偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]ローマ帝国の哲学者 セネカ(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
短編小説の名手、オー・ヘンリーは言った。
あるいはモンテーニュは言った。
『何を耐え忍んだかによって、偉いか、そうでないかが決まる』ということになるのであれば、五体不満足の人間が同じ土俵の上に上がれないことになる。
例えばその内容が、『エベレストを登頂するのが偉い』とか、『サハラ砂漠のフルマラソンを完走するのが偉い』とか、『自転車で世界一周をするのが偉い』とか、その苦痛に耐え、忍んだとか、そういうことだとすれば、五体不満足の人間が同じ土俵の上に上がれないではないか。その時点で軽薄である。違う『いかに耐え忍んだか』が重要なのだ。そこまで思慮を潜らせれば、セネカの言う言葉の意味はおのずと理解できるはずである。
また、五体不満足とまではいかなくとも、アレルギーを持った人や、末端冷え性の人、トラウマ抱えた人などのことも考える必要がある。健常者にとっては『少しばかりの苦痛』でその経験が出来るとしても、その様な人々が同じことをするとなると、少しばかりの苦痛では済まされないわけだ。だとしたら平等ではない。健常者にとっての『レベル1』は、彼らにとっての『レベル10』だ。だとしたら健常者は彼らの体感レベルである『レベル10』の経験をして、はじめて彼らと同じ土俵に立てるのだと自覚する必要がある。
また、反社会的組織の中では、それはそれは一般人がおよそ耐えることのできないシビアすぎる『かわいがり』や、『掟』、『自分を守るための争い』がある。だが、それは本当に『やるべき必要があること』なのだろうか。そこにあった試練や苦行は、本当に人生を生きるにあたって、経験しなければならないことなのだろうか。それとも、その様な経験がその人間の考え方に歪んだ発想を植え付け、この世のエネルギーのバランスが悪い方向に傾き、負の連鎖を生んでしまうのだろうか。
そう考えると、『耐え忍べばいい』というわけではないということが浮き彫りになってくる。間違った支点に入力し続けても思うような出力は得られない様に、自分の人生の『使い方』を間違えてはならないのである。この言葉は、この様な『多様性』のある人生の中で、いかにして生きるべきかという進路を見出だしてくれる。
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