
上記の記事の続きだ。さて、そうして七代将軍家継の時代が到来したが、なんとその家継もわずか7歳で死去。すると、家康・秀忠・家光の3人の血を引く者がいなくなったので、分家である『三家』の紀伊家から、徳川家康のひ孫であった徳川吉宗を将軍に迎え入れる。本来であればここで徳川政権が終わったと言っても過言ではないが、そうなったら困るわけだ。だからそうならないように、ここから特に『分家』を意識し、血が絶えないように工夫した。

[徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)]
この吉宗は、現代の世では『暴れん坊将軍』のモデルとしても有名だ。「将軍徳川吉宗が江戸市中を徘徊し大立ち回りを演じる」という斬新なテーマで始まったこのドラマは、当初の不安を押しのけて、一躍人気番組となった。その少し前にいた徳川光圀が『水戸黄門』であり、その少し後の話だ。
| 徳川光圀(水戸藩主) | 『水戸黄門』 | 1628~1700年 |
| 徳川吉宗(八代将軍) | 『暴れん坊将軍』 | 1684~1751年 |
下記の記事に、
獲れる米の量が増えれば別だが、土地にも限りがある。この時、鉱山の資源枯渇問題もそうだが、色々と『物事には限界がある』ということを感じ始めた時期だと言えるだろう。

と書いたが、その限界を更に強く感じ始めたのは、吉宗の時代だった。家康が幕府を開いてからすでに100年の時が過ぎていた江戸幕府は、時代の流れによる権威の薄らぎと共に、貨幣経済が発達して出費が増え、新田の開発が限界に達していた。
600年代に中大兄皇子が『農地(口分田)』を与えて、そこから班田収授として年貢を納めさせるというシステムを構築してから1000年の時が過ぎていたのだ。金や銀の発掘よりも確かに限界は長いが、この世は有限。土地の開拓ももう限界に達していたのである。

財政難の原因
- 貨幣経済の発達による出費の増加
- 新田開発の限界による租税の停滞
- 社寺の造営
- 大奥の華美
- 多数の旗本の登用
これを打破するためには、改革が必要だった。吉宗は徳川主流の華やかな血筋ではなかったため、『傾きかけた企業の再建を担う再建人』ように立ち振る舞い、無駄を削減して、少しでも売り上げを上げるように『従業員』を締め上げ、この財政難を乗り越えた。
具体的には、まず先代の新井白石らを退け、庶民らには年貢の増徴を課し、吉宗自身も贅沢をせずに、一日二食の質素倹約を務めた。町奉行の大岡忠相(ただすけ)や儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)など、優秀な人材を採用。『足高の制(たしだかのせい)』を制定し、人材の石高が役に対して不足したときには、臨時的に石高を足して、家柄の上下にかかわらず、優秀な人材を採用した。

[荻生徂徠(『先哲像伝』より)]
また、公事方御定書(くじがたおさだめがき)という裁判の判例集を作り、相対済し令(あいたいすましれい)という法令で、金銭の貸し借りの訴訟を当事者間で解決するように定め、目安箱を設置して民衆の声を拾い上げ、町火消を儲け、貧民の救済施設を作った。
また、『上げ米(あげまい)の制』として大名たちに年貢として納める米の量を増やさせ、その代わりに参勤交代を半減し、江戸の滞在期間を半年間にした。下記の記事に書いたように、三代将軍家光がやった参勤交代。これによって、大名の妻や子が江戸の屋敷に住み、大名自身は1年間江戸で暮らし、4月に領地に戻り、翌年4月に再び江戸に向かうというサイクルができる。自国と江戸の往復を義務付けるということ。
- 妻や子=人質
- 大名=監視下に置く
こういった目的がこの制度の根幹にあるわけだ。秀吉がかつて行った、
- 安定した税収の確保
- 領主の中間搾取の排除
- 刀狩り令
- 兵農分離
も、二代将軍秀忠がやった、
- 一国一城令
- 武家諸法度(ぶけしょはっと)
- 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
も、すべて根幹にある目的は『自分の政権の安定化』だ。今までの歴史を考えて、同じ轍を踏まないように、あらゆる方向から脅威となる存在を前始末的に排除し、戦国時代の二の舞にならないことはもちろん、徳川政権が末永く続くように考えたシナリオである。大名たちは、参勤交代の経費を自腹で払う必要があったため、藩財政を慢性的に圧迫した。

