
上記の記事の続きだ。さて、ここまでの天皇の歴史を見てみよう。
天智天皇(中大兄皇子)以降の天皇
668年2月20日 – 672年1月7日。中大兄皇子。
672年1月9日 – 672年8月21日。天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。
673年3月20日 – 686年10月1日。
690年2月14日 – 697年8月22日。
697年8月22日 – 707年7月18日。
707年8月18日 – 715年10月3日。聖武天皇がまだ7歳だったので中継ぎとして即位。
715年10月3日 – 724年3月3日。聖武天皇がまだ若かったので中継ぎとして即位。
724年3月3日 – 749年8月19日。
文武天皇の時代に藤原不比等たちが作った『大宝律令』は『唐』からヒントを得た画期的な政治システムだったが、民衆に課せられた税金等は彼らの肩の荷となり、彼らは何とかしてそれを逃れようとするし、人口が増えて口分田自体が足りなくなるという、二つの大きな問題を抱えていた。そしてその問題は、
- 長屋王(藤原不比等の後の政界のリーダー)
- 聖武天皇(先人の問題を受け継いだ天皇)
の肩の荷としてのしかかった。また、同時にあったのは権力争いだった。聖武天皇になったとき、この長屋王から政権の座を奪おうと、かつての藤原不比等の子、『藤原四子』が何やら不気味な動きをしていた。729年、長屋王は国家を傾けようとする疑いをかけられ、自害に追い込まれた。実は、この『長屋王の変』はこの藤原四子の策略だったというのだ。

彼らは聖武天皇の妻であった異母妹の光明子を皇后にし、皇族以外の皇族を初めてこの国に打ち立てた。しかし、737年、天然痘の流行で全員が亡くなってしまうという不幸がおき、人々はこれを『長屋王の祟り』と噂したようである。
では聖武天皇はどうする。長屋王、そして藤原四子といった元気のある勢力を失い、天皇家と藤原氏は、大きな痛手を負っていた。その後、光明子の異父兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握るが、再び藤原氏が反乱を起こし、貴族間の争いが激化するようになる。
このように、藤原氏と皇族が交互に政権を握る流れがあったことを見ても、その権力争いの激しさが垣間見えるのである。橘諸兄は、
- 吉備真備(きびのまきび)
- 玄昉(げんぼう)
といった人物を中心に政治を行うが、藤原氏の藤原広嗣(ひろつぐ)が彼らを引きずり降ろそうとして聖武天皇に訴え、反乱を起こす。しかし、これは鎮圧され、藤原氏の勢力は一時その勢いを失った。ちなみに彼ら同様に遣唐使だった人物には、
- 阿倍仲麻呂
- 橘逸勢(たちばなのはやなり)
- 最澄
- 空海
という歴史的な人物が存在していた。
日本の中心的な仏教の宗派


聖武天皇は、
- 口分田や納税を巡る民衆の問題
- 長屋王の死
- 藤原四子の死
- 身内の反乱
- 伝染病(天然痘)の流行
- 飢餓の発生
という重い肩の荷を背負わされ、何かと苦労した天皇だった。そして同時に、こうした様々な問題を抱えた民衆たちの不満は、ピークに達してしまっていた。
聖武天皇は740年、心機一転を試み、
- 恭仁京(くにきょう。京都府木津川市)
- 紫香楽宮(しがらきのみや。滋賀県甲賀市)
- 難波宮(なにわのみや。大阪府中央区)
に遷都するのだが、造営工事などの負担が人々を苦しめ、世の中の動揺も収まることはなかった。
結局745年に平城京に戻るが、その間に、
- 国分寺
- 国分尼寺
を建てることを命じていた聖武天皇は、743年に『大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)』を出す。
大仏造立の詔
(大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。
天下の富や権勢をもつ者は私である。その富や権勢をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは本意を達することができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。
聖武天皇は大仏造立のために、
聖武天皇国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造るぞ!
