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パブロ・ピカソ『回教徒が寺院に入るとき靴を脱ぐように、私は仕事中、ドアの外に肉体を置いてくる。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]スペイン画家 パブロ・ピカソ画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

『回教』とは、イスラム教のことだ。それは別に関係ない。ただ、そのような人たちが寺院に入るときに靴を脱ぐのと同じで、ピカソも、自分のアトリエに入るときに、ドアの外に肉体を置いてくるということだ。しかし、靴は置いておくことは出来ても、『肉体』を置くことはできない。それがどういう意味なのかということを考えたいのである。

 

 

まず、『宗教』というキーワードが出てきていることに着目したい。そうした信心深い彼らが、神に対して『はしたない』とか、『失礼だ』とかいう理由で、寺院の外に、靴を置くシーンを思い浮かべたい。そこまで考えたら、次は、ピカソがアトリエに入る時に、ドアの外に何らかのものを置く姿勢からは、信心深い人間とのそれと同じで、アトリエや絵に対し、敬意を払いたい、という気持ちがあるということが、浮き彫りになってくる。

 

つまり、回教徒は『靴』、ピカソは『肉体』、その両者は、意識として『汚いもの』、『余分なもの』、『邪魔になるもの』を、神聖な場所の外に締め出す、という発想を持っていることになるわけだ。

 

だとしたら、ここで言う『肉体を置いてくる』というのは、幽体離脱とかそういうオカルト的な方向ではなく、『自分の絵の邪魔、足枷になるもの』、『既成概念』、『固定観念』を取り外す、という類の方向であり、その『常識』とされている枠を飛び越えなければ、自分の描きたい絵は描けない、ということで、そうした発言をするに至ったと推測できるわけである。

 

 

 

 

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