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武帝と光武帝、前漢と後漢の対照的統治

ハニワくん
先生、質問があるんですけど。
先生
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

なんで漢は『前漢・後漢』があるの?わかりやすく簡潔に教えて!

一時違う国に乗っ取られ、また再興したからです。

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

漢を『王莽(おうもう)』が奪って、『新』という王朝を建てます。

しかしそれはたったの15年しか持ちませんでした。すぐに漢王朝の子孫『光武帝』が取り返し、再び『漢』の時代が始まります。間に15年だけ『新』が入ってしまったので前後に分けているということですね。こうして名前を分けるとき、『前者が栄えていて、後者が廃れている』などというケースもあります。しかし漢の場合は、前漢、後漢共に栄えた時期があるので、そういうことではありません。

 

前漢には漢を創った『劉邦』がいて、儒教を国教にし、漢の前に滅んだ始皇帝の『秦』の時代の失敗を生かした『武帝』がいました。後漢には、『ローマ帝国』と並ぶほどの帝国を作ったと言われる『光武帝』がいました。しかし両者とも実力のあるそうしたトップが死んだ後に、周りにいた『地位だけ高い大人』たちが特権を乱用し、破滅していきました。

うーむ!やはりそうじゃったか!
僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

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目次

漢王朝

夏→殷→周→秦→漢→前漢・後漢

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上記の記事の続きだ。前回の記事で、『前漢、後漢』についてさらに詳細をまとめて、漢の時代の話を終わりにする、と書いたが、その前に確認しておくことは『中華思想』だ。

 

中華思想
中国こそが世界の中心である、という考え方。

 

中華思想

『漢』の人、つまり漢人は、

 

  • 漢字
  • 漢文
  • 漢民族

 

に名を遺す中国の代表的王朝となるが、そこで生まれた思想にこの中華思想があった。古代から中華は『天子(てんし)』を津中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。

 

 

東夷(とうい) 日本、朝鮮等
西戎(せいじゅう) 西域諸国等
南蛮(なんばん) 東南アジア、西洋人等
北狄(ほくてき) 匈奴等

 

禽獣
鳥とけだもの。

 

中華思想で考えると、四夷に数えられる日本やヨーロッパ人も、野蛮な人種だと考えられていたのだ。下記の記事で、ジャック・デリダがオリエンタリズムを批判したと書いたが、

 

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オリエンタリズム
世界を西洋と東洋に分けて考える考え方。トルコから日本を含めた東洋(オリエント)を馬鹿にし、ヨーロッパを世界の中心と考える傲慢。

 

[ウジェーヌ・ドラクロワの「アルジェの女達」。退廃的で官能的でもある、この作品は西ヨーロッパ人の持った東方世界のイメージの現れ]

 

世界各地の人々は、

 

我々の祖国こそが世界の中心なのだ!

 

と考える傾向にあったようだ。そう考えるともしかしたら、そういう『人間本位』かつ『自分本位』な考え方が『愛国心』につながり、国同士の戦争へと発展したのかもしれない。

 

 

前漢の『武帝』

さて、『前漢、後漢』について見てみよう。下記の記事に書いたのはこうだ。

『劉邦』の子孫に当たる『武帝(ぶてい)』が、儒教を国教とすることになる。武帝は漢の国の、第7代皇帝である。これによってまた孔子の教えに注目が集まり、儒教は『宗教』の次元にまで高まった。

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[武帝]

 

前漢は、この武帝の代の時が最盛期と言える。武帝は積極的に領土を拡張し、前述した『匈奴』に対しても戦いを挑む。西方の『大月氏(だいげっし)』と同盟を結び、匈奴を東西から挟み込んで攻撃しようとしたのだ。大月氏も匈奴に復習をする動機があったので、同盟は成立するかと思われた。

 

だが、大月氏は自国が豊かになって復讐心が消えていて、同盟は破綻。しかし、その際に使者として送り込んだ『張騫(ちょうけん)』という人物がもたらした西方の情報が、結果的に武帝(漢)が西に勢力を拡大するきっかけとなった。

 


STEP.1
武帝が張騫を使者に出し、大月氏と同盟を組もうとする
両者の敵である『匈奴』を討ち取るため。

STEP.2
しかし張騫が匈奴に捕まる

STEP.3
無事に逃げることに成功
十数年かけて大月氏の元へ到達。

STEP.4
大月氏は匈奴への復讐心をなくしていた

STEP.5
だが張騫が漢に持ち帰った情報は勢力拡大に役立った

 

武帝は、

 

 

