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織田信長の統治と革新:天賦の才と「治者の徳」を支えた戦略

本能寺の変


上記の記事の続きだ。1573年7月、『信長包囲網』の黒幕、足利義昭を京から追放し、信長はついに室町幕府を滅亡させる。戦国時代とは、国家の秩序を維持する能力を失った幕府の正体が露見した『応仁の乱(1467年)』で、実力で領地を獲得する戦国大名が活躍する時代だ。それは、上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。

そうして始まった戦国時代。そしてその戦乱の世で頂点に立とうとしていたのが、織田信長その人だった。彼はとうとうこの国に二大巨頭の一つとして君臨していた『幕府』『朝廷』の内の前者を滅ぼしたのだ。そして、足利尊氏から15代続いた室町幕府はこの時滅亡したのだ。冒頭の記事に書いたように、『1573年 – 1603年』の30年が『安土桃山時代』だ。それがちょうどこの時。250年続いた室町時代は、ここで終わりを迎えたのであった。

[根本中堂(国宝)と回廊(重文)]

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その後信長は、仏教を弾圧する。信長は比叡山に、

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と申し入れるが、比叡山は信長に抵抗し続けた。1571年、ついに信長は比叡山を焼き討ちし、これによって僧俗男女合わせて1600人が殺害されたという。信長は確かに無駄な焼き討ちはしなかったが、やむを得ない場合は徹底的にそれを行ったのだ。信長がやったことをまとめてみよう。

織田信長がやったこと

  1. 室町幕府の倒幕
  2. 仏教の弾圧(比叡山焼き討ち)
  3. 城下での楽市・楽座の施行
  4. 撰銭(えりぜに)による貨幣統一
  5. 兵農分離の進展による大規模な常備軍の創出
  6. 堺を武力で直轄領としてその経済力を取り込む
  7. 家臣に大名並みの支配権を与え、自身はその上位権力として君臨
  8. 鉄砲の大量導入
  9. キリスト教の保護

この比叡山焼き討ちや、一向一揆の弾圧は、『旧来の宗教勢力の弾圧と、武家の優位性の主張』の意味があった。

土一揆/徳政一揆民衆を中心とした蜂起。借金の帳消しなどを要求
国一揆国人(土着の武士)を中心とした蜂起
一向一揆一向宗(浄土真宗の信者)を中心とした蜂起

武士は所領である村落の支配・管理から解放され、信長の命令一下、戦争に専念することができた。信長はこうした家臣団を城下に住まわせ、機動的な軍隊を作った。また『楽市令』をだして、よそ者や新規参入者が自由に商売ができるようにし、城下町の繁栄に貢献。また、そのおかげで信長のもとには、全国の産物が豊富に集まり、食糧面でも豊かになった。

また鉄砲だが、当時の鉄砲生産地、

  1. 和泉の堺
  2. 近江の国友、日野

を支配下に置き、圧倒的な火力を得た。また、安土城に代表される築城術にもたけていて、軍師などと相談するわけでもなく、自分ひとりで巨大な店主という近世城郭のスタイルを生み出し、攻守ともに隙の無い戦略と周到な準備で、天下統一を本気で狙いにいった。

[安土城図]

冒頭の記事に書いたように、1543年、日本の種子島には、ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝える。1549年には、スペイン(ナバラ王国)の宣教師ザビエルが来日し、ポルトガルと日本の交易が恒常化した。そうしてこの国に『鉄砲』と『キリスト教』という新しい文化が入ったばかりだったこのころにおいて、いち早くそれを取り入れるあたりも、信長が常識や固定観念に囚われない自由人であり、現存する殻を打ち破るためのポテンシャルを十分に持ち合わせていることがわかるワンシーンである。

1575年、『長篠の戦』は起きた。三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。武田勝頼は、信玄の息子だった。1573年に死んだ信玄の跡を継いだ勝頼は、その2年後に信長・家康連合軍と設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)において合戦をしていたのだ。

[鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える場面の錦絵(楊洲周延作)]

