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『甲斐の虎』武田信玄の家臣団が『戦国最強』と言われた理由と、駿河の今川義元が『凡将』になった理由とは

『武田信玄、今川義元』

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上記の記事の続きだ。引き続き甲信越だ。甲信越には、甲斐の虎、武田信玄と、越後の龍、あるいは軍神と言われた上杉謙信がいた。彼らはライバル関係にあり、川中島の戦い(1553年- 1564年)などで、よく激突していた。謙信の話は冒頭の記事で書いたので、次は武田信玄だ。

 

[故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」]

 

信玄の家臣団は、『戦国最強』と言われた。それは一体なぜか。信玄がこういう考えをしていたからだ。

 

例えば、ほぼ同時代に蔓延していたイギリスにあった腐敗だ。イギリス出身のアメリカの哲学者、トマス・ペインが活躍した1700年代。当時、イギリスだけじゃなくヨーロッパ中の権力者が腐敗している現実があった。

 

[トマス・ペイン]

 

その腐敗ぶりといったら例えば、『権力者の子供は、親の学位まで受け継ぐことができる』という、あまりにも馬鹿馬鹿しいものだった。

 

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ありがとうパパ!いやあ権力っていいね!庶民に生まれなくてよかった!

 

まあ、人間が権力を持ったら大体やることは一緒である。自分の身の周りの利益を最優先にし、それを脅かす者、自分とは遠い者を見下して、そこに格差をつける。そうした事態を受けトマス・ペインは、『国家の最も重要な任務は人権の保障だ』と考えた。このような自由主義思想が軸となり、アメリカの基礎が作られていった。つまりトマス・ペインは、

 

このままでは大勢の庶民が不遇の目に遭う。それでは国家が沈没する!

 

と考え、母国イギリスを離れ、アメリカ大陸に移り、そこで自分の考え方を実践し、アメリカの基礎を作ったのである。

 

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また、かつてローマ帝国の次にこの世界を獲りかけた『モンゴル帝国』がある。彼らモンゴル軍がなぜ強かったかを知るためには、下記の中国『宋』の記事に書いたことを見てみよう。

『五代十国時代』にあった『武断政治』とは違い、『宋』は『文治主義(文治政治)』を行った。『隋』の時代に楊堅が、『科挙』という試験を導入し、それまであったコネ重視の『腐敗』を断ち切り、実力を正当に評価するようなシステムを考案したわけだが、その『科挙』に加え、『殿試(でんし)』という、いわば『科挙の最終試験』を取り入れ、更に優れた役人を採用しようとした。

 

宗(南宋)は、『文治政治』を行って、軍事力は弱体化してしまっていた。しかし、モンゴル軍はまさに『武断政治』に近いような実力主義を採用して、戦闘に特化した精鋭部隊を作ったからだった。

 

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更に、『アヘン戦争』、 『日清戦争』にあった『富国強兵』の考え方を見てみよう。下記、『アヘン戦争』の記事を見ればわかるが、富国強兵と言えば、そこにはこう書いてある。

しかしそれに対抗し清も義勇軍『湘軍(しょうぐん)』を組織。曾国藩(そうこくはん)といった人物を中心として、太平天国に立ち向かう。曾国藩は、清末政界の最大の実力者と言われた、李鴻章(りこうしょう)を指揮し、南京を占領。太平天国を滅ぼすに至る。そこには、イギリス・アメリカからなる『常勝軍』の姿もあった。曾国藩と李鴻章はこの事件を機に、西洋諸国の技術に感心し、『洋務運動』という近代化運動を行い、兵器工場の建設や鉱山の開発などを通じて、富国強兵を進めた。

 

つまり、李鴻章ら清も、『洋務運動』という近代化運動をし、富国強兵を進めていたはずなのである。それなのに、なぜ日本だけが富国強兵に成功した形になってしまっているのか。実は、日清の軍事力は、同等だったのだ。それは紛れもなく、この洋務運動のおかげだった。

 

だが、この洋務運動には他の側面もあって、強い独裁政権を持つ皇帝のもと、官僚が一方的に国民を支配する体制が築かれ、『反応的』な兵士を集める結果になってしまったのだ。反応的とは、主体的の対義語。つまり、『何かに反応して初めて動く人』のことである。例えば、スティーブン・R・コヴィーは、著書『7つの習慣』で『主体者』と『反応者』の違いをこう断言している。

『率先力を発揮する人としない人との間には、天と地ほどの開きがある。それは、25%や50%の差ではなく、実に5000%以上の効果性の差になるのだ。』

 

 

もちろん日本軍全員に主体性があったわけではないだろうが、しかしそこにあったのは確実にこの主体性の違いだった。スティーブン・R・コヴィーが言うように、反応的な人間と主体的な人間の間には、雲泥の差が開くのである。それが日清戦争にも影響してしまったということなのである。

 

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つまりこういうことだ。武田信玄は、人ではなくその人物の能力を買った。であるからして、当時のヨーロッパの様な腐敗に陥ることもなく、日清戦争時の『清』のように陥ることもなく、そしてモンゴル帝国や日清戦争時の日本軍のような『主体的な兵士』たちを育て上げることができたのだ。これが、信玄の家臣団が『戦国最強』と言われた理由である。

 

