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リチャード・バック『学習はすでに知っていることの発見である。行為は知っていることの実践である。教育は、自分と同様、ほかの者たちにもその知識があることを気づかせることである。人は皆、学習者であり、実行者であり、教師である。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]アメリカ飛行家 リチャード・バック[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察

学習は、すでに知っていることを発見すること。行為は、すでに知っていることを実践すること。教育は、自分と同様に、他の者たちにもその知識があることを気づかせること。だとしたら、皆、学習者であり、実行者であり、教師である。当たり前だ。

 

だが、最後の『教師』という部分は『当たり前』ではないかもしれない。人によっては、教育がなんであるかを理解していない。教育とは、相手の為を想って行動することだ。自分の為、が一片でも介入しているのであれば、そこに教育はない。

 

例えば、『それを相手がやってしまうと、自分の立場がなくなる』だとか。そういった『自分の為』は、無意識にでも少なからず介入するのが『当たり前』であるという常識が蔓延している。

 

しかしそれは『当たり前』ではない。例えば、アンドリュー・カーネギーの、

 

ここに書いた、『絵の描き方』について考えてみたときがわかりやすいはずである。

 

 

私は妹に、絵を描くことに億劫になってもらいたくないから、絵を描くことは簡単であると、教えた。

 

しかし、自分がそれを職業にしている者、それしか取り柄がない者、自分が、自分が、というエゴに支配されている者、人の才能に嫉妬し、蹴落として、自分の劣等感を慰めるような者は、絵を描くことは難しいと言い捨て、足を引っ張り、洗脳し、相手を委縮させ、そして自分の配下に置こうとするだろう。その様な人間は、およそ『教育者』と呼ぶに値しない者である。

 

全ての人間が『教師』だ。それが『当たり前だ』という責任感を持って行動すれば、その様な間違った方向に逸れることはないだろう。

 

 

 

 

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