

上記の記事の続きだ。足利義詮から将軍の座を受け継いだ、三代将軍、足利義満。彼がやったことを先にまとめると、
- 山名氏の権力を衰退させる
- 約60年続いた南北朝を合一させる
- 室町殿(花の御所)に幕府を移す
- 明から『日本国王』の称号を受け、日明貿易を始める
まず彼がやったのは、日本60余州のうち6分の1にあたる11か国を支配下としていた山名氏を衰退させたことだ。冒頭の記事に書いたように、先代の義詮が『半済令』を出し、守護大名に強い権限を与えた。しかし、それによって逆に彼らが強い力を持ちすぎるようになり、幕府にとっての危険因子となっていたのだ。
当時、山名氏清(うじきよ)は中国・畿内に一族合わせてそれだけの領土を得ていて、『六分の一殿』と言われるほど権力を持っていた。しかし、家中の内部分裂があり、これを義光が利用し、『明徳の乱』を引き起こす。この反乱によって山名氏は、山陰の3か国に封じ込められた。
そうして山名氏を弱体化させ、敵を潰したところで、南北朝問題にとりかかる。大内義弘(よしひろ)を刺客として送り込み、和解を画策。この大内も、中国地方6か国の守護大名だった人物だ。南朝には天皇が代々受け継ぐはずの『神器』があるし、いつまでも朝廷が二つあることはよくない。そう考えた義光は、当面の敵を片付け、南朝が有力武将を戦死させて失ったこのタイミングで、南北朝合一を試みた。

1392年、もはや南朝には北朝に逆らう体力もなく、後醍醐天皇の孫、後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に天皇の位を譲り、これが実現された。かつて争った『足利尊氏、後醍醐天皇』はもうこの世にはいないし、それぞれがすべてを捨ててまでしてこの南北朝時代を死守する理由はなかったのだ。この合一があり得たのも、元々の原因である大元がいなかったことが大きく影響しているだろう。
そして義光は京都の室町に『花の御所』といわれる屋敷を建て、ここを幕府運営の中心にした。庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置していたので、そう呼ばれていたのだ。

鎌倉幕府の時代はこういうシステムがあった。
鎌倉幕府
| 将軍 |
| 執権 | 連署 | 評定衆 |
| 政所 | 一般政務と財務 |
| 侍所 | 御家人の統率や軍事、警察 |
| 寒中所 | 訴訟・裁判を処理 |
これが室町幕府になると、こうなる。
室町幕府
| 将軍 |
| 管領(かんれい) |
| 侍所 | 政所 | 評定衆 | 問注所 |
将軍の補佐には『管領』という立場があり、足利氏と血縁関係がある、
- 斯波(しば)
- 細川
- 畠山
の3家が交代でそれを務めた。そして京都の警備や裁判をつかさどる侍所の長官『所司』は、
- 山名氏
- 赤松氏
- 京極氏
- 一色氏
の有力な守護大名から任命され、彼ら有力7家を『三管領・四職』といった。地方には、
| 鎌倉府 | 関東地方 |
| 九州探題 | 九州地方 |
| 奥州探題 | 東北太平洋側 |
| 羽州探題 | 東北日本海側 |
| 守護・地頭 | 各地方 |
として全国地方の統治システムを完成させた。そして関西である京から離れた関東、鎌倉府には、『鎌倉公方(かまくらくぼう)』という立場を足利一族から任命し、その補佐役に『関東管領』を置いて、さしずめ『関東版幕府』を作った。
鎌倉府
| 鎌倉公方 |
| 関東管領 |
| 侍所 | 政所 | 評定衆 | 問注所 |
つまり大きく分けるとこうなる。
| 関西 | 室町幕府 |
| 関東 | 鎌倉府 |
この2つの二大拠点を軸に、全国各地に統治システムを用意し、国の支配を進めたわけである。
そして『日明貿易』だが、これは『倭寇(わこう)』という当時勢いがあった海賊対策としての一面もあった。下記の記事に書いたように、当時明は『北虜南倭(ほくりょなんわ)』に苦しんでいた。
| 北慮 | 北のモンゴル系の異民族 |
| 南倭 | 南方海岸を荒らした海賊『倭寇(わこう)』 |
モンゴル系民族『オイラート』が北方を脅かし、明は再び万里の長城の重要性に気付く。そして、現在我々が知る今の万里の長城の形が作られていくようになる。また、倭寇も中国東海岸や朝鮮半島沿岸部で海賊行為を行い、明の頭を悩ませていた。


