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東の果てにアカシシにまたがり石の矢じりを使う、勇壮なる蝦夷の一族あり。アシタカの祖先『アテルイ』とは?

蝦夷との戦い


上記の記事の続きだ。さて、こうして桓武天皇の時代になり、都が平安京に移って『平安時代』の幕開けとなった。では、『奈良時代』からの天皇の歴史を見てみよう。


奈良時代以降の天皇

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元明天皇

707年8月18日 – 715年10月3日。聖武天皇がまだ7歳だったので中継ぎとして即位。

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元正天皇

715年10月3日 – 724年3月3日。聖武天皇がまだ若かったので中継ぎとして即位。

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聖武天皇

724年3月3日 – 749年8月19日。

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孝徳天皇

749年8月19日 – 758年9月7日。

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称徳天皇

764年11月6日 – 770年8月28日。

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淳仁天皇

758年9月7日 – 764年11月6日。

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光仁天皇

770年10月23日 – 781年4月30日。

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桓武天皇

781年4月30日 – 806年4月9日。


奈良時代は、元明天皇から光仁天皇までの約80年。そして平安時代とは、794年に桓武天皇が平安京に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことだ。冒頭の記事に『桓武天皇と仏教』についての考え方は書いたが、彼が関わった大きな事業をまとめてみよう。


  1. 平安京の都づくり
  2. 仏教の改革
  3. 蝦夷の征服


仏教の改革として最澄(天台宗)と空海(真言宗)を遣唐使として送ったのは804年だから、この少し後のことだ。その前にあった大きな出来事がった。かつて、中大兄皇子が天武天皇となる前の、斉明天皇のとき、以下の3つのエリアが問題となっていた。


  1. 東北の蝦夷(えみし)
  2. 南九州の隼人(はやと)
  3. 朝鮮半島の百済(くだら)


百済については記事に書いたが、最初の二つはただ『未開拓エリア』だ。この地をどのように征服し、支配下に入れるかということがテーマとしてあった。それが元明天皇、藤原不比等の時代に、この未開拓エリアの蝦夷、隼人に対して征服活動が行われ、支配領域が拡大するのだ。



だが、蝦夷はまだまだ一筋縄ではいかなかった。蝦夷や隼人の共通点は『都から遠い』ということだが、現在のように、車も電車も飛行機も無い時代、やはりここまで距離が離れてしまうとそのエリアを掌握するのは容易ではなくなるということも理由の一つだろう。だが、隼人に関しては720年、つまり元明天皇、元正天皇の時代に反乱を起こすも『征隼人持節代将軍』の大伴旅人に鎮圧され、その後反旗を翻すことはなかったという。


大伴旅人(おおとものたびと)

奈良時代の貴族・歌人・大納言。56歳で隼人の反乱を鎮圧する持節代将軍になり、60歳で大宰府の長官を歴任。


飛鳥時代の斉明天皇(645年頃)の時、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣してヤマト政権の東北支配の拠点となる城柵や城を築城し、日本海側の蝦夷を征服し、ヤマト政権の新たな行政区分である『出羽国』を設置した。そして元明天皇の時代にも征服活動をしたが、それは『日本海側』だった。



反対側、つまり『太平洋側』にも蝦夷はいた。そして蝦夷は、ただ遠いというだけではなく、中々に厄介な存在だった。族長『阿弖流為(アテルイ)』の力が強く、勢力は拡大し、強大化していたのである。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を『征夷大将軍』に任命。つまり、先ほどの隼人対策の将軍と合わせればわかるが、


  • 征隼人持節代将軍
  • 征夷大将軍


これらは『隼人を征服する』、『蝦夷を征服する』ための将軍だった。ここから『総大将』的な意味でよく使われる『征夷大将軍』の名が誕生したのである。


789年、征東将軍紀子佐美(きのこさみ)率いる漢軍がアテルイによって潰されると、801年、征夷大将軍坂上田村麻呂は、4万もの大軍を率いて東北に出兵。だが、アテルイは一歩も引かず、対抗したという。そこで田村麻呂は、蝦夷と同化政策を推し進め、様々な角度から征服を画策。そしてついにアテルイは、蝦夷の指導者磐具公母礼(いわぐのきみもれ)とともに降伏。田村麻呂は彼らの助命を願うが、2人は河内で処刑されてしまった。