と言ったのだ。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることがわかっている。

東大寺の大仏の作成方法
つまり、この窮地に聖武天皇が救いを求めたのは『仏教』だったのである。この背景にあったのは『鎮護国家(ちんごこっか)』という、仏の力を借りて国家を守る思想だった。大仏は、その滋賀県の紫香楽宮に作る予定だったのだが、地震、不審火が相次ぎ、現在の東大寺の土地に作ることになった。
540年頃、朝鮮半島で『最先端であり、とっておきの文化』であった仏教は、援助の見返りに日本に伝えられた。
百済実はね、『ブッダ』というすごい人間の教えがあるんだ。これは国宝級だよ。
倭ふむ。仏教とな。それは興味があるな。
あるいは、百済からの渡来氏族であった東漢氏(やまとのあやうじ)が仏教徒だったということで、関係があった蘇我氏と、
東漢氏私は仏教徒でしてね。それはそれはいい教えなもんで。
蘇我氏ふむ。仏教とな。それは興味があるな。
こういうやり取りのもと、伝えられたのかもしれない。とにかくこうして日本には、
| 儒教 | 弥生時代に渡来人によって伝来 |
| 仏教 | 飛鳥時代に渡来人と馬子達によって伝来 |
| 神道 | その基礎となる天皇やアニミズムが浸透 |
という3つの宗教が入り混じった。神仏習合的に仏教が始まり、やがて神仏分離(1880年頃)して『神道』と『仏教』で分けられるまでは、この3つの宗教がこの日本の精神的な基礎を支えた。
神仏習合
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
神仏分離
神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。
あれから200年の歳月を経て、『波乱万丈の出来事』を通し、ようやくこの国の要人は、
自分ひとりの力では無理だ…
と悟り、謙虚な心を持ち始め、まるで、真理の力に背中を押されるようにして仏教に目を向けるようになったのだ。ちなみに私は無宗教だが、当サイトを見てわかるように多くの勉強を積んだ者である。




未だ未熟ではあるが、大体のことは分かっている。あるいは、ことそれらの教えの根幹にあるものの見極めということで言えば、人一倍造詣は深いはずだ。
造詣(ぞうけい)が深い
人一倍よく知っていること。
ブッダの教え、つまり仏教の根幹にあるのは『真理』である。例えばこういう言葉がある。
- 諸行無常(しょぎょうむじょう)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
- 求不得苦(ぐふとくく)
- 愛別離苦(あいべつりく)
- 怨憎会苦(おんぞうえく)
- 生老病死(しょうろうびょうし)
- 一切行苦(いっさいぎょうく)
- 諸法無我(しょほうむが)
例えば『諸行無常』の言葉とはそれすなわち、全ては流動変化していることを知る悟りである。
時間は流れ、宇宙はうごめき、命の火は消え、物質は分かれる。風は吹き荒れ、大地は鳴り響き、海は揺らいで、炎は燃え盛る。
この世はそうなっているのである。こうした『真理』を教えているのが仏教や儒教なのだ。実は、孔子の教えである儒教も仏教に負けず劣らない高潔な教えばかりだ。その他の宗教もそうだが、どちらにせよこれらの根幹にあるのは『浮世離れした真理』である。
『浮世』とは、『つらくはかないこの世の中。 変わりやすい世間』という意味である。つまり、人間が暮らす社会とはこの浮世であり、ここでは多くの誤謬(ごびゅう。間違い。判断ミス)があり、人はよく道を踏み外しがちである。その理由の一つは、人間に欲望があるからだ。例えばキリスト教の7つの大罪はこうだ。
キリスト教の7つの大罪
- 嫉妬
- 怠惰
- 憤怒
- 暴食
- 色欲
- 強欲
- 傲慢

これらはすべて『人間の欲望を間違った方向に向けた結果』である。そしてその根幹にあるのは欲望なわけだ。では、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人の罪の定義を見てみよう。
| 孔子 | 利己 |
| ソクラテス | 無知 |
| ブッダ | 執着 |
| キリスト | 罪 |
キリストの『罪』はどういう意味かということだが、罪という言葉をを紐解くと、『的を外す』という言葉にたどり着く(『罪』という言葉は、過ちを意味するラテン語の『peccatum』の訳語である。これは、聖書のギリシャ語『hamartia』の訳語である。これは不足や誤りを意味するが、元々はヘブライ語の『hatta’t』の訳語である。これを忠実に訳すと『的を外す』となる)。『罪を犯す』とは『的を取り違える』、『自分の欲望を間違った方向に持っていくこと』である。
