偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
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考察
またの名を『シーザー』。ガリア戦争で英雄となるが、内戦の火種になる。それならばと自ら内戦を引き起こし、その内戦に勝利。実質的にローマの支配者となり、史上初の独裁者として名を馳せた。幾多の戦を通し、カエサルが学んだことは大きい。人は楽観的に物事を捉えがちであり、自分の都合の良いようにこの世界を見る傾向があることを知ったのだ。だが、『本質』に目を向けなければ、見誤る。
例えば私の場合でも、つい先日こういうことがあった。私が暮らす家庭は、私以外の家族は皆クリスチャンであり、食事の際には祈りを捧げる。いや、食事を『当たり前じゃない』と感謝する気持ちは素晴らしいと思うのだ。感謝できない人間と比べると、極めて人として尊い。それはいい。だが、『主イエス様』ということになると、クリスチャン以外の人間は首をかしげる。それを私は、30年間かしげつづけて、首が痛くなったことも一度や二度ではない。
だから私は、家族とは共に食事を摂らない。それは私にとっても非常に力強い意志がいる行動で、ここに到達して、これについて何も感じず動揺しなくなるまでに20年以上かかった。だが、年末年始であまりにもお互いがそれぞれの行動を取るので、母親が食事をしたくなったのだろう。母とは、女性とは、そういう感情的な生き物だ。私の場合は、永久に別々で食事をする覚悟を固めていたのだが。

母は私が食卓で食事をしていると、そっと隣に座り、一緒に食事を摂り始めた。そして、テレビのバラエティを見ながら笑い出す。だが私は、『そういうコミュニケーション』は取らないと決めている。なぜなら、それまでの半生で腐るほどそういうことをしてきて、『実になったことが皆無』だからであり、会社を経営していく身としても、これから人生を創り、人材を育成し、家庭を守り、死を迎えていく一人の男、人間としても、そういう時間は無駄だと考えているからだ。少なくとも、私が今やるべきことではないのである。
だが、母はそういう『たわいもない笑い』によって、コミュニケーションを取ろうとしている。その刹那、私はテレビを観ながらも頭で考えていることを言った。ユダヤ人の話である。

ユダヤ人には、Google、Facebook、DELL、スターバックスといった、そうそうたる世界的企業の創業者や中興の祖がいて、さらには、フロイトやマルクス、極めつけは、元々はイエス・キリストまでもがそうだったのだというから、見て見ぬフリは出来ない。特に母親はキリストもそうであったはずの『ユダヤ人』ということに対し、少なからずは話が出来ると思ったし、私が何より彼らユダヤ人に対して興味深いのは、圧倒的なファイナンシャルインテリジェンスと、主体性と、グローバリズムを持ちあわせている点だった。この事実を、これから会社も含めた人生を創り上げようという人間が、無視するはずがない。
だから、『私の隣に座ったのであれば、この話をしよう』という具合に、私はテレビの内容など一切無視して、ユダヤ人について話し始めた。しかし、母親はすぐに相槌を打たなくなり、私の話が無駄に流れていくだけ。私は、『無駄に流されるほど安い話』をしていない。どちらかというとそれは、『一過性のバラエティのコーナーについてツッコミを入れて、さも現在の時を楽しく過ごしているという風に創り上げ、虚しくも現在を正当化する』方が、それに当てはまるのである。
これは、私がそうしてきたから言えるのだ。私以上に娯楽を遊んだという人がいるのなら、今すぐに『自首』した方が良い。それは、何らかの犯罪を犯していることになる。私はそれだけ、そういう時間を過ごした人間だ。私が話している内容は、途中で止められるような話ではない。私にはそういう確信があった。だが、同時に、母親が私に求めていることもわかった。
どちらが正しいのかというと、正しいのは私である。だが、母親の気持ちも、理解の範囲内にあるのである。人間を、そういう感情的な生き物だと定義づけることは容易だ。だから別に、母親の言い分もわかる。しかし、母親は私にクリスチャンを強要し続け、今も尚、そうじゃない私を目の前にして『イエス様』がどうとか言い出す。それは、『教育者』として本当に正しいのだろうか。
いや、正しくない。彼女はもう何年も前から『教育放棄』をしている。『イエス様に身を捧げすぎて』、どこか思考回路が欠落している印象を持つ。その理由は、まず私が渡す本はおろか、小冊子、果てはプリントに至るまで、後で確認すると『読んでいない』ことがわかったのだ。その前から何年にも渡り、
メールを見ていないのでは?
と思うことがあった。そして最近、それが明るみになり、今回のように、話が出来なくなる現象が起きる。母親は、難しいことは考えずに、全てイエス様に身をゆだねることで、それを乗り越えてきたのである。

