ハニワくん先生、質問があるんですけど。
先生では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。
ハニワくんなるほど!
博士も、もっと詳しく教えてくだされ!
人類の4分の1を支配したイギリスは『大英帝国』と言われました。
『イギリス帝国』とはイギリスとその植民地・海外領土などの総称ですが、これがとてつもない規模になったので、イギリスはそう言われたわけです。ヴィクトリア女王はその『大英帝国』の女王としてイギリス史上最も長く、63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けました。彼女の存在についてはあのガンジーが、
『ヴィクトリア女王はインドの自由のために尽くす女帝だ!』
と言ったほどですが、実際の姿はまさに『女王』の名にふさわしく、短気で激昂しやすい性格だったと言い、評価が分かれています。まるでヴィクトリア女王が二人いるかのような分かれ方です。
博士うーむ!やはりそうじゃったか!
ハニワくん僕は最初の説明でわかったけどね!
先生更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
革命がいらないイギリス


上記の記事の続きだ。18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスで『産業革命』が起こったわけだ。では政治の方はどうだったかというと、冒頭のフランスの記事にもあったように、ここでもやはり不平等な選挙が行われていた。例えばフランスでは、七月革命後に首相となってルイ・フィリップを擁した七月王政の実力者、ギゾーが、選挙権を求める民衆に対し、
ギゾー選挙権が欲しければ金持ちになれ。
と発言し、フランスで参政権を求める市民が蜂起し、『二月革命』が起こるわけだ。そしてイギリスでも当初は選挙権が『資産家のみ』に限られていたのである。では、イギリスでも同じような現象が起きたかというと、確かに『チャーティスト運動(1837~1850年頃)』のような運動はあり、イギリス国内で労働者が選挙制度の改善などを求めた。しかし、1832年から選挙法の改正が行われ、選挙の不平等は少しずつ解消されていたのである。
また、もともとイギリスでは王権に対して議会が強かった。1688年、議会は当時の英国王ジェームズ2世追放を決議し、メアリ2世(在位:1689年2月13日 – 1694年12月28日)とウィリアム3世(在位:1689年2月13日 – 1702年3月8日)の夫妻を共同統治王として迎えることにした。

両王は、『王よりも議会が優位である』ことを宣言した『権利の宣言』を認め、『権利の章典』として国民に発布し、これによって議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立した。こうして、
王は君臨すれども統治せず
という原則が固定化されたのである。その前の詳しい流れは下記の記事にまとめてある。

したがって、民衆はフランス等のようにわざわざ『革命』を起こす必要はなく、議会に『改革』を求めればその意見が通りやすかったのだ。わざわざ革命的に、武力行使をする必要はなかったので、それもフランスと同じ轍を踏まなかった理由として挙げられるのである。これによって、東インド会社の商業活動が全面禁止され、アジア貿易に自由に参加できるようになり、『清』の開国を求めてアヘン戦争につながっていったわけである。

ヴィクトリア女王時代
1839年、清国政府はアヘンの輸入を禁止し、『林則徐(りんそくじょ)』を広州へ派遣。その2年前の1837年、イギリスは新たな『女王』の時代が幕を開けていた。現エリザベス2世の高祖母にあたり、在位期間はイギリス史上最も長く、人類の4分の1を支配する『大英帝国』作り出した女、ヴィクトリア女王その人である。

彼女がこのあたりの時代に書いた自画像が、とても華奢で繊細に見える。とてもじゃないがこれから世界を支配する女王には見えない。それは、彼女の母であるヴィクトリア妃の肖像画を見ても同じ印象を受ける。

だが、18歳で即位した彼女の1835年と言えば、16歳。初々しさが残るのは当然。彼女は間違いなくここから『大英帝国』の女王として63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けるのだ。下記の記事で『世界一有名な女王』としてエリザベス女王の名を挙げたが、それで言うならヴィクトリア女王は『大英帝国の黄金期を作った女王』だ。『イギリスを世界一にした女王』と言ってもいいだろう。

