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世界恐慌の発生とアメリカ経済の崩壊

世界恐慌


ハニワくん

先生、質問があるんですけど。

先生

では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。


いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

1.1929年10月24日(木曜日)の世界恐慌はなぜ起きたの?
2.『ニューディール政策』って何?

1.調子が良かったアメリカが調子に乗ってしまい、足元がおろそかになったからです。
2.世界恐慌で窮地に陥った人々の救済政策です。失業者救済や生産量や価格の調整をしました。


ハニワくん

なるへそ!

博士

も、もっと詳しく教えてくだされ!


調子の良い時代に調子に乗り転落するのは、いつの時代を見ても見て取れることです。

アメリカのフーヴァー大統領は自由放任による『資本主義の永遠の繁栄』を主張。それぐらいアメリカ中が浮かれていたのです。商品を作れば作るほどそれが売れると思っていたし、株を買えば必ずそれが上がると思っていた。まさにアメリカはバブル真っ盛りだったのです。しかしそれは起きました。1929年10月24日(木曜日)。なぜ曜日まで記録されているかというと、この問題が『ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)』と言われているからです。物を作るだけ作り、それが売れ残り、銀行や株主に借金が残る企業が続出し、企業と融資を行った銀行が連続倒産をする。そういう一蓮托生ドミノ倒しのような悲劇が巻き起こってしまったのです。

フランクリン・ルーズベルトが当選し、『ニューディール政策』を進めますが、これに対する効果は未だに議論があるようです。しかしとにかくこうしてアメリカで世界恐慌が起き、これが後の『第二次世界大戦』の原因の理由の一つとなってしまいます。


博士

うーむ!やはりそうじゃったか!

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!

先生

更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。


目次

無敵だったアメリカ


上記の記事の続きだ。こうしてアメリカは上手に世界で渦巻くエネルギーに参入していき、そこで自国エネルギーを肥大化させていった。


アメリカ肥大化の要因

  1. 南北戦争(南北の分裂を阻止、統一)
  2. アメリカ西部開拓(ゴールドラッシュ、商工業の発達)
  3. スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)
  4. 第一次世界大戦(フランスとイギリスにお金を貸す)
  5. ドーズ案(ドイツに貸しを作り借金回収の戦略を遂行)


時は1920年代。上記、そして下記の記事にも書いたように、第一次世界大戦でヨーロッパは国際的な地位を低下させ、国際金融の中心地は、かつて『世界の銀行』と言われたイギリスからアメリカに移っていた。ロシアへの投資が、ロシア革命によって回収不能になったフランスもダメージを受け、1925年、『ロカルノ条約』によって、イギリス、フランス、ドイツなどが国連加盟を認めるまで、敗戦国のドイツは国連に加盟を許されず、記録的なインフレで大混乱に陥った。



活躍する偉人や飛躍する企業

もはや世界はアメリカ一強。アメリカには転落する要素がなかった。更にそこに登場したのが以下のような大衆消費商品や世界的な娯楽文化。下記の記事に書いたように、1908年、ヘンリー・フォードは『T型フォード』を発表し、世界初の大衆車を世に生み出し、ウォルト・ディズニーは、1928年に『蒸気船ウイリー』でミッキーマウスを世に送り出し、ルイ・アームストロングは、第一次世界大戦終結から世界恐慌までの『ジャズ・エイジ』と呼ばれた時代に登場し、ソロでの即興演奏『スキャット』の創始者となった。


『野球の神様』と言呼ばれたベーブ・ルースは1914年にレッドソックスのピッチャーとしてメジャー入りし、1920年からはヤンキースの強打者として活躍。野球をアメリカの国民的スポーツに押し上げたのは彼だ。アメリカの好景気は人々の目に見えていて、皆がその勢いに歓喜して喜んだ。


  • ディズニー
  • ジャズ
  • コカ・コーラ
  • 家電製品
  • 白物家電(洗濯機等)



大統領たちの自由放任主義

更にこの時期にアメリカ大統領になった、


  1. ウォレン・ハーディング(第29代大統領)
  2. カルビン・クーリッジ(第30代大統領)
  3. ハーバート・フーヴァー(第31代大統領)


といった面々は、この好調な経済に支えられ、自由放任の経済政策を取った。共和党のハーディングは南北戦争後、保護貿易など北部の資本家の利害を代表する政策をとったが、かつての『南部』のようにアメリカは『自由貿易』も推進するようになっていた。


北部の経済(産業資本家による商工業が中心)

  • 保護貿易
  • 連邦主義(集権)
  • 共和党支持
  • 奴隷制反対


南部の経済(大農園主によるプランテーションが中心)

  • 自由貿易
  • 州権主義(分権)
  • 民主党支持
  • 奴隷制維持


自由放任主義

自由に個人の利益を追求させ,競争させることが社会全体の利益の増進に役立つという主張。こういった主張は重商主義に対抗するものであったが,同時に国際的な自由貿易を求める運動にも結びついていった。


