『夏→殷→周→秦→漢→三国時代』
ハニワくん先生、質問があるんですけど。
先生では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。
ハニワくんなるへそ!
博士も、もっと詳しく教えてくだされ!
5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまいました。
・曹操(魏)
・孫権(呉)
・劉備(蜀)
といった3つのエリアのトップ、そして、
・関羽
・張飛
・趙雲
・諸葛亮公明
・周瑜
といった様々なキーパーソンは重要人物です。しかし、忘れてはならないのは、この時代に中国の人口の85%以上が失われたことです。
博士うーむ!やはりそうじゃったか!
ハニワくん僕は最初の説明でわかったけどね!
先生更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
三国志(180年頃 – 280年頃)

上記の記事の続きだ。こうして『黄巾の乱』が終わり、いよいよ、『三国志』の時代に突入する。この時代の中心人物には、その黄巾の乱にも参加した、
- 孫権(江南)
- 劉備(四川)
- 曹操(華北)
だったのである。
3つの国
『三国志』というぐらいだから彼らは3つの国のトップだったわけだが、彼らが国を作り、あるいはトップになったのは以下の通りである。
| 孫権 | 呉 | 229年 |
| 劉備 | 蜀(しょく) | 212年 |
| 曹操(曹丕) | 魏 | 220年 |
実は、この曹丕(そうひ)というのは曹操の嫡子なわけだが、曹操自体は、国のトップにはなれなかった。一歩手前の『魏王』、つまり皇帝の次の位には216年にたどり着いたのだが、頂点に立つことはなかった。そして代わりに嫡子の曹丕が魏の初代皇帝となった。

29歳。黄巾の乱勃発。
37歳。董卓(とうたく)討伐の挙兵。
41歳。献帝を許に迎え入れる。
45歳。官渡の戦い。
53歳。丞相に命じられる。赤壁の戦いに敗北。
61歳。魏王となる。
65歳。洛陽にて死去。
献帝(けんてい)
後漢の最後の皇帝の献帝 (漢)(在位:189年 – 220年)のこと。
この曹操が死んだ後すぐに、曹丕が魏の皇帝となったのである。
レッドクリフ(赤壁の戦い)
だから、有名なあの『レッドクリフ(赤壁の戦い)』の時には、曹操は『魏のトップ』ということではないのである。そして、208年に赤壁の戦いがあったことからわかるように、そのころは劉備も孫権も、皇帝の座にはいないのだ。
下記の記事で、赤壁の戦いにあった『呉』の周瑜、『蜀』の諸葛亮孔明の二人の天才策士の話を書いたが、実際には彼らはまだ厳密に三国の人間としては至っていなかった。

Wikipediaにはこうある。
『三国志』呉書魯粛伝によると魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書 諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会したという。
つまり、
- 劉備が孫権に同盟を申し出られる
- 孫権が諸葛亮(劉備軍)に同盟を申し出られる
という2つの話が存在しているらしいが、映画では後者のシナリオを用いたようだ。とにかく、映画を観た人は知っているはずだが、曹操軍は圧倒的な人数で、劉備と孫権は手を組むしかなかったのである。曹操は、前述したように様々な戦いで力をつけていて、およそその勢いを止めることはできないと、誰もが諦めていた。
しかし、前述した周瑜、そして諸葛亮公明といった天才軍師と、劉備、孫権軍が力を合わせることにより、この圧倒的に不利な状況を覆し、見事、曹操軍に討ち勝つことになる。それが『赤壁の戦い』なのである。

本当の『三国時代』
その後、220年に曹丕が『魏』を建国、そして劉備も『蜀』、孫権も皇帝に即位して『呉』を建国する。本当の『三国時代』というのはここから始まるのであり、曹操がいた時代には、まだ厳密には三国時代とは言えないのである。
Wikipediaにはこうある。
建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年(221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。
劉備は、212年に蜀の乗っ取りに成功し、蜀のトップの座に就いたのだが、曹丕が『魏』の皇帝になったとき、それに対抗して蜀の地に『漢』を作った。したがって、劉備は『蜀漢』の初代皇帝とも言われているわけである。

23歳。黄巾の乱勃発。関羽、張飛らとともに挙兵。
45歳。この頃、諸葛亮公明を迎え入れる。
47歳。赤壁の戦いにて曹操軍を撃破。
60歳。蜀漢を建国、皇帝となる。
62歳。夷陵の戦いで大敗。諸葛亮に後事を託して死去。
そして孫権も次の通りの流れで『呉』の皇帝となる。

26歳。赤壁の戦いにて曹操軍を撃破。
40歳。呉王として立つ。
47歳。呉皇帝を焼死首都を建業(現・南京)に定める。
59歳。長男が死去し、後継を巡って争いが起きる。
70歳。病死。
多くの群臣は、曹操に怯えて『逆らうべきではない』と勧めたが、魯粛(ろしゅく)と、周瑜の意見に従い、『赤壁の戦い』を決意したのである。『赤壁の戦い』は三国志の有名な戦いだが、そこに出てくる3つのエリアの指揮を執った人物たちは、皆この戦いの後に『皇帝』となるか、あるいは嫡子が皇帝となったのである。
本当の重要人物は誰か
まだ映画を観ていない人がいれば、ぜひ観るべきだろう。そうすれば、ここで取り上げた3人の重要人物『だけが重要だったのではない』という事実を思い知るだろう。
- 関羽
- 張飛
- 趙雲
- 諸葛亮公明
- 周瑜
といった様々なキーパーソンと、多くの兵士たちの活躍があってこその戦いだったことがよくわかるはずである。実際、この『三国時代』というのは多くの兵士、農民といった『重要ではない人物』たちにとっては、辛い歴史となった。後漢末には5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまったという。
魏:443万人、呉:230万人、蜀:95万人。合わせても768万人。
派手な戦と、無理な戦いに知恵で勝つ、下剋上的なシナリオにロマンを感じる人のおかげで、この『三国志』は歴史に名を刻み続ける。だが、戦争とは起こすべきものではない、という事実を、同時に理解する必要があるのだ。
周瑜は言った。
この時代に限らずいつの時代でも、どんな人であっても、そこに人がいるならそれは重要人物なのだ。

関連記事







































