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アメリカ占領から日米同盟へ、戦略的転換の理由

サンフランシスコ講和条約』・『日米安全保障条約


ハニワくん

先生、質問があるんですけど。

先生

では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。


アメリカは日本を戦後に占領したのになぜ現在は『同盟国』となっているの?わかりやすく簡潔に教えて!

毛沢東(中華人民共和国)、金日成(朝鮮民主主義人民共和国)といった反米親ソ勢力を作ってしまったからです。


ハニワくん

なるへそ!

博士

も、もっと詳しく教えてくだされ!


普通、敗戦国はズタボロになり、戦勝国に不平等条約を突き付けられます。

しかし、第二次世界大戦後のアメリカはソ連と『冷戦』ムードにあり、日本を味方につけようと考えるようになりました。ソ連は少しでも多くの味方を増やそうと自分たちと考えの合う共産主義国家を作ろうとしていて、アメリカにとってそれは脅威でした。

第二次世界大戦の後、『朝鮮半島』が北緯38度線を境に、米ソによる分割を受けます。北はソ連、南はアメリカによって支配され、南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立。しかしソ連のバックアップで、

・毛沢東(中華人民共和国)
・金日成(朝鮮民主主義人民共和国)

といった反米親ソ勢力が作られてしまいます。そこでアメリカは、日本と『サンフランシスコ講和条約』、『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのです。つまり、東アジアにおいては、

・日本
・韓国

が反ソ親米勢力ということにしたかったのです。またこの頃、東南アジア等の植民地化された国々で独立運動が続き、世界中でそれに対する批判が巻き起こっていましたから、そういう流れも敗戦国である日本が現在のような対応を受けた理由の一つでしょう。いまだに日本には、アメリカ軍の基地が存在する『何とも言えない状態』となっています。


博士

うーむ!やはりそうじゃったか!

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!

先生

更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。


目次

第二次世界大戦後の世界


上記の記事の続きだ。上記はアメリカ側から、下記はヨーロッパ側から見た『第二次世界大戦後(1945年~)』の話である。第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえ、1945年10月24日、51ヵ国の加盟国で設立された。(下記が国際連盟の際の記事だ。)



国際連合と『ブレトン・ウッズ体制』

主たる活動目的は、


  1. 国際平和と安全の維持(安全保障)
  2. 経済・社会・文化などに関する国際協力の実現



そして国際秩序は、政治面では国際連合、経済面では『ブレトン・ウッズ体制』として実現した。


  1. ビスマルク体制(19世紀後半のヨーロッパの国際秩序)
  2. ヴェルサイユ体制(1920年代の国際秩序)
  3. 国際連合(第二次世界大戦後の政治面での国際秩序)
  4. ブレトン=ウッズ体制(第二次世界大戦後の経済面での国際秩序)


1944年に、アメリカのブレトン・ウッズで『ブレトン・ウッズ協定』会議が開かれ、基軸通貨化や国際通貨基金(IMF)の設立への合意が行われたのだ。『ブレトン・ウッズ体制』とは、『アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制』であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。


この体制は1971年のニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。


ブレトン・ウッズ体制

貿易の自由化を送信(GATT創設)1995年WTO(世界貿易機関)はGATTに代わる国連機関に昇格
世界の通貨秩序を維持、経済の復興(IMF創設)アメリカを中心に解体論
ドルを世界通貨化し為替レートを固定1997年、金・ドルの交換を停止し、変動通貨制へ


米ソ『冷戦』

その後、米ソは『冷戦』問題に発展。アメリカでは感情的な反共産主義運動の嵐が起き、左翼的とされた著名人や公務員が追放される『赤狩り』が行われた。例えば、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家で、リベラル派(自由主義)として高名な当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、エレノア・ルーズベルトは、左翼運動や共産主義運動に対して批判的であり、明確に一線を画していた。



1945年4月12日に夫が死去すると、エレノアは家族と共に静かな余生を送るつもりだったが、夫の後を受け継いだトルーマン大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年にロンドンに赴任し総会に参加した。ロンドンの総会では人権委員会に参加し、委員長に選出される。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。


