偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]中国の思想家 魯迅(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
『忽ち(たちまち)』と読む。普通は、逆の発想をする。人と群れて、人と繋がり、人と話して、人生を充実させる。そう考える人が圧倒的に多い。その考え方は今も私にあって、『充実=他とのシンクロ(同期、協調)』という『神話』が、まだ根付いているのが本音だ。
だが、魯迅の言葉が理解できる自分がいるのは、ここ数年、私が、同じようなパラドクス(逆説)に引っかかる自分を認識しているからである。喋ると、自分の無知が露呈した気持ちになる瞬間があるのだ。
それは、相手の反応が悪いときなのか、自分の頭に浮かんでいることをうまく具現化出来ていないときなのか、何なのかは別に追及してないのだが、とにかく、腑に落ちない。そして、腑に落とす為には、恐らく自分の全エネルギーをぶつけて、相手をひれ伏す(思い通りの展開に持っていく)必要があるので、どうもそれも違うと、そこでまた腑に落ちないのだ。
そして結局、『まだ俺は無知だな。まだまだだ。』というセリフが出てきて、相手が面食らうシーンに遭遇したのは、一度や二度ではない。相手はさっぱり意味が分からないという感じなのだ。何しろ相手は、コミュニケーションを取ることが目的で、その目的を、今の会話で満たしたと思っている。
しかし私は、目的を満たせていない。それが、腑に落ちない感情となって、心に残るのである。ただただ理想が高く、現実とのギャップに傷ついているだけなのだろうか。その理想を、安易に理解したフリをしたり、流したりする人間を、私はどうしても許すことが出来ず、それだったらと、話をすることをやめてしまう自分がいるのだ。魯迅の言葉を聞いてそんなことを思い出した。
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