1402年、明の皇帝が義光を『日本国王』にしたのは、倭寇の取り締まりをしてもらいたかったからでもあった。よって、本来この時代は、明に貢物をして国際秩序を保つ『朝貢貿易』という特徴があったが、
- 滞在費
- 運搬費
は明が負担し、貿易自体は輸出品に対して数倍の輸入品が得られるという日本に有利なものだった。この『倭寇』とは、『倭』というぐらいだから初期のグループは日本人だと思われていた。そして後半が中国人グループになったと考えれていたが、近年これは『朝鮮人グループ』だということがわかってきた。

- 日本
- 朝鮮
- 中国
当時、これらの国の境界領域に、民族的な出自と言語・服装が一致しない人々『マージナル・マン(境界人)』が存在していたという。彼らはどの国家にも属さず、彼らのような人物がこの倭寇として行動したと考えられている。
さて、実はこの日明貿易の前に、義光はちょっとした危機に直面していた。1399年にあった『応永の乱』である。先ほどからちょくちょく『守護大名』という地方で力を持った人物の名前が挙がっているが、そのうち、南朝に刺客として送られた大内義弘が、すでに始まっていた明との貿易で力をつけ、反乱を起こしたのだ。だが、これも結局義光が冷静に挑発し、鎮圧。大内はこの世を去った。
このようにして、国内、国外における問題を次々と解決していくクレバーな立ち回りが、足利義満が室町幕府の絶頂期を築けた理由だ。その意味で、彼は『足利家最高の名将軍』と言っていいだろう。更に彼には『太政大臣』という肩書も得ていて、朝廷から上皇に匹敵する礼遇を受け、一時は彼が『皇位簒奪』の意図もあった野心家と噂されたこともあった。
だが、それは現代人の噂話だ。最近になって彼にそこまでの意図はなく、彼が優遇されたのも、他の者の忖度だったとわかり、逆に彼が周囲の者から手厚く敬われる実力者だったことを裏付けた形になった。義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持(よしもち)は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。

1408年、室町幕府を飛躍させた名将軍、義光はこの世を去った。四代将軍は彼の子である義持だったが、9歳で将軍になった彼だが、裏で操っていたのが義光だった。異母弟の義嗣(よしつぐ)ばかり優遇されたこともあり、義持は父、義光と確執があった。その称号を断ったのも、そうした不和があったことも一因と考えられている。
実は、倭寇対策の件で明の皇帝、永楽帝からは労いの手紙を得ていた義満だったが、形式的には日本は明の『属国』となってしまっていた。それでも貿易、つまり利益を優先して日明貿易を続けていたわけだが、義光を嫌った四代将軍義持は、これを廃止することを決断。
義持がやったこと
- 日明貿易の中止
- 花の御所を破壊
- 義光への大上天皇追号を辞退
- 武家政権への転換
しかしさすが義満の息子ということもあるのか、有能だった彼は守護大名たちとの関係も安定化させ、次の五代将軍義量(よしかず)へバトンタッチする。そして父同様、裏で彼を指示して政権を握ろうとしたのだ。しかし、義量はすぐに死去してしまい、義持も倒れた。予期せぬ要人の不幸に対応できず、次の将軍はなんと『くじ引き』で決めたという。

そして六代将軍に選ばれたのが義教(よしのり)だ。しかし彼は『くじ引き将軍』と揶揄され、嘲笑されてしまった。だが、その流れが彼の心の形を歪めた。
足利義教…。そうか。では、我に逆らう者は皆殺しじゃ!
そして彼は『万人恐怖』と史料に載せられるほどの恐怖政治を行ったのだ。
足利義教がやったこと
- 管領の補佐を受けずに独裁する
- 足を引っ張る守護大名を殺害して領地を没収
- 寺社や公家勢力を容赦なく弾圧
- 背く者や罪人を次々と処刑する
- 明との国交回復を図り日明貿易を再開させる
最後に『日明貿易の再開』とあるが、それ以外の項目が強烈すぎて、彼の印象は恐怖の独裁将軍となってしまった。しかし、そうした義教の行動に対し、東日本のトップ、鎌倉公方の足方持氏(もちうじ)はよく思わなかった。
足方持氏くじ引き将軍のくせにあの野郎、俺が将軍になるべきなんだ!