勝頼は信玄の死の間際にこう言われていた。

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決起した勝頼は、美濃に侵攻して明智城を落とし、信玄が落とせなかった遠江の高神城を落とす。これにより、織田・徳川の甲信攻略を難しいものにするのだが、結局この『長篠の戦』に発展。そこで大敗した後は、美濃、遠江の拠点を失ってしまった。

ちなみにこの時に信長軍が使った『鉄砲三弾撃ち』という戦略だが、これは後世の創作の可能性があると言われている。要は、銃に弾を込めている間に一列目が出て、一列目が撃った後は二列目が前に出て、後ろに回った隊列は弾を込め、という具合に、3000挺(ちょう)の鉄砲を3段に分けて戦ったというものだが、実際には1000挺ほどしかなかったはずであり、当日の天気が暴風雨だったことなど、後から分かったいくつかの話をまとめると、どうも現実的ではないという。

[長篠合戦図屏風]

1576年、岐阜から琵琶湖東岸の安土に移し、そこに安土城を築いたころ、すでに信長は『信長包囲網』に関わっていた大名のほとんどを殲滅させていた。安土城は、支配領域を拡大するため、そして近江の軍事的な安定のために築城したものだった。

先ほどの記事、九州の大友宗麟の記事に書いたのはこうだ。1582年、その頃50歳を目前にしていた織田信長は、全国制覇まであとわずかというところまで来ていた。武田氏を滅亡させた信長は、

  1. 中国の毛利氏
  2. 四国の長宗我部氏
  3. 北陸の上杉氏
  4. 九州の島津氏

あとはこの勢力を制覇しさえすれば、天下統一の野望は成し遂げられた。つまり、これは後その6年後の話だった。しかし実は、1578年、その2年後にはすぐに上杉謙信が死亡してしまっていた。その後継争いに乗じ、

  1. 柴田勝家→越中
  2. 明智光秀、細川藤孝→丹波

へと侵攻し、これを平定。1582年のその頃、長篠の戦以後衰えた武田家も滅ぼし、逃げ場を失った勝頼は妻子と共に自害。これによって信長は、信玄が勝頼に言い残した『甲・信・上・駿』である、

  1. 信濃
  2. 駿河
  3. 甲斐
  4. 上野

を勢力範囲に収め、ついに毛利元就のいる中国地方に乗り込む準備が整ったのだった。その最前線にいたのは豊臣秀吉だ。秀吉は1581年に鳥取城を落とし、毛利方の清水宗治(むねはる)がいる高松城を攻囲し、毛利元就との戦いがいよいよ始まろうとしていた。しかしここで大きく歴史が動くことになる。その結果は、誰も予測することができないことだった。

1582年6月1日、明智光秀はその秀吉を支援するために、1万3000の兵を率いて、丹波から西に向かったはずだった。しかし、翌2日未明、彼は西ではなく、東の京、『本能寺』に向かっていた。

そこにいたのは、その毛利軍を支援しようとわずかな部隊と共に宿泊していた、織田信長がいた。そして信長が寝ている時、本能寺には火が放たれた。信長は、天下統一まであと一歩のところまで上り詰め、最期は内側からの謀反によって、生涯を終えたのである。

[「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画)]

では、明智光秀はなぜこういう行動に出たのか。

秀吉は備中で毛利戦、柴田と佐々は北陸で上杉、滝川と森は越後。信長の主である武将は京からは離れていて、徳川は堺にいるが遊覧中で戦闘態勢にない。ー今が絶好のチャンスだ!

彼は下剋上を夢見たのだ。だが、秀吉の動きは想像以上に早かった。話を聞きつけた秀吉はすぐに光秀を摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府長岡京市、乙訓郡大山崎町)において討ち、光秀は敗北(山崎の戦)。逃れる途中に土地の者に襲撃にあい、1582年のその年、明智光秀はあっけなくその生涯を終えた。

  1. 明智光秀の突発的な行動
  2. 明智光秀のあっけない死
  3. 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の迅速すぎる対応
  4. 秀吉のその後の行動

この歴史的な事件を通して、首をかしげる人々は多い。例えば、

信長に代わって天下統一をしようとした策士・秀吉が、光秀にあえて信長を倒させ、彼に罪を被せて討ち取り、『主人の敵を討った男』として信頼を勝ち取り、それを手土産にして成り上がろうとした、秀吉の策略だったのではないか?

