
上記の記事の続きだ。
- 東北の伊達政宗
- 信濃の上杉謙信と武田信玄
- 関東の北条氏康
- 東海の今川義元
- 畿内の浅井政長、朝倉義景、斎藤道三・義龍、足利義昭、松永久秀
- 中国の毛利元就
- 四国の長宗我部元親
- 九州の大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久
といった全国各地で猛威を振るった猛者たる戦国大名の話をまとめた。いよいよここでこの戦国時代の中心人物、『織田信長』の話に突入する。そしてその中で、時代は『室町時代(室町・戦国時代)』から、『安土桃山時代』へと変わっていくことになる。安土桃山時代とは、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
- 織田信長の居城であった安土城(滋賀県蒲生郡安土町)
- 豊臣秀吉の居城伏見城のあった京都市伏見区桃山地域
それがこの時代の名前の由来である。特に豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。つまり、だとすると前半の織田信長が猛威を振るった時代は安土時代だ。しかし、その時代はわずか30年。『1573年 – 1603年』の30年が、この安土桃山時代なのである。まずは、安土時代の歴史について見てみよう。


上記の記事にあるように、駿河には今川義元がいて、東海に君臨した東海地方の大大名になっていた。彼には実際には先見の明があり、武田信玄と同盟を結び、勢いのあった武田氏と組んだことで、織田信長の父、信秀を三河で撃破。1548年のことだった。1551年に彼が死んだあとも、尾張に勢力を広げ、今川氏の全盛を築いた。
1534年、父信秀が今川義元に敗れた14年前に、織田信長はこの世に生まれた。父が亡くなったときは、信長は17歳。父の葬儀には、
- 茶筅髷(ちゃせんまげ)の頭
- 袖なしの着物
- 獣皮の半袴
- 腰に荒縄
といったいで立ちで現れ、位牌に抹香を投げつける始末。それを見た多くの者が、
信秀様が築いた勢威もこれまでか…。
と嘆いたという。だが、これについてはかつて『蝮の道三』と言われた斎藤道三が、興味深い話をしている。下記の記事に書いたように、1548年に斎藤道三は娘を織田信長に嫁がせる。つまり、父信秀が死ぬ間際、14歳か15歳であった信長は、斎藤道三と面会しているのだ。道三は信長と初めて会う時、家臣は信長のいでたちを笑ったが、道三の感想は違った。『蝮の道三』と言われて恐れられたはずの自分を前にしても動じなかった信長を見て、
斎藤道三…わしの息子どもは、いずれあのたわけに臣従することになるだろう。
と言ったという。そして10年後、道三の言ったとおりの展開になったのである。


『室町・南北朝時代』には『婆娑羅(ばさら)』という伝統的権威を無視し、傍若無人なふるまいをする人がいたが、この時代から奇抜な格好をしている者はいて、彼らは『悪人』とは紙一重の存在だった。当時、衣服や髪形は身分や職業を表す標識であり、これを自在に変える行為は『権力への反抗』を意味した。それゆえに、そうした伝統と常識があたり一面に蔓延しているその時代にあって、そういう立ち居振る舞いをした織田信長は珍しく、そして常識人からすると『一家滅亡の未来』しか見えなかったのである。
ソクラテスは言った。
信長を見た多くの『常識人』は別におかしくない。普通だ。だが、普通では群を抜くことはできない。それは、とりわけ斎藤道三のような猛者たる戦国武将はよく理解していたようだ。
18歳で家督を継いだ信長だったが、地侍たちは次々と離れて、8万石にまで自国の領地を減らすことになってしまった。だが、8年の時間をかけ、信長は織田一族の争いを経たうえで、ようやく尾張国を制した。
先ほどの今川義元の記事を見ても分かるように、父信秀を討った義元は、1560年に信長のいる尾張国へ侵攻した。しかし、信長は『うつけ』のあだ名通り、うつけのように時を過ごした。祭りに行っては踊り、子供のように魚を獲った。まるで『のぼうの城』における『のぼう』である。
2012年に公開された『のぼうの城』は、実在した領主・成田氏一門の成田長親が守った忍城(おしじょう)を守るストーリーである。Wikipediaにはこうある。
