ハニワくん先生、質問があるんですけど。
先生では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。
ハニワくんなるほど!
博士も、もっと詳しく教えてくだされ!
19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と言われ、ドイツが強い力を持ちました。
『三国同盟』は、普仏戦争に負けたフランスに復讐させないように打った先手でもありました。
(フランスが復讐を考えないように、イタリア、オーストリアと組んで『三国同盟』を作っておこう)
そう考えたのです。しかし、第3代ドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム2世はそんなビスマルクを首にし、帝国主義政策を推進し、植民地の開拓をするため、イギリス、フランス、ロシアを挑発し、警戒心を抱かせました。その後ロシアとフランスで『露仏同盟』、そしてイギリスとフランスで『英仏同盟』が組まれ、ついに1907年、『三国協商』が結成されました。
そんな最中の1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺されます。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのです。
博士うーむ!やはりそうじゃったか!
ハニワくん僕は最初の説明でわかったけどね!
先生更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
ビスマルク体制

上記の記事の続きだ。1882年、ドイツ、イタリア、オーストリアは『三国同盟』を組み、それに対抗して1907年、イギリス、フランス、ロシアは『三国協商』を作った。帝国主義の列強が同盟を組み、世界に大きなエネルギーが充満しつつあった。これが今回のテーマのカギとなる非常に重要なキーポイントとなる。


また、上記の記事に書いたようにその頃のロシアは、オスマン帝国の支配から抜け出したがっている、
- セルビア
- ルーマニア
- ブルガリア
等の国々を味方にし、オスマン帝国を潰そうとする。いわゆる『東方問題』である。一度はヴィクトリア女王、ナポレオン3世を味方につけたオスマン帝国に敗北するが、1877年、ロシアはまたオスマン帝国と『露土戦争』を起こし、戦争に勝つ。そしてロシアは、
- ルーマニア
- セルビア
- モンテネグロ
- ブルガリア
を独立させ、ロシアの保護国とすることをオスマン帝国に承認させた。その詳細は記事に書いた。まず押さえておくべきなのはこのあたりの流れである。ロシアはその後、日本との戦争『日露戦争(1905年~1906年)』があったり、国内の内乱である『血の日曜日事件(1905年)』があったりして忙しかったが、『三国協商』の一員でもあるロシアは、この世界で着々と勢力を伸ばしていくわけである。

さてそんな中、下記の記事に書いたように、ヨーロッパではヴィルヘルム1世が即位し、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相に任命され、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させる。そして、『普仏戦争(1870年)』でナポレオン3世率いるフランスを倒し、『ドイツ帝国(1871年 – 1918年)』の成立が宣言されていた。


この風刺画では、世界中の視線が紺色のプロイセン(ドイツ帝国)に向けられている。19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は、『ビスマルク体制』と呼ばれるほど、ドイツ(ビスマルク)の影響が強かったのであった。
三国同盟結成の理由
そもそも1882年に作られた『三国同盟』は、普仏戦争に負けたフランスに復讐させないように打った先手でもあった。
フランスが復讐を考えないように、イタリア、オーストリアと組んで『三国同盟』を作っておこう
そう考えたのである。ドイツはそんなビスマルクを首相にした、初代ドイツ皇帝のヴィルヘルム1世の時代が終わり、彼の息子であるフリードリヒ3世(在位:1888年3月9日 – 1888年6月15日)の時代になったが、在位期間は100日足らずで、すぐにその息子のヴィルヘルム2世(在位:1888年6月15日 – 1918年11月28日)に代わることになった。彼はその二人のドイツ帝国の重要人物に疎んじられていたようで、政治的影響力を持つことはなかったという。
問題児ヴィルヘルム2世

