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もし徳川家が創業者一族を優先して腐敗せず、もっと早くに徳川慶喜が将軍になっていたら、『大政奉還』はなかったのかもしれない

大政奉還


上記の記事の続きだ。1864年の禁門の変以降にこれだけのことがあった。


  • 『第一次長州征討』1864年7月
  • 『功山寺挙兵』1865年1月
  • 『薩長同盟』1866年1月8日
  • 『寺田屋事件』1866年1月23日


そしてそのすぐ後、1866年6月には『第二次長州征討』が宣言されるが、一度目に参加した薩摩藩はすでに『薩長同盟』を結んでいる。したがって、長州を討つその命には応じられない。これで幕府は完全に地に落ちることになる。1860年の『桜田門外の変』で井伊直弼が暗殺されてから、いやもちろん暗殺されるような事態に陥る前から江戸幕府には腐敗が蔓延していて、かつて徳川家康、秀忠、家光時代にあった権威は弱体化し、討幕の対象になってしまったのだ。

[幕府陸軍(1866年)]

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そんな中、江戸幕府は最後の将軍の時代がやってくる。徳川慶喜である(在職:1867年1月10日-1868年1月3日)。この在職期間を見てもわかるが、彼はわずか一年でその身を引くことになった。一体どうしてだろうか。ちなみに彼が亡くなったのは1913年、大正の時代だった。

[慶応3年(1867年)大阪での慶喜]

下記の記事に書いたように、井伊直弼が暗殺された後すぐに、安藤信正が指揮を執るが、公武合体を目指したがゆえに暗殺未遂に遭う。そんな中、薩摩藩が13代将軍家定の妻、篤姫などを通じて幕府の舵を取ろうとし、下記のような取り決めを行った。

文久の改革

将軍後見職一橋慶喜
政治総裁職松平慶永
京都守護職松平容保(かたもり)。会津藩。
参勤交代3年に1度へ。妻子を国許に済ませることも可能に
謹慎者謹慎解除
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薩摩藩幕府側から国を動かす
長州藩朝廷側から国を動かす

このような図式があり、それぞれがそれぞれの考えでこの国を立て直そうとしていたのだが、方向性が微妙に違うことから関係は悪化。しかし、坂本龍馬と中岡慎太郎が彼らの心底にある共通点を見つけ、『薩長同盟』を締結させる。大きな力を持っていた薩摩藩と、テロリズムで日本を脅かしていた長州藩が手を組むことで、幕府にとっては大きな脅威が生み出されたことになる。

かつて、次の14代将軍を、『一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)』にするか『徳川慶福(よしとみ)』にするかでもめていた時期がある。彼らのことを簡単に説明すると、

  • 実力者:慶喜
  • 創業者:慶福

である。しかし、井伊直弼が慶福を推し、14代将軍は慶福(家茂)となる。

中心人物掲げる人物
一橋派松平慶永、島津斉彬一橋慶喜
南紀派井伊直弼徳川慶福
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だが、その井伊直弼がが死亡し、そして家茂も1866年8月29日病没したわけだ。まさに『第二次長州征討』の2か月後のことだった。かつてはこのようにして派閥が分かれたが、状況も状況。創業者一族よりも実力を第一にするべきだと今更気づいても遅いが、しかしこのとき幕府の内外からは慶喜に期待する声が上がった。

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最初からそうするべきだったんだ!

慶喜は最初この話を断った。何度も断り、12月に引き受ける。その理由は『その後の主導権を取るため』と言われるが、確かにそれだけのことを冷静にこなしてみせる風格が彼にはあったという。彼に対し、フランス公使のロッシュと、得イギリス外交官アーネスト・サトウはこう言っている。

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アーネスト・サトウ
これまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌を備えたひとり。

更に彼の父である、『偕楽園』を作った徳川斉昭、そして長州の木戸孝允もこう言った。

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木戸孝允
慶喜の胆略は決して侮ることはできない。実に徳川家康の再来を見るようである。

やはり、この男はそれだけの実力者だったのだ。そんな彼を、創業者一族を優先して埋没させてしまった井伊直弼ら南紀派は、何かに目が眩んで公明正大な判断ができなくなっていて、腐敗を疑われても当然だったのかもしれない。

[月岡芳年『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』
船で大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵]

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鳴り物入りで満を持して将軍の座に就いた実力者慶喜は、一体何をしたか。それは、『大政奉還』である。しかし、表面だけしか話を見ないと、実態が見えない。つまり、慶喜が実力者であるという話に触れなければならない理由があったのだ。

さて、彼が将軍の座に就いたころ、孝明天皇は死去し、明治天皇が即位していた。そんな中、あの坂本龍馬や薩長同盟は何をしているのか。龍馬が元々いた土佐藩は、薩長同盟の成立に焦って、土佐の後藤象二郎を送り、龍馬と会談させる。龍馬は土佐藩を脱藩した身だが、この時和解。そして、亀山社中を『海援隊』と改名し土佐藩の外郭機関として設置。龍馬は龍馬で、土佐藩としての活動も視野に入れ始めていた。