元々鎌倉府と幕府はあまり仲が良くなく、鎌倉公方の補佐、関東管領との間でいざこざがあった。1438年、そうした状況の中この『永享の乱(えいきょうのらん)』は起こり、義教がこれを鎮圧し、持氏は自害して騒ぎは収まった。
だが、義教は依然『恐怖将軍』のままだ。多くの有力者が殺され、排除されていく中で、窮鼠が猫を噛む。つまり、あまりにも追い込みすぎたので鼠(ねずみ)たちは牙をむき始めた。立ち上がったのは播磨の守護大名、赤松満祐(あかまつみつすけ)だ。
赤松満祐冗談じゃねえぞ将軍め!このまま黙って殺されるくらいなら、むしろあいつを殺しちまえ!

1441年、こうして『嘉吉の変(かきつのへん)』は起きた。赤松が義教を自宅の宴会に招き、そこで殺害したのだ。急な展開で七代将軍になったのは、義教の息子の義勝。しかしかれは在任8か月で急死。10歳のことだった。
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論点構造タグ
(記事が扱うテーマ・思想軸・批判軸を抽出)
- 室町幕府の「絶頂」とされる足利義満期が、実はその後の混乱の布石も同時に埋め込んだ時代であること
- 半済令→守護大名強化→山名氏・大内氏など「超守護」の誕生と、その抑え込み(明徳の乱・応永の乱)
- 南北朝合一の政治工学:
- 山名氏の勢力削り
- 大内義弘の活用
- 後亀山天皇から後小松天皇への譲位
- 花の御所=室町殿を中心とした「将軍親政+公武一体」的な政治スタイル
- 明との国交(日明貿易)と、「日本国王」称号を受け入れたことで形式的には属国化しつつも、貿易実利を優先した現実主義
- 倭寇(前期~後期)の実像:「日本人海賊」イメージから「境界人(マージナル・マン)」集団としての再解釈
- 義満の「皇位簒奪説」と、その後の再評価(忖度と権勢の結果であり、本人の野望かどうかは別)
- 四代将軍・義持による「反義満路線」:
- 日明貿易停止
- 花の御所破壊
- 大上天皇追号辞退
- 六代将軍・義教の「くじ引きコンプレックス」と万人恐怖政治
- 永享の乱・嘉吉の変に至る、「行き過ぎた独裁への反発」と、赤松満祐の将軍暗殺。
問題提起(一次命題)
(本文冒頭〜導入部で提示された“問い”を圧縮)
なぜ足利義満の時代が「室町幕府の最盛期」と呼ばれ、南北朝合一・守護大名統制・日明貿易などを通じて政治・経済・外交の中心を握ることができたのか。そして、その後なぜ義満路線の反動や義教の恐怖政治へと振り子がぶれ、再び不安定化していったのか。
因果構造(事実 → 本質)
(本文内の因果関係・構造変換・本質抽出)
- 半済令→守護大名強化→超守護の誕生
- 義詮期の半済令によって、守護は年貢半分の徴収権を得て「守護大名」化
- 山名氏清は六カ国+畿内近辺を支配し「六分の一殿」と呼ばれるほどの大勢力に
- 大内義弘も中国地方六カ国の守護として力をつける
→ 守護に権限を与えて幕府支配を浸透させた一方で、「幕府に匹敵する地方大名」を生み出してしまった。
- 義満の第一手:山名氏の分断と明徳の乱
- 山名家中の内部分裂を義満が利用し、明徳の乱(1391)で山名勢力を粉砕
- 山陰三カ国に封じ込め、「六分の一殿」から一地方大名に格下げ
→ 「大守護を叩いておく」ことが、その後の幕府支配の安定条件だった。
- 第二手:大内義弘の処理と応永の乱
- 南朝との関係や日明貿易で大内も危険な存在に
- 応永の乱(1399)で大内義弘を挑発し、挙兵させた上で鎮圧
→ 義満は、「問題が表面化する前に叩く」のではなく、「決起させてから潰す」政治的老獪さを見せた。
- 南北朝合一という「ねじれの解消」
- 約60年続いた南北朝:
- 南朝=後醍醐系(吉野)
- 北朝=持明院統+室町幕府(京都)
- 南朝側は楠木・北畠ら有力武将の戦死で戦力低下
- 1392:後亀山天皇が後小松天皇に譲位し、南北朝合一
→ 尊氏・後醍醐という「当事者」が既に死んでいたこともあり、遺恨が薄れたタイミングでの和合。“義満が歴史をきれいに片づけた”と言える。
- 約60年続いた南北朝:
- 花の御所と三管領・四職・鎌倉府の制度化
- 室町殿(花の御所)を新たな権力中枢に設定
