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隋と唐の皇帝たち:煬帝、則天武后、楊貴妃

『夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→


ハニワくん

先生、質問があるんですけど。

先生

では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。


いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

1.則天武后(そくてんぶこう)は何をした人?
2.楊貴妃(ようきひ)は何をした人?

1.『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『周』へと改変させ、後に『中国史上唯一の女帝』と称される人です。
2.夫の父であり、6代目の唐の皇帝『玄宗』と愛人関係にあった女性です。


ハニワくん

なるへそ!

博士

も、もっと詳しく教えてくだされ!


『唐』は日本も見習うほどのよくできた統治機構を作り上げたことでも有名です。

そして『遣隋使』と同じように『遣唐使』を派遣し、唐の政治機構を学びました。後に『中国史上唯一の女帝』と称される3代目皇帝『則天武后』は『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『』へと改変させてしまいますが、結局それ自体は『唐』復活を望む声が高まり、周は一時的なものとなります。

しかし、6代目の唐の皇帝『玄宗』が息子の妻だった『楊貴妃』に溺れて政治をおろそかにし、雲行きが怪しくなります。楊貴妃自身は政治には一切関わりませんでしたが、楊貴妃の『楊一族』が実権を握り、政治が崩れ始めます。更に、同時期に『タラス河畔の戦い』が起こり、唐がイスラム勢力のアッバース朝に敗れ、中央アジア方面での党の影響力が衰退。その後、『唐』は16代も皇帝が続いたので結構長続きしますが、『朱全忠(しゅぜんちゅう)』に国を乗っ取られ、滅亡してしまいます。


博士

うーむ!やはりそうじゃったか!

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!

先生

更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。


目次

隋→唐


上記の記事の続きだ。さて、617年には、煬帝のいとこだった『李淵(りえん)』が挙兵し、翌年に恭帝から禅譲され、『』を建国する。


[李淵]


唐は、隋がやった政治体制や大運河等をそのまま受け継いだ、『隋の後継国家』だった。その後この唐は、10世紀初頭まで300年近くも国を治め続けることになる。


唐の皇帝

唐の皇帝で有名なのは以下の4人だ。


名前尊称
初代李淵高祖
二代目李世民(りせいみん)太宗(たいそう)
三代目李治(りち)高宗(こうそう)
六代目李隆基(りりゅうき)玄宗(げんそう)


ただ、この六代目の玄宗は、2つの参考書では六代目となっているが、Wikipediaでは九代目となっている。


まずは初代の李淵で、彼についての悪い噂はない。だが、二代目の太宗はいささか首をかしげざるを得ない。太宗はたしかに、『貞観の治(じょうがんのち)』といって、唐の前半期に繁栄をもたらした。冒頭の記事で前述した『突厥(とっけつ)』を下し、周辺諸国を支配して領土を拡大したのだ。こうした攻撃力は評価される。


[李世民]


だが、やはり彼もかつての暴君、煬帝と同じように、兄弟を殺し、父を幽閉して『父から譲られた』という形を作って、帝位に就くという、強硬手段を取っている。攻撃力があるのはいいが、いささかその生き方としては、強引すぎる一面もあったといえるだろう。だが、彼が久しぶりに中国に平和をもたらせた人間として、わざわざ貞観の治と呼ぶほどだったのである。


だがこの『家族殺し』の話、この後の話を聞くとどうにも雲行きが怪しくなってくる。さて、そうして2代目李世民(太宗)は活躍し、貞観の治をしてみせた。そして、3代目の『高宗』の時代には、隋の時代、あの楊堅と煬帝がこぞって挑戦した『高句麗(こうくり)』も打倒することに成功する。煬帝は、


  1. 突厥
  2. 高句麗


この2国が同盟を結ぶと厄介だと思っていたから3度も無理な挑戦をして高句麗に挑んだわけだが、次の『唐』の時代で、この2国を支配することに成功するのである。


[李治]


