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アラン『不信の力とは、宣託を聞こうとしないことである。聞けば少しは信用するに違いない。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]フランス哲学者 アラン[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察

『宣託(せんたく)』というのは、神のお告げという意味である。もうこの時点で、10代の頃の私なら、『は?』と言って、『何が神だよ馬鹿野郎』と吐き捨て、敵視しただろう。私は実の両親にクリスチャンになることを強要されて育って、『神』とかなんとかという存在に対し、そうしてひどく敏感だったのである。

 

だが、私はそこで『思考停止』してしまっているわけだ。そこでもし、『うるせえんだよこの野郎』と言わずに、『ふむふむ。どういうことかね。』とか、そうやって心を開いていけば、聞けたはずの『聞く価値があった意見』を聞かないで終わる、という機会損失を無くすことが出来る。聖書には、飢饉や天災のことが書いてあって、実際の世界でそういうことが起きると、両親はまだ幼い私を呼び、聖書を見せ、

 

[say name=”母親” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/女性の人物フリーアイコン素材.png”]ほら、ここにこう書いてあるでしょ。[/say]

 

と言って、まるで『聖書という神の本には、この世のありとあらゆることが書いてあり、神は全てを予言している』というメッセージを私に力強く押し付けてくるようなことがあったが、よく考えたらその様なことは『人は死ぬ』と書いてあるのと同じぐらい、『当たり前のこと』であり、それをあたかも『神のお告げ』かのように演出し、クリスチャンになるように洗脳させたのは、私の両親の盲信的行為だが、しかし、確かにそれでも『書いてある本』と『書いてない本』があることを考えると、聖書に書いてある言葉は、どれも傾聴に値するものばかりなのである。

 

もし私に、そうした『両親が植えつけようとした洗脳的な強要』に対する『抵抗』がなければ、聖書に対する偏見や曲解はなく、この書物から得られるはずの恩恵を得ることが出来た。しかし、当時の私は聖書も含めた、それを強要する両親、それら全ての『私の自由を奪う存在』を忌み嫌い、私の目を曇らせ、多くの機会損失を出していたのである。

 

 

 

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