偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]古代イスラエルの民族指導者 モーセ(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
※『モーセの十戒』である。
これは十戒の5つ目として書いているが、これを含めた残りの6つは、単純に書かれているが、実は極めて複雑な仕組みを表していて、しかし、その構造は極めて単純なものなのである。これも、
と同じだ。
『真理(神・愛)から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく』ようになっているのだ。キリスト教における7つの大罪は、
- 傲慢
- 強欲
- 嫉妬
- 憤怒
- 色欲
- 怠惰
- 暴食
が挙げられるわけだが、この『殺してはいけない』ということは、この中の『傲慢、強欲、憤怒、怠惰』に該当することになる。
宗教家、御木徳近はこう言った。
つまり、『人間として生きることを怠惰』し、放棄した結果が、『殺害』行為だ。怠惰に走り、人間として生きることを放棄することは、人間としての尊厳も幸福も奪われることを意味する。刑務所に入り、処刑されるということだけを意味するのではない。『真理(神・愛)から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく』ようになっているのだ。
試しに、1週間飲まず食わずで生活し、その後、当たり前のように食べていた、米やパンを食べ、水やお茶を好きなだけ飲むといい。どうしてその時『感謝』の気持ちを覚え、そして一週間前『当たり前』だと思っていたのか。そこにカギがある。
ドストエフスキーは言った。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
ダンテは言った。
我々は、殺してはならないのだ。魔性に負けた人間が殺すのだ。真のプライドがある人間なら、自分に負けることは決してない。
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