偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/02/レディーアイコン4.png” from=”right”]日本の詩人 浦綾子[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/02/シャーロックホームズアイコン2.png”]ふむ…。[/say]
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考察
例えば、ルソーの言葉、
の記事、下部にも書いたが、私は以前、『人前で手を挙げて意見をすること』が、恥ずかしいことだと思っていた。何か『ダセえ』し、間違っていた時に『恥』だし、別にそれを意見して、何がどうなるわけでもないし、とにかくそれをやる『意義』を見いだせなかった。
しかし記事に書いたとおり、実際は、手を挙げない人生は、人生とは呼べないものだった。恥もかいた。批判もあった。出る杭として打たれた。祟りに触って呪われた。だが、私の人生は確かに、手を挙げた時から始まったのである。
イギリスの探検家、ラポックは言う。
我々は、『人生を生きている』のだ。そしてそれは、たった一度のこの人生である。
『日頃自分が恥ずかしいと思っていることが、本当に恥ずかしいことなのか、恥ずかしいと思うこと自体が恥ずかしいことなのか、よく見極めて生きたい。』
私は先日、恥ずかしいことがあった。延長自我を出してしまったのだ。つまり、相手が求めてもいないのに、自分がどれだけの人間なのかと言うことを、べらべらとしゃべって誇示してしまった。相手を認めさせようとしたのだ。自分の方が上の立場にあるということを伝えたかったのだろう。なんとも醜く、愚かな話である。
しかし私には突き詰めた黄金律がある。例えば、
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この黄金律がその人と自分との間に違いがあることを正当化してくれたし、
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この黄金律が自分のその傲慢不遜に陥った態度をすぐに戒めてくれた。私は、『自分が低く扱われることが恥ずかしいことだ』と思っていたから、その人に対して自我を押し付けてしまった。しかし、本当に恥ずかしいことは私が自我をその相手に押し付けたことだった。
目は高く。頭は低く。心は広く。
目線が高いことが原因で、私の頭も同じ位置にあってしまったようだ。それは物理的に普通のことなのだが、『普通』ではだめだ。目が高く、心が広い人はそれくらいの偉業を成し遂げる人間でなくてはならない。
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