だが、その第3代ドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム2世は曲者だった。彼がドイツ皇帝になった1888年には、ヨーロッパのキーパーソンであるビスマルクは、すでに75歳という老齢を迎えていた。そして、『三国同盟』のような対策に力を入れ、植民地の開拓等をほとんどしなかった彼らに対し、ヴィルヘルム2世はある種の『老害』であるかのような目で見てしまっていた。
ビスマルクの罷免
ふん。爺さんどもめ。これからは俺がガンガン攻める時代だ!
まるで、そのような考え方を持ったかのように、ヴィルヘルム2世はビスマルクを罷免し、親政に切り替え、独露再保障条約の更新を拒否し、露仏同盟の成立を自ら促す。そして帝国主義政策を推進し、植民地の開拓をするため、イギリス、フランス、ロシアに警戒心を抱かせた。
罷免(ひめん)
公務員の職を強制的に免ずること。首にすること。
フランスの植民地を横取りしたモロッコ事件
ヴィルヘルム2世のドイツは、攻撃的だった。まず仲が悪かったフランスの植民地を横取りしようとし、フランス領モロッコに軍艦を乗り付け、領土を手放すように挑戦状を叩きつけた(モロッコ事件)。
『3C政策』(イギリス)を邪魔した『3B政策』(ドイツ)
そして、アジアにも進出したいから、バルカン半島を通って西アジアのバグダードを結ぶ『3B政策』を展開しようとする。
3B政策
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって主導された、ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium、イスタンブールの旧名)・バグダード(Baghdad)を鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略。
しかしそれを成し遂げるための『バグダード鉄道』が完成すると、ドイツの工業製品をアジアに運べるようになり、兵隊も送り込めるようになる。その頃イギリスは、『カイロ、ケープタウン、カルカッタ』を船で結ぶ『3C政策』を推進していたが、ドイツのこの『3B政策』は、それを邪魔してイギリスの利益を奪う形になることは明白だった。
3C政策
19世紀後半から20世紀前半においてイギリスが推進した世界政策で、カイロ(Cairo)、ケープタウン(Capetown)、カルカッタ(Calcutta・現:コルカタ Kolkata)を鉄道で結ぶ植民地政策。
ロシアの邪魔をしたバグダード鉄道
更に、ドイツからバルカン半島、トルコ、ペルシャ湾まで結ぶ『バグダード鉄道』のルートは、ロシアにとっても都合が悪かった。これが完成すると、ロシアの地中海への南下ルートを完全にブロックする形になる。そもそもバルカン半島には、前述したロシアの保護国であるセルビア人などが生活していて、『ロシア領』、つまり『ロシアのなわばり』のような立ち位置にあった。
フランスうちの領土を奪うだと?
イギリスうちの商売を邪魔しやがって!
ロシアドイツめ。うちの縄張りを荒らすんだな?
ドイツは完全に後の『三国協商(フランス、イギリス、ロシア)』の列強に喧嘩を売ってしまったのである。

三国協商の結成
その後ロシアとフランスで『露仏同盟』、そしてイギリスとフランスで『英仏同盟』が組まれ、ついに1907年、『三国協商』が結成された。
日露戦争の際には、日本側についたイギリスとロシアでの対立構造があったが、ドイツという共通の敵ができ、イギリスはロシアを地中海へ南下させた方がいいという判断をした。
1866年。
1870年。
1871年。
1882年。
1888年。ヨーロッパの秩序を保っていたビスマルクが罷免される。
こうしていよいよこの世界に一触即発の大きなエネルギーの塊が2つ生まれたのだ。
『ヨーロッパの火薬庫』バルカン半島
そして事件は起こった。前述したバルカン半島での出来事である。三国同盟と三国協商が一触即発の大きなエネルギーというなら、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と言われていた。ここは、ドイツの同盟国のオーストリアと、南下のために必要なロシアが、進出を巡って激しく争っていた場所だったのだ。ロシアからすれば保護国のセルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ等の諸国が存在し、ドイツからすれば、オーストリアやオスマン帝国等の諸国が存在していて、一つにまとまっていなかった。

また、ゲルマン人やスラヴ人もいて、それぞれのルーツですらも対立していた。したがって、バルカン半島に以下のような対立する派閥が生まれていた。
| パン・ゲルマン主義 | ドイツ側の同盟拡大の動き |
| パン・スラヴ主義 | ロシア側の同盟拡大の動き |
バルカン半島は、前述したようにドイツにとってはその『バグダード鉄道』の為に必要だし、ロシアは南下ルートのための拠点として必要。では一体どちらがこのバルカン半島を支配するのだろうか。
バルカン戦争
先手を打ったのはオーストリアだった。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのだ。それを受け親ロシア側は『バルカン同盟』を結成する。こうして『第一次バルカン戦争』、そして『第二次バルカン戦争』が巻き起こることになる。