しかしそれでいいわけだ。徳川政権の脅威となる可能性がある地方の大名は、財政難に陥ってもいい。そして参勤交代で監視し、よりその脅威の増幅を抑制することができるわけだ。だからこの参勤交代が半減するということは、彼らが『脅威』として勃興する可能性の増幅を意味していたが、それよりも目の前の財政難を何とかするべきだったのだ。それほど追い込まれていたというわけだ。苦肉の策だった。
こうした吉宗の財政再建は『享保の改革』と言われた。だた、これだけでは足りず、商人に資金を出してもらって、結局新田開発にも着手。更に、年貢の徴収方法を、『収穫量に応じて年貢率を決める方法』から、『一定率の年貢を納めさせる』ようにした。しかし、冒頭の記事にも書いたように、
- 寛永・元禄文化の発展
- 道路の整備
- 金・銀・銭貨の流通
といった要因によって活性化した日本と国民は、『欲しいもの』が増えていた。江戸時代中期は江の島や弁才天が人気だったが、後期になると『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の主人公、弥次さん喜多さんの目的地である伊勢神宮を目指す『御蔭参り(おかげまいり)』が流行し全国的に寺社詣や、旅がブームになった。
下記の記事でも、『ただ生きていくために生きていた時代は、『満足』を追い求め、それが満たされると人々は『贅沢』を追い求めるようになった』と書いたが、文化や文明が発達するということは、その背景に『贅沢を追い求める欲深い人間』がいるわけだ。別の言い方をすると『別にする必要がないことに夢中になる人間』が増えるのである。

するとこういう現象が起こる。
国が繁栄し、様々な娯楽が活発化して人々の生活が豊かになるのはいいが、その一方で彼らの欲は強まることになる。欲とは『人間味』と表現することもできる。かつて、世界で奴隷が当たり前のように浸透していたことを考えると、奴隷のような欲を制限された人々には逆にこの人間味がない。こうした問題は人が人間味ある生活を送り始めた証拠でもあり、同時に社会問題ともなった。

したがって、吉宗は常にこの米相場を調整しなければならず、『米将軍』と言われることもあった。『享保の大飢饉』という凶作があった年には米相場が急上昇し、米問屋が襲撃される『打ちこわし』が起きるなどのパニックもあり、米が社会を左右する現実を目の当たりにする時代となった。
そこからほとんど変わらない時期、フランスでは『フランス革命』という世界を揺るがす大事件が起きていた。ルイ16世(在位:1774年5月10日 – 1792年8月10日)の時代にあったそれは、ルイ14世の『ヴェルサイユ宮殿』等の浪費から始まり、王妃、マリー・アントワネットの浪費と、彼ら中央にいる要人と、民衆にあまりにも距離が開きすぎたことが原因で巻き起こった革命だった。

[マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)]
当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。
| 国王 |
| 第一身分 | 聖職者 | 約12万人 |
| 第二身分 | 貴族 | 約40万人 |
| 第三身分 | 平民(市民、農民) | 約2450万人 |