パクス・ブリタニカ
実は、いくつかの参考書に描かれる彼女らの印象はこの肖像画のとおりである。母は、多くの愛人をかけていた夫とは違って質素堅実をモットーにしていて、退廃した英王室からヴィクトリアを隔離し、厳しく、口やかましくしつけられた。その結果、物怖じせず、相手をまっすぐ見つめ、自分の意見をハッキリという真面目でお堅い性格になったのだ。だから彼女は多くの国民から愛されたのであった。
産業革命で『世界の工場』となり、『アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊に勝ち、『トラファルガーの海戦』ではあのナポレオンに打ち勝つほどの強大な海軍力を持ち、その海軍力に支えられた世界一の植民地帝国となったイギリスは、その圧倒的な経済力・軍事力から『パクス=ブリタニカ』と讃えられた。

パクス=ブリタニカ”]イギリスはこの時期、産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた。周辺地域での軍事的衝突や砲艦外交による武力行使などはあったものの、ナポレオン戦争や第一次世界大戦の時期に比べれば、特にヨーロッパ中核地域は比較的平和であったことから、ローマ帝国黄金期の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ばれる。「パクス」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。
ディズレーリとグラッドストン
『大英帝国の黄金期を作った女王』と言っても、結婚したアルバート公に『王は君臨すれども統治せず』という教えを学んでいたため、特に彼女が何かを直接指示して行ったわけではなかった。議会では地主や資本家を支持基盤とするベンジャミン・ディズレーリ率いる『保守党』と、振興の商工業者を支持基盤とするウィリアム・グラッドストン率いる『自由党』の二大政党制が確立していて、彼らがお互いにやるべきことをした。
ディズレーリは、
- スエズ運河買収
- インド帝国樹立
- ロシア南下政策阻止
等、植民地や勢力圏をうちたてる帝国主義政策を行う。グラッドストンは、
- 平和外交
- 選挙法改正
- アイルランド自治
に尽力。労働組合の合法化や小選挙区の採用など自由主義改革を実行した。グラッドストンは英国民から親しまれたが、ヴィクトリア女王はディズレーリがお気に入りで、彼が死去するまで女王との交流は続いていたようだ。

しかし彼女が愛したのは夫であるアルバートで、彼が死んだ後はすべてに絶望し、42歳からの10年間も喪に服した。このような逸話からも、彼女がどれだけ真面目な人間だったかということがよくわかるわけである。アルバートが遺した子女の多くが欧州各国の王室と結ばれたため、彼女は『ヨーロッパの祖母』ともいわれているようだ。
イギリスは正義か悪か
しかしもちろん、彼女も含めた『大英帝国』の栄光の陰には、未来永劫には自慢できない『闇』の要素もあった。例えば、先ほど何気なく出ている『植民地』だ。収入源としては最高で、収入を得る方はそりゃあ文句はないだろうが、植民地にされる側としては、理不尽極まりない話である。『奴隷』も同じことだ。そうした犠牲と代償の上に成り立つ栄光は、未来永劫には続かないのが真理から見た結論なのである。
『キャプテン・クック』ことジェームズ・クックは、海洋探検家の代名詞である。イギリスの海軍軍人であり、海図製作者でもあった探検家のクックは、1769年、ニュージーランドに到達。翌年にはオーストラリアに上陸することに成功する。オーストラリアで領有を宣言し、1788年よりオーストラリアはイギリスの流刑植民地となる。

キャプテン・クックは1778年、ハワイ諸島を発見しするも原住民とトラブルになり、ハワイで刺殺される。
だが、イギリスの最初の植民地はアイルランドだ。アイルランドは1801年にイギリスに併合されたが、英国国教会を信仰するイギリスは、カトリックが多かったアイルランドで宗教差別をし、英国国教会教徒以外は公職に就けなくなる。弁護士のオコンネルがカトリック協会を設立し、1829年に『カトリック教徒解放法』を成立させるが、経済格差は残る。
1922年にアイルランド自由国が成立し、1938年にイギリス連邦内の独立国となり、1949年にイギリス連邦から離脱して正式に独立しアイルランド共和国となったが、今でもイギリスとアイルランドには遺恨が残っている。
オーストラリアでは、1851年に金鉱が発見され、『ゴールドラッシュ』が始まった。1880年代以降はオセアニア(オーストラリア大陸、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)の分割は本格化し、イギリス、ドイツ、フランスなどが勢力圏を築いた。また、タイ以外の東南アジアはすべて列強諸国の植民地となった。
列強諸国が植民地から手を引いた年(東南アジア諸国が独立した年)
| ビルマ(ミャンマー) | 1948年 |
| ラオス | 1953年 |
| ベトナム | 1945年 |
| カンボジア | 1953年 |
| フィリピン | 1946年 |
| マレーシア | 1963年 |
| ブルネイ | 1984年 |
| シンガポール | 1965年 |
| インドネシア | 1949年 |
| 東ティモール | 2002年 |