つまり、この世にある『偉人が教えた崇高な真理』は、宗教としてまとめられているものも、そうじゃないものも、長くこの世に残り、そしていつまでもその輝きを失わないことを見ても『真理』そのもの。
真理
いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。
聖武天皇も、その前にあった権力者たちも、いつでも権力争いの為に人を殺し、罠にはめ、力に執着して利己に走ってきた。それすなわち無知である。だからこそ人々の動乱を招き、世は混沌に陥ったのだ。その時、仏教が教えた執着を捨てるという真理は、とりわけ聖武天皇の胸に突き刺さったのだろう。彼は鎮護国家の思想を軸に大仏の建立を決意し、国民に光を照らしてもらうよう、願ったのであった。

また、聖武天皇が仏教を信用したのは『行基(ぎょうき)』という僧侶の存在の影響もあったかもしれない。彼は仏教の布教活動をしていたら、『世間を惑わすうつけもの』扱いされ、朝廷から名指しで弾圧された。だが、彼は屈せず布教と共に社会活動を続けて農民や豪族たちの支持を得て、弟子や信者とともに寺院をはじめ、
- 池
- 道
- 橋
- 布施屋
などの数多くの大規模な土木事業を実現させた。やがて、圧倒的な信頼を集めるようになった行基を、聖武天皇は重用することいなる。そして、東大寺を造る際には勧進、つまり仏教のリーダーに彼が採用され、日本初の最高層位『大僧正(だいそうじょう)』になったほどの人物だった。しかし、彼は749年に82歳の年で死去した。大往生だっただろう。
シルクロード
下記の記事に書いたが、
アッバース朝は、766年も新都バグダッドで繁栄を誇った。『タラス河畔の戦い』の後、ここを中継地に東西の交易や文化の交流が盛んになる。その交易路として活路を呈したのが『シルクロード』である。このシルクロードを使って、商品は『唐』から生糸や陶器、茶などを西方に運び、西からは金銀などの貴金属や毛織物を運び、利益を上げた。
東の唐王朝、西のアッバース朝を結んだ東西交易路
- 草原の道
- オアシスの道(シルクロード)
- 海の道
これによって唐とアッバース朝だけではなく、世界中の国々の貿易が盛んになった。

このシルクロードを通して東大寺正倉院には、様々な宝物が揃った。これを『天平文化』という。聖武天皇は、遣唐使船が持ち帰った、
- 唐
- インド
- ペルシャ
唐のシルクロード周辺各地の文物を愛用した。彼の死後、皇后がこれを東大寺に寄進。そして、650に及ぶ世界の貴重な品々が東大寺の正倉院に収蔵された。また、奈良時代は飛鳥時代の主流だった金属製の金銅仏に代わり、加工しやすい粘土製の仏像製作が盛んになった。なかでも、
- 不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)
- 八部衆像(はちぶしゅうぞう)
などが代表的となった。その後、奈良時代後期には鑑真によって木彫りの仏像が伝わり、日本の彫刻作品は木像が主流となる。平城京がシルクロードの東の終着地だったと言われている。

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論点構造タグ
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聖武天皇の「袋小路」と精神的転換点/律令国家運営の行き詰まり(税・口分田・疫病・飢饉・反乱)/貴族間権力闘争(長屋王の変・藤原四子の死・橘諸兄政権・藤原広嗣の乱)/遷都の迷走と民衆負担/大仏造立と国分寺・国分尼寺=鎮護国家思想の具現化/行基の社会事業と“民からの信頼”/儒教・仏教・神道と神仏習合/四聖(孔子・ソクラテス・ブッダ・キリスト)による「罪/欲望/執着/無知」の定義/真理=浮世離れした普遍法則と、権力者の利己・無知の対比/シルクロードと天平文化=世界文明ネットワークの末端としての奈良。
問題提起(一次命題)
(本文冒頭〜導入部で提示された“問い”を圧縮)
内政の行き詰まり・権力闘争・疫病・飢饉に追い詰められた聖武天皇は、なぜ最終的に「仏教と鎮護国家」に活路を見出し、大仏造立に国運を賭ける決断をしたのか。その背後にある人間の欲望・無知と「真理としての仏教」の関係は何か。
因果構造(事実 → 本質)
(本文内の因果関係・構造変換・本質抽出)
