ハニワくん先生、質問があるんですけど。
先生では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。
ハニワくんなるほど!
博士も、もっと詳しく教えてくだされ!
国の最初の話はとても複雑です。
例えばロシアの件なら『ソ連からロシアに変わったとき』なのか、『ロシア人の大元はどこか』なのかということでも話が変わります。イタリアで考えても、そのゲルマン人オドアケルの476年の『初代イタリア王』の話は本当ですし、現在の『イタリア共和国』の前段階の『イタリア王国』は、その前に『サルディーニャ王国』でした。更に見てみましょう。
・西ローマ帝国(395年 – 476年)
・ブルグント王国(411年 – 1378年)
・サヴォイア伯国(1003年 – 1416年)
・サヴォイア公国(1416年 – 1720年)
・サルディーニャ王国(1720年 – 1861年3月17日)
・イタリア王国(1861年 – 1946年)
・イタリア共和国(1946年~)
こう考えるといつが『イタリアの初め』なのかが複雑になってきます。年号の最初と終わりも同じではありませんしね。挙げたヨーロッパの国々はも同じことが言えます。ただ一つ言えるのは、476年にのオドアケル(ゲルマン人)を筆頭に、
・ゲルマン人
・ノルマン人
・スラヴ人
がローマに流入したことが、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、ロシアといった現在のヨーロッパにおける様々な国を作った起因だったということになります。
博士うーむ!やはりそうじゃったか!
ハニワくん僕は最初の説明でわかったけどね!
先生更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
ヨーロッパの歴史

上記の記事の続きだ。中世ヨーロッパ時代(暗黒時代)が終わり、14世紀~16世紀はイタリアのフィレンツェを中心として、『ルネサンス(再生・復興)』時代に入ったわけだ。だがそもそも、
- イタリア
- フランス
- ドイツ
- イギリス
といった国が出てきたのはいつだろうか。確認してみよう。まず以下の記事では、史上初の世界帝国『アッシリア』と、その滅亡から学んだ大帝国『アケメネス朝ペルシャ』について見てきた。

[アケメネス朝の最大勢力域]

『ギリシャ、ペルシャ』と世界を支配したアレキサンダー大王、

ローマ帝国の英雄は『カエサル』と『アウグストゥス』、

そして『古代→中世』へと変わり、『ローマ』が終わって『イタリア』最初の王オドアケルが登場。

そして、ローマ帝国が東西に分裂。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
| 西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
| 東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
『フランス、イタリア、ドイツ』の原型
カール大帝が死ぬと、フランク王国での相続争いによって、『ヴェルダン条約』、『メルセン条約』という2回の条約によって、
- 東フランク王国
- 西フランク王国
- イタリア
の3つに領土が分けられた。それがその後の、『フランス、イタリア、ドイツ』の原型となる。そして西フランク王国は、987年カペー朝が成立し、『フランス王国』となった。イタリアでは小王国や都市の分裂状態が続き、東フランクでは、国王のオットー1世が戦功を挙げ、962年にローマ教皇よりローマ帝国の帝冠を授けられた。これが、1806年まで続く『神聖ローマ帝国』の始まりとなるわけだ。

| 東フランク王国(神聖ローマ帝国) | ドイツ |
| 西フランク王国 | フランス |
| イタリア | イタリア |
オドアケルは、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王だから、『初代イタリア王』という称号を得ることになる。5世紀末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝ゼノンによってオドアケルがローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。
ゲルマン人
オドアケルのようなゲルマン人やフランク人等の異民族がローマに入る。ゲルマン人たちの勢いは止まらなかった。それまで北西ヨーロッパに住んでいたケルト人や、ローマ帝国内のラテン人を圧迫しながら、次々とローマで建国し続けた。そして、『フランス』の語源となったフランク族、『イングランド』の語源となったアングロサクソンの諸民族もここに建国し始めた。
『イギリス』は、
- イングランド
- ウェールズ
- スコットランド
- 北アイルランド
を構成する4つの地域のこと。イギリスはこの地域全体で、『イングランド』は狭い範囲で国の名前だ。その『イングランド』の語源となったアングロサクソンだが、アングロサクソン七王国というものがあった。中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のことである。イングランド王国とは、は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家のことである。

