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武士代表!足利尊氏が『建武の新政』をわずか3年で滅ぼし、日本の朝廷が2つに分裂した!(南北朝時代の到来)

『建武の新政・南北朝時代』

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上記の記事の続きだ。さて、ここからは『建武の新政(けんむのしんせい)』時代に突入する。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。順番としてはこうなる。

 

奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1336年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年

 

南北朝時代というのは、つまり『朝廷が二つに分かれた時代』だから、広義としてのその時代には入るわけだ。上記の記事に書いたように、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って

 

  1. 大覚寺統
  2. 持明院統

 

に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。そこからもう南北朝というのは広い意味で始まっていたのである。だが、だからといって室町時代もすぐそこだ。建武の新政はわずか3年しか続いていないことがよくわかるだろう。だから小学校などで教えることがある場合は、ここを省いて教えることもある。

 

1331年から『元弘の乱』が始まり、1333年には鎌倉幕府が倒された。そして、京に戻った後醍醐天皇は兼ねてから計画していた『天皇親政』、つまり、天皇自身を頂点とした『建武の新政』を開始する。

 

[後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)]

 

かつて醍醐天皇と村上天皇は、摂政・関白を置かずに自らが政治を行う『親政』をしてみせた。そのため、醍醐天皇の『延喜の治』同様『天暦の治(てんりゃくのち)』と言われ、これらをまとめて『延喜・天暦の治』と呼ばれ、その後の天皇に一目置かれる時代となった。後醍醐天皇は彼らの時代を取り戻したかったのだ。

 

  1. 幕府
  2. 院政
  3. 摂政
  4. 関白

 

このような天皇の権威を阻害する存在を淘汰し、天皇中心の政治をしようとしたのだ。

 

院政
天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治のことである。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。
摂政
天皇が幼少であるか女帝である場合、天皇に代わって政務を行なう職。

 

それぞれの地位を作った中心勢力

幕府 源氏
院政 皇族
摂政 藤原氏
関白 藤原氏
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天皇を中心とした中央集権国家を作ろうというのは、中大兄皇子からあった考え方だった。彼は、中臣鎌足と一緒に勢力を持ちすぎていた豪族、蘇我入鹿を殺害したのだ(乙巳の変)。

 

[乙巳の変]

 

こうして革命を起こした中大兄皇子は、蘇我入鹿に代わって実権を握る。中大兄皇子の母である皇極天皇は、弟の孝徳天皇に位を譲り、そして『大化の改新(645年)』と言われる政治改革を推し進めた。

 

天皇 孝徳天皇
皇太子 中大兄皇子
内臣(うちつおみ) 中臣鎌足

 

しかし更に歴史を遡ると、そこにいるのは秦の始皇帝である。彼が紀元前220年に中央集権国家システムを作り、それが現在の中国にも日本にも大きな影響を及ぼしているのである。

 

天皇崇拝が作られていく歴史


STEP.1
秦の始皇帝が中央集権国家システムを作る
紀元前220年頃。

STEP.2
漢が秦の良いところを受け継ぐ
紀元前202~220年。秦は恐怖政治すぎてすぐに亡んだが、漢は儒教を取り入れながら平和的に国家を運営し、400年も続いた。

STEP.3
中大兄皇子が乙巳の変を起こす
645年。利害が一致した中臣鎌足と、『天皇を中心とした中央集権国家』を作ろうと、有力豪族の蘇我入鹿を殺害。

STEP.4
天武天皇に受け継がれる
673年。中大兄皇子(天武天皇)が作った基礎の上に、更に土台を作る。豪族たちが下につき、『八色の姓』という天皇を中心とする身分秩序を作った。

STEP.5
持統天皇が更にそれを受け継ぐ
690年。夫の天武天皇のやり残しを全うする。

STEP.6
文武天皇が大宝律令を制定
701年。『八虐』という天皇に対する罪を罰するシステムが導入される。

 

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その後、『貴族』の『藤原氏』が日本を席巻、

 

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そしてこの国に『武士』が生まれ、平将門がその名をこの国に轟かせた。

 

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その後、『源氏と平氏』が勢力を上げ、ついには源氏が天皇一族をも凌駕する力を持ち、西の京には『朝廷』、東の鎌倉には『幕府』という2つの巨大な権力ができるようになった。