- 三管領(細川・斯波・畠山)が将軍を補佐
- 四職(山名・赤松・京極・一色)が侍所・所司として京都の治安・裁判を担当
- 地方には鎌倉府・九州探題・奥州/羽州探題・守護・地頭を配置
→ 関西=室町幕府/関東=鎌倉府という二重構造のもと、全国統治の骨格が完成する。
- 日明貿易・日本国王称号と「実利優先の属国化」
- 倭寇対策の一環として、明は義満を「日本国王」と認定
- 朝貢貿易の形式だが、
- 滞在費・運搬費は明負担
- 輸出に対し数倍の輸入品が得られる日本有利な条件
→ 名目上は属国的立場を受け入れつつ、実利(貿易利益)を取る現実主義外交。
- 倭寇の正体:マージナル・マンとしての海賊
- 倭寇=日本人海賊というイメージが強かったが、
- 実際には日本・朝鮮・中国の「境界人」が混ざった集団
- どの国家にも完全には属さない「周縁者」
→ 「国民国家」以前の世界では、国境線の内側/外側で人を単純には切れないことがよくわかる事例。
- 倭寇=日本人海賊というイメージが強かったが、
- 義満の評価:皇位簒奪説と再評価
- 太政大臣就任、鹿苑院太上法皇という称号などから「皇位を狙った」という説もあった
- 近年、「義満自身の意図よりも、周囲の忖度と権勢の結果」とする説が有力
→ 義満は、「天皇を押しのけようとした異常者」ではなく、「公武双方から過剰に持ち上げられた超実力者」と見る方が自然。
- 義持による「父殺し」=義満路線の反動
- 四代将軍義持:
- 日明貿易中止
- 花の御所破壊
- 大上天皇追号辞退
→ 父・義満との確執もあり、対外関係より「武家政権内の安定」を優先。
- 四代将軍義持:
- 義教のくじ引き将軍と恐怖政治 → 嘉吉の変
- 義教:くじ引きで選ばれた六代将軍=「くじ引き将軍」と嘲笑
- そのコンプレックスも手伝い、管領を軽視し独裁方向へ
- 守護大名や寺社を容赦なく処刑し、「万人恐怖」の時代を作る
- 東の鎌倉公方・持氏との対立(永享の乱)を鎮圧
- だが行き過ぎた恐怖政治に、赤松満祐が嘉吉の変で義教を暗殺
→ 義満が整えた構造の上で、「人間次第でどうにでも転ぶ」室町政権の脆さが露呈。
価値転換ポイント
(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)
- 「義満=皇位簒奪を企んだ怪物」
→ むしろ、- 南北朝合一
- 守護大名抑制
- 日明貿易での実利獲得
を実行した「極めて優秀な調整者・プレイヤー」であり、皇位簒奪説は過剰なミスリードの可能性が高い。
- 「日明貿易=一方的な朝貢=日本の屈服」
→ 形式上はそうでも、実態は- 倭寇抑制とセットの安全保障
- 高利益率の貿易取引
を得るための現実的な取引であり、**「プライドより食いぶち」**という割り切り。
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 義詮:半済令・守護大名の台頭をもたらす構造改革
- 義満:
- 明徳の乱・応永の乱で超守護を削る
- 南北朝合一
- 花の御所・三管領・四職・鎌倉府などの制度整備
- 日明貿易開始
- 義持:義満路線の一部を撤回(貿易停止・称号辞退)しつつ、守護大名との関係を安定化
- 義教:恐怖政治→永享の乱/嘉吉の変という反動。
【心理レイヤー】
- 義満:
- 自らの力・周囲の期待を冷静に理解しつつ、最大限に活用するタイプ
- 義持:
- 父への複雑な感情から、「義満色」を消そうとするが、能力自体は高い
- 義教:
- 「くじ引き将軍」という出自コンプレックスから、「誰にも舐められたくない」方向へ振り切れた独裁者
- 守護大名・地方武士:
- 半済で得た権利と、将軍権力とのバランスを取りながら、「どこまで従い、どこから反抗するか」を常に探っている。
【社会レイヤー】
- 中央:室町殿(花の御所)を中心とした将軍・三管領・四職
- 地方:守護大名・国人・地侍・荘園領主が複雑な主従関係を形成
- 国際:明・朝鮮との関係/倭寇という越境的存在
【真理レイヤー】
- 「最盛期」と言われる時代も、後の視点から見れば「次の混乱の火種」を同時に内包している。
