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秀吉『家康?利家?いや違う。わしの生きている間であっても黒田官兵衛なら天下を取れるぞ』

『陰の実力者』

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『武断派』福島正則、加藤清正、『文官派』石田三成らが対立!そして徳川家康が動き出す! 『武断派と文官派の対立』   上記の記事の続きだ。秀吉は   五奉行 五大老   の制度を作り、有力大名たちに重要な政策を合議させ、腹心たちに政務を分担...

 

上記の記事の続きだ。

 

ここまでの家康の行動


STEP.1
朝鮮出兵に行かずにリソースを蓄える

STEP.2
朝鮮出兵に不満がある大名を取り込む

STEP.3
脅威となる前田利家と小早川隆景が死去
同時期に秀吉も死んで知った。

STEP.4
武断派と文官派の対立を利用
武断派を手なずけ、石田三成を襲わせた。

STEP.5
大阪城西の丸に入る
豊臣秀頼の居住。これによって家康の権威と権力が強まった。

 

こうして家康は、着々と出世の道を構築し、まるでかつて秀吉がやってのけたように、今度は自分が王道コース以外のコースからまくり上げ、頂点に立つことを画策していたのだ。五奉行だった石田三成は、確かにそこで最も実力があるとも言われた人物だった。そして、秀吉の、秀頼と共に活躍すれば、王道コースとして豊臣政権の世襲で自分が大きく出世すると考えていた。しかし、その王道コースを無視して大きく力をつけたのが家康。ここに、

 

『異端派』徳川家康 VS 『正統派』石田三成(豊臣秀頼)

 

といった天下を分ける最大の構図が作り上げられた。それはかつて存在した、

 

『異端派』豊臣秀吉 VS 『正統派』柴田勝家(織田信孝)

[柴田勝家]

 

という構図と似たものだった。更に今回の構図をまとめるとこうなる。

 

『東軍』徳川家康&武断派 VS 『西軍』石田三成&文官派

 

家康には、朝鮮出兵でも活躍したその加藤清正らがついた。実は清正は、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こしていた。これに失敗するとさらに家康への接近を強める。ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。

 

そうして一時は家康から激怒され、疎遠になっていた清正は、この後にある『関ヶ原の戦い』において、『西軍』につく可能性も考えられたが、直前に家康から許され、『東軍』の兵力として戦うことが認められた。

 

[加藤清正]

 

石田三成は、五大老の一人である毛利輝元を担ぎ上げ、更に上杉景勝がついた。いうなれば、『五大老・五奉行』という『秀吉が残した相続にふさわしい権力者たち』の権力者争いが力づくの武力行使という形で始まったのである。

 

景勝が家康に逆らったのは、養父である『軍神』上杉謙信の影響が強かった。義を重んじた謙信の影響を受けた景勝は、家康のこうした異端的な行動が認められなかった。景勝と家康は上洛命令を出し、無視し、ということを端緒に対立し、家康は景勝が『領内の城を改修した』ことを口実に、謀反の疑いをかけ、上杉討伐軍を編成し、出陣した。だが、それを好機と見た石田三成が大阪を目指す。

 

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『石田三成、挙兵す』。つまり、石田三成は、徳川家康が『謀反の疑いのある上杉氏』を討つのとは違って、堂々と喧嘩を売ってしまった。現在においても喧嘩とは、先に殴った方が負けで、殴られた人がその相手をその後に殴り倒しても捕まらない。『正当防衛』が立証されるからである。家康は、

 

これで堂々と三成を潰せるぞ!

 

と考え、

 

馬鹿め!三成の岐阜城を落とすのは今だ!