周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ、親しまれる人物であった。天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を攻略せんとしていた(小田原征伐)。豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東各地の支城の城主に籠城に参加するよう通達した。支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、手勢の半数を引き連れて小田原籠城作戦に赴きつつも、裏では豊臣側への降伏を内通していた。
のぼうは、この時の信長のように『うつけ』のような行動を取った。畑に行っては村人とはしゃいで踊り、敵兵の前で田楽踊りをするなどして、奇策を貫き続けた。飄々としていて、全く心が読めない『うつけ』『のぼう』の城は、間違いなく秀吉、石田三成軍の手に落ちる。誰もがそう考えた。だが、のぼうは『でくの坊』ではなかったのだ。
冒頭の記事では、『清須会議』の映画についても書いたが、その名の通り、織田信長はこの『清須城』を軸にして行動していた。今川義元の軍がこちらに向かっているという情報は、逐一この清須城に伝えられたわけだ。だが、信長はまるでのぼうのように、飄々としている。家臣の誰もが、信長を頼りにすることができず、誰もがこの城は落ちてしまうと考えた。
しかし、信長は夜明けが近づくと態度を豹変させ、静かに動き出した。7~8騎の小姓のみを従えて出馬し、一気に熱田まで駆け抜け、善性寺砦と中島砦に布陣した。すると、どこで聞きつけたのかその頃には続々と兵士たちが駆け付け、3000人ほどの大きな部隊となっていた。だが、それでもそれは義元軍の10分の1ほどの人数しかいなかったのだ。
信長の元に連絡が入った。義元本隊が、桶狭間の北『田楽狭間』で休憩をしているというのだ。これを勝機と見た信長は叫んだ!
織田信長者ども!天佑だぞ!目指すは義元の首のみ!
兵士おおーっ!!
天佑(てんゆう)
思いがけない幸運、天の助けのこと。
信長軍は潜んでいた山中から義元の本陣に突っ込み、見事義元の首を獲ったのだ。今川義元。彼が『凡将』と揶揄され、低い評価が下されるのは不当だ。ただただ織田信長という人物が鬼才そのものだっただけなのである。

その頃信長は27歳。彼がどれだけの人物だったかということは、今までに登場した数々の名のある戦国武将たちの物語を注意深く読めば見えてくるというものである。時系列は崩れるが、書いた記事、上の地方から順番に降りていって考えてみよう。
『遅れてきた名将』伊達政宗の時代にはすでに信長はこの世にはいなかったが、跡を継いだ秀吉、家康がいた。政宗は秀吉の上洛要請を無視し続けていて、秀吉の家臣、芦名氏を滅ぼしたことから秀吉に追い込まれ、結局秀吉に降参する形で彼の下につく。
では、越後の龍『軍神』上杉謙信はどうか。『領土欲のない聖将』とも言われた彼は、信心深く、慈悲深い武将だった。だが、晩年になってとうとう領土的野心に火が付いた。その理由はなにか。そこにいたのが、織田信長なのだ。謙信は、信長の圧倒的な勢いに飲み込まれるかのように、自分のルールを崩したのだ。彼は、『領土欲のない聖将』とも言われたが、そのプライドの高い謙信の心を揺り動かした男こそ、織田信長その人だったのである。


では、甲斐の虎、武田信玄はどうか。彼は相当な人物だった。
- 北条氏
- 本願寺
- 里見氏
- 佐竹氏
らと同盟を組み、あるいは提携し、なんとか謙信の動きを封じ、背後を守った上で、
- 15代将軍足利義昭(よしあき)
- 越前の朝倉
- 近江の浅井
- 大和の松永
- 延暦寺
- 園城寺
らと手を組み、『信長包囲網』を作り上げた。信長は、一時は謙信、浅井、信玄らと同盟を結ぶのだが、その後将軍の義昭を中心に『反信長勢力』が作られる。つまり、彼らはそれだけ信長を脅威と考えていたのだ。束になってかからないとかなわない。そう考えていたのである。
だが、見通してはいけないことがある。実は、それぞれの逸話的にどうしても信長が乱暴者で、謙信が信心深いという印象があるが、実は意外な話がある。信長は、焼き討ち(略奪、暴行)を行わせなかったのである。信玄も謙信も、焼き討ちは行わせたのだ。軍神と言われ崇められた謙信でさえも行き届かなかった所に、目が行き届いた。それが織田信長だったのである。


では信長に、
織田信長三代悪事を働いた老爺だな!
