偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]スイスの哲学者 アミエル(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
自分が思っていることがある。しかしその思ったことが、正しいのか、間違っているのかがわからない。だから漠然としたままになって、そのうち、面倒くさくなって、答えを出すのを諦め、世間の歯車の一部として生きていくことになる。しかし、自分のその思ったことが、確固として正しいと確信した。つまり、『そこに権力(主張できる十分な要素)があると確信した』場合、現状に蔓延している常識を覆してでも、それを実現しようと運動を起こす。『暴徒』というのは、その革命家以外の人間が使う言葉だ。暴徒という言葉の印象は、現存するものをぶち壊し、めちゃくちゃにしてしまう人間、という印象を受けるが、革命家たちは、それを『再構築(リストラクチャリング)』だと考えているのだ。
かの『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリストには興津点があり、
それは、
- 親の職業を継がなかったこと
- 伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと
- 人一倍の努力家であったこと
- 確固とした信念を持ちそれを貫いたこと
- 見据えた的の規模が大きすぎて周囲の理解が追いつかなかったこと
というものだった。彼らは断固として自分の旗に記した主義を貫き、そこにある圧倒的な権力(神、真理、原則等)を信じ抜いた。しかし孔子は、今でこそ中国を代表する大学者や聖人とされているが、同時代人の多くからは、出来もしないことをしようとしている、身の程知らずや物好き扱いされていた(憲門第十四-四十)。ブッダも、カースト制度を否定したことで、バラモン教徒から白い目を向けられていた。ソクラテスやキリストなど、無実の罪で処刑されているのだ。これは彼らが『暴徒』だと認識された証拠であり、同時に、彼らが『革命家』であるという証拠なのだ。
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