バルカン戦争
バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 – 1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(1913年6月 – 1913年8月)からなる。
ドイツ側
- オーストリア
- ブルガリア
- オスマン帝国
ロシア側
- ルーマニア
- セルビア
- ギリシャ
バルカン半島の支配をめぐり、ドイツ側とロシア側にそれぞれの勢力が分散し、対立構造ができた。まさに一触即発の緊張状態。事態は、あとほんのわずかのきっかけによって、収拾がつかなくなるくらいの極限状態にまで陥っていく。
サライェヴォ事件
そんな最中の1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナントとその妻が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺された。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのである。


関連記事




論点構造タグ
#ビスマルク体制の終焉
#三国同盟・三国協商の対立構造
#ヴィルヘルム2世の暴走と孤立化
#3B政策 vs 3C政策・バグダード鉄道
#バルカン半島=ヨーロッパの火薬庫
#パン・ゲルマン主義 vs パン・スラヴ主義
#バルカン戦争と勢力の分極化
#サライェヴォ事件から第一次世界大戦へ
問題提起(一次命題)
「なぜオーストリア皇位継承者が暗殺された“サライェヴォ事件”という一発の銃弾が、
三国同盟と三国協商という巨大同盟ブロックを一斉に作動させ、
世界規模の大戦=第一次世界大戦へと暴発してしまうほど、
当時のヨーロッパは“張り詰めた構造”になっていたのか。」
因果構造(事実 → 本質)
- 【ビスマルク体制:秩序ある強国ドイツの時代】
- 普墺戦争(1866)でオーストリア排除 → 北ドイツ連邦
- 普仏戦争(1870)でフランス打倒 → 1871年ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国成立
- ビスマルクは、
- 対仏包囲
- ロシアとの再保障条約など
を通して「フランスの孤立」と「ドイツの安全保障」を優先した。
→ これが「ビスマルク体制」と呼ばれる19世紀後半の国際秩序。
- 三国同盟の成立(1882):フランス封じの“先手”
- ドイツ・イタリア・オーストリアの軍事同盟。
- 目的:
- アルザス=ロレーヌを失ったフランスの「復讐戦」を抑止。
→ 「フランスが仕掛けにくい環境」を先に作っておく防御的同盟。
- アルザス=ロレーヌを失ったフランスの「復讐戦」を抑止。
- ヴィルヘルム2世の登場:ビスマルク体制の崩壊へ
- 1888年、若いヴィルヘルム2世が第3代ドイツ皇帝に。
- 彼の目には、ビスマルクや老世代は「攻めない老害」に見えた。
- ビスマルク罷免 → 親政へ転換。
- 独露再保障条約の更新を拒否 → ロシアがフランスと接近(露仏同盟)。
- 積極的帝国主義・海軍増強・植民地拡張で英仏露すべてを刺激。
- ドイツの挑発:モロッコ事件・3B政策・バグダード鉄道
- モロッコ事件:
- フランスの植民地モロッコに軍艦を送りつけ「譲れ」と迫る。
→ フランスの対独不信を決定的に。
- フランスの植民地モロッコに軍艦を送りつけ「譲れ」と迫る。
- 3B政策(ベルリン〜ビザンティウム〜バグダード鉄道):
- ドイツからバルカン〜トルコ〜ペルシャ湾へ鉄道で貫く構想。
→ イギリスの3C政策(カイロ〜ケープ〜カルカッタ)と正面衝突。
→ ロシアの南下ルートもブロックする線。
- ドイツからバルカン〜トルコ〜ペルシャ湾へ鉄道で貫く構想。
- その結果:
- フランス「領土を奪う気か」
- イギリス「商売を邪魔するな」
- ロシア「縄張りを荒らすな」
→ ドイツは三国協商(英仏露)全員の神経を逆なでした。
- モロッコ事件:
- 三国協商の成立(1907):ドイツ包囲網の完成
- 露仏同盟 → 英仏協商 → 最後に英露協商。
- 1907年、イギリス・フランス・ロシアが「三国協商」を形成。
- 日露戦争では敵対していた英露も、
- 「共通の敵=ドイツ」が明確になったことで利害が一致。
→ こうして世界は「三国同盟 vs 三国協商」の二大ブロックに二分された。
- 「共通の敵=ドイツ」が明確になったことで利害が一致。
- バルカン半島=ヨーロッパの火薬庫
- 東方問題・露土戦争・ベルリン会議を経て、バルカン半島は
