
上記の記事の続きだ。さて、冒頭の記事で、『義経は奥州藤原に殺された』と書いたが、実際には秀衡は義経の味方であり、死後、息子の泰衡が鎌倉幕府に屈する形で、父の遺言を護れない結果となった。その奥州藤原の本拠地だが、現在、世界遺産にも登録されている『平泉』である。
- 中尊寺
- 毛越寺
- 観自在王院
- 無量光院
当の様々な寺院が今でも見ることができる。

秀衡は、『後三年合戦』で亡くなった戦死者を、敵味方関係なくこの中尊寺で弔った。そして仏教思想を取り入れ、この地の平和を願った。

建築された寺院とそれを指示した統治者
| 中尊寺 | 秀衡 |
| 毛越寺 | 基衡 |
| 無量光院 | 泰衡 |
更に、これら平泉が12世紀初頭から100年以上にわたって栄えることができたのは、清衡、基衡、秀衡の奥州藤原3氏が、この地で『砂金』を豊富に産出したからである。かつて、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で、
掘れども尽きず
と記し、日本を『黄金の国ジパング』と称したが、その金文化を支えたのが、玉山金山をはじめとする欧州各地の金鉱山だったのだ。

『東方見聞録』に見られる日本の記述。日本(ジパング)は、民家や宮殿が黄金でできている黄金の国だと紹介されている。

更に、日本には『銀』もあった。上記の記事に書いたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』で、この時代を契機に世界が一体化し、世界各地で流通が盛んになった。スペインがアメリカ大陸で採掘した銀や、日本からもたらされた金銀が大量にヨーロッパに流入し、大幅な物価上昇へとつながった。日本は戦国時代から江戸時代初期までの間、世界でも有数の銀産出国だったのだ。
下記の写真は私が20代の時に撮った世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』にある銀山の洞窟である。

島根県石見にあるこの銀山の年間最大産出量は38トンを誇った。当時、世界の年間銀産出量は600トンほどで、うち200トンは日本産だったほどである。スペインやポルトガルはマニラに拠点を置いていたので、アジアでの貿易にも強かった。
このような『中継貿易』によって両国は莫大な富を得た。当時、銀は国際貨幣として広まっていたので、大きな価値を持っていた。そして下記の記事に書いたようなイギリス、インド、中国の『三角貿易』、そして『アヘン戦争』につながるのである。
三角貿易
イギリスは一度インドへ自国の製品を輸出し、インド産のアヘンを清へ輸出。そしてインドを経由して支払いに使った銀を回収するというする三角貿易によって利益を上げる。

| 平泉(岩手県) | 金山 |
| 石見(島根県) | 銀山 |
日本にはこういうエネルギー源もあったのだ。だがもちろん、これら『金のなる木』には権力が群がり、詳細をひも解いていけば、必ず『強制労働させられた人々』の存在を知ることになり、複雑な心境となる。

また、『名馬の産地』でもあった。源頼朝が木曽義仲(きそよしなか)を追討するために命じて始まった『宇治川の戦い』で活躍した、
- 梶原景季(かじわらかげすえ)
- 佐々木高綱(ささきたかつな)
が乗っていた馬が名馬であり、この地で育てられた馬だったと言われていて、糠部群(ぬかのぶぐん)は武士たちから一目置かれていたようだ。木曽義仲は源頼朝らのように、平氏の存在を脅かした武士であり、それを打ち破ったことは大きな出来事だった。
当時の戦は、武士の戦いで騎馬武者が一騎打ちをするスタイルが理想とされたので、馬が重宝されたのである。そして、その騎馬武者として活躍する者は英雄視されたのだ。しかしとにかくこのようにして繁栄があった奥州藤原氏で、朝廷や摂関家に貢物を欠かさなかったことで、この地は彼らが支配することを許されていたのだ。しかし、源義経をかくまったことでによって、追い込まれるようになったのだ。
1189年、秀衡が亡くなった後の2年後、泰衡は父の遺言を守って義経をかくまうが、結局鎌倉幕府に押され、義経の首を差し出す判断に至った。そして義経は自害し、泰衡は首を差し出したのだが、時すでに遅しだった。28万余の軍勢を率いて攻め寄せた頼朝軍になす術はなく、泰衡も殺害される。そして奥州藤原氏は滅亡したのであった。
この義経が死んだ時に死んだもう一人の有名人物は『弁慶』だ。彼は義経の郎党(家来)で、僧だった。
- 吾妻鏡
- 平家物語
- 義経記(ぎけいき)
に登場するが、とくにこの義経記によって伝説化され、豪傑化されたといわれる。先ほどの『衣川の戦い』で、多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれたという。

