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芥川龍之介『周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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ふむ…。

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目次

考察

だとしたら死ねばいいだろ。と思ってしまったが、芥川は自殺している。従って、軽率にそう言い捨ててはいけないようである。それであれば、別の観点から考えたほうがよさそうだ。というよりも、私にはその気持ちは馬鹿みたいによくわかるのだ。わかるが、彼の様に自殺は絶対にしない。それが良いか悪いかはさておき、恐らく、私ほど強いられていたかどうかは首をかしげる。

いや、強いられていたことだろう。だがそれは、精神的な話だ。何しろ、『強いられていた』と考える人や、『向上できる試練だ』と考える人がいるのだ。つまり、私とて、肉体的なことで言えば、特殊部隊で日々ハードな訓練を重ね、沼地でヒルに血を吸われながら、竹の筒を水面に出し、そこから空気を吸って、そこで3日間とか、一週間じっとする、という様な訓練は浮けていない。

だとしたら、私はそういう彼らよりもまったく『強いられていない』わけで、というか、その訓練さえも『楽しい』と思っている人がその中にいるのであれば、結局、強いられるということは精神的な話だ。

しかし、我々が生きる世界は、地獄か、天国か。かくも虚ろで、この虚無たる混沌の闇の中で、必ず朽ち果てる運命を強いられた人間は、生きている意味があるのか。ないのか。何が幸福なのか。何が不幸なのか。作家の五木寛之氏は著書『大河の一滴』でこう書いている。

あるシベリア帰りの先輩が、私に笑いながらこんなことを話してくれたことがある。

『冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這い寄ってくるのを感じると、思わず心が弾んだものだった。それは隣に寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからね。シラミは人が死にかけると、体温のある方へ一斉に移動するんだ。明日の朝はこの仲間の着ている物をいただけるな、とシラミたちを歓迎する気持ちになったものだった。あいだに寝ている男が死ぬと、両隣の仲間にその死人の持ち物、靴や下着や腹巻や手袋なんかを分け合う権利があったからね。』

生きてるだけで幸福なのか。それとも、この世は地獄そのものなのか。五木寛之は、著書『人生の目的』でこう言っている。

『地獄は、場所ではない。それら(※負の連鎖を断ち切ること)が出来ない執着にまみれた醜い人間が生活する世界のことを、地獄という』(中略)そして、その『地獄』から抜け出すために、解放されるために、 『真理』や『信仰』の力を借りる。宗教とは、そんな地獄に差す一片の光である。

太宰治は言った。

あるいは、小説家、吉行淳之介がこう言うように、

人間は、存在しているだけで、とても醜いのだろうか。それを受け入れなければならないことが、苦しいということなのだろうか。真理や宗教の力を借りるのは、そこから目を逸らして、心を緩和させようとする試みなのだろうか。そんなことをやっても、結局人は『悪』なのだから、気休め程度にしかならないのだろうか。

どうしてもここに付け加えたい考え方がある。聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。

更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

ブッダは言った。

ブッダ

ここまで考えたか。ここまで考えての、『苦しい』ということなのだろうか。高潔な精神を持つ人間ほど、その真っ白な色が染められることに敏感であり、自分の意志とは関係ない他の要素に染められていくことは、耐えられないだろう。

だが、『その発想』は合っているのだろうか。『人間の初期設定』は、完全無欠で、清廉潔白、純粋無垢な生き方が『出来る』としているのだろうか。それとも、『それは人間本位の発想』なのだろうか。熟慮したい。その『熟慮』も、人間だけがなし得ることだ。せっかくなのだから、それをマイナスに捉えず、プラスに捉えて、熟慮さえ楽しみたい。

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補助的分析(AIによる語彙・背景・正確性の中立整理)

※本節では、運営者の内省(言葉だけを見て内省した解釈)ではなく、AI(ChatGPT)による「中立性」と「正確性」を基準に、今回の名言を整理します。名言の多くが出典未確認である現実を踏まえつつ、語彙・背景・意味領域を客観的に位置づけます。

名言提示(再掲)

芥川龍之介『周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。』

一般的な解釈

この言葉は、「人は他者の醜さだけでなく、自分自身の内面にも醜さを見いだす存在であり、その“現実の直視”こそが生きる苦しさを生む」という趣旨を持っています。芥川は、人間の心理・倫理・自意識の暗部を深く観察し、外界と自己の両方に潜む“醜さ”を避けず、あえて直視する苦痛を文学の核心として描き続けました。

思考補助・内省喚起

この名言は、「自分は外部の醜さだけを責めていないか」「自分自身の醜さも同じだけ見つめる覚悟があるか」という問いを与えます。
日常において私たちは、
・他者の欠点は見えるのに、自分の欠点は見えにくい
・外への怒りで内面を見ることから逃げる
・自己反省を避けるために周囲を批判する
といった傾向を持ちがちです。
芥川は、他者と自己双方の醜さを同時に見つめる“精神の成熟の痛み”を提示しています。

翻訳注意・文化的留意点

文化的背景:
「醜い(ugly)」は単なる外見の悪さではなく、moral ugliness / spiritual ugliness を含む広義の醜悪。
「目のあたりに見る」は to witness directly が自然。

自然な英訳構築例:
“To see the ugliness of others — and of oneself — and still go on living while facing it directly, is a painful thing.”

芥川の“静かで容赦ない観察”の語感を保つ必要がある。

出典・原典情報

※出典未確認
複数媒体で引用されるが、一次資料(随筆・書簡)の直接確認が不足している。語録化の可能性がある。

異訳・類似表現

異訳例:
「周りも自分も醜い。その現実を見つめ続けるのは苦しい。」
「世界と自己の醜さを直視することは、人にとって耐えがたい。」

思想的近似例(日本語):
「己の醜さを認める者は少ない。」── ※一般表現
「外の闇を見る者は、自らの闇も必ず見る。」── ※意訳構文

思想的近似例(英語):
“The ugliness you see outside reflects the ugliness within.” ── ※一般表現
“To face oneself is the hardest task.” ── ※思想的類似構文

タグ(思想分類)

#自己認識 #心理洞察 #醜悪性 #実存痛苦 #内省軸 #倫理意識 #人間理解 #精神構造

語義分解(主要キーワード)

用語 定義 補足
周囲は醜い 他者の欠点・腐敗・偽善など 観察によって容易に気づける
自己も醜い 自己の弱さ・歪み・二面性 気づくには強い内省が必要
苦しい 現実を直視したときの精神的痛み 成熟の前段階に現れる葛藤

位置づけ構文(思想国家における構文的機能)

この名言は、「他者と自己の醜悪性を同時に認識することの痛み」という命題の再定義を行う構文です。構文としては、

  • 外界/自己の対比構造
  • 現実直視を避けない価値転換構文
  • 内省を伴う成熟の痛みを示す価値主張構文
    に分類され、思想国家の「内省軸」「実存痛苦軸」「倫理判断軸」と強く連動します。

感受対象(思想UX設計における対象読者)

・自己欺瞞に苦しむ読者
・外界への怒りと自己嫌悪の両方を抱える層
・心理理解や深い内省を必要とする思想層
・実存的苦悩と向き合う読者

この言葉を更に5つの視点から再考する

➡ 『周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。』をさらに深めて読む
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