と呆れられた松永久秀はどうか。彼は確かに手が付けられない暴れん坊だった。下剋上をした後、13代将軍義輝を殺害し、信長にも何度も逆らい、最期は、信長が欲しがった名器『平蜘蛛(ひらぐも)』の茶釜を道連れにして爆死。しかし、信長を殺すのではなく自殺するしかなかった。それを考えると、信長という人物は『将軍よりも手の届かない存在』だということがわかるワンシーンなのである。
越前には朝倉義景(あさくらよしかげ)がいた。しかし、かつて支援してくれた浅井のために支援して信長軍と戦うが惨敗し、最期は近江のは浅井長政とともに自害した。
畿内の斎藤道三の話はしたが、彼の息子、義龍はどうか。記事にあるように、自分が利用されているだけに過ぎないと考えた義龍は、異母弟の孫四郎(まごしろう)と喜平治(きへいじ)を殺害。道三と対立するが、道三には2000人、義龍には17000人の兵士が集まり、美濃が斎藤ではなく土岐を選んだことにより、長良川の戦いで義龍軍は、父、道三軍を打ち破った。
義父である道三の援助に織田信長がやってくる前に片づけた義龍は、美濃を支配。その後、信長は美濃を落とそうとして義龍と対立するが、信長は義龍を落とすことはできなかったという。最期は1561年に、病死する形でこの世を去った。そしてその3年後には美濃が信長の手に落ちた。


この1560年前後というのは、先ほどの『桶狭間の戦い』があった時代だ。唯一、この美濃の攻略は苦戦するが、この斎藤義龍以外の人物は、すべてこの織田信長という人物を驚異として扱い、信長の存在によってその命を諦める者、そして、自分の理念を曲げる者までいた。また、この義龍に関しても彼が病死していなければその後どうなっていたかは分からない。圧倒的な力を持った信長軍に、義龍がどれだけ耐え抜いたかということも疑問だ。
美濃は苦戦したが、秀吉が墨俣城(すのまたじょう)を築城するとそれを機に一気に勢いを上げ、斎藤義龍の子、斎藤龍興(たつおき)の居城であった井ノ口城を岐阜城と改め、そこに本拠を移した。

1568年、信長の力でようやく上洛でき、15代将軍となった足利義昭だったが、信長は将軍としての権威を制限したのだ。
足利義昭くそぅ信長め!せっかく将軍になれたというのにこれでは意味がないではないか!
として、前述した『信長包囲網』を計画した。『四面楚歌』とはこのことである。しかし、
- 武田信玄の急死
- 朝倉義景の消極的行動
によってこれが頓挫し、崩壊した。
四面楚歌(しめんそか)
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、 助けや味方がいないこと。
武田信玄は死ぬ間際に皇位っている。
武田信玄自分は一事として望みを達せぬものはなかったが、旌旗を帝都に挙げえなかったことは妄執の随一である。
旌旗(せいき)
はた。
帝都
皇居のある都。
妄執(もうしゅう)
迷いによる執着。
もし13歳年上だった武田信玄という人物が信長と同い年で、彼が病に倒れることがなければ、彼は信長の最大の敵となっていたことは間違いないだろう。だが、彼のライバルだった、信長とほぼ同年代の上杉謙信は信長に強く影響を受け、そして信玄は彼と互角だったなら、先ほどの『焼き討ち』、あるいはこの『包囲網』のことを考えても、やはり織田信長という一大エネルギーは、稀代のものだったのだ。
信玄も謙信も焼き討ちを許した。許さない選択肢もあった中、許したのだ。そして信長は許さなかった。残酷なイメージのある信長の方が、治者の徳を備えていたのは、そう多くの者が知らない事実である。
1573年7月、『信長包囲網』の黒幕、足利義昭を京から追放し、信長はついに室町幕府を滅亡させる。戦国時代とは、国家の秩序を維持する能力を失った幕府の正体が露見した『応仁の乱(1467年)』で、実力で領地を獲得する戦国大名が活躍する時代だ。それは、上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。


守護代なんでい今更!もうこのあたりの実権を握ってるのは俺た
国人そもそも俺たちを舐めてるのが気に入らねえな!俺たちは武士だぞ!