アングロサクソン七王国
- ノーサンブリア王国: イングランド北東部を支配したアングル人の王国。
- マーシア王国: イングランド中央部を支配した。7世紀ごろ勢力を誇ったアングル人の王国。
- イースト・アングリア王国: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配したアングル人の王国。
- エセックス王国: イングランド南東部を支配したサクソン人の王国、現在のエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス周辺を支配した。
- ウェセックス王国: イングランド南西部を支配したサクソン人の王国、最終的にドーセット、ハンプシャー周辺を中心に王国として形成されたが、前期の支配区域は最も北部であった。
- ケント王国: イングランド南東部、現在のケント周辺に形成されたジュート人の王国。最も早い時期にローマ系キリスト教を受け入れた地域である。
- サセックス王国: イングランド南部を支配したサクソン人の王国、現在のサリー、イースト・サセックス、ウェスト・サセックス周辺を支配した。
『第3回十字軍(1189年 – 1192年)』の十字軍の遠征では、
- イギリスの獅子心王、リチャード1世
- フランスの尊厳王、フィリップ2世
- 神聖ローマ帝国の赤髭王、フリードリヒ1世
といった人物が戦いに参加しているわけだが、この頃はすでに『ローマ』ではなく『イギリス』等と呼んでいる。
最後のアングロ・サクソン系イングランド王ハロルド2世(在位:1066年)はイングランド王の地位を狙うノルマンディー公ギヨーム2世のノルマン軍を際どい所まで追い込みながらも2人の兄弟と共に戦死した。その後、サクソン貴族は反乱するが、ギヨーム2世に平定される。そしてそのギヨーム2世はがウェストミンスター寺院で戴冠、イングランド王ウィリアム1世となりノルマン朝を開いた。

[1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。]
ノルマン人
先ほど、
- ゲルマン人
- フランク人
という異民族がやってきて、もともとローマにいた、
- ラテン人
- ケルト人
をを圧迫しながら、次々とローマで建国し続けたと書いたが、このゲルマン人に続き、『第二次民族移動』ともいわれる『ノルマン人』の移動もあった。ノルマン人というのは『ヴァイキング』のこと。下記の記事に書いたように、このあたりにある北欧神話は、このヴァイキング(バイキング)を中心としたスカンジナビア地方の神話のことである。

下記の記事にも書いたが、ヴァイキング(ノルマン人)の一派の首長リューリクは、ノヴゴロド国という国を作った。ラドガとノヴゴロド(ホルムガルド)を支配してきたリューリクが、どのような人生を送ったかに関してはほとんど情報がないが、原住民を押さえてこの地方で覇権を握ったリューリク王朝は、16世紀まで続いた。

[ラドガに到着するリューリク(アポリナリー・ヴァスネツォフ画)]

このノルマン人が、ゲルマン人が切り崩したローマに更に新しい国を建国していくわけだ。
ノルマン人が作った国
| ノルマンディー公国 | 北欧諸国、フランス北西部 |
| 両シチリア王国 | 南イタリア |
| ノルマン朝 | イギリス |
| ノヴゴロド国 | ロシア |

[12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す]
スラヴ人
さて、これは西ヨーロッパの話だ。だが、西ヨーロッパをを支配したゲルマン人とちがって、東ヨーロッパは『スラヴ人』が中心となった。東スラヴ人と言われた人々は『ロシア人』となり、先にできていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していった。
スラヴ人はノルマン人の様に建国をしたというよりは、この後にこのあたりを支配する『オスマン帝国』の支配下に入った。
- ポーランド人
- チェック人
- スロヴァキア人
- セルビア人
- クロアチア人
等のスラヴ系民族がいた。

