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国際連盟の誕生と平和理想の始まり

ハニワくん
先生、質問があるんですけど。
先生
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. ヴェルサイユ体制って何?
  2. 国際連盟って何?

1.『パリ講和会議』の後のヨーロッパの国際体制で、1920年代の国際秩序の基盤です。

2.世界の国々がこれを通して『世界平和』を考える国際平和維持機関です。

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と呼ばれました。

影響力のあったドイツ(ビスマルク)の名が取られたからですね。しかし『第一次世界大戦』でドイツは負けたので、国際秩序を誰がどう保つかということを決めなければなりません。この『ヴェルサイユ体制』は、ドイツへの報復も兼ねながら、新しくできた世界の脅威でもある『ソ連』の社会主義に対抗する国際秩序のための方針でしたが、本音は『先進国の既得権益の維持とドイツ暴走の封印』にあったため、それが許されたのはヨーロッパだけで、アジアの植民地等とは無縁の話でした。

 

パリ講和会議の翌年、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けました。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカがこれに加盟しないなど、あまり意味がない集団となってしまいました。のちにこの失敗を生かしてこれが『国際連合』となります。『国連』とはどちらも指す言葉ですが、その存在感からして主に国際連合のことを言います。

うーむ!やはりそうじゃったか!
僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

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目次

パリ講和会議(ヴェルサイユ会議)

『ヴェルサイユ体制』

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上記の記事の続きだ。上の記事にあるように、そうして1918年、『第一次世界大戦』は終わった。下の記事にあるように、ロシアはレーニンによって戦争から離脱、ドイツでも革命が起きて、当時の皇帝であり、第一次世界大戦の原因とも言える人物ヴィルヘルム2世の退位が決まり、事態が収束へと向かっていったのだ。『ドイツ連合軍VSロシア連合軍』のような戦いだったわけだから、そのトップである両国がそうして戦争から退いたことは、大きな原因となったのである。

 

1919年、そうした戦後処理のために『パリ講和会議』が開かれた。ヴェルサイユ宮殿で行われたので『ヴェルサイユ会議』と言われることもあるが、その会議での基本原則は、アメリカのウッドロー・ウィルソンによる『十四カ条の平和原則』で、

 

  • 軍事縮小
  • 国際平和機構の設立
  • 秘密外交の禁止
  • 民族自決の原則

 

等が打ち出された。『民族自決』というのは、『自決』というぐらいだから『各国民族は自分で自分に制裁を課せ!』という意味…ではなく、『自分で決定する』という意味での自決だ。中東欧で、諸民族の独立を認めるという内容で、列強に支配されていた国々がこれによって独立できるようになったわけである。これによって、ロシア・オーストリア領から多くの独立国が生まれた。しかし、これが適用されたのはヨーロッパのみで、旧オスマン帝国領などは委任統治の形で戦勝国に分割された。

 

 

十四カ条の平和原則

ウィルソンの14カ条

  1. 秘密外交の廃止
  2. 海洋の自由
  3. 通商関係の平等化(関税の廃止)
  4. 軍備縮小
  5. 植民地の公正な措置(民族自決)
  6. ロシアからの徴兵と、完全独立
  7. ベルギーの主軸回復
  8. アルザス=ロレーヌの返還
  9. イタリア国教の再調整
  10. オーストリア=ハンガリーの民族自決
  11. バルカン諸国の独立保証
  12. オスマン帝国支配下の民族の自治
  13. ポーランドの独立
  14. 国際平和機構(国際連盟)の設立

 

 

ヴェルサイユ条約

ドイツはこの連合国と結んだ『ヴェルサイユ条約』で、国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられた。その額は現在の日本円にして『1260兆円』ほどであり、これを支払い終えたのは2010年10月3日だった。

 

[ウィリアム・オルペン画『1919年6月28日、ベルサイユ宮殿、鏡の間での講和条約の調印』では、講和条約の調印を行うドイツ国のヨハネス・ベル運輸大臣が画面中央、椅子の背もたれを背に後ろ姿に一人だけ描かれ、その対面に調印に注目する戦勝国の首脳の群像が描かれている]

 

 

ヴェルサイユ体制

19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は、影響力のあったドイツ(ビスマルク)の名が取られ『ビスマルク体制』と呼ばれていたが、このパリ講和会議の後のヨーロッパの国際体制は『ヴェルサイユ体制』と言われ、1920年代の国際秩序の基盤となった。

 

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個別の講和条約

サン=ジェルマン条約 対オーストリア 1919年9月
ヌイイ条約 対ブルガリア 1919年11月
トリアノン条約 対ハンガリー 1920年6月
セーヴル条約 対オスマン帝国 1920年8月

 

民族自決によって、

 

  • フィンランド
  • ポーランド
  • ハンガリー

 