遣唐使

この唐の時代は、日本も見習うほどのよくできた統治機構を作り上げたことでも有名だ。遣隋使と同様に、『遣唐使』という形で日本が使者を送り、唐の政治機構を学んだことは有名である。


皇帝


三省

中書省門下省尚書省


六部

吏部(人事)戸部(財政)礼部(文教)兵部(軍事)刑部(司法)工部(建設)


まずは皇帝がいて、その下に中央の最高機関である『三省』と行政機関の『六部(りくぶ)』を置いた。この門下省は、たとえ皇帝の命令書であってもここを通過しないことには実行されないというほどの絶大な権力を持ち、門閥貴族(上流貴族)の一族が独占的に門下省入りした。今でいう『天下り』のような、そういう越権行為が当時も堂々と行われていたのだろう。


しかし、3代目皇帝、高宗の皇后の武氏によって、唐の雲行きが怪しくなってくる。彼女は稀代の女傑であり、後に『中国史上唯一の女帝』と称されるわけだが、2代目の太宗の時代に、高宗と親しい関係になり、妊娠することになる。だがその後、自分の生んだ娘を自ら殺める。そして、『王皇后』らを失脚させ、皇后の座を手に入れる。


そして病弱で気弱だった高宗の裏で暗躍するようになる。その後、高宗が亡くなると、高宗の子である『中宗(ちゅうそう)』、そして弟の『睿宗(えいそう)』を即位させるが、実権は握り続けた。


彼女がなぜ自分の娘を殺したのかは定かではないが、皇后の座を手に入れるために必要だった段取りだったのだろう。当時はこのように、家族を殺してまで手に入れる必要がある座があったようだ。それだけ地位が重要視されていたのは、三国時代で7割以上の国民が死んでしまったように、上と下の地位にある格差があまりにもひどく、地位をつかむことがどれほど大切なことか、ということも背景にあったのかもしれない。



『中国史上唯一の女帝』則天武后

[則天武后]


こうして武氏は『則天武后(そくてんぶこう)』を名乗る。則天武后は『高宗の皇后』の立ち位置だ。その後『唐』は、高宗の子である『中宗』が皇帝になるわけだが、すぐに彼女にその座を引きずり降ろされる。なんと中宗は、そのあとに妻に毒殺されるなど、散々な目に遭ったようだ。このように、権力と政治のそばには、常に死を伴う何者かの暗躍があったのである。


さて、時は690年、則天武后はとうとう『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『』へと改変させる。自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。中宗の弟で、その後に睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ。しかし、晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった。再び国号が『唐』に戻るのである。『周』は、則天武后の鼻息が荒かった時代だけに存在した、短い王朝だったのである。


隋の時代に、


  • 均田制
  • 祖調庸制
  • 府兵制


がまとまって、社会の仕組みが作られた。唐はそれらを引き継ぎ、長続きする王朝となった。だが、これらの仕組みに陰りが見えるようになる。人々がこれらの仕組みをきちんと守らなくなるのだ。今の世でも『脱税』等の問題はあるが、いつの世も人が考えることは同じなのである。そうして唐王朝の屋台骨だったこれらの仕組みが失われ、唐は衰退し始めていく。


玄宗と楊貴妃

そんな『唐』にとどめを刺すのは、今までのほとんどの王朝で見られた、『あの呪い』だった。そう。『美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡』するのだ。6代目の唐の皇帝、『玄宗』は、人を見る目があって、家柄ではなく実力で人を采配したことで、唐を繁栄させることには成功する。だが、その玄宗の目の前に現れたのが、息子の妻だった『楊貴妃(ようきひ)』である。


[楊貴妃]


『世界三大美女』としての名高いあの楊貴妃に溺れた玄宗は、今までの皇帝たちと同じ轍を踏んでしまうことになったのである。


女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち

殷(紂王)妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
周(赧王)美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
晋(司馬炎)美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
唐(玄宗)楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。