百姓我々が強いられる時代はもう終わりだ!一揆を起こすんだ!
そうして始まった戦国時代。そしてその戦乱の世で頂点に立とうとしていたのが、織田信長その人だった。彼はとうとうこの国に二大巨頭の一つとして君臨していた『幕府』『朝廷』の内の前者を滅ぼしたのだ。そして、足利尊氏から15代続いた室町幕府はこの時滅亡したのだ。冒頭の記事に書いたように、『1573年 – 1603年』の30年が『安土桃山時代』だ。それがちょうどこの時。250年続いた室町時代は、ここで終わりを迎えたのであった。

戦国時代の中心人物
| 北条早雲 | 関東 | 1432~1519年 |
| 北条氏康 | 関東(相模国) | 1515~1571年 |
| 織田信長 | 東海(尾張国) | 1534~1582年 |
| 佐竹義重 | 関東(常陸国) | 1547~1612年 |
| 武田信玄 | 甲信越(甲斐) | 1521~1573年 |
| 上杉謙信 | 甲信越(越後) | 1530~1578年 |
| 浅井長政 | 畿内(近江国) | 1545~1573年 |
| 三好長慶 | 畿内(阿波国) | 1522~1564年 |
| 毛利元就 | 中国(安芸) | 1497~1571年 |
| 大友宗麟 | 九州(豊後国) | 1530~1587年 |
| 龍造寺隆信 | 九州(肥前国) | 1529~1584年 |
| 豊臣秀吉 | 東海(尾張国) | 1537~1598年 |
| 徳川家康 | 東海(三河国) | 1542~1616年 |
| 長宗我部元親 | 四国(土佐国) | 1538~1599年 |
| 島津義久 | 九州(薩摩国) | 1533~1611年 |
| 伊達政宗 | 奥州(出羽国) | 1567~1636年 |

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論点構造タグ
(記事が扱うテーマ・思想軸・批判軸を抽出)
- 「戦国オールスター」を一通り見渡したうえで、なぜ最終的に織田信長が“頂点候補”として抜け出したのかの再評価
- 信玄・謙信という二大名将と比較したときの、信長の
- 天賦の戦略センス(桶狭間ほか)
- 統治者としての“徳”(焼き討ち禁止、秩序志向)
という二重の突出点
- 戦国の「猛獣性」が一気に解放された百年史の中で、
- 室町幕府滅亡
- 安土桃山時代の開幕
を一気に引き寄せた「鬼才」の位置づけ
問題提起(一次命題)
(本文冒頭〜導入部で提示された“問い”を圧縮)
同じ戦国の怪物である武田信玄・上杉謙信らを差し置き、なぜ織田信長だけが「幕府を倒し時代を変える存在」として抜け出し得たのか。そこにあった「天賦の才」と「治者の徳」とは、いったい何だったのか。
因果構造(事実 → 本質)
(本文内の因果関係・構造変換・本質抽出)
- 若き日の「うつけ」像と、斎藤道三だけが見抜いたポテンシャル
- 信長、父の葬儀に茶筅髷・半裸に近い格好で登場し、抹香を位牌に投げつける → 家臣団・一族から「家は終わり」と見なされる。
- しかし、道三だけは面会時の信長の態度・胆力を見て、
- 「自分の息子たちはいずれあの“たわけ”に従う」
と評する。
→ 「常識的評価(愚か者)」と「本質評価(大器)」が真っ向からズレていること自体が、信長の異質さを示している。
- 「自分の息子たちはいずれあの“たわけ”に従う」
- 桶狭間:うつけの仮面を脱いだ瞬間と「天佑」の掴み方
- 今川義元:信秀を破り、駿河・遠江・三河を押さえる東海の大大名。