『上(中央)を重んじて、下(民衆)をないがしろにする』と、こういうことが起こってもおかしくはないわけだ。しかしそうならなかったのは国民性もあるが、庶民の気持ちをよく理解していて寄り添い、自身も質素倹約に徹したことが大きかっただろう。彼の生活ぶりがどれだけ民衆に伝わったかはさておき、『気持ちは伝わる』ものだ。
だが確かに政策によってシビアな境地に立たされたのは確かであって、そういうことも『打ちこわし』に影響していると言えるだろう。だが、フランス革命のような大惨事にならなかっただけマシだった。もっとも、織田信長が戦国時代で全国に恐怖の爪痕を残し、それを豊臣秀吉が受け継いで圧倒的に全国を統一し、更にそれを引き継いだ徳川家康・秀忠・家光が武断政治によって『力づく』で脅威を抑え込み、江戸幕府の権威を作り上げたことも革命が起こらなかった要因と言えるだろう。
1978年(昭和53年)から2002年(平成14年)にかけて放送したテレビ朝日系『暴れん坊将軍』では、文字通り吉宗が大暴れする時代劇だが、実際の吉宗将軍には『暴れる暇』はなかったと言えるだろう。あの番組が25年間も続いたのは、奇策を打ち出したからだ。当時、
- TBS『8時だョ!全員集合』
- 日本テレビ『全日本プロレス中継』
- フジテレビ『オレたちひょうきん族』
といった他局の番組が人気を博していた。その中で生き残っていくためには、差別化を図り、そしてそのなかで独自性も打ち出す必要がある。そこで唐番組は、当時流行していた要素を取り入れ、深夜の娯楽番組『トゥナイト』から山本晋也監督がサングラス姿で登場したり、『アルマゲドン』が流行すれば彗星を近づけてみたり、あるいは『仮面ライダー』と将軍が一緒に並走するシーンなど、江戸時代にはあり得ない娯楽要素を取り入れ、盛り上げた。
結局あの番組は『テレビ番組』であり、その背景には『永続繁栄』と『視聴率争い』のためのあらゆる戦略が詰められていて、本家本筋をなぞるだけの物語にしては、あそこまで長い間人々の注目を浴びることはできなかったということなのである。
だが、九代将軍家重(いえしげ)(在任:延享2年(1745年) – 宝暦10年(1760年))になったときに、吉宗時代の年貢の増額によってやはり百姓一揆の件数が増加してしまった。

[徳川家治像(狩野典信画、徳川記念財団蔵)]
15年経ち、すぐにその子供である、10代将軍徳川家治(いえはる)の時代(在職:宝暦10年(1760年) – 天明6年(1786年))になる。老中の田沼意次(おきつぐ)が実権を握る『田沼時代』と言われたこの時代には、吉宗、家重が持ち直した財政状況は悪化してしまっていた。徳川家康・秀忠・家光が作った徳川の権威も、弱体化してしまっていた。
そこで田沼は貨幣経済が流通したことに目をつけ、米ではなく『金』を使ってこの財政残を切り抜けようと考えた。商人にお金を稼がせ、そこから税をとることで財源を確保しようとしたのだ。
| 吉宗、家重 | 米を使った社会の立て直し |
| 家治、田沼 | 金を使った社会の立て直し |
- 株仲間の公認
- 輸入中心の貿易に輸出要素を取り入れる(金銀の回収)
- 南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)の発行
- 蝦夷地開発(ロシア交易)
といった政策によって、経済的に豊かになるように画策した。南鐐二朱銀は、8枚で小判1両に換算でき、重さをその都度図らなくてもよくなり、経済の活性化を手伝った。下記の記事に書いたように、ロシアは18世紀後半に『不凍港』を求めて南下政策を取る。しかし、ヨーロッパが壁となり、方向転換を余儀なくされる。
地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。
そう考えたロシアは、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとする。しかし今度はそこで、日本と満州や朝鮮半島の主導権を取り合うことになり、『日露戦争』へとつながっていくわけだ。

[ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]

だがそれはまだここから100年後の話。まずロシアは1792年に使節ラクスマンが根室に、そして1804年には使節レザノフが通称を求めて長崎に来航。鎖国を死守していた日本は、これを機に千島列島を調査して蝦夷地を直轄化し、1809年には間宮林蔵が海峡を発見。彼はアイヌも根を上げる極寒の中、樺太が陸続きの半島ではなく『島』であることを確認した。その後、伊能忠敬とその弟子たちが全国の測量を行い、1821年には日本初の科学的実測に基づく日本地図が完成する。

[伊能忠敬が使用したとされる大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』(1919) p.322 より]
ちょうどこのあたりの時代から海外を意識するようになり、鎖国的な考え方の限界を少しずつ感じるようになった。そして、蝦夷地や琉球王国はこのあたりから『海外対策』も兼ねて、徐々に日本の内部に取り込まれ、下記の表にある年代の時に、『北海道、沖縄』となっていくのである。
| 蝦夷地が北海道に代わった年 | 1869年 |
| 琉球王国が沖縄になった年 | 1879年 |