玄宗にいたっては、最初は『武恵妃(ぶけいひ)』という女性と、その死後に楊貴妃と愛欲生活を送る等、欲に弱い人間だったようだ。


[玄宗]


『タラス河畔の戦い』と『安史の乱』

楊貴妃自身は政治には一切関わらなかったようだが、楊貴妃の『楊一族』が実権を握り、高位を独占して政治が崩れ始める。更に、同時期に『タラス河畔の戦い』が起こり、唐がイスラム勢力のアッバース朝に敗れ、中央アジア方面での党の影響力が衰退。そして、『節度使(せつどし)』の安禄山での反乱『安史の乱』につながる。玄宗が信頼していた3つの地域を任せていた安禄山が楊一族の排除を掲げて大反乱を起こすのだ。


アッバース朝は、766年も新都バグダッドで繁栄を誇った。『タラス河畔の戦い』の後、ここを中継地に東西の交易や文化の交流が盛んになる。その交易路として活路を呈したのが『シルクロード』である。このシルクロードを使って、商品は『唐』から生糸や陶器、茶などを西方に運び、西からは金銀などの貴金属や毛織物を運び、利益を上げた。


東の唐王朝、西のアッバース朝を結んだ東西交易路

  1. 草原の道
  2. オアシスの道(シルクロード)
  3. 海の道


これによって唐とアッバース朝だけではなく、世界中の国々の貿易が盛んになった。


楊貴妃に関する逸話

さて、『安史の乱』は8年も続いた。楊貴妃は、反乱の原因を追究され、自決に追い込まれた。また、違う説では、玄宗に従って『蜀』へ逃れる途中、護衛の兵士たちの要求によって、絞殺されたともいう。


ただ、楊貴妃に関する話はまだあって、実はこのとき生き永らえたという説もある。埋められたはずの場所に遺体がなく、楊貴妃を詠んだはずの歌にも、彼女の死については触れられていなかったのである。実は、彼女は日本に逃げたという説がある。山口県長門市の久津あたりに漂着した説が濃厚で、事実、久津の二尊院には、楊貴妃のものとされる墓が存在しているのだ。


日本には空海と楊貴妃が登場する映画も存在している。



唐の滅亡と『五代十国時代』

さて、その『安史の乱』以降だが、節度使は、唐の言うことを全く聞かなくなってしまう。その後、『唐』は16代も皇帝が続いたので結構長続きしたが、結局、その節度使の『朱全忠(しゅぜんちゅう)』に国を乗っ取られ、滅亡してしまうのだ。


その後中国は、『五代十国時代』という戦乱時代に入る。冒頭の記事にも、南北朝の『北』には、『五胡』と言われた5つの異民族が次々と国を建てる『五胡十六国時代』について書いたが、ここでも同じようなことが起こるわけだ。


五胡

  1. 匈奴(きょうど)
  2. 羯(けつ)
  3. 鮮卑(せんぴ)
  4. 氐(てい)
  5. 羌(きょう)


五胡十六国時代

304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。


中国の北方で短命が5王朝が次々と現れては消え、南では長江流域を中心に10の軍事政権が生まれる。『地方の防衛を任された役職』である『節度使』が完全に独立したことで、互いに争う状況があったからだ。


五胡十六国時代

五代十国時代(907年 – 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代。


五代

国名始祖存続年
後梁朱全忠907年 – 923年
後唐李存勗923年 – 936年
後晋石敬瑭936年 – 946年
後漢劉知遠947年 – 950年
後周郭威951年 – 960年


十国

国名始祖存続年
前蜀王建907年 – 925年
後蜀孟知祥934年 – 965年
楊行密902年 – 937年
南唐李昪937年 – 975年
荊南高季興907年 – 963年
呉越銭鏐907年 – 978年
王審知909年 – 945年
馬殷907年 – 951年
南漢劉隠909年 – 971年
北漢劉崇951年 – 979年


この『五代十国時代』は武力がものをいう時代、つまり『武断政治』と言われた。この武断政治の歴史が、次の王朝である『』に影響してくるのである。


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