と考えるわけだ。確かに先ほどの条件を考えると、そういう事実も現実的なものに見えてくる。実際のところは定かではないが、『信長包囲網』があったほどのその時、信長を討とうとする話はそこら中にあったはずだ。それに乗じて、利用した。秀吉はかつて、信長の『草履持ち』だった男だ。そこからそこまでの地位に成り上がった。そんな秀吉に疑いの目が向けられるのも仕方ないかもしれない。いや、それだけこの秀吉という人物も、信長同様に相当な逸材だったのだ。

渋沢栄一の著書、『論語と算盤』にはこうある。

かく列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所と目すべきものは、その勉強である。私は秀吉のこの勉強に衷心(ちゅうしん…心の奥底)より敬服し、青年子弟諸君にも、ぜひ秀吉のこの勉強を学んでもらいたく思うのである。事の成るは成るの日の成らずにして、その由来するところや必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がったのは、一にその勉強にある。

秀吉が木下藤吉郎と称して信長に仕え、草履取をしておった頃、冬になれば藤吉郎の持ってた草履は、常にこれを懐中に入れて暖めておいたので、いつでも温かったというが、こんな細かな事にまでわたる注意は余程の勉強家でないと、到底ゆき届かぬものである。また信長が朝早く外出でもしようとする時に、まだ供揃いの衆が揃う時刻で無くっても、藤吉郎ばかりはいつでも信長の声に応じてお供をするのが例であったと伝えられておるが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。

そうして信長は死に、そのすぐ後に彼を討った光秀も死に、ここから安土桃山時代の後半、『桃山時代』、つまり、豊臣秀吉の時代が始まろうとしていた。(安土桃山時代『1573年 – 1603年』)

[恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長]

Wikipediaにはこうある。

『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。

以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説もあり、(光秀が制止したというフィクションは除いて)諸説の補強説明に利用されることがある。

このあたりの話には、様々な諸説が飛び交っているようだ。

戦国時代の中心人物

北条早雲関東1432~1519年
北条氏康関東(相模国)1515~1571年
織田信長東海(尾張国)1534~1582年
佐竹義重関東(常陸国)1547~1612年
武田信玄甲信越(甲斐)1521~1573年
上杉謙信甲信越(越後)1530~1578年
浅井長政畿内(近江国)1545~1573年
三好長慶畿内(阿波国)1522~1564年
毛利元就中国(安芸)1497~1571年
大友宗麟九州(豊後国)1530~1587年
龍造寺隆信九州(肥前国)1529~1584年
豊臣秀吉東海(尾張国)1537~1598年
徳川家康東海(三河国)1542~1616年
長宗我部元親四国(土佐国)1538~1599年
島津義久九州(薩摩国)1533~1611年
伊達政宗奥州(出羽国)1567~1636年

[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]

目次

関連記事


論点構造タグ

  • 「戦国の頂点」に立ちかけた織田信長が、なぜ内側=明智光秀によって倒れたのかという構造的問い
  • 比叡山焼き討ち・一向一揆弾圧・楽市楽座・兵農分離・鉄砲・キリスト教…
    信長の“合理的改革”と“徹底的暴力”が同時進行したことの意味
  • 本能寺の変をめぐる
    • 光秀個人の怨恨説
    • 「秀吉黒幕/利用説」
      など、動機と構図の再検討
  • 室町幕府滅亡 → 安土桃山時代へのバトン → 直後に信長・光秀がほぼ同時退場し、秀吉が一気に主役へ躍り出る歴史のねじれ

問題提起(一次命題)

織田信長はなぜ、天下統一のカウントダウンに入った1582年、本能寺で味方であるはずの明智光秀に討たれ、その光秀もなぜ即座に秀吉に潰されたのか。この“謀反→即処断”の一連の流れの背後に、どのような構図と意図があったのか。


因果構造(事実 → 本質)