スラヴ人が多数派を形成する国々
- 緑:東スラヴ人
- ライム:西スラヴ人
- 深緑:南スラヴ人
国の起因
だが、wikipediaにはこうある。
東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には西ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって西ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西ヨーロッパ最強だった帝国だが、やがて衰えてイタリアを失い神聖ローマ帝国、そして現在のドイツとなった。
東フランク王国は『神聖ローマ帝国』になり、その後『ドイツ』になるわけだが、10世紀中ごろにイタリアを併合し、西ローマ帝国を取り戻す形になっている。その後イタリアが独立し、ドイツになったわけだ。
確かにオドアケルは、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王だから、『初代イタリア王』という称号を得ることになる。西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長の彼の手によって滅ぼされた。だが『イタリア』というのは正式には、神聖ローマ帝国から離脱したときから始まったと考えられるだろう。このあたりは難しいところである。
例えば、『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』にはこうある。
日本が二千年以上国家を営んできたことは世界史の奇蹟に違いない。その歴史がいかに長いかは、他の国と比較するとわかりやすい。日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークである。デンマークは建国から千数十年が経過したが、それでも日本の半分以下である。第三位は英国で千年にも満たない。中国に至ってはまだ六十年程度の歴史しかない。ロシアはソ連邦崩壊でできた新しい国である。
この本の著者によると、最も長く国家を営んできた国のランキングはこうなる。
- 1位:日本
- 2位:デンマーク
- 3位:イギリス
しかし、『中国三千年の歴史』の話を真剣にする中国人もいるし、『国がいつからできたか』という考え方は、人によって意見が分かれそうなところである。ハッキリしている歴史もあれば、曖昧なものもあるので、そうなるとこれらヨーロッパの国々は大雑把に考えて『9世紀~10世紀』にできたと言えることになる。
とにかく、375年にアジア系遊牧民フン人の圧迫を契機にゲルマン人の大移動が始まり、ローマ帝国の国教をキリスト教と定め、ローマ帝国最後の皇帝となったテオドシウス1世が死に、彼の死後395年、ローマ帝国は東西に分裂し、476年にのオドアケル(ゲルマン人)を筆頭に、
- ゲルマン人
- ノルマン人
- スラヴ人
がローマに流入したことが、
- イタリア
- フランス
- イギリス
- ドイツ
- ロシア
といった現在のヨーロッパにおける様々な国を作った起因だったということになるだろう。
では、スペインはどうか。スペインとポルトガルは隣国だった。カスティリャ王国とアラゴン王国という2つの国があったのだが、ここの王子と王女が結婚し、『スペイン王国』が成立した。それは1469年のことである。では、このスペインとポルトガルの最低限の情報がわかったところで、コロンブスたちが活躍する『大航海時代』の話を見てみよう。

[スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)]
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論点構造タグ
#ローマ帝国崩壊と国家誕生
#ゲルマン人ノルマン人スラヴ人
#ヨーロッパ諸国の起源構造
#「建国年」神話の相対化
#王朝史と民族史のズレ
#ローマから分裂国家へ
#東西ヨーロッパ構造(ゲルマン vs スラヴ)
#日本の長期継続国家との対照
問題提起(一次命題)
「イタリア・フランス・ドイツ・イギリス・ロシアといったヨーロッパ諸国は、いったい“いつ”から存在すると言えるのか。
ローマ帝国崩壊後の民族大移動と王朝交代の中で、『国の始まり』をどこに置くべきなのか。」
因果構造(事実 → 本質)
- 【ローマ帝国の終焉と分裂】
- 375年:フン人の圧迫を契機にゲルマン人の大移動開始
- 395年:テオドシウス1世死去 → ローマ帝国が東西に分裂
- 476年:ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼし、「初代イタリア王」とされる立場に就任
- 【ゲルマン人による建国ラッシュ】
- フランク族:後のフランス・ドイツの母体となるフランク王国を形成
- アングロサクソン:ブリテン島にアングロサクソン七王国を建て、のちのイングランド王国へ
- 他のゲルマン諸部族が、ラテン人・ケルト人を圧迫しながら各地で王国を建てていく
- 【フランク王国の分割 → 国民国家の“原型”】
- カール大帝死後のヴェルダン条約・メルセン条約
- 西フランク王国 → カペー朝成立(987年)により「フランス王国」へ
- 東フランク王国 → オットー1世の即位(962年)で「神聖ローマ帝国」となり、のちにイタリアを併合・喪失しながら現在のドイツへ収束
- 【イギリスの複雑な成り立ち】
- アングロサクソン七王国 → ウェセックス王アゼルスタンによるイングランド統一(927年)
- 1066年:ノルマンディー公ギヨーム2世がウィリアム1世として戴冠 → 以後のイギリス王は皆ここに遡る血統構造
- 【ノルマン人とスラヴ人による東西の差】
- ノルマン人(ヴァイキング)がノルマンディー公国・両シチリア王国・ノルマン朝(イギリス)・ノヴゴロド国(ロシア)などを建国
- 東ヨーロッパではスラヴ人が多数派となり、東スラヴ人がロシア人としてノルマン系ノヴゴロドと同化していく
- 【スペイン・ポルトガルの成立パターン】
- カスティリャ王国とアラゴン王国の王子・王女の結婚(1469年)→ スペイン王国成立
- こうした「王家同士の婚姻」による統合も、国家誕生の重要なパターン
- 【本質への収束】
- 「国の始まり」は、
- 法的な国号・王国の成立
- 民族の起源・同化の歴史
- 支配王朝の変遷
のどこに基準を置くかで変わってしまう。
- ローマ崩壊後のゲルマン人・ノルマン人・スラヴ人の流入と建国ラッシュが、
現代ヨーロッパ国家の“起因”であり、
「いつからこの国か?」という問いに単純な答えが出ない構造そのものを生み出している。
- 「国の始まり」は、
価値転換ポイント
- 【「建国年=一意に決まる」からの転換】
- 従来イメージ:
- 「○年建国」「△△年の歴史」という分かりやすい一本線の年表で国を語る。
- 本文での転換:
- 「最初の王」「国号」「民族の起源」「現在の体制」など複数の起点があり、
どこを“建国”とするかは解釈によって変わる相対的なものだと示している。
- 「最初の王」「国号」「民族の起源」「現在の体制」など複数の起点があり、
- 従来イメージ:
- 【王朝の歴史 → 民族・構造の歴史】
- 王朝交代・条約・婚姻だけを追う「王様の歴史」から、
- ゲルマン・ノルマン・スラヴといった民族移動
- ローマ帝国崩壊という大構造
を軸にした「ヨーロッパ空間全体の歴史」への視点転換。
- 王朝交代・条約・婚姻だけを追う「王様の歴史」から、
- 【ヨーロッパの断続性 vs 日本の連続性】
- 「日本は二千年以上国家を営んだ」という本の指摘と、
- デンマーク・イギリス・中国・ロシアの“短さ”への言及を対比させることで、
「国家の連続性」という価値自体を再定義している。
- デンマーク・イギリス・中国・ロシアの“短さ”への言及を対比させることで、
- 「中国三千年」「ロシアの歴史」など、自国ナラティブの相対性も浮かび上がる。
- 「日本は二千年以上国家を営んだ」という本の指摘と、
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- ローマ帝国の盛衰 → 東西分裂 → 西ローマ滅亡
- ゲルマン人の大移動 → フランク王国・アングロサクソン七王国など各王国の建国
- カール大帝の帝国 → ヴェルダン条約・メルセン条約で東西フランク+イタリアに分割
- 東フランク王国 → 神聖ローマ帝国 → イタリア併合・喪失を経てドイツへ
- ノルマン人の第二次民族移動 → 西欧・ロシアへの建国ラッシュ
- スラヴ人が東ヨーロッパで多数派となり、東スラヴ人がロシア人となってノルマン系と同化
- イベリア半島ではカスティリャ+アラゴン合体でスペイン成立、隣にポルトガル
歴史レイヤーとしては、「ローマ帝国が解体し、その残骸の上に複数民族が折り重なってヨーロッパ各国が形成された」という分裂と再編のプロセスが軸になっています。
【心理レイヤー】
- 「この国はいつ始まったか?」とシンプルに知りたくなる人間の欲求
- ランキング本(日本・デンマーク・イギリス…)のように、
「歴史の長さを誇りたい/比べたい」というプライドや承認欲求 - しかし現実には、
- 王朝名・領土・民族構成が何度も入れ替わるため、
「どこからが今の国なのか」が曖昧になることへのモヤモヤ
- 王朝名・領土・民族構成が何度も入れ替わるため、
- 本文はそのモヤモヤを正面から扱い、
「単純に決められないこと自体が歴史のリアルだ」という受け止め方へ導いています。
【社会レイヤー】
- 民族移動(ゲルマン・ノルマン・スラヴ)が、