- 大宝律令のもとでの二重の問題
- ① 過重な租庸調・雑徭・兵役 → 逃散・戸籍偽装・僧侶化などの逃避行動
- ② 人口増加と開墾停滞 → 口分田不足
→ 長屋王・聖武天皇の時代に、律令国家の「理想」と「現実」のギャップが限界に達する。
- 貴族間の権力争い
- 不比等死後、長屋王が政界トップへ
- 藤原四子が「長屋王の変」を仕掛け、彼を自害に追い込む
- その藤原四子が天然痘で全滅 → 「長屋王の祟り」と噂される
→ 政権は橘諸兄+吉備真備+玄昉に移るが、藤原広嗣の乱などで再び動揺。
- 聖武天皇の「四方塞がり」
- 重税と口分田問題で民衆の不満がピーク
- 長屋王・藤原四子・身内の反乱・天然痘・飢饉と災厄が連続
→ 政治的にも精神的にも追い詰められ、連続遷都(恭仁京・紫香楽宮・難波宮)で打開を図るが、工事負担でかえって民衆が疲弊。
- 鎮護国家への転換
- 743年「大仏造立の詔」:国分寺・国分尼寺に加え、国中の銅と土・山を使って盧舎那仏を造立
- 詔では「無理やり働かせること」「役人の取り立て」を戒め、「自らの信心で一握りの土でも」と呼びかける
→ 自力(政治・軍事)では事態を収められないと悟り、「三宝の力による国家安泰=鎮護国家」に希望を託す。
- 仏教・真理との接続
- 儒教・仏教・神道の三本柱が古くから存在
- 四聖の「罪/欲望/無知/執着」の定義を整理し、罪=「的を外す」=欲望の誤った向け方と再定義
- 諸行無常・諸法無我など仏教のキーワードを「浮世の外側にある真理」と位置づけ
→ 権力争い・利己・無知に支配された現実政治と、「真理としての仏教」の対比が、聖武の精神的転換の背景として示される。
- 行基の存在
- はじめは朝廷から「世間を惑わす者」として弾圧
- しかし池・道・橋・布施屋などの土木・福祉事業で農民・豪族から絶大な信頼を獲得
→ 聖武天皇がこの「民から信頼される僧」を大仏造立の勧進リーダーに起用し、大僧正に任じる
→ 仏教=権力の道具ではなく、「民衆を支える力」としても機能し得ると体感した可能性。
- シルクロードと天平文化
- 唐とアッバース朝を結ぶ草原・オアシス・海の道=東西交易ネットワーク
- その東端に平城京が位置し、唐・インド・ペルシャの文物が正倉院に集積
→ 東大寺大仏・仏像様式(不空羂索観音・八部衆像・阿修羅像)などに、世界文明のエッセンスが反映される。
本質:
律令国家運営の行き詰まりと権力闘争・災厄に追い詰められた聖武天皇は、自力と利己の政治から一歩退き、「真理としての仏教」と、行基のような“信頼される僧”の力を借りて国家を守ろうとする方向――鎮護国家――へと舵を切った。
価値転換ポイント
(従来価値 → 新しい本質価値への反転点)
- 「大仏=権威誇示の巨大プロジェクト」
→ 鎮護国家という“祈り”と、政治の限界を悟った一人の天皇の弱さ・謙虚さの表現として再読される。 - 「鎮護国家=単なる宗教依存」
→ 現実政治の限界と、真理(諸行無常・無我)への眼差しの交点に生まれた思想として位置づけられる。 - 「仏教=権力に利用された宗教」
→ 行基の事例から、下からの信頼・社会事業を通じて国家と結びついた側面が強調される。 - 「聖武天皇=優柔不断で遷都を繰り返した弱い天皇」
→ 度重なる災厄と制度疲労の中で、**自我と執着を手放そうと葛藤した“迷い続けた為政者”**として立体化される。
思想レイヤー構造
【歴史レイヤー】
- 天智~天武~持統~文武~元明~元正~聖武の連続線
- 長屋王の変/藤原四子の死/橘諸兄政権/藤原広嗣の乱
- 恭仁京・紫香楽宮・難波宮遷都 → 平城京還都
- 国分寺・国分尼寺建立・大仏造立・東大寺創建
- 行基の布教・土木事業・大僧正任命
- シルクロード経由の文物流入と天平文化の開花。
【心理レイヤー】
- 聖武の心理:
- 権力争い・反乱・疫病・飢饉・制度崩壊への恐怖と責任感
- 度重なる遷都に込められた「どこかに正解があるはずだ」という焦り
- 最終的に「自分ひとりの力では無理だ」と悟る諦念と謙虚さ
- 貴族・藤原・橘:権力と正統性をめぐる嫉妬・野心・疑心暗鬼。
- 民衆:負担と災厄に疲れ、行基のような“近い聖者”を求める心。
【社会レイヤー】
- 律令制下の重税・労役・兵役 → 逃散・僧侶化・有力者への依存
- 貴族間抗争と政権交代の頻発 → 中央の不安定化
- 仏教寺院(国分寺・東大寺)が、宗教・行政・福祉・文化のハブとして機能
- シルクロードを通じた国際交易が、平城京を「世界文化の端末」にする。
【真理レイヤー】