 

そうして岐阜城を留守にした三成のいないうちに、逆に相手方の陣地を攻略したのだ。確かに、自分が率いている連合軍は自分の直属の兵ではなく、諸大名からなる連合軍で、戦いが始まればどうなるか分からなかった。しかし家康は、

 

大阪にいる皆々の妻子は、三成の人質となった。妻子の安全を図るために大阪に帰るのも、皆々の自由である。

 

という旨を諸将に伝え、

 

妻子の安全を確保したのち、志あれば、江戸に参られたい。

 

と続けると、豊臣恩顧の大名で、豊臣家の柱となるべき存在である福島正則が、家康と共に戦うことを宣言。こうして、加藤清正、福島正則といった実力者たちが次々と家康の下に集まり、家康の戦いの準備は整った。そして1600年9月15日、井伊直政・松平忠吉(ただよし)隊と、宇喜多秀家隊との銃撃によって、ついに東西両軍が衝突。天下分け目の戦い『関ヶ原の戦い』が始まったのである。

 

[東京国立博物館所蔵]

 

西軍 東軍
石田三成、毛利輝元 徳川家康
上杉景勝、宇喜多秀家 井伊直政、本多忠勝
小西行長、増田長盛、長東正家 福島正則、黒田如水・長政、細川忠興、加藤清正

 

この黒田如水というのは、おそらく松本人志が『人志松本の〇〇な話』で『黒田官兵衛というすごい人がいる』という話をしたことで取りざたされ、有名になった人物だ。それ以前も知る人ぞ知る存在だっただろうが、実感的に私は、歴史に興味がなかった当時の私の耳にもよくこの名前が入るようになってきた。

 

黒田官兵衛は秀吉時代の軍師である。秀吉が家臣に

 

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と尋ねると、家臣達は今見てきたようにセオリー通りの徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、

 

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と言ったという。それを聞いた側近は、

 

官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが。

 

と聞き返したところ、秀吉は、

 

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と言ったという。それだけの人物が、この黒田官兵衛なのだ。官兵衛は関ヶ原の戦いの直前、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った官兵衛は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。

 

[如水居士画像(崇福寺蔵)]

 

また、三成の誘いに対し、

 

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として『自分は西軍の味方だ』と錯覚させ、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。また、その息子の長政も実力者だ。智の官兵衛、武の長政と言われるほど、関ヶ原の戦いの本戦でも最前線で奮闘した。しかし実際には、福島正則を根回しで家康側に取り込んだのは長政で、更に、

 

  1. 小早川秀秋の東軍内通の工作
  2. 親交のあった吉川広家に毛利軍の戦闘不参加の確約をつける

 

等、父譲りの頭脳プレイによって、家康率いる東軍の有利な状況を作り出したのだ。

 

細川忠興の妻には有名な『細川ガラシャ』がいる。彼女はキリシタンとして有名で、父である明智光秀が信長を殺した後に、キリシタンとなった。関ヶ原の戦いでは三成から人質になるように要求されるが、ガラシャは夫の不利益になるくらいならと、自害した。それだけの後見をしておきながら、彼女の遺骨は細川家の墓に入ることを許されなかった。それだけ当時、キリシタンに対する目が厳しかったのだ。

 

なんとも滑稽な話である。ガラシャは信仰を捨ててまでして、夫の為に命を尽くしたのだ。下記の記事に書いたように、アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)では自殺することを禁じており、また火葬の習慣もない。だからこのチュニジアで起こった『ジャスミン革命』では、モハメッド・ブアジジ焼身自殺したことが衝撃的で、『アラブの春』が巻き起こる原因となったのだ。

 

彼女がやったことは時代が時代なら、英雄視されることである。関ヶ原の戦いは、本戦以外の部分でもこのような人々の活躍があったことを忘れてはならない。

 

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戦国時代の中心人物

北条早雲 関東 1432~1519年
北条氏康 関東(相模国) 1515~1571年
織田信長 東海(尾張国) 1534~1582年
佐竹義重 関東(常陸国) 1547~1612年
武田信玄 甲信越(甲斐) 1521~1573年
上杉謙信 甲信越(越後) 1530~1578年
浅井長政 畿内(近江国) 1545~1573年
三好長慶 畿内(阿波国) 1522~1564年
毛利元就 中国(安芸) 1497~1571年
大友宗麟 九州(豊後国) 1530~1587年
龍造寺隆信 九州(肥前国) 1529~1584年
豊臣秀吉 東海(尾張国) 1537~1598年
徳川家康 東海(三河国) 1542~1616年
長宗我部元親 四国(土佐国) 1538~1599年
島津義久 九州(薩摩国) 1533~1611年
伊達政宗 奥州(出羽国) 1567~1636年

 

[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]

 

 

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