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タゴール『愛は理解の別名なり。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]インド詩人 タゴール画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察

人を理解するときは、その人を愛している。この考え方は、確かに反論の余地はない発想だ。それがすんなり受け止められないのなら、それは『愛』を理解していないのだ。人間は最初、人の気持ちを理解することは出来なかったと言われている。では、初めて理解するようになったのはいつかというと、相手が、『自分と同じように足の小指を角にぶつけた時』とか、そういうのを目の当たりにしたときだというのだ。

 

(痛そうっ!)

 

痛みの共感。これが、人間が他人の気持ちを理解した初めてのシーンだったという。

 

 

元々は自分の事しか考えることは出来なかった。それが、痛みの共感を皮切りに、徐々に自分以外の存在の気持ちを、理解するようになっていったのだ。そこにあるのは、『愛の移動』である。つまり最初人間は、自分の事しか愛することが出来なかった。タゴールの言うように『愛=理解』ということであれば、尚の事そうだ。自分しか理解できなかった。しかし、それがあるときから『移動』出来ることを知った。

 

『理解と愛』が、移動できることを知ったのだ。この場合は、他人にである。他人の気持ちを理解したとき、それは自分の中にしか見いだせなかった『自愛』が、相手に移動したときだ。

 

(痛そう!…身体を大切にして欲しい!)

 

自分の身体を当たり前のように『ご自愛』するその『愛』が、相手に移動したのだ。つまり、人を理解するときは、その人を愛しているのである。

 

例えば、殺人事件があって、それを短絡的に見れば、誰しもがその殺人犯を=凶悪という印象付けをするだろう。かし、その事件の背景に、『家族を理不尽に皆殺しにされた。その中の娘の一人には、赤ちゃんがいた。』などという動機があれば、その犯人である父親への印象は、どう変わるだろうか。そこには、多少なりとも『理解』が生まれるはずである。それはつまり、『愛』だ。『共感』したのだ。全ての始まりは、『痛みの共感』だった。

 

 

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