インドの初代皇帝
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 – 1901年1月22日)(※ヴィクトリア朝とも言われる)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)。先ほどディズレーリがインド帝国を樹立したとあったが、彼女はインドの初代皇帝でもある。下の写真は彼女が70歳前後のものだが、この時には随分女王としての貫禄がついているように見える。

Wikipediaを見てみよう。
実際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていたが、被支配民の間では「帝国の母」としてその「子供」たちである世界中の臣民たちに慈愛を注ぐヴィクトリアのイメージが広まり、大英帝国の支配への抵抗心を和らげたのである。カナダのインディアンのスー族やクリー族はヴィクトリアを「白い母」と呼んで敬意を払っていた。
あるインド藩王はヴィクトリアのインド女帝即位にあたってのデリーでの大謁見式(ヴィクトリアは欠席)において「ああ、母上。ロンドンの宮殿にいます親愛なる陛下。」と呼びかけている。1865年に反乱を起こしたジャマイカの黒人たちもヴィクトリア女王個人には忠誠を誓っており、裁判所を襲撃して囚人を解放した際に「我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない」として囚人服を置いていかせたという。かのガンジーもヴィクトリアをインドの自由のために尽くす女帝として敬愛していた。
ヴィクトリア自身も支配下におさめた非白人国家の王や首長の子供たちを後見したり、教育を与えたり、自分の名前(男性の場合はヴィクトリアの男性名ヴィクターや夫の名前アルバートなど)を与えるなどして「女王は人種に寛大」というイメージを守ることに努めた。
ヴィクトリア女王の実態
ヴィクトリア女王がどのような女性だったかというのは、この文章の最初の方を見ると、『穏やかで、真面目で、誠実で、政治に口出しをしない人』であるが、後になるほど『奴隷や植民地の上に成り立つ大英帝国を黙認し、そこに長い間君臨した女帝』という印象が浮かび上がることになる。参考書には彼女の気性が荒いとか、そういうことは書いていない。
しかし、Wikipediaには、『実際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていた』とあるわけだ。そしてそれは別にWikipediaにあるからというわけではなく、冷静に考えてイギリス女王として国を動かすディズレーリのような人間とともに行動し、あるいはその盛衰と利害の影響をストレートに受ける環境にいて、
ヴィクトリア女王駄目よ!植民地なんて!解放しなさい!
と言うのではなく、
ヴィクトリア女王植民地を揺るがす反乱が起きているようね!対処しなさい!
と言ったわけだ。しかし、周囲の人々が彼女を半ば神格化し、

我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない。
と言ったり、
ガンジーヴィクトリア女王はインドの自由のために尽くす女帝だ!
と言ったわけだ。

ヴィクトリア女王というのは『2人』いるのだろうか。
もう一度Wikipediaを見てみよう。夫のアルバートは彼女についてこう語っている。
ヴィクトリアは短気で激昂しやすい。私の言う事を聞かずにいきなり怒りだして、私が彼女に信頼を強要している、私が野心を抱いている、と非難しまくって私を閉口させる。そういう時私は黙って引き下がるか(私にとっては母親にしかられて冷遇に甘んじる小学生のような心境だが)、あるいは多少乱暴な手段に出る(ただし修羅場になるのでやりたくない)しかない。
更にヴィクトリア自身も、
矯正不可能なほど「意見されると感情が激高しやすい性格」だ。
と語った。そして彼女と仲が良かったディズレーリも、
女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすること。
と語っている。彼女に対する意見が分かれているようだ。参考書だけでは彼女はとても繊細で真面目。夫が死んだら10年も喪に服すほどの誠実さで、だからこそ国民に愛され、長い間女王の座にいることができたというイメージしか見えてこない。
しかし、Wikipediaやこの時代を俯瞰で見たときに浮かび上がってくるのは、女王気質のヴィクトリア女王。やはり、この時代が『大英帝国黄金の時代』なのは、女王気質であったヴィクトリア女王の存在が大きかったのかもしれない。