- 1560年、義元が尾張に侵攻 → 信長は表向きは祭りや遊びに興じる「のぼう系うつけ」を演じ続ける。
- しかし義元本隊が桶狭間北の田楽狭間で休んでいる情報を得るや、
- 少数騎で先行 → 3,000まで兵が集結
- 「天佑だ、狙うは義元の首のみ」と一点突破で急襲
- 10倍の兵力差をひっくり返し、首級を挙げる。
→ 単なる奇襲ではなく、 - 情報処理(状況把握)
- タイミング選択
- 目的の一点集中(首狙い)
という“ゲーム設計”そのものに天賦の才が現れている。
- 信玄・謙信・その他諸将との比較:同盟・包囲網を組ませるほどの「脅威値」
- 武田・上杉・浅井・朝倉・本願寺・松永・延暦寺・園城寺などが「信長包囲網」を形成。
- これは「正面から一対一では勝ち筋が見えない」からこその多正面包囲。
- 上杉謙信は「領土欲なき聖将」と称されるほど自制していたが、信長の勢いを前に晩年は領土的野心を抑えきれなくなる。
- 武田信玄ですら、「帝都に旗を立てられなかった」ことを妄執と語るレベルの大望を抱きつつも、病没で“信長との決着”に至れなかった。
→ 「信玄・謙信クラスですら信長を脅威と認識し、包囲網を組んでなお殺し切れなかった」という事実が、信長の異常な強度を裏付ける。
- 焼き討ち禁止という「治者の徳」:暴力の使い方の次元が違う
- 一般イメージ:信長=残酷・破壊者、謙信=清廉な軍神。
- しかし本文では、
- 信玄も謙信も「焼き討ち(略奪・暴行)」を許可した一方、
- 信長は焼き討ちを部隊に許さなかった(比叡山焼き討ちなど“戦略的破壊”と、場当たり的略奪を区別している)。
→ 「暴力は使うが、無差別では使わない」という線引き=統治者としての感覚が、同時代の多くの武将より一段上にある。
- 室町幕府滅亡と「安土桃山」への橋渡し
- 義昭の将軍就任(信長の後押し) → しかし権威を制限。
- 義昭はこれに反発し、信玄・朝倉・浅井・松永・寺社勢力とともに信長包囲網を構築。
- 信玄急死・朝倉消極姿勢などで包囲網が崩壊。
- 1573年、信長は義昭を京から追放 → 足利尊氏から続いた室町幕府(約240年)が滅亡。
→ 「応仁の乱」で機能不全を晒した幕府を、実力で完全に畳んだのは信長であり、ここから1573–1603の安土桃山時代が始まる。
価値転換ポイント
(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)
- 「信長は謙信・信玄より残酷だった」
→ 実際には、- 戦略的破壊は行っても、場当たりの略奪・焼き討ちは抑制した「治者としての徳」があった。
- 「うつけ=無能」という常識
→ 信長の場合、「うつけ」は- 常識をあえて踏み外すことで敵と身内両方の思考を撹乱する“演出”であり、
- 道三のような観察者だけが見抜けた「天賦の才のカムフラージュ」でもあった。
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 室町末〜戦国:
- 応仁の乱 → 守護家内紛 → 下剋上 → 各地の戦国大名台頭。
- 信長期:
- 桶狭間勝利 → 美濃攻略 → 岐阜城遷座 → 義昭擁立・上洛 → 包囲網 → 義昭追放 → 室町幕府滅亡 → 安土桃山時代の前半を形成。
【心理レイヤー】
- 信長:
- 若年期の“うつけ”行動の裏にある強烈な自己確信と、他者の評価への無頓着。
- 決定的な場面で一気にギアを上げる「静から爆発」への切り替え能力。
- 同時代の武将:
- 信玄:帝都に旗を立てられなかったことを「唯一の妄執」と語るほどのロマンと未練。