重商主義』を実行した例は以下の記事に書いた。1650年頃のフランス、『太陽王』と呼ばれたルイ14世の時代だ。財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をした。体制を維持するためには、巨額の資金がいる。そこで、以下の政策を実行。


  1. 外国製品の購入を制限し、国内生産力を伸ばし、国力を上げる
  2. 金、銀、貴金属等の獲得と貯蔵と同時に、輸出を促進して貿易収支を黒字にする
  3. 領土拡大にも力を入れて、54年の親政の内の実に34年を戦争に費やす


これによって、国内にリソース(資金、財源)を蓄積することに成功したのである。こういう方法もあるが、自由放任はこれとは対極。そしてフーヴァー大統領は自由放任による『資本主義の永遠の繁栄』を主張した。それぐらいアメリカ中が浮かれていたのだ。商品を作れば作るほどそれが売れると思っていたし、株を買えば必ずそれが上がると思っていた。まさにアメリカはバブル真っ盛りだったのだ。


フォード社の事例

例えばフォードなら、1909年にこういう話がある。工員の日給を2ドル50セントから5ドルに倍増したのだ。そして労働時間を9時間から8時間に短縮させる。それはどういうことか。ライン工という過酷な単純作業に退職者が絶えず、それを上回る雇い入れが必要だったのだ。では、それが一体この話に何の関係があるか。つまり、フォードは1908年に『ベルトコンベア』を導入し、その年のうちに1台93分という量産体制を打ち立てたのである。



かつて、イギリスでジェームズ・ワットを筆頭に『産業革命』が起こった。ワットは、機械技師ニューコメンが1712年に実用化した蒸気機関に数多くの改良を施したのだ。


  1. シリンダーの冷却装置の分離
  2. 往復運動の回転運動への変換


この改善によって、燃費が飛躍的に向上し、それまでは『鉱山の排水用』くらいしか使い道がなかった蒸気機関の用途が大幅に広がったのである。これが後に更にたくさんの技術者を通して、『機関車』などの輸送動力へと進化する可能性が開かれたのである。1765年あたりから彼の蒸気機関の改良は始まった。蒸気間の動力があれば、物流、運搬、産業方面に大きな影響を与えられる。手でやっていたものが機械ができるようになり、大幅な人件費のコストカットと効率アップにつながるわけだ。



イギリスはその革命によって『世界の工場』になり、ヨーロッパで圧倒的な力をつけるようになった。こういった様々な背景が手伝って、この時代のアメリカはまさに右肩上がりの上り調子だった。まさに、アメリカ中の人がそれを疑わなかった。


世界恐慌勃発

だからこそそれは起きた。


ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)

1929年10月24日(木曜日)。なぜ曜日まで記録されているかというと、この問題が『ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)』と言われているからだ。ニューヨーク株式市場が大暴落したのである。これによりアメリカ経済が一気に不況に陥り、『世界恐慌』を巻き起こし、世界各国に甚大な影響を与えたのだ。実際にはこの株式の崩壊を表すために、


  1. ブラックサーズデー
  2. ブラックフライデー
  3. ブラックマンデー
  4. ブラックチューズデー


の4つの段階が通常使われている。大暴落は1日の出来事ではなかったので、この4段階があるのだ。この4つの段階はすべて適切である。最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こった。


[大暴落直後のニューヨーク証券取引所の立ち会い取引]


原因

だが実際には1926年頃にはすでにこの兆候が表れていた。住宅や耐久消費財の需要はピークを過ぎていて、投機資金は株式市場に流入し、実態のないバブルを引き起こしていた。つまり、


STEP
好景気により利益の大きさだけを狙った取引が増える
STEP
株式が暴落
STEP
失業者が増大


[ダウ工業株平均の推移、1928年-1930年]


STEP
工業製品を大量生産
STEP
過剰生産に国民の購買力が追い付かない
STEP
工場が倒産し、失業者が増大


STEP
輸出不振

保護貿易主義。

STEP
市場の縮小
STEP
農産物の過剰生産
STEP
農作物価格が下落し、農民の離農
STEP
援助が打ち切り
STEP
農産物の価格暴落。失業者が増える


更にはヨーロッパでも、


STEP
アメリカの資金援助に頼る経済復興
STEP
農産物の生産が復活
STEP
農作物価格が下落し、農民の離農
STEP
援助が打ち切り
STEP
農産物の価格暴落。失業者が増える


こうした動きが広がり、『世界恐慌』へとつながってしまったのである。物を作るだけ作り、それが売れ残り、銀行や株主に借金が残る企業が続出し、企業と融資を行った銀行が連続倒産をする。そういう一蓮托生ドミノ倒しのような悲劇が巻き起こってしまったのだ。


[米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、1939年以前は推定値、ルーズベルトの大統領就任は1933年]


当時の状況

存命中は知らなかった人はいないアメリカの天才バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』には、このあたりの事情について詳しいことが書いてある。