  1. 信長の天下取りコースと“旧秩序破壊”
    • 1573年:信長、足利義昭を追放し室町幕府滅亡 → 戦国時代から安土桃山時代へ。
    • 以降、
      • 比叡山焼き討ち・一向一揆弾圧
      • 楽市楽座・撰銭・貨幣統一
      • 兵農分離・常備軍化
      • 鉄砲大量導入
      • 堺や鉄砲生産地(堺・国友・日野)の直轄化
        など、「旧来権威の解体」と「経済軍事の合理化」を同時に進める。
        → 既存の宗教勢力・在地勢力から見れば、“時代を先に進める改革者”であると同時に“自分たちの存在理由を奪う破壊者”でもあった。
  2. 長篠・安土・信長包囲網崩壊まで
    • 1575年:長篠の戦いで武田勝頼に大勝 → 東海〜甲信の軍事バランスを信長・家康側に傾ける。
    • 1576–78年:安土城築城、政権の拠点を安土へ。
    • 武田・上杉・浅井・朝倉・本願寺・松永・寺社勢力による「信長包囲網」も、
      • 信玄の急死
      • 朝倉義景の消極性
        などで崩壊。
        → 1582年時点で、残る有力勢力は
      • 中国:毛利
      • 四国:長宗我部
      • 九州:島津
        程度になっており、「天下統一まであと一息」の状態だった。
  3. 光秀の進路変更:備中援軍から本能寺へ
    • 本来の指令:光秀は1万3千を率いて「秀吉の毛利攻めを支援するため西へ」。
    • 実際の行動:丹波から西進せず、反転して東へ → 6月2日未明、本能寺を奇襲。
    • 信長は少数の供回りで上洛中、ほぼ無防備 → 本能寺炎上、信長自害。
      → 「すべての主力が地方にあり、京はがら空き」という“歴史的な隙”を光秀が見逃さなかったことは確か。
  4. 秀吉の「中国大返し」と光秀のあっけない終幕
    • 光秀が信長を討ったことを聞いた秀吉は、即座に毛利と講和 → 取って返して「中国大返し」。
    • わずか十数日で山崎まで軍を進め、山崎の戦いで光秀軍を撃破。
    • 光秀は敗走中に土民に襲われて落命。
      → 「謀反→天下取りのステップ」には到底間に合わないスピードで秀吉に潰されたため、
      • 光秀黒幕説
      • 秀吉利用説
        が後世で語られる土壌となる。
  5. “黒幕秀吉説”が生まれる理由(本文視点)
    • 光秀の行動があまりに唐突、かつ
    • 秀吉の対応があまりに迅速、かつ
    • その後の出世カーブがあまりに急。
    • さらに、下積み時代の草履取り・徹底した気配り・異常な勉強量(渋沢栄一『論語と算盤』の評価)を踏まえると、
      → 「光秀の謀反に、秀吉がどこまで事前に関与/利用していたのか」は、想像の余地を多分に残す。

価値転換ポイント

(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)

  • 「本能寺の変=光秀の純粋な怨恨クーデター」
    → 時代状況とその後の秀吉の動きまで含めると、
    • 個人的感情だけでは説明しきれない“権力構造の転換点”として再解釈する必要がある。
  • 「信長=狂気の破壊者」
    → 比叡山・一向一揆弾圧だけでなく、
    • 経済合理化
    • 兵農分離
    • 軍事テクノロジー導入
      をセットで見ると、「壊しながら新しい秩序を設計する治者」としての側面が浮かび上がる。

思想レイヤー構造

【歴史レイヤー】

  • 室町滅亡(1573)→ 信長政権(安土)→ 本能寺(1582)→ 清須会議 → 秀吉政権(桃山)への橋渡し。
  • 戦国百年の「猛獣解放フェーズ」が、信長の死と秀吉の急伸によって“統合フェーズ”へ移行する節目。

【心理レイヤー】

  • 信長:
    • 常識を嫌い、自分の合理を貫く異常な一貫性。
    • 旧勢力の抵抗を見越し、先に叩き切る大胆さと冷酷さ。
  • 光秀:
    • 「忠臣」から「謀反人」へ振り切るほどの蓄積(屈辱・不満・危機感)。
    • ただし、天下取りを構想するには判断が甘く、詰めが致命的に足りなかった可能性。
  • 秀吉:
    • 草履取り時代からの徹底した“勉強と観察”。
    • 千載一遇のチャンスを逃さない反射神経と、後世「策略家」と見なされることを厭わないメンタル。