これは余談だが、宮崎駿の魂の力作『もののけ姫』で、謎の僧侶ジコ坊が主人公のアシタカにこう語りかけるシーンがある。


ジコ坊

ほう、雅な椀だな。そなたを見ていると古い書に伝わる古の民を思い出す。東の果てにアカシシにまたがり石の矢じりを使う、勇壮なる蝦夷の一族ありとな。

アシタカ

…。


アテルイが倒された後の蝦夷の残党は、山内深く隠れ里にひっそりと暮らすより他はなかった。そこには、古の因習や独特の文化が残っていて、彼らはアニミズムの考え方と共に生きていた。実は、宮崎駿いわく、アシタカはアテルイの部族の末裔であると言う。


アニミズム

生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、 もしくは霊が宿っているという考え方。例えば、風の神、水の神等。


[『もののけ姫』を作る際に取材された青森県の世界遺産『白神山地』 筆者撮影]


この作品が『魂の力作』なのはちゃんと理由がある。この作品を通し宮崎駿は、かつてスタジオジブリが


  1. 宮崎駿
  2. 高畑勲
  3. 鈴木敏夫


の3人で立ち上げられた時からの盟友、高畑と激しくやり合ったことがあるのだ。


高畑

あんなもの世に出すべきじゃない!

宮崎

彼とは意見が合わなくなったんでしょうね。一致していた時期があるんです。


あの作品は、


  1. 人の手が切断される
  2. ハンセン病がテーマにされる
  3. サンは生贄として捨てられた子である


と、中々のショッキングなテーマと映像が詰め込まれていて、アメリカでは「年齢制限PG-13」が指定され、残虐映画という扱いで公開されている。アメリカは暴力描写に対して規制が厳しく、ジブリ側に残酷な戦闘シーンをカットしてほしいと要望したのだが、ジブリ側は原則ノーカットでの上映を望んだため、結果的にPG-13での公開となったのだ。


[『もののけ姫』を作る際に取材された青森県の世界遺産『屋久島』 筆者撮影]


高畑勲にとっての宮崎駿の名作は『となりのトトロ』だった。彼にとってはあのような子供を笑顔にし、夢を与える、ほんわかした映画が良かったのだろう。


宮崎

でも、彼が誰かから悪口を言われるとね、腹が立つんです。


しかし、結局彼らは盟友なのだ。もしかしたら高畑は、盟友宮崎が世間から叩かれるのを『軽減』するために、戦友として自らがその先頭に立ち、彼への批判を緩和しようとしたのかもしれない。蝦夷の一族というのはこうして日本を代表する映画になるほど、自然と共生する本来の日本人らしく生きた、この国の伝統的な民族であり、歴史なのかもしれない。



さて、そうして桓武天皇は大きな三つの事業に力を入れたわけだが、そのうちの『都づくり』と『蝦夷征服』は、とても負担の大きいことだった。費用もそうだし、体力も、精神的にもそう。戦争とはそういうものである。例えば、現在アメリカが強い力を持っている理由を考えてみよう。


ヨーロッパの覇権の推移

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アッシリア

紀元前7世紀の前半~紀元前609年。オリエントの統一王朝を成し遂げるが、アッシュル・バニパルの残虐性のせいで帝国が破綻する。

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アケメネス朝ペルシャ

紀元前525年~紀元前330年。キュロス、カンビュセス2世、ダレイオス1世また統一し直し、インド北西部からギリシャの北東にまで勢力を伸ばす。

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アルゲアス朝マケドニア王国

紀元前330~紀元前148年。フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。

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ローマ帝国

紀元前27年~1453年5月29日(完全な崩壊)。カエサルが攻め、アウグストゥスが守る形で『ローマ帝国』が成立。

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モンゴル帝国

1200~1300年。チンギス・ハンが大モンゴルの皇帝となり、5代目フビライ・ハンの時にはアレクサンドロスよりも領土を拡大。

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オスマン帝国

1453年5月29日~。かつてのローマ帝国は、『神聖ローマ帝国』と『ビザンツ帝国』の東西分裂をしていて弱体化していた。1453年5月29日、メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。