義経は、幼少に『牛若丸』と名付けられ、11歳で『遮那王(しゃなおう)』と言い、そして『義経』となった。『弁慶と牛若丸』で有名な彼らの出会いは、どこまで本当かがわからない。
かつて弁慶は、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたため『鬼若』と名付けられ、煙たがれられた。確かに、それは時代が古ければそうなることは十分にあり得る。
例えば、古代ギリシャでは精神病は体の病気とされていた。たとえば、ヒステリーは子宮の病気とされていた。そして中世ヨーロッパでは、精神病者は『神により罰を与えられた罪人』とされていた。しかし、1793年に、Ph.ピネルによって『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』だとわかった。
精神病者に対する見解
| 古代ギリシャ | 体の病気 |
| 中世ヨーロッパ | 神により罰を与えられた罪人 |
| 1793年 | 罪人ではなく、治療を受けるべき病人 |
『図解雑学 こころの病と精神医学』にはこうある。
鉄鎖からの解放
『近代精神医学の父』とされるPh.ピネルは、18世紀末のフランス革命の最中にパリのビセートル病院などにおいて、非人道的な精神病患者の処遇を改善し、『鉄鎖からの解放』を試みた。また、彼は世界最初の近代精神医学の教科書『精神病に関する医学=哲学論』を著し、『精神病者は刑罰を科せられるような罪人では決してなく、苦しむ人に払われるべきあらゆる配慮を、その苦痛からして、当然受けてしかるべき病人なのである』と主張し、これを実践した。

- ピネル
- フロイト
- クレペリン
- ブロイラー
といった精神医学者たちが、間違って蔓延していた精神病患者への対応を覆したのである。

フロイトやピネルよりも更に700年も前のこの時代の日本にあって、そのような特別な条件を持って生まれた弁慶が世間から嫌われ、それで彼の心が荒み、その持ち前の体格を持ちあまして暴れるということは、あり得ない話ではない。
その後鬼若は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。やがて、弁慶は
弁慶京で千本の太刀を奪おう!
と計画する。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。これ以来、弁慶が義経の家来となったという。
確かに、義経は優れた軍才を持った人物だった。そもそも、後白河法皇が京都で暴れた義仲を潰そうとして彼を任命したのは、義経に軍才があったからだった。だが、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