を国家の独占販売品として収益を上げたり、新しい貨幣を発行したり、こうして精力的に領土を拡張したり、あるいは儒教を国教として思想の部分からも国を強化したりと、様々な方向から漢に貢献したのである。

 

 

『宦官(かんがん)』の暴走

だが、武帝が死ぬと、今までの王朝と全く同じような現象が起こる。秦では始皇帝、漢では劉邦という『絶対権力者』がいなくなった後に、反乱が起きたり、統治が崩れて混沌が生まれたが、武帝が死んだ後も同じようなことが起こった。『宦官(かんがん)』という生殖能力を奪われた要人がいたのだが、彼らが、

 

どうせ子孫が残せないなら、生きているうちに贅沢をしよう

 

と考え、その身分に甘んじて、政治に口出しをするようになり、それが原因で前漢は衰えてしまったのである。これらの歴史から垣間見えるのは、『立つべき者ではない人間が、人の上に立つべきではない』という人生の黄金律である。

 

カール・マルクスは言った。

 

 

王莽(おうもう)の『新王朝』

さて、そうした衰えた前漢だが、その後、『王莽(おうもう)』という人物によって一時的にのっとられる形になる。王莽は儒学者としての一面もあり、賢者と言われるほどの評判を得ていた。やがて前漢の外戚(がいせき)として実績を握り、そこから徐々に位を上げていき、『仮皇帝』を名乗り、そして『新王朝』という王朝を作ったのである。

 

外戚(がいせき)
中国の朝廷で皇帝の妃の出身一族のこと。

 

下記の記事に書いたのはこうだ。

この周の考え方は、孔子が息をした紀元前500年頃にも理想のモデルとなった。

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孔子は、周という王朝が重んじた考え方を理想としたが、王莽も同じだった。王莽は、儒教の精神を柱にした大胆な改革を断行したのだ。しかし、周という王朝は1000年も前の王朝。結局孔子と同じように、『理念ばかりを押し付ける夢想家』扱いをされ、反感を買って、新王朝はたったの15年で滅亡した。その時間は奇しくも、『秦』が滅んだ時間と同じだった。

 

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儒教を弾圧し、法家を重視したため滅ぶ
儒教的な理想国家を急に成し遂げようとしたため滅ぶ

 

儒教(理想)を突き付けても、法律(現実)を突き付けてもダメ。国づくりというのはそう簡単ではないようである。

 

 

赤眉(せきび)の乱

その新王朝が滅ぼされた反乱は『赤眉(せきび)の乱』である。その反乱と時を同じく、劉邦の9代目の子孫にあたる『劉秀(りゅうしゅう)』がいた。彼は控えめな性格で、2度皇帝になることを断ったようだが、3度目にお願いされたときに、ようやく皇帝になることを承認したという。

 

[光武帝 劉秀(りゅうしゅう)]

 

だが、違う参考書には『新王朝を滅亡させ、漢王朝を再興させた男』として記録されている。『ビジュアル 世界史1000人(上巻)』にはこうある。

はじめ劉玄(りゅうげん)を立てて更始帝としたが、河北を平定するに至って、『四、七の際、火は主になれ(高祖(劉邦)の即位から228年後、漢王朝が天下を回復する』という符命に基づいて、自ら帝位に就いて光武帝と称し、洛陽を帝都と定めた。

 

つまり、

 

  1. 控えめな性格であり3度目にようやく皇帝になることを決断した男
  2. 予言によって自ら『光武帝』と名乗って皇帝になった男

 

という2つの意見があるということだ。どちらにせよこの劉秀が『光武帝』として歴史に名を刻んでいることは事実のようである。とにかく、この光武帝が収めた漢を、『後漢』と言った。

 

後漢の『光武帝』

この時代、

 

後漢王朝
西 ローマ帝国

 

という2代帝国が世界に存在していて、実際にこの2国は交流をしていた。光武帝は武帝と比べて穏やかだったが、群雄割拠の時代にあって、37年に天下平定を成し遂げた。

 

しかしこの後漢も、前漢同様『宦官』や『外戚』たちによって支配され、滅亡の途を辿ることになる。光武帝と次の『明帝』は30歳を超えていたが、その後の皇帝は、

 

  1. 19歳
  2. 10歳
  3. 0歳
  4. 13歳
  5. 10歳
  6. 2歳
  7. 7歳
  8. 14歳
  9. 12歳
  10. 8歳

 

という幼少の皇帝が続いたため、彼らは裏で暗躍しやすかったのである。そして、その『宦官』や『外戚』の暗躍に逆らう形で起きた反乱が『黄巾の乱』である。

 

 

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