偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
つまり、怒り=真理ではないということだ。怒らなくてもいい、ということになる。怒りを、抑えることが出来るということになる。それが真理であり、怒りに身を任せるということは、在るべき姿ではないわけだ。仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが、全てに同じ教えがある。
ドストエフスキーは言った。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、 そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけだが、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
ということは、ここでいう『争い』は、『怒りに支配された争い』であり、『聖戦』ということにはならない。聖戦とは、その怒りという魔性を鎮めるために、聖性という側面で持って、戦う戦なのだ。
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