- ローマ人・ケルト人・ラテン人など既存住民を圧迫・同化しながら新しい政治単位を作るプロセス
- 条約・婚姻・教皇の承認(オットー1世の皇帝戴冠など)が、
- 国家成立の「法的・儀礼的なトリガー」として機能
- 東西ローマ分裂に伴う宗教分裂(カトリック vs 東方正教)が、
- 西ヨーロッパ=ゲルマン中心
- 東ヨーロッパ=スラヴ中心
という長期的な地域構造と結びついていく
- 「イギリス」という枠組みの中に、
イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドという複数地域が共存する複合国家構造
【真理レイヤー】
- 「国」という単位は、
- 地続きの大地・民族・文化の上に後から乗せられた“ラベル”にすぎない側面がある、という洞察
- 「建国の瞬間」は一度きりの明確な線ではなく、
- 民族移動
- 支配構造の変化
- 宗教・文化の継承
が重なり合う中で徐々に輪郭を得ていくものである、という真理。
- それでも人間は、「いつからか」を決めたがる。
その決め方にこそ、その国や書き手の価値観・政治性・自己イメージが表れる、という構造。
【普遍性レイヤー】
- 大帝国の崩壊 → 周辺民族の流入・再編 → 複数国家への分裂
というパターンは、ヨーロッパに限らず世界史に普遍的に見られる構造です。 - 「国の起源」を問うとき、
- 法律上の“建国”
- 民族の起源
- 文化・言語の連続性
のどれを重視するかで、物語が変わるという普遍法則。
- 「自国の歴史は長い/短い」という比較自体が、
歴史そのものよりも“自分は何者でありたいか”という欲求の反映である、という人間普遍の構図。
核心命題(4〜6点)
- ローマ帝国崩壊後のゲルマン人・ノルマン人・スラヴ人の流入と建国ラッシュこそが、現代ヨーロッパ諸国の「起因」となっている。
- イタリア・フランス・ドイツ・イギリス・ロシアの「始まり」は、王朝・国号・民族のどれを基準に取るかで変わり、単純な「建国年」では語れない。
- フランク王国の分割、神聖ローマ帝国の盛衰、ノルマン征服、ノヴゴロド建国と東スラヴ人の同化などが、諸国の原型を形作った具体的な分岐点である。
- 日本・デンマーク・イギリスなどの“国家継続年数”比較は、国家の連続性と断絶性を考え直させる一方で、「歴史の長さ」をめぐるナショナル・ナラティブの相対性も浮き彫りにする。
- 結局、「この国はいつからか」という問いは、歴史事実だけでなく、その国が自らをどう定義し、どの物語を採用するかという選択の問題でもある。
引用・補強ノード
- オドアケル(初代イタリア王)
- 476年に西ローマ帝国を滅ぼし、「イタリア王」として統治したゲルマン人傭兵隊長。
- 「イタリア」の最初をどこに置くか、という議論の象徴的起点。
- テオドシウス1世
- ローマ帝国最後の統一皇帝。
- 彼の死と東西分裂が、その後のカトリック vs 東方正教、フランク王国分割など、ヨーロッパ構造の大枠を決めた。
- カール大帝(フランク王国)
- 死後の領土分割(ヴェルダン条約・メルセン条約)が、
東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、イタリアという原型を生んだキーフィギュア。
- 死後の領土分割(ヴェルダン条約・メルセン条約)が、
- オットー1世(神聖ローマ帝国)
- ローマ教皇から帝冠を授けられ、「神聖ローマ帝国」を始動させた王。
- 東フランク王国 → 神聖ローマ帝国 → ドイツ、という流れを象徴するノード。
- ウィリアム1世(ノルマン朝)
- 1066年のノルマン・コンクエストでイングランド王となり、以後のイギリス王家の起点となる人物。
- リューリク(ノヴゴロド国)
- ノルマン人(ヴァイキング)の一派としてノヴゴロド国を建て、
東スラヴ人との同化を通じてロシア形成の土台となった首長。
- ノルマン人(ヴァイキング)の一派としてノヴゴロド国を建て、
- 『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』
- 「日本二千年以上、デンマーク千年超、イギリス千年未満、中国は現行体制で六十年程度」という数え方を提示し、
国家継続年数の“ランキング”という観点からヨーロッパ諸国の歴史を相対化する補強ノード。
- 「日本二千年以上、デンマーク千年超、イギリス千年未満、中国は現行体制で六十年程度」という数え方を提示し、
AI文脈抽出メタデータ
主題:
ローマ帝国崩壊後の民族移動と王朝の盛衰を通じて、イタリア・フランス・ドイツ・イギリス・ロシアなどヨーロッパ諸国の「始まり」がどのように形作られたかを整理し、「国の起源」のあいまいさとその構造を解き明かす。
文脈:
- 歴史状況:ローマ帝国の分裂と滅亡、ゲルマン人の大移動、ノルマン人・スラヴ人の進出、フランク王国の分割、神聖ローマ帝国の成立と衰退。
- 社会背景:宗教(カトリック/東方正教)、封建制、王朝間の婚姻政治、民族同化。
- 思想系統:国民国家観・建国神話・ナショナル・ナラティブへの批判的視点。
世界観:
- 国家は固定された「箱」ではなく、
- 民族移動
- 権力構造
- 宗教・文化
が重なり合う歴史プロセスの産物である、という捉え方です。
- 「いつからこの国か?」という問いは、
事実の問題であると同時に、その社会が自らをどう物語るかという“自己定義”の問題でもある、という世界観が示されています。
感情線:
- ローマ帝国滅亡・大移動・分裂という混沌と不安
- 次々と建国される王国と王朝の興亡への興味・スリル
- 「国の始まりがどこか分かりにくい」という違和感
- それを歴史構造として整理していくことで得られる「腑に落ち感」と視界のクリアさ
闘争軸:
- ローマ帝国の統合秩序 vs 各民族・王国の分立
- 西ヨーロッパ(ゲルマン中心) vs 東ヨーロッパ(スラヴ中心)
- シンプルな建国神話を求める欲求 vs 歴史の複雑さ・連続/断絶の現実
- 「長い歴史を誇りたいナラティブ」 vs 「そもそも建国の線引きは相対的だ」という批判的視点




