 

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主な立場・役職に就いた人物の例

皇族 醍醐天皇
貴族 藤原氏
武士 平氏、源氏

 

 

[豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」]

 

そして後醍醐天皇はその源氏の時代を終わらせた。鎌倉幕府を倒したのである。この流れは、中大兄皇子の流れから考えても『よくある流れ』だった。しかし、なぜそれがたったの3年で終わってしまったのか。

 

その原因は『天皇を中心としすぎた』からだ。それはまるで、平氏が平氏一族を優遇しすぎて『打倒平氏勢力』を作ってしまったのと同じだった。かつての天皇、後白河法皇の子、『以仁王(もちひとおう)』が、1180年には『平氏追討』を命じ、その意志は各地の武将に伝わった。この指令である『以仁王の令旨(りょうじ)』を読んで彼らは奮起する。

 

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後醍醐天皇は『綸旨(りんじ)』という天皇の命令書を作り、それがなければ土地の所有が認められないシステムを作った。今でいう『土地の権利書』のようなもので、それを持っていないならその土地に住めないわけだかあ、これを求めにみんなが京都を訪れ、綸旨の発行を求めるわけだ。しかし、何も計算していなかった天皇は単純にその対応に追われた。

 

もういっぱいっぱいだよ!一体何人来るつもりだ!

 

そのせいで政治が停滞し、社会が混乱した。また『武士』への対応だが、確かに彼らを重用することはした。だが、かつて武士だった源頼朝が鎌倉幕府を作ったこともあり、天皇を中心とした集権国家作りを考えていた後醍醐天皇は、どこかで武士を軽んじていた。そして、武士の慣習を無視したり、自分に近い貴族や側近を上の立場に置いたりして、彼らを侮辱したのだ。

 

倒幕の功労者である赤松などは、戦前よりも知行地が減らされ、たまらず政権を離脱。また、

 

すべての土地の所有権は天皇のものである!

 

と発言するなど、確実に『天皇一族以外』の人間の反感を買っていったのだ。

 

"知行地(ちぎょうち)"
封建的な主従関係成立の要件として権力者が服従者に与えた土地。

 

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だが、動いたのは武士だけじゃなかった。かつて、その武士たちが倒した鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児、北条時行(ときゆき)もそこに好機を見たのだ。

 

よーし、今が復讐の時だ!亡き父の敵!そして北条氏の栄光を取り戻す!

 

彼は1335年、鎌倉を占拠する『中先代の乱』を引き起こしたのである。しかし、それを鎮圧したのが足利尊氏だった。彼は北条時行を倒すために、後醍醐天皇に『征夷大将軍』の役職を嘆願。だが、後醍醐天皇はそれを認めなかった。尊氏はやむを得ず天皇の許可を得ずに出陣。鎌倉を再占領し、鎮圧。これによってますます足利尊氏に『武士代表』の期待が集まった。

 

[騎馬武者像]

 

武士
いけいけ!尊氏殿!武士の力を見せてやれ!

 

足利尊氏はその期待に応えた。尊氏は尊氏で、

 

自分こそが源氏の正流なのだ!

 

という自負があったという。それは足利家にあったこういう置き文の影響だった。

『七代後に生まれ変わって天下を取る』

 

しかし、その七代後の家時(いえとき)は天下を取れず、更にそこで、

『三代後に取らせよ』

 

と祈願して自害する。その三代後がこの足利尊氏だったのだ。

 

俺がやるんだ。俺がかつての源氏のように、幕府を再興するんだ。

 

彼が後醍醐天皇の命を無視し、かつての北条家の生き残りを倒して鎌倉を制圧したのは、そういった背景が隠されていたと考えられている。

 

だが、当然後醍醐天皇は怒るわけだ。

 

尊氏め、命令を無視して、しかも鎌倉に居座っているとな!よーし、新田!鎌倉を落とせ!