【社会レイヤー】

  • 応仁の乱 → 戦国の下剋上 → 室町の空洞化 → 戦国大名の分国支配 → 信長による「武家+市場+宗教」の再編 → 本能寺ショック → 秀吉の“全国一元化”へ。
  • 鉄砲・キリスト教など外来要素が、戦争スタイルと精神世界の両方に揺さぶりをかける。

【真理レイヤー】

  • 巨大な改革者はたいてい、「外からの敵」より先に「内側からの拒否反応」で倒される。
  • 歴史の大事件は、たいてい一人の善悪で語り尽くせず、
    • 個人の感情
    • 構造的圧力
    • 偶然のタイミング
      の交差点で発火する。

【普遍性レイヤー】

  • 本能寺の変は、
    • カリスマリーダー
    • その腹心
    • その後を継ぐ「二番手」
      の三角関係が破綻した典型例として、現代組織にもそのまま当てはめて考えられる。

核心命題(4〜6点)

  1. 本能寺の変は、信長個人の暴走に対する光秀一人の怨恨ではなく、「旧秩序の破壊者」としての信長に対する周囲の構造的反発と、権力空白を狙う動きが一点に噴出した事件である。
  2. 光秀は、主力が地方に出払っているという“歴史的な隙”を掴んだが、下剋上を天下取りまでつなげる視野と詰めを欠き、秀吉の中国大返しによって即座に歴史から退場させられた。
  3. 秀吉は、光秀の謀反に先立ってどこまで関与していたかは不明だが、少なくともその結果を最大限に利用し、「主人の仇を討った功臣」として一気に天下取りレースの最前列に躍り出た。
  4. 1573〜1603年の安土桃山というわずか30年の間に、室町的世界観は終わりを告げ、信長→秀吉→家康という三段跳びで“近世日本”の土台が一気に築かれていく。

引用・補強ノード

  • 渋沢栄一『論語と算盤』
    • 「秀吉最大の長所は、その勉強である」
    • 草履を懐で温める逸話や、朝早く必ず信長の呼びかけに応じた話を通して、“非凡な勉強家”としての秀吉像を補強。
  • 信玄の臨終の言葉(前記事より継承)
    • 「あらゆる望みを遂げたが、帝都に旗を立てられなかったことだけが妄執」
      → 信長がほぼ達成しかけていた「帝都を制する夢」の重みを示す背景。

AI文脈抽出メタデータ

主題:
本能寺の変を、

  • 信長の改革路線
  • 光秀の謀反
  • 秀吉の台頭
    という三者の力学から捉え直し、「なぜ信長は内側から倒され、その直後に秀吉が歴史の主役に躍り出たのか」を構造的に読み解くこと。

文脈:

  • 時代:安土桃山前半(1570年代〜1582年)。
  • 地理:畿内中心(安土・京都・備中高松城)。
  • 登場勢力:織田政権、足利幕府残滓、毛利・武田・上杉・寺社勢力など。

世界観:

  • 「戦国=猛獣が跳梁する百年」の最終盤で、
    • 信長が旧秩序を一気に壊し、
    • 光秀がその揺り戻しとして暴発し、
    • 秀吉がそのカオスを利用して“統一”へ整えていく、という三段構造。

感情線:

  • 信長の快進撃 → 包囲網 → それを突破してなお「あと一歩」。
  • 光秀の裏切りの衝撃と、「なぜ?」に対するモヤモヤ。
  • 秀吉の異常な速度でのカウンター → 歴史の主役交代の目まぐるしさ。

闘争軸:

  • 革命的リーダー(信長) vs 旧秩序の残渣+身内の抵抗(義昭・寺社・一部家臣)。
  • 個人の忠誠/怨恨(光秀) vs 構造としての権力遷移(秀吉の台頭)。
  • 「壊す者(信長)」から「まとめる者(秀吉)」へのバトンリレーを、誰がどう受け取り、誰が振り落とされたのか。
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