[エレノア・ルーズベルトが1947年から1950年まで議長を務めた国連人権委員会は、1948年、世界人権宣言を完成させた。]



私は、17歳の頃に聞いた彼女のこの言葉を忘れることはないだろう。


敗戦国の宿命

日本との関係はどうなっただろうか。第二次世界大戦後、アメリカは日本を占領したのだ。そして、懲罰的な方針をとっていた。普通、戦争に負ければ不平等条約を結ばれるのが相場だ。例えば、1918年、『第一次世界大戦』の後、『ヴェルサイユ体制』でドイツは制裁を食らい、国連に加盟を許されなかった。


[ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域]



また、フランスのクレマンソーはドイツへの恨みを忘れられず、フランス代表として自国の権益保護を主張し、ドイツに過酷な要求を突きつけ、遺言にまで、


ドイツをにらみ経ったままの姿勢で埋葬せよ。


と書き、その通りに葬られた。そして、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのだ。


[エッセン市内を行進するフランス陸軍騎兵(1923年)]


日本も同じように『敗戦国』だ。このような懲罰的な対処をされるのは仕方がなかった。だが、アメリカはソ連と『冷戦』ムードにあり、日本を味方につけようと考えるようになった。


中国と朝鮮半島

アメリカの支援を受けながら国民革命軍を招いた、孫文の跡を継いだ蒋介石は、『国民党』として毛沢東と戦うが、『共産党』の毛沢東はゲリラ戦を展開し、国民党を打ち払っていく。そして、1947年に『人民解放軍』と改称し、ソ連の援助を受けて戦い、1949年1月に北京、4月に南京を制圧。南京は、国民党の本拠地だった。そして10月1日に、『中華人民共和国』を建国したのである。


党名創立者当時の党首支持国
中国国民党孫文蒋介石アメリカ・イギリス
中国共産党陳独秀毛沢東ロシア


中華人民共和国を成立させた毛沢東は、『中ソ友好同盟相互援助条約』を結び、冷戦構造の中で、『ソ連側 』であることをアピールした。


STEP
1947年

毛沢東が『人民解放軍』と改称し、ソ連の援助を受けて戦う。

STEP
1949年1月

北京、4月に南京を制圧。

STEP
1949年10月1日

周恩来を首相として、『中華人民共和国』を建国。



更に、第二次世界大戦の後、『朝鮮半島』が北緯38度線を境に、米ソによる分割を受ける。北はソ連、南はアメリカによって支配された。そして東西冷戦が進行する中、南北に分断されて、この2つの国が生まれたわけだ。『北朝鮮』と『韓国』である。


朝鮮民主主義人民共和国
大韓民国


そして、彼らは彼らで『朝鮮戦争(1950年6月)』というものを起こしてしまう。


STEP
1945年9月

朝鮮人から『朝鮮人民共和国』の建国が宣言されるが、米ソはこれを政府として認めず。

STEP
1948年8月

南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立。

STEP
1948年9月

これに対抗し、ソ連のスターリンが北方の平壌に赤軍を入城させ、金日成(きむいるそん)を首相に立て『朝鮮民主主義人民共和国』を建国。

STEP
1950年11月

アメリカ軍を主体とする国連軍が参戦する北朝鮮軍を押し戻し、ほとんどを占領した。

STEP
1953年7月27日

中国の義勇軍が参戦し、戦線が38度線付近まで後退。53年には休戦協定が結ばれた。

STEP
1950年8月

突然、北朝鮮軍は38度線を越えて侵攻。朝鮮半島の大部分を占領した。


サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約

  1. 毛沢東(中華人民共和国)
  2. 金日成(朝鮮民主主義人民共和国)


といった反米親ソ勢力を作ってしまったアメリカは、1951年に『サンフランシスコ講和条約』を結び、1960年(昭和35年)1月19日にワシントンで『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのである。


[外務省外交史料館で展示されている署名]


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