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ニーチェ『隣人を自分自身と同じように愛するのもいいだろう。 だが、何よりもまず自分自身を愛する者となれ。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]ドイツ哲学者 ニーチェ画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

隣人を愛すよう諭したのは

 

キリストだ。

キリスト

 

博愛である。マザー・テレサも、『死を待つ人々の家』を開設し、路上で死にそうになっている人を連れてきては、テレサがその手を握り締めて最期を看取ったことは、あまりにも有名だ。そうした彼女の奉仕活動が認められ、マザー・テレサは1979年にノーベル平和賞を受賞した。

 

ここで考えたいのは、彼ら、彼女らは、無理をして隣人を愛していない、ということなのである。というか、『愛』の中には本来『無理』などないのだ。自分が取るその行動に、確信がなければならない。だとしたら、まず最初にそこにあるのは、自分への確信、つまり、自分、あるいは自分が信じることへの、絶大な信頼、愛である。

 

 

それがあるなら、例え相手に唾を吐きかけられても怒らない。何しろ、最初からそれがわかっていて近づいているのだ。『相手の反応ありき』ではないのである。『自分の心がそう確信した』から、人を愛したのだ。

 

私の親はクリスチャンだが、私はクリスチャンではない。ここに、とても簡単には書ききれない壮絶なドラマがあったが、ある日私が10年ぶりぐらいに家に帰ってきて、ある程度深い話が出来るようなボキャブラリーがついたころ、

 

[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]クリスチャンなら、なぜ隣人を愛することをしないんだ。隣の人と、なぜこんなに距離が空いている。[/say]

 

と聞くと、母は困惑していたようだが、その次の日、私がたまたま2階の窓を見ていると、隣人に挨拶している母の姿があった。隣人は少し特殊な環境で生きている人で、挨拶は返したが、しかしすぐによそよそしい態度を取り、それ以上話すが広がることは無かった。その反応で、普段、母と隣人の距離が空いていることが確定した。

 

それから2年ほど経つが、関係は何も変わらない。相手も相手だ。周囲に姿を見せないようにしている。それも極めて大きな原因だ。しかし私は、それでも、こちらが根気強く話しかけ、無視されても愛し続けることによって、距離は縮まったはずだと考えている。しかし母は、『クリスチャン』と名乗るだけで、実際はクリスチャンではない。『まよえる子羊』なのだ。

 

 

どうしたらいいかわからない。だからイエス・キリストの言葉に耳を傾けて生きているのである。つまり、父も祖母も、随分前に亡くなっているのを私は見ているわけだが、母はおそらく隣人を愛せないまま、一生を終えるだろう。なぜそういうことを言うのかというと、私は母が『クリスチャン(まよえる子羊)』で在り続ける姿勢を、かれこれ30年以上、頑なに変えないのを見ているからだ。

 

(私が愛するのではない。私は、愛が欲しいのだ。)

 

母はまだ60歳になったばかりだが、母の人生を一言でまとめると、そういう人だった、と言う事になるだろう。人を本当に愛することが出来るのは、自分の信じる愛に、確信がある人間だけだ。

 

 

 

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