- 諸行無常・諸法無我:あらゆる権力・都・制度は移ろい、固定的な「安定」は存在しない。
- 四聖の罪の定義:
- 孔子=利己/ソクラテス=無知/ブッダ=執着/キリスト=的を外す(罪)
→ 欲望の向け方を誤ることこそ「罪」であり、歴史上の混乱はそこから生じる。
- 孔子=利己/ソクラテス=無知/ブッダ=執着/キリスト=的を外す(罪)
- 「真理」は宗教名や教団を超えた普遍法則であり、それに近づくほど心は静まり、逸れるほど混沌と暴走が起こる。
【普遍性レイヤー】
- 政治の袋小路に立たされた為政者が、宗教・哲学・真理に救いを求める構図(アショーカ王・コンスタンティヌスなどとの共通性)。
- 「上からの宗教」と「下からの宗教」(行基のような民衆派)の結合によって国家宗教が形成されるパターン。
- シルクロードのような交易路が、物だけでなく思想・美術・宗教を運び、辺境の文化を一気に開花させる普遍構造。
核心命題(4〜6点)
(本文が最終的に語っている本質の骨格)
- 聖武天皇は、税制・口分田制の破綻、貴族間抗争、疫病や飢饉といった重圧の中で、「律令政治だけでは国と民を救えない」と悟り、仏教の力によって国家を守る鎮護国家思想に活路を見出した。
- 大仏造立と国分寺・国分尼寺の建立は、権威誇示だけでなく、「自らの富と権勢を手放し、三宝と民衆の信心に国家の安泰を託す」という、為政者としての一種の降伏宣言でもあった。
- 行基のように、弾圧されながらも民衆のために橋・池・布施屋などを作り続けた僧の存在が、「仏教=現世利益と社会救済の宗教」という像を具体化し、国家レベルの鎮護国家と結びつく素地を作った。
- 儒教・仏教・神道という三つの思想は、欲望・執着・無知・罪といった人間の誤りをそれぞれの言葉で指摘し、真理(的を外さない道)へのコンパスとして機能してきた。
- シルクロードを通じて流入した唐・インド・ペルシャの文物と仏像様式は、東大寺・興福寺・正倉院に結実し、「平城京=世界文明の東の終着点」という天平文化を生み出した。
- 権力争いと利己に支配された浮世の政治と、ブッダが説いた執着放棄の真理とのギャップこそが、聖武天皇に「上を見上げる」動機を与え、大仏建立というかたちで日本史に刻まれた。
引用・補強ノード
(本文に登場する偉人・理論・名言が果たした“役割”を抽出)
- 長屋王・藤原四子・橘諸兄・藤原広嗣
- 奈良前期の政権交代と権力闘争の激しさを具体化するノード。
- 行基
- 弾圧から社会事業・大僧正へと転じた「民衆派僧侶」として、仏教の社会的信頼と鎮護国家を結びつけるキーフィギュア。
- 四聖(孔子・ソクラテス・ブッダ・キリスト)
- 欲望・無知・執着・罪といった「人間の誤り」の定義を通じて、真理と罪の関係を整理する思想ノード。
- タラス河畔の戦い・シルクロード・アッバース朝・唐
- 東大寺正倉院の文物と天平文化を、世界交易ネットワークの中に位置づける外部参照ノード。
- 大仏造立の詔
- 聖武天皇が「強制ではなく信心による参加」を求めたことを示す一次テキストとして、鎮護国家思想のニュアンスを補強。
AI文脈抽出メタデータ
主題:
奈良時代聖武天皇期における、律令国家運営の行き詰まりと権力闘争・災厄の中で、仏教と鎮護国家思想に国家の存立を託し、大仏造立や国分寺建立を進めたプロセスと、その背後にある「真理としての仏教」と人間の欲望・無知の対比の分析。
文脈:
天智~天武~奈良前期の中央集権国家形成/大宝律令の運用と制度疲労/藤原氏と皇族・橘氏の政権争い/遣唐使・シルクロードと天平文化/神仏習合と国家仏教の成立。
世界観:
人間の作る制度や権力は必ず限界と誤謬を抱え、欲望・無知・執着によって混乱を招くが、その一方で、宗教や哲学の中には時代を越えて輝き続ける「真理」があり、追い詰められた為政者がそこに目を上げるとき、政治と精神世界の新たな結びつき(鎮護国家のような形)が生まれる。
感情線:
重税・口分田問題・疫病・飢饉・反乱に押し潰されそうな聖武天皇の不安と焦燥
→ 遷都と政権交代を繰り返しても状況が好転しない絶望
→ 行基や仏の教えに触れ、「自分ひとりの力では無理だ」と悟る諦念と謙虚さ
→ 大仏造立と鎮護国家という形で、「真理への信頼」と「民衆への祈り」に行き着く流れ。
闘争軸:
- 律令政治の自力解決志向 vs 三宝に国家安泰を託す鎮護国家思想
- 利己・権力欲・無知に駆られた貴族政治 vs 執着放棄と真理を説く仏教
- 上からの国家仏教(国分寺・大仏) vs 下からの民衆仏教(行基の社会事業)



































