偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]日本の実業家 柳井正[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
それは私も実感している。私は今、(こういう人に来てもらいたい)と、思っていない。だから、集まらない。いや、正確には集まりかけるが、私がそれを求めていないので、彼らは私の前から去ることを余儀なくされる。私は偉くもなんともないので、こうして書くと、一歩間違えると私は単なる思い上がった馬鹿だが、しかしそれが事実なのだ。思っていないのである。
何しろ、この6年半の間、吃音症(喋らない病気)の部下に手を焼き、私の中の人生の優先順位センサーが、『この部下を無視して前に進むことは出来ない』とサインを出し続けていて、そこが曖昧なのに、他の所に手を付ける、という発想に至らないのだ。どうやら、私は経営者というよりも、指導者の資質が強い人間で間違いないようだ。
かつて、私を指導した恩師たちの影響も強い。彼らの様な一流の指導者を知っている以上、実際には彼ら以下の未熟な立居振舞を取るくせに、彼ら以上であるかのように振る舞う態度を見て、私は違和感しか覚えない。その違和感を簡単に説明すると、ズバリこういうことだ。
『三流が、一流に説教をしている。』
こういう違和感が、世界のあちこちに散りばめられていて、私の部下のそれも、その違和感と同じ枠の中の事例の一つなのである。
人は、違和感を抱えたまま、行動することは出来ない。人は、というか、少なくとも私はそうだ。私は無駄に流れる挨拶は一切しない。社交辞令が嫌いだ。本当にするべき人に、するべきタイミングで、それを行うのが、真の礼儀であると確信している。つまり、葬式であくびをしたり、その後の寿司の事を考えたりする人間は、葬式に出る資格はなく、更に言えば、それを取り仕切る宗教団体も、お金を貰うのであれば、それは本当の宗教ではないと考える。
だとすると、もちろん結婚式もクリスマスもダメだ。クリスチャンではないのに、軽々しく『それっぽいから』という理由で、私はそれら一切の冠婚葬祭や儀式慣例をすることは無い。
『三流が、一流に説教をしている。』
ということはつまりこういうことだ。
『本当に正しい判断をしている人間が、その他大勢の間違った人間の意見に流され、従う必要があるだろうか。』
いや、ない。
断じて、ない。
つまり、ゲーテが言うように、
ということであり、そして、ソクラテスが言うように、
ということだからである。かくのごとく、私の心境は常にとても複雑である。しかし、それが私のポテンシャルだ。その人格を卑下することは絶対にない。たった一度の人生なのだ。自分が歩くべき道は自分で選ぶ。これからも、話したい人と話をし、聞くべき意見を聞き、見るべきものを見て、その真偽を確かめ、探究しながら、命を全うするだけである。
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