第一次世界大戦は農民の生活を向上させるための土地所有権を争うものでなく、無生物的エネルギー(石炭石油だけでなくナイアガラその他の滝で発電される機械的エネルギー源)と動力駆動による工業生産をめぐる戦争であった。合衆国ははじめて石油を燃やして、蒸気タービンを回転させ、発電を行った。終戦時、これらの発電装置は稼働できる最良の状態にあった。潜在的生産力は恐ろしく高かった。それは富を生産する可能性という富であり、言うまでもなくそれは戦争の結果であるが、以前は決して存在していなかった。

確立されていた生産能力は非常に高く、二年の間に船やトラックそして軍備のすべてを生産することができたほであった。新たに工業社会の巨人となったアメリカ合衆国が、経済面でしようとしたことは何か?政府の出資により生み出されたこの富と企業の株主によるその所有が予期せぬほどに巨大だったので、戦争を利用して暴利を貪ることは道徳上妥当ではない、という多くの否定的な意見が生じた。



大量生産でき、よく売れる可能性のある、魅力的で有用な多くの商品があった。若い人々は自動車を欲しがったが、自動車は高額な装置だった。1920年代には、その高価な装置は現金でのみ販売されていた。第一次世界大戦後の合衆国には、限定生産される自動車を購入する裕福な人々が十分に存在したので、簡単にその市場が形成できた。

1920年代には、小売業で、銀行の支援を受けた長期分割払いによる販売方法はなかった。銀行は、金持ちの大企業からはトラックのような運送機器(大型移動装置の資本財)にしては、動産を抵当にした長期分割払いを受け入れたであろう。しかし、個人所有の自動車のような、故障しやすく、それに乗って逃げることも可能な機械装置の資本財に対して自分たちの金を賭けることなど考えもしなかっただろう。

銀行が自動車購入に融資しようとせず、若者たちの多くは賃金を稼ぐか、元手がないのに車を欲しがるため、彼らに金を貸し付け、いざ返済が滞れば容赦なく追い詰めるという悪辣な連中が現れた。どんどん増え続ける長期分割払いによる支援と裕福な人々の両者によって、自動車市場は開かれ、大量生産は維持された。


特に世界恐慌の問題をリアルに体験した彼のこの話には、生々しい信憑性がある。さらに、大統領7か月目に世界恐慌を受けたフーヴァーだったが、


しばらくすれば景気は回復する


と考えてを打たず、事態を悪化させてしまう。アメリカ人の特性的にどちらかに一調子なのか、上がる時は勢いに乗ってそのまま上がり続け、下がる時も同じようにその勢いのまま下がり続けてしまう現象が起きた。


[ハーバート・フーヴァー]


ニューディール政策

しかし1932年の大統領選挙で『ニューディール(新規まき直し)』を掲げた民主党のフランクリン・ルーズベルトが当選し、『ニューディール政策』を進める。


ニューディール政策

公共事業を推進失業者救済
農業調整法、全国産業復興法の制定生産量や価格の調整
テネシー川流域開発公社失業者救済
ワグナー法労働者の団結権、団体交渉権の確立


このとき、『ケインズ経済学』で有名なジョン・メイナード・ケインズという経済学者の存在がチラついた。例えばWikipedia『ケインズ』のページにはこうある。


大不況下では、金融政策は効果的ではなく、消費を直接的に増やす財政支出政策が最も効果があると主張した。ケインズの有効需要創出の理論は、大恐慌に苦しむアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の強力な後ろ盾となった。


そして参考書『ビジュアル 世界史1000人(下巻)』にもこうある。


『供給は需要を生む』という古典派の自由放任主義を批判し、政府介入で意図的に需要を発生させ雇用を改善せよと主張。大統領フランクリン・ルーズヴェルトが恐慌克服のために行ったニューディール政策の、論理的裏付けとなった。


しかし、Wikipediaの『ニューディール政策』にはこうある。


世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り入れたと言われるが、彼の著書雇用、利子および貨幣の一般理論は1936年に出版されたものであり、ニューディール政策が開始された1933年よりも後である。原案は、いち早く世界大恐慌から脱した日本の高橋是清が考えた政策(時局匡救事業)と多くの部分で同じである。

(中略)ケインズが提案した財政政策をルーズベルトが採用したとされているが、それについてはルーズベルト自身が否定している。ルーズベルトは、1934年にケインズと一度だけ会っているが、「統計の数字ばかりで理解できなかった」と話している。ケインズと直接対話したルーズベルトは、ケインズの赤字国債発行による景気刺激政策の話を「途方もないホラ話」と切り捨てたとされる。



  • 左上: 1933年、ニューディール政策の一部であるテネシー川流域開発公社が法律に署名。
  • 右上:ニューディール政策を主導したアメリカのルーズベルト大統領。
  • 下部: ニューディール政策の一部である公共事業促進局が雇用した芸術家の1人が描いた壁画。


ケインズの理論がこの世界恐慌に本当に関係していたかは定かではないようだ。そして、この政策自体もいまだにその効果があったかどうかについて議論がされているという。一番有力なアメリカの景気回復の決め手となる話は、1939年の『第二次世界大戦』で武器生産体制が強化されたからということだ。


[米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、ルーズベルトの大統領就任は1933年]


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