤー】

  • 世界:
    • オスマン帝国の膨張 → 西欧の海洋進出 → 大航海時代 → 南蛮人が日本へ
    • 宗教改革 → イエズス会創設 → ザビエル来日
  • 日本:
    • 戦国時代末期の南蛮貿易・鉄砲伝来
    • キリスト教伝来とキリシタン大名の出現
    • 九州三強(大友・島津・龍造寺)の興亡と、豊臣政権への収束

【心理レイヤー】

  • 大友宗麟の内面:
    • 西洋文明とキリスト教への純粋な憧れ/信仰
    • 同時に「九州統一」「キリスト教王国建設」という、現実と理念の二重の野心
    • 寺社破壊による「既存秩序への破壊者」としての自己イメージ
  • ザビエル側の認識:
    • 日本人への尊敬 → 布教対象としての期待値の高さ

【社会レイヤー】

  • 南蛮貿易を受け入れた港町(特に西日本)を中心に、
    • 新しい商品(パン・ボタン・天ぷらなど)
    • 新しい宗教(キリスト教)
      が流入し、「日本語の語彙レベル」にまで変化を与える。
  • 一方、仏教寺院の腐敗と、キリスト教による寺社破壊が、
    • 地方社会の宗教秩序を揺るがし、
    • 後の禁教政策・隠れキリシタン問題の伏線になる。

【真理レイヤー】

  • 「文明の輸入」は常に中立ではなく、
    • 富・技術・思想が一体となった「パッケージ」として入ってくる。
  • それを受け取る側が、
    • どの層(武力・経済・信仰)を重視するかで、
    • その文明の「意味」が大きく変わる。

【普遍性レイヤー】

  • グローバル化の波に置き換えれば、
    • 現代の技術輸入(AI・SNS・金融商品)も、
    • 当時の鉄砲・キリスト教・南蛮貿易と似た構図を持つ。
  • 受け手側が「理念」だけ、あるいは「金儲け」だけに偏ると、
    • 大友宗麟のように、内外からの反発・疲弊でシステムが破綻するリスクがある。

核心命題(4〜6点)

(本文が最終的に語っている本質の骨格)

  1. 鉄砲とキリスト教の伝来は、日本戦国史の中で「ヨーロッパの大航海+宗教改革+オスマン帝国」という世界史の大潮流が、九州の一角にぶつかった結果である。
  2. 大友宗麟は、その潮流を最も積極的に取り込み、「貿易」「軍事技術」「新宗教」を武器に九州最大の大名となったが、同時に仏教寺院破壊と多正面戦によって、自らの基盤を掘り崩していった。
  3. 南蛮文明は、日本にとって「救い」と「崩壊」の両方の種を持っており、その扱い方を誤ると、宗麟のように外圧を呼び込み、自身の時代を終わらせる引き金ともなり得る。

引用・補強ノード

(本文に登場する偉人・理論・名言が果たした“役割”)

  • ザビエルの日本評
    • 「日本人は冨より名誉を重んじる」
      → 日本人の武士道的性格を、外部観察者が言語化した証言として機能。
  • オスマン帝国スレイマン1世の軍事行動
    → 西欧を「海へ押し出した構造要因」として、南蛮貿易・鉄砲伝来の遠因を説明。

AI文脈抽出メタデータ

主題:
鉄砲・キリスト教・南蛮貿易という外来文明のパッケージが、九州大名・大友宗麟の野望と結びつき、日本戦国史にどのような変化とひずみをもたらしたか。

文脈:
16世紀・大航海時代/宗教改革期の西欧と、戦国末期の日本。南蛮貿易の本格化とキリシタン大名の出現、豊臣政権成立直前の九州情勢。

世界観:
世界史の巨大な潮流と、日本ローカルな戦国大名たちの野心・信仰・現実政治が複雑に絡み合い、「鉄砲」と「キリスト教」が単なる異国趣味ではなく、構造を変えるファクターとして働いた世界。

感情線:

  • ザビエルの日本人への賛嘆
  • 宗麟のキリスト教王国への憧れと、現実の戦場での敗北
  • 秀吉の介入によって、野望も理想郷構想も一気に収束していく哀しみ

闘争軸:

  • 旧仏教勢力 vs キリスト教勢力
  • 九州ローカル覇権(大友・龍造寺・島津) vs 全国統一を目指す豊臣政権
  • 信仰としてのキリスト教 vs 富国強兵の手段としてのキリスト教
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