偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]ドイツの哲学者 ハイデッガー(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
よく『手が冷たい人は心が温かい。手が温かい人は心が冷たい人。』と言うが、あれに根拠はあるのだろうか。私はそれを説明できる。
アメリカの詩人、ホイットマンは言う。
つまりこういうことだ。手が冷たい人は、末端冷え性か何かの症状を、持病の様に持っている。だから厳冬の季節は彼らにとって酷である。あるいは、その時期の水作業など、とんでもない。しかし、手が温かい人は、彼らの気持ちをそこまで理解できない。しかし同じように厳冬の季節には寒いから、(おそらくそれぐらいのものだろう)という発想しかできない。だが実際は、彼らの手はその想像の倍以上冷え切っているのである。
男性が、寒さに震える女性のコートをかける。あれと同じように、手が冷たい人は、手が冷たい人に暖かいコーヒーを買ってきてあげることが出来る。それをしてもらった人はとても嬉しい。コートをかけてもらった女性と同じように、嬉しい。手が温かい人は、それを理解していない。(そこまでじゃないでしょ)という発想しかできない。だからこれといって何か配慮ある行動をとらない。それらの結果を相対的に見て、心が冷たいか温かいかを判断するのである。(※もちろん例外はある)
以前、私と部下の間であったやり取りを載せればわかりやすい。私は末端冷え性だ。だから冬場は手が氷のように冷たくなり、ちょっと間違えれば折れてしまうよう気さえする。元々指がゴツゴツしておらず、細い。だから尚のこと手が冷たく凍り付くと、余計なストレスがかかる。ある時、厳冬の2月に日光の社寺へ行ったときの話だ。私は自分の思っている通りに、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]冷たい!手が冷たくて仕方ない![/say]
と言うと、部下は自分の思っている通りに、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png” from=”right”]…僕も手は冷たいっすよ[/say]
と言った。しかし私は知っていた。彼の手は常にポカポカとしているようなタイプで、決して末端冷え性ではなく、それは、私と比べてはいけないもののはずだと。
それから7年後。同じように2月にその部下と外で行動することがあった。私の手は例の如く氷のように冷たくなっていた。私は兼ねてからこの部下の誤謬を矯正する必要があると思っていたため、良い機会だから、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]ちょっとお前、この手を触ってみろ[/say]
と言った。すると部下は、青ざめた顔をして、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png” from=”right”]…これは、氷のようです[/say]
と言ったのだ。彼は7年かけて、ようやく私(末端冷え性の人間)と自分(そうじゃない人間)とを比べてはいけないということを思い知った。
彼は確かに『自分の手も冷たいと思った』から、私にそう意見してしまったのだろう。だが、その時私は、『彼よりももっともっと、冷たかった』のだ。それを正当に評価すれば、例えば、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png” from=”right”]僕も冷たいですから、末端冷え性の人は、もっともっと冷たいでしょうね![/say]
などという相手の気持ちを想像した配慮ある発言が出来ただろう。しかし、彼は元々『被害者意識の塊』のような人間で、人よりも自分の方が可愛く、常に自分が悲劇のヒーローになるように画策してばかりいたのだ。結果、彼は『心が冷たい人』となった。それは、『自分のことばかり考えていて、人の気持ちを理解出来ない』からなのである。
同じように、今、日本にいる人たちは、アフリカで巻き起こっている『エボラ出血熱』のことについて、どれだけ神妙に、前のめりに、あるいは主体的に考えているだろうか。(あまり考えていない)だろう。考えられないのだ。遠いし。実感が無い。だがそれは、震災の時、逆に彼ら異国の人も、同じように思ったことである。
我々はまるで、(それは自分とは無縁だなあ)という風に考えて今もこの世を生きているわけだが、本当にそうだろうか。それは、自分の身に降りかからなければ、理解することはないのかもしれない。寒さに凍えなければ、人生の悩みをくぐらなければ、太陽の暖かさも、生命の尊さも知ることが出来ないように。
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