源平合戦で有名なのが、
- 一の谷の戦い
- 屋島の戦い
- 壇の浦の戦い
だが、1184年1月、兄の頼朝の命で木曽義仲を倒した義経は、平氏追討に着手する。そして『一の谷の戦い』では、源平合戦が繰り広げられる中、ひそかに山中を迂回し、敵陣を見下ろせる場所『鵯越(ひよどりごえ)の断崖』を騎馬で駆け下り、平氏軍を海へ追いやった。
更に、『屋島の戦い』では、嵐の中、つまり、
こんな嵐では船も出ないなぁ
と誰もが思うその状況で数隻の船を出し、平氏軍のいる屋島に向かい、背後を急襲することに成功。そして『壇の浦の戦い』では、『非戦闘員は攻撃しない』という海戦の掟を破り、平氏の軍船を操る水夫を矢で攻撃した。
平氏おい!ただの水夫が攻撃されたぞ!
平氏ば、馬鹿な!それはタブーのはずだ!
義経は、かつて、中国の三国志の時代、『蜀』の諸葛亮孔明が計った『草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)』を思い出すような巧みな戦術を使ったのだ。
『風林火山』の兵法を心得ていた孔明。空が『濃霧』に包まれたのを見た時、『天の利』が満を持したと見極めた孔明は、たった20隻の船に”藁”を敷き詰め、『魏』の待機する船の群れに突っ込んだ。 20隻の船から太鼓で音を立てながら、見通しの悪い濃霧の中、孔明は『魏』の船に向かって、数百発の威嚇射撃をした。
すると、『魏』の船は、孔明が率いる船の数を読み違え、過大評価した。その何百倍もの矢をこちらに打ちこみ、想定した数100隻の船を沈めようとしたからだ。だが、実際は20隻。孔明は、敷き詰めた藁に相手の矢が刺さるように方向を変え、見事、矢を5万本手に入れたのだ。


更に、なんとこの義経はその『衣川の戦い』では死んでおらず、実はアイヌ民族が住む『蝦夷地』に逃亡し、生き延びたという。そうした逸話を『義経北方(北行)伝説』といい、それを信じた人々が、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社を創建したほどである。
更に面白い話が、『義経=チンギスカン説』である下記の記事に書いたように、チンギス・ハン(チンギスカン、ジンギスカン)というのはかつてのモンゴル帝国の祖であり、ローマ帝国の後にこの世界を支配した一大勢力だ。1206年、彼は『部族会議(クリルタイ)』にて『ハン』の称号を得て、『チンギス=ハン』と名乗り、大モンゴルの皇帝となる。


つまり、義経が亡くなった16年後なのだ。ちょうど時代的に合致しているのである。18世紀の中国『清』の乾隆帝の御文の中に
「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」
朕(ちん)
天子(てんし)。つまり中国のトップに立つ人物の自称。中国で、古くは一般に用いられた。
と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し『女真族(じょしんぞく))になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
清は、北方の女真族が作った国だったのだ。清の初代皇帝は『ヌルハチ』だが、彼はどちらかというと『後金の創始者』であり、清の前段階の『後金』の皇帝だった。それを作ったのがヌルハチで、彼は女真族という民族だった。そして、彼らの祖先に『源義経』という人物がいたという話があったのである。

明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄が、ケンブリッジ大学の卒業論文で
「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」
成吉思汗
ジンギスカン。
という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。更に大正に入り、アメリカに学び牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいた小谷部全一郎が、

アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経らしいぞ!
という話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。すると、彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版し、この本で『義経=ジンギスカン説』が世にここまで知られるようになった。
しかしもちろんこれらは伝説の域を出ず、学術的に完全に否定された話である。しかし、それほどの潜在能力を持ったのがこの源義経という男だったということだ。しかしまあイギリスの哲学者ジョン・ロックがこう言ったが、
一体彼の『確信』は何だったのかということになり、人間の認識の不正確さを思い知るワンシーンでもある。
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論点構造タグ
(記事が扱うテーマ・思想軸・批判軸を抽出)
- 奥州藤原氏(清衡・基衡・秀衡・泰衡)と「黄金の国ジパング」を支えた金山・銀山経済(平泉・石見銀山)
- 経済的豊穣(砂金・銀)と、その裏側にある強制労働・搾取構造
- 源義経と奥州藤原の関係(秀衡の庇護・泰衡の裏切り・奥州藤原滅亡)
- 弁慶のキャラ造形:鬼子として生まれた「異形の子」→弁慶→千本刀→五条大橋→立往生という物語化プロセス
- 「異常な子ども/乱暴者」が精神医学的にはどう扱われるかという歴史(古代〜中世〜近代精神医学)
- 義経の軍事的実像(奇襲・機動戦・タブー破り)と、後世の伝説化(鵯越逆落とし・火牛・修羅的武勇)
- 義経北行伝説・義経=オキクルミ説・義経=チンギス・ハン説といった「トンデモ伝説」の成立過程
- 清朝乾隆帝の御文・女真族・源義経の祖先説→シーボルト→末松謙澄→小谷部全一郎と広がる「義経=ジンギスカン説」
- ジョン・ロックの「確信の強さは真理の証拠ではない」という認識論と、「人間の確信」vs「史実」のギャップ。
問題提起(一次命題)
(本文冒頭〜導入部で提示された“問い”を圧縮)
源義経は、なぜここまで「現実と伝説」が乖離した存在になったのか。奥州藤原との関係・戦場での実力・弁慶との物語・そして義経=チンギス・ハン説まで、どこまでが史実でどこからが「人間の願望と妄想」が生んだ創作なのか。
因果構造(事実 → 本質)
(本文内の因果関係・構造変換・本質抽出)
- 奥州藤原の経済力と文化
- 平泉(中尊寺・毛越寺・観自在王院・無量光院):秀衡らが建立し、敵味方を問わず戦死者を弔う仏教的平和構想
- 周辺には豊富な砂金(玉山金山など)があり、「掘れども尽きず」とマルコ・ポーロが書き、日本は「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにイメージされる
- 戦国〜江戸期には石見銀山などで銀も大量産出(年間38トン、世界全体600トン中200トンは日本産)
→ 奥州藤原・日本列島は、**世界の貨幣経済(銀)とイメージ(黄金の国)を支える経済的な「奥の院」**だった。
- 奥州藤原滅亡と義経の死
- 秀衡:義経を庇護し、「義経を主君として頼朝に当たれ」と遺言
- 秀衡死後、泰衡:鎌倉幕府への恐怖から義経を襲撃・首を差し出す
- しかし頼朝は泰衡も討ち、28万余の軍勢で奥州藤原を滅ぼす(1189)
→ 経済的にも軍事的にも自立可能だった「奥州」というもう一つの中心は、義経をめぐる判断の分岐点で自ら生き残りのチャンスを失う。
- 弁慶像と精神医学の視点
- 鬼若:生まれつき巨大で歯も生え揃った「異常な子」として恐れられ、比叡山でも乱暴で追放→弁慶として千本刀強奪の暴走
- 現代精神医学から見れば、特異な発達特性や行動障害も「病としてケアすべき」存在だが、当時は「鬼子=恐怖の対象」
- ピネル・フロイト・クレペリンらによる「精神病者は罪人ではなく病人」という認識は18〜19世紀以降
→ 弁慶伝説には、「異形の者」が排除され、力だけで生きるしかなかった時代の残酷さが透けて見える。
- 義経の軍事的実像
