偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/戦国武将のアイコン.png”]日本の武将 豊臣秀吉(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
『主人』と聞いて真っ先に思いつくのは『仕える相手』。だが今の世では、妻が夫に対し『主人』と言っている人間の中に、『そのワードを言いたい』というだけの理由の人も大勢いる。『主』というのは、例えばキリスト教徒であれば『イエス・キリスト』であり、『自分の身を捧げる相手』という意味に等しい。本来、厳かな言葉であるべく『主人』への概念を、軽んじていることはズレている。
かつてで言えば『君主』。今で言うなら『上司』。実に、『主人』という概念が当てはまる対象はたくさんあるが、どれも結局は『主人』と自分が誓った相手ならば、その相手の言う事に疑問を抱いても、教えを重んじ、遂行するべきである。なぜなら、『主人』なのだ。自分が身を任せた、相手なのだ。ということは、『師匠』でもあり、本来『教えを乞う』存在でもある。
普通、弟子が師匠の教えに逆らうということはないだろう。そして、最初の方は間違いなく『疑問』を抱くに決まっている。
(そんな動き、今までしたことないなあ。違和感を覚えるなあ。だからスムーズに動けないなあ。)
こういう『違和感』を覚えるに決まっている。なぜなら『新境地』を教えてもらっているのだ。人に習い、教えを乞うというのはそういうことである。妻が覚える料理にしてもそうだ。夫を喜ばせるには、もちろん夫の味の好みを知る必要がある。それは当然、今まで自分が生きてきて覚えて来たやり方を変えなければならないこともあるだろう。
しかし普通、愛があるならそれを当たり前のようにする。苦痛だとは思わない。もちろん夫も、そんな妻の愛(努力)を正当に評価するべきである。『無理』というのは、『今までの理屈に無かった』、『今までのやり方とは違う』という風に、刹那でも拒絶反応を起こす意味に捉えられる。しかし、『主人』となる相手は当然、『今まで生きてきた自分の人生の価値観』とは違う価値観で生きてきた、『他人』なのだ。
その相手の要求には、刹那でも『無理』が含まれることはあるだろう。だが、それを難なく受け入れるのが『愛』である。それは、無意識にほとんどの愛ある夫婦が、やっていることなのだ。
『主人は無理を言うなる者と知れ。』
もしそれでも『無理を言う者』が嫌いだというなら、自分が主人になればいい。主体的になり、自分がそれを言う側に回ればいい。私がそのタイプだ。私は別に『無理を言いたい』のではなく、『無理を言われる』のが大嫌いなので、主体的に生きる道を選択している。子の生き方を見て『孤独だ』と揶揄する人間がいたが、彼らは孤独と『孤高』の違いも知らない、主体性を発揮できない、真の意味で『孤立』した人間である。
ブッダは言った。
『天上天下唯我独尊』だと。
この言葉の真の意味は、『この世に自分という存在はたった一人しかいない。唯一無二の人生を、悔いなく生きるべし』ということなのである。この言葉の意味を理解したとき、人はこの人生に主体的になる。自分の人生の、主人になる。
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