- オーストリア・ドイツ側(オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国)
- ロシア側(ルーマニア・セルビア・ギリシャなど)
に分断される。
- イデオロギー的にも:
- パン・ゲルマン主義(ドイツ側)
- パン・スラヴ主義(ロシア側)
が対立。
- 1908年:オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合。
→ 親ロシアのバルカン同盟(セルビア・ギリシャ等)が結成。 - 第一次・第二次バルカン戦争で対立が激化。
→ 「いつ爆発してもおかしくない火薬庫」という状況に。
- 東方問題・露土戦争・ベルリン会議を経て、バルカン半島は
- サライェヴォ事件(1914):火薬庫に火がついた瞬間
- オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻、
ボスニアの都サライェヴォで暗殺される。 - 犯人:
- パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプ。
→ これを受けて: - オーストリアはセルビアに最後通牒 → ロシアがセルビア支援の構え。
- ドイツはオーストリアの“背後保証”を約束。
- フランス・イギリスも三国協商として連鎖。
→ ローカルな暗殺事件が、
三国同盟/三国協商という巨大な同盟網を通じ、
一気に「第一次世界大戦」へ拡大していく。
- パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプ。
- オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻、
価値転換ポイント
- 【フランス封じの「防御的同盟」→ 世界戦争を呼ぶ「攻撃的ブロック」へ】
- ビスマルクの三国同盟は、
- あくまで「フランス復讐防止」のためのバランス装置だった。
- ヴィルヘルム2世の時代になると、
- 同盟は「帝国主義的拡張を支える軍事ブロック」へと性格を変化。
→ 同じ三国同盟でも、中身(目的)が変質している。
- 同盟は「帝国主義的拡張を支える軍事ブロック」へと性格を変化。
- ビスマルクの三国同盟は、
- 【個人の資質が国際秩序を揺るがす】
- 老練な現実主義者ビスマルク → 「危険な橋は渡らない」安定志向。
- ヴィルヘルム2世 → 名誉欲・拡張欲が強く、
- モロッコ・3B政策・バグダード鉄道などで次々に火種を撒く。
→ 一人のリーダーの性格と判断が、
国際システム全体の安定/不安定を左右してしまった。
- モロッコ・3B政策・バグダード鉄道などで次々に火種を撒く。
- 【「共通の敵」が元ライバルを結びつける】
- 英仏:もともと宿敵。
- しかし、
- ドイツの挑発(モロッコ事件・3B政策)
- ファショダ事件でのフランスの譲歩
→ 「本当の脅威は互いではなくドイツだ」という認識を共有。
→ 三国協商へと連携。
- 【火薬庫+導火線+火花の三点セットが揃っていた】
- 火薬庫:バルカン半島(民族・宗教・列強利害の集中地帯)
- 導火線:三国同盟・三国協商のブロック構造
- 火花:サライェヴォ事件の暗殺
→ この三つが揃っていたため、
「事件の規模以上の戦争」がほぼ自動的に起きた。
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 普墺戦争(1866)・普仏戦争(1870)
- ドイツ帝国成立(1871)
- 三国同盟成立(1882)
- ヴィルヘルム2世即位(1888)・ビスマルク罷免
- 露仏同盟・英仏協商・英露協商 → 三国協商成立(1907)
- バルカン戦争(1912–1913)
- サライェヴォ事件(1914.6)
- 第一次世界大戦開戦(1914.7〜)
【心理レイヤー】
- ドイツ側:
- 新興大国として「もっと認められたい」「植民地が欲しい」という欲求。
- ヴィルヘルム2世の過剰な自信と焦り。
- 英仏露側:
- ドイツの急速な台頭を「秩序破壊の脅威」として恐れる心理。
- バルカン諸国:
- オスマン・オーストリア支配からの解放願望。
- 自民族の国家を持ちたいというナショナリズム。
- プリンツィプら青年たち:
- 「一発で世界を変えられる」と信じる革命的情熱。
【社会レイヤー】
- 帝国主義列強の植民地・軍備拡張競争。
- 民族自決・国民主義運動の高まり(パン・ゲルマン vs パン・スラヴ)。