- 謙信:領土欲なき聖将でありたい自負と、信長に刺激されて抑えきれなかった野心。
【社会レイヤー】
- 応仁の乱以降、
- 上(将軍・管領・守護)同士の権力争いにかまけている間に、
- 下(守護代・国人・百姓一揆)が力をつけ、リヴァイアサン性(猛獣性)を解放。
- その「猛獣の時代」の頂点候補として、信長が圧倒的な存在感を持つ。
【真理レイヤー】
- 「常識」は、ソクラテスが指摘したように「繰り返された噂に過ぎない」ことが多い。
- 真に時代を変える者は、
- その常識と自分を同一化せず、
- あえて「愚か者」「うつけ」と見なされる位置に身を置きながら、
- しかし決定的瞬間に“結果”だけで常識を塗り替える。
【普遍性レイヤー】
- 表面的なイメージ(乱暴/残酷/うつけ)と、
- 本質的な能力(設計力・統治感覚・暴力のコントロール)の差異を見抜けるかどうかは、
- 現代におけるリーダー評価にもそのまま通じる。
核心命題(4〜6点)
(本文が最終的に語っている本質の骨格)
- 織田信長は、桶狭間に象徴される「戦術的鬼才」であると同時に、暴力の線引きを徹底する「治者の徳」を備えた、戦国でも稀有な存在であった。
- 武田信玄や上杉謙信といった名将でさえ、信長を一人では倒しきれず包囲網を組むしかなかったという事実が、信長の“脅威値”と時代変革性を示している。
- 室町幕府が応仁の乱で実質死んでいたとはいえ、それを法的・実質的に葬り去り、新時代(安土桃山)を開いたトリガーを引いたのが信長である。
- 「うつけ」として蔑まれた若年期と、「鬼才」として恐れられた後年は矛盾しておらず、むしろ同じ人格の別側面であり、そのギャップこそが信長の天賦の才の証左である。
引用・補強ノード
(本文に登場する偉人・理論・名言が果たした“役割”)
- ソクラテス
- 「噂は繰り返されれば真実に見える」という趣旨 → 「うつけ」評価がいかに常識の産物であるかを示す引用。
- 武田信玄の臨終の言葉
- 「すべての望みを成し遂げたが、帝都に旗を立てられなかったことだけが妄執」
→ 信玄クラスの大望と、それでも届かなかった「天下」への距離感を示す。
- 「すべての望みを成し遂げたが、帝都に旗を立てられなかったことだけが妄執」
AI文脈抽出メタデータ
主題:
戦国大名たちの群像の中で、織田信長だけが持っていた「天賦の戦略センス」と「暴力を律する統治者としての徳」に焦点を当て、室町幕府滅亡から安土桃山時代の開幕までの構造を読み解くこと。
文脈:
- 時代:室町末〜戦国末期(応仁の乱〜室町幕府滅亡)。
- 世界:日本列島内部の戦国大名間抗争。
- 対象:織田信長を中心に、武田信玄・上杉謙信・浅井・朝倉・斎藤親子・松永久秀・足利義昭らとの関係史。
世界観:
「人間に本来眠る猛獣性(リヴァイアサン)」が各地で爆発した戦国という百年の嵐の中で、
- ほとんどの者は局地的覇者にとどまり、
- ごく少数(信長・秀吉・家康)が“時代そのもの”を作り替えた、という視座。
感情線:
- 若き日の信長への嘲笑 → 桶狭間でのカタルシス。
- 信玄・謙信・義景・松永らが信長に翻弄され、あるいは折れ、あるいは自滅していく哀切。
- 室町幕府という長命の体制が、静かに息絶え、30年の短い「安土桃山」が一気に時代の空気を塗り替えていく高揚と不安。
闘争軸:
- 旧秩序(室町幕府・伝統的守護) vs 下剋上の戦国大名たち。
- 戦場の「猛獣性」 vs 統治者としての「徳と線引き」。
- 常識的評価(うつけ/乱暴) vs 結果でしか見えない本質(鬼才/治者)。


































