偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]デンマークの建築家 ヤコブセン[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセは言う。
オギャアと生まれて、ヨロヨロと死ぬ。それが人間の一生だ。一人で生まれ、一人で死んでいく。家族も死ぬし、あるいはいない者もいる。また、『友人』と言うが、彼らが本当に『友人』かどうかも定かではない。もしかしたら『一人』になるのが怖くて、『友人』だと決めつけて、慰め合っているだけなのかもしれない。だから『慣れ合い』がなくならないのだ。わかっていても、慣れ合いを止められない。
では、最初からヤコブセンの言う様に『孤独』で『虚しい死』を、『孤高』で『尊い人生』だと捉えてみたらどうだろうか。我々は、たった一度の人生を生きているのだ。
ブッダ(釈迦)は言った。
『天上天下唯我独尊。』
この言葉の意味は、『自分の人生は唯一無二。過去、未来永劫においてたった一つの人生なのだから悔いの無いように自分らしく生きるべし。』という意味なのである。
大丈夫だ。たとえ一人で死のうが、墓に入れなかろうが、この地球で死んでいる限り、同じことである。いや、もっと言えばこの宇宙の中、あるいは遠い宇宙のかなたで死のうが、同じことである。むしろ、家族と一緒に、墓参りをしてもらって、という条件に支配されている人間の方が、視野の狭い、孤独な人間である。
アインシュタインが亡くなったとき、生前の希望に従い、公の葬儀は行われず、プリンストンの葬儀パーラーにはわずか12人が集まった。無信仰ゆえに牧師の説教もなく、花や音楽も控えられた。遺体は茶毘(だび。火葬)に付され、墓を残すことを望まない遺言のとおり、遺灰は近くのデラウェア川に流された。
当たり前だ。それでいい。墓に入ろうが、川に流されようが、同じことなのだから。
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