等の国々は列強から独立を果たすことができた。しかし、この『ヴェルサイユ体制』は、ドイツへの報復も兼ねながら、新しくできた世界の脅威でもある『ソ連』の社会主義に対抗する国際秩序のための方針だったが、本音は『先進国の既得権益の維持とドイツ暴走の封印』にあったため、それが許されたのはヨーロッパだけで、アジアの植民地等とは無縁の話だった。

 

 

オスマン帝国と中東の国の行方

オスマン帝国の話は前述したが、大戦末期、連合国はオスマン帝国をどう分け合うか、話を決めていた。しかし、それに逆らう形で軍人上がりのムスタファ・ケマルが立ち上がり、ソヴィエトの力を借りて対抗し、打ち破る。この時代、様々な国が独立し、現在も馴染みのある国へと変わっていったのである。

 

  • ムスタファ・ケマルがオスマン帝国を『トルコ共和国』へ
  • レザー・ハーンがペルシャを『イラン』へ
  • イヴン・サウードがアラビア半島統一をし『サウジアラビア王国』を建国

 

[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]

 

国際連盟

パリ講和会議の翌年、ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けた。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカがこれに加盟しないなど、あまり意味がない集団となってしまった。ただ、世界の国々がこれを通して『世界平和』を考えることができるということは意義があり、それまでにあった、

 

  • ペルシャ帝国
  • マケドニア王国
  • ローマ帝国
  • ムガル帝国

 

のような多様性を無視した連合体でも、

 

  • 三国同盟(ドイツ、イタリア、オーストリア)
  • 三国協商(ロシア、イギリス、フランス)

 

といった偏った連合体でもない、『世界規模の視点』ができたことは、大きかった。それは、現在『国連』が世界的に与えている影響を見ればわかることである。

 

[1939年に定められた半公式紋章]

 

MEMO
国際連盟はのちの『国際連合(1945年)』に受け継がれ、『国連』と言われるが、この時点では『国連=国際連盟』ということになる。恒久的な平和を目指す史上初の国際機構となった。

 

 

世界の銀行はアメリカへ

第一次世界大戦でヨーロッパは国際的な地位を低下させ、国際金融の中心地は、かつて『世界の銀行』と言われたイギリスからアメリカに移っていた。ロシアへの投資が、ロシア革命によって回収不能になったフランスもダメージを受け、1925年、『ロカルノ条約』によって、イギリス、フランス、ドイツなどが国連加盟を認めるまで、敗戦国のドイツは国連に加盟を許されず、記録的なインフレで大混乱に陥った。

 

このあたりから、時代はイギリスからアメリカへと権力が移行しつつあった。このあたりで、もう一度ヨーロッパの覇権をまとめなおしてみよう。

 

ヨーロッパの覇権の推移


STEP.1
アッシリア
紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。

STEP.2
アケメネス朝ペルシャ
紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。

STEP.3
アルゲアス朝マケドニア王国
紀元前336~紀元前323年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。

STEP.4
ローマ帝国
紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。

STEP.5
モンゴル帝国
1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。

STEP.6
オスマン帝国
1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。

STEP.7
スペイン帝国
1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。

STEP.8
オランダ
1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。

STEP.9
イギリス
1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。

 

そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。

 

17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国


STEP.1
フランス
1800年前後。ナポレオンがヨーロッパで暴れまわるが、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ退位。

STEP.2
イギリス
1830~1900年頃。ヴィクトリア女王の時代に『大英帝国』黄金期を迎える。パクス・ブリタニカ。

STEP.3
ドイツ帝国
1870年頃~1918年。ドイツ帝国率いる『三国同盟』とロシア率いる『三国協商』の『第一次世界大戦』が勃発。

STEP.4
三国協商
1918~1938年頃。ナチス・ドイツが現れる前はまだこの連合国が力を持っていた。

 

このようにして、やはり常に世界の中心はまだまだヨーロッパだが、まだこの時点ではその派遣はイギリスから大きく動いたわけではなかった。ロシア側の『三国協商』にはイギリス、フランスがいたわけだが、第一次世界大戦は『三国協商』側の勝利で終わったのだ。しかしそこには『アメリカ』の存在もあった。そしてここからアメリカという国がめきめきと頭角を現してくるようになる。

 

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現在、中国、ヨーロッパと歴史をまとめていて、アメリカ、イスラム、アフリカ等は後でまとめるため、今はまだアメリカの詳細は書かないが、後に更に詳しくアメリカについてまとめていく。そして、関連記事が出来たらここにリンクしよう。

 

日露戦争で強国ロシアに勝った日本。常に戦争のキーパーソンとして関与するアメリカ。これらの列強がこれから始まる『第二次世界大戦』の主役(悪役)となっていくことになる。そして、『ドイツ暴走の封印』を目的として『ヴェルサイユ体制』が組まれたわけだが、当のドイツの牙は完全には折れていなかった。そう。ドイツにはまだヒトラーという男がいたのである。

 

 

 

 

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