ただ、こうした政策は一部の豪商と幕府の結託による賄賂政治を助長し、田沼政治は『金に汚い』という悪評をつけられてしまう。しかし実際には彼一人が『賄賂政治』の悪名を負っただけで、この時代は賄賂政治は当たり前のように行われていたという。
しかし、
- 浅間山の噴火
- 天明の大飢饉
が重なり、凶作によって米相場が高騰し、一揆、打ちこわしが頻発。田沼は、10代将軍家治が死去するとともに辞職することになった。
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論点構造タグ
- 徳川宗家の「本家血統断絶」と三家(紀伊)からの吉宗招致
- 江戸開幕から100年後に露呈した「土地・金銀・権威」の限界
- 享保の改革:米本位制の再調整と「米将軍」としての微調整地獄
- 参勤交代の半減と上げ米の制:安全保障と財政再建のトレードオフ
- 「米で立て直す吉宗」と「金で立て直す田沼」の対比
- 贅沢欲求の増大 → 米売り → 米安/物価高 → 打ちこわしという構造
- フランス革命との比較:同じ「財政難+格差」から別ルートに進んだ江戸
- ロシア南下・蝦夷地直轄化・伊能忠敬測量による「外部世界の接近」
- 時代劇『暴れん坊将軍』と本物の吉宗とのギャップ(娯楽の論理 vs 歴史の論理)
問題提起(一次命題)
- 「暴れん坊将軍」として描かれる徳川吉宗は、実際にはどのような制約と限界の中で、何をどこまで立て直せたのか。
- そして、「米で立て直す吉宗」と「金で立て直す田沼意次」という二つの路線は、江戸幕府の寿命に対してどのような意味を持ったのか。
因果構造(事実 → 本質)
- 本家断絶危機 → 紀伊家からの吉宗招致
- 家継が7歳で死去し、家康・秀忠・家光の直系血統が断絶。
- 「三家」から紀伊徳川家の吉宗を迎え入れ、徳川ブランドを保つ。
→ 本質:本来なら政権崩壊級のイベントを、「分家の本家化」という構造転換で乗り切った。
- 100年目の疲労:土地・金銀・権威の限界
- 中大兄皇子の口分田制から数えれば1000年、江戸開幕から100年で、新田開発もほぼ打ち止め。
- 貨幣経済の発達で出費増大、金銀鉱山も枯渇しつつある。
→ 本質:「土地+金銀で支える封建経済」は、拡張フェーズを終え、維持と配分のフェーズに入った。
- 享保の改革:吉宗の再建メニュー
- 新井白石ら先代ブレーンを退け、倹約・統治の引き締めへ。
- 自ら一日二食・質素倹約、年貢増徴、旗本リストラ的な登用抑制。
- 大岡忠相・荻生徂徠ら実務・思想面の優秀人材を積極起用。
- 足高の制で「家柄<能力」の採用を可能に。
- 公事方御定書で裁判の基準を明文化、相対済し令で私的債務紛争を当事者処理へ。
- 目安箱・町火消・貧民救済施設で、「民衆の声」と「都市のリスク」に応答。
→ 本質:支出削減・徴税強化・人材抜擢・法整備・福祉の「全部盛り」をやらざるを得ないほど、ギリギリの状況だった。
- 上げ米の制と参勤交代半減:安全保障 vs 財政
- 大名に年貢増量(上げ米)を課す代わりに、参勤交代を1年→半年滞在に緩和。
- 監視・財政圧迫機能を弱める代わりに、即金の米収入を優先。
→ 本質:「大名を痩せさせておけば安全」という原則を緩めるほど、目先の財政難が深刻だった。
- 文化発展と欲望の拡大 → 米市場の不安定化
- 寛永・元禄文化、街道整備、貨幣流通拡大により、娯楽・贅沢・旅ブーム(御蔭参りなど)が広がる。
- 「生存のための消費」から「贅沢のための消費」へ。
- その結果:
- 物価上昇 → 米を売って現金化 → 米が市場に溢れる → 米価下落 → 米支給層困窮
→ 本質:豊かさと娯楽の拡大は、同時に「米相場」という社会の土台を揺らすブーメランでもあった。
- 物価上昇 → 米を売って現金化 → 米が市場に溢れる → 米価下落 → 米支給層困窮
