偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
『たとえバラ色の唇と頬が、時の半円の大鎌で刈り取られても、愛は時の道化に成り果てることはない。愛は、短い時間や週単位で変わることはない。最後の審判の日まで耐え抜くものだ。』
ドイツの哲学者、ヘルダーは言った。
『時』というものは、時に残酷な暴君のようだ。(このまま時が止まって欲しい)という健気な祈りを、あっけなく粉々にする。しかし、『愛』というのは、こういう図式にすることが出来る。
『愛=真理=神』。
例えば、聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。つまり、その図式だ。父が子を叱ったその場所には、『愛と神と真理』があった。そういうイメージが想像できるはずである。
暴君(時間)?
大したことはない。その圧倒的真理の前には、彼ら『暴君』も歯が立たない。というか、『暴君(時間)も真理の内の一つ』なのである。揺るぎない確固たるものなのだ。つまり彼らは死神の格好をしているだけで、上に挙げたような『魔性』ではないのだ。『魔性』とは、愛の真逆の感情。つまりそれは、真理からも、神からも真逆の概念という事になる。だとしたら『暴君(時間)』は『魔性』ではないだろう。何しろ『時間=真理』なのだから。
それをどう捉えるかという『人の心』だ。『魔性』というのは。だから当然、暴君は愛を『ピエロの様だ』と嘲笑うことはない。むしろ、歓迎する。
『愛=真理=神』
なのだから。
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