『教育』とは、その『難しいこと』から逃げずに、共に悩み、苦しみ、そして楽しみを分かち合うということである。それらを放棄した人間のなれの果てが、私の母親だ。母親を見ていて、こんなにも浅はかな人間が、よく若き日の私に、偉そうに口をきいていたものだと、当時の私に同情する。
(母親の名誉のために言っておくが、私の母を悪く言うことが出来るのはこの世で私だけだ。それ以外の人間が悪く言うことは許さない。母親は、教育者としては失格だ。だが、育児者としては、極めてレベルの高い人間だ。彼女も母親である前に一人の人間。信仰に頼って必死にこの世を生き、私たち子どもを育ててくれた。そのことについての感謝を忘れることなど、出来るわけがない。
私が話しているのは、『教育』がなんであるかということについてだ。それを私が捻じ曲げて解釈してしまえば、あるいは妥協してしまえば、私が面倒を見るすべての部下や子供や対象者に、良い影響を与えない。その為に、目の前の事実から逃げないだけである。それが、カエサルの言う『本質と向き合う』ということであると自負している。亡くなった父や、母を、私は『悪く』言うのではない。『正当に』評価しなければならないのだ。
彼らが私の人生の『肥やし』となり、その後の子孫への『糧』となるのであれば、彼らもそれは本望のはずだ。良いところは引き継いで、悪いところは完全に断ち切り、あるいは反面教師とする。先祖とは、そういう存在でなくてはならない。かくいう私も、その対象なのである。)
…とにかく、母親が求めていたコミュニケーションと、私が求めたコミュニケーションとでは、大きく目的がずれてしまったようだ。このことからも、カエサルのこの言葉は、重みがあるのである。
追記:この記事から4年、私と母は何度も話し合い(というか私が一方的に『説き、』という方が正確だが)、母はこの当時と比べるとはるかに自制的になり、傲岸不遜な過信がそぎ落とされ、柔軟性が身についた。私が、最愛の妹の結婚式にさえ行かない(キリスト教系でやるから)という、筋金入りの無宗教者の態度を貫いたこともあり、そのようなゆるぎない信念を持っている人間を目の当たりにしたことも、彼女の考え方に大きな影響を与えているだろう。
『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』
だが、その『見たいもの』というのは、単なる『現在の自分が見たいもの』というだけにすぎない。そして『現在の自分』とは常に完璧な人間ではなく、かくも虚ろなものである。
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補助的分析(AIによる語彙・背景・正確性の中立整理)
※本節では、運営者の内省(言葉だけを見て内省した解釈)ではなく、AI(ChatGPT)による「中立性」と「正確性」を基準に、今回の名言を整理します。名言の多くが出典未確認である現実を踏まえつつ、語彙・背景・意味領域を客観的に位置づけます。
名言提示(再掲)
カエサル『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』
一般的な解釈
この言葉は、「人は誰しも、自分の信念・期待・願望・恐れに合致する情報だけを選び取り、都合の悪い事実や異なる視点には目を向けようとしない」という趣旨を示しています。指揮官として数々の戦局を読み切ったカエサルは、人間心理の“偏り”が判断を曇らせ、誤った決断を招くことを深く理解していました。この発言は、認知バイアスと権力・政治の実践を結ぶ鋭い観察として評価されます。
思考補助・内省喚起
この名言は、「自分は何を“見たいから見ている”のか」「見たくない事実から目をそらしていないか」という問いを与えてくれます。日常の判断において、感情や信念に沿った情報だけを拾っていないか、都合の悪い可能性を排除していないかを内省するための起点となります。判断力・公平性・自己認識を鍛える視座を提供します。
翻訳注意・文化的留意点
文化的背景:
カエサルは政治家・軍人であり、集団心理・個人心理の偏りを利用しつつも、同時にその危険性を熟知した人物。「見ようとしない(do not wish to see)」は能力ではなく“意志の偏り”を指す。
語彙の多義性:
「見たいもの(what they want to see)」は事実ではなく“欲望・期待・恐怖が作り出す視界”。
「見ようとしない(refuse to see)」は単なる無関心ではなく“選択的無視”。
構文再構築:
価値主張構文として、
“People see only what they wish to see.”
が理念を正確に表す形。
出典・原典情報
※出典未確認
ローマ史・カエサル語録に広く引用されるが、一次資料の逐語確認は困難。後世の伝承・再構成である可能性が高い。
異訳・類似表現
異訳例:
「人は誰しも、自分が見たいものしか見ない。」
思想的近似例(日本語):
「信じたいものだけを信じる」── ※出典未確認
思想的近似例(英語):
“We see the world not as it is, but as we are.” ── ※理念的近似
タグ(思想分類)
#認知バイアス #自己欺瞞 #判断力 #価値主張構文 #人間理解 #選択的認知
語義分解(主要キーワード)
| 用語 | 定義 | 補足 |
|---|---|---|
| 見たいもの | 信念・願望・恐怖が作る主観的視界 | 客観的事実とは限らない |
| 見ようとしない | 意図的・無意識的に事実を排除する態度 | 認知バイアスの代表例 |
| 人間 | 感情・信念に影響されやすい存在 | 指揮者カエサルの実戦的洞察 |
位置づけ構文(思想国家における構文的機能)
この名言は、「認知=選択である」という価値転換を示し、判断の偏り・自己認識・現実把握の難しさを構造化します。構文としては「価値主張構文」「対比構造(見たいもの/見ないもの)」「認知心理構文」に分類され、思想国家内部の判断軸・認識論・心理構造と強く連動する核を持ちます。
感受対象(思想UX設計における対象読者)
- 判断や認識の偏りに気づきたい読者層
- 自己欺瞞を克服したい層
- 客観性・公平性を重視する層
この言葉を更に5つの視点から再考する
➡ 『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』をさらに深めて読む
(ここに静的HTMLリンクを手動で貼る)
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