- 強権で統一した後、それをどう「分散・委譲」するかで、次の世代の安定度が決まる。
- 名目上のプライドと、実務上の利益はしばしば両立せず、どちらを優先するかがその時代の性格を決める。
【普遍性レイヤー】
- 義満のような「調整型カリスマ」が一代で成し遂げた安定は、その後の後継者がどう扱うかでプラスにもマイナスにも転ぶ(豊臣秀吉→秀頼の流れとも響き合う構図)。
- 独裁者は、外部勢力からではなく「内部に追い詰められた者」によって倒されることが多い(嘉吉の変はその典型)。
核心命題(4〜6点)
(本文が最終的に語っている本質の骨格)
- 室町幕府の「最盛期」は、足利義満が超守護を抑え込み、南北朝を合一し、明との貿易で実利を得た結果として成立したが、それは同時に「守護大名のポテンシャル」と「将軍権力の肥大」という次の不安定要因も抱え込んだ状態だった。
- 義満の対外政策(日明貿易と日本国王称号受諾)は、形式的属国化を受け入れてでも国益を優先する冷静さの表れであり、「名目の独立」より「実質的な利益」を重視する現実主義外交の先例となった。
- 義満の死後、義持・義教の代で「父路線の反動」と「出自コンプレックスからの恐怖政治」が生じ、義満期に整えた統治構造は、運用する人間の資質により安定にも混乱にも振れうることが露呈した。
- 半済令と守護大名化は、国の統治を「中央だけでは回せない」と認めた上での権限委譲だったが、そこに倫理や共通哲学が伴わなければ、のちの戦国時代のような地方割拠と流血の連鎖を引き起こす危険な仕掛けでもあった。
- 室町前期の流れは、「カリスマによる一代の安定→路線への反発→独裁と反乱」という、世界史で繰り返されるパターンの一変種であり、「誰が制度を作ったか」以上に「誰がその制度をどう運用するか」が決定的に重要であることを示している。
引用・補強ノード
(本文に登場する偉人・理論・名言が果たした“役割”を抽出)
- 足利義満:山名・大内を抑え、南北朝合一と日明貿易を成し遂げた「室町の頂点」。
- 山名氏清・大内義弘:超守護として幕府にとっての最大リスクとなり、明徳・応永の乱で潰された存在。
- 朱元璋・永楽帝:明側から見た「北虜南倭」問題と、日本・倭寇・日明貿易の関係を理解するためのキーパーソン。
- 足利義持:父への反発から義満路線の一部を否定しつつも、武家政権としての安定を図った再調整役。
- 足利義教:くじ引き将軍としてのコンプレックスから恐怖政治に走り、永享の乱・嘉吉の変を引き起こした「暴走する後継者」。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
足利義満がいかにして室町幕府の最盛期を築き(超守護の制圧・南北朝合一・日明貿易・制度整備)、その後の義持・義教期にその遺産がどのように運用・反発・暴走されていったかを整理する。
文脈:
南北朝の収束/守護大名の抑制と半済令/花の御所と三管領・四職/日明貿易と倭寇問題/義満路線の継承と破棄/永享の乱・嘉吉の変。
世界観:
「最盛期」という言葉の裏には、いつも「次の崩壊の種」が潜んでいる。義満は卓越したバランス感覚でその瞬間を作り出したが、その後の後継者たちは、同じ構造を維持する難しさと「人間の器」によるブレを体現した。室町前期は、権力・制度・人間の三つがどのように噛み合えば国家が生き延び、どうズレれば破綻に向かうかを考える格好の素材になっている。
感情線:
義満の手際の良さに「これは確かに最盛期だ」と納得しつつ
→ その背後の超守護とのギリギリの駆け引きに緊張感を覚え
→ 父と子(義満・義持)、くじ引き将軍義教のコンプレックスと暴走に苦笑と戦慄を覚え
→ 最後は、「制度だけでは足りず、人間の在り方がすべてをひっくり返せる」という静かな教訓にたどり着く。
闘争軸:
- 将軍権力集中(義満) vs 守護大名勢力(山名・大内など)
- 名目上の独立(対明) vs 実利優先の属国化(貿易)
- 父路線継承(義満モデル) vs 反発・独自路線(義持・義教)
- 一代のカリスマ統治 vs 後継者たちの運用能力・器量


