- 一ノ谷:鵯越の逆落とし(実際の規模は誇張の可能性ありだが、山中迂回奇襲は事実として評価)
- 屋島:嵐の中の少数高速奇襲で平氏本陣を突く
- 壇ノ浦:非戦闘員である水夫を狙い撃ちして船の機能を奪う(当時の「海戦の掟」破り)
→ 義経は、「セオリーを外した非対称戦術」を駆使する、きわめて合理的かつ冷徹な軍事指揮官だった。
- 義経北行伝説・義経=オキクルミ説
- 衣川で死なず、蝦夷地に逃れアイヌの神オキクルミの正体だった/北へ逃げたという「北行伝説」
- 北海道平取町に義経神社が建立されるほど、物語として人々に信じられている
→ 「悲劇の英雄はどこかで生きていてほしい」という人間の救済願望が、死後の物語を作る。
- 義経=チンギス・ハン説の成立プロセス
- 年代の近さ:義経の死(1189)とチンギス・ハンの即位(1206)
- 18世紀清朝:乾隆帝の御文に「朕の先祖の姓は源、名は義経」という趣旨の伝承
- 女真族(後金→清)の祖先に源義経がいたという風説
- シーボルトの『日本』にそれが紹介され、日本人知識人が飛びつく
- 末松謙澄:ケンブリッジで「成吉思汗は源義経と同一人物」と論文→『義経再興記』として日本で紹介
- 小谷部全一郎:アイヌのオキクルミ信仰から義経北行伝説を追い、満州・モンゴルを旅行→『成吉思汗ハ源義經也』出版(1924)
→ 学術的には完全否定されているが、「英雄が世界に羽ばたいた」というロマンとナショナリズムの混合物として大衆に受容された。
- 認識と確信の問題
- ジョン・ロック:「確信の強さがそのまま正しさの証拠になるわけではない」
- 小谷部らの強い確信と、その後の学術的検証のギャップ
→ 義経伝説は、**「人間は自分の見たい物語に確信を持ちやすい」**という認知バイアスの教科書例。
価値転換ポイント
(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)
- 「義経=悲劇の純粋英雄」
→ 軍事的には非常に合理的で、タブーも破る冷徹さを持つ実務家。一方で政治感覚が乏しく、後白河や頼朝の駆け引きに乗ってしまった**「軍事の天才/政治の素人」**として再評価される。 - 「弁慶=筋肉と忠義だけの豪快キャラ」
→ 異形として生まれ、排除され、暴力に走らざるを得なかった人生と、「最後は立ち往生」という美化が重なった**「社会の影を背負った存在」**として読むことができる。 - 「義経=チンギス・ハン説=笑い話」
→ 笑えるトンデモ説であると同時に、- 日本人が世界史の主役に自国の英雄を重ねたがる心理
- 情報の非対称性・翻訳の誤解・ナショナリズム
→ を照らす**優れた「認識論のケーススタディ」**でもある。
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 平泉・奥州藤原(清衡〜泰衡)、砂金・銀山経済
- 源平合戦→壇ノ浦→義経の逃亡→奥州藤原に庇護→衣川での最期
- 奥州藤原氏滅亡と、鎌倉幕府の東北支配確立
- 近代以降:シーボルト・末松・小谷部らによる義経再解釈と義経=チンギス・ハン説。
【心理レイヤー】
- 奥州藤原:
- 朝廷と幕府の板挟み → 秀衡:義を重んじる/泰衡:恐怖に屈する
- 義経:
- 過去の「牛若丸」逸話・天狗伝説・英雄譚への自己イメージと、兄頼朝との関係悪化による孤独
- 近代日本人:
- 欧米列強に追いつきたい/世界史の中で自国の位置を高く見積もりたい → 「義経=世界征服者」説に惹かれる心理。
【社会レイヤー】
- 経済(黄金・銀・馬産地)と軍事(騎馬武者)が結びつき、奥州が重要戦略拠点となる
- 中世:宗教・武力・経済を一体で握る地場勢力(奥州藤原)が、中央との対立で滅びる典型例
- 近代:ナショナル・アイデンティティ形成の過程で、「歴史上の英雄」が再利用される構図。
【真理レイヤー】
- 人間は「わからない部分」を物語で埋めたがる(義経の北行・生存・世界征服など)
- 認識の精度は、世界観・願望・時代背景に強く影響され、確信=真理ではない
- 経済的・軍事的実力を持つ地方勢力は、倫理的に優れていても、政治的に正しい選択をし損ねると簡単に滅びる。
【普遍性レイヤー】
