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フランス革命の原因と王族たちの運命

ハニワくん
先生、質問があるんですけど。
先生
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)の原因は?
  2. フランス革命の内容と結果は?

1.フランスのお金がなくなり、そのしわ寄せが国民に来てしまって国民の反感を買いました。

2.フランス王ルイ16世と妻のマリー・アントワネットがギロチンによって公開処刑され、フランス史上初の『共和政』が誕生しました。

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

彼の祖父ルイ14世の時代からフランス王の『浪費』癖は目立っていました。

そして彼の孫ルイ16世も、その妻のマリー・アントワネットも同様に浪費癖がありました。例えばマリー・アントワネットなら仮面舞踏会や違法な賭博場に現れては遊びほうけり、あるいは自分が着るドレスにかける年間の衣装代が10億円を超えていたという話もあります。度重なる対外戦争やそうした宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていました。

 

おい!なんで俺たちが王たちのツケを払わなきゃいけないんだ!

 

 

そして1793年、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンによって公開処刑されてしまい、フランス史上初の『共和政(王のいない国)』の誕生となりました。王様とその王妃が自国民にギロチンで処刑される。この事件は世界に大きな影響を与えました。

うーむ!やはりそうじゃったか!
僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

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目次

フランス王の浪費癖

『フランス革命』

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上記の記事の続きだ。18世紀のフランスの話である。そこにルイ14世の話を書いたが、彼は20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した。『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送ったが、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。

 

奢侈(しゃし)
度を過ぎて贅沢なこと。

[ヴェルサイユ宮殿(1668年)]

 

フランス革命

そしてフランスは彼の孫にあたるルイ16世(在位:1774年5月10日 – 1792年8月10日)の時代に突入する。イギリスで『産業革命』が起こっていたその頃、フランスでも違う革命が起きていた。『フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)』である。

 

 

ルイ16世と国民の距離

1789年7月14日、夜半。侍従に起こされ市中の様子を聞かされたルイ16世は、尋ねた。

 

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いいえ陛下。暴動ではございません。革命でございます。

 

この有名なエピソードは、浮世離れした彼の愚かさを強調するための作り話だと言われている。それだけ当時のフランス人は、国を統治する王に対して『距離』を感じていたのである。『太陽王』ルイ14世の時代は絶対君主として権威があったフランス王は、ルイ16世の時代にすべてを失った。しかし、別にルイ16世だけが悪いのではなく、冒頭の記事を見ればわかるように、ルイ14世の『ヴェルサイユ宮殿』等の浪費にも当然原因はあった。積もり積もってここでそれが爆発したのである。

 

  1. 即位と同時に財政改革に着手
  2. 経済学者テュルゴー、銀行家ネッケルを大臣に起用
  3. 特権身分への課税

 

ルイ16世はこれだけの貢献をフランスにしていて、彼だけに罪を擦り付けるのは間違いだった。

 

 

王妃マリー・アントワネットの浪費

だが、話を更にややこしくするのが、下記の記事にも書いた神聖ローマ帝国の皇后、マリア・テレジアの娘である、マリー・アントワネットである。彼女はこのルイ16世の妻だったのである。

 

[マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)]

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なぜ彼女が話をややこしくするかというと、

 

という彼女の名言のせいである。この言葉の真意は、『高い物が食べられないなら、安い物でも十分よ』という意味で、多くの人がこの言葉だけを短絡的に解釈して、浪費癖のある王妃のイメージを想像してしまっていたようだ。しかも、この言葉自体も、彼女が言っていたかどうかが定かではないという。

 

確かにこの言葉を短絡的に考えると彼女は単なる『浪費家』である。しかし、その真意が本当なら真逆の印象を持ち、国を愛する王女の鏡のように見える。だが、やはり多くの参考書では彼女を『浪費家』として捉えているようである。例えば、王になる前は職人としての趣味を持っていたルイ16世の汚れた姿を見て、

 

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と言い捨てたという話もある。また、

 

