偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
一発でわかる話をしよう。10歳前後の時、兄と寝る前にお喋りをしていて、親に寝ろと言われた時間に、寝なかった。だが、部屋に近づく音がしたので慌てて『寝たふり』をした。私がした『寝たふり』とは、

とこれ見よがしに呼吸をしてみせることだった。そしてすぐにばれた。『寝ろ』と言われて『寝ていなかった』ので、それについてわずかでも罪悪感があり、それを弁解、偽証、隠蔽しようとして、『寝たふり』をしたのだが、その罪悪感が精神状態を異常にさせ、『異常行動(通常では考えられない行動)』を取らせた。そして父親は、その異常をすぐに察知してしまったのである。
もし『過失』をてしまったのであれば、『過失』とは思わないことだ。『別に行き過ぎた失態ではない』と言い聞かせる。そうすれば『異常行動』はとらない。いや、これ以上話を進めるとなると詐欺師か何かの講義になるのでやめておこう。
『過失の弁解をすると、その過失を目立たせる。』
追記:私は昨日、過失を起こしてしまった。それは人と話している途中で違和感として気づいていたのだが、その話の中では、自分の考え方を貫いてしまい、相手に不快な思いをさせてしまった。本当に申し訳ない。私は自分が特別な存在だと思い込んでいたようだ。確かに一理はある。それは下記の黄金律を見ればわかることだ。


だが同時に、こういう黄金律もある。

前者の黄金律だけを重視すると、テロリストたちの人生を弁護してしまうことになるので危険なのだ。多様性とは、真理に則ったものでなければ認められない。私はおそらく昨日、真理から逸れてしまったのだろう。だから心が虚無に傾いたのだ。見るべきなのは以下の記事である。
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だから素直に認めよう。私は昨日、過失を起こした。それは、私が自分を過信し、人を見下し、うぬぼれていたからだ。私も博愛主義な時代は、よく人から愛されていた。だが、愛されていたのは私が演じる『ピエロ』で、『こうすれば受けるだろう』という部分を突いた、他人の評価を過大視していた姿勢だった。こういう黄金律もあるのだ。人間には、理解できる範囲とできない範囲がある。では、その事実を受け、どうするかだ。

私はこの突出した黄金律のことが頭に焼き付きすぎていて、まとめきれていなかったようだ。この数ある黄金律の中で、一体どれを重視し、どうバランスをとっていけばいいか、きちんとまとめていなかった。人生一生勉強である。うぬぼれたときに人はもう腐敗している。私はそれを、認めよう。
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