- 「悲劇の英雄が実はどこかで生き延び、新たな偉人になった」という伝説は、世界各地に見られる(ナポレオン生存説、ヒトラー逃亡説など)
- 精神疾患や発達特性に対する社会の態度が変わるごとに、過去の「怪物・鬼」が違う見え方をするようになる。
核心命題(4〜6点)
(本文が最終的に語っている本質の骨格)
- 源義経は、軍事的にはきわめて合理的でタブー破りな戦術家だったが、政治の力学を読み違えた結果、兄に切り捨てられ、最終的には庇護者の奥州藤原氏ごと歴史の表舞台から消えることになった。
- 奥州藤原氏は、黄金と馬という強力な資源を持ちながらも、義と恐怖の間で揺れた泰衡の判断によって、自らその力を手放し、鎌倉幕府の東北支配を許した形となった。
- 弁慶の人生は、異形として生まれ排除され、力のみで自己を証明しようとした者の典型であり、その最期(立往生)は、社会に馴染めなかった者への「物語的救済」として後世に美化された。
- 義経北行伝説や義経=チンギス・ハン説は、事実ではないが、人々が英雄に「もう一つの人生」を与えたい、また自分たちの文化を世界史の中心に重ねたいという心理から生まれたものであり、その強い確信と史実のズレは、人間の認識の危うさを示している。
- 近代以降の精神医学・歴史学・比較宗教・文献学の発展によって、こうした伝説は研究対象として「解体」されるが、それでもなお物語として生き続けるのは、人間が理性だけでなく物語と感情で世界を理解しようとする存在だからである。
- 義経伝説は、「事実」と「物語」の間に広がる人間の欲望・不安・ロマンの堆積であり、その分析を通じて、私たちは歴史そのものよりも、人間の心の構造を深く理解できる。
引用・補強ノード
(本文に登場する偉人・理論・名言が果たした“役割”を抽出)
- 奥州藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡:平泉の仏教文化・金山経済・義経庇護・裏切り・滅亡を通じて「地方独立勢力の栄枯盛衰」を体現。
- 源義経:軍事的天才・政治的悲劇として、史実と伝説の両方の軸で日本人の想像力を掻き立てた主人公。
- 武蔵坊弁慶:義経の影として、異形の者への恐怖・尊敬・救済を象徴するキャラクター。
- ピネル・フロイト・クレペリン・ブロイラー:精神医学史の中で、「異常な行動」への社会の態度が変わることを示す参照点。
- 乾隆帝・ヌルハチ・シーボルト・末松謙澄・小谷部全一郎:義経=チンギス・ハン説の流通と拡散に関わった「物語の増幅装置」。
- ジョン・ロック:認識論の観点から、「確信」と「真理」の距離を指摘する一言を提供。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
平泉と奥州藤原氏の経済的・文化的背景、源義経と弁慶の実像と伝説、そして義経北行伝説や義経=チンギス・ハン説がどのような心理と歴史的文脈から生まれ、何を映し出しているのかの分析。
文脈:
源平合戦後の東北支配/砂金・銀・馬産地としての奥州/近代精神医学と過去の「異常者」像の違い/民族・国家アイデンティティと歴史英雄の再解釈/認識論・バイアス。
世界観:
歴史の英雄は、事実そのものよりも、人々がそこに何を見たいかによって形を変えていく。義経伝説は、その変形の過程を通じて、「人間はどのように世界を理解し、物語を作り、その物語を真実だと確信してしまうのか」という問いを浮かび上がらせる。
感情線:
黄金の国としての奥州の栄華
→ 義経と弁慶の武勇伝への憧れ
→ 衣川での最期と奥州藤原滅亡への悲哀
→ 義経がどこかで生きていてチンギス・ハンになったかもしれないというロマンへの微笑
→ 最後に、それらが事実ではないと知りつつも、「それでも物語を信じたい自分」を見つめる苦笑い。
闘争軸:
- 史実(事実) vs 伝説(物語)
- 義(秀衡・義経) vs 恐怖と合理(泰衡・頼朝)
- 異形・乱暴者(鬼若) vs 社会的排除/後の美化(弁慶像)
- 冷静な認識(ロック的態度) vs 熱い確信(義経=チンギス・ハン説の支持者)

































