偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]日本の作家 有島武郎(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
例えば彼が敬虔なクリスチャンだったことを踏まえて、この言葉の意味をこう考えてみる。
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]自分を主とするからいけないのだ。主を、絶対に崩れない第三者、例えばイエス・キリストにするのだ。イエスを主と仰ぎ、傲慢な考えを戒めるべし。[/say]
さて、これは極めてまっとうなクリスチャンの考え方で、それ以外の人からすれば極めて非常識な考え方である。私の両親はクリスチャンだ。このことについてどれだけ葛藤したかに興味があるなら、リンク先のキリストのページを見るのが良いだろう。
その私の意見がこうだ。
『主は、自分だ。自分以外に、自分の人生の主人も、主人公もいない。それは決して傲慢不遜であることを意味しない。目の前で起きたことすべてが、自分の責任であることを覚悟する、肝の据わった心構えである。』
元アメリカ大統領、ウッドロー・ウィルソンは言う。
フランスの英雄、ナポレオンは言う。
その『状況』を招いた、『前始末』を怠った、『些事』を軽んじた、それは全て自分の責任である。相手が理不尽に怒っている、『と思っている自分』も、自分の責任、管理不行き届きだ。見るべきなのは以下の黄金律だ。
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だがもう一度この言葉をよく考えてみる。
『己を主とする以上、他人にも同じ心持ちのあるのに注意しよう。』
『他人にも同じ心持ちのある』と言っている。『他人にも同じような考え方がある』ということだ。それに注意をしようということ。つまり、自分のことを主とするのはいいが、他の人も同じようにそうする。だとすると、そこにあるのはそれぞれの主体性であり、それが多様性になるからそれはそれでいいが、その延長線上にあるのは異なる意見の対立であることを意味している。
例えば、キリスト教とイスラム教の対立だ。彼らは常に『自分たちの神が正しい』と主張し、争いをし続けている。仏教とヒンズー教はどうだ。そもそもバラモン教(ヒンズー教)のカースト制度を強く批判し、ブッダが仏教を作った。
儒教と道教もそうだ。孔子の教えを批判し、『無為自然』であることを強く説いたのが老子だ。私は基本的に孔子の教えが好きだが、老子が言うその『自然体であれ』という考え方には納得がいく。
[memo title=”無為自然(むいしぜん)”]人の手を加えないで、何もせずあるがままにまかせること[/memo]
そう考えると、冒頭に書いた、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]自分を主とするからいけないのだ。主を、絶対に崩れない第三者、例えばイエス・キリストにするのだ。イエスを主と仰ぎ、傲慢な考えを戒めるべし。[/say]
という『第三者を主とする』発想は、あながち一辺倒に切り捨てることはできない賢明な選択肢のように見えてくる。そこで私がたどり着いたのは以下の記事だ。この考え方であれば、それぞれが主体性を発揮し、多様性が生まれる中であっても、対立して争いをすることはない。
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これは私がたどり着いた境地だ。だが、彼ら偉人たちがいなければ、到底この境地に達することはできなかっただろう。そしてもちろん、これを見極めたからといって、全人間がこれを遵守するのは容易ではない。
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