- 各国内部の不満(格差・政治不信)が、
対外強硬路線と結びつく構造。
【真理レイヤー】
- 「均衡」は、必ずしも「安定」を意味しない。
- 力が拮抗した陣営が向かい合うと、
小さなきっかけで全面戦争になるリスクが高まる。
- 力が拮抗した陣営が向かい合うと、
- 個別の事件だけを見ていても、
背後の構造(同盟・利害・恐怖)を見なければ、
なぜそれが世界大戦にまで発展したのか理解できない。
【普遍性レイヤー】
- ブロック同盟が増えるほど、「一国の問題」が「全体の問題」に変換されやすくなる。
- 大国が「安全保障」を理由に同盟を重ねるとき、
それはしばしば「相互不信のネットワーク」に転化する。 - 極度に緊張した構造下では、
一発の銃弾や一点の事件が「過剰反応」を引き起こす。
核心命題(4〜6点)
- 三国同盟と三国協商は、それぞれ単独では「安全保障」のために作られたが、組み合わさることで、局地的紛争が一気に世界大戦へ拡大する“自動連鎖装置”を生み出してしまった。
- ビスマルクの慎重な外交が築いた相対的安定は、ヴィルヘルム2世の罷免と帝国主義的拡張によって崩れ、ドイツは英仏露すべてを敵に回す構図を自ら作り出した。
- バルカン半島は、パン・ゲルマン主義とパン・スラヴ主義、そして列強の地政学的利害が交錯する「ヨーロッパの火薬庫」となり、バルカン戦争によって爆発寸前の状態にまで緊張が高まっていた。
- サライェヴォ事件そのものは一人の青年による暗殺にすぎなかったが、それが巨大な同盟構造と結びついた結果、停止できない連鎖反応として第一次世界大戦へと発展した。
- 第一次世界大戦は、“一発の銃弾”が原因というより、「三国同盟・三国協商」「帝国主義」「民族問題」「指導者の性格」が何層にも絡み合った結果、遅かれ早かれ爆発せざるを得なかった構造的な戦争だったといえる。
引用・補強ノード
- ビスマルク体制
- 普墺戦争・普仏戦争を経て築かれた、フランス封じと勢力均衡の仕組み。
- 三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)
- フランス復讐防止のための防衛的同盟。
- ヴィルヘルム2世の罷免劇と帝国主義政策
- ビスマルク罷免・独露再保障条約破棄・モロッコ事件・3B政策。
- 3B政策/3C政策/バグダード鉄道
- ドイツとイギリス・ロシアの利害対立の象徴。
- バルカン戦争と「ヨーロッパの火薬庫」
- バルカン同盟 vs オスマン帝国&オーストリア側勢力の構図。
- サライェヴォ事件(フランツ・フェルディナント暗殺)
- パン・スラヴ主義学生プリンツィプによる暗殺が、第一次世界大戦の引き金となった事件。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
ビスマルク体制の崩壊後、
ヴィルヘルム2世の帝国主義的外交・3B政策・バグダード鉄道などが
英仏露の警戒を招き、
三国同盟と三国協商という二大ブロックを形成するなかで、
バルカン半島を巡る民族主義と列強の利害が“火薬庫”化し、
サライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦へと連鎖していく構造。
文脈:
- 歴史状況:ドイツ統一・ビスマルク体制・帝国主義・東方問題・バルカン戦争・三国同盟・三国協商・サライェヴォ事件・第一次世界大戦。
- 思想系統:ナショナリズム(パン・ゲルマン/パン・スラヴ)、帝国主義、勢力均衡外交、指導者個人の性格と国際秩序の関係。
世界観:
- 世界大戦は「偶然の一発」で起きるのではなく、
長期的な構造(同盟・植民地競争・民族問題・指導者の判断)が
折り重なった結果として、「偶然を必然に変えてしまう」プロセスである、
という見方が前提にある。
感情線:
- ビスマルク体制からヴィルヘルム2世体制への不安な転換。
- 列強が互いを疑いながら同盟を組み、
「守るためのネットワーク」が逆に「逃げ場のない緊張」を生む息苦しさ。 - バルカン民族の鬱屈と、「一発で世界を変えたい」という若者の焦燥。
- サライェヴォの銃声が、「もう後戻りできないところまで来ていた」世界の現実を露わにする感覚。
闘争軸:
- 三国同盟 vs 三国協商(ブロック同士の対立)。
- パン・ゲルマン主義 vs パン・スラヴ主義(民族ブロックの拡大競争)。
- 守勢のビスマルク外交 vs 攻勢のヴィルヘルム2世外交。
- ローカルな民族問題(バルカン) vs グローバルな帝国主義・同盟体制。



