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と発言し、役に立たない趣味に引きこもった夫に対して不満を漏らす一面もあったという。母のマリア・テレジアの性格を考えると、先ほどのお菓子の発言が国を想っての善意ある言葉に聞こえるが、実はマリア・テレジアは彼女を叱りつけることがあったという。仮面舞踏会や違法な賭博場に現れては遊びほうけり、あるいは自分が着るドレスにかける年間の衣装代が10億円を超えていたという話もあるのだ。

 

しかし、あるテレビの特集では彼女のそうした噂話は作り話であり、本当は母の様に国を想う誠実な人だったという。たしかに、先ほどのルイ16世の話が作り話ならそれもあり得そうだ。こうした理由から、この話はとてもややこしいのである。実態がどうだと断言することができない。

 

 

第三身分への圧迫

だが、とにかく当時のフランス人たちがどう思ったかということが重要だ。彼らは王たちを良く思わなかった。当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。

 

国王
第一身分 聖職者 約12万人
第二身分 貴族 約40万人
第三身分 平民(市民、農民) 約2450万人

 

ここでまず最初に、下記の記事にも書いた『フランス革命』の概要を見てみよう。

 


STEP.1
1789年
不満を爆発させた民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発。

STEP.2
同8月
革命議会は人権宣言を採択し、人間の自由と平等などを宣言した。

STEP.3
1793年
ルイ16世とその妻マリー・アントワネットが処刑。

STEP.4
1794年
クーデターによってロベスピエールが処刑され、恐怖政治が終焉。

STEP.5
ナポレオン政権の誕生



 

フランスは、『自由、平等、愛』を主張して、フランス革命を起こした。イギリスのバークは、

 

エドマンド・バーク
立つべき者が、人の上に立っているんだ!

 

という考え方で、伝統や階級を正当化した。それを、急な革命でそれまでの歴史をすべてひっくり返そうとすると、様々な問題が起こる。このような保守的な考え方でバークは、『近代保守主義の精神的父』と呼ばれるようになる。この時代の精神面に関しては下記の記事にまとめてある。

 

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ヴァレンヌ逃亡事件

マリー・アントワネットは、革命が起こったとき、なんと『愛人』のフェルセンの力を借りて、一家でオーストリアを目指して逃亡する。しかし、国境近くのヴァレンヌで捕まってしまう。これが『ヴァレンヌ逃亡事件』である。やはり愛人がいるくらいだから、彼女の実態は『浪費家』なのだろうか。

 

[ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家(1791年6月25日)]

 

とにかく、この事件が更に民衆の怒りを買うことになってしまった。革命が起きた当初は、別に国民は王を処刑するほど恨んではいなかったのだが、このような事件を通し、徐々に雲行きが怪しくなっていくのである。

 

 

立法議会

その後、フランス発の憲法が成立し、国民議会は『立法議会』と名前を変える。そしてそこで2つの意見がぶつかる。

 

立憲君主派 王の存在は認めるが、法を王の上に置き統治する
ジロンド派 王の存在をなくし、憲法で国を統治する

 

そして流れはジロンド派に来る。だが、マリー・アントワネットの生家でもあるオーストリアはこれを妨害。フランス軍は、革命を妨げるオーストリア・プロイセン軍に対抗するが、苦戦。しかし、どうもこの裏にいるのが自分の国の王女であるマリー・アントワネットだと知ると、ついに国民の怒りは沸点を迎える。そしてフランス全土から義勇軍がかけつけ、『ヴェルミーの戦い』で彼らに勝利することになるのだ。

 

[ヴェルミーの戦い 1792年9月20日]

 

MEMO
このときの義勇軍が歌った歌が、現在のフランスの国家『ラ・マルセイエーズ』である。

 

 

ギロチンによる公開処刑

そして1793年、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンによって公開処刑されてしまったのであった。フランス史上初の『共和政』の誕生である。

 

共和政
皇帝や王がいない国。

 

絶対王政だったフランスが、王を処刑して共和政となった。当時のフランス人はそれだけ、自国の王を認めていなかったのである。そしてこの事件は世界中の人々の思想に大きな影響を与えた。

 

 

中田敦彦のyoutube大学

オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。

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