偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
人間性を考えるとき、凶悪な事件を思い浮かべることになる。あんなにも残忍な事件を、よくもまあ同じ人間としてやってくれたものだ。被害者や遺族を考えただけで胸が引きちぎれそうになり、加害者を考えただけで怒りがこみあげて来る。一体人間とは、何なんだ?何であんなことをするのだ?罪を犯した事が無いと思っている人間が考える発想は、往々にしてそういうものである。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ。』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した(差した)』人間には『罪(魔性)』が宿った。
太宰治は言った。
モンテーニュは言った。
さて、自分たちが『罪を犯していない』と思っている人は、なぜ今こんな記事を見ているのだろうか。そんな暇があったら、他にやることがあるだろう。もし自分に『罪が無い』と言うのであれば、遠い他国だが、子供が理不尽に殺され、女性が理不尽に強姦され、不治の病や疫病に苦しみ、食料を奪い合っての殺し合いが行われているというのに、テレビを観て、友達としゃべって、ゲラゲラと笑っているのはつじつまが合わない。
見るべきなのは以下の黄金律だ。
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これを理解したうえで、この話にたどり着かなければならない。そうしなければ、一人一人が独自解釈した考え方のモデルが出来上がってしまい、多様性こそ出来上がるものの、そのオリジナリティゆえに差異が生まれ、そしてそこから不和が生まれる。そして、『何が聖性で、何が魔性なのか』という答えが各人でバラバラになり、
ある人は、

と言い、ある人は、

と言い、ある人は、

といったように、対立の種が生まれてしまうことになる。我々は人間である。個性があっていい。多様性があっていい。人間性があっていい。だが、その『在り方』を間違えている以上は、世界平和が実現されることはないだろう。
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