偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
『学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。』
道教の創案者、老子も、
と言ったが、逆に、余計なことをベラベラと喋る人間の方が、無知である可能性がある。
老子は、
とも言ったが、『知者』であるということの意味を、履き違えないようにしたい。
『学者』というのは、=知者ではない。『知者』というのは、=学者ではない。学者が人を殺した。だとしたら、その学者は断じて、知者ではないということだ。
また、 孔子について書いた記事ではこういう一文がある。
儒教が確立してから隋の時代になり、科挙の試験が行われるようになると、『論語』は受験の為に丸暗記すべき書物となった。それによって『論語読みの論語知らず』が多数派となり、温故知新は絵に描いたモチとなった。
つまり、何も理解していない人間が頭を丸めて、お経を読んでも、そこにいるのは『仏教徒』ではない。彼らを修行僧と考えるのはいいが、仏教徒というのは、
ブッダが、
と言った事実について、淡々と理解できる人間のことなのである。
事実、ブッダ(釈迦)自身が、

と言っているのだ。『私の生徒ではない』ということは、『仏教徒』ではない。『仏教』とは、『ブッダ(仏陀)の教え』だ。そのブッダの教えを守れないのであれば、そこにいるのは『修行僧』ではあっても、『仏教徒』ではないのである。
司馬遷はこう言い、
王陽明は言った。
表層だけ固めてもダメだ。
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