主体性を失った国や人 当時のヨーロッパ、清、南宋
主体性を持って戦に取り組んだ国や人 モンゴル帝国、日本、武田軍

 

信玄が家督を継いだ時には凶作で米不足に悩まされたが、態勢を立て直して信濃の村上義清(よしきよ)小笠原長時(ながとき)、そしてそれらを庇護する目的で対立した上杉謙信と『川中島の戦い』を行った。5回にわたる戦いは結局勝敗がつかなかったが、信玄はほぼ信濃の地を手中に収めた。その後、

 

  1. 甲斐
  2. 信濃
  3. 駿河
  4. 遠江(とおとうみ)

 

を併用し、1572年には上洛、つまり京を目指す。下記の記事に書いたように、戦国大名の最終目的は京だ。戦国大名はいかに武力を蓄えても、将軍に会い、その後ろ盾を得なければ天皇の綸旨(りんじ)を受けることができない体制はあった。彼らはあくまでも天皇と将軍に認められたかった。そのうえで綸旨を受け、諸国大名を幕下におさめ、天下統一をしたかったのである。有力な戦国大名は、上洛して将軍のもとで政治の実権を掌握したいという願いを持っていたのである。

 

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  1. 北条氏
  2. 本願寺
  3. 里見氏
  4. 佐竹氏

 

らと同盟を組み、あるいは提携し、なんとか謙信の動きを封じ、背後を守った上で、

 

  1. 15代将軍足利義昭(よしあき)
  2. 越前の朝倉
  3. 近江の浅井
  4. 大和の松永
  5. 延暦寺
  6. 園城寺

 

らと手を組み、『信長包囲網』を作り上げた。この15代将軍義昭は、室町幕府、足利一族最後の将軍だ。これだけの勢力を作り上げ、徳川・織田の連合軍を遠江・浜松の郊外三方ヶ原で一蹴し、野田城を落城させたのだが、その直後の発病。1573年、上洛を目指したまさにその翌年、武田信玄は病死した。53歳のことだった。もし彼に『上杉謙信』という宿敵がいなければ、そして病気や天災に足を引っ張られなければ、彼が信長・秀吉・家康の代わりとなっていたのかもしれない。

 

[三方ヶ原の戦い]

 

彼はこうも言った。

 

『パレートの法則』、つまり『80対20』の法則を理解し、周り(80%)の人間の評価が常に正しいものとは、限らないとして唯一無二の力を得た『甲斐の虎』は、リヴァイアサンをいかんなく解放し、限界まで暴走させ、その名を轟かせた、日本の猛者だった。

 

ドラゴン

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駿河には今川義元がいた。北条早雲(ほうじょうそううん)が駿河の守護大名の今川氏の後継ぎ争いに介入するため、都から駿河に入り、甥の今川氏親(うじちか)が今川家の当主になると、領地と城を与えられる。その後、北条早雲によって今川氏は、守護大名から『戦国大名』へと発展した。その氏親の息子が、彼だ。

 

[太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)]

 

彼は先ほど出てきた武田信玄が併用した駿河の武将だった。武田信玄、北条氏康と同盟を組み、三河に進出。

 

  1. 駿河
  2. 遠江
  3. 三河

 

の3か国を支配し、東海に君臨した東海地方の大大名になった。しかし彼は『京文化にあこがれるお歯黒大名』と揶揄され、無能な武将の烙印を押されることがある。しかし実際には先見の明があり、武田信玄とは同盟を結んだ形なのだ。それは、彼が家督を継いだころに、近隣諸国にあった勢力の対策であり、勢いのあった武田氏と組んだことで、織田信長の父、信秀を三河で撃破。彼が死んだあとも、尾張に勢力を広げ、今川氏の全盛を築いた。

 

しかし、信秀の子、信長はやっぱり強かった。義元が京にのぼり将軍家を担ぎ、幕府の実権を握ろうとする過程で、『桶狭間の戦い』にて織田信長に倒される。信長は、義元軍のわずか10分の1の人数だというのに『奇襲攻撃』を仕掛け、義元軍を撃破。彼が『凡将』と揶揄され、低い評価が下されるのは不当だ。ただただ織田信長という人物が鬼才そのものだっただけなのである。

 

鬼才
人間のものとは思われぬほどのすぐれた才能のこと。

 

[『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画]

 

 

戦国時代の中心人物

北条早雲 関東 1432~1519年
北条氏康 関東(相模国) 1515~1571年
織田信長 東海(尾張国) 1534~1582年
佐竹義重 関東(常陸国) 1547~1612年
武田信玄 甲信越(甲斐) 1521~1573年
上杉謙信 甲信越(越後) 1530~1578年
浅井長政 畿内(近江国) 1545~1573年
三好長慶 畿内(阿波国) 1522~1564年
毛利元就 中国(安芸) 1497~1571年
大友宗麟 九州(豊後国) 1530~1587年
龍造寺隆信 九州(肥前国) 1529~1584年
豊臣秀吉 東海(尾張国) 1537~1598年
徳川家康 東海(三河国) 1542~1616年
長宗我部元親 四国(土佐国) 1538~1599年
島津義久 九州(薩摩国) 1533~1611年
伊達政宗 奥州(出羽国) 1567~1636年

 

[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]

 

 

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