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スペイン帝国

1571年、スペインは『レパントの海戦』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取(正確にはまだオスマン帝国に制海権があった)。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。

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オランダ

1588年、『オランダ独立戦争』、『アルマダの海戦』に勝ったオランダは、急速な経済成長を遂げ、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎える。

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イギリス

1677年、1651年から続いた『英蘭戦争』の結果、覇権がオランダからイギリスに渡る。


そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。


17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国

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フランス

1800年前後。ナポレオンがヨーロッパで暴れまわるが、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ退位。

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イギリス

1830~1900年頃。ヴィクトリア女王の時代に『大英帝国』黄金期を迎える(パクス・ブリタニカ)。

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ドイツ帝国

1870年頃~1918年。ドイツ帝国率いる『三国同盟』とロシア率いる『三国協商』の『第一次世界大戦』が勃発。

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三国協商

1918~1938年頃。ナチス・ドイツが現れる前はまだこの連合国が力を持っていた。

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連合軍

1945年~。特にアメリカ・ソ連。『第二次世界大戦』に勝った連合国は、引き続き国際的な力を保持。

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アメリカ

1990年頃~。ソ連が崩壊し、アメリカ一強(パクス・アメリカーナ)の時代へ。


第一次世界大戦、第二次世界大戦を仕掛けたドイツが戦争に負け、大きな負担を負ったのはわかるが、なぜイギリスやフランスといった大国が低迷してしまい、代わりにアメリカが世界の覇権を握るようになったのか。それはアメリカが、フランス、イギリスといったこの時世界の覇権を握っていた強国に、多額のお金を貸していたからだ。この戦争でフランスとイギリスは、アメリカに借金を作ってしまったのである。



そしてドイツ(ヴァイマル共和国)はドイツで、戦争で経済的にも精神的にも追い込まれ、ヒトラー率いる『ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党、ナチ党)』のような勢力の台頭を許してしまったのだ。


[アドルフ・ヒトラー]


ヒトラーはムッソリーニと同じように世界恐慌の波を受けて陥った危機的状況を利用し、


ヒトラー

ドイツが苦しんでいるのはヴェルサイユ条約の賠償金だ!


と主張し、第一次世界大戦の戦後処理として決まったはずの『ヴェルサイユ条約』を破棄しようと国民に訴える。確かに、ヴァイマル共和国としてはそれでいいが、しかしそれは世界のトップたちで取り決めたことだから、それをするということは、破ってはならないタブーを犯すということだった。しかし、当時にヴァイマル共和国国民は、ヒトラーを支持した。


国民

よーし!ナチスに何とかしてもらおうじゃないか!


国民たちは、かつてフランス国民が『フランス革命』の後、危機に瀕したフランスをナポレオンという救世主にすべてを託したときのように、ヒトラーにその状況を打破してもらおうと決めたのだ。


桓武天皇がやったことはこのようにして、何かと国民に負担をかけた。追い込まれた人間がどうするかということは、世界の情報がなくても、かつて720年に亡くなった藤原不比等に代わって政界のリーダーとなった『長屋王』の時にあった『大宝律令』における口分田不足と、多くの課税を強いられ、


  1. 土地を捨てて逃げる
  2. 有力者の小作人になる
  3. 戸籍の年齢や性別をごまかす
  4. 勝手に僧侶になる


等の行動を取り、なんとかその責務から逃れようとした民衆の記憶は新しかったはずだ。そこで桓武天皇はその二大事業を中止し、彼らの負担の軽減を優先させる。そのせいで平安京は未完成となった。そして、


勘解由使(かげゆし)国司の交代時に不正がないように監視する職
健児(こんでい)生活に余裕がある者を徴兵し、民衆の徴兵を廃止


という対策も取り入れ、更に民衆の為に貢献したのであった。


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