1867年6月、龍馬は後藤に対し、『船中八策』を示す。

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という内容の話を伝えた。

船中八策
坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の1867年に起草した新国家体制の基本方針とされるものの俗称 。

後藤はそれに共鳴し、土佐藩主、『幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)』である山内豊重に伝えた。

幕末の四賢侯

  1. 福井藩第14代藩主:松平慶永(春嶽)
  2. 宇和島藩第8代藩主:伊達宗城
  3. 土佐藩第15代藩主:山内豊信(容堂)
  4. 薩摩藩第11代藩主:島津斉彬

これを承諾した山内は、公武合体派だった。しかし、もはや佐幕(公武合体)と倒幕(尊王)の対立を止めることはできない。そして、薩長同盟が組まれた今、武力衝突になれば幕府は甚大な被害を被り、最悪の場合は『敗北』という形であっち(討幕派)に主導権を握られることになる。それであれば、武力衝突が起きる前に天皇に政権を返上し、『前始末』をすればいい。山内は慶喜にそう助言をしたのだ。

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すると、慶喜もそれを受諾。1867年の10月には『大政奉還』を申し出たのである。

[「大政奉還図」邨田丹陵 筆]

大政奉還
大政(政権)を朝廷に奉還(返上)すること。

かつて、中大兄皇子が『天皇を中心とした集権国家づくり』を作るために、中臣鎌足と『乙巳の変』からの『大化の改新』を起こし、力をつけていた豪族の蘇我氏から政権を皇族が握ったのが645年。

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班田収授法によって年貢を納めるシステムができ、その『資産』である田んぼを巡って様々な問題が生じ、その中で、それを守るために武装集団が結成され、その中からこの国に『武士・侍』が生まれる。

武士武装化した有力農民、豪族、下級貴族の子孫
貴族の身辺警備のための武士
滝口の武士宮中の警護のための武士

622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、ここで現在でも世界中の人が『日本』と聞いて連想する『忍者、侍』といった役者が揃うわけだ。

忍者600年頃
武士、侍900年頃
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戦国時代の端緒となる出来事嘉吉の変(1441年)
戦国時代が実際に始まった時期享徳の乱(1454年)
戦国時代に突入したと言える時期応仁の乱(1467年)
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戦国時代に突入した明白な境界線明応の政変(1493年)
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あれから264年。1867年10月に、ついに『大政奉還』となる。奇しくも、江戸幕府の実権を握った徳川将軍は、室町幕府時代の足利将軍同様、15代将軍で幕を閉じることになった。

鎌倉幕府1185~1333年148年
室町幕府1336~1573年237年
江戸幕府1603~1867年264年

これは一見すると、

『坂本龍馬・西郷隆盛・木戸孝允』らの討幕派グループが、腐敗した徳川政権・江戸幕府を討ち、『大政奉還』させて政権を奪って朝廷に返した

というストーリーに見える。たしかにそれは一理ある。だが、実はこの大政奉還は慶喜の政権返上ではなかった。実力者慶喜には思惑があった。

長い間政権とは無縁だった朝廷に権利を譲ったところで、どうせ実権を握るのは幕府になるだろう。

という狙いがあったのだ。さすが慶喜。ほとんど絶体絶命という状況で将軍の座に就いた中で、幕府生き残りのための最善策を模索し、それを打ち出す。この男がもっと早くに実権を握っていたなら、江戸幕府はもう少し長く存在していたのかもしれない。

だが、そうした狙いを察知した岩倉具視(いわくらともみ)が1867年12月に『王政復古の大号令』を出す。これによって、朝廷主導の新政権樹立が宣言され、江戸幕府は完全に廃絶することになってしまった。更に慶喜は内大臣の蜀の辞退と、領地の返上を命令され、身動きが取れなくなった。

慶喜はその後、薩摩征討を企てるが、朝廷から慶喜追討令が出たことを知り、後事を勝海舟に託して自らは上野寛永寺に謹慎。静岡で隠棲生活を始めたときは、まだ32歳だった。彼が徳川15代将軍として活躍したのはわずか1年。もし彼がもっと経験を積み、実力に磨きをかけていたなら、討幕派は苦しんだに違いない。

慶喜は61歳の時、宮中に参内し、明治天皇に拝謁(はいえつ)。対面後天皇は伊藤博文に、

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と言ったという。敵も味方も外国人もその器を認める。徳川家最後の将軍は、そういう男だった。

拝謁
身分の高い人に会うことをへりくだっていう語。

[大政奉還が行われた二条城の庭 筆者撮影]

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