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論点構造タグ
#ヴィクトリア時代の二重構造
#革命なき改革国家イギリス
#パクス・ブリタニカと海洋覇権
#議会主導と「王は君臨すれども統治せず」
#帝国の母イメージと植民地支配の闇
#保守党ディズレーリと自由党グラッドストン
#インド女帝と大英帝国の拡張
#一人の人物に宿る「二人の女王」
問題提起(一次命題)
「なぜイギリスではフランスのような流血革命を経ずに、
議会主導の改革と産業革命を通じて『大英帝国』の黄金期=ヴィクトリア時代を迎え、
その頂点に立つ女王は“慈愛の母”と“植民地帝国の女帝”という
相反する二つの姿で記憶されることになったのか。」
因果構造(事実 → 本質)
- 【革命がいらないイギリス:政治構造の前提】
- 1688年 名誉革命:
- ジェームズ2世追放 → メアリ2世&ウィリアム3世の共同統治
- 『権利の宣言』→『権利の章典』発布
→ 「王より議会が優位」「王は君臨すれども統治せず」が原則化
- 以後、議会が主導権を持つ立憲王政が定着
- 選挙権は当初「資産家のみ」だが、1832年以降の選挙法改正で徐々に拡大
- チャーティスト運動などの圧力はあったが、
「議会に改革を求めれば通りうる」構造があり、
フランスのような武力革命の必要性が低かった
- 1688年 名誉革命:
- 【産業革命+議会制=覇権国家の地盤】
- 18世紀〜19世紀:
- 飛び杼・紡績機・蒸気機関などの発明 → 産業革命 → 「世界の工場」
- アルマダの海戦・トラファルガーの海戦でスペイン・ナポレオンに海軍勝利
→ 海洋覇権+産業力で世界最大の植民地帝国へ
- 東インド会社の独占廃止 → アジア貿易自由化 → アヘン戦争・清の開国要求へ
→ 経済力と海軍力に支えられた「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」が成立
- 18世紀〜19世紀:
- 【ヴィクトリア女王の即位と長期安定】
- 1837年、18歳で即位(ヴィクトリア朝)
- 在位63年7か月、当時人類の約4分の1を支配する『大英帝国』の象徴に
- 育ち:
- 母ヴィクトリア妃により退廃した王室から隔離され、質素・堅実・厳格な躾
→ 物怖じせず、相手を真っ直ぐ見て自分の意見を言う「お堅い性格」として形成
- 母ヴィクトリア妃により退廃した王室から隔離され、質素・堅実・厳格な躾
- パクス・ブリタニカと二大政党の役割分担
- 保守党 ベンジャミン・ディズレーリ:
- スエズ運河買収
- インド帝国樹立(=ヴィクトリアをインド皇帝に)
- ロシア南下政策の阻止
→ 植民地拡大・勢力圏構築の帝国主義政策
- 自由党 ウィリアム・グラッドストン:
- 平和外交
- 選挙法改正・小選挙区制
- アイルランド自治運動支援
→ 労働組合合法化などの自由主義的改革
- ヴィクトリア女王自身は「王は君臨すれども統治せず」を学び、
政策は主に議会に委ねるが、人格・価値観は時代の方向性に影響
- 保守党 ベンジャミン・ディズレーリ:
- 「帝国の母」と植民地支配の現実
- 表のイメージ:
- 被支配民から「帝国の母」「白い母」と慕われる女王像
- スー族・クリー族・インド藩王・ジャマイカ黒人反乱などの逸話
→ 「ヴィクトリア陛下には忠誠」「陛下の所有物は略奪しない」など - ガンジーも「インドの自由のために尽くす女帝」として敬愛
- 実像:
- 植民地反乱に対しては「容赦ない鎮圧」を主張
- アイルランドへの宗教差別・経済格差、オーストラリア流刑植民地、
東南アジア・オセアニア・インドなどの植民地化が進行
→ 「慈愛の母」というソフトなイメージで、帝国支配への抵抗感を和らげた側面
- 表のイメージ:
- ヴィクトリア女王という“二人の女王”