 

そこで登場するのがかつて足利尊氏を目の敵にした新田義貞である。1335年、彼を大将として足利尊氏VS後醍醐天皇の戦いが始まったのだ。

 

リーダー 拠点 勢力
足利尊氏 鎌倉 足利直義、高師直
後醍醐天皇 新田義貞、楠木正成、北畠顕家

 

[「新田義貞、生田林の戦いにおいて小山田高家、新田義貞の身代わりとなる」(笠井鳳斎原画、土屋光逸画、1900年)]

 

実は、尊氏は終始朝廷に歯向かうのを恐れ、直接対決が始まる直前には、すべてを放棄して弟の直義に任せようともした。しかし、その直義や、腹心の高師直(こうのもろなお)が支えて、大将クラスの面々を次々に倒した。

 

倒した相手

足利直義 楠木正成
高師直 北畠顕家

 

冒頭の記事にも書いたが、尊氏は『躁うつ病』のような体質だったらしく、周囲の者はそれを理解していたから支えられたのだろう。彼は敵である楠木正成の首を遺族の元へ届け、武士としての楠木の生き方に敬意を払ったという。

 

MEMO
現代で同じように遺族に『自分が殺した人の遺骸』を届けた人間がいるが、彼は異常殺人者の扱いを受けている。しかし当時は当然違う考え方が常識だった。

 

そして後醍醐天皇は京都を制圧され、吉野に逃げ、そこで『南朝』を開いた。足利尊氏は新天皇を擁立したから、ここに二つの朝廷が存在してしまった。だからこの時代を『南北朝時代』と呼ぶのである。

 

南北朝と言えば、中国である。かつて、曹操の参謀にして、諸葛亮孔明の宿敵でもあった『司馬懿(しばい)』に、『司馬睿(しばえい)』という曾孫がいて、彼が晋を再興し『東晋』時代が始まるのだが、それも結局420年に『宋(そう)』に滅ぼされ、中国は南北に分裂する『南北朝時代』に突入する。

 

華北 北魏
華南

 

中国は南北に分裂し、それぞれを、北魏と宋が治めた。しかし、結局どちらの国も政権が安定せず、国は分裂していった。

 

華北(北朝)


STEP.1
晋が匈奴に華北を奪われ滅亡
西晋時代。

STEP.2
五胡十六国時代に突入

STEP.3
それを北魏が統一
鮮卑族の1部族だった。そこにいた『拓跋珪(たくばつけい)』が北魏を作った。

STEP.4
しかし北魏は『西魏、東魏』に分裂
更に、北斉、北周へ。

 

華南(南朝)


STEP.1
司馬睿が晋を再興
『東晋』時代が始まる

STEP.2
宋に滅ぼされる

STEP.3
しかし宋も『斉→梁→陳』へと分裂

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同じだ。似たような例もある。その宋が滅び、隋、唐の時代が来て、『五代十国時代』が続き、再び中国が再統一されるのが、979年のことだった。こうして作られた『(そう)』王朝だが、それ以前にあった宋とは違う実態である。

 

1127年。そんな宋の弱体化に付け込んだのが、北方のツングース系民族である、『女真族(じょしんぞく)』だった。彼らは『金』という国家を建立し、瞬く間に前述した契丹族の『遼(りょう)』を飲み込み、北宗に乗り込み、皇帝一家をとらえた。これを『靖康の変(せいこうのへん)』という。

 

これにより、太上皇だった欽宗(きんそう)、そして8代皇帝の徽宗(きそう)が拉致され、北宋が滅亡する。しかし、徽宗の子である『高宗』が難を逃れて、8年間逃げ回り、臨案(りんあん)(現・杭州)を都にした『南宋』を興す。

 

[高宗]

 

南北に分裂した宋

北宋
南宋 高宗
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こうして宗は高宗によって『南宋』という形で何とか形成を保ったが、北宋を金に取られた。このように、意見が分かれたり、無理矢理強奪されたりして中国にも北と南で、朝廷が二つ存在する時代があった。そしてこの日本でも冒頭に書いたように、1336年 – 1392年の間『南北朝時代』が始まるのだ。

 

だが、それは『室町時代(1336年 – 1573年)』の中の一コマだ。つまり、足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追いやったこのときから、時代は室町時代に突入する。それは、足利尊氏が京都の『室町』に幕府を開いたからだ。

 

足利尊氏(光厳天皇) 室町(京都)に幕府を開く
後醍醐天皇 吉野(奈良)に朝廷を作る

 

 

 

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