- 享保の大飢饉・打ちこわし → 「米将軍」としての微調整地獄
- 凶作で米が不足すると米価急騰、米問屋襲撃=打ちこわしが頻発。
→ 本質:吉宗の仕事の大半は、暴れることではなく「米価・年貢・民心の微調整」に費やされた。
- 凶作で米が不足すると米価急騰、米問屋襲撃=打ちこわしが頻発。
- フランス革命との比較:似た土壌、異なる結果
- フランス:宮廷浪費+戦費+重税→第三身分の怒り→革命・王族処刑。
- 日本:浪費や格差はあれど、吉宗は倹約と民意拾いを実践し、幕府の権威もまだ機能。
→ 本質:「上が下を完全に無視し続けたフランス」と、「一応は下を見ようとした吉宗政権」の差が、革命か非革命かを分けた。
- 田沼意次の登場:米から金へ軸足変更
- 吉宗・家重ラインで「米ベース」立て直し → 家治・田沼ラインで「貨幣経済ベース」にシフト。
- 商人に稼がせて税を取り、株仲間公認、輸出強化、南鐐二朱銀発行、蝦夷開発・ロシア交易など。
→ 本質:米本位制から、商業・貨幣中心の経済政策へと「時代に合った」構造変化を図った。
- ロシア南下・蝦夷地直轄化・測量 → 外の世界を意識する江戸
- ラクスマン・レザノフ来航→蝦夷調査・直轄化→間宮林蔵の樺太調査→伊能忠敬の日本地図完成。
→ 本質:鎖国の殻の内側で、すでに「外部世界との競争」を意識し始めていた。
- ラクスマン・レザノフ来航→蝦夷調査・直轄化→間宮林蔵の樺太調査→伊能忠敬の日本地図完成。
- 天災+飢饉+賄賂イメージ → 田沼失脚
- 浅間山噴火+天明の大飢饉→米高騰→一揆・打ちこわし頻発。
- 田沼の商業優遇政策は「賄賂政治」とラベリングされ、家治死去とともに失脚。
→ 本質:構造的には先進的だった田沼路線も、「天災+既得権の反発+イメージ戦」に敗れた。
価値転換ポイント
- 「名門本家が続くことが前提」 → 「分家も含めたネットワークで血統を維持する」
- 「土地を開けばいくらでも増税できる」 → 「土地も金銀も有限であり、配分と微調整が中心課題」
- 「参勤交代=統治の絶対装置」 → 「財政危機では削らざるを得ないコスト」
- 「改革=大ナタ」 → 「改革=相場・年貢・物流・民心をいじり続ける地味なチューニング」
- 「賄賂政治=田沼だけの悪」 → 「ほぼ全時代にあるが、悪役を一人に集約して物語化される」
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 家康~家継での本家血統ライン → 紀伊家からの吉宗招致。
- 享保の改革(米ベース再建) → 田沼時代(金ベース再建) → 外圧(ロシア)・蝦夷直轄・測量・近代への助走。
【心理レイヤー】
- 吉宗:本家でない自覚と再建担当としてのプレッシャー、「自分が贅沢できない」自制。
- 大名:参勤交代半減でホッとする一方、「年貢増加」の圧迫。
- 百姓・町人:文化の豊かさと重い年貢・物価高・飢饉への不安の両方を抱える。
- 田沼:先進的政策を試みるも、「金に汚い」のイメージに押しつぶされる政治家心理。
【社会レイヤー】
- 米本位制社会と貨幣経済の二重構造が、射程短い政策(年貢・相場調整)と長期構造(貿易・通貨)に分裂。
- 寛永・元禄からの文化成熟が、贅沢と欲望を拡大し、経済構造を変えていく。
- 蝦夷・琉球の編入準備としての直轄化・測量・対ロシアを見据えた周縁の再構成。
【真理レイヤー】
- 繁栄は必ず「限界」を内包し、遅かれ早かれ「資源の有限性」と向き合う局面が来る。
- 「上」だけが贅沢するか、「下」にもある程度の豊かさを回すかで、危機の形(革命/打ちこわし程度)が変わる。
- 経済政策は、「何で稼ぐか(米/金)」だけでなく、「誰が痛むか」「誰が得するか」のイメージ政治と不可分。
【普遍性レイヤー】
- 現代でも、「財政再建担当の首相・社長」が、人気よりも痛みを伴う調整役として登場する構図は同じ。