- 一人目の像(参考書・国民イメージ):
- 真面目で誠実、夫アルバートを深く愛し、
彼の死後10年も喪に服すほどの一途さ - 政治に口出ししない「立憲君主のお手本」
- 真面目で誠実、夫アルバートを深く愛し、
- 二人目の像(夫・側近・史観からの像):
- 短気で激昂しやすく、意見されると感情が爆発
- アルバート「母親に叱られる小学生のような気分になる」
- 本人「矯正不可能なほど意見されると感情が激高しやすい」
- ディズレーリ「決して拒まず・決して反対せず・時々忘れたふりをするのがコツ」
→ 「穏やかで誠実な女王」と「気性が激しい女帝」の二つの顔が同居
- 一人目の像(参考書・国民イメージ):
- 大英帝国は正義か悪か:栄光と闇の二面性
- 栄光:
- 産業革命・自由貿易・議会政治・労働者保護など、近代国家モデル
- 闇:
- 植民地支配・奴隷貿易・宗教差別・資源搾取・文化破壊
- ASEAN諸国を含む多くの地域が20世紀半ばまで独立できなかった現実
→ 「パクス・ブリタニカ」は、被支配側から見れば暴力と従属を伴う“平和”でもあった
- 栄光:
価値転換ポイント
- 【革命ではなく“改革で回す”モデル】
- フランス:革命で王を処刑し、血を流して体制を変えた
- イギリス:名誉革命以降、議会と選挙改革で体制を更新
→ 「暴力による断絶」ではなく、「継続の中で構造を変えていく」路線
- 【女王の「政治的無色」イメージ → 実質的な影響力】
- 建前:王は政治に介入しない立憲君主
- 実際:
- ディズレーリを贔屓し、帝国主義路線と呼応
- 植民地反乱には強硬姿勢を支持
→ 「介入しない」とされつつ、人格と好みが帝国の方向を後押しした可能性
- 【「帝国の母」のイメージ操作】
- ヴィクトリア自身も、被支配民の子弟を後見・教育し、
自らの名を与えることで「女王は人種に寛大」という物語を作る
→ ソフトな象徴イメージが、ハードな植民地支配を覆い隠す機能を果たす
- ヴィクトリア自身も、被支配民の子弟を後見・教育し、
- 【一人の人物に重ねられる“二つの評価”】
- 近くにいた人たちの証言(夫・ディズレーリ) vs 遠くからの敬愛(ガンジー・藩王・植民地民)
→ 人物評価は、距離と立場によって全く違う像を作り出す
- 近くにいた人たちの証言(夫・ディズレーリ) vs 遠くからの敬愛(ガンジー・藩王・植民地民)
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 名誉革命 → 権利の章典 → 立憲王政確立
- ピューリタン革命/名誉革命/産業革命の三段階を踏んだイギリス近代化
- 産業革命で「世界の工場」に
- ナポレオン戦争勝利 → ウィーン体制 → パクス・ブリタニカ
- ヴィクトリア朝(1837〜1901)
- インド帝国樹立
- 植民地拡大(アイルランド・オーストラリア・東南アジア・アフリカ・オセアニア)
- 植民地独立(20世紀中盤〜後半)への長い尾
【心理レイヤー】
- イギリス国民:
- 「革命の惨禍」をフランスで見たからこその、改革志向・安定志向
- ヴィクトリアに「堅実で道徳的な母」のイメージを投影
- 植民地側エリート:
- 「帝国の母」「白い母」としてのイメージを受け入れつつも、その背後の支配構造を後に自覚
- ガンジーなどは、敬意と批判の両方を経験する流れへ
- ヴィクトリア本人:
- 母からの厳しい躾 → 他者への厳しさ・感情の激しさに反転
- 夫アルバートの死後の長い喪 → 一途さと依存の深さ
【社会レイヤー】
- 国内:
- 二大政党制(保守党 vs 自由党)
- 選挙改革・労働者保護・自治運動など「改革の時代」
- 国際:
- 海軍力と貿易で覇権を握る帝国
- アジア・アフリカ・オセアニアに広がる植民地ネットワーク
