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法然『智者の振る舞いせずして、ただ一向に念仏すべし。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

偉人

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ふむ…。

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目次

考察

まずは、私も含めた仏教徒以外の人間には意味不明な、『念仏』という概念への理解から始めた方が良い。何のことは無い。『エゴを捨てる』ことだ。ここを難しく言う人間は、『難しく言いたいだけ』だ。『そういう自分に酔いしれているだけ』だ。『全ての者が救われる教え』であるはずなのに、『(理解できる)選ばれた者だけが救われる教え』にしてしまうのであれば、そこにはエゴが介入している。

 

ブッダとは、

ブッダ

 

そもそも、その『エゴ』を極めて支配することに成功した人物だ。例えば、『執着をするな』とか、そういう言葉一つだけで、その全てが伺えるはずである。普通、執着をしないことは、難しい。例えば、最愛の子供が死んだとき、自分はその死にすがりつかずに、切り替えて前を向いて生きていけることが出来るだろうか。

 

だが、ブッダはこう言うのだ。

 

そして、『それが出来ないなら私の弟子ではない』と言ったなぜこうも人間のエゴを強く非難するのかというと、それが苦痛と繋がっているからだ。それがあるから、苦を覚えるのだ。それさえなければ、全ての森羅万象同様、生きて、繋ぎ、そして淡々と死んでいく運命なのだ。

 

ブッダが息をした2500年前、広がっていた光景は、身分差別だ。奴隷だ。病気だ。貧困であり、格差だ。今の人間の想像を絶する劣悪な環境がそこにあった。そして、(この世は地獄なんじゃないか)という発想さえ、頭をよぎるのが普通だった。そして釈迦は悟ったのだ。人間のエゴを支配することこそ、人間の心が解放される唯一の手段だと。

 

だから子供の死や、のこぎりの話や、そういった類の窮極の話が出て来るのだ。そんな究極の場面でさえ、自分の心を支配することが出来れば、執着さえなければ、苦を感じることは無い、と。アリは、昨日あなたの無意識のところで、踏み潰されて死んだ。マグロは、日本人がそれを食べる文化を自分勝手に主張して、毎日毎日食べられる。

 

人間は、何か他の動物に食べられることがあるだろうか。もちろんあるが、あまりない。だとしたら、人間とて、動物とて、昆虫とて、同じ運命をたどって死ぬべきだ。人間だけが、食べられず、五体満足で、死なず、病を患わないということは、間違った認識だ。

 

窮極の場面のそんなとき、

 

(ああ、ここで終わりか。これが全ての生命の宿命なのだ。)

 

と考えられれば、そこにある苦しみから解放されることもある。つまるところ、知者の振る舞いをしている暇などない。人間は、その域に達することが出来るその日まで、自分の心を磨いて磨いて、磨き続けることが宿命づけられている。『その域』に達した人間のことを、『ブッダ』と呼ぶのだ。そして『念仏』とは、そのブッダから目を背けない様にする為の一つの手段である。

 

 

 

 

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