- 「景気をお金を刷って支えればいいのでは」という素朴な発想が、インフレ・格差拡大に繋がり得る構造も同型。
- 外圧(ロシア・米欧)をきっかけに、周縁を囲い込み、地図を描き直す動きは、現代の国際政治でも続いている。
- 大衆向けコンテンツ(暴れん坊将軍)が「史実」とは違う形で歴史人物を再ブランディングし、それがまた次世代の歴史認識を形づくる。
核心命題(4〜6点)
- 吉宗の本質的な仕事は「暴れること」ではなく、有限になりつつあった土地・金銀・米相場を延命させるための、終わりなき微調整だった。
- 享保の改革は、年貢増徴・倹約・法整備・人材登用・社会インフラ整備を総動員した「リストラ+再設計」であり、江戸幕府の寿命を確実に延ばした。
- しかし、米本位制だけでは変化する経済に対応しきれず、田沼意次は貨幣・商業・貿易へと軸足を移そうとしたが、天災と悪評により挫折した。
- フランス革命級の爆発が起きなかったのは、吉宗が倹約と民意拾いを通じて「上と下の距離」を完全には放置しなかったことと、徳川三代の武断が作った「恐怖と秩序の残像」があったためである。
- 「暴れん坊将軍」というイメージ作品は、そうした地味で複雑な歴史の上に、「痛みを伴う再建担当」をヒーローとして再構成したテレビ時代の産物であり、そこにもまた「視聴率と差別化」という別の経済ロジックが動いている。
引用・補強ノード
- 徳川吉宗:紀伊家から八代将軍として招かれ、享保の改革・上げ米の制・目安箱・公事方御定書などを実施。「米将軍」。
- 新井白石:吉宗の前のブレーン。正徳金銀、海舶五市新例、生類憐みの令撤廃などで環境を整えるも退陣。
- 大岡忠相・荻生徂徠:吉宗が登用した実務家と儒学者。
- 田沼意次:南鐐二朱銀、株仲間、蝦夷開発、ロシア交易など、貨幣・貿易中心の政策で幕府財政立て直しを試みた老中。
- ラクスマン・レザノフ・間宮林蔵・伊能忠敬:対ロシア・蝦夷直轄・測量・地図作りを通じて、外の世界を視野に入れた人物群。
- ルイ14世・ルイ16世・マリー・アントワネット:浪費と格差によってフランス革命を招いた絶対王政の象徴。
- 『暴れん坊将軍』制作陣:視聴率競争の中で、吉宗像を「時代劇×バラエティ」として再構成したテレビ的創作者たち。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
- 徳川吉宗の享保の改革を中心に、江戸開幕から100年後に露呈した土地・金銀・米本位制の限界、米と金を両輪とする立て直しの試み、外圧の始まり、そしてそれらがどのように「暴れん坊将軍」というポップなイメージとズレているかを描く。
文脈:
- 大化の改新〜口分田制〜班田収授→中世荘園制→戦国〜江戸初期武断〜文治政治〜享保の改革〜田沼時代〜対ロシア・蝦夷直轄〜明治の北海道・沖縄編入。
世界観:
- 歴史は「ヒーローの一撃」ではなく、「有限資源をどう配分し、どこまで延命させるか」という調整作業の積み重ねで動く。
- ポップカルチャーは、その調整の苦さを忘れさせる物語を提供しながらも、別のレイヤーで同じ「生存競争(視聴率・差別化)」を繰り広げている。
感情線:
- 本家断絶危機からの吉宗招致 → 「本家ではない再建人」としての緊張感。
- 倹約と増税の板挟み、米相場と一揆・打ちこわしに揺れる政権。
- 田沼の挑戦と失脚、天災と飢饉に晒される民衆の怒り。
- 一方で時代劇の中でだけ「気持ちよく暴れる将軍」を見る視聴者の解放感。
闘争軸:
- 本家血統 vs 分家・三家
- 米本位制 vs 貨幣・商業経済
- 財政再建 vs 社会安定(増税・倹約 vs 一揆・打ちこわし)
- 内向き鎖国 vs 外圧(ロシア南下)
- 史実の吉宗(調整役) vs テレビの吉宗(暴れん坊ヒーロー)


