- アイルランドやインドなどでの反乱と抑圧・宗教問題
【真理レイヤー】
- 「平和」と呼ばれる時代も、
- ある地点では平和でも、
- 別の地点では暴力と支配の上に成り立っていることがある。
- 一人の人物を「善か悪か」で割り切ることは、
- 歴史的にはほとんど不可能であり、
- その人に投影された他者の期待・恐れ・都合が、第二・第三の像を作り続ける。
【普遍性レイヤー】
- 強大な覇権国家は、
- 内部には「安定と繁栄」
- 外部には「支配と搾取」
という二面性を持つのが常であり、
評価はどちら側から見るかで変わる。
- 象徴的指導者(女王・王・大統領など)は、
- 自らの意思とは別に、「物語の中心」として利用される。
- 「革命ではなく改革で進む国」は、
- 暴力は少ないが、
- 支配構造・植民地構造の問題が見えにくく温存されやすい。
核心命題(4〜6点)
- イギリスは名誉革命と議会主導の伝統により、フランスのような流血革命を必要とせず、立憲王政と選挙改革を通じて「革命なき近代化」を実現し、その上に産業革命と海洋覇権で大英帝国を築いた。
- ヴィクトリア女王の時代は、産業革命・パクス・ブリタニカ・インド帝国など、大英帝国の黄金期であると同時に、植民地支配・奴隷貿易・宗教差別といった闇をともなう時代でもあった。
- ヴィクトリア女王は、内側から見れば短気で激昂しやすく、植民地反乱に厳しい態度を取る「女帝」だった一方で、外側からは「慈愛あふれる帝国の母」「白い母」として理想化される二重の像を背負わされた。
- 彼女が在位した63年7か月の間、保守党ディズレーリと自由党グラッドストンが二大政党として役割を分担し、帝国主義的膨張と自由主義的改革の両輪で大英帝国の構造を作り上げた。
- ヴィクトリア時代は、「改革で回る安定国家」と「植民地を抱える帝国」の二つの顔を持つ時代であり、その象徴であるヴィクトリア女王もまた、歴史の中で「二人いるかのような」矛盾した姿で語られ続ける存在となった。
引用・補強ノード
- メアリ2世・ウィリアム3世と『権利の章典』
- 「王は君臨すれども統治せず」という原則を確立し、議会主導の立憲王政を作った。
- 産業革命・パクス・ブリタニカ
- 世界の工場・世界最大の植民地帝国・自由貿易を背景に、19世紀の世界秩序を主導。
- ディズレーリ(保守党)・グラッドストン(自由党)
- 帝国主義政策と自由主義改革を、それぞれの立場で推進した二大政治家。
- ヴィクトリア女王の性格証言
- 夫アルバート・本人・ディズレーリの言葉から浮かぶ、短気で激昂しやすい一面。
- ガンジー・植民地民のヴィクトリア像
- 「インドの自由のために尽くす女帝」「白い母」として敬愛される一方、実際には反乱に厳しく臨む女帝としての側面もあった。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
ヴィクトリア女王を象徴とする「大英帝国」黄金期=ヴィクトリア時代が、
革命なき改革と議会政治・産業革命・海軍力・植民地支配を組み合わせた構造の上に成り立ち、
女王自身が「慈愛の母」と「植民地帝国の女帝」という二重のイメージを背負わされた歴史と思想の構造を描き出す。
文脈:
- 歴史状況:名誉革命〜立憲王政、産業革命、ナポレオン戦争後のウィーン体制、パクス・ブリタニカ、アヘン戦争、インド帝国、植民地独立運動へ続く流れ。
- 思想系統:立憲主義、自由主義、帝国主義、民族自決、ガンジーらによる反植民地主義の胎動。
世界観:
- 一国の「黄金期」は、その内側にとっての安定と繁栄であると同時に、
外側にとっての抑圧と搾取でもあり、
その矛盾を象徴的に体現する人物として、ヴィクトリア女王という“二人の女王”が浮かび上がる、
という多層的な歴史観が前提にある。


































